世界交錯(4)

 何もかもがもうどうしようもない。全ては終わったのだ。

「どうすることもできねえのかよ……」

 イズミルはうわごとのように独り言を続ける。

「俺は所詮、主人公の器じゃなかったのか……イニジエみたいに、雄々しくなれない、卑しい木っ端……」

 そして、仰向けに寝転がり、観念したように大の字を取る。

「はは、主人公か。なんて大層な夢を見たんだ俺は……」

 涙声なのが、あたしの胸をずきずきと苛んだ。

「イニジエは勝てもしないくせにあんなに頑張ってるのに、俺はただ見てるだけ……みっともねえなぁ、情けねえなぁ」

 そんなことないと言ってあげたい。あげたいが――無理だ。

 紙様の仲間にすることで一時的にイズミルは主人公の地位を得た。本人はそれに納得していなかった。その理由は、これだ。ついに判明した、イズミルの正体。

 弱いのだ。

 主人公は強い。圧倒的に強い。身体能力じゃない。心がだ。

 古今東西主人公というものはどれだけヘタレても、どれだけウジウジ悩んでも、どれだけ優柔不断でも、肝心な所だけはちゃんと動くのだ。何故ならそれが主人公の器だからだ。

 この器を、イズミルは持っていない。だから上っ面だけ主人公っぽくさせても、心が承知できないのだ。

「く、ぐわあ!」

 そしてその器を持つイニジエは、衝撃波に吹き飛ばされ、ついに魔王の暴力に屈しようとしていた。

「くそ……魔王め、なんて強さだ……俺の剣も魔法もまるで通じない」

 泣き言が、主人公たるイニジエの口からすら出てきてしまう。

 その変化をアレート様は敏感に感じ取った。

「通じるわけがない。村人Aがモンスターを倒せるか? 倒せない。それと一緒だ。イニジエは今やただのモブだ。主人公じゃないんだよ。無論、他の連中もね」

「あいつか、あれが、アレートってやつか……けっ、鼻持ちならねぇ」

 そうか、今までは声だけだったものな。横になって初めてその姿を確認したか。

「俺はあんなやつに、弄ばれてるのか……」

 悔しそうで、情けなさそうで、でも、どうしようも――

「いや、そうじゃねえ。考えろ……考えるんだ、何か……」

 いや、その心にわずかな灯火があった。

 それは主人公の器? いいや違う。イニジエに対しての気持ちと一緒。

 ――この世界を焼き尽くす炎にも匹敵する、嫉妬という感情だった。

 でも、それでいい。その嫉妬で立ち上がって欲しい。

 あたしは根性を振り絞り、人差し指を天に。

「イズミル……くっ、あたしの地の文で……」

「無駄だ」

 文字が――でない。いや、それだけじゃない。




 イニジエにはもう対抗手段は残されていなかった。

 魔王マジクタの圧倒的な力の前にあらゆる剣技もあらゆる魔法も通用しない。絶望だけが鉛のようにのしかかる。

 だが、それに抗うことはもうできなかった。




 これはあたしの文じゃない。

「あ、あたしの地の文を!」

 がばっとあたしはアレート様を見上げる。彼はそれに気づき、ふんっと鼻で笑った。

「僕にだって地の文は紡げる。君は絶対に勝てない。魔王を倒すことは不可能だ」

 く――地の文すら、通用しないだなんて!

 終わりだ。世界設定は破壊され、第四の壁も掌握され、これでどうしろというんだ?

「そら、火が回ってきたよ。そろそろ死ぬときだ。諦めてイズミルとキスの一つでもしたらどうだ? 好きなんだろ?」

「っ! アレート様……っ!」

 悪魔め……っ!

