第3話

「―22時28分発、東西線各駅停車洲央行き、間もなく発車致します―」

 電車に乗り込む。帰宅ラッシュのこの時間、上り線の電車の中は面白い様に空いている。僕は開いた座席の一つに、ショルダーバッグを膝の上に抱えて座る。目を閉じる。目を開いていると、そこいら中の硝子に、首の欠けた男の姿が映るから。電車が空いていて良かった、と思う。隣駅に電車が付くまでの間に、考えを少し整理する。

(篠原和澄―)

(篠原和澄―は、神隠しだった)

(最初からそうだったのか、それとも長年の噂に依ってそうなってしまったのかも、僕には分からない。あれが彼女の思念を媒介にしている、幽霊のような何かなのか、それとももっと、彼女の噂を下敷きに存在しているだけの、別の何かなのか。僕には分からない。分からない事だらけだ)

(金木犀)

(金木犀―は、なんなんだ?どうして彼女からあの香りがするんだろう。彼女に何の関係がある?)

(…そういえば、あのサイト、神隠しを纏めたあの記事の中に―)

         『篠原和澄さんは2005年の9月28日に、校内でご学友と、“用事があるから”と一旦別れ、校門前での待ち合わせを約束したのを最後に、消息を―』

                                  『何時まで経っても姿を現さない篠原さんに、心配になったご学友のA子(仮名)さんが―』

              『―先生と二人で校内を捜索するも見つけられず―』

 『不安を拭えないA子さんが篠原さんの自宅に電話をし、漸く事件として発覚―』

(…用事がある、と言っていたとか、なんとか。そんな風な事が書いてあった様な気がする)

(友達にも内緒の、彼女の用事)

(金木犀―)

(…あの体育館の傍の、大きな金木犀。学内の、有名な告白スポット。12年前から、あの噂があったとは考えられないか?)

(こういうのは、流行り廃りはあったとしても、完全に無くなってしまうって事は無い。中学校の時にも、小学校にだって、こういう噂はあった。中学校の時は中庭の池の畔、小学校の時は、校庭の桜の木の下だった。やっぱり、木の下ってのが定番なんだろうか?のびのびと育った樹木の姿が、長く続く関係を暗示させてくれるから―)

(…話を戻そう。金木犀の樹齢は知らない。あれが何時からあそこにあるのか、何歳くらいであそこまで育つのかも。けれど、可能性としては決して無い話では無い)

(それに、実際問題―今更別の金木犀を探している時間は無い。校内に、他に生えてる木は無かったと思うけど。でも、それを言い出したらキリがない。校外の木の場合の可能性だってあるんだ。神隠しの生態にゃ、生憎詳しく無い―依り代、活動範囲、食事、目的、飼い方。何もかも分からない。これだって結局、賭けみたいなもんだ)

(…気付けば又、細い蜘蛛の糸の上を綱渡り、だ。薄い可能性、生きているかどうかも分からない知り合い、助けも無い、自分の状況が好転する見込みも、ゼロ―)

(―ああ、ヤダヤダ、うんざりする。うんざりし過ぎて、吐き気がする―)

(…兎に角、彼女の用事の場があの金木犀の下だった、と仮定しよう。呼び出したか、呼び出されたか。そこで12年前、何かが起きて―)

(―何かって、何だよ?)

(…12年前だぞ?分かる訳ねえだろ。何かが起きて、彼女は消えた。篠原は―神隠しに。そうしてあの付近には、目出度く二つの噂が重なる事になった。有名な告白スポットと…神隠しとしての噂)

(誰が意図した訳では無いにしても)

(―で、人知れず、千歳高のパワースポットとなっていたその場所に、10年前に飛散した、王の欠片が舞い込んで―)

(…ってのは、強引な考え方かね?)

(試してみる価値はある)

(後は単純な綱引きだ―)

「―間もなく停車致します。東西線各駅停車洲央行き、お降りの際は、忘れもの等にお気を付けて―」

 アナウンスが流れる。僕は席を立つ。鞄を背負い直す。向かいの席に座っていた酔っ払いのおじさんが、僕の方を見て怪訝な顔をする。

「兄ちゃん、あんた―」

「はい?」

「首が半分無いじゃねぇか。首忘れてるぞ、首ィ。車掌さんもアナウンスで言ってたろろ?忘れもんに気を付けれって―」

「ええ、分かってますよ―」

 僕は苦笑して、赤ら顔で座席にぐでんと寝そべるおじさんを見る。首元を左手で覆って、言う。

「―実を言うと、盗られたんです、この前」

「ほぉ?そりゃ大変だぁ。首が無いと―キスマークで浮気がバレない。んん、良い事しか無ぇなぁ…」

「―なので、今から取り返しに行こうかと」

「はっはー!いいねえ、男ってのは、そうじゃないといけない。かくいう俺も若い頃はなぁ―」

 電車が停まる。空気の抜ける音がして、扉が開く。僕は迷わず駅のホームに足を踏み出す。

「―で、手応えから察するにこりゃ大物だと、勇んで釣竿を振り上げた訳だ。ところが、そりゃ良く見りゃ社長のハゲかつらで―」

 おじさんの武勇伝の途中で電車の扉がゆっくりと閉まる。無人の車内で語り続けるおじさんを乗せて、電車は次の駅を目指して行ってしまう。僕は彼に向かって胸元で小さく手を振る。それから誰も居ない駅のホームを降り、夜の高校へと向かって静かに歩き始める。




 ―夜の学校。

 夜の学校、という言葉には、特別な響きがある。

 それは大体の場合、学校が人里離れた場所に立っている所為かも知れない。それとも、昼にはあんなに沢山の人が居るのに、夜中には誰一人いなくなってしまう所為かも知れない。長い歴史がある所為かも知れない。あんなに大きくて広い建物なのに、電気も碌に付いていない所為かも知れない。

 理由は良く分からない。が、夜の学校という言葉には、やはり特別な響きがあると思う。

 ―僕はその夜の学校を、南側から、10m強のフェンス越しに眺める。灯りの点らない夜の校舎は堅牢な漆黒の城の様にも見える。僕は等間隔に寂しく並ぶ街灯の一つに寄り掛かって、物音ひとつしない真っ暗な校舎をのんびりと観察する。ひんやりとした夜気が僕の頭を冷やす。我ながら、なんつー馬鹿な事をしてるんだろう、と何処か他人事の様にそう考える。ああ、そう言えば、夜の校舎を見るのはこれが初めてだ、と思う。

(まぁ普段、この時間に出歩かないし。そもそも、夜に学校の方に来る事なんて、無いし…)

(…不気味だな。そりゃ、怪談話も、いっぱい出来る訳だ…)

 街灯を離れて、僕は歩き出す。公道沿いを離れて、昇降口のある、校舎の西側へと向かう。緩やかな坂道を上る。坂の途中で、無造作に、隠す様子も無く設置されている、監視カメラの存在を認める。僕はそれに向かってなんとなく、気怠く、手を振る。一頻り手を振り終わった後、今日は雨が降っていない、という事にぼんやりと思い至る。と、いうことは、僕の姿はあの監視カメラには今も映っていないのかもしれない。今でも未だ、信じられないけれど。

(…監視カメラに映らなくなってるなんてな…)

(普通、気付かないよな。何時からなんだろう。もしかして、ずっと前?)

(鏡とか、硝子には映ってたしな。余計、気付かないよな…)

(わざわざ自分を動画に撮る機会なんて、殆ど無いしなぁ…)

(…何か悪い事、出来そうだよな。監視カメラに映らないんだ、現代社会では透明人間みたいなもん―)

(―ま、特に何も思い付かないけど。それに、カメラには映らないだけで、誰の眼にも見えるし、実体だってある。誰かに見咎められたら、もう終わりだ…)

(…監視カメラに映らないって事は、僕が今日、ここへ来た事は誰も知らない、って事だ。“神隠し”が僕をバラバラに引き裂いて殺してしまったら、僕の行方を知る者は、誰もいなくなる…)

 ―手を下ろす。

 監視カメラから目を背ける。ショルダーバッグから懐中電灯を取り出して、スイッチを入れる。灯りの中に居ると、少しだけ安心する。その事をちょっぴり情けなく思いつつも、僕は灯りの安堵に引き摺られる様に、唾を飲み込んで、下っ腹に力を込めて、前進する。

(…怖い…)

 坂道を登る。坂の上へとライトを向ける。光の輪の中に、突然侵入を阻む門が現れる。僕はそれを見て少なからず動転する。慌てて左手で口元を押さえる。もう少しで絶叫の悲鳴を上げてしまう所だった。歯の根の震えが収まるまで、懐中電灯を落とさない様に握り直して、背中を丸めて僕はそこで暫くそうしている。

(…危なかった…)

(―落ち着け、落ち着け―)

(…落ち着け、馬鹿)

(門は突然現れた訳じゃない。お前が予期していなかっただけだ―)

(―当然だ。昼間は閉鎖している訳じゃない。何時だって、校舎の門は開いている。生徒たちが出入りするんだから。夜中は誰も居なくなったら門を閉めて、誰も入れない様に施錠する。当たり前の事だ。門があるのは当たり前…)

(―落ち着け…)

(ああ痛い、心臓が痛い…)

(僕の様なビビりが、多分こうやって、怪談を創っていくんだろう。怖かった事を誤魔化す様に。怖かった事に、何か理由を付けようとして。ああ息がし難い―今の恐怖は、こじつけるなら、『ぬりかべ』か?僕の進路を遮る、門の様な化物―その正体は、僕の行く手を防ぐ妖怪で…)

(落ち着け、落ち着け、落ち着け、僕―)

 ―深呼吸をする。心臓の辺りが痛い。目を開けて、もう一度門の方を確認する。昇降口への道を塞ぐ様に閉じている校舎の正門が見える。僕は溜息を吐いて、ぐったりとした笑みを浮かべる。

(全く…)

(…先が思いやられる。こんなんで夜の学校の中に入って、大丈夫なんかね?)

(小心者過ぎて泣きそうだ。自分の事を、これ程嫌だと思った事は無い。何の為にここまで来たんだ?思い出せ…)

(―相原の事、助けたいんだろ?)

 門を攀じ登ろうと傍に近付いて、ふと、門の表面に看板が紐付けてある事に気付く。懐中電灯をそちらに向ける。そこに書いてあるロゴを見る。その下の、細かい箇条書きも。思わず顔を顰める。

 そこには―警備会社の名前と、社章のロゴと。

【門には触れないで下さい!

                   関係者以外の立ち入りを一切禁止します。

                   正規の手続きを踏んで、入校して下さい。

   もし、施錠後に入校したいのであれば、一度、必ず弊社の方へご連絡下さい。

                                弊社への連絡無いまま校内へ侵入を試みた場合、正門の鍵を使用しても必ず警報が作動致します。

                 お手数ですが、必ず弊社へ一度ご連絡下さい。

         無暗に門へ触れるのもご遠慮ください。警報が作動致します―】

(…困った)

 門の前で立ち尽くす。そりゃ監視カメラも付いているんだ、警備会社と契約してるんだろうから、こういう事態も考えてしかるべきだった筈なのに、それをすっかり失念していた事に気付く。懐中電灯を近付けて、看板の箇条書きを何回も読む。当たり前だけど、何度読んでも、文面は変わらない。

(―門に触れるな)

 …なんだか、自分が酷く馬鹿になった様に思える。

(こういうのって、どうしたら―?)

(柏木、知ってたりしないかな。や、不良だけど、犯罪者ではないし…)

(フェンスを登る?)

(…いや、無理だな。そりゃ高いと言っても10mくらいだ、無理すりゃ登れなくはないんだろうけど…もし、途中で“神隠し”に見つかったら?それで、フェンスの根元の方を切り取られたりしたら―)

(―考えたくはない。あの高さから、落ちたら―)

(…こういうのって、作動させたら罰金とかあるんだろうか。誤作動で違約金、とか聞いた事あるけれど…)

(家庭で払うんだろうか。それとも学校?学校まで、母さんに来て貰わなきゃならないんだろうか。保護者同伴で謝罪?この歳になって…)

 ―そこまで考えて、こんな風になっても、自分が今までの生活の続きを送る積りで居る事に気付いて、苦笑する。自分の底抜けの楽観主義に吐き気を覚える。もう終わってしまったんだ、と思い出した様に、自分に言い聞かせる。自分の今までの生活は終わってしまった。ここに来たのはけじめを付ける為だ。相原には義理がある。その義理を果たす為に、僕はここに来た。

 僕は手を見る。懐中電灯を握っていない、自分の左手を。

 考える。

(…カメラ…)

(考えろ…)

              『―見える?私達吸血鬼は、水面や鏡に映らないの』

(門に触れると、警報が作動する)

(触れずに入るのは僕には無理だ。なんせ、凡そ平均の男子高校生だから)

(…そう。僕は、只の…)

(―違う所があるとすれば―)

                      『…監視カメラに映っていないの』

(門に触れると、警報が作動する。どうして?)

(重さ、赤外線。後は―振動、ってとこか?)

(重さかなんかだとキツいかな。別段、僕の体重に、変化がある様には思えないし…)

(…価値―)

(まぁ良いさ、別に警報が作動したって、警備員が大量に来るだけだ。最悪の場合は、そいつらを巻き込んで何とかするしかない。ここで帰るって言う選択肢は無いんだ。僕には時間が無い。いつ、僕の家の前に警察が大挙して押し寄せて来るかも分からない。でも、ここで、本当に何が起こっているのか、知っているのは僕しか居ないんだ。相原がどうなったのかも)

(どうにか出来るかもしれない。義理がある)

               『―もしかしたら人間じゃないのかもね、あなた』

(―監視カメラに映らない所だけ)

(価値はある。…だろ?試してみる、価値は)

 僕は、一瞬、躊躇して―それから思い切って、勢い余って、看板を殴る様に、左手を門にぶつける。

(痛い)

 涙が滲む。目を細めて、耳を澄ませる。何の音もしない。警報が作動した場合、どうなるのかは詳しくは分からないが、少なくとも今の所、ビカビカと回転灯が輝き始めたり、防犯ブザーが喧しくなり始めたり、大量の警備員を乗せたトラックが大挙して押し寄せて来るような様子は無い。

 少し待つ。1分、2分、3分。何度もスマホを取り出して、時刻を確認する。1秒が酷く遅い。時間が誰かに作為的に引き延ばされている様な気さえする。懐中電灯のスイッチを切り、それを鞄に入れて、息を顰めて待つ。何も起こらない。暗闇に目が慣れる様に、固く、固く、目を瞑る。何の音もしない。自分の心臓の音だけだ。

 4分、5分、6分―。相変わらず何の音もしないし、何も起こらない。僕は門の傍で、待つ。膝を抱えて、目を閉じて、祈る様に。

 ―それから覚悟を決めて、ショルダーバッグを門の向こうに投げ落とす。両手に息を吹きかけて、門の上辺にどうにか指を引っ掛けて、攀じ登る。

(―大丈夫)

(王だ)

(…多分、大丈夫。大丈夫だ。きっと大丈夫。大丈夫、なんだろう)

(王の欠片だ―)

(…王の欠片の仕業だ)

(欠片に、感謝だな…)

(監視カメラに、雨の日以外、姿が映らなくなってしまったみたいに―どうやら僕は、ある種の電子機器に、検知され難くなってしまったらしい)

(ある種の、電気機器…)

(色々試した結果じゃないから、はっきりとは分からないけど―状況から察するに、光とか、光線とか。恐らくは、そういうものを利用した装置)

(王の欠片の所為で)

(…凄いな。滅茶苦茶地味ではあるけれど、現代社会だと、ホントに透明人間みたいになれるかも―)

(―最近、自動ドアとかが中々開いてくれないのも、もしかしてその所為?)

(何か恰好良い技名とか付けるべきかな?“不可視の…インビジブル~”とか、“…幽霊~ゴースト”とか、“…幻影~ファントム”とか―)

(…イカン、背中がむず痒くなって来た)

(―ま、こんな風になっちまった元凶が、その王の欠片サマなんだがな。それでもこの状況は、素直に感謝だ。警備員から逃げ回りながら、“神隠し”を相手にする訳にもいかない。何が起こるか分からないし、他に死人も出るかもしれない。それにそんなに、器用な方じゃ無い。“神隠し”だけでも大変なのに…)

(―待ってろ相原、もう直ぐだ)

(クソッタレの、王の欠片を、野郎から引き摺り出して―何もかも終わらせる。それから、この町を出ていくんだ。最初から母さんに言うべきだった。母さんに打ち明けて、この町を…)

(…吸血鬼になるのも、案外悪くないかもしれないな。はは、もうどうすれば良いのか、僕にはさっぱりだ。他に選択肢が無いなら、母さんにOK貰って、吸血鬼に。親子共々ってのも、アリかもなぁ。吸血鬼ってのは、年齢制限あったりするのかね?“ミドルエイジは転化お断り”とか―)

(今度会ったら、聞いてみるか…)


 門の上から飛び降りる。

 地面に泥の塊を落とす様に。不格好に、僕は地面の上に転がり落ちる。「グェ」と短く、蛙が潰された時に漏らす様な音が口から出る。掌を強かにアスファルトに打つ。悲鳴だけは漏らさない様にと、必死で歯を食い縛る。門を乗り越えただけで、乗り越えただけなのに、もう十全とはいかないのが自分らしい、と草臥れた笑みを浮かべて思う。手首から上が、暫くしたら本格的に痛み始めるだろう、ジンジンという痺れるような感覚を発し始めている。絆創膏も鞄の中に入れて来るべきだったな、と考える。既に順風満帆とは言い難い。何だか泣きたくなってくる。

(さて、こっから、どうする―?)

(鞄、取り敢えず、鞄を…)

 ―直ぐ側に落ちていたショルダーバッグを取り上げて、中身を確かめる。特に壊れたものは無い様に思える。懐中電灯の電球部分を保護するガラスが割れて―制汗スプレーが金槌でへこんでいる以外は。僕は苦笑して、硝子の砕けた懐中電灯だけ引っ張り出して、ショルダーバッグの口を閉じる。

(…ま、そりゃそうか。あの高さから落として、金槌と一緒に、物を入れてたらな…)

(―何で金槌?金槌なんか入れたっけ、僕?)

(相当テンパッてたんだな。武器になるとでも思ったんだろうか。相手は人を呑み込む、怪物なのに…)

(―ま、概ねは無事。それが肝心なんだ…)

 懐中電灯のスイッチに指を掛けて―。

 そこで考える。

(…待てよ。これ、このまま点けて良いのか?)

