karma8 胸痛の内側



 ………………。



 彼女は一体誰だったのだろうか……。それ以前に、また同じようなものを見せる神のおぼし召しが重要項であるということはわかるが、何に対する警告であるのかは未だに理解が及ばない。


 キスは顔を上げ、クリスタルの十字架を見つめていた。この預言をどう受け止めればいいのか、どう解釈すればいいのか。悩みあぐねいでいると、キスの意識は少しずつぼんやりとしていく。


 神から預言をいただいた後でこんな具合になるのは初めてだった。キスは自分の身に何か起こるのかと身構えようとするが、体に力が入らなくなってしまう。受け身を取れず、キスは倒れてしまった。

 フローリングの床に頬が当たる。冷たい。浅い呼吸で息をし、開いた目は焦点が定まらない。キスは眩暈を起こしていた。視界はゆりかごに揺らされているかのようにぐらぐらしていく。


 カーテンが窓の半分を覆い、半分の窓から隣にある家の窓が見える。黄色味をかじった明かりは、その部屋にいる人影を見せたが、すぐに窓から消えてしまった。


 キスは誰か呼んだ方がいいと察知するも、自分の意思で動くのは無理そうだ。キスはこれが神の怒りなのではないかと悟った。神の反逆者を出した教会への罰。そして、教会の信者たちも罰せられ、滅びゆくのである。

 キスは意識がもうろうとする中、神に最大の謝罪を捧げた。もし、できることなら、欲望を制し、清らかに努める真の信者たちはどうかお赦しくださいと、キスは願った。


 すると、神はすぐに反応してくださる。しかし、それはキスの謝罪に対するものではなかった。


 神から授けられたのは、言葉である。音のない、言葉。心の奥へ入り込むように、神の言の葉が浮かんできたのだ。神のお言葉はこうである。


“来たる世界の危機に、戦う力を備えよ。なんじは聖戦の戦士となれ。未来を紡ぐために戦う同志と共に、希望をもたらすことだろう”


 ここまで明確なご意思を示されたことは今までなかった。世界の危機とは一体どういうことなのか。世界とは、教会のことを意味しているのか。だが、来たる世界の危機とおっしゃった。

 すでに教会は危機にあると言っていい。もっと先のこと……神が言わんとすることは、ということか。


 神から与えられた役を考えているうちに、眩暈と体の脱力は収まっていた。キスは少しうめき声を上げ、体を起こす。片膝をつき、立てた右膝に手を置いて、もう一度クリスタルの十字架へブラウンの目をやった。キスは膝に置いた右手を固く握りしめる。


「それが私の運命だというのなら、世界を救うために、戦います」


 キスはそう言い、強く誓いを立てる。これほどまでに神に服従の精神を貫くのは、教会に属する信徒だからではない。すべてを失い、数々の悪行をこなした救いようのない自分を、神は救ってくださった。

 この世界に生きることを赦してくださったことに多大なる感謝があったからこそ、キスはこの身をどんな歯車にあてがおうとも、真摯に受け入れると。我が煩悩を取り去り、神を信じていくと、神を見たあの日から、すでに誓ったのだ。


 美しく、輝きを放つ光に、この世界を包んで差し上げましょう。


 それが、キス・アロウシカが神へ捧げる最高級の供物であり、人々の救済だった。



ЖЖЖЖЖ



 今宵は満月だった。夜に差し込む光は街灯の明かりがかすんでしまうほど。これが翌日の祭典への神の祝意であらんことを願うばかりである。しかし、キスは恐怖と不安に満ち満ちていた。

 明日は教会にとって大事なターニングポイントになる。ミアラ主殿のご意思により、主殿の座はジャノベールへ継承される。


 ジャノベールの周辺から動きはないようだが、ジャノベール以外に裏切りを企む者が分からない中、何食わぬ顔で日々の業務を行うというのは、なかなかに精神を使うのである。

 どうせなら頼もしいSPでも雇いたいところだが、そんなことをされては警戒していると流布しているようなものだ。まだ何も知らないという振る舞いをしているからこそ教会にいることができ、かつユヒアの教会浄化の計画が遂行できるのだ。