「さあ、もっと火を吹け、大地を溶かし、海を飛ばし、空すらも炎で覆え、魔王マジクタ!」

「グオオオオオオオ!」

 あたしは必死に頭をこねくりまわす。

「何か……何か手立ては……」

 でも、何も浮かんでは来なかった。

「イズミル……ごめんねー。もう、ないよ……地の文も、台詞も支配されて、イニジエの主人公補正も切られて、イズミルだって改行できない……もう、無理だよ」

「無理……か。そんなの……」

 イズミルは燃える大地に寝そべったままちらりとイニジエに視線を移す。

「くっ、まだまだっ!」

 イニジエは気力を振り絞り、再三魔王に立ち向かっていった。

「イニジエが主人公してるのに、無理なんて――」

 それを見て、イズミルは。

「言えるわけ、ねえじゃねえか」

「でも……」

 あたしは何か言いたい。でも、思いつかない。

「うち、もうメガトンわからないです。どうしたらいいの?」

「わたくしにも、どうにも……」

 スミルナもリアンも同じ。あとは仲良く炎に巻かれて世界と共に死ぬだけだ。

 思えば短い人生だったな。いや、もう一回死んだけど。

 いじめられっ子が願う、いじめのない世界の建設。それはついに果たされなかった。 

 アレート様という、いじめっ子のせいで。

「……あ? 改行?」

 と、その時。イズミルが勢いよく身を起こした。

「この改行は……」

 何が言いたいのだろうか? もう世界は全てアレート様に掌握されたのに。

「アレート様の改行でしょ?」

「ちょっと 待て」

「ん? どうしたのー、変な所で空白なんか……え?」

 空白? 違和感が、生まれた。

「あいつ、俺の能力……」

「どうしたのー? まさか」

 違和感が、膨れあがってゆく。イズミルは立ち上がりアレート様に向けて大声を上げた。

「おい、アレート!」

「ん? やあモブキャラ。どうしたんだい?」

 まるで路傍の石でも見るかのような視線。

「ちっ。いちいち癪に障る野郎だなてめえは。俺の能力を封じたって言ったな? どうやった?」

「そんなの決まっているだろう。改行能力を消し去った。君に改行はさせない」

「お前この世界、どこから見てた?」

 イズミルが慎重に訊ねる。まさか……まさかまさか!

「ん? 弥美たちは劣等生だったから、最初のゴタゴタで見るに堪えなくて放置して、ナイリスの町を君が消し去った所からだが、それが?」

 ナイリスの町。それを聞いて、イズミルはにやりと悪魔めいた笑みを浮かべた。

「そうか。そういうことか……だから。お前、俺から改行取っただけなんだな?」

「くどいな。まさかバグを期待しているのか? 改行できない君にバグは生まれない。そうだろう?」

「そうか、お前知らなかったんだな」

「何が?」

 知らない。アレート様は知らない。イズミルの能力の正体を知らない。

「俺の魔法をお前ら紙様は改行改行言ってるが、これは改行じゃねえよ」

「ん?」

 そう、イズミルの魔法は改行じゃない。あくまでも改行が出来るから便宜的にそう言ってきただけだ。そのことについても彼は不本意だった。

 だってそうだろう? 何故なら彼の魔法とは――

「磁場を発生させる魔法だ」

「磁場。つまり改行だろう? 何を――」

「だったら教えてやる。イニジエ」

 イズミルは手を前に出し、イニジエに声をかける。

「な、なんだこんな時に!」

 はぁはぁと荒い吐息を漏らしながらも必死に剣を構えているイニジエが鬱陶しそうに首を向けた。そんな彼に、イズミルは言い放つ。

「お前から、主人公を奪う」

「はぁ!?」

「主人公は、俺のものだ」

 そう、今こそイズミルは主人公になれる。何故なら、アレート様は勘違いしていたから。

 いかに優れた執筆者も、設定を間違えてしまえば適切な運用は不可能。

 アレート様は力の迷邦者。最高レベルの紙様。でもその中身は――元人間。

 つまり彼の深謀遠慮自体は、神聖な領域にはないのだ。

「行くぞアレート、魔王マジクタ。俺の魔法を見せてやる」

 イズミルは――その間隙をえぐるように、発動する!

