3章 回帰
回帰(1)
それから定期的に俺は霞の診療室に足を運ぶようになった。正確には、母親に連れられて強制的にここに送られているだけだ。自分の意志じゃない。
「大丈夫よ日向くん。そんなに緊張しなくていいから」
「…………」
緊張するな? 無理な話だ。目の前にいるのは有樹を殺そうとし、音居さんを含む数多の住民を自殺させ、俺を雨と桜と絶望の街からこんな所に連れ出した悪魔のような女なのだ。
はっきり言うなら、こいつは敵だ。俺は警戒を解くわけにはいかなかった。
「黙らない黙らない。コーヒー飲む?」
霞はそう言って立ち上がり、奥にあるコーヒーメーカーから紙コップにとくとくとコーヒーを注ぎだした。
俺はそれをぼんやりと見つめながら、
「……いい」
そうぶっきらぼうに拒否した。
「一応置いておくわね。ミルクと砂糖は自由に使って。さて、お話をしましょうか。日向くん、今日は何を食べたの?」
しかし霞はわざとらしく声を弾ませ、ことりと俺の脇の机にコーヒーを置き、次いでミルク――スジャータ(コーヒーフレッシュ)と角砂糖が入った小瓶を並べ、頬を緩めたまま椅子に戻る。
しかし、その目はちっとも笑っていないのを俺は見逃さなかった。
「……覚えてない」
「うーん、じゃあ好きな食べ物とか、ある?」
「……おにぎりとサンドイッチ」
「お母さんが作ってくれた?」
「いや……」
母親の料理など覚えていない。実際今日食べた食事がなんなのかなんて、記憶の片隅にもなかった。脳が拒絶したといおうか。
俺にとっておにぎりとサンドイッチとは有樹がつくったあの宝石のような食事に他ならない。目を閉じると味が、食感が、艶が、はっきりと思い出せる。
しかしそんな俺の態度が来肉わかったのか、霞は人差し指で自分の頬を突きながら僅かに目元を細めた。
「うーん、まだあの、何て言ったっけ? 日向くんの世界」
「雨と桜と絶望の街」
なんとなく反射的に答えてしまったが、言って後悔した。霞の目に強い光が宿り、そしてそれは明らかに攻撃的なものだったからだ。
雨と桜と絶望の街を消し去ろうという、強烈な悪意。いや、霞自身はそれを悪意とは思っていないのだろう。そのギャップもまた、俺を傷つけた。
「そうそれ。まだ見える?」
「…………」
俺は黙り込み、じっと床を見つめた。もう霞と話したくはない。
それから五分ほど霞は色々質問を行ってきたが、俺はもう何も言わない。霞もこれ以上何を言っても無駄と感じたのだろう、彼女はぱん、と手を鳴らすと、
「はい、じゃあ今日はここまでにしとこうか。お薬は受付で受け取ってね」
そう言って、話を打ち切ってくれた。
「あ、ああ……」
俺は間の抜けた返事をして、ゆっくりと椅子から立ち上がる。長い間身体を動かしてこなかったのかたったこれだけのことに妙なけだるさを感じ、間接の節々が軋んだような錯覚に囚われる。
ぼんやりとする思考。視界に映るは白い部屋。ただしそれは雨と桜と絶望の街で暮らしてきた俺のテナントとは違う、消毒薬臭くて、机があって、椅子もあって、書類もあって、目の前にはコーヒーさえある生きた白だった。
「まだ現実が理解できない?」
白衣をまとい、椅子に腰掛け足を組み、コーヒーをすすりながら問いかけてくる霞。
それはどこからどう見ても大人の女性であり、雨と桜と絶望の街を破壊した中学生ではなかった。
「…………」
何がおかしいのか。何が正しいのか。狂っているのは世界なのか。それとも俺なのか。
何も判断出来ない。
そんな俺の困惑を読み取ったか、霞は机の上にコーヒーをことりと置いて、
「大丈夫よ。すぐにわかるようになるわ」
わずかに頬を緩めた。
すると、がらりと戸が開かれる音。俺がゆっくりと振り向くと――そこには母親と思われる人物がいた。
思われる、と言ったのは記憶が未だあやふやだからだ。
雨と桜と絶望の街にいた頃は過去の記憶を一切もたなかった。自分がどこから生まれ、どうやって育ち、どうしてあそこに暮らしていたか。その全てが欠落していた。でも、それが普通だと思っていた。
ところがそれは妄想の産物で、実際はこうして母親がいて、定期的に病院に通って薬を貰っているという。
そう教えて貰っても、何故か、納得が出来ない。
彼女は本当に俺の母親なのだろうか? 記憶の糸をたぐればそういえばこんな顔だったような気がするのだが、どうしても母親と認識できないのだ。
ピー、ガガガガ。ピーガー。
刺激が脳を駆け抜ける。彼女は確かに僕の母親なのだ。僕は全てを覚えている。そう、僕は。
ピー、ガガガガ。ピーガー。
――っ!?
