楽園(4)

 日常は繰り返される。延々と繰り返される。

 夜がないが取り敢えず疲れたら眠るという不規則な生活を送り、起きたら有樹と一緒に電子レンジを作るという日常。

 そこに変化はなく、まるで波一つ無い大海のように果てしないものだった。

 しかし唯一違いがあるとすれば――

「順調に出来てきてるね、電子レンジ」

 例によって遊びに来た有樹が手をサンバイザーがわりにしたがら高さ二メートルにもなる巨大な電子レンジを見上げながら、感慨深い声を漏らした。

 そう、唯一違いがあるのがこの電子レンジだ。

 作っていけば当然完成する。当たり前の話。そしてそれこそが、この無限を思わせる雨と桜と絶望の街の中で、たった一つだけ時間の経過というものを象徴するモノだった。

 俺も電子レンジを見上げ、ズボンのポケットに手を突っ込む。

「ああ、何のためにやっているのか、何の意味があってやっているのか、そもそも何故電子レンジなのか。俺には何もわからないけどな」

「いいんだよ、意味なんかわからなくたって」

 有樹が呵々と笑い、俺の傍に寄り添ってきた。

 少しだけ照れ臭くて、俺は咄嗟に目をそらし、わずかに腰をもじもじさせながら、

「そういうわけにもいかないだろう?」

 そう、話を続けた。

 有樹はすっと俺の腰に脇腹をくっつけてきた。ちらりと視線を戻すと、彼女はにんまりといたずらっ子のような笑みを浮かべ、ぺろっと舌を出している。

「いくよ。だってこの世界は果てがなくて、時間もなくて、太陽の輝きもない。いつもどんより灰色の空で、雨が絶えず降り続け、学校もなく、仕事もなく、ただこの白の部屋に佇むだけなんだから。何かしてないと心が壊れちゃう」

 俺は有樹さえいれば心なんか壊れないのだが、それは恥ずかしくて言えなかった。それにずっとこうしていても俺の体温はかっかかっか上昇するだけなので、その場に腰を下ろし、工具箱を取り出し、電子レンジ制作の準備を進める。