 そうユヒアに励まされてはいたが、苦渋を味わい続けていれば、1人広い部屋で、悲しみに打ちひしがれていたくなってしまう。


「キス司祭」


 礼拝室にしとやかな声音こわねが通る。視線を横に向けると、引き締まった表情でエミリオが近づいてきていた。祭典のために新調した革靴が薄紫の絨毯を踏みしめていく。


「明日ですね」


「……そうだな」


 キスは寂しいと嘆きをきょうするように答える。


「隣に失礼してよろしいでしょうか?」


「かまわない」


 エミリオはキスの前を通り過ぎ、左隣に腰を据えた。窓から入り込む月明かりを受けるバラ窓が、日中とは違った色合いで慎ましく輝いており、バラ窓の下では白い十字架が青みを纏って眠るようにそこに鎮座している。


 エミリオはキスの顔をうかがい、眉をひそめた。


「明日は継承祭典の儀です。そのような顔をされては、神にお叱りを受けますよ」


 エミリオは淡々とした口調でキスをとがめる。だが、キスは上体を前に倒して、じっと床を見つめて何も言わない。


「どうされたのですか?」


 キスは口の中に溜まった唾を飲み込む。このことを誰かに言いたかった。今、最も信頼の置ける仲間に。


「エミリオ」


「はい」


「君に知っておいてもらいたいことがある」


 そんな切り出し方をされては身構えてしまうのも無理はない。エミリオはキスの言葉を真正面から受け止める気持ちで粛然しゅくぜんとし、キスの方へ少し体の正面を向ける。


「ジャノベールは主殿になるが、おそらくすぐに教会を追われることになるだろう」


 エミリオの表情は驚愕の色へ変わる。


「どういうことですか!?」


「エミリオ、ここからはあまり声を上げないでもらいたい」


「あ、はい……。失礼しました」


 エミリオは、はしたない声を上げてしまったと思ってシュンとする。


「ジャノベールは銃器やドラッグを転売し、秘密裡に資金を肥やしているようだ」


「何かの、間違いじゃ……」


 エミリオは動揺をありありと顔に貼りつける。


「ユヒア様が独自に調べたようだ。一部の記者にも知られている」


「……警察には」


「警察には一応通報したそうだが、動いていないようだ。もし動いているなら、今頃ジャノベールは牢屋の中さ」


「どうなさるおつもりですか?」


 エミリオは悲痛な表情でキスを見上げる。自分もこんな表情をしていたのだろうかと、エミリオを数秒見つめ、視線を前に戻す。


「ユヒア様が記者たちと結託して世間に公表するようだ」


「それでは、教会はもう……」


「ユヒア様は再建を誓われた。だから、私もそのお手伝いをさせていただくことにしている。だが、私にはもう1つ懸念すべきことがある」


「え?」


 エミリオはまだ何か教会に悪い知らせがあるのかと、気分を沈め、素朴で可憐な顔を強張こわばらせた。


「神は私に世界を救う戦士になれとおっしゃた」


 エミリオはキスの言葉に不穏を感じながら、何も言わずに耳を傾ける。


「もうすぐ世界に危機が訪れる。それに備えて戦いの準備を備えよと」


「世界の危機? それはなんですか?」


 キスは首を横に振る。


「分からない。しかし、神が私に言葉を授けてくださったのは、これが初めてのこと。重大な危機ということだと思っている」


 キスは立ち上がる。前へ踏み出し、十字架の前に立つと、その上にあるバラ窓を見上げた。


「私は神に仕える者。この預言の力を授かったからには、この身にできる最大限の奉仕をしなくてはならない」


 キスは振り返り、エミリオを覚悟のまなこで見据える。


「エミリオ、共に世界を救うと言ってくれ」


「え?」


「君がそう誓ってくれるのなら、私は必ず戦士となり、世界を救ってみせる。共に世界を救うと、言ってくれ」


 エミリオはキスのその表情たるや、とても真剣味を帯びる顔に一遍の陰りもなく、本当に世界に危機が訪れると確信しているキスに一瞬疑念がよぎるも、今この時に、彼の覚悟を無下にする理由など見つからなかった。


「はい、キス司祭と共に、世界を救うお手伝いをさせていただきます」


 キスは安心した様子で微笑みを零す。その笑みは、聖母の慈愛が満ちる優しい光のようだった。

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