4章 結末

結末(1)

 一つ種明かしをしよう。

 僕は『俺』とは別の人格だ。『俺』が雨と桜と絶望の街に引きこもっている間、現実世界で活動していた人格が僕なのだ。

 『俺』はどうしようもなく精神が不安定で、勝手に世界から逃げ出し、僕を作った。

 でも僕だって雨と桜と絶望の街で暮らしたかった。僕だって楽園でぬくぬくと過ごしたかった。

 そしてその夢を――叶える時が来たのだ。

「おかえり、霞」

 トイレから戻った霞に対し、僕は最上級の笑顔を持って応対する。有樹は既に姿を消していて、この場にいるのは僕と霞の二人だけだ。

「……はい、ただいま」

しかし霞は元気なく頷き、ぎしっと倒れ込むように椅子に腰掛けた。

 もっとも、それくらいのことで動揺する僕ではない。ゆっくりと、丁寧に、まるで赤子をあやすように、穏やかな音吐を彼女の耳に送り届ける。

「霞、僕の話を聞いてくれるかい?」

「……なに?」

「僕の、人生についてさ」

「人生?」

 反芻した霞はため息をつきながら頬杖をついて、目をすうっと細めた。

 それはどこか敵意ある目で、一種の警戒心のようなものが含まれているのを僕は見抜く。

 霞がどうして疲れているのか。実は僕はもう把握した。

 だからこそ、彼女の警戒心がどこから生まれたかもわかっている。それはまるで答えを丸写しするペーパーテストのように、あっけなさと冷静さ、熱の篭もらない作業として僕は言葉を紡いでいく。

「それと、雨と桜の絶望の街について、ね。そこで僕が何をしていたのか。そして、有樹というのがどういうの存在なのか」

「……教えてちょうだい」

 霞は一応聞いてあげるとばかりに頬杖をやめ、背もたれにぎしっと身を預けた。

 少々上から目線を感じるが仕方ない。霞は疲れているのだから。僕は優しく、敵意なく、彼女の味方であるようににこりと微笑み、僕は滔々と語り出した。

 僕――保住日向は小学中学はどこにでもいる普通の子供だった。エリートでもなければ神童でもなく、かといって今のような発狂はしていない。

 ごくごく平凡の子供だった。

 それが変わったのは高校に入ってからだ。なんのことはないいじめられたわけだ。幼い頃からそういうのに慣れていればある程度耐性がついていたのかもしれないが、生憎と僕は過保護に育てられていたし、小学中学はさして目立つ存在ではなかった。茫洋と生きていた。

 だからこそ、初めて浴びせられたいじめという名の暴力に対して、僕の精神は保全できなかった。僕は首つり自殺という最もありきたりな手段を取った。最初は。 

 しかし母親に発見され、一命を取り留めてしまった。それから引きこもりになったけれど、定期的に自殺は敢行していた。飛び降りてみたり、電車に飛び込もうとしたり。

 しかし運がいいのか悪いのか、いつも助かってしまった。飛び降りは全身打撲と複雑骨折だけど死ななかったし、電車に飛び込もうとしたら近くにいた赤の他人に止められた。しかも止めた理由は僕の命を案じてじゃない。電車が不通になったら会社に遅刻してしまうからという身勝手な理由だった。

 僕の心は次第に閉鎖的になっていった。死ねないならもういいと、むしろ僕は死のうとしているのに周囲は構うことなくのうのうと生きていることに苛立ちすら覚えるようになっていった。

 僕は現実を捨てることにした。病院のベッドで、あるいは自室で、僕は妄想を構築していった。それが雨と桜と絶望の街だ。

 雨は僕の涙を表す。僕の悲鳴だ。救いが欲しいのに誰も救ってくれない。母親ですら僕を甘やかしこそすれ、この悲劇から抜け出すための救いは与えてくれなかった。

 桜は狂気を表す。何度となく自殺に失敗し、学校でいじめられて心が傷つき、あまつさえ僕を助けたやつは僕を案じてくれなかった! 自分のことしか考えていなかったのだ! あれは僕の心をコナゴナにした。その狂いを、狂気を、怨念を、僕は桜で表現した。

 都会は無機質と冷たさを表す。僕にとって世界とはどういうものかと考えて、それはあれだった。何もない。がらんどう。それが無限に続く。そして一本道だ。僕に交差点はない。