 このまま懐中電灯のスイッチを入れてしまうと、この暗い校舎の中で、僕の電灯の明かりだけが唯一の光源となってしまう、という事実に、漸くぼんやりと思い至る。僕は瞬きをして、何度も瞼の上を擦る。額を擦る。考える。

(…駄目だ。駄目だ駄目だ、駄目な気がする、それは絶対に不味い)

(―もう遅いのでは?暢気にライトのスイッチ入れて、正門前を登って来ちまった。もう僕がここに居る事に気付いているかも)

(外出中だったりしない?駅前辺りに、あー…“食事”に出掛けてたり。彼女、自分磨きに忙しいみたいだったから…)

(…駅前、殆ど人居なかったけどな)

(―ていうか、学校にあの女が居る前提で話を進めているのが、先ずおかしい気がする。彼女は王の欠片を得て、“七不思議の噂の一部”という座を脱却した存在になったんだ。彼女は実際に、人に害を成し―その部品を喰らう。部品を上手い事持ち寄れば、まるっきり別人の様に振舞う事も出来るだろう。外に住居を持つ事だって―)

(そんな器用そうには見えなかったけど)

(―ていうか、先ず正気には見えなかったね)

(………うん)

 僕は懐中電灯を宙ぶらりんに構えたまま、周囲の様子に耳を澄ませる。何の音もしない。自分の唾を飲み込む音と、呼吸の音、衣擦れ、背筋の軋む音、それに、時折足を踏み変える音がするだけ。溜息を吐き、目を細めて、辺りを注意深く見回す。暗い。どれだけ必死に目を凝らしても、10mより遠くの物は、画質の粗い映像の様に大雑把に霞んでしまう。舌打ちをして、目元を擦る。一応、校舎の中も見てみる。校舎の中の暗闇は、外の比じゃない。触れそうな程の固形質の暗闇が一部の隙も無くみっちりと詰まっている。この中を光源も無しに歩くのは正気の沙汰じゃない、と思う。

(…幸い、暗闇に目も慣れて来たし)

 僕は懐中電灯を右手から左手に持ち替える。

(校庭を突っ切って、体育館へ向かうか。どうせ目的地はそこだし、そっちの方が、距離も短いし―)

(…それに)

(それに、怖い)

(…怖いんだ。怖い。怖いよ、これは。どんなに情けない奴だと嘲笑われたって、良い)

(この暗闇の中を歩くのは。それも、明りを点けたら不味いとなりゃ、尚更だ。この暗闇の中に、なにも居ないと分かっていたとしたって―)

(―況してや、確実にが居ると、分かり切っているからこそ)

(…僕には無理だ)

(小さい頃を思い出す。小学一年生くらいの時の事だ。夜中にトイレに行きたくなって目が覚めて、中々起きない母さんの代わりに、父さんを叩き起こして。トイレとトイレまでの道中の電気を全部点けて来て貰って、トイレまで手を繋いで連れて行って貰って、トイレが終わるまで絶対にそこを動かないで、そこに居て、と全力で懇願したっけ。父さんは確か、苦笑いしてたような気がする。トイレの間中、父さんが消えて居ないか確認する為に、色んな話をおねだりした。父さんは困ったみたいに笑ってたけど、何処か嬉しそうだった。おしっこがなかなか止まらなくて、僕は慌てて、父さんは『だから言ったじゃないか、寝る前に、あんなにココアを飲むからだ』って―)

(―思い出すんじゃなかった、こんな事)

 …僕は目元を覆う。歯を食い縛る。思い切り、軋む音がする程に。掌がじんわりと痛みを伝え始める。懐中電灯が手の内で滑る。もしかしたら、出血しているのかもしれない、と思う。

(…今は父さんは居ない。電気を点けるのも禁止だ)

(やるしかない)

(やるしかないんだ―)

 懐中電灯を左の尻ポケットに突き刺す。吐き捨てる様に息を吐く。頬を何度か抓る。

(きっと大丈夫)

 校庭に足を踏み出す。砂利の音が、薄氷を踏み砕いた時の音の様に、周囲に響き渡る。足を止める。僕は顔を顰める。

(…きっと大丈夫)

(―大丈夫じゃないよ。今に彼女が来る。彼女が来て、相原を引き千切った時の様に、僕の事も簡単に―)

(大丈夫。父さんがいつも言ってたろ?『世の中ってのは良く出来てる。必ず帳尻が合うように出来てるんだ。お前の周りに、今は悪い事が起こったとしても、それは明日、お前の周りに良い事が起こる印しなんだよ』―…)

(…大丈夫)

(大丈夫、大丈夫。僕は大丈夫―)

 自分に言い聞かせる。喉元を撫で、ショルダーバッグを背負い直し、深呼吸をして、もう一度足を踏み出す。靴が砂利を踏み拉く音は、今回も相変わらず爆音の様に酷く響いて聞こえる。

 ―それでも、意を決して、僕は歩き出す。少し前のめりに、誰かに背中を押されているかのように。


 夜の校庭を歩く。

 ―ザクザクと砂利を蹴散らして、土を掘り返す音を立てて。その音を聞いていると、新雪の上を歩く時の感覚を思い出す。この辺りでは、滅多に雪は降らない。だから小さい頃は積る度に大はしゃぎして、朝から誰も歩いていないまっさらな雪の上に、足跡を付けに出掛けたりしていた。

(―なんか、昔のことばっかり思い出してんな、僕…)

(…これも、ある種の走馬灯ってヤツなのかね?)

 急ぎ足になりそうなのを堪えて、出来るだけゆっくりと歩く。誰かに足音を聞き咎められない様に、他の音を、何かの前兆を聞き洩らさない様に。足元を見て、耳を欹てて、歩く。どうせ前を見てても大した物は見えない。両手を耳の後ろに添える様にして、聴力に全神経を集中する。

(―大丈夫、大丈夫、大丈夫、僕は―)

(何の音も聞こえない。相変わらず、何の音も。聞こえるのは、煩い僕の心臓の音と、風の音だけ)

(…心臓ってのは、生涯で何回鼓動を打つか、大体決まっているらしい。は、今日だけで、僕の寿命は何回分縮まったかね…?)

 何の音も聞こえない。何の音も聞こえない校庭を歩く。生温い夜風が僕の顔を撫でる。気温はそれほど低くないのに、風が吹く度に背筋がぶるりと震える。自分の臆病さに泣きたくなる。200m走のトラックも直線で引けない校庭を、今日ほど広いと思った事は無い。

(…もう半分くらいまで来たかな…)

 どれくらい歩いただろう、と顔を上げる。未だ校庭の1/5も踏破していない事に気づいて、愕然とする。自然と苦笑が零れる。唇を撫で、再び耳の後ろに手を当てて、足を踏み出す。

(―夜―)

(夜は好きだ。父さんが居た時を思い出すから)

(小さい頃、絵本を読み終えても未だ僕が眠れない時、僕のお腹をポンポンと叩きながら、外で鳴いているものの正体をひとつずつ、教えてくれたっけ。あれはアマガエル、あれは暴走族、あのジィジィ鳴いているのはクビキリギス、あの口笛みたいなピューッていう音は―)

                                 ―ザクッ。

 靴底が静寂を割る音がする。僕は足を止める。口元を押さえる。そこで気付く。

(…音が―)

 ―漸く、気付く。

 立ち尽くす。

 ―夜の校庭に、立ち尽くす。

(音がしない)

(何の音も聞こえない。風の音と、僕の心臓の音以外には)

(…もっと、色んな音が聞こえてたって、良い筈なのに―)

 ―咽元を掻く。焦燥に咽が乾く。無理矢理唾を呑み下して、恐る恐る、耳を澄ませる。何の音もしない。緩やかな風と、早鐘を打つ自分の心臓の鼓動以外には。揺れる木々の音も、鳥の羽音も、犬や猫や、虫の鳴き声も、近くの公道を行き交う車の音も、最寄りの電車の音も。

 何も。

 …何の音も聞こえない。

(不味い)

(何だこれ?何が起こってる?僕は失敗したのか?未だ耳は残ってる、喰われた訳じゃないみたいだ、でも何の音も聞こえない、心臓と風の音以外本当に何も―)

(落ち着け、考えろ)

(―本当に何も聞こえない。どうすればいい?このまま、ここに居て良いのか?一体、どうしたら―?)

(怖い)

(…落ち着け、パニックを起こすな。冷静に考えろ、冷静に―)

(―レイセイって何だ?僕はここで何をしている?僕は相原みたいになるのは御免だ。ああやってバラバラになって、誰も知らないままに死ぬのは―)

(落ち着け)

(死にたくない)

(怖い。暗い。彼女に会いたくない。逮捕されたって、良い)

(―体育館に行くだけだ。体育館前まで行って、金木犀の木に触れる。それだけだ、それだけ―)

「―あら、荻野」

 暗闇から声がする。僕は文字通り跳び上がる。悲鳴の様な何かを口にする。声のした方向を見る。

 そこには、全校集会の朝礼台に、優雅とも言える様子で、彼女が腰掛けている。

 彼女。

“神隠し”。

(それだけ―…)

 綺麗な長い黒髪、切れ長の目、悪戯っぽい唇。結び目のぐちゃぐちゃなリボンのタイ、夏服の上から、カーディガン。彼女は相変わらず汗一つ掻いていない。涼しい顔をして、僕の方を、笑って眺めている。

 ―まるで、僕と彼女の間に、諍いなんて一切無かったかのように。

(それだけ―だったのに…)

 僕はだらりと両腕を体の脇に垂らす。息が苦しい。歯の根が震えるのを止められない。彼女は暗闇の中でも発光している様にくっきりと浮かんで見える。まるで海月だ、と僕は思う。水族館で、ライティングされて展示される海月の様に、彼女は内側から青白く発光して見える。僕は悲鳴を飲み込む。彼女は微笑みを崩さない。

「何しに来たの?夜のお散歩?」

「あ…」

「―それとも、私達を殺しに来た?」

 ―僕は首を振る。辛うじて首を振る。涙が出そうになる。咽が痛い。心臓が苦しい。僕は震える自分の両肩にしがみ付く。何とか懸命に言葉を絞り出そうとする。

「ぼ…ぼくは」

「―あたしを見捨てた癖に。荻野、何しに来たの?あたしから奪わないで。あたし達からこれ以上、何も奪わないで」

 ―彼女の声が変化する。彼女の声音が、声そのものが。僕は口を開けたまま、その場で呆然と固まる。彼女の音声がここ数日で聞き慣れたものへと変化していく。彼女は微笑みを絶やさないまま、自分の両耳を、ギュッと、軽く握る。

 ―その手を開いた時、両耳にはピアスがぶら下がっている。左耳に二つ、右耳に一つ。

 …僕は笑う。思わず、本当に思わず。噴き零れるみたいに。

(―相原)

(…糞)

(―ああ、あれは、相原の―)

 出来損ないの笑みを浮かべて、僕は彼女と対峙する。

「何しに来たの、荻野?」

「…相原を、返して貰いに来た」

「あたしを?どうして?」

「…助けて貰ったからさ。助けてくれようとした。だから僕も、相原の事を、出来るだけ、助けたい」

「あの時は、あたしを見捨てた癖に。随分都合が良いのね?」

「…あん時は仕様がなかったろ?僕は首が半分無かったし、それに、頭から出血もしてた。おまけに、気絶してたんだ、許してくれよ―」

「あたしを見捨てた癖に。あたしを見捨てた癖に。あたしを見捨てた―」

「―なぁ、アンタ。篠原和澄、“神隠し”、何でも良いさ。頼む、相原を返してくれ。アンタの中身にはそれ以上手出しはしないし、アンタの正体についても公言しない、約束する―」

「―荻野、あたしが見える?」

「―あ?ちょっと、言ってる意味が―」

「あたし、綺麗になったわ。十分綺麗になったでしょう?」

「あ、ああ―そうだな、アンタは十分綺麗だ。だからさ、だから―」

「―ああ、なのに、どうしてあの人がみえないの?」

「お―」

 ―本能に圧される様に。

 僕は後ろによろめく。一歩、後退さる。彼女はクスクスと笑う、クスクスと肩を揺らして笑う。彼女は腰を浮かして、朝礼台の壇上に、爪先を揃えて立つ。

 夢の続きに居る様に感じる。

 現実感のぼやけた夜の校庭で、僕は半笑いのまま壇上に立つ彼女を見上げている。彼女はバレエのダンサーの様に、右腕を体の前に寄せて身を捻り、そのまま右腕を弧を描くように開きながら、上体を大きく仰け反らせる。

 ―花束を解く様に。

 彼女の上体が、バラバラと複数の体に分かれていく。ストップモーションのコマ送りのように、幾つもの容姿の違う上体が、残像の様に彼女の体の後を追って現れ、そしてバラバラに千切れていく。

 朝礼台の上はいつの間にか手狭になっている。朝礼台の上には6人の少女が立っている。右の二人には見覚えが無いが、左の4人は全て見覚えのある顔をしている。

 篠原和澄。

 園部美佳、吉田優香。

 そして―。

(…相原)

 ―彼女達は笑う。彼女達は皆、一様に同じ仕草をしてクスクスと笑う。両端の二人が壇上を降りる。僕はチラリと横目で東棟を盗み見る。

(…クソ、遠い)

(追いつかれずに走れるか?相原は、足、遅いけど…)

(―今年の体力測定、100m、何秒だっけ?)

「―ああ、綺麗にならなきゃ」

「「「「「足りないの。ああ、もっと、もっと、もっと、もっと、綺麗に!!」」」」」

 篠原の言葉を追う様に、他の五人が一斉に唱和する。

 ―僕はポケットの懐中電灯を引き抜いて彼女たちに投げ付ける。それから、脇目も振らず、弾かれた様に逃げ出す。懐中電灯が何かにぶつかる様な音も、地面に落ちた音もしない。喰われたんだと、目にせずとも、理解する。

 忘れる。

 ―今だけは忘れる。

 明日の事を。明日からの事を。

(走れ)

(ああクソッタレ、ヤバいヤバイヤバイヤバい―!!)

(死ぬ気で走れ。吐くまで走れ)

(死にたくなけりゃ)

 走る。つんのめり、転びそうになりながら、校舎へ―東校舎では無く、西校舎へと。

(捕まったら終わりだ)

(あの距離を6人に追いかけられて、僕の足で、逃げ切れる保証は無い―校舎の中を巡りながら、やり過ごしていくしかない。畜生、もう脇腹が痛ェ―それに、ああ、息が)

(文系なんだよ僕ァ―!)

(死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたく…)

「荻野」「荻野くん」「荻野くん、何処行くの?」「駄目」「駄目だよ」「駄目だよ荻野」

「駄目」

「駄目」

「駄目」

「駄目、逃げちゃ―」

 彼女達の声がする。彼女達の輪唱が聞こえる。僕はそれを振り切って、昇降口の触れられそうな程の濃密な暗闇の中に、肩口からぶつかる様にダイブする。

 息を止める。衝撃を覚悟する。けれども肩口が何かに激突する様な事は無く、僕はそのまま校舎内へ転がり込む様に足を踏み入れる。

 校庭から彼女達の声が追いかけて来る。

 決して、叫んでいる訳では無いのに。耳元で囁いているみたいに。

「追いかけなきゃ」

「追いかけて」

「追いかけて」

「追いかけて?」

「追いかけて、どうするの?」

「殺さなきゃ」

「そうね」

「そうしましょう。もう男は要らないもの」

「殺しましょう」

「殺して、バラバラにしましょう」

「殺して、バラバラにして」

「殺して、バラバラにして、どうするの?」

「そうね、殺して、バラバラにして、それを部屋の飾り付けに使いましょう」

「そうね、それが良いわ。きっと素敵な部屋になる。彼も喜ぶわ」

「背骨はコート掛けに使いましょう。足りない部分は木で補って」

「下半身は椅子にしましょう。丁度良い高さになってくれそう」

「頭蓋骨は小物入れに」

「目玉でプティングを、肉体で石鹸を。皮は鞣して敷物に、脳味噌はトロトロに溶かしてお吸い物に。腕の骨はどうする―?」

「傘の柄に」

「鍋を掻き混ぜる柄杓が欲しいわ」

「靴ベラを無くしちゃって―」

 ―耳を塞ぐ。爪先すら見えない暗闇の中を、記憶を頼りに、必死で目を凝らして疾走する。西棟、一階の窓から、彼女達が朝礼台から散開して動きだすのが見える。僕は歯を食い縛って、身を低くして、息を殺して、瞬きを忘れて、夜の廊下を、非常灯の明かりを標に駆け抜ける。

(クソッタレ)

(相原…)

(―なんとかしてやる、必ず何とかしてやる、なんとか…!)


 西校舎の中央階段から、取り敢えず校舎の二階へと上がる。昨日、相原を見つけて、追いかけっこを始めた場所だ。その事を、もう随分遠い昔の様に感じる。

(待ってろよ、クソ、待ってろ―)

(―落ち着け、落ち着け、落ち着け―)

(…あの木に着きさえすれば。あの木に触れさえすれば、何とか…)

 二階に上がったのに、大した意味は無い。二階部分に居れば、上にも下にも咄嗟に逃げられるだろう、という安易な考えからだ。それは階段の傍に居る場合だけだ、と気付いたのは、既に西棟二階の廊下を中程まで進んでしまってからだ。又も情けない笑みが零れる。自分の浅慮さを呪いたくなる。

(…一階に居た方が、窓の外にも逃げられる。遥かに逃げ道の選択肢が多いのに…)

(多分、考えた積りになっていただけで、本当は違う理由なんだろう。この階には、僕のクラスがある。馴染の道が、僕を安心させてくれる。多分、本当は、理由は、それだけで…)

(―心底、自分が嫌になる。もう二度と、間違える事は出来ないのに…)

(考えるんだ。良く考えろ。この状況を、自分の失敗を、どうにかしたいのなら)

 夜の廊下を、息を殺して、這うように進む。自分の歯の根が立てるカチカチという音と、心臓の音だけが周囲に木霊する。僕は左胸と口元を押さえ、どうかこの音が消えますようにと知っている限りの神様の名前に祈る。僕は浅い呼吸を繰り返しながら、膝立ちで前進する。深い呼吸をしてしまえば、それだけ多く、周囲の暗闇を吸い込んでしまう気がして。体の内側に多く暗闇を吸い込んでしまえば、それが僕の位置を彼女に密告してしまうだろう、という根拠の無い確信が、頭の中にこびり付いて離れない。

(苦しい)

 ―袖口で口元を押さえて、歩く。火災現場で煙から逃げ惑う人々の様に。

(―落ち着け、落ち着け。落ち着いて―)

(怖い。暗い。どうして僕はこんな事を?相原なんかどうなったっていい。自分の部屋に帰りたい―)

(―助けてくれた。助けようとしてくれた。僕の話を信じてくれた。相原だけだったんだ、そういうの)

(…夜に来る必要あった、これ?明日、試してみりゃよかったじゃないか。明日、体育館前のあの木に触れて、王の欠片が出て来ないか、確かめてみて―)

(―明日まで待っている余裕はない。僕には時間が無いんだ。警察はもう、学校の中まで踏み込んで来ている。捜査方針も発表した、事件の終幕も近い。そんな中、相原が行方不明になった―)

(―僕と一緒の時に)

(…僕は、体育館の中でぶっ倒れているのを目撃されている。特に隠れて移動していた訳じゃない、僕と相原が体育館に向かっていたという目撃証言も取れるかもしれない。相原が、友人に何かを告げていた可能性もある。僕が自由に動けなくなるのも時間の問題だ。もしかしたら、何かを試せるのは今日が最後かも)

(―相原の行方を知っているのは僕だけだ)

(王の欠片の事も)

(…今日しかない。今日しか無いんだ、頼むよ、お願いだから―)

 ―太腿を叩き、怯える体を少しずつ前進させる。西校舎の終わりが見える。中央棟の二階へと繋がる、渡り廊下。僕は思わず、ほうっと安堵の溜息を吐く。指先を床に突き、そこまで急いで向かおうと、僅かばかり腰を浮かす。

 瞬間。

                                 ―コツン。

 音が聞こえる。

                         ―コツン、コツン、コツン。

 …階段を登って来る、足音が。

 僕はクラウチングスタートもどきの体勢のまま、動きを止めてしまう。その恰好のまま、固まってしまった首筋をぎこちなく動かして、後ろを振り返る。

「―荻野くん?」

 暗い廊下の南端に、鈍く青白く輝く少女がひょっこりと姿を覗かせる。垂れ目で、可愛らしい丸耳をして。眼鏡を掛けて、そしてとても長くてきれいな黒髪をした少女。

(…園部)

 僕は床から手を離し、屈んだまま、彼女の方へと向き直る。口を開く。何を喋る積りだったのか、途端に分からなくなる。言葉の代わりに、溜息が出る。呆れた様な溜息だけが、長々と。

「何処へ行くの?」

「…やあ、園部さん」

「何処へ行くの?」

「見逃してくれないか?ちょっと、試してみたい事があるんだよ。これはあんた達の為でもあるんだ。なぁ、もし、上手くいったら―」

「何処へ行くの?」

「…言いたくないね」

「何処へ行くの?」

「後100回言ったら教えてやるよ」

「何処へ行くの?」

 肩を揺らして彼女は笑う。僕は遣り切れない笑みを浮かべて遠く、彼女を眺める。今の彼女は、最初、柏木に写真で見せられた時の印象とはあまりにも違う。写真の中の彼女は柔和で、穏やかで、そして優しそうだった。今の彼女は冷徹そのものだ。青白い光が暗闇に慣れた僕の瞳を焼く。昔、TVで見た、放射能の光にとても良く似ている、と思う。

「何処へ行くの?」

「頑張れ。後98回だ」

「…私を見捨てた癖に」

 ―その言葉は思いの外、僕に衝撃を与える。鳩尾を圧迫された様な感覚がして、息が苦しくなって、僕は思わず体を前に折る。顔を歪めて彼女を見上げる。彼女は先程と一切変わらずに笑っている。彼女の言葉が、他の“彼女”達と同じ様に、壊れたレコードの様に繰り返される譫言の様なものだったとしても、それの含む真実が、僕の心臓を握り潰す様に締め付ける。

「私を見捨てた癖に」

「…仕方ないじゃないか。あんな奴相手に、一体どうしろって言うんだ?」

「私を見捨てた癖に」

「僕は只の高校生だ。何にも無い、何の取り柄も無い、只の…」

「私を見捨てた」

「…大した事は出来ないんだ。出来る事は限られてる」

 ―彼女が腕を上げる。授業中、先生に発言の許可を求める様に。彼女の右腕の延長に何かが握られているのが見える。僕はそれをぼんやりと目で追う。彼女がクスクスと笑う。

(…僕が投げた、懐中電灯…?)

