【短編】花瓶

森山 風雪

花瓶

花瓶が割れた。


小さい頃に雑貨屋で一目惚れし、両親に頼み込んで買ってもらった花瓶。数十年近くたった今でも愛用していた花瓶であったが、棚に足の小指をぶつけた拍子に粉々に砕け散ってしまった。


やり場のない怒りと、小指に走る激痛がせめぎあい、私はその場でうずくまった。


しかしそれも束の間。


花瓶片付けなきゃ。


キッチンの引き出しから手頃なサイズのビニール袋を一枚取り出してきて、花瓶のそばにしゃがみこんだ。


傷一つないフローリングにできた水たまりをふと覗き込んでみるが、不明瞭な景色しか目に飛び込んでこない。まるで、曇った鏡のように、不確かで輪郭の曖昧な世界をうつし続ける。


それでも、その鏡から目を離すことができなかった。


――――

花瓶を買った店はもう思い出せない。


そこは有名な温泉地だったかもしれないし、街から遠く離れた田舎だったかもしれない。ぼやけた世界に浮かぶのは、キラキラと光る花瓶と透き通るような青空だけだ。


あんなに欲しかった花瓶なのに。


――――

突然鳴りだしたスマートフォンが、私を現実へ引き戻した。


メールだ。


ちらと花瓶の破片に目を向けたが、すぐにスマートフォンに向き直るとのそのそと画面を呼び出した。


会社の同僚からだ。ヤケ酒、という気分でもないし、だからといってしんみりと飲む気にもなれない。


あとで返事しよう。


画面を落としてテーブルの上に戻すと、再び破片の方に意識を向けた。


――――

どんなに大切なものでも、なくなってしまえば案外あっけないものである。その上、当時のことはよく思い出せない。


鏡と化した水たまりから目を離し、散らばったガラス片を袋にまとめる。


幾つか破片を集めたところで、右手の指先にチクリとした痛みを感じた。知らないうちにガラスで切ってしまったらしい。


はぁ、と一つため息をこぼすと、近くの棚から救急箱を取り出し指先用の絆創膏を貼った。


そしてまた、破片集めを再開する。


破片を集めて水をきれいに拭き取ったところで外を見やり、そして気づいた。


雨だ。


朝からのどんよりとした曇り空は、ついに雨を降らせたらしい。


しとしとと降る雨は、気分を落ち込ませる。


いつもならそのはずなのだが。


今の私には。


雨の音が心地いい。


しばらく自然の奏でる音に耳を傾けていたが、ふと思い立ち長靴をはいて外へ飛び出した。


ぱちゃぱちゃ。ぴちゃぴちゃ。


傘ではなく、レインコートを着て、年甲斐もなくはしゃぐこの姿は、周囲からは奇怪に思われているはずだ。


それでも。


体に吸い付く雨が。


体を流れる雨が。


私の気分を高揚させる。


あの頃のように、わざと水たまりを通ってみれば、やはり気分は高鳴ってくる。


このまま世界中を放浪するのもいいかもしれない――そんなことを考えているうちに、雨足はだいぶ弱まってきたようで、傘をさす人影も少なくなってきた。


空を見上げると、どんよりとした曇り空で。


レインコートを濡らすのは、まとわりつくような雨水で。


――家に帰ろう。


――――

レインコートの水適を軽く払い、玄関へと足を踏み入れた。雨は物事の色彩をも流してしまうようで、家の中は灰色に染まっていた。


干すのも面倒くさいし、このレインコートは捨ててしまおう。


レインコートを丸めてゴミ箱に押し込み、キッチンに水を取りに行く。一口あおったが、どうもおいしくない。残りを流しに捨て、これからどうしようかと考えるが何も思い浮かばない。


……。

……。

昼寝でもしようかな。


寝室までいくのは億劫だったので、リビングの深緑のソファに横になる。ずぶずぶと体が沈み込んでいくが、スプリングのイカれたソファは案外昼寝に適しているのかもしれない。


柔らかなソファに身を任せると、自然とまぶたが重くなり、そして世界は暗転した。


――――

柔らかな日差しがまぶたの奥を刺激し、私はゆっくりと目を覚ました。小さな伸びをしてあくびを一つ。そしてあたりに目をやれば。


そこはある商店街のど真ん中だった。


見間違えることもない。数十年前に住んでいた町。そして、あの花瓶と出会った町。


そうだ。温泉街でも田舎町でもなく、この町だ。


あの日、まだ幼かった私は両親との散歩の途中で出会った花瓶に何処か惹かれ、それまでほとんど言わなかったわがままをぶつけて買ってもらったのだ。


父は呆れた顔で。

母はどこか嬉しそうに笑みを浮かべて。


大切な思い出のひと欠片。


皮肉なことに、落として割れて破片になって、それからようやく思い出した。


右手で父の大きな手を握り、左手で母の優しい手を握り、あの店へ向かって歩き出す。


高鳴る鼓動に合わせて、まるでダンスを踊るかのような足取りで父と母をひっぱる。


あそこの角を曲がった先だ。


二人の手を離し、交差点へ駆け出す。


曲がり角を曲がり、そしてその先に――。


――――

結局、再開を果たすことはできなかった。


あの花瓶が置かれていた台には別の花瓶がおいてあるだけで、あの花瓶はどこにもおいていなかった。


しかし、不思議と悲しさはなかった。


それどころか、どこか心が軽くなった気がする。


私の胸から飛び出た淀んだ雲は、ふわふわと澄み渡った青空へ向かって飛んでいき――そして一滴の雨を降らせた。


辺りにはもう誰もいない――店員も、通行人も、そしてさっきまで手を繋いでいた二人も。


世界から色が失われていき、そして色も形もなくなったところで。


――――

目を覚まして時計を見ると、5時丁度を迎えるところだった。


随分寝てしまったらしい。


緑色のソファから上半身を起こして、一つ大きな伸び。


傍らにあるテーブルは窓からの夕日を反射して煌々とオレンジ色に輝き、そこに置かれたスマートフォンはそれよりも力強く、まばゆいばかりの輝きを放っている。


そういえば返事するの忘れてたな……。


テーブルからスマートフォンを掴み取ると、メールボックスを呼び出した。


もちろん返事は決まってる。


窓から遥か遠くからは、オレンジの光に包まれた七色の虹がこちらに優しく微笑んでいた。

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