まただ。時たま変な言葉が出てくる。自分の意志とは無関係に、謎の自己が体内から波紋のように広がり、俺の身体を汚染していく。
これにつはいて雨と桜と絶望の街があろうとなかろうと関係がないようだ。
じゃあ、これはなんだ?
不安が、澱となって臓腑に溜る。
俺がそんなことで手間取っていると、霞がとん・とん・とん、と人差し指で机を叩きながら、
「お母さんも待ってるわ。またね」
そう、少しだけ不機嫌そうに言った。
「……あ、ああ」
俺は頷き、母親と共に帰宅するのだった。
外はわずかな暖かみを残しつつも、雨と桜と絶望の街にあったようなぬくもりのない、冷たい風吹く秋の空気に満たされていた。
見上げると羊雲が空一面を埋め尽くしており、まだ昼過ぎなのに太陽は既に沈み始めていた。かろうじて青と白のコントラストを残すも、そこを彩る濃淡は明らかに夜へ向かうそれだ。
周囲は駐車場で、ゆきかう人々には姓名の艶があって、コンクリートで構築された巨大な病院が城のようにそびえている。
「……病院」
何気なく、俺はこの建造物を舌に乗せて声に出してみる。酷くリアルに響いた。まるでこれこそが現実であると主張しているかのようで、どうしようもないほど現実的な言葉。
もう一度言ってみようかと思ったが、出来なかった。もう一度口に出したら最後、自身の人格は破壊され、二度と戻らないんじゃないかと危惧したからだ。
だから俺は黙って母親の後をついて行き、軽自動車に乗って自宅へと戻るのだ。
その道中、窓から映し出されるそれはお世辞にも都会とは言えない、哀れで、殺風景で、退廃的で、それでいてどうしようもなくリアルな、
「……田園」
風景だったのだ。
秋のたんぼ道。まばらな民家、銀色か黒色の車ばかりが走っていて歩行者はほとんど見当たらず、稲刈りを終えてはげ上がった田んぼの残滓が荒野のように眼前に広がっている。
アスファルトは酷く冷たく、氷のように無機質に見えた。実際無機質なのだろう。血液も通わぬ、遺伝子もない、意志も、魂も存在しない、灰色の隙間。
その脇に立つのは銀杏だろうか。楓だろうか。俺は木々に詳しくないからわからないが、ただ一つ間違いないことは。
「桜が、咲いていない……」
そんな当たり前のことだけだった。
「そもそも、今は十月下旬……」
俺はぺたぺたと自身の身体をまさぐる。パーカー。Tシャツ。ジーパン。それは逆立ちしても制服ではなかった。
「服も……私服……」
私服であるということが酷く異様なものに思える。雨と桜と絶望の街では制服しかなかったから。私服なんてどこにもなかったから。そもそも私服とは何だったのか。
それは今俺が着ている服のことだ。服に感情はないはずなのに、まるで悪意をもって俺を攻撃しているかのよう。ここはリアルであり、お前は制服を着るような人間じゃないんだと。
ピー、ガガガガ、ピーガー。
はは、あはははは。
ピー、ガガガガ、ピーガー。
笑い声の前後にノイズ、いや、ダイヤルアップ音も聞こえる。
と、母親がそんな俺の仕草を訝しんだようで、鋭く、そして嫌悪感のある視線を送ってきた。