(―や、それにしては、やけに細い―)

(それに―尖ってる)

 彼女の腕の先の延長が、外の明りを受けて光る。

 僕は、頭で考えるよりも先に、その正体に気付く。声を出す暇も無く、尻餅を突く。腕を目一杯に、前に突き出す。彼女を階段下に押し返す様に。

 ―目を閉じる。閉じてしまう。

(ヤバい、あれ―)

(包丁―…?)

                                 ―ひゅう。

 風切り音がする。

 背後で金物が転がる音がする。右手と右頬に、鋭い痛みを感じる。痛みが僕を現実に引き戻す。怪我の具合も分からぬままに、息を殺していた事も忘れて、目を見開き、両手を滅茶苦茶に振り回して、半狂乱で僕は駆け出す。

(痛い)

(ヤバイ)

(何が起きた―?)

(痛い。心臓が、心臓と手が、痛い―)

 何度も彼女を振り返る。青白く光る彼女は廊下の奥をのんびりと歩いている。全く急ぐ様子は無い。

(クソ)

(糞)

(クソ、糞、糞―…!)

 僕は必死に足を回転させながら、中央棟への渡り廊下へと飛び込むようにカーブする。途中、彼女の投げた包丁を見つける。膝を折り、左手を伸ばして、倒れ込む様にそれを拾う。振り返って、彼女との距離を測る。彼女は未だ遠く、遥か彼方に居る。慌てた様子は一切、無い。

 彼女が又発言の許可を求める様に、右手を上げて、挙手をする。僕は慌てて身を低くして、中央棟への渡り廊下を息も絶え絶えに走り抜ける。

(痛い)

(血ィ―出てる?)

(後だ。何もかも、全部後。先ずは、あの木に、辿り着いて―)

(辿り着いて―それで?辿り着いたら、本当にどうにかなるのか?)

 僕はその考えを、直ぐさま頭から振り払う。中央棟の2階廊下を、身を低くして、蜥蜴の様に身を伏せて、地を這って、前へと向かう。

(痛い)

(クソ…)

(ああ―本当に、どうにかなんのか?僕が何かをしようと藻掻けば藻掻くだけ、何もかも悪くなっていく。本当は僕は、家の中に居た方が、良かったんじゃないのか?母さんが帰って来るのを待って、事情を話して、荷物を纏めて。消えてしまったクラスメイト達の事なんてなにも知らないフリして、何処か遠くの土地で息を顰めて暮らしていた方が―)

(―明日だ)

(痛い…)

(糞喰らえ)

(…明日になったら、そうしてもいい。明日になったら、そうするか考えよう。だから頼むよ、今日だけは、お願いだから―)

(…もうこれ以上、臆病風に吹かれないでくれ、祐輔。これ以上、自分を嫌いにさせないでくれよ。僕に勇気をくれ、覚悟をくれ、誰だって良い、なんだって良いから、死ぬほど暗くて、死ぬほど痛くて、死ぬ程怖いけど―…)

(…逃げる訳にはいかないんだ。これが多分、最後のチャンスだから)

 ―地面を這って、歯を食い縛って、僕は情けなく前進する。彼女の笑い声が後ろから付いて来る。息を止めてその声を聞きながら、僕は左手に包丁を握り締め、床の上を埃塗れになって、みっともなく前進する。

(…どれだけ無様だって、良い)

 時折顔を上げて、窓から西校舎の様子を確認する。西校舎二階の中央階段前に、青白い女がこちらの方へ歩いて来ているのが見える。彼女は未だ右手を高々と上げている。僕は再び身を屈め、今度は中腰の体勢で、前へと歩き始める。

(―これを、終わらせられたなら)


(…一階だ)

 渡り廊下を進む。ほんの5m程の渡り廊下を越えたその先に、中央棟の西端の階段が見える。

(一階へ降りよう)

(上の階へ上がって来たのは失敗だった。我ながら、馬鹿だった。上階に上がれば上がるだけ、逃げる選択肢を狭くする。一階に下りた方が良い。そうすれば、窓から校庭にも、校舎裏にだって―…)

(怖い)

(地面に降りよう、地面に、地面の近くに…)

 駆け足で階段の傍に寄る。喜び勇んで階下へと一歩、踏み出す。思わず顔が緩む。

 ―その時、音がする。

 彼女達の音がする。

                                  ―クス。

                                ―クスクス。

                              ―クスクスクス。

 …階下に流れそうになる体重を抑え、済んでの所で足を止める。ゆっくりと自分の顔が、しわくちゃの、渋面に歪んでいくのが分かる。僕は右手で咄嗟に顔を覆う。零れそうになる、涙と溜息を堪える。

(…駄目だ)

(今は駄目)

(今は駄目、今は…)

 ―静かに、深く息を吸い、顔を拭って、僕は諦めて階下へ向けた爪先を方向転換し、中央棟三階へと続く階段に、足を乗せる。階段を登る途中、何度も立ち止まって、耳を澄ませる。彼女達の笑い声は、未だ階下をうろついている様だ。それに、“園部”の足音も、まだ遠くの方に聞こえる様に、思う。

(―下に降りるのはマズい…)

(反響していて良く分からないが、多分、あの声、一人分のものじゃない…)

(恐らく“彼女”は、中央棟に複数人を投入した。一階に居るのは、二人か三人。下に降りるのはマズい、廊下で両側から挟まれたら―あんまり考えたくない。窓を開けて外へ逃げるのと、彼女達が走って来て僕に触るの、どっちが早い?)

(触られたら終わりだ。喰われたら、終わり…)

(―クソ、そのリスクを冒してでも、階下に降りて、選択肢の多さを取るべきだったか?逃げの選択肢の広さを―)

(…僕は、また間違えたのか…?)

(―“彼女”は、最初グラウンドに居た。グラウンドの、全校集会で使う、朝礼台に。その後6人に別れた。“園部”は西校舎、中央棟一階には、最低二人は居るとして…)

(残り3人。グラウンドに一人残してるかも?あー…、ほら、司令塔として。あいつらに、そういったものが必要なのかは、僕には分かんないが…)

(同じ仕草。同じ笑い方)

(全く同じセリフ)

(コピー&ペーストしたみたいに)

(―意識共有?脳波伝達?意志統一?)

(…けど、そうだとしたって、校庭を見張る役割は必要だろう。僕が窓から逃げ出して、校庭を突っ切る可能性だって、向こうからすりゃ、未だ無くは無いだろうし…)

(…なら、階下に逃げた所で、残る選択肢は校舎裏くらいだ。なら、選択肢としてはあんまり変わらないか?少なくとも、上の階からは、クスクス笑いは聞こえない。だったら、上の階でやり過ごして、何とか東棟まで―)

 ―階段を踊り場まで上がる。息が上がる。思考が停まる。

(マズい…)

(疲れ―てんのか、僕…?)

 縺れる足で壁際まで歩く。額を押し付ける様にして目を閉じて、正面から壁に凭れ掛かる。額がひやりとして気持ちいい。雑多な思考が頭の中をぼんやりと駆け巡る。このまま眠ってしまいたくなる。馬鹿な考えだ、と思う。けれどもその馬鹿な考えに、思わず縋ってしまいたくなる。何もかも全て忘れて、眠りの中に引きこもってしまいたくなる。

(…駄目だ、駄目、今は…)

(目を開けろ。息を吸い込め。傷の確認を…)

 右手で右頬に触れる。傷口を指先で探り当てる。右手の中指の先が、頬骨の下辺りに、小さな裂傷があるのを見つける。裂傷の長さは精々小指程度だが、結構ざっくりと、縦に深く抉れているのが分かる。が、全くと言って良い程、痛みは無い。

 それに―出血も。

(?)

 壁から離れる。目を開ける。右の掌を、頬に押し付ける。その手を、暗がりの中で、目を凝らして見る。掌の上に色は無い。血液に触れる様な感触も無い。

(何だ?)

(かまいたち、とか?確か、かまいたちによって出来た傷は、出血が少ないとか、昔マンガか何かで―)

(―馬鹿。現実に、包丁投げつけられたんだぞ?現実とは、到底思えないけど―)

(夢の続きに居る様な気がする)

(―痛くない。傷はある、確かにある。あの時は、はっきりと痛みを感じたのに…)

(…まさか、怖すぎて、痛みを感じたのか?幻肢痛、的な…)

(割り箸を熱した焼きごてだと偽って、人の肌に押し付けると実際に火傷した、みたいな話、あったな。あれみたいなもんか?包丁に向かって、手、伸ばしたから―)

(でも―血ぃも、出てないんだぞ?それって、何か、おかしくないか?)

 右手を、目の前に近付けて見る。右手の外側、小指の付け根辺りが、感情線に沿ってぱっくりと割れている。僕は思わず顔を顰める。かなり深い傷だ。親指の第一指程度はある。何か、白い、骨…のようなものも見える。

 けれども、痛みは無い。

 出血も。

(…?)

(痛くない)

(痛くない)

(痛く…)

 僕は痺れた様に暫く掌を見つめている。傷口から入り込む生温い夜気が、酷く冷たく感じる。血がドバドバと溢れて、悲鳴を上げるような痛みが押し寄せて来ない事が、何故だかとても恐ろしい。

(怖い)

(助けて、父さん)

(母さん…)

 僕は傷口を見つめている。と、不意に左腕の先が重たく感じる。僕は左手へと目をやる。

 ―左手の指先に、包丁が握られている。それを何処で拾ったか、思い出すのに、何故だかとても時間が掛かる。

(あ?)

(何だっけ、これ―)

(これ―は、彼女の)

 僕はそれを、目の高さに持ち上げる。包丁を眺める。胸騒ぎがする。

 胸騒ぎだけが。

 …包丁の、巻き起こしている異変に漸く気付く。

(―あ)

(うわ…うわ)

 ―反射的に包丁から手を話す。悲鳴を上げてしまわない様に、辛うじて両手で口元を抑える。けれど、地面に落下していく包丁は止められない。自分の間抜けさに吐き気がする。涙が滲む。包丁が切っ先を下に落ちていく様がやけにスローモーションに見える。自己嫌悪に気が狂いそうになる。

 包丁が地面に落ちる。からんからんと金属音を、喧伝する様に周囲に撒き散らす。

 ―忽ち、“彼女”の声がする。

 彼女たちの声が。

「荻野?」

「荻野くん」

「荻野」

「荻野くん、上かな?」

「上だね」

「上に居るよ」

「見つけた」

「見つけた」

「見つけた」

「「「行かなくちゃ」」」

 ―一斉に。

 クスクスという笑い声が聞こえる。廊下を走りだす音がする。階段を駆け上がる音がする。僕は考える暇も無く走り出す。壁を蹴り、階段を段飛ばしで駆け昇って、中央棟三階の廊下に出る。

(三階―)

(クソ、どんどん目的地から遠ざかってる―)

(開いてる教室は無いか?何処かの教室に入って、奴らをやり過ごして―)

(音楽室、書道室、美術室、生物室―)

(―『音楽室の動くベートーベン』、『生物準備室の動く人体模型』…)

(…クソ、こんな時に、何思い出してんだよ!?)

 手近の音楽室の扉を乱暴に揺する。扉は当然の様に、鍵が掛かっている。僕はショルダーバッグの中から金槌を取り出し(ごめん、母さん)、それを窓硝子に叩き付ける。包丁を落とした時よりも酷い、破傷音が鳴り響く。割れた穴に手を突っ込んで、窓の鍵を開ける。窓からのめり込む様に、内側へと入る。硝子の破片を踏み砕きながら、窓をもう一度締め直し、積んであった机や椅子を引き倒して、壊した窓の前に、何とも頼りないバリケードを作る。

(―クソ)

(クソ、クソ糞、糞糞糞―!)

(どうする!?)

(どうすんだよ、どうしたらいい!?どうすれば―!??)

 頭を抱える。教室の中を見回す。ふと、教室の後ろの、壁に掛かったベートーベンに目が留まる。

(『動くベートーベン』…)

 ―曖昧な笑いが口元に浮かぶ。自分の掌を見る。左の掌を。

 …左の掌は、虫に喰われたみたいに、指先から掌の上部に掛けて、ボロボロに欠けている。特に、指の付け根と、第一関節の辺りは、酷い有様だ。人差し指から小指まで、四指の指紋が丸く削れて骨が剥き出しになっている。

 けれども、痛みは無い。

 出血も。

(クソ…)

(喰われた)

(…喰われたんだ、あの包丁に)

(包丁の柄に)

 目元を覆う。歯を食い縛って、気持ちが落ち着くまで、暫くそうしている。そんな事をしている暇は無い、と分かっていても、そうせずには、立って居られない。

(―喰って、パーツを奪ってる訳じゃないんだ、“彼女”は)

(…喰われたものも、“彼女”なんだ)

(“彼女”が喰ったものは、全て“彼女”になる。“彼女”は、喰ったものを、自分と同質化する…)

(あの包丁も―“彼女”の一部なんだ)

 僕は目を開ける。周囲をぐるりと見回す。考えるよりも先に、体が動く。カーテンを無理矢理引き裂き、引き千切って、それを音楽室のピアノの足に括りつける。外へと続く、廊下側とは逆の窓を開ける。下を見て、もう一枚、カーテンをレールから引き剥がす。それをさっきのカーテンの先に結び付ける。固く、固く、力の限り。命を預けられる、と納得できるまで。

(クソ)

(クソ―)

(クソ、クソ、クソ―!)

 ―即席のカーテンロープの先を窓の外へ投げ出して、震える足で、僕は窓辺へと向かう。相原を呪う。自分を呪う。自分の意気地の無さを呪う。僕は自分の膝を何度も拳で殴り付け、ロープを掴んで、恐る恐る、窓枠を跨ぐ。

 下を見ない様に、意識して視線を逸らす。教室の後ろの、壁に掛かったベートーベンと、目が合う。

「…なぁ、あんた、“彼女”と同じ、七不思議なんだろ?」

 僕は皮肉っぽい笑みを浮かべる。ベートーベンは笑わない。僕は天井を見上げて、深呼吸しながら、頭の中でカウントダウンをする。

「あんたなら出来るんじゃないか?“彼女”を足止めしてくれよ。10分か、5分。1分でも良い、頼むからさ」

 ―ベートーベンの表情は変わらない。僕は肩を竦め、息を止めて、即席のロープに全体重を掛ける。


(死ぬ)

(ヤバい)

(死ぬ―死んだ、これ)

 ―中央棟3階から、夜の校舎の外に身を投げ出す。

 手の中でロープが撓んだと思った次の瞬間、心配になるくらい、限界まで、布が張り詰めるのを感じる。何かがブチブチと裂ける様な音がする。自分が何をしているのか分からなくなる。即席のロープが手の中で泥鰌の様に滑る。周囲から音が消える。咽が痛い。断続的な、短い、甲高い悲鳴が聞こえる様な気がする。それが自分の内側から聞こえるのか、外側から聞こえるのか、分からない。“彼女”たちのやって来るパタパタという足音を聞いた様な気がする。音楽室のグランドピアノがガリガリと床を削って横滑りしているのがロープを通して伝わる。涙と鼻水が同時に出る。

(怖い)

(死ぬ)

(助―たすけて、かみさま)

 思わず下を見る。余計、気が動転する。高所から見る夜の暗闇は、底無しの奈落の様に思える。顔が引き攣る。心臓を直接鷲掴みにされている様に、苦しい。何故か、今日、晩御飯を食べて来なかった事や、ジョンの散歩に行かなかった事ばかりを思い出す。スイッチを切ったかどうか、うろ覚えのPCの事や、やり忘れていた課題の事、それに、相原との約束。

(死―)

(怖い)

(―馬鹿、馬鹿、馬鹿だ、僕。僕は馬鹿か、馬鹿なのか?何だ、何の為に、こんな―?)

(…死ぬ、死んだ、死んじまう、絶対無理だ、死んじまう―)

 ―真下に、階下の窓の上部を覆う、幅15cm程の、短い庇の縁が見える。僕は考える猶予も無くそれに乗る。手の中から即席のロープがするりと擦り抜けていってしまう。僕はイモリの様に、限界まで校舎の外壁にへばり付いて庇の上に立ち、夜風に揺れるロープを情けなく見上げる。ロープは風に流されて、僕の頭上、遥か上空を揺蕩っている。多分、恐らくもう二度と、あれを掴まえる事は出来ないだろう。

(…万事休す、って感じだな…)

(何だ?何だ、これ?今、僕どうなってる?踵が滑る、それに手汗が酷い、息を吸うだけで、体が後ろに―?)

(―生きてる、僕?それとも、死んでる?これは夢?)

(…体が震える。どうすんだこれ、こっから…)

 ―首だけを動かして、何とか下を見ようとする。顔を動かすだけで、体のバランスが崩れて、背中から下に落っこちてしまいそうになる。足が震える。肺の空気を目一杯吐き出して、出来るだけ体を平べったくしようとする。混乱した笑みが浮かぶ。自分の状況が、心底可笑しくなる。

(…何やってんだ、僕?3階から飛び降りて、二階の窓の庇の上で、校舎の外壁に、標本宜しくべったり張り付いて…)

(おかしくなってしまった。何もかもだ。なにもかもおかしくなってしまった。いつからこうなってしまったんだろう。僕はどこで間違ったんだろうか)

(…馬鹿みたいだ。潰れた蛙みたいに、壁にピッタリと…)

(おしっこ漏れそう)

(…考えろ。このまま朝を迎える訳にはいかない。どうすりゃいい?)

(跳び下りるか?)

(2階の屋根くらいの高さだ、死ぬ―って事は、無いだろうが…)

(音がする)

(―それに、骨折でもしたら?そうしたら、もう逃げられない。地面に落ちて、動けず蹲っている僕の周りに、6人の“彼女”たちが集まって…)

(…そうなったら、終わりだ。選択肢は、他に何がある?)

(足元の、窓の庇の、縁を掴んで―窓から、二階の教室に、入る)

(…それしかないか。けど、どうする?窓は閉まってる筈だ。どうやって、中に―?)

(蹴破るしかない)

(―蹴破る?僕が?庇に、指先でぶら下がって―勢いを付けて、キックと共に、教室に突入、ってか?)

(正気か?僕はいつから、ハリウッドのアクションスターになった?)

(…一発で上手く行きゃ、良いけどな。最悪、窓硝子も割れず、庇にぶら下っている事も出来ず、反動で後ろに投げ出されて―地面に投げ出され、肋骨と足の骨でも次いでに折って、その音を、“彼女”達に聞かれ…)

(もう失敗は、出来ないんだ)

(―そうだ、それに、音だ。音はどうする?窓を割れば、音がする。“彼女”達は、その音を絶対に、聞き逃さない…)

                                  ―クス。

                                ―クスクス。

 僕は動きを止める。息を殺す。恐る恐る、上を見上げる。

 音がする。

“彼女”達の音がする。

(猶予は無い)

 僕は引き攣った顔で、音楽室から、窓の外へと棚引く、ロープ状のカーテンを見上げる。音は3階から聞こえる。中央棟の、3階の廊下辺りから。僕は歯を食い縛り、唾を飲み込む。彼女達の足音がする。彼女達の軽やかな足音がする。

 ―胃袋が雑巾の様に締め挙げられるのを感じる。

(どうする?)

(―どうする?どうする?一体、どうしたら―!)




 私。

 私。私。私。私。

 沢山の私達が居る。私達は輪になって、校舎の両端を対になって歩く。

 ―楽しい。

 ―楽しい。

 ―楽しい。

 楽しさが込み上げて来る。尽きる事の無い泉の様に、お腹の底から笑いが込み上げて来る。自分達に足りないのはこれだったんだ、と思う。幸せが頭の先から足の爪先まで満ちる。私達は完璧になったんだ、と思う。『完璧な幸せ』だ。以前はこうじゃ無かったような気がする。思い通りに行かない事の方がずっと多くって、それは仕方の無い事だと、半ば諦めてもいた。けれども今は違う。世界中に、体の外まで、私が満ちている。何もかも、私の思い通りになる。諦めなきゃならない事なんて、ひとつも無い。

(パーフェクト・ワールド)

 ―でも、それを今、壊そうとしている奴がここに居る。■■だ。■■くんは何故だかここに来て、私の■を返せと文句を言って来た。理由は良く分からない。■■くんはその■の何でもないし、前はどうだったかは知らないけど、今はもう、この■は私のものなのだから。

(■?)

(■ってなんだっけ?)

(分からない)

(以前ってなんだっけ?)

(―以前?以前って、前って事?前って、何?この完璧な世界になる前の―)

(自分ってなんだっけ?)

(私、って何だっけ?)

(■■。■■なんか、嫌いだ。この完璧な私を、壊そうとするのなら―)

(どうして■を返して欲しいの?)

(分からない。■は私のものなのに)

(―食べてしまおう。お腹が空いて来た。前に食べたのはいつだっけ?前に■を食べたのは)

(…私、何を食べてたんだっけ?)

