第26話 敏文
敏文は幼いころから悪と共に生きてきた男だった。生まれつき善悪のモラルと言ったものは持ち合わせておらず、彼にとっては金と暴力だけが正義だった。いわゆる生粋の悪だ。万引き、恐喝といった小犯罪はもとより、オレオレ詐欺や、恣意的に人を動かして殺人をした事もある。しかし、持って生まれた狡智を縦横無尽に発揮し、一度として足がついた事はない。彼はこうも思っていた。
捕まって処刑されるようなバカはただの頭の悪い屑の悪党だ、俺はそんな無様な真似には絶対にならない。あくまで良識ある社会人の仮面をかぶったまま悪党の中の悪党として生きる。
彼には、堅実を絵に描いたような多少外見は悪いが献身的な元看護師の妻と、5歳になる一人娘がいた。妻に対しては自分の健康面をサポートするためのオプション品くらいにしか思っていなかったが、一人娘については、これを溺愛し彼女のために自宅の庭園にアスレチックを作るほどであった。そして、過去から連綿として続く悪事で貯めた数十億円に及ぶ隠し資産を持っていた。俊介の一件が片付いたら、彼はそのお金を元手にさらなる巨悪に手を出すべく風俗関係の実業を計画していた。もちろんお金の出所は巧妙に隠す。
俊介を死に追いやり、そこで得た成果でそろそろ会社の中の次のステップに上がろうとしていたある日のことだった。彼と同じ思想を持ち露払いを自認していた池野が、工場の中央にある来客ロビーを兼ねた事務棟のオフィスの中で暴力漫画を読んでいた敏文に言葉をかける。
「おい、敏文、またあいつだぜ。」
「誰だよ、池野くん?」
敏文は、今現在は、誰に対してもさん付けくん付けであった。今回の俊介のようなミスがあった時に、自身に不利な証拠を残さないためだ。いつでも表面上は(それが必要と値踏みした相手にだけであったが)しごく丁寧な言葉遣いをとるのであった。周りから腹心と目されていた池野に対してであってもそれは変わらない。
「凛だよ、俊介の妹の。何か、最後に一度だけ敏文の話を聞きたいんだとよ。」
「懲りないなぁ、あいつも。また裁判でも起こそうとする気か?まぁ、いいか。いい身体してるし眺めにでも行くか。」
凛は、俊介の死後、幾度となく敏文に面会を求めてきた。なんとか、俊介の過労死とも取れる自殺について、敏文の強要の意思表示があった事を認めさせたいと思っていたためだ。賠償を要求する気はなかったが、謝罪だけはしてもらいたい、そう考えていた。しかし、奸智の申し子に若干18歳の精神疲弊した小娘が太刀打ちできるはずもなく、毎回慇懃無礼に門前払いされていたのだった。
―――掛川市のとある工場の来客ロビー―――
敏文が、花見にでも来たかのような風情で凛の座るテーブルに近づくと、いつも面会時だけは黒のスーツ姿で髪を後ろにきれいにまとめていた凛が、今回に限ってTシャツにGパンと言う普段着で、放心したかのような体で、壁にかかった上品な静物画をぼんやり眺めている。
(なんだ、やっと諦めて別れのあいさつでもしに来たのか?)
凛のような若い女の子の行動や心理など、彼にとっては古代エジプトのヒエログリフでも読み解くかのようだ、徹頭徹尾理解し得ない。まったく的外れな事を考えながら、凛の座るテーブルに座って、いつも通り慇懃無礼に門前払いの挨拶をしようとした。
凛は、敏文への復讐を永遠に忘れぬよう脳裏、心臓、彼女の存在全体の隅々にまで刻み込むかのように、低く確とした声で、ゆっくりとこう言った。
「敏文。私はお前を許さない。お前たちの一族郎党、ことごとく呪い殺してやる。これまで行ってきたことを後悔してやまぬように最大の苦痛を永遠に感じるようにして殺してやる。何度生まれ変わってきても、何度でも何度でも何度でも殺してやる。」
「かはっ!これから死ぬのにどうやるよ(笑)。」
敏文は、無意識条件反射にこう返していた。まるで、何千年も前から凛のこの口上に対する回答が決まっているかのように。
(死ぬ?何言ってんだ俺は?)
敏文が自身の言動に困惑している間にも、凛は、何かに取りつかれてでもいるのか、じりじりと後ろ歩きのまま敏文を冷たく睨み据えつつ、来客ロビーを後にした。その、眼の血走った青白い面の、まるで朽ちかけの能面のような形相に、相当数の善良な人々を踏みにじってきた敏文も、背筋に寒気を覚えずにはいられないのだった。
―――事務所に戻って―――
「おい、敏文どうだったよ?相変わらず胸でかかったか?」
「どうもこうも、気持ち悪いったらねーよ、池野。何考えてんだ、あいつは?」
日頃の慇懃な態度も忘れ、池野に食って掛かるように言う。
そしてこの日を境に敏文の精神は、彼がそうとは認識しないまま、後ろから地獄への糸を引かれているようにじわじわと悪化していく。
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