「あ、いや、なんでもない」
俺はそう言い、今度こそただ黙って家までの道のりをぼんやりと眺め続けるのだった。
その結果を言うならば、やはり、ここはリアルなのだろう。
家は二階建ての一軒家であり、ビルのテナントではなかった。
当たり前なのだろうが、それが違和感となって俺の心臓を穿った。
部屋の中も自分のものではないとしか思えなかった。青い毛布がかけられたベッド。木の机。古ぼけたカーペット。色のあせたカーテン。もう使わなくなって埃を被った教科書類と鞄。
なんだ、ここは。
「やはり、これが現実なのか? 俺がいたあの世界は……俺の、妄想?」
頭を抱える。椅子に腰掛け、机にもたれ、ひたすらに考える。
でも、敢えて考えようとすると何もひらめかなかった。自分の脳みそは彫像のようにカチコチになって、思考の全てを遮断する。そもそも、思考に至ろうともしない。
何故か。
それは心の奥底で雨と桜と絶望の街が妄想であることを認識しているから。
ここがリアルであることを理解しているから。
ただ、それを納得させることが出来なかったのだ。
それほどまでにあの世界は色があり、空気があり、感触があり、味があり、そして何より――
「おかえり、日向」
「有樹……」
慌てて振り向く。
そこには有樹がいた。ブレザーをまとい、寂しそうに髪をいじりながら上目遣いに俺を見つめる有樹がいた。
その直後だった。
「あ、世界が……」
俺の部屋? と思われた世界が一変。あのなじみ深い真っ白いテナントに戻ったのだ。
広大で、冷たくて、部屋の中央には電子レンジがあって。
窓からは雨が降りしきり、灰色一色で、そして、桜が見える。
有樹がすたすたとこちらに歩み寄ってくる。彼女の長い黒髪が棚引き、さらさらと小川のような清涼感を与える。
「どうしたの? また、あのデタラメ嘘まみれの世界にいたの?」
「……ああ。でも不思議だな。有樹と出会うと世界はまた、雨と桜と絶望の街に戻る」
俺は正直に答えた。いつの間にか立ち尽くしていた。椅子に座っていたはずなのに、椅子なんかどこにもない。
そしてこの空気。このぬくもり。凄くリアルだった。
これこそが現実なのだと理解させてくれた。
すると有樹は呆れたようにはぁ、とため息を一つつき、ふぁさっと前髪を梳きながら、
「だってこっちが本当の世界だもの。当たり前でしょ?」
そう、つまらなそうに答えた。
「こっちが本当の……世界」
「そうだよ。霞に惑わされないで。あの女の言うことを信じてはダメだよ。ここが、この雨と桜と絶望の街こそが真実なんだから」
有樹の言葉は復員となって、一音一音がたまらないぬくもりを俺に与えてくれる。
ピー、ガガガガ、ピーガー。
そう、僕は知っているんだ。全てをね。この世界こそが『俺』にとっての本当のリアルであり、僕はそれを守らなければならない。僕の知るあの世界は破滅させなければならない。
それが正義なんだよ、わかるかい?
ピー、ガガガガ、ピーガー。
またか。一体なんなんだ? 今の声は?