(男は駄目。もう男は中に要らないの。あの人に会えなくなっちゃう)

(…あの人って何だっけ?)

(―もっと綺麗にならないと。あの人が会いに来てくれないのは、私にきれいが足りないからだ。もっともっと■を食べましょう。■の人を。綺麗になったって、■■も言ってた。だからもっと、■を食べて、これ以上に―)

(…咽が乾いた)

(苦しい)

(だから■■は食べずに殺してしまいましょう。食べずに、皮を剥いで、肉を削いで。骨を剥き出しにして、家具を作るの。素敵な部屋を造らないと。あの人が驚くくらいの、素敵な素敵な、レディのお部屋を)

(脳みそと目玉は取って置いて。あの子たちが、料理に使うから―)

(…あの子たちって誰だっけ?)

(お腹すいた)

(■■って、なんだっけ?)

 私は笑う。沢山の私達は笑う。上から硝子の砕ける音が聞こえて来る。みんなが口々に、それは■■の仕業だって言う。それが可笑しくて、また私達は笑う。それが■■くんの仕業だなんて、そんなこと分かり切っているのに。だって、他に生きているものなんて、この辺りにはひとつもいないんだから。

(この辺りに居るのは、みんな、私。私達だけ)

(私達の楽園)

(パーフェクト・ワールド…)

 私達は笑いながら、伸び縮みする階段を駆け上がる。ブヨブヨと弾力のあるグミみたいな階段の段を登って、私達は『チュウオウトウ』の三階へとやって来る。『チュウオウトウ』の廊下の西端に居る私が、東端に居る私に言う。

「ここ」

「何?」

「どうしたの?」

「硝子が割れてる」

「ホントだ。割れてるね」

「なんの教室?」

「音楽室。音楽室だ」

「ホントだ。音楽室だね」

「音楽室に、何の用だろう?」

「さぁね。ベートーヴェンに、助けでも求めてるんじゃない?」

 私達は一斉に笑う。楽しい。楽しくて仕方が無い。笑いながら西端に居る私が、『オンガクシツ』の扉に手を掛ける。

「…あれ」

「どうしたの?」

「どうしたの?」

「いや、扉が、開いてない…」

「そりゃそうでしょ。■■は硝子を割って、音楽室に入ったんだからさ」

「それは困った。どうやって中に入ろう?」

「困った。困った。困った。困った―」

「窓から入れば良いんじゃ?」

「はしたないでしょう。スカートの中が見えちゃう」

「どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう―」

「―じゃあ―食べちゃえばいいんじゃない?」

「それは良い」

「それは良い考え。鍵を食べてしまいましょう」

「ドアを食べてしまいましょう」

「校舎を食べてしまいましょう」

 私達は笑う。私達は一斉にクスクスと笑う。西端に居る私が、『オンガクシツ』の扉の中央に手を沈み込ませる。私達は、それを東端から見守っている。

「―ゲ。マズイ味―」

「塩でも持ってくるべきだった?」

「多分家庭課室にあるわよ。誰かに取りに言って貰う?」

 ―と。

 その時。

 音がする。

 大音量で、音がする。

 私達の世界を揺るがす様な、大きな大きな雑音がする。




(…上手くいったか?)

 首を思う様に動かせない所為で、行動の成否は分からない。―が、そう思うのと同時に、頭上で大音量のビープ音が鳴り響き始める。僕はホッとして、防犯ブザーの安全ピンを口からプッと吐き出す。鞄を体の前側に背負い直す。

(良かった、成功した―)

(―の、かな?一応、音は3階の音楽室辺りからしている気がする。もしかしたら、別の教室とか、屋上に行ってしまったかも分からないけど…)

(…他に窓が開いてる教室があるとは考え難いけど、別の教室なら、まだマシかな。問題は、ブザーが屋上まで行ってしまった場合だ。これからする事を考えると。どうしたって、多少音は出る…)

(―あんまり離れていると、僕の行為を、音が掻き消してくれるかが分からない)

(…けどまぁ、屋上まで届くほど、僕の肩は強く無い。自分の弱肩を、信じるとするか…)

 鞄の中に手を突っ込む。金槌を取り出し、それを足元に、落としてしまわない様に、そっと立て掛ける。もう一度バッグの中に手を入れ、次に新聞紙を掴めるだけ、取り出す。千切れる様にして出て来た二、三枚の新聞紙を口に咥え、震える指先で、ショルダーバッグのジッパーを閉じる。

(…しかしまぁ、小学校の頃の防犯ブザーなんて、良く動いたな…)

(電池が腐って無くて良かった。碌に中身を替えた記憶は無かったけど。母さんが替えててくれたのか?それでも、多分5―6年前くらいの―)

(…それに、スイッチ式で無くて良かった。助かった、ピン式で…)

(―持ってて良かった、防犯ブザー。やっぱ、有事の際には、頼りになるよなぁ、これ…)

 ―顔を校舎の外壁にくっ付けたまま、僕は可能な限り、膝を曲げる。精一杯指を伸ばして、足元の金槌を拾おうとする。新聞紙が自分の呼吸でかさかさと揺れる。足場の無い部分で、宙に浮いている尻が、夜風に曝されて体温を失っていく。右手が校舎の外壁を削る。少しでも爪の立つ場所は無いのかと、指先が取っ掛かりを探して、汚れるのも構わずに、そこいら中をガリガリと引っ掻く。

(…クソ。タマヒュンどころの騒ぎじゃないぞ、これ。こちとら、高いとこはそんなに得意じゃないってのに。腰が震える。風の音が、怖い。何やってるんだろ、僕。命綱無しのバンジージャンプか?どっかの部族の、成人の儀式かよ…)

 左手の指先が金槌の柄に触れる。

(来た!)

(落ち着け…これで、金槌を弾き出したりしたら―)

(早く―早く早く、クソ、早く―)

 ―左手の親指と、穴の開いた人差し指が、慎重に金槌の柄を掴む。思わず顔が綻ぶ。ここ最近の出来事の中で、唯一上手く行った良い事例だ、と思う。

(幸先、良い)

(落とすなよ…落とすな。頼むから―)

 金槌を足元から引き揚げる。それを右手に預けて、左手で口元の新聞紙を剥ぎ取る。それを一枚ずつ、お腹の辺りで、金槌に丁寧に巻いていく。

(…こんなんで、音が抑えられるかは、分からないけど―)

(―出来る事をやっていく。それしかないんだ。出来る事をやるしかない…)

(…ハ、こんな事になるなら、命綱とザイルでも、持ってくるんだったな)

 ―金槌に新聞を巻き終える。それをズボンのベルトにしっかりと挟み込み、深く、深く息を吸って、窓の庇の上に、屈みこむ。

(幸先が良い)

(二度ある事は、三度ある)

(大丈夫。父さんだって、言ってたろ?『世の中ってのは良く出来てる。必ず帳尻が合うように出来てるんだ―』)

 ―呼吸を止める。庇の縁を掴み、片足ずつ、空中に下ろしていく。指先がキシキシと軋む限界まで力を込める。何も無い場所にぶら下る体重を、酷く心許無く思う。舌を噛む。下唇を噛む。歯を食い縛る。

(二度ある事は、三度ある)

(父さん…)

(大丈夫。幸先が―)

 ―もう片足を、庇から降ろす。体重が僕を、真っ暗な地上へと引っ張る。落ちている、といった方が良いかもしれない速度だ。一瞬、目の前の光景が全て、あやふやな、帯状の縦線になる。腕が伸び切る。全体重の掛かった肩が悲鳴を上げる。指先を放さなかったのが、奇跡の様に思える。次に目を開けた時には、視界は正常に戻っている。僕は2階の何処かの教室の前にぶら下っている。

 やったんだ、と思う。

(…いや、まだだ)

(この窓を開けなきゃ、結局こっから落ちて―)

(―ていうか、ハンマーで窓を割る為に、この状態から片手、放さなきゃならないのか?今のままでも、いっぱいいっぱいなのに…)

(正気かよ…)

 考えてる暇は無い。即座に覚悟を決める。左手を、掴んでいる庇から放し、ベルトに挟んだ金槌を抜き取る。右肘が限界を伝える白熱した痛みを上げる。僕はそれを無視して、金槌を思い切り窓に向かって振り下ろす。

                               ―ゴ。コ、コ。

(―これで、二枚目。弁償代、幾らだ…?)

 窓に小さな罅が入る。僕はそれを死に物狂いで蹴り付け、叩き広げる。額を冷や汗が流れる。右手の握力が弱まっているのが分かる。窓の穴が直径15cm程になった時、僕は意を決して金槌を捨て、左手を伸ばして、窓の鍵を開ける。金槌が草むらに落ちる鈍い音がする。指紋の欠けた左手で、苦労して窓を開ける。窓辺に左足を突っ込む。

(…これ、いけるか…?)

(右手の指先の感覚が無い。これ、未だ、ちゃんと掴んでる…?)

(大丈夫だ、手を―)

 ―手を放す。

 再び重心が地上へと落ちていく。停まっていたエレベーターが、急に動き始めるみたいに。僕は悲鳴を上げる間もなく、左膝を思いっきり折り曲げる。足首の先に重りでも付いてる様に、右足が僕を地上側へと引き摺り落とそうとする。考えるよりも早く、体を窓辺に寄せる。体が反射的に、上半身を、胎児の様に丸める。両手を窓辺に付いて、何とか重心を引き寄せようとする。

 目を閉じる。

 祈る。

(死んだ)

(怖い)

(落ち―)

 体の浮遊感が消えない。

 ―が、何時まで経っても、体が地面に衝突する様な衝撃は、無い。

(…て、ない?)

(生きてる…?)

(―いや、これは、死んでるあれかも。ショックが強過ぎて気付かないんだ、で、目を開けると、そこには自分の死体があって―…)

 目を開ける。恐る恐る。

(お―)

 ―眼前に、大量の硝子の破片が散らばっている。

 思わず後ろに仰け反る。すると、ぐらりと体重が傾いて、今度は校舎の外に、シーソーの様に、体重が流れ始める。

(―た―すけ)

 必死で窓辺を手繰り寄せる。体重が校舎内へと傾き始めた時、漸く僕は自分が呼吸を忘れていた事に気付く。咳き込む様に新鮮な空気を吸い込んで、口元を拭って、硝子を出来るだけ踏まない様に、右足を丁寧に、教室の内側に招き入れる。上を見る。天井の、更に向こうを、目を細めて、透かす様に。

 防犯ブザーの音はもう止まっている。

(…何時止まったんだろう?)

(気付かなかった。こっちはこっちで、必死だったから―)

(…そろそろ行かなきゃ。ここで捕まる訳にはいかない。それじゃ、折角死に掛けた甲斐が無い…)

 ―溜息を吐いて、忍び足で、休む暇も無く僕は歩き始める。中央棟2階の廊下へと続く鍵を開ける。扉を薄く開け、耳を耳を澄ませて、廊下の音を拾おうとする。廊下からは、今の所、何の音もしない。

 …“彼女”達の笑い声も。

(―段々、笑ってる場合じゃ、無くなってきたか?)

(ざまあみろ)

(上階で、誰かが動いている様な気配はある―まぁ、誰かっつったら、奴らしか居ない訳だけど―けど、最低一人は上に居るなら、今なら包囲は薄い筈―)

(…一階に降りるか?それとも、二階の廊下を突っ切るか―?)

(ま、教室を出てから、考えよう。少しは距離を稼がないと―)


 階段を降りる。

 教室を出て、直ぐ近くの中央棟西端の階段を、出来るだけ音を立てない様に、抜き足差し脚で。

 ゴールに少しでも近づいた方が良い、と頭では分かっていても、上階に、最低一人は“彼女”が居るという事実と、さっきの自由落下の恐怖も相まって、ちょっとでも地上に近い所に近付きたい、という欲求に、抗う事が出来なくなる。お腹を右手で何度も擦りながら、一段ずつ、階段を降りる。臍の辺りの浮遊感が、未だに拭えない。

(死ぬかと思った…)

(足元がふわふわする。エレベーターの中に、ずっといるみたいだ…)

(―いい加減、切り替えないと。問題は山積みだ。僕を取り巻く環境は、何一つ変わった訳じゃない…)

(…ハハ、本当に、何ひとつ好転してないのが笑える…)

 ―一階に到着する。

 廊下は暗く、窓からの明りで、足元が僅かに照らされている程度だ。5m程度先でさえ、判然としない。息を殺して、耳を澄ませる。さっきまでとは違い、絶えず聞こえていた“彼女”達の笑い声も聞こえない。

(クソ…)

 草臥れた笑みが口元に浮かぶ。暗闇が吸水性の良いスポンジみたいに音を残らず吸い込んでいる様に思える。不意に、堪え切れずに泣き出しそうになる。僕は頬を抓り、歯を食い縛り、心に鞭を入れて、無理矢理暗闇の中に、足を一歩、踏み出す。歩かなければ何も始まらない、と自分に言い聞かせる。例えどれだけ苦痛に思えても、一歩でも前に踏み出さなければ、目的地の方から、こちらにやって来てくれる事は無いんだと。

(…こういうの、何て言うんだっけ?)

(『全ての道はローマに通ず』?いや、違うな…)

(…『千里の道も、一歩から』…)

 音がしない。音がしない廊下を、東へ向かって、歩く。廊下を抜けて、東棟を外へ抜ければ、それだけでもう目的地なのに、その距離が途方も無く茫漠としたものに感じる。時々、校舎の中から、校庭の方を盗み見る。何もかもハッキリと見通せる訳ではないが、少なくとも、朝礼台の上にはもう誰も居ないし、目に見える範囲にも誰の姿も無い様に思える。見えるのは月明かりの下で暢気に歩き回る、小さな雀くらいだ。このまま校舎の中を前進していくか、それとも校庭を横切って目的地へ向かうか、迷う。校庭を突っ切って行く方が距離的には近いし、それに、校舎の中には、少なくとも3人の“彼女”が居る―。

(…西校舎2Fの園部と、中央棟の1階に居た、2人)

(―最低2人)

(もう居場所が分からない。ずっと音に注意していた訳じゃないし、さっきの防犯ブザーと、跳び下りの時のどさくさに紛れて―彼女達の移動音を、聞き逃してしまった)

(…何の音も聞こえない。静かだ。もう笑い声も聞こえない。あの耳障りな、“彼女”達の笑い声も)

(夢の続きに居るみたいだ)

(―校舎に僕だけしか居ない様に思える。ホントにそうだったら、どんなに良かっただろうけど)

(…多分、中央棟の1階に居た“彼女”達は、3階に移動したと思う。園部ももう、西校舎から中央棟に着いている筈だ。さっきの騒ぎの最中に来たのなら、音に釣られて3階へ行ってしまったかもしれない―)

(―けど、その考えには、何の根拠も無い。そんなものに、命を預けても良いのか?)

(…怖い…)

(―死にたくない。死ぬかもしれないんだ。そうかもしれない、でも、そうじゃないかもしれない。そんなのは糞喰らえだ。せめて少しでも、確かな足場に自分を乗っけて居たい。少しでも、安全と思える方向に―)

(―校庭を突っ切って行った方が早い。校庭の半分を斜めに走り抜けて、そのまま東校舎を突き抜けてしまえば、ほら、そこはもう体育館―)

(終わらせてしまいたい)

(早く終わらせてしまいたい。早く終わらせて、安全な、自分の家に…)

 どうするか決めかねたまま、惰性で中央棟の廊下を、東に向かって進む。校舎の外を羨望の眼差しで見つめる。校庭の中央を、小さな雀が鷹揚に、支配者の様に、歩き回る。

(安全だ)

(外は安全に見える。安全に…)

(―駄目だ。考えなしに外に出て、校庭と、東棟への入り口の境目に、残りの“彼女”たちが並んで待ち構えて居たらどうする?並んでスクラムを組んでいたら)

(もう失敗は出来ないんだ。もう二度と、失敗は…)

 中央棟の廊下を、半分程歩く。意味のあるのか無いのか分からない事を、ぐるぐると考えながら。言葉が頭の中でブクブクと膨れ上がる。額が痛む、汗が冷えて、凍える様に寒い。何が正しい事なのか、何が確かなものなのか、何ひとつ分からない。触れるもの全てが、砂になってしまったような気分になる。それでも考える事は止められない。そうしなければ、終わってしまうから。

(外は―…)

(外は不味い。不味い気がする)

(理由は?)

(分からない。嫌な予感がする。見晴らしが良いし、隠れる場所も無い。校舎の中だって安全とは言い難いけど、隠れる場所だけは豊富にある…)

(どうすればいい?教科書が欲しい。『上手な化け物からの隠れ方』、『緊急時における七不思議対策マニュアル・上』…)

 ―雀が校庭を飛び立つ。雀が校庭から飛び立つのが見える。窓を閉め切っているので、その小さな羽音は僕には聞こえない。僕は微笑んで、雀に向かって力無く手を振る。雀は僕の予想に反して、短く離着陸を繰り返し、中央棟一階の、廊下の窓辺へと降り立つ。

 僕は立ち止る。立ち止まってしまう。手を挙げたまま、足を止めて、窓辺の雀をぼんやりと眺める。

 雀と目が合う。

(?)

(―あれ?)

(雀って―夜行性だっけ?)

 雀が嘴を振り上げる。硝子をノックする様に。但し、その嘴が硝子にぶつかる音はしない。

 ―その嘴が触れた部分から、ドロドロと炎で溶かす様に、硝子が崩れて消えて行ってしまうから。

(…)

(………)

(…………………クソッタレ)

 僕はのろのろと二、三歩後退する。疲れ切った笑みが口元に浮かぶ。溜息とも嘆息とも付かない吐息が漏れる。雀から目を放さずに、必死で胸元のショルダーバッグのチャックの辺りを引っ掻く。頭で理解する前に、心が、そいつが何なのかを、漠然と理解する。疲労が体を蝕む。倦怠感に絡め取られる。涙が胸の奥から、止め処無く噴き上がりそうになる。目元と鼻が熱くなる。下唇を噛む。

(―“彼女”だ)

(…クソ、あれも“彼女”?)

(同質化。同質化だ。“彼女”は、喰ったものを、自分と同質化する…)

(…あれも“彼女”、これも“彼女”、か。ああ、もしかしたらもう、この付近に棲む、ありとあらゆる生物が―)

(―クソ、考えるのは後だ。先ずはこの場を、何とか―…)




「見つけた」

 と、目の前の私が言う。私が私に言う。

「見つけた?」

「見つけたって、何を?」

「何か探してたっけ?」

「何だっけ?」

 口々に尋ねる私達に、大袈裟に肩を落として私が言う。呆れた様に下唇を尖らせて。

「…■■よ」

「■■?」

「■■って、何だっけ?」

「探しものよ」

「さがしもの」

「さがしものって、なんだっけ?」

「殺さなければいけないものよ」

「なるほど」

「なるほど」

 私達は納得して頷く。その様子を見て、安心した様に向こうの私が微笑む。私達は手を繋いで、一列に連なって、『チュウオウトウ』の東側の階段を下りていく。自然に笑いが込み上げて来る。

(楽しい)

(■■?)

(幸せ。幸せ。しあわせ。ずっとこうしていたいくらい…)

 ―声を上げて笑いだしたくなる。手を繋いだまま踊り出したくなる。けれども、そうは出来ない事に気付く。そうする事自体を止められているかのように、咽を何かに塞がれている様な感覚がある。

(■■?)

「■■の所為?」

「■■くんの所為だ」

「見つけなきゃ。見つけて、さっさと壊してしまわないと」

 私達は連なって歩く。誰にも何にも教えて貰わなくても、■■が『チュウオウトウ』一階に居る事は、何となく、頭の何処かで分かっている。

(…どうしてだろう。■■は一階に居る。私には分かる…)

(皆黙っちゃった。咽がウズウズする。大声で笑いたい。皆で踊りたい…)

(『見た』―から?)

(…でも、私はここに居る。私はここに居るのに、どうして一階の廊下を『見る』事が出来るんだろう?)

(…頭が痛い。この事は、深く考えたら駄目な気がする…)

 頭が酷く痛む。酷く痛む。酷く痛む。

 楽しい。楽しい。楽しい。

 自分がくっついたり離れたりするような、奇妙な感覚を覚える。自分達は、最初はもっと別の、バラバラの“何か”だったんじゃないかという、突拍子も無い考えが、時折頭を過ぎる。楽しい。考える度に頭が痛んで、その度に幸せが膨らんでいく。しあわせが私の■■■場所を押し潰していく。繋いだ手の、指の先から、境目が喪われていく様に感じる。その感覚が、私をしあわせに浸していく。けれど―前はそんな風じゃ無かったと思う。良く思い出す事は出来ないけど。それが、その違いが、何故が不安でたまらない。

「私?」

「どうしたの、私?」

(?)