「無駄なことを。改行……改行? はっ!」

 そこで気付いた。流石はアレート様。賢い。でも――

「遅            い」

「こ     れ     はしま          っ た    !」

「く、 空 白!」

「あ     あああ! うち、メ ガトン 失念 して た       です!」

「俺      の   魔法は       磁場を、   歪める   断 じ て    改行じゃねえ     これ   は  改行じゃ   ねえ!」

「空白! そうか、こ       いつ改行       だけでなく……だ   がそんなの今   すぐに切れ  ば……」

「だ  から空白  でも ね え。磁場だっ てつって   んだ ろ!」

 激 昂   す   ら   意味不明   。

「俺              の魔法は              、磁         場                  を            作る魔法。改                行           でも、空            行           で        もねえん         だ               よ       っ!」

「く                             空                   白の                       幅が       広が                    っ    て」

「世                                 界           が          な    ん       だ」

「バグ                                    れ                              、  世界!」

「させない!」

 アレート様が慌てて腕を凪ぎった――瞬間、世界は修復される。

「ふう、空白も切った。そうか、改行せずとも空白だけで改行を再現したか。失念していたよ。てっきり改行だけかと思っていた。よく考えれば文字単位が浮くのは空白の仕業だったな。改行だけだと文字は上に浮かぶだけだ。僕としたことが、君たちがあまりにも改行改行言うからすっかり騙されてしまったよ。ん?」

 違うんだよアレート様。空白にしろ改行にしろそれは磁場を歪めた結果でしかない。

 磁場を歪めるという行為それ自体に意味を成すのであって、空白に気付かず改行だけを削除した時点でもう詰んでいるだ。

「もう、遅い」

 イズミルが笑う。どこまでも笑う。

「何がだ?」

「イニジエはよ、主人公の器なんだよ、元々」

「それが? ……はっ!」

 また気付いた。本当に素早い。でも、それでもまだ――

「だから遅えっての」

 イズミルの言うとおり。彼はもうバグを自由に操れるのだ。

「磁場を歪めてバグを作った。さすがに三度目、いや四度目か? だいたいバグの作り方はわかった。これで魔王は、バグった」

 そう、原理はあたしにはわかないし、結果もあたしは証明できない。

 でも、何をしたかくらいはわかる。

 イズミルのバグは『消し飛ばす』ことだ。そのバランスにおいて、あたしたちを消すことなく飛ばすこともできれば、町一つを消滅させることもできる。自由自在だ。

 そしてそのバランスをいじったなら、今回消したのは――魔王。

 しかし魔王の姿はある。魔王自体は消せなかったみたい。いや、アレート様がいるから魔王それ自体を消しても何度でも蘇らせることが出来ることを学んでいたのだろう。だから中身を消したのだ。

 チューンナップ補正という、チートを消した!

 そしてイニジエが剣を構え、鉄砲玉のように魔王の心臓に向かって突撃を開始する。

「とああああああっ!」

 それを尻目に、イズミルが声を。

「とどめをさせ、イニジエ!」

「イニジエの補正は切れたままだ……なら、魔王の、魔王の補正まで切れてるだと!?」

 今頃気付いたか。

「そうですか、イニジエがモブキャラでも、魔王もモブキャラなら」

 スミルナも今わかったらしい。

 あたしはとっくにわかってたよ。そのアドバンテージが、ちょっとだけ誇らしい。

 さあ、イニジエは――

「喰らえ魔王! 俺の剣を、受けよっ!」

 アレート様が人差し指を天にかざそうとした――その瞬間。

「魔王補正を直ちに……リアン、貴様!?」

 いつの間にか空に昇っていたリアンが、必死にアレート様の腕にしがみついた。

「ダメ、です。アレート様。うち、許さない。メガトン許さない」

 なるほど、物理か!

 紙様だから、全知全能だから、すっかり忘れていた。

 紙様は紙様には寝食できる。それはあたし達からアレート様も変わらない。そして紙様はその圧倒的すぎる能力故に、能力を最優先で使おうとする。肉体なんてチンケなもの、使いたがらない。能力に心が束縛されている。その隙を、リアンはついたのだ。

 なら、あたしだって!

「あたしも、邪魔くらいはさせて貰うよー」

「わたくしも」

 ボロボロになったスミルナもくわわり、三人がかりでアレート様の万年筆たる人差し指を押さえ込む。

 もっとも――

「無駄なことだ。落ちろ!」

「きゃあ!」

 紙様の力で吹き飛ばされた。まあ、物理の限界はこんなものだ。でも、それでいい。

「どうやら全知全能でも、時の流れ、書いちまったページまでは消せないらしいな」

 イズミルは理解していた。

「万年筆で書いたから、二重線でも引かないとダメか?」

「あ……しまっ……」

 そう、遅いんだよ。何もかも。

 まさかゲームみたいにアレート様のターンまで大人しくイニジエが待ってくれるとでも思っていたのだろうか?