「こっちが、真実……」
俺はばしっとおでこを叩き、俯く。
「そう、なのか? 本当に、こっちが真実だというのか?」
確かに雨と桜と絶望の街にはぬくもりがある。味がある。心がある。それは現実と霞が言ったあの世界にはないものだ。
ここは現実感に溢れている。
「でも、いや、しかし……」
ただ、断言できないのは、雨と桜と絶望の街こそがリアルだと『納得』は出来るが『理解』が出来ないことだった。
何故ならこの世界は非常に非現実的であり、極めて奇怪であり、どうしようもなくデタラメであるからだ。
その異常性が、俺に決断させないのだ。
「霞は……いや……」
だから有樹を見ても、有樹の言葉を聞いても、心の奥底で納得すらしても、
「……わからない」
そう、答えざるを得なかったのである。
「どうしたの?」
はっとなる。
「あ、あれ? 霞……あれ? 病院」
俺はきょろきょろと周囲を見回す。そこは病院で、霞の診療室だった。
時間が飛んだ。さっきまで雨と桜と絶望の街――いや、自宅にいたのだ。確かに病院から出て行ったのだ。なのに何故病院にいるのか。
カレンダーを見てもわからない。俺はスマホを持っていないから日数を確認する術がない。
ただ推察するならば、雨と桜と絶望の街にいるとこの現実世界での時間の感覚に著しいズレがある。まるでウラシマ効果のようだ。
あるいは夢の中にいるとわずかな時間しか経っていないように思えても実は何時間も経過しているみたいに、脳が停止していしまっているのだろうか。
それにしても、いきなり場面が、世界が、空間が変わるこの異常事態について、俺はどうしても冷静でいることができず、しきりに頭を抑え、ぐしゃっと髪の毛を握りしめた。
それを見て霞が異変を察したか、ぽん、と俺の肩を優しく叩く。
「そう、病院よ。あとね日向くん。一応私、君より年上で、そして先生でしょう? 霞はないんじゃないかな? 呼び捨てはよくないと思うわ」
「あ、ご、ごめん」
顔を上げる。霞は穏やかな笑みを作ってはいたが、その瞳に優しさは感じられない。まるでロボットか、ホルマリン漬けの標本か、ただの物体を見つめる極めて無機質な視線を送っていた。そこに敵意はないが、愛情もないのだ。
「ま、いいけど。さて、カウンセリングを始めましょうか」
有樹とは違う女による、心理療法という名の暴力が始まるのだった。
俺は先手を打って皮肉をたっぷりと霞に、俺たちの敵に食らわせてやる。
「カウンセリングなんかいるか? 前みたいに薬を飲ませればいいじゃないか」
「日向くん。確かに最初はお薬で治療してたわ。でもあれは副作用も強いし、実際けだるさとかあったでしょう? まだ日向くんは若いからあまりお薬は使えないの。出会った頃は流石にお薬が必要だったけど、今の日向くんは凄く安定してきているから、心理療法っていうのに切り替えたのよ。こうやってお話して、少しずつ心を休めていくの」
霞の言い分を聞いて、俺は足を組み、ぼりぼりと頭を掻き毟る。
「安定、ね。診療室でこうやって話せるようになったことがそんなに凄いのか?」
「そうね、少し前までの日向くんは――少し危うかったかな。私の話は聞こえているんだろうけど、こうしてちゃんとまともな反応って、してくれなかったし。あ、悪い意味じゃないのよ」
「悪い意味以外あるわけないだろ」
「もう、そういう言い方しないで。せっかく安定してきたんだから。もっと喜んで欲しいな。日向くんはね、回復に向かっているんだから。この調子で行けば――」
俺はたまらず霞の声を遮り、『彼女が望んでいるであろうこと』を口にする。
「つまり、この世界こそが現実で、雨と桜と絶望の街は……俺の作った妄想の世界。偽物だっていうんだな?」
「そうよ。やっと理解してくれたのね。嬉しいわ」
霞はぽんと手を鳴らすと嬉しそうに声を弾ませ、椅子から飛び跳ねるように立ち上がった。
「あ、コーヒーとお茶、どっちがいい?」
「……牛乳」
嫌がらせに俺はそう言ってのけた。俺の『偽物』という発言を否定しないどころか喜んだことが、どうしても許せなかったからだ。
「ないのよ。ごめんなさいね」
霞は嫌がらせだということはしっかり察したようで、声に少しトゲがあった。
俺は頬杖をつき、ため息まじりに言い直す。