「…え?」

「お腹が痛いの?」

「心配事でもあるの?」

「な―無いわ。何も無い。どうして?」

「どうして?」

「どうしてって―」

 私の顔を覗き込んで、私達が顔を見合わせる。

「…泣いてる」

「泣いてるよ?」

 ―私は戸惑う。自分の顔に触れて確かめようと、繋いだ手を持ち上げようとする。けれどもそれよりも早く、手を繋いだ両側の私が、私の目を覆う様に、そっと掌を伸ばす。

(―あ)

 あたたかい。あたたかい掌が私の目を塞ぐ。私は笑う。涙が零れる。

(―止めて。思い出した。私―)

(…奪わないで、私の■■■場所を、これ以上―)

(―駄目、駄目、駄目駄目駄目、それを盗ったら―)

(盗ったら―なんだっけ?盗ったら、何?『それ』って、何?私って、何?)

 私達が私の顔から手を離す。私は私達の心配そうな顔を見返す。涙が止まるのを感じる。気分がすっきりとして、晴れの日の日曜日の朝の様に、幸せで胸が一杯に満たされる。

「…大丈夫、私?」

「私、大丈夫?」

「…うん、もう大丈夫。ご免ね、心配かけて」

「そんな事無いわ、私。そんなこと言わないで」

「そうよ、私。同じ私じゃない」

「ありがとう―」

 私達は階段を降りる。連なって階段を降りる。楽しい。こっそりと、スキップする様な足取りで、階段を下りていく。笑い声を上げられないのが、苦しくて堪らない。繋いだ手から、しあわせが流れ込んでくる。私達は、最初からこういう生き物だったという気さえする。

(楽しい)

(―私達は、どうしてここに居るんだっけ?)

(しあわせ。しあわせ。しあわせ…)

(―■■を殺さないと。この幸せを奪われる前に…)

『チュウオウトウ』一階に辿り着く。『チュウオウトウ』一階は、壁も天井も床も、白銀色に、眩しく輝いている。眩しくって、目がチカチカする。私達は手を繋いで、暫くその場に立ち尽くしている。それが何だか可笑しく思える。可笑しくて堪らなくなる。私達は額を突き合わせて、誰の耳にも聞こえない様に息を顰めて笑う。世界に私達しか居ない様に感じる。何もかもが光り輝いて見える。心の中には、しあわせだけがある。

(完璧な場所。どうして最初から、こうじゃなかったんだろう)

(私は何を不安に思ってたんだろう。私は一体、何を…)

(パーフェクト・ワールド…)

 ―その内、右端の私が、廊下の中央辺りに散らばる何かを指差す。指を指して、私達を見る。声に出さなくても、何を言いたいのか、分かる。

(何かある)

(何かって、何?)

(行ってみよう)

(行ってみよう)

(行ってみようよ…)

 ―廊下を歩く。『チュウオウトウ』一階の廊下を、私達で並んで歩く。私達は幸せに満ちている。それは永久に普遍のものの様に思える。

 廊下の中央には小さな私が居る。小さな私は機敏な動きで飛び跳ね、首をくるくると動かし、嘴を持ち上げて並んだ私達を見上げる。小さな私は、直ぐに私達から興味を失ったみたいに視線を外して、また廊下の中央に散らばった、白い何かを啄む作業に戻る。

 私はそれを見る。

(なに?これ…)

(白い―)

(―パン屑?)

 私達は顔を見合わせる。どの顔も不安に脅かされている。左端の私が左の靴の裏で、小さな私を踏みつける。小さな私は小さな悲鳴を上げて、左端の私の足の裏に、ゆっくり、時間を掛けて、呑み込まれていく。

(どうしよう)

(どうしよう?)

(どうしよう…)

(■■を止めないと)

(失くしてしまう前に。壊されてしまう前に。奪われてしまう前に…)

(―『普遍』を、脅かされる前に)




(…まさか、こんなもんが効くとはな…)

 廊下を先へ進む。東校舎一階を、前方に注意して。

 ―パンの耳を齧りながら。

(持ってきて良かった…)

(…クソ、慌てた所為で、粗方中身ぶちまけちまったからな。もう耳の一切れくらいしか残って無い…)

(ああ、そういや晩飯、まだだったなぁ…)

(…うう、こんなんなら、喰わない方がマシだった、ちょっとだけ胃に入れたから、余計にひもじく…)

(―しかし、なんでパン屑なんか効いたんだろな?あれじゃ、“彼女”っていうより、まるっきり、雀―)

(…脳味噌の容量の問題かね?雀の小さな脳味噌じゃ、性質は同化出来ても、“彼女”の意志が内側に入りきらないから―)

(―本当にそうだとしたら、朗報なんだがね、今日の唯一の)

(ま、でも、脳味噌とか関係無かったら―包丁に足が生えて、僕を追い掛けて来てもおかしくない訳で)

 東棟の様子も、先程までの校舎と同様だ。暗く、見通しが悪く、何の音も聞こえない。

(ああ、暗い暗い。クソッタレ、人工太陽でも持ってくりゃ良かったよ―)

(…流石に、この状況にも、少しくらい慣れて来たな…)

(―いや、麻痺して来たって言うのかね、これは?)

 ―けれど、先程までとは、如実に違う点がある。

 僕は窓の外を見る。パンの耳を、口に押し込みながら。

 窓の外には体育館が見える。体育館と―その手前に佇む、野放図に空に枝を伸ばす、あの、金木犀の木が。

(…来た)

 咽につっかえるパンの耳を、無理矢理奥に流し込む。金木犀を睨み付ける。自然に笑みが浮かぶ。嘲笑う様な、酷薄な笑みが。

(…待ってろよ、相原)

(触れて、欠片を盗んで、逃げる。それだけだ。それで終わりだ…)

(家に帰って、ちゃんとした晩飯を食べて、それから母さんと話をしよう。この町を出ていく算段を付けるんだ…)

(この町を出て―何処へ行こう?)

(さあね。それは後で考えるとしよう。取り敢えずは、目の前だ。体はひとつ。僕には僕の、出来る事をするしか…)

(…とは言え、どうしたもんかな。誰の姿も見えないし、それに、何の音も―…)


 ―考える。

 東棟一階、真っ暗な廊下の窓辺で、考える。息を止めて、身を縮めて。

 刻一刻と、時間が過ぎていく。時間が過ぎていくほどに、自分の居場所が失われていく気がする。正体不明の焦燥に胸が苦しくなる。窓の外には金木犀が見える。他に人影は見当たらない。今直ぐ、窓を開けて、外へ飛び出して行きたくなる。

(落ち着け…)

(それは本当に正しい判断か?良く考えろ。それは本当に、正しい行動なのか?)

(良く考えろだって?そんな時間は―)

(…僕はずっと間違って来た。僕はここ最近、ずっと間違って来たんだ。これ以上は失敗できない。もうこれ以上は―)

(良く考えろ)

(…あんまり時間は無い。中央棟には少なくとも、3人の“彼女”がいた。全員が3階に上がったのかは分からないが、上に上がった奴らは僕が音楽室の窓を割った跡を見つけただろう。校舎外へ繋がる方の窓の、外へと垂らしたカーテンを結んで作ったロープも。もうやり過ごされた事に、気付いているかもしれない―いや、最悪、あの雀と“彼女”達が一部でも繋がっているとしたら、僕の居場所ももうバレて居るかも。僕が東棟へ向かったってことも―)

(クソ―何が正しい?考えろ、考えろ、考え―)

 窓に鼻先をくっ付けて、目を見開いて、体育館前を見渡す。目がパリパリに乾いて、痛みを訴えるのにも構わずに。確かに人影は見当たらない。それどころか、他の生き物、犬一匹、小鳥一羽ですら。

(安全―なのか?)

(安全に見える)

(でも、“彼女”には、無機物だろうと関係ない。ここから見えるものが、既に“彼女”に喰われて、同質化している可能性だってある。包丁の先例が―)

 ―そこまで考えて、僕は慌てて窓から身を離して、自分の鼻先を擦る。触れた鼻先は、自分の記憶にある姿と寸分違わず同じ形をしている。思わずホッとする。鼻先は削れて平べったくなったり、喰われて歪な形になったりはしていない。

(…良かった、只でさえ低いんだから―)

(―と。そんな心配してる場合じゃないな…)

(決断しなきゃ。そろそろ決めないと。中央棟に3人、校庭には誰も居なかった。と、いう事は、この付近に残りの“彼女”達が勢揃いしている場合だってある。もし囲まれたら―)

(…もう間違えたくない。もう間違えられないんだ―)

 ―溜息を吐く。屈んだまま窓辺から離れ、東棟北端の、一番近い階段から二階へと上る。階段を登っている最中、自嘲する様な笑みが浮かんで、口元から拭えなくなる。

(…全く。追い詰められた時、人間、一番本性が出るって言うけど…)

(無難な選択肢。問題を、先送りにする選択肢。チキンな選択肢…)

(…正しく僕だな。嫌になるくらい…)

 東棟二階に着く。腰を低くして窓辺に近付いて、もう一度窓の外を見る。

 ―二階の窓辺からは、下からでは見えなかったものも、良く見える。

(うわ…)

 東棟、体育館へと繋がる出口の脇に、ふたりの彼女が腕組みをして、壁に凭れて待ち構えているのが見える。上からじゃ良く分からないが、吉田優香と、多分、篠原和澄。目にした瞬間、思わず体が飛び跳ねる。

(…良かった、臆病で…)

 窓辺から後退りして、頭を抱えて、考える。頭痛がする。鼻の奥に、ツンとした痛みがある。

(…目的地、バレてたんだな…)

(―馬鹿が、それくらい想定内だろ?寧ろ喜ぶべきだ、あれは、あれが“彼女”にとって大事なもんだっていう証なんだから。大事なものには防衛を置く。当たり前の事だ)

(僕の読みは間違ってなかった…)

(…でも、こっからどうする…?)

(どうするんだよ―?)

 苦悶の吐息が漏れる。頭を目茶目茶に掻き毟る。“彼女”達があそこに居る事が、それ自体が、自分の考えの証左だと思う。だから、あの金木犀に触れれば、あの木に触れさえすれば、どうにかなる筈なのに、きっとどうにかなる筈なのに、ここからどうして良いか、僕には全く分からない。

(…朝まで待つか?)

(バカ)

(…母さん、どうしてるかな)

(流石に、もう帰って来てるだろうか。僕が居なくなった事、気付いてるかもな。一応、布団はそれらしく膨らましておいたけど…)

(―注意を逸らす?でも、見張りは二人居るんだぞ?どうにか一人を引き剥がす事に成功したとしても、残った一人を、どうすりゃいいってんだ?)

(向こうは人喰いの、化物だぞ…?)

(―しかも、もう5人はヒトを喰ってる。胃袋に、限界がある様にも見えないし―…)

                                  ―ぺた。

 音が。

 音がする。

 今まで一切の音がしなかったのに。自分の立てる雑音ぐらいしか聞こえなかったのに。突然の音に耳が驚く。限界まで空腹の胃が、入って来る食料を受け付けない様に。混乱する。音が何処から聞こえたのか分からない。けれど、妙に聞き覚えのある音だと思う。湿っぽくて、柔らかくて、やけに馴染がある音。

 僕は息をする事が出来ない。

                            ―ぺた。ぺた、ぺた。

 音は南から聞こえる。南の、廊下の暗闇の奥から。僕は顔を上げて、そちらを見る。両手で顔を覆ってしまいたくなる。けれども、手は僕の意志に反する様に、体の脇に、だらりと力無く垂れる。

                            ―ぺた、ぺた、ぺた。

 顔が強張る。

 そこに居るのが何なのか、何となく分かる気がする。でも、どうしても、その直感を信じられない自分が居る。そうでなければ良い、と願う。そうでなければ良い、と祈る。

(嫌だ)

 体が石膏で固められたように身動き出来ない。

                                  ―ぺた。

 音がする。

 裸足の足音がする。

 暗闇の帳の奥から彼女がやって来る。手提げ鞄を持つように、両手に上履きをぶら提げて。脱色気味の茶髪、多少濃い目の化粧、ピアスを左耳に二つ、右耳に一つ。公園の薄くなった木製ベンチみたいな色の髪の毛にはふんわりとカールが掛かり、腕にはじゃらじゃらと色んなリングやブレスレッドを引っ掛けて、腰には制服指定外のパーカーを巻き付けている。

 ―見覚えのある姿だ、と思う。良ぉく見憶えのある姿。最早懐かしささえ感じる、その姿。

「相原…」

 掠れた声が咽から漏れる。小さな、弱々しい声。こんなに静かな夜じゃ無かったら、きっと自分にだって聞こえなかっただろう。

「荻野」

 相原は笑っている。心底楽しそうに、屈託の無い笑みを浮かべている。クラスで見掛ける様な、彼女の笑みだ。クラスで見掛ける様な、日常の彼女の笑み。友達と下らない話をして笑い合って、互いの肩を叩きながらじゃれ合って浮かべる様な、日常的な笑み。

 ―相原は笑っている。僕はそれが恐ろしい。恐ろしくて堪らない。

「相原、頼む…」

 僕は彼女に、訴えるように囁く。必死に、声を咽から絞り出す。口の中で血の味がする。

 相原は笑っている。相原は心から笑っている。

「だーめ」

「相原、頼む、お願いだ―」

「ダメだよ。ダメ、ダメなもんはダメ。荻野の使い道はもう決まってるの。話し合って決めたんだから」

「は―話し合って?誰と?」

「誰?」

 相原は一瞬、きょとんとした顔をする―が、直ぐにその表情も掻き消える。彼女は腹を抱えて楽しそうに笑う。クスクスと囀る様に笑う。楽しそうに。心底楽しそうに。

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

 音が校舎の中を反響する。“彼女”達の笑い声が聞こえる。四方八方から。目の前の相原からも、東棟の一階からも、中央棟への渡り廊下からも。僕は耳を塞ぐ。悲鳴を上げたくなる。相原を見る。

「誰って、可笑しなこと言うのね」

「あ―何が?何がおかしいって…」

「世界には私達しか居ないのよ?私と、あの人と、それ以外。相談する相手なんて決まってる」

「…随分大味な人口分布だな。総人口3人か?凄ぇな、人口問題も一気に解決だ…」

「荻野の使い道はもう決まってるの」

「そりゃさっき聞いたよ。呆けちまったか?」

「出来れば食べてあげたかったけれど」

「…もっといい雰囲気の時に言って欲しかったね」

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

 東棟階段下から、校庭で出会った“彼女”の内、見覚えの無い姿をした一人が、中央棟の渡り廊下から園部と、6人の内の、見覚えの無いもう一人が、クスクスと肩を揺らし、口元を押さえて笑いながら、姿を現す。僕は廊下に膝を突いて、苦り切った顔でその光景を眺めている。絶望がその身を覆う。頭が、痺れた様に真っ白になる。何も考えられない。指先が、痺れる様に痛む。涙が滲む。

(こんなの…)

(あんまりだ、こんなの)

(怨むぜ、神様…)

 園部が腕を振り上げる。腕から箒の棒が枝分かれするように出て来る。彼女はそれを槍投げのように構える。彼女の隣の見知らぬ“彼女”からは、その腹部を突き破る様にして、内側から二頭の犬が出て来る。柴犬と、ダルメシアン。“彼女”は、その二頭の首筋を両手で撫でる。

 東棟の階段下から出て来た“彼女”は、左手を上げて、手招きをする様に僕に向かって手を振る。その指先から水泡の様に、ぷつぷつと無数の虫が湧き出て、辺りを飛び交い始める。

 僕は相原の方を向く。正面の相原の方を。

 相原は手に持った上履きを揺らす。靴の中からぽろぽろと、ぽとぽとと、幾つもの飴玉が吹き出ては、零れ落ちて来る。飴玉が落ちた跡の床は、綺麗に円形に、丸く削れている。僕は茫然と、彼女を見る。彼女は変わらずに笑っている。まるでこれから起こる事は、素敵なショーの一部だとでもいう様に。

(クソ…)

 目が痛む。吐き気を抑える様に、口元を覆う。これが報いか、と考える。今までやって来た事の、これが。

 ―だとしたら、あまりに遣り切れないじゃないか、と思う。

(…クソ)

(クソ)

(クソ、クソクソクソクソ―!!!)




 ―その時。

(?)

(な―)

 何が起こったのか分からない。台風にでも呑み込まれた様な気分になる。一瞬にして状況が変化する。“彼女”達ですら、何が起こったのか、理解していない様に見える。

(―んだ―)

(―に、これ―?)

 ―窓硝子が破裂する。

(うわ―)

 窓硝子が、内側に向かって破裂する。東棟廊下の、体育館側に面する窓硝子が、全て。音が聞こえたかどうかは分からない。あっという間の出来事だったからなのか、それともあまりの音量に、脳が認識を拒否してしまったのか。僕は頭を覆って咄嗟に床に伏せる。外で爆弾でも爆発したんだろうか、と思う。硝子が粉々になって廊下の内側に降り注ぐ。誰かの悲鳴が聞こえた様な気がする。目を瞑る直前、外から何かが雪崩れ込んで来るのが見える。

 何か。

(助け―)

(―)

(あれ―)

 黒い、何か。夜の暗闇よりもさらに暗い、何か。

(あれ、は―?)

 音が聞こえる。僕は目を開ける。床に這い蹲ったまま、僕は顔を上げる。僕の周囲を、真っ暗な無数の何かが旋回しているのが見える。顔の筋肉が弛緩する。呆然と、その音に暫し聞き入る。頭が現状を整理するまでの間、それが何なのか、何度も念を押して確認する様に。

 その音に。

 ―無数の蝙蝠達が巻き起こす、その羽音に。

(…これは…)

「真祖様」

 背後から男の声がする。僕は軋む首を動かして、ぎこちなく背後を振り返る。聞き覚えのある声だ、と思う。ここ最近で何度も繰り返し聞いた、馴染みのある、声。それが誰の声か分かっても、それを上手く受け入れることが出来ない。近頃は、上手く行くことの方が、ずっと少なかったから。そんな筈無い、と思ってしまう。そんな訳が無い、と疑ってしまう。

 …期待するだけ、苦しいだけだと。

     『―世の中ってのは良く出来てる。必ず帳尻が合うように出来てるんだ』

              『お前の周りに、今は悪い事が起こったとしても―』

          『…それは明日、お前の周りに良い事が起こる印しなんだよ』

 ―僕の背後、直ぐ側に、金髪赤目の男が立っている。後手に手を組んで、サラサラのストレートの金髪を、頭の後ろで三つ編みに結って。男は僕を見て、柔らかく微笑んでいる。僕はその姿を見て、思わず泣き出しそうになる。慌てて目元を抑える。今日はあの、いつもの和服とビーチサンダルという出で立ちじゃない。黒の外套にタキシード、胸元に真っ赤な蝶結びのタイと、まるで物語の内側から抜き出して来た様なきちんとした装束を、身に纏っている。

 僕はその名を呼ぶ。

 ―恐る恐る、確かめる様に。

「…アレックス?」

 アレックスは笑みを膨らませ、廊下に膝を突いて、地面に倒れ伏した僕を助け起こすと、優雅にお辞儀をする。その非現実的な光景に、何度もそれを夢だと疑いそうになる。

 こんな事は起こる筈が無いのだと。

 こんな事は起こる訳が無いのだと。

 蝙蝠達の羽音がする。重力がその頸木を失ってしまったみたいに、体が酷く浮つく。何が起こっているのか分からない。何を思ったらいいのか分からない。

 蝙蝠達の羽音がする。蝙蝠達の羽音の渦の中で、彼の声だけが、透き通る様に良く聞こえる。

「―アレクセイ・フォン・アーデンリッヒ・オプト・デボウト・ガルドエーデルシュタイン、遅れ馳せながら、お求めに依り、推参致しました」

「…夢じゃないよな?」

「当然です」

「助け、助けて―」

「―その為に来ました」

 アレックスはニカッ、と歯を見せて笑い、立ち上がると、廊下の前後に向けて、両手を突き出す。途端に蝙蝠の渦が奔流となって分かれ、廊下の中を突風の様に吹き荒れる。耳の中が蝙蝠の羽音で一杯になる。僕は反射的に、耳を塞いで歯を食い縛る。頭の中を直接掻き毟る様なその音に、気が狂いそうになる。僕は耳を塞いだまま廊下の南側へと慌てて目を向ける。蝙蝠の群れの中から、咳込みながら、裸足の相原が歩み出て来るのが見える。

(効いて…る?)

