karma2 地下の暮らし

 氷見野が地下シェルターに来て3日。じわじわと痛む足は少しずつ落ち着いてきていた。常時片足を上げていることに慣れず、無意識に地面に足をついただけで激しい痛みを催し、苦悶する。そんな繰り返しの日々もようやく終わりが近づいている実感があった。おかげで睡眠不足も徐々に回復してきている。


 松葉づえの使い方も様になってきて、移動に苦慮することもなくなった。バスチェアを足置きにして、キッチンで簡単な料理も作れる。物は考えようという言葉を感じながら久しぶりの料理を楽しむ。

 工夫次第で何でもできる。料理を運ぶことも、キャスターのついた小棚に料理を乗せ、膝でゆっくり押していけばいい。


 氷見野はローテーブルの上に座る。行儀の悪いことであると自覚していたが、この部屋にいるのは自分だけ。楽には勝てない。

 湯気が立ち昇る料理を前に手を合わせ、「いただきます」と1人呟く。箸と食器がこすれ合う音やそしゃく音。テレビも、ラジオもない。

 貧しさを匂わせる部屋の中でも、氷見野は不便さを感じていなかった。


 昼食を終え、100均で揃えた食器を洗っていく。それが終わると、地下5階の共用の洗濯室に行って、乾燥機の中にある衣類を取り込む。女性用と男性用にそれぞれ洗濯室が設けられており、周りの目を気にする必要もない。

 手提げ袋に自分の服を入れ、左肩にかける。洗濯室を出て、自分の部屋へ戻ろうとする。


 少し歩いて、自分の部屋が見えてきた。すると、自分の部屋の隣のドアが開く。1枚の鮮やかな青い羽の髪飾りを耳の上につける黒髪の女性。艶のあるストレートのショートヘアも、淡いピンクと白でコーデされた可愛らしい服装も、すごく若々しい。

 女性は鍵をかけて、エレベーターに向かおうとした時、氷見野の視線と交わす。女性は一瞬幾度も浴びせられた好奇の目を向けると、微笑んで会釈した。

 氷見野は会釈されるとは思わず、少し戸惑いながら会釈を返した。女性は氷見野とすれ違って去っていく。


 隣に誰が住んでいるかなんて気にしたことはなかった。ここに来た時はバタバタしていて、お隣さんへの挨拶も気にすることができなかったのだ。みんなそうだったのだろうかと思い馳せ、部屋に入る。


 洗濯物をプラスチックの収納ケースなどにしまっていく。まだ服の数は少ない。

 さすがにこれ以上新しく買っていくのは勿体ないと思い、夫に服を送ってもらうことにした。また使えそうな収納物も送ってもらえるらしく、どこに置こうかと悩んでいる途中でもあったりする。


 氷見野は洗濯物をしまい終えた。「次は……」と独り言を呟きながら辺りを見回す。玄関の隅に置かれた大きな袋を目にして思い出す。

 袋を持って部屋を出ると、地下6階の廊下の突き当たりを目指して歩く。

 ごみを出す場所は6階の北側にあるごみ回収室。消臭機能を整備した部屋であるようだが、廊下に匂いが漏れることはしばしばある。そういう場合は、地下5階の商店フロアに軒を置く清掃業者に頼むしかない。


 氷見野はごみ回収室の鉄扉に触れる。自動で扉が開いた瞬間、かすかにモワンと鼻をつく臭いを感じた。

 眉間に皺を寄せ、中に入っていく。扉が自動で閉まると、天井に埋め込まれたいくつもの白い小さな照明が強く照らした。黒鉄の色に囲まれた部屋の中に、ごみステーションにありそうなごみ集積庫があった。

 蓋に手で触れて自動で開く。片手で右脇に挟んだ松葉づえを支点にし、ごみ袋を放り込む。ごみ袋は奥のスペースに転がった。ごみ袋を乗せた鉄の板がエレベーターのように昇っていった。少し驚きつつ、蓋を閉めて回収室を出る。


 氷見野は部屋に戻ろうと歩いてく。全身が汗ばんでくる。

 地上はもっと暑いはずだ。地下6階ということもあって、春並みの温度。避暑としてはちょうどいい場所だろう。


 歩いて行く先に、目につく物が見えた。大きな掲示板が壁に設置されている。押しピンで広告を留めておくことができるようだ。地下5階の商店フロアにあるお店の広告もあれば、住民が作った同好会みたいなものまである。その中に、マジックペンで書かれた手作り感のあるチラシがあった。氷見野が惹かれたのは、『ever4慰安会』の文字だった。


 いずなが所属する攻電即撃部隊ever。日本のブリーチャー殲滅部隊名の1つ。

 テレビのニュースでも度々出てくる名前だ。攻電即撃部隊ever所属の人間の顔が表に出たことは今まで一度もない。情報が徹底的に管理されており、隊員本人の取材も断っている。あの機体の姿も相まってまるで戦隊ヒーローを見ているようだと、一時期話題沸騰だった。


 おそらく、いずなに助けられた人は自分より前にいたはずだ。あんなに幼い子が、戦場に出ていることを誰もとがめなかったのだろうか。

 氷見野は心配になる。子供を危険な戦場に出すことを認識しながら、慰安会などというものを開こうというのか。

 氷見野は同じ大人として恥ずかしいと思った。道徳に無頓着な会のチラシを、不機嫌な表情で背いて部屋に向かう。



 部屋に戻って数時間が経ち、怒りもようやく収まった。

 現在午後4時。夕食の準備をするには早過ぎる。一人暮らしになって、夕食の時間は自分の気分でよくなった。その点に関しては快適と言える。

 ただ、部屋に窓1つないのは少し気持ち悪い。一応空調設備は整っているみたいだが、部屋に空気がずっとこもっている気がするのだ。


 そして、一番頭を悩ませているのが、空いた時間をどう過ごせばいいのか。テレビもなく、パソコンもない。普段よく読んでいた雑誌も買う余裕はない。そうなると、携帯を弄る時間がおのずと増えてしまう。

 今までは仕事場が家で、夫に気を使って生きる生活が仕事みたいなものだった。それから解放され、今や失職。療養という既成事実ができているが、どこか後ろめたさが残る。それも脚が治ってどこかで働いていれば、すぐに消し去ってくれる。氷見野は退屈で平穏な日々を愛しく思いながら、新たな未来を想像していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る