結末(2)

 病院の外に出ると、有樹が手を後ろに組み、今にも泣きそうな顔でじっと僕をねめつけ、待ち構えていた。

「日向……」

 夜の中から切り裂くように放たれた彼女の言葉は非常に攻撃的で、鋭利で、もし『俺』だったならそれだけでショック死しかねない不思議な『力』に満ちていた。

 もっとも、そんなもの僕には通じないのだけど。

「やあ有樹。出迎えてくれたのかい。世界も雨と桜と絶望の街になっているね。ふふ、ふふふふ」

 僕がすたすたと駐車場に向かって歩を進めていく。有樹を置き去りに、まるで空気のように通り過ぎて。 

 しかし有樹はそうはさせじと僕の腕を掴み、

「ねえ日向!」

 と声を荒げた。

 だが、荒げたからと言って僕の心情には何ら変化をもたらすことはない。ただ、それとは別に見知った顔が駐車場に停めてあった車のフロントガラスに反射し、僕の目に飛び込んできたので足を止め、くるりと踵をめぐらした。

「おっと、霞がいた。彼女を見送ろう」

「日向! ほんとどうしちゃったの急に!? おかしいよ!」

 ぐいぐいと後ろから僕の腕を引っ張る有樹。だが、それがどうしたというのだろう。

 僕にとって有樹という存在は――ふふ、うふふふ。ダメだ、笑いをこらえるのが大変だ。取り敢えず有樹の方は決して向かないで、僕は帰宅しようとする霞に向けて手を振った。

「さようなら、霞。また今度ね」

 霞は聞えていないようで、猫背で、とぼとぼと、まるでこれから処刑される囚人のような足取りで車に乗り込んでいった。

 その間、有樹がひっきりなしに叫び続ける。まるでヒステリーのようだ。

「日向っ!」

 叫び、腕を引き、ばしばしと背中を叩き、そして――

「日向ぁ……」

 鳴き声が下から聞えてくる。振り返ると有樹はへたりこみ、えぐえぐと嗚咽を鳴らしていた。

 僕は髪の毛をぐしゃっと見出し、深呼吸を一つする。

「さて、もういいか」

 ねえ『俺』。君に最後の時間を与えよう。僕にとって有樹はどうでもいい存在だが、『俺』は違うんだろう?

 そしてやはり、『俺』と有樹が同意の上で消えてくれないと僕としても困るんだ。

「え?」

 有樹が不思議そうに首を傾げる。

 さあ有樹、お待ちかねの相手を君にプレゼントしよう。最後の会話、楽しみたまえ。

 ピー、ガガガガ、ピーガー。

 俺は――ずっと俯瞰させられていた。『僕』によって人格を乗っ取られてから一切の思考を遮断され、活動も出来ず、ただただ、映画でも観ているかのようにことのあらましを黙って見せつけられた。

 正直『僕』が有樹に対して非常に冷たい態度を取る様はぶっ殺してやりたいほどであった。でも、小指一本動かせなかった。

 『僕』の狂った上に嗜虐的で、しかも意味不明の思考回路と言動は俺をひたすらに腹立たせるものだったし、こうして肉体の所有権を獲得しても尚、安堵もなければ喜びもない。ただただ『僕』に対しての怒りが存在する。

 しかし、だ。『僕』に乗っ取られていたとき、『僕』の思考の全てが俺の中に流れてきて、俺はどうすればいいのか、『僕』はこれから何をしようとしているのか。その全てを理解することは出来た。

 だから許すことはできないけれど、俺は『僕』の意のままに、それこそマリオネットのように動くしかなかったのだ。

 何故なら――『僕』がやろうとしていることは、雨と桜と絶望の街を守るということだから。

「有樹……俺と最後の話をしよう」

 一人称が俺になったこと。俺がそっと有樹の両肩に手を添え、自分に出来る最高の眼差しを向けたこと、優しく囁いたこと。その全てを受けて有樹はぱあっと顔を喜びに変えた。保住日向が戻ってきてくれた! そんな声が涙と共に今にも聞えてきそうだ。