 ふと、疑問が浮かんだ。まあ、いつものだけど。

「……なんで、俺たちはこんな所に居るんだろう?」

 有樹もしゃがみ込み、いつものように返答した。

「わからない。そして――わからなくていいんだよ」

「そんな、馬鹿な。あれ? またパーツが足りなくなった」

 どうしてすぐ無くなるのだろう。いつも十分なくらい購入――というか貰っているのに。

 そういう所も不思議だ。まるで買いに行くという行為が運命づけられているようで、その得体の知れなさに俺は腕を組み、首を傾げる。

「買いに行かなきゃね、あそこへ」

「トリキアースは行きたくないんだが、あそこにしか電子レンジのパーツは売ってないから仕方ない」


 トリキアースはいつも変わらない。薄暗い部屋の片隅に眼鏡をかけたポニーテールの女の子が座っていて、酷く純粋な瞳を客――俺たちに向けてくるのだ。

「いらっしゃい。今日もパーツを買いに来たのよね。嬉しいわ。じゃんじゃん買っていって」

 このキラキラした瞳はなんだろう。赤ん坊のような無垢さ。素直で純朴な有樹ですら音居さんのような輝きは双眸に宿せない。

 超純水のような瞳で、飲んだら身体に悪そうなくらいだった。

 この世のどんなものも純粋すぎるものは毒だということを、音居さんは両目だけで証明しているかのようだった。

「えと、今日は……」

 俺はパーツを注文しようとすると、音居さんはばっと手のひらをパーの形にして俺に突きつけ、すっくと立ち上がって棚を物色し始めた。

「大丈夫、わかっているわ。スペクトラム線とα線のハイブリッドによる崩落的エンジンの損傷が、日向くんの心を刺激しているのよね? わかる?」

「…………」

「どうやらわからないみたいね。もっと詳しく説明するわ。第六指向性波動ビック・マザーベアの仕業ね。それは精神に重大な影響を与えるわ。なんて恐ろしいの」

「……だから、その意味不明なことを言うのはやめてくれないか? 頭がオカしくなる」

「いいじゃない。オカしくなって。世界は謎に満ちていた方が面白くてよ?」

 音居さんは悪びれもしない。ただただ狂ったままニクロム線やらガラスの円盤やら歯車やら滑車やらをチョイスし、どさどさと乱雑にレジの上に置いていく。

 そしてそれは、確かに作業に不足しているものだった。

 まさに謎だらけだ。この世界は音居さんの言うように謎に満ちている。

 俺はぼりぼりと頭を掻き、うーんと唸る。

 この世界は本当にどう解釈したらいいのだろうかという疑問についての考察。それで暇を潰そうと思ったのだ。

 しかしそれは――果たされなかった。

「……ん?」

 店の入り口に影。いや、人の気配。

 珍しい。いや、珍しいなんてもんじゃない。初めてのことだ。この世界の住民は皆無機質で、木偶のようで、生きているのか死んでいるのかすらわからないほどなのに、店に入るという能動性に、俺は瞠目を禁じ得なかった。


「ハイ」


 それは可愛らしいソプラノボイスを響かせる女の子だった。背丈は百五十中頃くらいで、ほのかに幼さを感じさせる顔立ち。中学一年か二年生くらいだろうか。俺たちより年下に見える。腰まで届くサラサラ黒髪がよく目立った。

 なんていうか、雨と桜と絶望の街に来て初めて見る感じだ。着ている服はクリーム色と黒のセーラー服。あんなの見たことがない。

 わずかに釣り目がかった目がまるで矢のように俺たちを射貫いている。

「珍しいな、客か」

 俺はふう、と息をついてズボンのポケットに手を突っ込み、すっと脇にずれる。音居さんはそれに連動する余蘊いすっくと立ち上がり、眼鏡をくいっと直しながら新たな客を見――

「いらっしゃ――っ!」

 途端、顔つきが険しくなった。

 何故? 俺が不思議に思い首を傾げていると、

「羽住日向くんね?」

 中学生らしき女の子がそう言ってすたすたと歩み寄ってきた。

「なんで、俺の名前を……」

 いや、その前に違和感。女の子は傘を持っていなかった。店先に置かれた傘は二本。俺と有樹のものだ。だというのに――女の子は濡れていなかった。雨の一滴も身体に付着してない。

 今更ながら悪寒が俺の背中を伝った。

「羽住日向くん。日向くんでいいかしら?」

「……何か用?」

 よく見ると彼女は顔つきこそ幼いし、頬を丸っこくて可愛らしいが、その表情は明らかに敵意とは少し違う、何か哀れみのようなものが伝わってくる。その上で機械的というか、まるで実験動物でも眺めるかのような酷薄さ。

 一体何を見ればそんな表情になれるのか不思議なほど女の子は顔は冷たく、氷のようで、だというのに口元はふっと柔らかい笑みを象りながら、

「これからよろしくね。社会復帰できるように一緒に頑張ろうね」

 そう、明るい声を響かせてきた。

 おかしい。この子はおかしい。そもそも俺はこんな子は知らない。何故俺を知っているのか。そもそも何を言っているんだ。音居さんとは別次元で狂ったものを感じる。

「は? あんた何言ってんの?」

 俺はつい口にしてしまう。言わずにはいられなかった。女の子は相変わらず檻の中のモルモットを眺めるかのような冷たい視線と、不釣り合いな笑みを重ね合わせた異様なハイブリッド表情のまま一歩、また一歩とゆっくり近づいてくる。

 その時、有樹が俺の腕を掴み、ぐっと引っ張ってきた。

「日向……行こ。この子、危ない」

「え? 確かにオカしいが、危ないって」

 いや、なんとなく有樹に言いたいことがわかる。危険性が女の子の表情から読み取れる。音居さんのような純粋さはない。だが一方で中学生然としていながらその瞳はとても大人というか、人生を長く歩んできた者が醸し出す一種の『濁り』を持っていた。

「まず最初にそうね、何から話そうかな。あ、コーヒー飲む? ちょっと待ってね」

 女の子がまた変なことを言う。コーヒーなんてどこにもない。動こうともしていない。だというのに何を待てというのか。

 と、有樹がついにしびれを切らしたようで、俺を押しのけ、まるで盾のように女の子の間に割って入った。

「あ。有樹!?」

「何のつもり? これ以上日向にちょっかい出さないで貰えるかな?」

 有樹の声は敵意に満ちていて、表情こそ見えないが背中越しにも不満さ、訝しさ、そして警戒心がひしひしと伝わってくる。

 だというのにセーラー服の女の子はスカーフをきゅっと整えてふぁさっと後ろ髪を梳くと、まるで有樹など存在しないんだとばかりに構わず一歩踏み込み、口元だけ笑みを作ってまるであやすように囁いてくる。