 いやゲームの視点でもいい。今は本来――イニジエのターンなんだから!

「グギャアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 イニジエの剣が、魔王マジクタの心臓に直撃する!

 魔王は、魔王マジクタは――耳をつんざかんばかりの大音声を上げ、サラサラの灰になっていった。


世界を支配していた炎が消え、暗雲も切り裂かれた。魔王が死んだんだ。当然だろう。

「魔王が……魔王が、破れた……」

 アレート様が信じられないといった様子で灰となり空を舞う魔王の末路を眺めている。

 さあ、ここからが肝心だ。あたし達の仕事だ。アレート様がまた魔王を復活させられたらもうどうしようもない。だからその、イズミル。ごめんなさい。

「あーあ、イニジエが魔王を倒しちゃいましたねー」

 あたしは手を後ろに組み、再びふわりと空に浮かんでアレート様と視線を合わせる。

「弥美……君は……」

 魔王が消え、傷もなくなったスミルナも元気そうに続く。

「あー、これであらすじは間違っていませんわね」

「スミルナ……」

 リアンもあたし達の脇に浮き、勝ち誇ったように眼鏡をくいっと直す。

「アレート様。あらすじから逸れてなくて、物語は完結したです、よ?」

 そう、イズミルに謝った理由がこれだ。ここでイニジエを正式な主人公として立てる。

 そうすることで――あらすじは成立するからだ!

 物語が、無事軌道に乗って、世界書を完成させるからだ!

「お前たち。こんな……真似をして……」

 ぷるぷるとアレート様が悔しそうに拳を震わせる。

 そこに、地面からイズミルが声をかけた。

「おいアレート」

 アレート様がぐわっと殺意丸出しの視線をイズミルに向けるが、彼はまったく動じることなくこう言ってのける。

「まさかお前、正当に物語が完結したのに、茶々入れる気じゃねえだろうな?」

 イズミルは理解していた。前々から思っていたけど再認識。

 イズミルって、かなり頭がいい。イニジエなんかよりもずーっとずーっと賢い。

 だからこそ、イニジエを土壇場で主役に戻しながらも、それを受け入れてくれた。

 アレート様を倒すために。あたしは即座にそのビッグウェーブに乗っかる。

「まさか、紙様としての役目果たしたよねーあたしら」

「そうですわね」

「うんうん」

 三者同一の脅迫。アレート様はしばし目を配らせ、黙考していたが、やがてどうにもならないことを理解したのか、はぁ、と深いため息をついて、ポケットに手を突っ込んだ。

「……僕の負けだ。いいだろう。あらすじからは逸れてない。イニジエが魔王を倒した。何も間違ってないってわけか。卑怯ではある」

「お前に卑怯とか言われたくねーな」

「そうだねー」

「そうですわね」

「うんうん」

 間髪入れずに三人の口撃。ひくっとアレート様の眉が跳ねたのを見逃さなかった。

 でもそこはやはり紙様。世界書の完成に口を挟むことはできない。

「わかった。認めよう。この小説の完結を、許そう」

「アレート様」

 あたしは思わず彼の名を告げる。感心という名の、上から目線によって。

 ふと、下で事の顛末をしらないイニジエが不思議そうにうなっていた。

「イズミル、なんのことだ?」

「紙様のことだ」

「神様?」

「字が違う」

「は?」

 わからないだろう。別にいいさ。彼には関係のないことだから。

 と、アレート様が歯を軋ませながらあたし達をねめつけてきた。

「だが弥美、スミルナ、リアン。お前らは減点だ。それは覚悟しておけ」

「はーい」

「承知いたしましたわ」

「うん」

「……もう一度言おう」

 アレート様は一呼吸置いて、

「僕の負けだ。エピローグは好きにしたまえ」

 そう言い放ち、高度を上げて――しかしすぐに浮遊を止め、イズミルを見下ろす。

「だがイズミル」

「あ?」

「君は許さん」

 言ったのはそれだけだった。その後すぐにアレート様は宇宙の彼方へと行ってしまった。

「行っちまった」

「なんだったんだろーね。意味深なこと言ってー」

 まあ、何はともあれ、色々脱線もしたけれど。

 物語は、今、完結した! いや、エピローグが残っているけれど!


