karma4 拘束/契約
今日も日射しは強い。小雨が一度降ったものの、すぐに太陽が顔を出した。明日は大雨の予報を聞いているため、今日のうちにできるだけ今ある洗濯物を干そうと励む。
シルバーの携帯が軽快な音を立てる。氷見野は洗濯物を干す手を止め、庭に出られる窓際の床に置いていた携帯を取った。
中学の頃から仲の良い女友達、
「もしもし、優、元気ー?」
間延びした緩い声が耳に入ってくる。
「うん、元気元気。どうしたの? 突然電話くれるなんて」
氷見野は嬉しそうに言葉を弾ませる。
「今度、同窓会が地元で開かれるって聞いてさ、優も来れないかなって思って」
「いつくらいになりそう?」
氷見野は部屋に入り、腰丈の収納ラックの上にあるメモ用紙に近づき、横に添えられたボールペンを取った。
「えっと、9月18日の15時だね。優って今神奈川だよね?」
「うん」
氷見野はメモしながら答える。
「どう? これそう?」
後ろ髪を引かれそうな声で尋ねる加藤。
「そうねぇ……」
氷見野は迷いながら言葉を漏らす。
「行こうよっ! 内田君も来るって言ってたよ?」
氷見野はふっと笑みを零す。
「それ誘い文句になってないでしょ」
「あーそうだったそうだった。内田君に告白しようとして、緊張しちゃった優が『私としてください』って言っちゃったもんだからドンびかれたんだよねー」
加藤はうっかり感を誇張してからかう。
「久しぶりに友達に連絡してきて普通そういうこと言う?」
「あれ、もしかして怒ってる?」
「すごく怒ってる」
氷見野は笑いながら言う。
「ごめんって。そういう話も含めて楽しみたいからさ、同窓会来なよ」
とても嬉しかったが、氷見野の笑顔はゆがんでいく。
「今は返事できないから、また連絡していい?」
「うん、大丈夫だと思うよ」
「行きたいとは思ってるから」
氷見野は吊るされたパンに飛びつくように付け加えた。
「わかった。幹事の葛城君に伝えとく。楽しみにしてるね」
「ありがとう。また」
「うん、じゃあねー」
「はーい」
氷見野は電話を切った。汗ばむ手が携帯を置いた。
これを聞いた夫が言うことは決まっている。
どうしても行きたい。氷見野はどこかで夫も理解してくれると信じ、今回ばかりは意地でも許可を得ようと思った。氷見野は妙な緊張を胸に抱き、庭へ体の向きを変えた。
ЖЖЖЖЖ
夕食が終わり、まったりと流れる空気が部屋の中を包んでいた。エプロン姿で夕食の片づけをしていた氷見野は、リビングのソファでくつろぐ夫をキッチンからチラチラ
銀色の蛇口から出ていた水が自動で止まる。布巾で手についた水を拭き取り、エプロンを外して綺麗に畳む。壁に貼りつけられたフックにぶら下がる赤い布袋にエプロンを入れ、ゆっくりリビングへ向かう。
「祥貴さん」
「なに?」
夫の顔は16K
テレビ横に行けばわかるが、スタンドライトの形をした機械が映していた。
台の上に固定された細い1本は上に伸び、円盤の中心となる光源が映像を放っている。光源の周りを囲む大きな曲面は反射板が敷き詰められ、直接目に焼きつけていく。
氷見野は夫から少し離れて1人用のソファに座り、斜め前でテレビに夢中の夫を見定めて本題に入る。
「今日、中学の時の友達から、同窓会の誘いがあったんです。それで、9月18日は家を空けますが、夕飯は作り置きしておきますので、レンジで温めて食べてください」
「洗濯は?」
祥貴は少し驚いた様子で氷見野に視線を向ける。
「洗濯は済ませられるものは済ましておきますし、買っておかなければならないものは前もって買っておきます」
「同窓会か……」
夫は再びテレビに視線を戻し、背もたれに背をくっつけた。腕組みをしながら真顔になる。氷見野は期待を込めて見つめ、夫の返事を待つ。
「断ってくれ」
「理由を、聞かせてもらえませんか?」
氷見野はむなしい回答をした夫に、煮え切らない表情で問う。
「聞きたいのは俺の方だ。なんで同窓会に行くんだ?」
「友達と久しぶりに会いたいと思いま」
「それは家庭にどう役に立つんだ?」
夫は真顔で食い気味に問い詰める。氷見野は口に昇ってきた嫌な感情を呑み込む。