「さてと、日向くん。いいよく聞いて。日向くんはちょっと病気なのよ。身体じゃなくて、心の病気。あー、悪い意味じゃないのよ。誰だってね、ありうることなの。心がね、少し疲れちゃってるの。それをね、一緒に治していこう。大丈夫、すぐによくなるから」

 有樹のことは見ていない。視線は俺にだけ照準を合わせている。

「取り敢えず、これだけは教えてくれ。あんた何者だ?」

「私? あ、言ってなかったわね。ごめんなさい。私の名は――霞」

「霞?」

「そ。霞」

 女の子――霞は自分の胸をぽんと叩き、首をにゅっと突き出してくる。蛇みたいだった。

「もう一度言うわ。日向くん。私の話をよく聞いて、心を落ち着かせて」

「聞いちゃダメ! この子絶対おかしい!」

 有樹が慌てて俺の方を振り向くが、それより早く霞がすっと手を突き出し、中指と親指を合わせて――ぱちんと。

「え? 指を鳴らし……あ!?」

 瞬間、世界が変化した。

 ヘンテコな世界。白い部屋。書類やタブレットが置かれた机。消毒薬の臭い。白衣を着た女性。元に戻る。

 ほんの一秒ほどだったけど、確かに景色が変わった。

 それはたとえるなら――診察室、のような気がした。

「な、なんだ……今の……あれは……一体……」

 ふと、身体にぴちゃんと冷たいものが当たる。

 雨だと気づいたのはそれからだ。俺は大慌てで周囲を見回すと、そこは路上であり、ビルと桜がひしめていて、空は灰色に満ちていた。

「あ、あれ!? 確か俺たちはトリキアースの中にいたはず……あ、あれ?」

 傘は手になく、俺と有樹はいきなり世界が変わったことに困惑を隠せず、お互い見開いた瞳を合わせる。

「外に……どうして? あの子が……」

「まさか。冗談だろ? いや、でも……だったら……これは、いや、その前に今のは……」

 言葉を続ける前に、後ろからぴちゃんと水が跳ねる音がした。

 振り向くとそこには霞がいて、ただただ穏やかな微笑を浮かべ、立ち尽くしていた。

 雨は打たれているはずなのに、びしょ濡れになる俺や有樹と違って霞は水滴一つ身体に付着していなかった。

 ――なんだ、こいつは。

 俺が何も言えずただ呆然と佇立していると、有樹がぱちんと自分の頬を叩いて気合いを入れ、再び俺の前に立った。

「ねえ、霞ちゃん、でいいのよね? 少し話してくれないかな?」

 ただ今回は先ほど違い、なるたけ優しく。

 しかしそれでも尚、霞は有樹のことは一瞥すらせず、じっと俺だけを見つめ、

「日向くん。落ち着いてよく聞いて。私の話を」

 俺にだけ話しかけてきた。

 流石に有樹もこれには声を荒げざるを得ない。

「人の話を聞いてよ!」

「君が聞こえているものについて教えて欲しいの。何が聞こえるの?」

「何がって……別に聞こえるって」

 一体何を言っているんだこの女は。わからない。音居さんとは全く別のベクトルで意味がわからない。たまらない恐怖が俺の全身に絡みつき、ぶるると震わせる。

 そんな俺に、霞はただただ優しく話しかけてくる。

「何でもいいから。普通でも、ありきたりでも、何のおかしさもなくていいから」

「日向、あの子と話さないで!」

 有樹の激昂。しかし何故だろう。俺は霞の言葉に導かれるように、つい、口を開いてしまう。

「そりゃ、君と、あと……有樹だけど。いや、外に飛ぶ前は音居なやって人もいた」

「有樹……音居なや……ふうん」

 霞は腕を組み、興味深そうにしげしげと頷く。ただ視線は決して俺から話すことはないし、口元はずっと笑みを維持している。

 まるで仮面。正直、怖気が走った。

 すると霞は組んだ腕を解き、また親指と中指を合わせる。そして――

「え、また……指を」

 ぱちんと鳴らした。しかし景色は変化しない。

 そう、景色は。

 では何が変わったのか? 俺はぺたぺたと身体をまさぐるが特に何の変化もない。

 雨と桜と絶望の街に異変が起こったかというと、ない。雨は降り続いているし、桜は散る気配がなく、ビルは絶えずそびえ立っている。

 変化したもの。それに気づいたのか少ししてからだった。

「う……あ。ああっ! う……ぐぅ!」