「じゃ、お茶で」
カウンセリングを終え、自室に戻ると、そこはがらんどうで、子供的で、お世辞にも楽園ではない普通の人間が住まう部屋だった。
「有樹……」
俺はそっと言の葉に乗せる。独りごちるというより、話しかけるように。
いて欲しかったから。来て欲しかったから。
けれど、部屋に有樹はいなかった。
「今日は、いないのか」
そもそも俺の感覚ではついさっきまで有樹といたのだ。今日は、なんておかしい話だ。
しかし日にちは経過している。まだ十月だけど、そろそろ十一月になる。
俺はじっと自室を見つめる。
「自室……俺はずっと、ここで生活していたのか……ずっと妄想の中で、この狭い八帖の部屋の中で……」
学校にもいかず、働きもせず、ただ部屋の中に篭もっていた。
その間俺は妄想の中に入り込み、そこで縦横無尽に駆け巡っていた。
そんな、馬鹿な。
「でも、いや、まさか……」
やはりここがリアルなのだろう。雨と桜と絶望の街は妄想なのだろう。
それが最も現実的であり、最も合理的であり、最も科学的なのだ。
理解は出来る。
ただ――納得が出来ないでいた。
俺は飯も食わず、風呂も入らず、ベッドに倒れ込むと青い毛布を身体にくるみ、じっと目を閉じる。
「寝よう。寝ればひょっとしたら……」
眠りから覚めれば、灰色で、雨が降って、桜が満開で、あの無機質で真っ白なテナントに戻れるんじゃないか。そういう淡い期待を抱く。
でも、そんな夢はあっけなく砕け散った。
「ダメか。ここは俺の部屋……だ」
翌朝、俺が目を覚ました世界は、霞が大好きなリアルだった。
それから数日が経過して、カレンダーはついに十一月を迎えた。
その間、俺は雨と桜と絶望の街へ旅立つことはなかった。
食事は母親が持ってきた。カウンセリングも定期的に連れて行かされた。
そして、
「有樹……」
有樹は一度も姿を現さなかった。
俺しかいない自室。白くない自室。コンクリートじゃない自室。
それは果たして自室なのか?
「なんで、なんで有樹が出てこなくなったんだ……有樹……」
跪き、涙を流して天を仰ぐ。
「会いたいよ、有樹……」
どれだけ訴えても、どれだけ囁いても、けれど有樹の姿は影すら出てこない。
「あのぬくもりが、あのキスが、あのやすらぎが嘘だったんて、信じられない」
幽霊でもいい。妄想でもいい。幻覚でもいい。有樹に出てきて欲しかった。
俺が俺でいられるのは有樹がいるからだ。有樹だけが俺のアイデンティティであり、有樹だけが俺の全てだった。
その有樹がいないというリアルに、俺は耐えられなかった。
泣く。泣きじゃくる。滂沱と共に有樹に来てくれと叫ぶ。
でも、有樹は来ない。
代わりに来たのは母親で、
「え……病院?」
俺は鸚鵡返しに訊ねた。
「また、か……」
ごしごしと目元をぬぐい、仕方ないと立ち上がる。
「行きたくない……でも……行くしかないのか……」
リアルはいやだ。現実はいやだ。雨と桜と絶望の街がいい。あそここそが世界なのだ。俺の暮らすべき楽園なのだ。
こんな無為な場所が、俺の暮らす世界ではない。
「ああ、有樹……有樹!」
母親が軽自動車のエンジンをかけた。ブルルル、ドッドドドド。そんな音が聞えてくる。
「俺……僕は……僕は……」
ピー、ガガガガ、ピーガー。
そう、僕はこの世界にいてはならない。
僕が暮らすべきはここではない。無論、『俺』もね。
僕はばっと両手を天に掲げ、カッと眼球を見開き、腹の底から、力強く、怨念のように叫んだ。
「世界を、選択しなければならないっ!」
ピー、ガガガガ、ピーガー。
「いーい、日向くん。世界はね、怖いところじゃないの。楽しいものが沢山あって、新しいものが続々と出てきて、そして、素敵な人がいるのよ」
診察室での会話。ここ最近続く、悲劇的な時間。
時間。雨と桜と絶望の街にはなかったもの。それがここではちゃんと実在していて、日々の経過というものが強制的に実感させられる。
そしてそれは、酷く不快だった。
「それがいいことか悪いことは別問題じゃないか? 楽しいなんて感情は所詮人生という無為の中に芽生えた錯覚に過ぎない。幸福という目的を達成させるための脳が作り出した機能だ」