「私にも、休暇をいただけませんか? 帰ってきてから、その分頑張ります」
「君の休暇はいつもあるじゃないか。ほとんど家にいるんだから」
夫の顔は何を言ってるのかわからないと訴えている。
「家事は休暇ですか?」
「そうは言わないけど、君は手際がいいから、時間くらいたっぷり余るだろ。一週間のうちに余った時間を総計すれば、休日2日分にはなると思うけど?」
「祥貴さんは同窓会に行けて、私はいけないんですか?」
氷見野は静かに問いかける。
「俺は仕事の合間を縫って行ったんだ。行きたくて行ったんじゃない。幹事が俺に回ってきたから仕方なくだ。もう行く気はないよ」
夫は笑みを見せながら一蹴する。
「それにな、昔の友達関係なんて、なんの役にも立たないんだよ。逆にトラブルの元になる。学生の時と、大人になってからじゃ関係性も変わるんだ。昔の幻想のまま会ったら足元をすくわれるんだよ」
「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか!」
氷見野の怒気に反応したのか、映像にノイズが走る。ジジっとどこからか変な音も聞こえた。夫は不穏な雰囲気を悟り、辺りを見回すも、どこもかしこも温かな家庭の見映えで普段と変わらない。些細な変化を逃すものかと神経をとがらせたが、それ以上何か起こる気配はなかった。
氷見野は夫の表情が曇り、ソワソワする素振りを
夫は居住まいを緩ませ、改まって話をし直す。
「優、俺たちの生活は遊びじゃない。家庭を作るという使命を背負ってる。君には、この家で楽しめるものであれば最大限提供する。もし欲しい物があれば、言ってくれればいい」
夫は氷見野を抱き寄せた。
「愛してるよ、優」
そっとささやく夫の言葉は薄っぺらく、枯れた花を押しつけられているようだった。
結婚する前はもっと優しく、温かく感じられただろう。しかし、今の氷見野は、かごの中に閉じ込められている都合のいい奴隷になっていた。ゆらゆらと揺らされ、あやされている大人。見下され、優しい口調で虐げられている。氷見野には、この長い結婚生活がゆりかごの中に閉じ込められている生活でしかない。
もう夫に反抗することなどできなかった。心の奥まで染みついてしまった洗脳を解く術は、持ち合わせていなかったのだ。
氷見野は、「ごめんなさい」と無意識に口をついていた。
どっと疲れがのしかかる体を寝室に運んだ。気力を失くし、ドレッサーの前に座る。柔らかな背の無い四角い椅子が軋んだ音を立てる。
夫との結婚が決まる前から、関係は見えていた。でも、きっと幸せな未来が待っていると、信じて疑っていなかった。友人や同僚からも羨ましがられた玉の輿。努めていい奥さんになりたいと思っていた。夫の人格もひいて、周りからの評価も高い。誰だって不満くらいあるし、簡単に離婚を決心できるわけじゃない。専業主婦の氷見野がいきなり働ける自信もなかった。
40代になって体力も落ちてきている。社会から隔絶されてきた生活がずっと続けた自分が、1人で生活できるとも思えない。
両親は病気で亡くなっている。母親は1人っ子であったことを悔やみながら、病院のベッドで静かに息を引き取った。両親がいなくなって以来、孤独な結婚生活が続いた。続けてしまった。
氷見野に選択などない。死ぬまで、あの人に尽くすことでしか生きることはできない。
人生に絶望し、首をくくることも考えた。でもそんな死に方をしたら両親に合わせる顔がない。愛を持って大切に育ててくれた、両親の人生そのものを否定しているような気がしたのだ。
ふと、前が気になって顔を上げる。悲しそうな顔が鏡に映っていた。これが自分の顔? と、氷見野は疑う。まるで死を間近に控えた病人のよう。
もう何も考えたくなかった。このまま、息をしているだけの操り人形でいよう。そうすれば、痛みも苦しみも、いつか来る死が吸い取ってくれる。泣き叫ぶ心に蓋をし、聞こえないフリをするように、氷見野はベッドに入った。
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