 突如、有樹が苦しそうに胸を押さえながら膝をつき、うずくまりだしたのである。

 俺は急いで彼女に手をかけ、そして霞を睨んだ。

「有樹! 霞! お前有樹に何をした!?」

「何を? 私はただ指を鳴らしただけよ」

「ふざけるな! 今すぐ有樹をどうにかしろ!」

 俺は叫ぶ。勿論霞は指を鳴らしただけだ。有樹に対して何かアプローチをしかけた形跡はない。でもわかる。こいつがやった。理屈じゃない。本能がそう訴えている。

 そんな非論理的な理由で俺は一方的に霞を犯人扱いしたわけだが、不思議なほどそのことに抵抗がない。それは心の奥底どころではなく、細胞の全てが霞がやったのだと警鐘を鳴らしているからだ。

 この女は危険だ。それはずっと感じていたが、初めて霞が具体的に俺たちに対して行った侵略は、極めて奇怪なものだった。

「ぐ……う……ぁ……」

 有樹は苦しそうにうめき続ける。俺の方を見る余裕もないようで、ただただうずくまり、潰れたカエルのような声を漏らすだけだった。

 俺の呼びかけにも答えないし、俺が背中をさすってもまるで無駄。

 そして霞は決して有樹に視線を合わせず、ただただ俺を見つめながら冷笑を浮かべるだけだった。

「私はね、日向くん。君に気づいて欲しいのよ」

「何に?」

 俺は有樹をぎゅっと抱きしめながら返す。取り敢えずすべきことはこいつをこの場から追い出す、消すことだ。理由はわからないが霞のせいで有樹がこんな目に遭っている。俺は有樹を守るために敢えて霞と会話することを選択した。

 それは、指を鳴らすだけで人に苦悶を与えるような存在に対し、どう守れば良いかと考えるなら、そいつの意識を有樹から反らすことに他ならないからだ。

 俺が霞と好意的に会話を交わすことで有樹への意志を反らし、これ以上の攻撃を行わせず、出来るなら早々に立ち去らせる。

 そしてそれは功を奏したのか、霞は嬉しそうに頷くと、ぱしゃ、と水溜まりを踏みしめながら一歩前に踏み込んできた。

「君が住んでいるその世界から、出るということに」

「は? 雨と桜と絶望の街の出口を、お前は知っているのか?」

「勿論」

 霞は即答した。

 一体この女は何者なのか。どうしてそんなことが言えるのか。そもそも雨と桜と絶望の街には出口はおろか入口すらないのだ。だだっ広い道路は無限に続き、果てというものがない。

 交差点はおろかカーブすらない。地平線の彼方までただ一つの大通りが続いている。

 昔一度だけ有樹と共にどこまで行けるか試した結果、何時間かけても同じ景色が続くことに絶望したことがある。

 だからこそ霞の言い分には、少なからぬ興味を引かれた。

 とはいえ、優先順位を俺は失念しない。

「……聞いてやるから、有樹を戻せ。話はそれからだ。有樹、大丈夫か?」

 あくまでも有樹を助けること。そのために俺は霞と会話している。

「ひ……な……う、ぐ……ぅ……う……」

 有樹は俺に反応する余地すらみせず、ただただ唸っていた。顔からぽたぽたと何かこぼれているような気がするが、それが涙なのか、鼻水なのか、よだれなのか、はたまた吐瀉物なのかは雨が打ち消してしまって判別できなかった。

 ただ一つわかることは今有樹は危険な状況にある。このまま放置してはおけないということだった。

 ところが霞は腰に手を当て、はぁ、と呆れたようにため息を一つ。

「悪いんだけど、その有樹とかいう子は連れて行けない。消すしかないの。悪いわね」

「なんだと?」

 聞き捨てならない言葉だった。俺は立ち上がり、ぎっと霞をねめつける。

 霞は頬に人差し指を添え、つまらなそうに見つめ返す。その無機質っぷりがまた俺を腹立たせた。

 ダメだ、交渉の余地はない。俺は「大丈夫か?」と有樹に声をかけて半ば無理矢理起き上がらせると、肩を貸してそのままくるりと踵をめぐらし――

「あ、日向くん!」

 霞から逃げた。


 とはいえ、有樹は走ることはおろか歩くことも出来ないようだったから背負うことにした。普段身体を鍛えていない俺は女の子一人とはいえ背負うのは結構苦しいものがあり、歩くことは出来ても走ることは出来ない。