(咳、してる)

(どうにかなる?どうにかなるのか?どうにか―)

 …彼女の、肘や太腿や胸や腹から、黒い、羽の様なものが飛び出している事に気付く。それが、彼女の体の内側に、少しずつ沈み込んでいっている事に気付く。アレックスが来て、久しぶりに自分の胸の内に点った小さな明るい何かが、それを見て瞬時に萎んでいくのを感じる。吐き気を抑える様に、自分の喉元に触れる。感覚の無い首を掻き毟る。

(―駄目だ)

(駄目だ、駄目だ、やっぱり駄目だ―)

(―“彼女”は触れたものを食べる。食べて、同質化するんだ。やっぱり駄目だ、アレックス。逃げよう。逃げて、僕の部屋まで逃げて、朝になるまで目を閉じて―)

(―あと少しなのに。あそこに見えているのに。あそこに行きさえすれば、あれに触れさえすれば、そうすれば、そうすればきっと―…!)

 アレックスが眉を顰める。

「ふむ」

「…駄目だ、アレックス駄目だ、逃げよう。奴は触れたものを取り込んじまう。物でも生き物でも関係ない。喰われたら変化させられちまう、あいつと同じに。もうどうしようもない、もう終わりだ、もう―」

「―ならば、アプローチを変えてみる事にしましょう」

「アプ―何だって?」

 混乱したまま、アレックスを振り返る。アレックスが旋風のように素早く回転するのが見える。東棟一階からの階段側に居た“彼女”が、僕の足首に手を伸ばしている。意味を成さない喚き声が自分の口から吹き出す。アレックスが“彼女”の頭部に向かって蹴りを繰り出す。僕はその動きを制止しようと指先を動かす。吸血鬼の速度に着いて行けない事なんて、分かり切っている筈なのに。

(―お前、さっき僕が言った事、聞いてなかったのかよ―!?)

 アレックスが、“彼女”の頭部への蹴りを振り抜く。

 僕はその足を捕まえようと、手を伸ばす。

                                 ―ゴキン。

(―い―?)

(―何だ、今―?)

 ―思考が追いつく暇も無く、“彼女”の身体が後ろへ吹っ飛んで、一階へ通じる階段の踊り場の壁に、強かに背中を打ち付ける。“彼女”が苦悶の表情を浮かべて、体を二つに折る。

(な―)

(何、を―?)

 …階段下から、“彼女”がアレックスを睨み上げる。その表情に、初めて、怒り―や、敵意の様なものが見えた気がする。僕と鬼ごっこをしている時には、決して見られなかった顔。自分の思い通りにならない、異物を見る様な眼差し。

(これ―)

(これは、どうにかなる―効いてるんだろうか?)

(信じて良い、信じて良い…んだよな?)

“彼女”の掌から、ガランと何かが剥がれ落ちる。

(何だ?)

(二つに折れた―丸い―標識?)

(『通り抜け禁止』…)

「―敵もさる者ですな。どうやら咄嗟にガードしたようで」

「ガー…?あ―一体、何を―?」

「空気圧ですよ。触れるものを取り込むという事でしたので、触れないもので攻撃してみようかと」

 僕は笑う。

 間抜けに、口角を曲げて。

(何―)

(何、してんだ、こいつら―?)

(空気圧?知ってる知ってる。ちびっ子科学教室で見た、空気を、圧力に依って、アレして―)

(―イケメンは、空気圧を発射する事が出来るんだ、凄いなぁ)

(何とかなる―何とかなるって、信じても良いのか?)

 夢の続きに居る様に感じる。

 僕は半端な笑顔を浮かべながら、感覚の無い首を掻き毟り、砕けた窓の外、金木犀の方へと振り返る。金木犀が、かつてなく近く思える。手を伸ばせば、触れられそうに感じる。暗闇の中で見る樹木は、酷く禍々しい。多数に分かれて空に伸びる枝は、邪蛇の数多の多頭に見える。夜風に揺られて喚く木の葉は、化物の鳴き声に、幹に浮かんだ歪んだ紋様は、呑み込まれた人の顔に見える。

 金木犀の根元に、二人の“彼女”が立っているのが見える。二人の“彼女”がこちらを見上げている。

 二人の“彼女”。

 吉田優香と―篠原和澄。

「真祖様、ここは私が抑えます。真祖様は、お先に」

「あ―うん、そうさせてもらいたいのは、やまやまだけど―」

「―行け、カミュ!」

「え―?」

「―真祖様を、頼むぞ」

「何を―」

 ―言葉を発する前に。

 体を思い切り後ろに引っ張られる。悲鳴を上げる暇も無く、自分の体が窓から外へ飛び出すのを感じる。混乱して、暴れる間も無い。東棟、二階の廊下に、アレックスが四人の“彼女”に囲まれて、ひとり取り残されているのが見える。僕は思わず手を伸ばす。伸ばした手は空を切る。胴体を何者かにしっかりと捕まえられているのを感じる。体が後ろに引っ張られながら、ぐんぐんと飛翔する。

 東棟の屋上を越えた辺りで、体の上昇は止まる。足が地面に着いていないので落ち着かないが、胴体をがっちりと抑えられているので、中央棟でカーテンバンジーした時の様な恐怖感は無い。

 僕は背後を懸命に振り返る。そこには、背中から羽を生やして、アレックスと同じ様に、伝統的な吸血鬼風の衣装に身を包んだ―カミュが疲れた顔をして、こちらの方を見下ろしている。

「…オギノ。こっからどうするの?」

「あの木に向かってくれ。あの木が多分、全ての元凶だ…と思う」

「了解。この辺りに水源はある?」

「あ?あーと…あそこにプールがある―そこに水栓があると思うけど―?」

「分かった。じゃ、口を閉じて。急降下する」

「―その前に、ひとつ聞いても良い?」

「…何?」

 カミュは、心底鬱陶しそうな顔をして、僕の事を見る。僕はそれを見て、小さく苦笑する。その表情を酷く懐かしく感じる。日常の一幕に戻って来た様な気がする。“彼女”たちの、型に嵌めたような、一揃いの笑顔では無い、生きた人間の表情。

(…まぁ、彼女、人間じゃないんだけど)

「さっさとして。何?あんたの居場所なら、悪いけど私には筒抜けよ。あんたは私を部屋に招き入れたし、私の魔術を受けて、魔素も取り込んだんだから。こんな夜更けに一人で外へ出て、何事かと思ったわ。さぁ、分かったら口を―」

「あ―そうじゃなくて。君達、許可されて無い建物には入れないんだろ?」

             『―閉鎖された建物には、招かれないと入れないの―』

                          『廃墟や、公共の建物なら大丈夫なんだけどね。人が住んでいたり、往来する職種が限定されている建物は―』

                               『空いた窓からとかなら、コッソリ忍び込むことも出来るけど―大方の力は制限されるでしょうね』

「―どうやってここに?」

 カミュは複雑な表情を浮かべる―嬉しい様な、ホッとした様な、馬鹿らしい様な、笑い出してしまいたい様な。やがて、カミュは言葉少なに、自分の肩に袈裟懸けに掛かった白い紐を、顎を動かして僕に示してみせる。僕はその紐を目で追う。紐の先に、何かがぶら下がっている。

(?)

(何だ、これ―?)

 僕はその紐を、後手に手繰り寄せて、眼前に持ち上げる。紐の先には、小さなプラカードがぶら提げられている。そこには手書きでこう書いてある。

【入校証】

「………?」

 僕はカミュを見る。カミュは苦笑いを浮かべて、言う。

「そんな顔しないで。私も同じ気持ちなんだから」

「いや、どういう事?意味が―」

「…兄さんよ」

 彼女は笑う。疲れた様に。でも少し、誇らしそうに。

「あなたの命令を実行していたのよ。後で褒めてあげて。あなたは多分、あの女を校外で探せって意味で言ったんでしょうけど―兄はそう思わなかったみたい」

「つまり―」

「―『木を隠すなら森の中、学生を探すなら学校の中』だって。今日一日ずっと粘って、私の分も、それを捥ぎ取ったそうよ」

「それは―なんとも」

「…真面目なのは良い事なんだけどね。クソが付く程なのは、どうにかして欲しいわ。しかも手書きだし。まぁ、向こうは多分適当にあしらった積りなんだろうけれど―私達には、これで十分だったみたい」

「手書きで?」

「ええ。複雑だけどね。さぁ、お喋りはもう終わり。そろそろ行くわよ。準備は良い?」

「駄目って言ったら、聞いてくれる?」

「口閉じて」


 …ジェットコースターを思い出す。

 臍の辺りを宙に取り残されるような感覚がして、尻から落下するように、猛スピードで落ちていく。舌を噛まない様に、彼女に言われるがままに口を閉じる。僕の胴体を掴む彼女の腕に、不思議と安心感を覚える。僕はその腕に上からしがみ付く。手袋を嵌めた彼女の指先は、その上からでも分かる位、氷の様に冷えている。

 僕達は落ちていく。駄々っ子のように、自分の足が激しくバタつくのを感じる。仕方ないだろ、空を飛ぶのに慣れてないんだから―と、誰に対してなのか分からない、言い訳が頭を掠める。向かい風で目が痛む。痛みに目を閉じる。目を閉じる直前、“彼女”達がこちらを向いたのが見えた様な気がする。

 二人の“彼女”。

 吉田優香と―篠原和澄。

「カミュ―」

「分かってる。一瞬で終わらせるわ」

「そうじゃなくて―“彼女”の片方は、クラスメイトなんだよ。元クラスメイト。八重歯の方だ、出来れば―」

「…悪いけど、そんな余裕は無いわ、残念ながら」

「カミュ…?」

 聞いた事の無い、彼女の硬くて乾いたその声に、妙に胸がざわつく。それを形にする前に、彼女が僕の胴体を掴んだ両腕をパッ、と手放す。あ、と思う暇も無く尻から地面に接地する。硬い地面の感触が下腹部に響く。衝撃が脳髄を駆け抜ける。

(は………)

 涙が出る。今日幾度と無く零した、それらのどれとも違う種類の涙。

(痛―)

(クソ―こいつ、絶対、ワザとだぞ、このドS…)

 ヒィヒィと荒い呼吸を繰り返す。痛みが引くまでの間、紙相撲の人形の様な体勢で、その場に固まっている。バサバサと突風の様な羽音がして、カミラが直ぐ側に、そっと着地する音が聞こえる。

(―しかも着地前かよォ!!)

 僕は震える瞼を開けて、カミラの方に恨めし気な目線を向ける。カミラは僕を見て居ない。張りつめた笑みを浮かべて、彼女は東棟の方向を見つめている。

(ま―そりゃそうか)

(敵がいる。しかも二人、多分、“王の欠片”入り…)

(ああ痛ぇ、ケツが少し擦り減った様な気がする…)

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

 ―声が聞こえる。僕は慌てて向きを変える。震える膝に手を掛けて、立ち上がる。東棟を背に、二人の“彼女”が立っているのが見える。僕は素早く首を振って、“彼女”達と、金木犀までの距離を目算する。カミラは良い場所に降り立ってくれた。金木犀は僕達の背後、ほんの5m程の場所にある。東棟入り口付近に陣取っている“彼女”より、僕達の方が、到達が絶対に早い。

 それでも―“彼女”らに背を向けて良いものかどうか、惑う。判断が出来ない。カミラを見て、それから“彼女”達を見る。

 二人の“彼女”達。

 吉田優香と、篠原和澄。

(クソ…)

(…今でも見憶え無えな、吉田―さん。去年ホントに居たんだっけ、彼女、同じクラスに?)

(ま、そりゃ、向こうも同じだろうけど…)

“彼女”達は一様に笑う。右手を口元に当てて、右手を腹部に当てて。肩をゆらゆらと揺らして。

「荻野」

「荻野だ」

「荻野は殺さなきゃ」

「殺して、バラバラにして、家具にして」

「…そりゃどーも」

「相手にしないで」

 カミラからの叱責染みた反応に、思わず肩を竦める。彼女の方を見る。カミラは、白い手袋を嵌めた手を体の脇で僅かに持ち上げて、決して“彼女”達から目を逸らさない様にしている。その眼差しからは、ピリピリとひりつく様な緊張を感じる。僕はそれをみて、自分の口をそっと両手で塞ぐ。

(…そうだな。今、邪魔なのは僕だ。こっから先は、彼女の領分だ―)

(と―いうより、僕にはどうにも出来ない領域。僕にはずっと縁の無かった世界。避けて来た世界―)

(暴力の世界…)

(…喧嘩したのなんて、一体何年前かな…)

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

“彼女”達は変わらずに笑う。まるで脅威など何処にも無い様に。日常の地続きの出来事かの様に。

「ね、それより―彼女」

「ええ、彼女」

“彼女”達がカミラを指差す。順番に。最初に吉田優香が。次に、篠原和澄が。

「…凄く良いわ」

「とても素敵ね」

「金髪は持ってたんだっけ?」

「それに、赤い目。まるで、ワインレッドのルビー」

「透き通るような白い肌」

「ああ、欲しい。凄く欲しい。どれも欲しいわ」

「食べてあげる」

「食べてあげる」

「食べてあげるわ。これから仲良くしましょう」

「仲良くしましょう、ずっと。ずっとずっと。永遠に」

「お断りよ」

 カミラは短くそう言い、“彼女”達の言葉を鼻で嗤う。“彼女”たちは笑顔を崩さない。吉田優香が左腕を伸ばす。その腕の上部に、次々に、駱駝の瘤の様な突起が複数現れて、それが鴉や雀、燕、鶏、翡翠に変化する。篠原和澄が右腕を伸ばす。右腕から氷柱の様に沢山の肌色が垂れ下がって、そこから何本もの腕や足が連なって、枝の様に生えて来る。

「「大丈夫。私達が仲良くしてあげる。きっととっても、とってもとってもとってもとっても楽しいわ」」

「ご免ね。あんたらと遊んでる暇は無いの」

「「もう何も悩まなくても良いの。完璧な世界よ」」

「…一気に終わらせる」

 カミラが右の掌を上に向ける。左手で何かを引き抜くような仕草をする。途端に何かが爆発する様な音がして、僕は咄嗟に頭を庇ってその場にしゃがみ込む。

(な―?)

(また、爆発―?)

(どんな紛争地帯だよ、この学校は―?)

 音の出所を探して、必死に辺りを見回す。

 …直ぐにそれを見つける。

(…に…)

 ―体育館北のプールの上空に、巨大な水塊が浮いている。

(………?)

(これ…)

 プールの浴槽のコンクリートが、外側からも分かる位に、罅割れて砕けている。中から時折、噴水の様に、水が空中に勢い良く吹き上がる。僕は言葉も無くそれを眺めている。放物線を描いて飛ぶ水滴は、勢いを失って地面へ落ちていく手前で静止し、ゆっくりと上空に、プールの上部に浮いている水塊へと引き寄せられていく。

(これ―弁償代、幾らだよ?)

「素敵」

 カミラが隣で呟く。僕は彼女の方へ抗議の声を上げようとする。彼女の右の掌が、その上で何かを転がそうとする様に、傾く。途端に水塊が、ごうんごうんと不吉な音を立てて、空中を移動し始める。その音に制される様に、僕はそこに屈んだまま、痺れた様に、場の推移を見守る。“彼女”達の笑顔が幾分か、薄まっている事に気付く。

 ―良い気味だ、と思う。

(ザマミロ、このまま―)

(―やったれ、カミュ―)

 カミラが右の掌の上を、左手で弾く。その瞬間、水塊から氷柱が―。

(…え?)

 ―二本の、全長3mはありそうな氷柱が水塊から飛び出て来て、それが素早く、正確に“彼女”達の胴を貫き通す。

(お―)

 ―二本では終わらない。三本、四本、五本と次々に水塊から氷柱が生まれ出て、“彼女”達へ向かって飛んで行く。幾つもの氷柱が“彼女”達を貫く。吉田優香の顎を、篠原和澄の右膝を、胸を、左足を。僕はカミラを止めようと屈んだまま腕を伸ばす。冷気と砂煙が彼女達を覆い隠す。カミラが右の掌の上を握り潰す。

(―いおい、おいおいおいおい―!)

 水塊が破裂し、激流へと形を変えて、東校舎の壁を削り、残っていた窓硝子を砕き、“彼女”達の居た場所を瞬時に呑みこんでいく。僕はその場にのろのろと立ち上がって、暫くその光景をぼんやり眺めている。災害に偶然居合わせた人は、皆こんな気持ちになるのだろうか、と思う。

「お、おま、おまえぇ…」

「―行くわよ、オギノ」

「八重歯の方は、ク、クラスメイ、元クラスメイトだっていったよな―!?」

「―多分、殆ど時間の猶予は無いわ」

「え?」

 水流が地面を押し流していく。その音を聞きながら、僕はカミラを見る。カミラは東棟を見ている。東棟を襲う奔流を。カミラは右の掌の中を片手で掻きながら、僕の方へ目を向けずに言う。

「ど―?」

「…仮説よ。あんまり深刻にならずに聞いて頂戴」

「カ―?」

「兄さんは“彼女”達を攻略出来た積りで居るみたいだけど、私はそんな風には思えない。あいつらからは、オギノ、あんたと同じものを感じる。あんたの…中に入れたものと、その、同じ様な波動を」

 カミラが僕の方を見る。彼女は少し、困った様な顔をしている。水の音が引いていく。それが僕の不安を掻き立てる。

「―多分、奴らは“王の欠片”を飲み込んだんだ。そうでしょう?」

「ぼ―僕は―」

「憶測でも良い。違うならそう言って」

「そう―ああ、そうだと―僕も思ってる、その、確たる証拠は無いけど…」

「恐らく正解よ。奴らは“王の欠片”を飲み込んだ。奴らは触れた対象を飲み込む。兄さんは、触れずに奴らと闘う事にしたみたいだけれど。で、こっからが本題」

 カミラが右の親指を立てる。それに左手の人差し指を乗せる。僕は唾を飲み込む。

「ひとつめ。奴らはひとつの物体、或いは同一性質の物体しか飲み込めない」

「そ―」

「―もしそうなら、話は一番簡単ね。前者なら《氷槍》の二射目で死んでるだろうし、後者なら《タイダルウェイブ》で打撲、窒息、複雑骨折、ってとこだろうから。少なくとも、全身打ち身は避けられない。あの激流の中で泳げない限りは」

「そ―うじゃない可能性がある、の?」

「多分ね。《氷槍》が奴らの体に刺さった感触が無かった…自分の魔素で造ったものだから、ある程度感覚が残るの。ナイフを指先で持ってるみたいなものね。けど、奴らの体には全然手応えが無かった…」

「そんな―…」

「多分、氷は食べられたわ」

 カミラが右の人差し指を立てる。僕はそれを見る。彼女はそれに、左手の人差し指を乗せる。

「…ふたつめ。奴らの《口》は、食べられないものがある。或いは、食べようと意識したものしか食べられない」

「くち………?」

「兄さんの戦いを思い出して。兄さんが、奴らの内の一体と、建物内で戦ってたでしょう?あの時―…」

 ―直ぐ様脳裏に、先程の光景が蘇る。“彼女”の内の一人が、階段下から、僕の足首へ向かって手を伸ばす。その時の、僕を見上げる“彼女”の表情まで、頼んでも居ないのに、鮮明に。

 …心臓の辺りに、締め付けられるような感覚を覚える。

         『…意味を成さない喚き声が自分の口から吹き出す。アレックスが“彼女”の頭部に向かって蹴りを繰り出す。僕はその動きを制止しようと指先を―』

「…―周りの空気ごと食べて居たなら、兄さんに吹っ飛ばされる事は無かったのに。けれど、奴らはそうしなかった。それは、奴らが気体を食べる事が出来ないからか―」

「―アレックスの、蹴りを喰おうとしていたから?」

「そう。足ね、正確には。奴らは兄さんの、足を喰らおうとしていた。だから、飛んで来る衝撃には対応出来なかった」

「理に適ってる、と思う、けど…」

 カミラは笑う。静かに、苦々しく、微笑する。そうだったら良い、と願う様に。そうでない事を確信しているかのように。

 彼女は右の中指を立てる。僕はそれを見る。それ以上聞きたくない、と思う。

 ―彼女は左手の人差し指でそれに触れる。

「みっつめ」

「…まだ何かあるのか?」

「“彼女”達は自分と他人を繋いでる。その上、“王の欠片”を取り込んで、自分達の意識を“骨の王”と結合している。だから、意志決定が分散し過ぎて…若しくは“欠片”を飲み込んだ、基盤の自我が肥大し過ぎて、意識が混濁している。その所為で、端末達の動作が鈍重になっている」

「…」

「心当たり、ある?」

                                『―僕はポケットの懐中電灯を引き抜いて彼女たちに投げ付ける。それから、脇目も振らず、弾かれた様に逃げ出す。懐中電灯が何かにぶつかる様な音も、地面に落ちた音もしない』