 魔王は撃砕され、空には青が戻った。雲がのんきに白くゆらりゆらり流れている。

 アレート様も帰省し、後に残ったのは静寂のみ。

 それを破ったのは、瓦礫の上に立ったイニジエであった。

「さて、魔王は倒したわけだが……俺は……」

 すると国王陛下が豊満なお腹をたゆんたゆんとシェイプさせながら彼の元へ向かう。

「おお、イニジエよ、よくぞ魔王を撃砕してくれた!」

 その瞳はどこまでも尊敬に満ちていた。どこまでブレないのでしょうか、このお方は。

 しかしイニジエは動じることなく丁重にひざまずく。

「国王陛下」

 ばしばしとイニジエの肩を強く叩く国王陛下。

「流石は勇者の血統ぞ! 素晴らしい!」

 と、その手を止め、ぎろりとイズミルをねめつける。

「それに比べ……」

 その視線があまりに意外だったのか、イズミルは食ってかかろうとする。

「あ? 国王陛下。俺だって結構頑張っ……」

「この事態の原因は、そなただそうな」

「は!?」

 何故知っている!? それはあたしでも驚きを隠せない。

 すると国王陛下は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、イズミルに見せつけた。

「怪文書を見よ。この事態の全容が書かれておる」

「なんじゃこりゃあ!?」

 まじまじと回文章を見つめ、絶叫するイズミル。

 確かにこの羊皮紙にはことの顛末がこれでもかというぐたい詳細に明記されていた。

 そう、イズミルのせいで神の逆鱗に触れ、イズミルはそれにあらがい村を出て、イニジエの邪魔をして魔王にちょっかいを与え、あまつさえ凶暴化させた一部始終が。

 ぼかしているのは紙様についての所だけだ。

 それをあたしは遠くから紙様の千里眼で見つめながら、嘆いた。

「アレート様……なんて……卑怯な……」

 スミルナとリアンも続く。

「ほんと、あの方に卑怯とか言われたくありませんわ」

「ずるい」

 どうやらアレート様のプライドがいたく傷つけられたらしい。だからといって、これはないだろう。いくらなんでもイズミルが可哀想すぎる。国王陛下は羊皮紙を放り捨て、拳をイズミルにつきつける。

「この国賊めが。ただで済むと思うでないぞ」

「え、え、え?」

 問答無用で国賊扱いされたイズミルはただただ困惑するのみだった。

 そしてその隙を、国王陛下は逃さない。

「衛兵! 衛兵!」

「はっ!」

 今までどこにいたんだよと言わんばかりに衛兵の大群が国王陛下の後ろに立つ。

 国王陛下は振り向かずに命じた。

「イニジエへの宴の準備と、それと――」

 一呼吸置いて、睥睨していた瞳をくわっと見開く。

「この国賊をたった今より処刑する! 磔の用意をせい!」

「はっ!」

 衛兵は即座に返事する。

「なんだとぉ!?」

 イズミルに許されたのは、驚愕だけだった。

 流石にこれはまずいと思ったのか、主人公を奪われた関係である前に幼なじみであるイニジエがイズミルと国王陛下の間に割って入った。

「イズミル……い、いえ国王陛下、これは違います!」

「イニジエ……」

 もはや泣く一歩手前のイズミル。あれだけ酷い扱いをし、冷たい言葉を投げかけたイズミルにこれほどまでの情を与えてくれる。

 それはもう、感動だった。でもイズミル、それは脇役のやることだよ?

