第17話 殺意
俊介の遺書ともとれるブログを見てからというもの、彼のその死後も続く苦しみを見てからと言うもの、凛の心はびりびりに破られてしまった幼い頃の落書き帳のように乱れに乱れた。彼女の精神は、俊介を思う気持ちや、敏文への疑念や、俊介の小さいころの勇ましい姿や、敏文の鉄面皮な態度への嫌悪や、俊介の私の高校の卒業式での徹夜明けでどろどろに疲れ切っている姿や、敏文への一種の確信や、いろいろな感情が数瞬ごとに入り乱れ破綻を待つのみになっていた。
悲しみと復讐の濃霧に覆われた彼女の心には、敏文は証拠こそ掴んでいないものの悪の権化であった。
彼女は当然ながらまずはじめに、なんとか俊介へのパワーハラスメントの証拠をつかみ、罪を償ってもらおうと考えた。金銭面ではなく心理面でだ。敏文のいる掛川市の工場まで妻の美樹を連れ立って何度か通い面会を求めた。言葉は丁重ながら慇懃無礼にあしらわれた。彼の眼は売春婦を品定めする男のそれだった。敏文に謝罪をさせるのが500トンの黒い鋼鉄の壁を動かすかのような行為であることがわかると、今度は、民事裁判に持ち込めないか考えた。近年では被害者の遺族たちがよく利用している手段だ。
俊介の職場の同僚に当時の労働状況を聞き出そうとした。自殺した当時借りていたマンスリーマンションの電気の使用状況を電力会社に尋ねた。TwitterやLINEの記録を見たり、美樹からもらった俊介のコンビニやらガソリンスタンドやらのレシートから労働時間を割り出そうとしたりもした。そして、それらを弁護士事務所に持っていき、事情を説明して訴訟を起こした。
しかし、結局そんな探偵まがいの調査をしてみたところで、敏文の用意周到さはそれを何重も上回っていた。後に残る会社での主だった証拠は全てもみ消されているし、俊介の同僚にも無言の圧力で口封じしていた。結局、民事裁判も確たる前進もなく、まったくの徒労に終わってしまう。彼女の集めたいろいろな状況証拠から絶対に敏文の暴力や過重労働の強制はあったはずだ。凛はそう確信していた。が、暖簾に腕押し立て板に水、どんなに証拠説明や陳述をしても、何度も口頭弁論に臨んでもなぜか全て底なし沼のように消し去られてしまう。まるで何か永遠にたどりつかないゴールに向かって走り続けている悪夢でも見ているかのようだった。
秋に入り、結局なんの打開策も見いだせぬまま屈辱的に敗れ去った後(しかも敏文は、法廷から出るたびに他の誰の目にも触れぬように凛に暴言を吐いたり、ホステスか売女でも扱うような感じで凛を扱ったりするのだった)、凛はたとえ捕まったとしても私の力で敏文を殺すしかない、そう決意した。
凛はまず、田んぼや畑の真ん中に300坪はくだらない豪邸に住んでいるはずの敏文の家に放火して焼き殺すことを考えた。証拠を残さないために、わざと他県の量販店に行ってサントリーモルツのビール瓶を買って来た。それにガソリンを入れ布で栓をし火炎瓶を作った。千葉から静岡までJRに乗って行き、レンタカーを借りて殺すべき相手の家の生垣まで行った。しかし、敏文には奥さんや娘さんもいるはずだ。巻き添えにしてしまうのはかわいそうだ。そこで躊躇してしまい半日迷った挙句、千葉まで引き返した。
会社の食堂に忍び込み奴の皿に毒を入れることも考えた。青酸カリを買った。関係のない会社の皆さんは除いて奴の皿にのみ塗る方法がないかと、千葉から静岡までJRに乗って行き、実際に会社に忍び込んで食堂での奴の様子を盗み見てみた。しかし、奴はバナナとヨーグルトだけの簡素な食事で、周りの皆に、その汚い顔にいやらしい笑みを浮かべ腸内環境の大切さを説き自身の健康自慢ばかりしている。どうしても奴の皿だけに毒を塗ることができない。人を足蹴にしておいて、お兄ちゃんを殺しておいて、お兄ちゃんを痛めつけて殺しておいて、自分だけ長生きするつもりだ。虫唾が走った。
ナイフで一思いに刺し殺してしまおうとも思った。そのために、ネットで刃渡り30cm程の冷たく光る本物のサバイバルナイフを購入した。奴の行動を調査して予測し、千葉から静岡までJRに乗って行き、人間の屑とすれ違うタイミングを一日千秋の思いで待ち続けたこともある。しかし、そんなときに限ってなかなか思うようには出くわすことはできない。待ち伏せしている間にも凛の心は千々に乱れる。ここで敏文を殺して私が捕まったら、若菜ちゃんや一平君はどう思うんだろう?お父さんが自殺したのに加えて、その妹の私が相手をかたき討ちとして殺して捕まったのを知ったら、人生を踏み外してしまうんじゃないか、お兄ちゃんはそんなの望んでいるはずない、日記でも私へも彼女たちの事を喋るときだけは希望に満ち溢れていたもの。そんな事を考えに考えぬき、一度は決心した殺害を思いとどまり、仇敵にまみえぬまま千葉へ帰る。ちょうどその背後に敏文が通りがかったことも知らずに。
結局、どれをやるにも実現性に乏しかったり、どうしても良心の呵責が邪魔して、最後の一押しをする事ができなかった。
そうこうしている内に9月に入り、あまりの口惜しさと義憤と極度の不眠に、凛の心はおおきく様変わりしてしまうのだった。まるで何かに取り返しのつかないのものに心を売り渡してしまったかのように。
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