 けれど有樹はすぐにはっとなり、眉間にしわを寄せる。

「日向……最後って?」

 俺は語る。『僕』の思惑を、俺の成すべき事を。そして――それが有樹にとってつらいことであるということも、余すことなく。

「有樹には、その、なんだ。死んで貰わなくちゃならない。勿論、俺も死ぬ」

「――どういう、こと?」

「ます、俺には『僕』っていうもう一つの人格がある。性格は俺とは全く違う。心当たりはないか?」

「――あ、あの変な日向だね。私の知ってる日向じゃない、おかしい日向」

「ああ、あれだ。あれは何かというと、今まで俺を守ってくれた人格なんだ」

「どういうこと?」

 有樹がくいっと首を傾げる。

「俺たちが雨と桜と絶望の街で過ごしている間、霞が女医として君臨する世界であいつは俺の代わりをしていた。俺の代わりに飯を食って、俺の代わりにカウンセリングを受けていた」

「…………」

「でも、そのカウンセリングによって俺は薬漬けにされ、正気を取り戻してしまった。いや、俺は雨と桜と絶望の街が本当の世界だと思っている。でも、霞の侵略によって俺たちの楽園は崩壊を迎えようとしている」

「…………」

「それを守ってくれるのが『僕』だった。あいつは霞を倒してくれる。俺たちをこの楽園から引きはがされるのを阻止してくれる。でも、一つだけ条件があった」

「条件って?」

「それはあいつをこの雨と桜と絶望の街の住人にすることだ。でも『僕』は俺がこの世界で暮らす際代わりに霞が女医として生きている世界で暮らしてくれた。だから俺が入れ替わるか、俺が死ぬかしなければならない」

 俺は意地でも『現実世界』とは言わない。何故なら俺にとっての現実世界とは雨と桜と絶望の街しかないからだ。

「そんな! それじゃ意味ないじゃない!」

 有樹が叫び、俺の胸をぎゅっと掴む。涙が俺のブレザーを染みつかせる。

 俺はゆっくりと有樹の頭を撫で、話を続けてあ。

「そのまま入れ替われば確かに意味がない。俺は有樹を失う。有樹は……霞が女医として生きている世界では暮らせないから。あの世界に出没出来ても、あの世界に干渉できない、だろ」

「それは……」

「冷たい方程式だった。俺は決断を迫られた。俺はあんな世界で生きるのはまっぴらゴメンだし、有樹とも離れたくない。ずっとずっとこの雨と桜と絶望の街で生きていきたい」

「うん」

 かすれるような、けれど嬉しそうな有樹の返事。心がじわっと温かくなる。

「でも霞からこの世界を守るためには『僕』をこの世界の住民にしなければならない」

「その『僕』なら、霞を倒せるの? 音居さんでも無理だったのに」

「倒せるだろう。少なくとも『僕』は倒す気満々だ。あのバケモノをどうやって倒すのかは知らないが、あいつならやってくれると……信じてる」

「だがそのためには有樹。君には死んで貰うしかない。理由は……」

「私が、雨と桜と絶望の街の統括者だから?」

「ああ、有樹がこの世界にいると『僕』は雨と桜と絶望の街に住むことが出来ない。何故なら有樹は俺を承認しているからこの世界で暮らせるのであって、有樹は『僕』を承認していない」

「承認でき……」

「ないだろ? 有樹は『僕』を愛せないし、……愛して欲しくない。あれは『僕』であって俺じゃない。別の存在なんだ」

「…………」

 有樹は押し黙り、ただ俺の胸元にしがみ続ける。

「だから、有樹が死んで、俺も死ぬ。そうすることで『僕』は雨と桜と絶望の街に君臨できるんだ。霞を倒し、俺たちの世界を守ってくれるんだ。この大切な雨と桜と絶望の街を」

「私たちがいなくても、大切なのかな?」

「大切だ。だって、俺たちが死なないってことは、俺たちは離ればなれになって、もう二度と会うことがないってことだ。そして世界は滅亡する」

 俺は泣きながら、最後の一声を発する。

「だから俺たちが永遠に愛し合うために、俺たちが離ればなれにならないために、有樹の尊厳を守るために、俺たちの愛が本物であることを証明するために! 俺たちは死ななければならないんだっ!」

