楽園(2)

 それ以前は――考えない。

 何故なら雨と桜と絶望の街に来る前の記憶はかなり朧で、学生だった頃の記憶や、親の記憶は一切思い出せないからだ。それだけじゃない。いつこの街に来たのか、どうして来たのか、どうやって来たのか。その全ても思い出せない。

 俺の記憶はある日突然日常が始まり、有樹と共に電子レンジを組み立てるということだけだった。

 そして有樹が幼なじみであること。これだけはインフォメーションとして認識している。幼い頃の記憶がないのだ。ただ細胞が、脳みそが、魂が、鳥川有樹は幼なじみだと訴えていて、有樹もまたそうだと言ってくれているから信じているに過ぎない。

 そして有樹だってこの街以前の記憶はない。俺と同じなのだ。

 関係としてひどく希薄で危うい。

 そこまで考えて、俺ははっとなる。有樹が不安そうに俺を見つめていたからだ。短く切りそろえた黒髪がさらさらとなびき、僅かに首を傾げたのを伝えさせる。

「大丈夫。日向には私がいるから」

 泣きそうで、けれど真剣な有樹の言葉。

「有樹……」

「大丈夫。落ち着いて」

「あ、ああ……」

 そうだ。俺には有樹がいる。それでいいじゃないか。それだけでいいじゃないか。

 何も考えるな。何も思うな。ただこの雨と桜と絶望の街で楽しく暮らしていれば、それで幸福なのだから。

 そこに意味はないし、理由もない。必要がないのだ。

「はい、落ち着こう。深呼吸して。私のぬくもりを感じて」

「ああ。すうー、はぁー……すぅー、はぁー」

 有樹の言い分に従い、俺は深呼吸をする。脳に酸素が回ってきて、心が安定してくる。

「落ち着いた?」

「なんとか」

 俺は胸を押さえる。とくんとくんと安定した鼓動を伝えてくれる。大丈夫だ。何も恐れる心配はない。

 昔のことなんて考えるものではない。有樹を不安がらせるだけだ。何も良いことがない。

 と、有樹が俺の両肩をがっしと掴み、強い視線を向けてきた。

「生きるって辛いよね」

「どうした有樹? 急に」

 俺は有樹の手をほどき、襟元を正す。

 有樹は前髪を梳いた。

「毎日毎日、色んな事が起こってもさ、結局の所、根っこは同じだよね。ご飯を食べて、トイレに行って、眠る。それの繰り返し。その間に何か違いがあったとしても、これは死ぬまで変わらない。そしてその変わらないものを繰り返すためだけに、私たちは生きていて、その間に辛い思いや苦しい思いを受け入れなければならない。おかしいね」

「そうだな。そして人類という種を存続させるため、子供を残す」

「種が残ることに意味ってあるのかな?」

「…………」

 俺は黙った。黙って世界を見つめた。

 雨が降り、桜咲き、ビルが並ぶ。それだけの陳腐なハリボテ。道なんか一つしかなく、迷う心配すらない。探索する所もなく、このビルは全て雑居ビルなのだがコンビニもなく、スーパーもなく、当然おしゃれな商店などは一つもない。

 店といえるのは一つだけだ。雑居ビルの一階を浸かった薄暗い店。 

 それはまるで人生の無意味さ、つまらなさ、不要さを世界全体で体現しているかのようで、何というか、心細かった。雨がひゅん、と傘の隙間を塗って頬をかすった。

 と、有樹がすっと指を突き出す。

「あ、ついたよ」

「ああ、電子レンジ部品専門店『トリキアース』」

 この雨と桜と絶望の街においてただ一つ『店』と言えるもの。

 トリキアース。ギリシャ語で『鰯』を意味する言葉だが、それとこの店と何の関係があるかは不明である。

 いや、それ以前にだ。

「電子レンジの部品だけ売るお店なんて、やっていけるのかな」

 有樹が頬をひくつかせながら言った。

 俺は苦笑し、肩をすくめる。

「さあ? でも少なくとも客はここにいるわけで、この雨と桜と絶望の街には必要なんじゃないか」

「不思議だね。雨と桜と絶望の街」

 有樹はそう言って傘を閉じ、店の中に入っていった。

 俺も後に続く。雨と桜と絶望の街に存在するたった一つだけの商店。ギリシャ語で『鰯』を意味する得体の知れない店、電子レンジ部品専門店『トリキアース』へと。


 トリキアースの店内はひどく狭苦しく、そして薄暗かった。

 電球はついておらず、外の灰色から差し込むわずかな光だけが店内を照らしている。

 埃臭くて得体の知れない電子製品が棚一面を覆っており、歩くスペースは二帖あるかないかくらいでしかない。

 店内は長方形で、両端と真ん中に棚があり、そこに商品が無造作に陳列している。どれがどういうパーツなのか俺にはさっぱりわからない。電子レンジを組み立てているからわかりそうなものだが、見たこともない部品が多すぎて理解できないのだ。