「はぁ……はぁ……くそっ、なんだあいつは……一体……なんなんだ?」

 有樹の体重は五十キロないくらいだろうか。それは決して軽いものではない。俺の息はあっという間にあがり、逃げる足取りはすぐさまよろよろと頼りない物になる。

「ぐ……はぁ……はぁ……」

 でも背中から有樹の苦悶が耳に伝わる度、俺は根性を振り絞って一歩、また一歩と霞から離れるべく歩を進めていく。

「大丈夫だゆき。俺が守るから。必ず守るから。しかし……」

「無駄よ」

 霞が――目の前にいた。

「な!?」

 後ろから追いつくというなら不思議なことはないし、横から声をかけたり、あるいは回り込んだりするなら俺も驚かなかった。所詮女の子を背負っての逃亡だ。追いつくことなど幼稚園児でも出来る。

 しかし突如として目の前に出没したのには流石に驚愕を隠せなかった。

 いきなり出てきたのだ。まばたきしたらすぐに。俺は有樹を落とさなかったか後で不安になるほどだった。

 心臓がばくんばくんと強烈な鼓動を奏でている。

 なんだ、この女は? 一体何者なんだ!?

「あ、あっち……」

 有樹が大通りの向こう側を指さした。車道を突っ切れということか。 

 しかしそれよりも有樹が反応を示してくれたことが嬉しかった。有樹はまだ行ける! そう思わせるには十分だったからだ。

「あ、ああ! 有樹、まだ大丈夫だな!」

「うん……」

 有樹の返事。ただそれだけのことなのにあまりにも嬉しくて、涙すら出てきた。雨ですぐさまかき消されるけど、それでもやはり雨粒とは違う暖かい雫は、俺の心を燃え上がらせてくれる。

 雨と桜と絶望の街にも車は往来しているが、ごくわずかだ。都会とは思えないほど少ない交通量。せいぜい三十秒に一台車が通るか通らないかといった割合だ。歩きでも横切るのは容易い。俺は片道二車線の大通りに足を踏み入れ、向こう側をめざした。

 だが――

「無駄だってのにね」

 やはりまばたきした刹那に霞は目の前に出没する。まるでびっくり箱。あまりの唐突さに俺の心臓が怪しい鼓動を鳴らす。不整脈になでもなってしまったかのようだ。息苦しい。頭がぼーっとする。ふらつく。

 でも、めげずに方向を変える。この際車道を突き進んでも構うものか。

「くそ! なら!」

「無駄」

 でも、霞は現われる。回り込んで欲しかった。後ろから掴んで欲しかった。それならリアルだからだ。現実的な行為として俺は認識できる。

 しかし霞はいつだっていきなり洗われるのだ。目をぱちっと閉じたその一瞬で。

「なんで……どうして……」

 人間だからまばたきをしない、なんてわけにはいかない。ずっと目を開け続けるなんて不可能だ。そしてただ一度でも目を閉じたら、霞は眼前三十センチくらいの距離に出てくるのだ。

 幽霊だってもう少し遠慮するだろうに。

「逃げられないわ。落ち着いて、日向くん」

「霞……お前は……何者なんだ!? どうして俺たちにつきまとうんだ! そもそも有樹に何をした!?」

 俺の悲痛な叫びに、霞はふぁさっと前髪を梳いて見下ろすような視線を向けてくる。彼女は雨に全く濡れていなかった。背丈も俺より二十センチくらい低いのに、酷く高い所から見つめているような視線がアンバランスで腹立たしい。