 ひとしきり話を聞いて、有樹はしばし逡巡する。せわしなく前髪や後髪を梳いて、ぱちぱちと目をしばたたかせる。足ととんとんといらだっていそうにせわしなくアスファルトに叩きつけ、何度となくため息をついた。

 その間俺は何も言わず、ただじっと有樹の決断を待つ。この計画は有樹の合意がなければ決して成立しないし、俺が何か言っても彼女を深く傷つけるだけだと思ったからだ。

 おそらく『僕』はそういう俺のやり方をあざ笑うのだろう。所詮脳内彼女に何遠慮しているんだ、と。だが、これが俺のやり方だ。俺は有樹を愛していて、有樹の意志を尊重していて、何よりも――有樹を脳内彼女だとは思っていない。

 有樹は一個の人格を持つ正当な人間であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 さて、有樹は長い長い思索の末、深呼吸のような深いため息をついて、くっと首を上げ、俺と視線を合わせた。

「そう、そういうことなんだね」

 その声はよく通っていて、清らかな山のわき水のように澄んでいた。

「わかってくれたか、有樹」

 俺はたまらず、有樹を抱きしめる。

 辛い決断だったろうに、悲しい選択だったろうに、それでも尚――俺の意志を汲んでくれたのだ。気づけば、俺の瞳からは滝のような涙が溢れていた。

「うん、わかった。日向は……私と、そして日向自身も殺すつもりなんだね」

「ああ、『俺』は有樹と共に死ぬ。そして――後は『僕』にゆだねる」

 そう、電子レンジで俺は有樹を殺す。そしてその後に俺は人格の全てを『僕』にくれてやり、俺の存在をこの世から消滅させる。

 電子レンジとは何のためにあったか。それは有樹を殺すためだった。

 有樹を殺す、ただそれだけのために俺は電子レンジを作っていたのだ。

 それは何故かと問うならば――雨と桜と絶望の街を守るため。

 デタラメで、インチキで、脳内によって生み出された妄想の楽園。それを守るために俺は有樹を殺し、俺自身も消し去る。

 カルネアデスの舟板か、冷たい方程式か。

 現実という悪意が侵食する前に、俺たちは雨と桜と絶望の街の中で消えてしまうのだ。それだけがリアルという名の侵略から対抗できる方法であり、最終手段であった。

 そして『僕』は雨と桜と絶望の街を守るため、リアルを抹殺する。

 霞を、現実を、リアルを、どうしようもない日常という名の世界を――ことごとく否定してのける。それが、『僕』のやろうとしていること。

 だがそのためには俺と有樹の存在は邪魔だった。何故なら『僕』とは本、来雨と桜と絶望の街に暮らしている間、現実世界で活動していた代理的な人格なのだ。つまり俺たちが人格を確保するということは、『僕』は雨と桜と絶望の街に干渉できない。

 干渉できないということは、守れない。

 だからこそ、俺たちは消えなければならない。『僕』に雨と桜と絶望の街を守らせるため。

 そう――つまりは雨と桜と絶望の街と俺たち、その二つを天秤にかけたのだ。そして前者を選択する。

 俺は人格を消し去ってでも、霞が妄想世界と断じた雨と桜と絶望の街を守る。

 何故なら俺は現実世界を否定しているから。有樹を脳内彼女などと愚弄したこの世界は絶対に存在してはならないから。

 有樹の存在を認めないくらいなら、俺は死んでもいい! 有樹と共に死ぬ!