 皆が制服を着ていたのは心の片隅にあった憧憬だろうね。いじめによって失われた高校生活。それを少しでも残したかった。けれど、学生生活にいい思い出はないから、制服だけ。複雑な感情だね。

 そしてそれを総括するのが有樹だった。この悲劇の結晶たる雨と桜と絶望の街の中で、僕がただ一つ欲しかった救いの体現者として僕は有樹を作った。僕の心を癒してくれる。僕を守ってくれる。僕を救ってくれる。そういう守護者、救世主、神としての存在。そしてそれは対等であることが望ましかったので、僕は有樹を幼なじみにした。

 あとは記憶を消すことだけだった。嫌な思いも、嫌な過去も、嫌な気持ちも全て粉砕し、海馬の奥底に閉じ込めてただ一人妄想の中で暮らすことにした。

 そうしなければ、僕の精神は均衡を保てなかった。というよりは、狂った結果、ああいう世界に引きこもることになった。

 しかしそれだと現実世界で生活できない。僕だって人間だ。食事は必要だし排泄もする。その都度妄想から離れていては心を保てない。

 だから――僕という人格が生まれた。『俺』は一人、雨と桜と絶望の街で有樹という脳内彼女とイチャイチャし、代わりに僕が食事をして、排泄をする。あの過保護な母親は僕をカウンセリングに連れて行ったけどね。そしてそれは確かに功を奏したよ。雨と桜と絶望の街に『霞』という侵略者がやってきたのだから。

 中学生に見えたのは高校の記憶を抹消したことと、電車に飛び込もうとして止めたリーマンが大人だったからね。自分のことしか考えていない。僕をいい子いい子してくれない。僕の命を大切に思ってくれない。大人というのはわがままで自己中心的でいい加減で刹那的で愚劣な存在だから、常に無関心なんだ。愛が欠落しているんだね。

 だから雨と桜と絶望の街にいる住民のいくらかは大人なんだ。無機質の代理人として。

 霞は違った。僕に接近した。僕を侵略した。それは僕の定義における『大人』とは違っていて、だから中学生に見えた。高校生は僕と有樹以外は存在してはならなかったからね。

「なるほど、やっと話してくれたわね。……やっと」

 ひとしきり話を聞き終えた霞がぱちんと自身のおでこを叩き、鬱然としながらもどこか安堵したかのような吐息と共に、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 それを見て、僕はちょい、と彼女の白衣を摘まみ、引っ張った。

「霞。どうする? 休もうか? 君は疲れている」

「……いえ、何か言うことがあるんでしょう コーヒーを淹れるわ」

「ああ、ありがとう」

 そうか、ようやくコーヒーに気づいたか。今更といえば今更だが、せっかくなので僕は霞がコーヒーを入れるまでくるくると椅子を回転させて待つことにした。

 それにしても、医者の豪勢な椅子に比べて患者のこと粗末な回転椅子は何事だろうか。差別を感じずにはいられないね。

 そんなことを考えているうちにコーヒーはできあがり、紙コップをすっと僕に渡してくれた。受け取り、一口すする。インスタントの味がした。まあ、時間がないから仕方ないだろう。

 僕はふうふうとコーヒーに息を吹きかけながら、じっと霞から目をそらさずに、

「雨と桜と絶望の街はね、薬じゃ無くせないんだ。僕の深層心理に深く根付いている。そしてあの世界を統括しているのが、有樹だ」

 そう、爆弾の詳細を説明してのけた。

 霞もずず、と軽い音を盾ながらコーヒーをすすり、

「それで?」

 と問いかけてくる。

「つまり、霞、君ではダメなんだ。雨と桜と絶望の街を滅ぼすには、僕の手で――有樹を殺すしかない」

「…………」

「霞ではダメだ。僕が雨と桜と絶望の街と決別するために、僕の手である必要がある」

 有樹は果たしてこの会話を聞いたらどう思うだろう。いつの間にか消えてしまったけど、いれば面白かったのにね。くく、くくくく!

 僕が愉快に肩をゆすっていると、コーヒーを飲み終えた霞がこと、とコップを机の上に置いて、またもや椅子からすっくと立ち上がった。

 だが、今度はコーヒーではない。

「そう、わかったわ。話は終わりね。悪いけど私」

「いいよ。わかっているよ霞。君は疲れているんだからね」

 僕もまたコーヒーを飲み干し、椅子から立ち上がった。

 あんまり長い時間座り心地の悪い椅子に腰掛けていたせいで、尻と腰に軽い痛みを覚えるのだった。

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