                             『何度も彼女を振り返る。青白く光る彼女は廊下の奥をのんびりと歩いている。全く急ぐ様子は無い…』

                                  『荻野』

                                『荻野くん』

                         『荻野くん、何処行くの?』

                             『駄目だよ荻野…』

                        『―荻野、あたしが見える?』

           『あたし、綺麗になったわ。十分綺麗になったでしょう?』

              『―ああ、なのに、どうしてあの人がみえないの?』

「…だったら、どうなんだよ?」

 ―カミラは微かに歯を覗かせて笑う。疲れた様に、呆れた様に、皮肉気に。

「だったら終わりね」

「おわ―り?」

「そうだった場合、“彼女”は無敵よ。、そうだった場合、ね。そうだった場合、“彼女”の意志が認識を改めて、周囲の全てを何もかも飲み込んで、こちらに向かって来る事を選んだなら、私達に出来る事は何も無い」

「何も―…」

「―あなたが、奴らから王の欠片を抜き出す以外には」

 カミラが、仮説を数えて居た左手の人差し指を持ち上げて、白い手袋を嵌めたその指で、僕の胸を、真直ぐに突く。

「…僕?」

「そう。欠片の場所に、見当は?」

「金木犀…」

「―そう。その為に来たのね。信じても良いの?」

「…誓うよ」

 彼女の問いに、僕は応える。胸を突く彼女の指を見て、彼女の目を、覗き込んで。彼女は眉を顰める。僕は微笑みを浮かべて見せる。ぎこちなく、気弱な笑みを。こういう時、剛毅に笑い飛ばしてみせる事が出来たらどんなに良いだろう、と思う。自分の情けなさに泣きたくなる。自分の小ささを、悔しく思う。

(こういう時、もっとピシッと決められたらなぁ―)

(決められたなら…いや、決められないから、僕なのか)

「王の心臓に誓う」

 ―彼女はそれを聞いて、口元を綻ばせて、にっこりと微笑む。僕は目を丸くして彼女の顔を見る。彼女の、邪気の無い満面の笑顔を、僕はその時、初めて見た様に思う。

「―宜しい」

 彼女は僕を金木犀の方向に向き直らせ、その背中を思いっきり、引っ叩いて、押し出す。僕はその勢いに呑まれる様に、金木犀へ向かって力強く、一歩を踏み出す。

 夢の続きに居る様に感じる。

 ―金木犀が、目の前に在る。


(…大きな木だ。いつ見ても、大きな木…)

 ―体育館側面の西側に、校舎側からの視線を切る様に、一本の大きな木が植わっている。

(金木犀。これが金木犀…)

 幹は真直ぐに縦に伸び、大体地上1mの辺りから奔放に、細身の枝が幾つも複数分岐して生え、縦に、横に、その版図をドーム状に目一杯に広げている。6月中旬のこの時期に、流石に花の咲く様な気配は無い。枝の先には青々とした葉が、幾つも連なって生い茂っている。夜中に見る木の影は、普段見るよりも、もっとずっと、巨大に思える。大きく、黒く、枝の先は目に見えないくらい細くて、夜半の空との境目が分からない。

(…不思議だ。何の匂いもしない。雑草を擦り潰した様な、青臭い匂いがするだけ…)

(もっと、強烈な臭いがすると思っていたのに。現国の、近江先生からした様な。“彼女”からした様な…)

(―ここまで来た。漸く、ここまで来た。これに触れば、全てが終わる。漸く全てが終わる)

(終わるんだ…)

 ―勢いのままに、僕は歩き続ける。金木犀へ向かって、フラフラと。まるで、夢の中を歩く様な足取りだ。現実感が無い。暗闇の中を掻く様に、腕を前へ突き出す。

(…そんなの、最初からそうだったじゃないか?)

 我知らず、笑みが浮かぶ。前へ進む足に力が籠る。叩きつける様に、足を前へ踏み出す。

(ここ最近、ずっと、悪夢の中に居るみたいだった…)

(次から次に悪い事が起こる。まるで自分がそれを生み出してるみたいな。『違和感の塊』…)

(―でも、遂に、それから醒める時が来たんだ…)

 腕を伸ばす。金木犀が最後の抵抗をする様に、枝の先を揺らして、ざわざわと葉を鳴らす。僕は深く息を吸う。左手で枝を払って、右手を思い切り前へと出す。

(終わりだ―)

(これに触れたら、これに触れさえしたら…)

(きっと大丈夫、きっと何とかなる、きっと相原は…!)

 右手で幹に触れる。

 金木犀の幹に。

(は―…)

 幹の表面はザラザラで、デコボコとしていて、そして少ししっとりと湿っている。僕は幹の表面を撫で、親指で爪を立てる。ザラザラとした木の感触が擽ったい。僕は瞬きをして、幹の違う部分に何度も触れて、屈んで幹の傍に歩み寄って、左手でも触れてみる。両手で確かめる様に。何度も何度も。

(…―?)

 何も起こらない。

(これ―?)

(これ―で、欠片を抜き出した事になる…のか?)

 劇的な何かが起こる。

 劇的な何かが起こる、と勝手に期待していた。

(これ―…)

(これ…で良いのか、本当に?)

 何かが光り輝いたり、爆発したり、それとも鼓膜を突き破るような轟音がしたりして、“王の欠片”が噴き出して来るんだろうと勝手に思っていた様な気がする。心の何処かで、何故か当然のように、そうなるもんだと。信じていた。信じていた、気がする。

 頑張って来たから。

(終わった―)

 ―頑張って、ここまでやって来たんだから、と。

(終わった―のか?)

                                 ―ザクッ。

 音がする。

 する筈の無い音が。

 僕は後ろを振り返る。両膝を突いて、金木犀に両手を触れたまま。音が聞こえる。何度も音が聞こえる。僕は混乱する。する筈の無いその音の、正体が分からなくて。

                         ―ザクッ。ザクッ。ザクッ。

                                 ―ザクッ。

                             ―ザクッ。ザクッ。

                         ―ザクッ。ザクッ。ザクッ。

 カミラが溜息を吐いて前へ歩み出る。東棟の入り口に何人もの人影が見える。音はそこから聞こえて来る。カミラが左手を口元に寄せて、掌に牙を立てる。鈍い音がして、白い手袋の先からぽたぽたと血が零れる。彼女が左手を振ると、それが流動する剣状の物へと変化する。

(?)

(音がする)

(カミラは何をやっているんだ?終わったのに。もう、何もかも終わったのに―)

(―でも、音がする)

(あの人影は何?アレックス?でも、影は一人じゃない。影は一人分じゃ―?)

(―音がする、音がする、音がするんだ―)

 カミラが右手を持ち上げる。掌を空に向ける。東棟にぶつかった水流の名残が、音を立てて僕達の方に向かって来る。水が空中に再び球体を造形し始める。先程のものよりか、随分小さな水球。未だ造りかけとはいえ、サイズは1/4程しかない。

 ―人影が水球に向かって、何かを投げる。

(…?)

(小さい―)

(…ボール?)

 ボール大の何かが表面をあっさり抜けて、水球の内側に入る。ボール大のなにかは水中で体を開き、やがて腕を回してグルグルともがき始める。

(…毛玉?)

(黒い…)

(―黒猫?)

 黒猫は空気を求める様に水中の中で必死にもがき、暴れる。黒猫が暴れる度にその口からごぼごぼと水泡が零れる。僕はその場に根が生えたみたいに釘付けになってその光景を見ている。やがてカミラが何かに気付いた様に、舌打ちして、水球の中に浮かぶ黒猫に向かって素早く剣を振る。僕はそれを止めようと腰を浮かして、彼女に向かって左手を精一杯に伸ばす。

 ―それよりも早く、黒猫に変化が訪れる。

(何?)

(―僕は―)

(音がする、音がする、音が…)

 暴れる黒猫の口から最後の水泡が溢れると同時に、それの首筋を突き破る様に犬の頭部が姿を現す。猫の足が鋭く水を蹴り上げると同時に、その足の先から蛇が、足の付け根から魚の顔が姿を現す。腕が弧を掻く度に、その腕の先から連なった子供の足が生えて来る。蛇の頭から鼠の親子が姿を現す。犬の口から、色取り取りの、チョークの粉末が煙の様に吹き出す。鼠の親子の背中から植物の枝葉が生えて来る。子供達の靴の隙間から沢山の飴玉が零れる。魚が口から標識を吐き出す。

(『通学路』…)

                            『同質化。同質化だ』

              『―“彼女”は、喰ったものを、自分と同質化する…』

                     『…あれも“彼女”、これも“彼女”…』

(“彼女”だ…)

 僕はその場に座り込んだまま、呆然とその光景を見ている。右手で金木犀の幹に触れ、行き場の無くなった左手を、宙に彷徨わせて。

“彼女”が水球の内側で、体積を肥大化させていく。

(僕は…)

 カミラが水球の中に居る“彼女”に、血の剣を突き立てる。“彼女”が痛みを覚える様子は無い。カミラが短く何事か呟きながら、その場から飛び退く。同時に右の掌を素早く持ち上げるような仕草をする。逆さに雨が降るように、水滴が上空へ零れ落ちていくが、肥大化した“彼女”の上部から傘が飛び出して、逃げていく水滴の先を覆ってしまう。逆さに落ちる水分が傘の内側に吸い込まれていく。

「…こんにゃろ」

 カミュが地面を蹴る。汚れを振り払う様に、血の剣の先を振る。

 …刀身の半分を喰われた血の剣を。

(僕は―失敗した)

(失敗したのか?)

(僕が何かをしようと、藻掻けば藻掻くだけ…)

(どうして、“彼女”が居る?僕は金木犀に触れた。欠片は抜き出した、筈じゃないか…)

(話が違う)

(…違う、違う。何もかも違っていたのか?僕は最初から間違えて居たのか?僕は失敗したのか?この金木犀じゃなかったのか?別の金木犀だった?)

(―でも、この場所は“彼女”が守っていた。“彼女”達が、6人の内の2人、人数を割いてまで…)

(…この場所の筈なんだ。それとも、この場所じゃないのか?僕の勝手な思い込みなのか?“彼女”達のやる事に、意味なんて無いのか?“彼女”達は、欠片を守っていた訳じゃないのか?欠片を“神隠し”が吸い込めないっていうのは、僕のただの願望で―本当は最初から、“彼女”が欠片を持っていたんだろうか?)

(分からない、分からない、分から―)

                                ―クスクス。

 声が聞こえる。

 声に背筋が跳ねる。肩が震える。胃が戦慄く。僕は声のした方を見る。左手を地面に下ろす。

 …金木犀から、そっと手を離す。

                           『―何もかも悪くなっていく?。きっともう、これ以上悪くなんてなりようが―』

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

                ―クスクス。クスクス。クスクス。クスクス…。

“彼女”達がそこに居る。“彼女”達が、東棟の入り口から溢れ出て来る。6人の“彼女”達が。それらは一様に笑っている。口元に手を当て、背筋を逸らして、如何にも可笑しくて堪らない、という様に。僕は“彼女”達を見る。横隊を組んで歩く“彼女”達を見る。食パンくらいしか胃に入れて来なくて良かった、と思う。

 …食べた分だけ、きっと残らず吐いていただろうから。

「―オギノ!さっさと片付けて!さっさと―!」

 カミラの声が遠くに聞こえる。僕はお腹を抱えてその場に蹲る。頭の天辺がぎゅうぎゅうと絞られる様な感触がする。胴の前に抱えたショルダーバッグをカリカリと爪で削る。背中を何かに抑えつけられるような感覚がある。視界が白くなったり黒くなったりして明滅する。皮膚に空気が触れるのを感じない。只管に喉が渇く。咽がカラカラに乾いていく。焦燥が僕を内側から焼く。

「…オギノ?」

(失敗した)

(失敗したのか?)

(答えを見つけた)

(答えを見つけた積りになっていただけ)

(考えろ)

(分からない、分からない、何も―)

(最初の推論から何もかも間違っていたのか?)

(死ぬ、死ぬ、嫌だ、死にたくない、死にたくない、死にたく―)

(…そうは思わない。“彼女”達はここを守っていた)

(―そんなの、“彼女”達の気紛れかもしれないだろ?東棟の入口の両脇に立って、狛犬の気分味わいたかっただけかも―!)

(終わりだ。終わりだ。終わりだ)

(正にデッドエンド)

(…違う。“彼女”達の行為には論理がある)

(論理?)

(ロンリー?)

(…“彼女”達のロジックだ。“彼女”達の間でしか通用しない、ロジック。ロジックを持たない人間はこの世には居ない。物事には全て理由がある)

(―理由?理由が何だってんだ?もう直ぐ死んじまうってのに!理由なんて糞喰らえだ、理由の無い事なんて世の中には溢れてる、僕が今日死んじまうみたいに!明日にゃチンパンジーが大統領になって、猿に惑星が支配されるかも―!)

(…この場所に、欠片は必ずある)

(―だから、それが見付けられないから、こんな事になってんだろうが―!)

 顔を上げる。

 カミラと目が合う。その目には、不安そうな光が覗いている。カミラは僕が顔を挙げたのを見ると、何も言わず、僕に背を向けて“彼女”達と対峙する。血の剣の欠けた剣先を爪でなぞる。血の剣の刀身が修復されていく。

“彼女”達が、僕達の方に笑いながら歩いて来る。

“彼女”達が足を踏み出した瞬間、東棟の外壁が衝撃音と共に切り崩されて、中からアレックスがよろよろと姿を現す。アレックスは眼下の光景を見ると、“彼女”達が振り返るよりも早く飛び立ち、フラフラと蛇行して、カミラの隣に、不格好に、ドスンと着地する。アレックスは、カミュと同じ様に、右手に血の剣を握っている。その左腕と脇腹は、既に“彼女”に依って喰い千切られている。

「に、兄さん―?」

「―気を付けろカミュ、こやつら、奇妙な技を使うぞ」

「そうね、多分―」

「―奴らに触れるな。再生が効かなくなる。左腕と脇腹をやられた―」

 僕は彼らから目線を外す。吸血鬼兄妹から目を離して、後ろを振り返る。両手を地面に着いて、蹲ったまま、金木犀を見る。

 金木犀を見上げる。

 考える。

(…考えが、全て間違っていたとは思わない)

(―元々、賭けに近い様な考えだったけれど。でも、“彼女”達の行動を見て、確信した。欠片はここに必ずある)

                          『―後は単純な綱引きだ』

(…なら、何が間違っている?)

(何かを間違えている。だから、金庫の場所が分かっても、中身を引き摺り出せないんだ―)

                                『欠片同士は近くにあると、互いを吸収して大きくなり、元の個体に近付こう、とする性質を―』

                                 『欠片は元の個体に戻ろうとしている。他の欠片と引き寄せ合うの。大きい欠片なら尚更よ―』

『―分かってる?私達が持って来た12の欠片は、今も未だあなたの体の内側に―』

        『劇薬なの―王の欠片ってのは、それ一つだけで致命的なのよ…』

(あ)

「…同数なのか?」

 僕は呟く。

「来るぞ―!カミュ、構えろ!」

 アレックスの、怒号と大差無い叫び声が、夜の学校に木霊する。それを掻き消す様に、“彼女”たちの笑い声が聞こえる。僕は彼らの方をチラリと盗み見る。アレックスが剣を構える、それに釣られる様に、カミラも隣で慌てて剣を構え直す。“彼女”達がこちらへやって来る。“彼女”達の内の一人、吉田優香が、カミラの水球を吸い尽くした元・黒猫の肉塊を抱き締め、端から少しずつ飲み込み、吸収していく。

(…あっちも、一刻の猶予も無い、って感じだな…)

(勝手にひとつだと思い込んでいた。何となく勝手に、欠片はひとつだと…)

(―もしかして、“彼女”と僕、王の欠片が同数なんじゃないか?)

(欠片が同数の場合だ。欠片が同数の場合―綱引きはどうなる?欠片はどっちに引き寄せられる?)

(…同じ個数だ。同じ力で、綱の両端持って引っ張り合った時みたいに―多分、決着をつけられないんじゃないか?)

(同じ欠片の数。僕の中にも12個、この、木の中にも12―)

(…一刻の猶予も無い)

 僕は顔を顰める。溜息と共に、立ち上がる。両手の砂を払い、ショルダーバッグのジッパーを開ける。中に手を入れながら、これからやろうとしている事の愚かしさに、我ながら、笑う。

(…馬鹿だな、僕は)

(何を今更)

(多分、他にもっとスマートなやり方が―)

(―誰かに見られたら、言い訳の仕様も無いな…硝子と合わせて、弁償代幾らだよ?)

(弁償で済めばいいけどな、下手すりゃ、退学…)

(―そんな心配、してる場合じゃないか。死ぬかもしれないって時に)

(…明日の事は、考えるな。もう終わってしまったんだ。僕の日常はもう戻って来ない。ここには相原を助けに来ただけだ)

(やるしかない)

(綱引きで駄目なら―やる事はもう決まってる。中身を無理矢理、吐き出させるだけだ)


 ショルダーバッグの中から、目当ての物を引っ張り出す。

 100円ライターと―金槌で少しへこんだ、制汗スプレー。

(ライターの火にスプレー缶の中身を吹きかけると―可燃性の気体が燃えて、忽ち即席の火炎放射器の出来上がり)

(原理は分からないけど…)

(やり方さえ、合っていれば良い。望む結果さえ、得られたら。方法は分かってる。何度も映画や…漫画なんかで、見た)

 ライターの火打石を弾く。カチッ、カチッと何とも心許無い音がして、三回目くらいで漸く手元に火が点る。暗い校舎の片隅で、久しぶりに見る灯りの眩しさに思わず目が眩む。今まで、よっぽど暗い所に居たんだなぁと、スプレー缶を握った右手の甲で、目元をごしごし擦りながら、思う。何だか少し、可笑しくなる。こんなに小さなライターの明かり一つに、これほど安心するなんて。

「―オギノ?何を―」

「―余所見するなカミュ!あれを使うぞ。こいつら、初見の技には反応出来ない―」

「―でも、兄さん、それは―」

「―止せ、カミュ。お前の悪い癖だ。解を出すのは後でも良い。最も優先させるべき事を忘れたか―?」

 ライターを構える。スプレー缶のスイッチに指を引っ掛けて、躊躇う。ライターの火が、僕を僅かに正気に戻してくれる。正気というか…日常の、慣れ親しんだ感覚の中に。自分のやろうとしている事が、具体的に刑条何法だかに触れる可能性が頭の隅を掠める。小学校の通学路に卒業するまでずっと貼ってあった、色褪せてくすんだ啓蒙ポスターを思い出して、苦笑する。

(『やめましょう。火遊びは火事の元』…)

(綱引きで駄目なら―やる事はもう決まってる)

(中身を、無理矢理…)

(…これ、僕の手も燃えたりしないよな?)

 ―念の為、ライターの火をもう少し、スプレー缶の射出口に寄せる。ライターを持つ左手の指の位置を少しだけ、下げる。左手の指先が、“彼女”に喰われて剥き出しになった骨が、ライターのオイルケースの表面をコツコツと、叩く。

 僕は覚悟を決める。

 引き金を引く。

                                 ―ゴウン。

 背後で咽の奥に響く様な重低音が遠くに聞こえる。けれども、僕には振り返っている余裕はない。制汗スプレーから勢い良く気体の噴き出す音がする。気体がライターの火を潜り抜けて、噴出する真っ赤な火の尾に変わる。

(わ…)

 ―思わず悲鳴を上げて、缶を取り落としそうになる。指先が震え、汗でつるつると滑る。悪態の様な何かを繰り返し口から漏らして、懸命に缶を手の中から逃がさない様にする。背後から音がする度に、炎の先端が後ろに引っ張られる。僕はそれに煩わされない様、出来るだけ火の根元を金木犀へ近づける。頭の中で数を数える。

(1…)

(2、3、4―)

                                 ―ゴウン。

                           ―ガリガリ、ゴリゴリ。

                                ―ズズズ…。

 5、まで数える。スプレーの噴出を止める。金木犀の具合を見る。木の表面は所々焼け焦げて、煤けては居るが、火の点いている所は何処にも無い。

 金木犀は、何も変わらずにそこに立っている。

 僕は金木犀を見上げて、当惑する。

(―?)

(燃えて無い。黒くなってるけど、火が点いても居ない…)

(綱引きが駄目なら―やるしかないんだ。無理矢理、中身を吐き出させるしか。焼いてしまうしか…)

(木を、焼いて―潰してしまうしか…)

(―どうして燃えない?何か、やり方が間違っているのか?それとも、欠片を得た事に依って、この木も変化したのか?)