「ならいいか。日向は永遠に私のものなんだものね」

「そうだ。俺は永遠に有樹のものだ」

 俺と有樹は互いに唇を重ね合わせ、人生最後のぬくもりを堪能するのだった。


 世界が――雨と桜と絶望の街に変化した。


 そう、これこそが俺たちの世界。十一月なんてない、羊雲もない、病院もない、田園もない、自宅もない、現実などという腐った存在の一切を否定した、本当の世界。

 俺たちが守るべきもの。愛すべき故郷。

「じゃあ、一緒にさよなら、だね」

「ああ、有樹。さよならだ。その、悪かったな」

 申し訳なさはある。いっぱいにある。ある種の本末転倒だからだ。

 雨と桜と絶望の街を守るために、有樹を殺す。俺も死ぬ。本来優先順位は後者であるべきなのに、敢えて前者を選ばなければならない。

 そんな狂った決断に罪悪感がないわけがなかった。

 でもダメなのだ。俺と有樹が存在してはいけないのだ。俺たちの存在は現実世界においてはただの脳内人格であり'、『僕』の妄想で片付けられてしまう。そしてそれは、薬によって消され、保住日向は雨と桜と絶望の街から追放されてしまう。

 どっちにしろ俺たちは消される運命にある。なら、せめて雨と桜と絶望の街だけは守る。ここは俺たちの歴史であり、俺たちのぬくもりであり、俺たちのリアルだから。

 愛すべき、本当の、究極の、絶対的な、リアルワールド。

「いいよ。その代わり、日向も一緒、だからね?」

「わかっている。俺の最後は、有樹のものさ」

 それでも、それでも――

「――ごめん」

 謝らずにはいられなかった。俺は自信の手で有樹を殺すことが、どうしても耐えられなかった。俺は必死に湯域を抱きしめたまま、しゃっくり混じりに謝罪する。

「うん」

 だというのに、有樹は俺を受け入れてくれた。なんて愛しいんだ。これが嘘だというなら、世界なんか必要あるか。愛を舐めるな!

「ごめん、有樹」

「いいよ。電子レンジはきっと、最初からこのためにあったんだよ」

 有樹が俺の胸に顔を埋め、力いっぱい抱きしめ返してくる。

「有樹を殺すための装置として、か?」

「違う。私と日向が永遠に一緒になるための装置として、だよ」

「そうか、そうなのか。なら――少し救われる」

 心がぽかぽかする。

 そもそも人生とは何か。それは幸福になることだ。何故なら存在なんてものそれ自体にはなんら意味をもたない。宇宙が存在することも、地球が存在することも、人類が文明を築いていることも、本質的には意味がない。

 あろうがなかろうがどうでもいいものだ。宇宙が仮に存在しなかったとして、誰が困る?

 人生も同じ。ただ産まれ落ち、肉体を宿し、生命活動を維持する。それだけの存在に意味だの意義だのあろうはずがない。何故なら大局的に見れば、人類なんて存在しようがしまいが宇宙的にも、地球的にも、太陽系的にも全くもってどうでもいいことだから。

 では何故人は生きていくか。それは無為なものに意味を創発することにある。ありもしない意味をわざわざ発明する。それは妄想と何ら変わらないものだ。

 本来人間なんて存在しようがしまいがどうでもいいはずなのに、自分が生きているという行為に何が何でも価値を置きたがる。そしてそれを人は――幸福という。

 だが、それは俺がこうして雨と桜と絶望の街を守り、有樹を愛することと何か違いはあるかというと、あるはずがない。

 有樹を愛し、雨と桜と絶望の街を慈しみ、日々を提供してくれた楽園に幸福を見いだし、それを守る。

 ほら、同じだ。

 人生とは価値を妄想するということ。

 そして妄想するということは即ち、本来意味がないということだ。

 現実なんてものは本質的に無意味にして無価値。雨と桜と絶望の街が無意味にして無価値なように、何も変わらず、何も違わないのである。

 そんなことを考えていると、有樹は俺から離れ、ぐいっと腕を強く引き、

「さ、早く。電子レンジで私と、日向の心を焼き殺して」

 そう、力強く処刑場を要求した。

「――ごめんっ!」

 俺は最後に深く頭を下げ、俺たちの部屋。あの白いコンクリートむき出しのテナントへと向かうのだった。


 そして俺は――有樹を電子レンジで焼き殺した。


 有樹を殺し、俺は人格を消滅させる。

 ピー、ガガガガ、ピーガー。

 雨と桜と絶望の街は――消えなかった。

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