 もっとも、今この場で主人公が誰なのか。それはこの空気が断じていた。

「おおイニジエよ。そなたは何と寛大なのじゃ。次期国王としてその慈悲、大いに役立てて貰いたい。が、それとこれとは別ぞ。イズミルはわが国を破滅においやった重罪人ぞ? これを許しては治安は成り行かん。即刻処刑ぞ!」

「国王陛下!」

 イニジエの叫び。しかし国王陛下はぷいっと背を向け、崩れた城へと戻っていった。

 最後の最後まで国王陛下はブレなかった。 

 イズミルはここでようやく合点がいったようで、唇を血が流れるまで噛みしめる。

「な、な、あ、あの野郎……許さねえってそういうことかよ……」

 本当、あの人に卑怯とか言われたくない。

 プライドを傷つけられた仕返しが死刑だなんて。ある意味あの人らしいがやられる側はたまったものではない。法律の大切さを身をもって知った瞬間である。

「やばい……俺、死ぬのか……ここまで来て、ここまで、やって……」

 イズミルはへたりこみ、ついに瞳から涙を落としてしまう。これはまずい。一瞬でも遅れたらイズミルは殺されてしまう。あたし達は互いにアイコンタクトし、しっかと頷く。

 そして、駆ける。

「イズミル!」

「あ、弥美!」

「さ、行こう!」

 問答無用に左手でイズミルの右手を掴み、ぐいっと引っ張る。

「お、おい」

 泣き顔のイズミルは抵抗しなかった。それでいい。さあ行こう!

「いきますわよ! 天に!」

「うちらについてきて、です。イズミル様」

 スミルナとリアンが声と共にぱちんと指を鳴らし――飛翔する。

「わ、わあ!」


 高度五十メートル。ここまでくれば安全だろう。下にはありのような衛兵の大群がいる。

「さあて、最後の執筆をしちゃうよー」

 それを見て、あたしはイズミルを掴んだ左手を離すことなく、空いている右手を天にかざした。人差し指を突き出す。あたしの指は万年筆。今こそ――エピローグを執筆する!

「そうですわね。イズミルの処刑の前に」

「処刑なんて、うちらさせないもん。弥美、紡いで」

「あいあいさー」

 最後の〆。物語の終幕。

 さあイニジエ。主人公を返してあげる。たっぷり栄光を楽しんで頂戴!




 歓声。それはどこからか聞こえた。最初の一声を上げた者はわからない。おそらくは民の誰かだろう。だがそれはうねりを伴い大波となって、次第に城全体を包み込んだ。

 全ては魔王を討伐したイニジエを讃えるためにだ。衛兵たちもその波に乗り、イニジエの栄光を心から祝う。巨大な歓喜が国全体に波及する。

 青空さえもイニジエを祝福しているようで、いつの間にか雲は霧散し、燦々と輝く太陽だけが暖かく見守ってくれた。

 イニジエの心には躊躇いはあった。当然だろう。しかしこの波に抗うには至らず、衛兵や民に担がれ、そのまま城へと向かっていく。城に待つ国王陛下の元へと向かうためだ。

 崩れたと言ってもまだまだ形は残しており、多くの部屋も残っている。玉座の間もそうだ。イニジエは玉座の間へと辿り着くと、国王陛下はにこにこと慈母めいた微笑みをたたえながら、すっと脇に一人の女の子をこしらえる。

 それは姫。この国唯一の王位継承者。そしてそれを、イニジエに与えるのだ。イニジエはじっと姫を見つめる。姫もまたイニジエを見つめる。

 二人の視線は火傷しそうなほどに熱く、頬が次第に火照ってゆく。部屋の空気さえもぽかぽかと陽気に包まれ、沈黙が優しい。誰も何も言わない。ただ、イニジエと姫が同時に、一歩前へ踏み込んだ。その一歩はさらなる一歩を生み、そしてもう一歩へと。

 ついに二人は互いを結ぶ位置にまで到達し、すっと抱き合う。

 そしてその唇と唇を重ね合わせた刹那――玉座の間から大歓声が上がった。

 それは祝福。果てしない祝福。この国の未来に安寧が約束されたことへの、たまらない祝福だった。イニジエは唇を離し、福音を唱える。

 ――結婚してください。

 姫はこくりと小さく頷き、イニジエを手を両手でぎゅっと握る。

 それに口を挟む者は、誰もいなかった。

 ふと窓から空を眺めると、鳩の大群がばさばさと空を舞う。

 未来の二人を彼らさえも、祝ってくれたかのように。

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