「その有樹という子に消えて貰い、日向くんにはこっちに来て貰う。それでわかる?」

 そう言って霞はスカートのポケットに手を突っ込み、そして――刃渡り二十センチはあろうかという巨大なナイフを取り出し、刃を俺に向けた。

 ナイフもまた雨に打たれなかった。まるで幻のようにすり抜けていく。けれど、あの刃物が俺たちをすり抜けるこけおどしには見えなかった。

 明らかに殺傷性を持つ凶器としての威圧感と迫力を、その鈍色に輝く鉄の塊からひしひしと感じられたのである。

「お、おい……なんだよ、その手にあるの……」

「あ……ぅ……」

 有樹は危険な状況にある。早くなんとかしないといけないのに――

 ああ、でも。今の俺に出来ることなんて、ただ盾になることくらいしかない。

 それでもいいかと俺は覚悟を決める。霞に刺され、殺されることになろうとも俺は有樹だけは守ろうと、逆に霞と密着するほど接近してのけた。

「有樹に指一本振れさせない」

 霞のナイフが俺の腹に触れた。プスーッとした感触。やはり雨をすり抜けても、俺たちはすり抜けない性質をもっているようだ。どういう原理だ。現代物理学に反旗を翻している。

「はぁ……う……あ……はぁ……く、うぅ……」

 ならばと、俺は差し違える覚悟でやつの首を噛み千切ってやる。そう思って首を蛇のように突き出し、霞ののど元をがぶりと噛んだ。

 女の子の艶やかな肌の感触、ぬくもり、そして雨で濡れていない不可思議さがいっぺんに俺の口腔を通じて全身に伝播していく。

 ただ、霞はまるで動じていなかった。

「それで私に対抗するの? 勝てると思うの? 抵抗しても無駄よ」

「そんなの、やらなきゃわからないだろ」

 俺はのど元に食らいついたまま言った。

「わかるわ。こんな風に、ね!」

「な!?」

 霞が消えた。また。忽然と。これで四度目だ。

「な、なんだ、なんなんだこのガキは!?」

 どこだ、どこに行った? 見えない。わからない。俺はぐるぐると回ってみせるが、霞はどこにもいない。

「ガキ? 私が子供に見える? この格好で?」

 声は聞こえて来る。後ろからだ。

 振り向く。しかし霞の姿はなかった。

「どう見ても中学生だろうが。ガキだ」

 俺は震えながらもそう悪態をついてみせるが、霞がいないこと。なのに声はあることにどうしようもない戦慄を覚える。

 対抗できないということ。抵抗する手段がないということ。それが絶望となってのしかかってくるのだ。

「中学生ってガキなのね。まあいいわ。そんなことどうでもいいし」

 ぞくり。

「うわぁっ!」

 俺は慌てて有樹と同時に前のめりに倒れた。すぐ頭上からひゅっという空気を切り裂く音と、ナイフがちらりと見えた。

 顔を上げると霞がいて、ナイフを突いたのだろう、まるで空手の中段突きのようなポーズのまま、じっと俺たちを見下ろしたのだから。

「観念なさい。大丈夫。すぐ終わるから。痛くないから」

「く――そ――」

 もはや、これまでか。

「はぁ……う、う……ぐ……あ……」

 有樹の息は荒い。霞はナイフを逆手に構える。突き下ろすつもりか。

「有樹……」

 転がるか、起き上がるか、あるいは身体をひっくり返して盾になるか、どっちにしろ霞の殺傷圏内は変わるまい。霞は有樹を殺す。俺はそれを防ぐ手立てがない。

 まるで将棋でいう必至のような状況に、ぎゅっと歯がみすることしか出来なかった。

 霞はナイフを下ろす。終わりだ。もう、終わるのだ。

 ――と、その時。


「間に合ったわね」


 ぎゅっと、ナイフの刃を握りしめ、音居さんが俺たちを守ってくれた。

「え? お、音居……さん?」

 ぽたぽたと右手から血を垂らしながらも誇らしげに笑う音居さん。

 俺は彼女をただの狂った少女としか思っていなかった。デタラメで、電波で、頭のおかしい電子レンジ部品店の店員でしかないと。

 だが今の音居さんは、まるで救世主かヒーローのようにまばゆく映ったのである。

「え? 何? どうしたの日向くん」

 霞は音居さんを見ていなかった。相変わらず俺にだけ視線を向けているが、ナイフを止められたことが信じられないようで、初めて彼女は表情を変えた。

 目を見開き、ぽかんと口を開け、いかにも呆然といった感じ。

 それが酷く人間らしく映って、なんだか滑稽だった。