 そして部屋の右奥にちょこんと小さなレジがあって、パイプ椅子んじ腰掛けている女の子が――

「こんにちわ」

 有樹が挨拶をし、女の子が顔を上げ、眼鏡をくいっと直した。

「来たわね」

 彼女は音居なや。この店の店主であり、雨と桜と絶望の街において俺と有樹に感心および接触を図る唯一の存在だ。

 白いYシャツに黒いジャンパースカート。そして黒ボレロという、制服としても中々珍しいスタイルで、緑がかった髪をポニーテールに結ったその様は高校生というよりは中学生的だ。

 ただ顔つきや体格はそれなりに大人で、俺たちと同年代。つまり高校生くらいに見えた。勿論実年齢は不明だ。厚手の眼鏡をかけていて、その奥からはどこか猛禽類的な鋭い瞳を光らせている。

 彼女は敵ではないし、敵意も感じられない。ほっそりとした顔は比較的温和で、その表情はいつだって純真無垢を体現していた。

 そう、純真無垢、だったのだ。

「いらっしゃいも言えないのか」

 俺は呆れながら肩を下ろす。

「ああ、悪かったわね。いらっしゃい」

「……まあいい。パーツを買いに来たんだけど」

「いいのが揃ってるわよ。これとか」

 音居さんはパイプ椅子から立ち上がり、棚から得体の知れない万力みたいな鉄の部品をつきつけてくる。

「何コレ?」

「それはマイクロウェーブの掃射を効率的に行うための方向指定強烈な頂点伸縮を可能とする三十掃射転換性質を持つビビビ・エナジーよ」

「なんだそれは……。というか日本語を話してくれ。理解できない」

「たとえばコレなんかはリフレクト・三造現象による宇宙線が放射されてね、レカンダの上昇性放射能が波動状態の垂直上昇を可能にし、それによる効率的なシェイプが――」

「いや、だからさ」

 そう、彼女は純真無垢だ。

 狂気的に純真無垢だったのだ。

 人間としての範疇を超えて、電波的とでも言うべき異質な世界の価値観を俺に突きつけてくる。目はきらきら輝いていて、凄く純粋だった。

「たとえばチトテ理論における開放性方程式は常に一定のパルスを必要としているのだけど、それを実現するための技術が未だこの避雷的構造弁でしかあり得ない訳ね。それはつまり第八ケーブルの接続が麻痺してるってことなんだけど」

「わかった、もういい。それを買う。あと足りなくなったパーツでこれも買おう」

 正直俺は彼女が苦手だ。かなり苦手だ。理由は言うまでも無い。こんなデタラメな女に好意を抱く余地などあろうはずがないからだ。

 しかしそんな俺の気持ちを音居さんは理解していないようで、

「まいどありがとう。あ、それを買うならついでにこの茶論空性的前方隔離の精神放射を可能とする、ケーブリック・マイクロストクラムの態度を如実に表すこれなんかどうかしら? これはね、淵源的方向における瑕疵乖離が排他性排除率を飛躍的に向上させて……」

 そんな奇妙奇天烈奇々怪々な言語を機関銃のようにまくし立てる。

 俺はため息を一つつき、ぽん、と彼女の腕を軽く叩いた。

「おい、聞けよ」

「おっと、そうね。買ってくれるのね。ありがとう。また来てくれると嬉しいわ。まるで改訂転輪における水中豊穣性質の丘陵がワイド・ワールドを編纂しているようじゃない。うふ、うふふふふ!」