俺の反論にとげがあったのは霞の言い分の無責任さもあるが、この世界に俺がいるということへの不快感も含まれていた。つまりは、八つ当たりだ。
だがそのことに気づかず、霞は腕を組み、うーんと首を傾げる。
「随分難しいこと考えるのね、日向くん。すごい知的。でもね、仮にそれが正しいとして、その錯覚って悪いことかな? 錯覚でもいいんじゃないかしら。その錯覚がずっと続けば、仮にそれが偽物だとしても、人生っていいものだなって思えるものよ」
「知ってる。でもその錯覚が俺の――俺がいた世界の、あの世界の……有樹との日々を上回るものだとは、俺は思えない」
霞は俺にとって明確な敵だ。
雨と桜と絶望の街では霞は有樹を殺そうとした。多くの住民を自殺させた。
そしてそれはこの世界でも変わらないのだ。違いは殺しも自殺もさせず、心を壊そうとしてきていることくらいか。
俺が心の中で毒づいている間にも、霞の声が無邪気に響く。
「うーん、それは日向くんがまだ人生を色々経験していないからそう言えるんじゃないかな。日向くんは今学校には行ってないのよね。でも復学して、勿論転校でもいいわ。そうして新しい人生を作り出せば、何か違う世界が見られるかも知れないよ」
「必要性を感じない。人生というものが幸福をめざすためのプロセスの総称だとするなら、それは確かに数種類存在するかもしれない。でも、既にあるものを放棄してまで選択を変更する必要性が、俺には理解できない」
「でもね日向くん、その子と一生本当に過ごせるのなら、私は何も言わないわ。でもその有樹って子と本当に過ごせる? 今日明日だけの話じゃないわ。十年、二十年、三十年。できる? 私は出来ないと思うな。だって日向くん――」
「う、うぅ……」
涙が止めどなく溢れる。止まる気配がない。何度も何度もぬぐっても涙は決壊したダムのように瞳からこぼれ続けた。
「あら、どうしたの? はい、ハンカチ」
霞が何気なく渡したハンカチを受け取り、目元を隠す。小さな闇が灯火のようにぽつりと視界に広がった。
頭の芯が冷えるような感覚。しかし有樹は出てこない。思い浮かばない。
ピー、ガガガガ、ピーガー。
いいじゃないか。僕にとっては有樹はさして重要じゃないが、『俺』にとってはとても大切なものなんだろう? 何をためらう。何を涙する。素直に有樹が大事だと思えばいいじゃないか。
なあ、『俺』はどうしても有樹が必要なんだろう? 雨と桜と絶望の街こそがリアルであって欲しいんだろう? なら僕に任せるといい。
僕が『俺』の願いを叶えてあげよう。『俺』は何もしなくていい。全て僕に任せれば良いんだよ。さあ、目を閉じて――
「あ、いや……有樹……」
おやおや、『俺』の口からこぼれてしまったね、でもそれでいいんだ。僕に全てをゆだねるためには本心をさらけ出す必要がある。
そもそも『俺』とは何者なのか、それを知っているのは僕だけなんだから。
おっと、『俺』が口を滑らせてしまったことで霞が眉間に皺を寄せ、頬杖を突きながら訝しそうにこちらを見つめているよ。
「はぁ……まだダメなの? 大丈夫。まず現実を知ること。そして少しずつリハビリを重ねて、社会復帰するのよ。そうすれば素敵な彼女もきっと見つかるわ」
彼女!? 彼女だって!? あはははは! 何を言っているんだい、なあ、『俺』もそう思うだろう? ほら、言ってやれよ。
「有樹の代わりの?」
そうだ、ちゃんと顔をあげな。はっきりと自分の意見を主張するんだ。
僕は『俺』を守ってあげる。雨と桜と絶望の街を守ってあげる。
だから、霞の甘言に惑わされちゃいけないよ。
ピー、ガガガガ、ピーガー。
俺はじっと霞を見つめる。霞はやれやれと肩をすくめ、こつんと椅子を軽く蹴って靴を慣らした。
「その有樹って子以上のよ」
「……馬鹿な」
俺は首を振ることしか出来なかった。
有樹よりいい女なんているとは思えないし、いたとしても俺は愛さない。無論、愛されもしない。わかっている。
だから霞の言葉は酷く空虚に聞こえて、無機質であっても息吹を感じる消毒薬臭い診察室から消えるようにじっと、目を閉じるのだった。
涙はいつの間にか止んでいて、ハンカチを床に落としていた。
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