 音居さんの手からは血がとめどなく溢れている。ナイフを思い切り握りしめているのだ。当然だろう。だが彼女は痛がるそぶりすら見せず、ただただ誇らしげに、

「ここは私に任せて。いえ、逃げられないわ。私の後ろにしっかりついていなさい。離れてはダメよ」 

 そう言ってくれた。

 彼女はこんなにも頼もしい人だったなんて。俺は評価を改めなければならない。いや、まずは音居さんの言う通りに後ろに行くべく、ゆっくりと有樹を担いだまま立ち上がった。 

 その間にも音居さんは霞に攻撃を加えていた。彼女のみぞおちに前蹴りを食らわせ、ナイフを奪い取ったのである。

「この女は破壊者! 終末的自殺提供者なのよ! 今すぐ殺さないといけないの! 殺さないと! この恐るべき波動放射性降下物質を抹殺的撃砕をして滅菌滅殺しないとダメなのよ!」

「…………」

 霞はお腹を押さえそして初めて――俺ではなく、音居さんに視線を変えた。

 ついにやつが俺以外の人間に興味を持ったのである。それは小さな感動であった。

 だが音居さんはそんな隙を逃さなかった。奪ったナイフの柄を血に染まっていない左手でしっかと握りしめ、霞の首を狙って横一文字に振ったのだ。

「な……!? 抵抗するつもり?」

 間一髪で躱した霞がうざったそうに眉間に皺を寄せる。激しい動作をしたことで彼女の長い髪がさらさらと棚引く。雨が降っていながら雨を吸い込みも弾きもしない不思議さが、酷く幻想的に見えた。

 音居さんが振り返らず叫ぶ。

「絶対に耳を傾けないで! 私についていなさい! この恐るべきヒトガタ波動生成装置を解除してみせるわ!」

 そう言って今度は心臓を狙って突く。

「はあああああっ!」

 気合一閃とはまさにこのこと。霞は大きく横に飛び、それを防いだ。

 すぐさま音居さんは身体をひねり、彼女の側頭部に回し蹴りを決める。

「死ね! 恐るべき世界の破壊者め!」

 音居さんは凄かった。そして強かった。感動的なまでに頼もしく、俺の心をドキドキと効用させてくれる。

 ただ、一方で情けなさも芽生える。女の子があんなに頑張っているというのに、俺は何も出来なかった。逃げることすらだ。

 プライドが、深く俺の心を傷つけた。

 と、霞が肩をすくめ、やれやれと首を振る。

「く……ダメね。今日はお開きにしましょう。また次回ということで」

「させないわ! 私がここで……殺す!」

 音居さんのナイフが霞の脇腹に突き刺さる。

 しかし血はしたたらない。崩れもしない。ただ、霞はまるでその名前のように消えていった。

 それを見て俺は興奮状態で訊ねる。

「やったのか!?」

 音居さんは悔しそうにナイフを地面に叩きつけた。

「くそっ! ダメだったわ! あの女の破壊波動が残っている! もう少しだったのに!」

「つまり」

「また来る、ということよ。危険なことね。この平和な雨と桜と絶望の街に恐るべき侵略者が現れてしまった――」

 そう良い、音居さんは振り向いた。疲れ切っていて、悔しそうで、でもどこか誇らしげな顔。

 右手から溢れる血など意にも介さない。俺は有樹を背負っているから何も出来ないけれど、ただ「ありがとう」と深く頭を下げ、顎で音居さんの右手を示した。

 音居さんは大丈夫よと言わんばかりに微笑みながらぶんぶんと右手を振る。血が飛んだ。でも俺は何も言わない。あの血は俺を助けるために負った傷だからだ。

 と、有樹が俺の背中から下り、もう大丈夫と背中をさすってきた。

「あ、有樹!」

 振り向くと、そこにはいつもの有樹がいて、申し訳なさそうに頬を染め、ぺろっと可愛らしく舌を出してはにかんだ。

「うん、大丈夫。落ち着いたよ……え、えへへ」

 俺の瞳からとめどない涙が溢れる。そして「有樹! よかった!」と歓喜の声を響かせてから、改めて音居さんに向けて、深々と頭を下げた。

「あ、あの音居さん! その、ありがとう」

 音居さんはスカートのポケットから包帯を取り出し、右手ぐるぐると縛り付けながら、

「どういたしまして。でも、まだ終わりじゃないのよ」

 そう、重苦しい音吐を雨と桜と絶望の街に落とす。

 ざあざあと、雨だけが無遠慮に強く鳴り響いていた。

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