「気色の悪い女だ」

 俺は心からの感想を言の葉に載せ、一歩後ろに下がった。

 すると音居さんは。はは、とやけに純朴な笑みを浮かべながら肩をすくめる。

「仕方ないわ。私はこういう女なのだから」

「…………」

「うひ、ヒッヒヒヒ」

 帰ろう。俺はそう思って注文した商品をレジ前に放り出し、そのまま背を向けようとすると、

「ああ待って」

 ぐっと、音居さんが俺の腕を掴んだ。

 それを心底気持ち悪いと思った俺は強引に引きはがし、とっとと袋を詰めろという意味でとん・とん・とんと三回レジをつつきながらため息交じりに問うた。

「……今度はなんだ。また狂ったことを言うのか?」

「もうすぐ、侵略者が現れるわ。恐るべき侵略者。世界を破壊に導く者よ。でもそれは一人じゃないの。いえ、破壊者は一人なんだけど、侵略者は二人いるのよ」

「……あ?」

 それはいつもの狂気会話ではなかった。ウルトラチープな言い方をすれば『予言』のようだった。普段の俺ならば鼻白み、相手にもしないだろう。

 だが今の予言だけは得体の知れない重み、澱み、そして迫力のようなものが伝わって、俺の背中に得体の知れない寒気すらもたらした。

 音居さんはパイプ椅子にこしかけ、眼鏡をくいっと治しながら、

「忘れたければ忘れればいいわ」

 そう言って注文した商品の袋詰めを始めた。

 しかし今回ばかりは俺も気になり、一歩だけ前に踏み込む。

「世界を破壊に導くって、どういう意味だ?」

 だが――音居さんは俺の目を覗き込んで、

「私、何か言った? いつまでそこにいるの? 早く帰れば?」

 そうぺろっと舌を出した。

「あ?」

 まるでバカにされたかのような反応に俺は眉間にしわを寄らせる。

 今の嘘だったのだろうか。そうは思えず、俺はもう一歩だけ前に出た。だが音居さんは目を閉じ、肩をゆすりながら、

「ヒフ、ウッヒヒヒ」

 と気の触れたような笑い声をもらし、すっとビニール袋を尽きだすだけだった。

「…………」

 言いたいことはある。山ほどある。しかし、もう音居さんは答えてくれないだろう。

 すると、ちょいちょいと有樹が俺のブレザーの裾を引っ張った。

「返ろう、日向」

「あ、ああ」

 俺は音居さんからビニール袋を受け取ると踵をめぐらした。

 ただ、首だけは未だ音居さんの方を向けて、

「…………」

 じっと、沈黙を語りながら彼女の答えを待った。

 普段ならこんな気持ちは抱かない。ただただ俺と有樹に嫌悪感を抱かせるだけの意味不明な言動しかしないのだ。時折気色悪さが臨海を超えて恐怖心に発展することはあるが、それだけだ。音居さんの無害さと言える。

 ところが今の予言は意味深だった。トチ狂った言質のはずなのに、不思議な響きを持っていた。だから返事を聞きたいと思ったのだが――

 音居さんはもう、何も言わなかった。 


 意味不明極まる会話をすませ、部品をがさっと無粋なビニール袋に詰めて貰うと俺たちはそそくさと店を後にする。金は払わない。払ったこともない。なのに何故か音居さんは一度として文句を言ったことがなかった。

