karma3 夫婦の夕食

 氷見野はキッチンからお皿を運ぶ。すでに他の料理が並べられているテーブルに、綺麗に盛りつけされたアジのフライとポテトサラダが乗せられる。


 食事の準備が終わった頃、氷見野の予測通りにドアの閉まる音が鳴った。氷見野は玄関へ向かう。


「おかえりなさい」


 氷見野は玄関で靴を脱ぎ立ち上がる夫、氷見野祥貴ひみのしょうきの背に声をかける。


「ただいま」


 疲弊感を纏った声でそう言った夫は、氷見野にビジネスバッグを渡す。パーマをかけた茶髪に隠れる額には、灼熱のコンクリートサバンナでいそしんだ証拠である汗がしっかりと滲んでいる。


「お風呂にしますか?」


 氷見野は夫の様子をうかがいつつ尋ねた。


「いや、先に食事にするよ」


 夫は険しい表情をしながらダイニングに向かう。


 氷見野は夫の服がある仕事部屋に入る。綺麗に整頓された部屋の中に、オレンジの明かりが灯った。夫の仕事部屋のテーブルには仕事に関する本や資料だけでなく、家計簿や領収書と書かれた封筒がある。

 いつものようにクローゼットにビジネスバッグをしまう。

 氷見野はキッチンへ向かい、冷蔵庫から缶ビールを取った。缶ビールの蓋の開く音が幸せそうな食卓に響いた。


「お疲れ様でした」


 微笑みながら言って、夫の前に置いたコップにビールを注ぐ。


「ありがとう」


「ずいぶんとお疲れですね」


「これだけ暑いとな」


 夫は苦笑いを零し、2つほど開けていたカッターシャツのボタンを更に2つ開けていく。

 氷見野は缶ビールをコップの横に置くと、夫の前に座る。2人手を合わせ、


「いただきます」


「いただきます」


 夫に続いて氷見野が繰り返す。すると、氷見野は夫の箸に視線を向ける。夫はアジフライに手をつけ、口に運んだ。それを見て、氷見野は箸を持ち、食事を開始する。


「今日はずっと家だったのか?」


 夫は料理に視線を向けたまま氷見野に聞く。


「いえ、今日は洗濯洗剤を切らしていたので、朝にお買い物をしてきました」


 氷見野は笑みを絶やさず、ゆったりとした口調で言う。


「そっか」


 氷見野はチラチラと夫を見る。夫は氷見野の視線に気づかず、ビールを飲み、料理を食べていく。

 氷見野は茶碗の上に箸を乗せる。その時、箸の先を横に向けるように意識して置いた。氷見野は少し強張こわばった表情で夫を呼ぶ。


「祥貴さん」


「なんだ?」


「お願いがあるんです」


「何か役に立ちそうな家電か?」


 夫は口をもぐもぐとさせながら聞く。


「いえ、そうじゃないんです。この前、白石出版さんから連絡があって、料理本を出してみないかって言われたんです。それで、お受けしたいと思うんです」


「なんで?」


 夫の表情が怪訝けげんになる。氷見野は鈍る口を動かす。


「せっかく、私の料理を本にしたいって言ってくださってますし、家計の足しにもなるので」


 夫は冷たい目で氷見野の顔を見つめる。


「君の仕事は料理本を出すことじゃないだろ」


「そうですけど……」


 夫は淡泊な口調で続ける。


「君が収入を得なければならないほど生活費が足りないことはない。欲しい物は俺に言うことになってるだろ。欲しい物があるなら言ってくれ」


「そういうわけじゃないんです。ただ、せっかくこの機会をくださったんですし、出してみたいんです」


「優、君の仕事は家事だ。本業に差し支えるようなことはしないってなっただろ」


「家事はちゃんとやりますから」


 氷見野は必死に懇願する。


「君が本を出す必要はないよ。今の生活にメリットはない。俺はそう思う」


 夫は優しくさとす。


「君は優秀だ。他にうつつを抜かして、家事をおろそかにしてほしくない」


 氷見野の表情は影を落とす。


「君と俺は両立できるほど器用じゃない。これからも、家のことは君に任せたい」


 氷見野は次いで出てくる言葉を探していた。


「もういいかな」


 夫は笑みを浮かべて終わりを提案する。テーブルの下で氷見野の手が拳を作り、握りしめられた。影に隠れた気持ちに蓋をし、蛍光灯の光に当たる氷見野の顔は穏やかな顔になる。


「……はい! ありがとうございます」


 氷見野は満面の笑みでそう答えた。張り詰めた空気が嘘のように、食事が再開された。



 氷見野は食器洗いを終え、寝室に入った。寝室は夫と別々になっており、唯一落ち着ける自分だけの部屋。天使をモチーフにしたフェミニンチックなドレッサーや、枠に花の絵をあしらう全身鏡スタンドミラー、棚の上に置かれた健康器具、壁には子犬の写真がったカレンダーがかけられている。机に向かい、席につく。

 眠っていたパソコンを起こし、メールを開いた。


 白石出版からのメールを再度読み返す。最初見た時とは違って、喜びは半減している。画面の中にある嬉しい言葉たちは、氷見野の生活に反映されない。

 架空の世界から飛び出しても、危険から身を守ってくれるゆりかごに何度も阻まれてしまう。ゆりかごは氷見野の意思を介さず、少しでも危険が予想できれば否応なく遮断した。


 氷見野は返信をクリックし、断りのメールを作成していく。沈む気持ちに乗せていくかのように、氷見野の指は素早く動いていった。


 一気に書き上げ、失礼がないか確認した後、送信をクリックする。


 ただメールを返信しただけでどっと疲れが込み上げてきた。

 氷見野は現実から逃げるようにパソコンを閉じ、着替えとバスタオルを持って部屋を出る。

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