karma9 さまよう

 いずなと氷見野は地下7階の廊下を歩いていた。氷見野は不可思議な地下空間の景色に忙しなく目を這わせる。

 すれ違う人々。バッグを持ち、どこにでも売ってそうな服を身に纏っていた。


「あの、ここは一体」


 氷見野は前を歩くいずなに聞く。


「B7は図書室や役所、学校があるエリアです。各種銀行手続きも、このフロアで可能です。カードや通帳は、再度ここの生活用に作成し直さなければなりませんが」


 いずなは氷見野に少し顔を向けながら説明する。


「そう……」


 氷見野はまるで違う世界に来たような感覚に陥っていた。

 氷見野は役所で住民票を取り、いずなに連れられて地下6階へ来た。地下6階はウォーリアオブゴッドの遺伝子を持つ戦わない住人が住むフロアとなっている。地上と変わらずとはいかないが、それなりに平凡な暮らしをしているようだった。

 各個室6畳から12畳のワンルーム。防音設備が整っているため、近所間のトラブルはほとんどない。いずなは氷見野の部屋に案内する間に淡々とそう説明した。

 氷見野は自分の部屋に辿りつく。両手が松葉づえで塞がっていることを気遣って、いずながドアを開けた。


「ここがあなたの部屋です。トイレ、お風呂、他に生活に必要な家具などは最低限設備されています。洗濯は共用の物を使ってください。洗濯機・乾燥機は指紋認証を行うことでロックされますので、盗難の心配はありません。詳しくは資料に記載されていますのでご確認を」


 いずなは関原に渡された資料が入った紙袋を氷見野に渡す。


「色々ありがとう」


「いえ。では、失礼します」


 いずなは軽く礼をして、1人廊下を歩いて行く。氷見野はいずなの背中を見送ってドアを閉めた。


 玄関からキッチンのある通路までを自動灯の明かりが照らした。氷見野は松葉づえをかたわらに置いて、血のついたシューズを脱いだ。ギプスを携えた足を連れて、部屋の中に入っていく。青白い明かりが2回点滅して灯った。

 ベッドと折り畳み式のローテーブルにエアコン、収納棚1つと小さな冷蔵庫が1つ。独身の頃の生活を思い出す。

 その瞬間、夫への連絡をしていないことに気づく。でも、携帯は失くしてしまった。お金は一銭もない。焦りが込み上げてくる。


 氷見野のお腹が鳴る。昼から何も食べていなかった。時間を確認しようにも、ここには時計もない。モバイルウォッチも壊れてしまい、捨ててしまった。


「なんで、こんなことに……」


 思わず独り言を呟いた。一旦ゆっくりしたい。氷見野はベッドに腰かけて横たわる。

 たった1日で状況が一変してしまった。こんなにもすべてが変わってしまうことがあるのだろうかと落胆する。氷見野は冷蔵庫の音だけが静かに響く部屋で、ぽつぽつと考えを巡らせていった。



 氷見野は地下5階に来ていた。地下5階は商業施設が多く揃う場所だ。他にも電化製品や水道の修理店、就労支援センターまである広いフロア。

 氷見野はコンビニに入る。コンビニの時計は午後8時を回っていた。確実に夫は帰っている時間だ。ATMはあるものの、携帯もなければカードもない。氷見野は店員に頭を下げて、電話を貸してもらえないか頼むと、意外にもすんなり許可して貰えた。

 氷見野はお礼を言い、店の奥に案内してもらう。椅子に腰かけ、店内の固定電話で家の電話にかける。


「もしもし」


「祥貴さん? 優です」


「おい、どこにいるんだ!? 夕飯も作らずどこほっつき歩いてる!?」


 祥貴はまくし立てた。夫が声を荒げることは滅多にない。相当怒っていることがうかがえた。


「すみません、あの、色々ありまして」


「色々ってなんだよ」


 夫は苛立ちながら聞く耳を持つ。氷見野は息を呑んで告げる。


「私、ウォーリアだったみたいです……」


「は?」


「その、ホームステーションで買い物してたら、ブリーチャーが襲撃してきて、巻き込まれて……。足の骨折で済んだんですけど、ウォーリアのことに詳しい先生から、私にはウォーリアの遺伝子があると言われたんです。とりあえず今日は、治療も兼ねて施設に身を置いてますが、先生が言うには、ここで暮らした方が安全だと」


 氷見野が言い終えても、夫からすぐに返答がこなかった。


「今日……あのスーパーにいたのか?」


「はい」


「帰って、来れないのか?」


 夫は切なげに聞いてきた。


「足も折れて次回の診察で診てもらわないといけませんし、私がそこにいたら、またブリーチャーに襲われるかもしれません……」


「そうか……」


「明日も仕事、ですよね?」


「ああ」


「今日はもう遅いですし、私も色々あって、冷静じゃないと思うんです。また落ち着いたら電話します」


「……分かった。よかったな、無事で」


「……はい」


 夫の言い草に不快感を覚えて、そう答えることしかできなかった。


「じゃ」


「はい。失礼します」


 氷見野は受話器を置く。ため息を零し、レジにいた店員に再度お礼を言って、コンビニを出る。


 今日できることはこれくらいだった。口が勝手に開き、はしたない欠伸をどうにか制御する。氷見野は部屋に戻ろうと、松葉づえをつきながら歩き出した。



 部屋の前でもたつきながらドアを開けて中に入る。息を漏らしながら玄関に座り、靴を脱ぐ。松葉づえを使いながらの悪戦苦闘の日々がこれからも続くと思うと、気が滅入りそうだった。

 玄関近くのキッチンに向かい、水道のレバーを下げて水を出す。コップもないことに今更気づく。蛇口から出る水柱の横から口を近づける。42にもなってこんな飲み方をするなんて思ってなかった。夫がこんな妻の姿を見たらドン引き間違いなしだ。

 氷見野はあの事件の後から何も口に入れてない。気道が広がった感覚に浸り、口周りについた水を手の甲で拭う。


 氷見野はベッドに腰を下ろす。床に松葉づえを置いて、ベッドに体を横たえた。新品の布団のような柔らかさが肌に触れる。

 色々あり過ぎて、頭の中がこんがらがっていた。疲れていると感じさせるほど、沈むような感覚が押し寄せてくる。かすかに聞こえてくる自分の呼吸音が心地よい。氷見野は沈んでいく意識のままに目を閉じた。

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