 そもそも俺たちは金を持っていない。住んでいるテナントだって一円も支払っていないのだ。

 でも生きていける。金がなくても生活出来る。

 有樹だって金はないはずなのに一度も困った姿を見せたことがないし、実際困ったことがない。

 なんとも不思議な街。理解の範疇の外としか言いようのない世界。

 でも、それが俺たちの世界。そこに疑問を持つ必要も余地もなかった。ビニール傘をばさっと広げ、ぼたぼたと小気味いい音を奏でながら、

「さて、パーツも買ったし、再開するか」

 そう有樹に話しかけた。

「手伝うよ」

「ありがとう」

 俺は礼を言い、二人仲良くテナントへと戻るのだった。


 テナントに戻ったら傘を階段そばに置き、早速とばかりに作業を再開する。

 それからはしばし無言で電子レンジを組み立てていく。何で電子レンジなんか作っているかまるでわからない。

 まるで呼吸するように、そこに意味を見いださず、ごく自然に、黙々と。

 それは生きているのなら当然とばかりに。

 俺も有樹も何も言わない。工具を取る音。配線をいじる音、マイクロウェーブを設定する音、ガラス戸をはめ込む音。そして窓の外から雨音。

 様々な音は鳴り響き、重なり合い、複雑なハーモニーを奏でていくが、ただ俺たちは何も言わず、作業を続けていた。

 何故何も言わないのか。別に有樹が嫌いであるとか、話すことがないとかではない。まして電子レンジ作成に集中したわけでもない。

 なんとなく、だ。

 そこに理由などない。喋る理由があるなら喋っているし、話す目的があるなら話している。

 それがないから黙っているのだ。

 まばたきは普段何も自覚することなく無意識に行う。まばたきしているんだと意識して初めて人はこの行為に対し意識を移行させる。

 理由だ。あることには理由があるが、ないことに理由はない。

 黙っている。そんなないことに俺たちは何ら理由を見いだしていない。

 ただ――だとするのなら、話す理由があれば、俺にしろ有樹にしろ会話を開始させるということで、俺としてもいい加減沈黙が息苦しくなって、

「なあ、有樹」

 そう声をかけた。

 有樹は「何?」と首を傾げつつ視線を向けてくる。

 特に話すことがあるわけではなく、ただ沈黙が鬱陶しくなっただけなため、いざ声をかけても何を話したらいいか思いつかない。

 とはいえまた黙るのは得策ではないと考え、いくらか思考を巡らした末、さっきの話の続きを再開させることにした。

「種を残すことに意味はあるかなって話したじゃん?」

「したね。それが?」

 有樹はがちゃがちゃと工具をいじり、エアーガンをバルブに繋ぎながら問う。もう俺の方を見てもいない。

 俺はそれでいいと自身もモンキーレンチを手に取り、有樹の方を見ることなく自分の作業――ガラス戸の装着に取りかかりながら話を続けた。

「それは歴史を守るためじゃないか? 人類がさ、存続している。自分たちがありうる、その歴史に一ページを記していくという行為」

「何それ? だったら人間以外はどうなの? ありとあらゆる生物は種を存続させるよ?」

「だからさ、それが生物の根本っていうか目的、あるいは幸福なんだと思う。存在しているという証を残すこと。存在を侵略されないこと。存在を永遠にすること」

 俺はそう言い、ガラス戸の調整を行う。しっかりハマらないといけないため、モンキーレンチを使ってしっかりとキツく固定する。

 一方で有樹はエアーガンを使い、埃を払いながら呟く。

「永遠……か。つまり世界に自身の種が君臨する、自分が存在していた世界を守ることが、自分の存在を保全する証明だってこと?」

「そう。そしてそこに人は幸福を見いだす。だってさ、本質的に人類って不要だろ? 地球から人類がいなくても地球は困らない。じゃあ誰が困るっていったら、人類だ。でも、人類自体は存在しなくても実は人類だって困らないんだ」

 よし、ガラス戸はこれでいいだろう。次に電子レンジの蓋のちょうつがいの調整だ。俺はモンキーレンチを工具箱にしまい、代わりにトルクスドライバーを手にとって、ちょうつがいのねじをくるくると回していく。

 有樹はあらかた埃を払い終えたようで、エアーガンを外し、箒で飛び散った埃をさっさとかき集めながらふう、と息をついた。

「そうだね。人類が絶滅しても、人類は困らない。ただ、イヤなだけ」

「そう、イヤなんだよ。自分らの存続がなくなることが、自分らが地球に存在していた、君臨していたという現象が否定されるのが、だから種を残すんだ」

 俺はそう言い、ちょうつがいがしっかり固定されたかゆすって確かめる。よし、バッチシだ。

 一方で掃除を終えた有樹が箒を柱の裏に置き、ゆっくりと俺の元まで寄ってくる。

「自分らが存在していることそれ自体が幸福だから、人は生きている。そういうことなのかな? 本質は」

 俺は作業の手を止め、有樹の方を見て、

「そうだな、人生というのは、そういうことなのかもしれないな」

 そう言いながらどこか重苦しいため息をついた。

 窓の外は絶えず雨がざあざあと鳴り続ける。テナントの中はひんやりとして少し肌寒い。

 会話内容もろくでもないものだ。建設的な意見の開陳というものが全くない。ただくだらない人生論をふりかざしているだけに過ぎない。

 限りなく無為で、果てしなく無意味で。

 でもこれが――俺と有樹の日常だった。

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