(僕みたいに)

(僕が、ある種の電子機器に、察知されなくなった様に―)

(…この木も変わったのか?燃えなくなったとか?)

(―燃えない木?そりゃ、今は不味い。不味い冗談だ…)

 ―スプレー缶を左脇に挟む。右手をショルダーバッグにもう一度突っ込む。そういえば、と願う様に指先を動かす。そういえば、あれを入れた様な気がする―あの時は夢中だったが、夢中で、何か役立ちそうな物を、程度の度合いを問わず、適当に詰めてしまったが―確かにあれを入れた様な記憶がある、朧気に。

 指先が、プラスチックのつるつるとした質感に触れる。指先の間に挟んで、急いでそれを摘まみ出す。シルエットを見て、思わず安堵の溜息が零れる。そう言えば、そんな物も入れていたなぁ、と思う。全く、こんなもので、どうやって“神隠し”と渡り合う積りだったのか。苦々しい笑みが滲みでる。自分で自分が分からない。

 ライターの火の上で、それを引っ繰り返す。プラスチックで出来た、チューブ型のケースを。ケースにはラベルが貼られている。ラベルにはこう書いてある。

【着火剤】。

(…でもまぁ、今は、有難い)

 ―蓋を開けて、それを金木犀の幹に塗りたくる。それを地面に放り捨てて、スプレー缶を構えて、再び思いっきり噴出する。さっきよりも、明らかに火勢が強い。思わず笑みが浮かぶ。

(…燃えろ)

(燃えろ)

(燃えろ―!)

 パチパチ、バチバチと何かが爆ぜる音がする。背後で聞こえていた重低音が不意に途切れる。目の前の明るさに安堵する。何もかもが上手く行きそうな気がする。力の限り、スプレーのスイッチを押す。

 頭の中で5秒数える。スプレー缶の噴射を止める。

 金木犀が燃えている。

 金木犀の、表面だけが。

(…?)

 自分の笑みが、薄れて、掻き消えていくのが分かる。混乱する。何が起きているのかが分からない。金木犀が燃えている。金木犀の表面だけが。表面の皮だけが、ぶすぶすと音を立てて、黒い煙を上げて、燻っている。

(何だ?また何か、また何か間違えたのか―?)

(―火?火が足りなかった?もっと噴射するべきだった―?)

(それとも、本当に、燃えない木?欠片を飲み込んで進化して、本当に、燃えない木になったのか―?)

 …未だ燃えている所もある。僕はその場所を、祈る様に見つめる。金木犀の皮の上を、着火剤の跡をなぞる様に、小さな火が燃えている。火は僕の願いも虚しく、直ぐにもっと縮んでしまって、やがて黒い煙に変わって、ぶすぶすという音を立て始める。僕はそれを眺める。

 惨めな思いで眺める。

(―焼く―)

(焼いてしまうしかない―のに。焼いて、潰してしまうしか―)

(それしかないのに。欠片を取り出すには。綱引きが駄目なら。僕は―)

 煙が消える。

「―ッハァ!これで―」

 アレックスの雄叫びが聞こえる。アレックスの雄叫びが、背後から。溺れる寸前で、水面に浮上した様な声。僕は後ろを振り返る。

 ―そこには、想像だにしなかった光景が広がっている。

(―うわ)

 東棟の半分が、丸く削られている。東棟の、体育館側に面する方向が、校舎の半分程を残して、綺麗に、円形に。まるで、円形の消しゴムで神様がその場所を消す事に決めてしまったみたいだ、と思う。そう思う程に、その場所には、綺麗さっぱり、跡形も無く、何も無い。校舎の半分が消えた東棟は、側面から、トイレや教室の中が丸見えだ。小さい頃、友達の妹が持っていた、人形用のお屋敷にとても良く似ている。壁の半分が外れる様になっていて、屋敷の中身が側面から見える。その中に、人形をそれらしく配置していく、この子はダイニングでお食事、この子はロビーをお掃除、この子は―。

(―何を考えてんだ、僕…)

 東棟の消失した円形の中心に、握り拳程の、黒い小さな球体が浮いている。あれだけ深かった、校舎の中の暗闇よりもなお深い、暗闇の中でもはっきりと輪郭の分かる様な、墨汁を煮固めて作った様な球体だ。一目であれが、この惨状の正体だと分かる。僕はそれをぼんやりと見上げる。吸い寄せられるように、麻痺したように。

「―これで―いい加減―くたばったか?なぁ?どうだ?この、クソッタレの化物め―」

「―兄さん、止めて。それ、私達にも効くから。自分を何だと思ってるの?一応、私達もあっち側の生物なんだけど」

「―完璧な一撃だった。お前も腕を上げたな、カミュ?今の《黒鎖の密封》は、間違いなく今世紀中最高の出来―」

「―それも止めて、兄さん。ワインのキャッチコピー思い出すから。それに、《黒鎖》、今世紀入ってから撃ったの、初めてだし。今世紀、未だ始まったばかりだし…」

「…なんだぁ?カミュ、あれも駄目、これも駄目って、お前。じゃあ俺は何を言えば良いんだ?決め台詞位、好きに言わせてくれよ―」

「―決め台詞だったんだ、今の………」

 ―血の剣を地面に突き刺して、杖代わりに寄り掛かっていたカミラが、僕に気付いて、草臥れたように片手を上げる。それを見たアレックスが、満面の笑みで、跳ねる様に僕に駆け寄って来る(元気なもんだ―左腕と、左の脇腹が無いのに)。僕も二人へ、力無く手を振る。アレックスが抱きつかんばかりの勢いで、僕の鼻先で立ち止まる。鼻息荒く、期待にキラキラと、目を輝かせて。僕はその頭を、思わず撫でてしまいそうになる。

(犬系、ってこういう奴の事を言うんかな…)

(後輩が居たら、こんな感じなんだろうか―)

(―だから、ジョンにあんなに絡まれるんかね?犬っぽいから。同種だと思われてたりして…)

「―ご覧下さい、真祖様―見て下さい!奴を見事に、誅殺してみせましたよ!」

 アレックスが満面の笑顔でそう宣言する。僕は無理矢理笑顔を捻り出し、右手を上げ―手首をブラブラと振る。空返事をし、足元を見る。アレックスをまともに見る事が出来ない。

「褒めて下さい!」

 アレックスが言う。真直ぐに僕を見て―満面の笑みで、力強く。思わず、噴き出してしまう。

(素直なやっちゃな…)

 僕は苦笑を浮かべ、ありがとう、良くやった、助かったよアレックスとカチカチの謝辞を並べたてながら(アレックスの、本当に嬉しそうな顔―少し胸が痛い)カミラを見る。カミラは寂しそうな微笑みを浮かべ、ゆっくりと横に首を振る。緩やかに、でも、きっぱりと、一度、二度。

「…やっぱり?」

「ええ。仮説その三ね」

「どれくらい持つ?」

 彼女は肩を竦める。投げ遣りに、見当もつかない、という風に。

「―さぁ?分からないわ。後10分か20分、そんなとこじゃない?」

 アレックスは困惑した様に、僕を見、そしてカミラへと目を向ける。僕は東棟の方を見る。空中に浮かぶ黒球を見る。崩れた校舎の残骸を見る。何かを思い出しそうになる。

(父さんと昔、キャンプに行った時―あんな感じの竈を、石で作ったな…)

(大きめの石くれを集めて、丁寧に積み上げて―ウチの水場の整備にもその位熱心ならね、と母さんに文句を言われたっけ…)

「…で、あんたの方は、オギノ?」

「―え?」

「お、おいカミラ、不躾だぞ―」

 僕は口を開く。言い淀む。項垂れる。カミラの顔を、正面から見る事が出来なくて。頭の中を、幾つもの言い訳が駆け巡る。目の奥がツンと痛む。金木犀の方を、力無く指差す。

(決断だ)

(諦めてしまおう。相原なんてどうなったって良いじゃないか?二人とも、凄く疲れてる。次、あいつらが来たら、死んでしまうかもしれない)

(僕と一緒に)

(欠片は間違いなくここにある)

、ここにあると言い切れるのか?本当に、、ここに?今まで一体、幾つ間違えて来たんだ?これまで決断を、幾つ間違えて来た―?)

(僕が何かをしようと藻掻けば藻掻くだけ、何もかも悪くなっていく…)

(相原は僕を助けてくれた。僕を信じてくれた。そりゃ、心からの信頼じゃなかったかもしれない、不純な動機に依る打算だったのかもしれない、でも―)

(本当に間違いは無いのか?間違いなんて、そこら中に転がってる。何一つ確証なんて無い。ただの推論だ。そんなあやふやなものに、彼らの命を乗せてしまって良いのか?彼らの命まで、根拠の無い賭けの質草に―)

(カミュとアレックス。二人にまで、死んで欲しくない。そんな義理は無い。家に帰って眠りたい。温かい布団の中で、眩しくて、寝て居られなくなるまで)

(相原、何だかんだ、楽しそうにやってたじゃないか?もしかしたら、“彼女”の一部として生きる方が、ずっと幸せかもしれない。誰からも心が切り離された状態で、孤独に生きるよりも)

(―でも、相原は救急車を呼んでくれた)

(僕を助けようとしてくれた…)

(欠片は間違いなくここにある)

(間違いは、そこら中に転がっている)

(決断だ…)

「…そんな顔しないで、オギノ」

 カミラが言う。

 僕は彼女を見る。

 彼女は微かな笑みを浮かべている。疲れた様に、穏やかに、慰める様に。彼女は血で出来た剣を地面に突き刺して、それに後手に凭れている。彼女の視線が時折不安そうに揺れる。僕は彼女と金木犀を見比べる。金木犀は火を吹き掛けられた事等無かったかのように、変わらずに揺れている。

「王の心臓に、誓ったじゃない」

 …僕は、無言で夜の金木犀を眺めている。

 彼女の言葉が、胸の奥に、針のように鋭く突き刺さる。

(…僕は―)

「あなたを信じる。でも、どうして欠片が抜き出せないの?」

「多分、同数なんだ―と思う。僕の中の欠片と、あの金木犀の中にある欠片、多分、同じ数なんだ」

「成程―最悪ね。今、一番聞きたくない冗談だわ」

「でも、それしか考えられない。“彼女”達はここに人数を割いて守っていた。“彼女”達の行動は、深い考えがあってのものとは思えないし。防衛に人数を割くという事自体が、ここの重要度を表している…と思う。それに、“彼女”達の内の一人、一番古い一人は、金木犀の開花時期に失踪しているし、ここはふたつの噂が重なる場所でも―」

 喋る。捲し立てながら、カミラの方を向く。不機嫌そうな顔のカミラと目が合う。途端に言葉が引っ込むのを感じる。彼女のその表情を、なんだか懐かしく思う。最初にあった頃は、良くこんな顔をしていた様な気がする。こんな風に、露骨に機嫌の悪そうな表情を。それが酷く、遠い昔の様に感じる。

 …何故だか、その表情を見て、少しホッとする。

 アレックスが、話の推移に付いて行けない様に、困惑した眼差しで、僕とカミュを見比べる。鶏みたいに、素早く首を振る。その動きに、僅かに肩の力が抜けるのを感じる。頭の中に、物を考える猶予が戻って来る。

「それで―火を点けようとしていたの?中身を取り出す為に?でも、どうして燃えない?欠片を得て―火への耐性でも、手に入れたとか?」

「―それは―」

 彼女が突き刺す様な眼で僕を見る。僕は目を逸らす。視線を持ち上げながら、結論を捻り出そうとする。東校舎が目に入る。半分削られた東棟が。父さんが未だ居た頃、未だ小さい時に、父さんと母さんと、家族三人でキャンプに行ったのを思い出す。

 母さんは食事の準備、父さんはテントの設営と、竈と、火起こしの準備。

 薪を拾って来るのは僕の役目だった。

(『―父さん、なんでこの枝はダメなの?』)

(『何でって、祐輔、これは木から直接折って来たものだろう?それじゃ駄目だ。いいか祐輔、ちゃんと落ちてる枝を拾うんだ…』)

(『…でも、木の枝折る方が、カンタンだよ?』)

(『ううん、そうじゃない、そうじゃないよ、祐輔―そうだな、言うなればだな、この枝は』)

 僕は笑う。

 気の抜けた笑みが浮かぶ。

 あんまりに、馬鹿馬鹿しい―理由に思い至って。

「…生木だからだ」

「は?」

(『…生きて居るんだよ、祐輔。この枝は未だ、生きて居るんだ』)

「生きているからだ。枯れ木じゃないから燃えにくい。生木は中に、水分が詰まってる…」

 ―両手で顔を覆う。笑う。暫くの間、発作的に、衝動的に。自分が恥ずかしくなる。今までいろんな事を教えて貰って生きて来たのに、こんな、簡単な事を―夜の学校を、化け物に追い回された位で、忘れてしまうなんて。

(ごめん、父さん…)

(最後にキャンプ行ったの、一体、何時だったっけ。昔は良く行ったなぁ。一体いつから、行かなくなったんだろう…)

(………ありがとう)

 顔を上げる。カミュとアレックス、二人の吸血鬼兄妹が、揃ってギョッとした顔をして、恐る恐る僕の方を覗き込んでいる。僕は口元を拭い、改めて彼らを見る。

「アレックス」

「は―ハ、真祖様?」

「あの木を切り倒せるか?」

「…ちょっと待って、焼かなくても良いの?」

 ―と、カミラ。

「え?別に欠片を出せるなら、木の壊し方には拘らないけれど―焼いた方が良いのかな、やっぱり?」

「出来るのならそうした方が良いと思うわ。宿主がどのくらい損壊したら、王の欠片が外に出て来るか、分からないし…それに、植物って、明確な死の基準、ってのが何処にあるのかが、良く分からないじゃない?枝を地面に植えて置いたら、根を張ることだってある訳だし」

「ううん…」

 成程なぁ、と納得する。アレックス―よりも、カミラが適任だろうかと、視線を移して、質問を重ねる。

「じゃあ、カミラ―あの木を、燃やせる?」

 僕の質問に、カミラは明らかに困った顔をする―僕はその表情に、何となく答えを察する。

「…出来ないの?」

「出来ない事は無いだろうけど、時間が足りないわ―準備が居るの。吸血鬼一族は、代々、火の魔法とは、相性が悪いのよ。水流とか冷気とか、結界の封印、解除とか、幻惑とか―得意なのは、そういうので。ここには良い触媒も無いし…それに、さっき魔力を大量に使ったばかりだから」

 僕は東の校舎の方を見る。校舎の側、中二階くらいの高さに浮いている、黒色の球体の方を。確かに、あんな小さなもので、あれだけ苦しめられていた“彼女”達の姿を一掃したんだ、ただのちびっこい球体だとは思ってない―けれど。

「―《黒鎖の密封》です。圧縮した重力を、固定化した結界の中に入れて、撃ち出す技です!私達兄妹の、出来得る限り、最高の技です―敵を結界の内側に入れてしまえば、こっちのもんですよ!地球上の何処に居たって、触媒も無しに撃つ事が出来るのも、この技の優れた所です―まぁ、その分魔力を多く消費しますがね」

(…思ったよりヤバい技だった…)

 ―僕の視線に気付いたアレックスが、その視線の先を追って、得意気にそう解説してくれる。僕は苦笑交じりに、アレックスを振り返る。アレックスは、今、僕達が置かれている状況を忘れたかのように、能天気に、宙に浮かぶ黒球を誇らしげに、指差す。

「―本当は、磁石でもあれば助かるんですけど―」

「…つまり、あれは、ちっちゃなブラックホールって事?」

「ブ…?何ですかな、それは?」

(…どうやら、原理は良く分かっていないらしい…)

(カミラが僕に魔術を使った時、散々イメージがどうこう言っていた気がするけど…)

(記憶から、血液で“彼女”の人形を作った時だ…)

(まぁ―こういうのは、各々のイメージが大切なんかね?)

 カミラを見る。カミラは血の剣を杖代わりに、辛うじて立ってはいるが、疲労の色濃く俯いている。呼吸も荒い。どうするべきか、僕は考える。駄目元で、アレックスに聞いてみる。

「―アレックス。あれ、もう一回撃つ事は出来ない?」

 ―アレックスは、まるで鼻先を弾かれた様に、驚いて、怯んだ表情を浮かべる。その表情を見て、僕は一人納得する。アレックスが覚悟を決めた様な顔になって、何かを口にするその前に、カミラがその口を塞ぐように、下を向いたまま僕に言う。

「無理ね」

「―待て、カミュ。真祖様、あなたの御下命とあれば、不肖アレックス、この身命を賭して―!」

「…やっぱり?」

「無理。あれは最後の最後、どうしようもなくなった時に使う為の技なの。切り札とも言えない様な技ね、威力と―消費魔力だけが、馬鹿みたいに高くて。一度、興味本位で作った様な技よ―覚えたての魔術で、何処まで威力を上げられるか、試したくて」

「…それが、あれ?」

「ええ。アード様には、二度と使うなと、キツく言われたわ―エーデルシュタイン家の、御当主様に。もし使う積りなら、周囲の被害が少なくなるように、周りを硬く、結界の殻で覆え、って」

(成程…)

「おまけに、使った後は、へとへとになっちゃうから―こんな風にね。こうなったら、もう戦えないわ。多分、そこらの人間と、殆ど同じ位―あんたと腕相撲しても、負けちゃうかもね、オギノ」

(結構、良い人だな―まだ見ぬ、アード様)

 僕は考える。頭を掻き、考える。これからどうするべきか。どうするのが、一番最善か。

(クソ、生木…)

(―考えろ、どうすれば良い?金木犀を焼くには、火力が足りない…僕の手持ちは、小さなライターと、着火剤と、スプレー缶ひとつ…吸血鬼共は火の魔術が苦手、その上、魔力も足りない、と来たもんだ)

(…魔力を、補充する?)

(どうやって?)

(血―?やっぱり、吸血鬼だから…)

(血をやって、どうする…?)

(考えろ、考えろ。もう間違えられない…)

(血って―どれくらいの血があれば、こいつら、回復するんだ?これだけフラフラなのに?お兄ちゃんの方は、未だマシだとしても―妹の方が、一滴や二滴、ペロリと舐めただけで、直ぐに元気一杯、と復活するとはとても思えない)

(…大量の血液が必要だったとしたら?)

(僕一人で、それを補えるのか?)

(―欠片はどうだ?)

 僕は彼女を見る。無意識に、自分の首に触れる。感覚の無い、自分の首筋に。

        『劇薬なの―王の欠片ってのは、それ一つだけで致命的なのよ…』

 …首を振る。結局、次善の策を試す事にする。金木犀の方へ腕を傾けながら、アレックスの方へと正面から向き直る。

「―アレックス。あの木を、引っこ抜いて―」

「ハ」

「―あの球体に―」

(…球体の中に、投げ入れてくれるか?)

 ―言う。言い掛ける。口を開く。東棟の、黒い球体の方を見る。

 …球体に罅が入る。

 球体に罅が入るのを、見る。


 ―吸血鬼兄妹の様子を、ちらりと横目で見る。

 兄妹の反応は、各々、其々だ。兄の方は、純粋に、驚愕と―恐怖の入り混じった表情を浮かべている。それでも、直ぐ様、その表情のまま、右手で血の剣を構えているのは流石だ、と思う。

 妹の方は―笑っている。額から汗を流して、草臥れた顔をして。全てを諦めて、なにもかもどうでも良くなった様な表情と、開き直りの極致みたいな笑顔が混在している。彼女の視線の先には、東棟がある。僕も東棟の方を見る。

 球体に罅が入っている。

《黒鎖の密封》とアレックスが呼んでいた、東棟の二階辺りに浮かぶ、握り拳程度の小さな重力球に、僅かに亀裂が入っている。

(…?)

 いや、それは裂け目じゃない―単なる裂け目では無い、良く見ると。その亀裂は動いている。その亀裂は、肌色をしている。

 その亀裂は、生きている。

(………嘘だろ?)

 亀裂はあっという間に、人間の腕になる。幾つもの人間の腕に。球体の上部から柳の枝の様に、五本、六本、七本と後から後から人間の腕が生えて来る。腕に連なる様に、その上に顔が、気泡の様にぷつぷつと現れて来る。葡萄の様に密接した人間の顔が。沢山の人の顔が。“彼女”達の顔もあるし、そうでないものも沢山ある―“彼女”が食べて来た人間の顔。“彼女”が食べて来た、沢山の人間の顔。見覚えのあるものもあるし、そうでない顔も沢山ある。

(篠原和澄、吉田優香、園部美佳―)

(年齢も性別もバラバラだ。見境無しだな。ここら辺は、最初に喰った奴らか―?ニュースで流れたりもして居なかったと思うけど。喰うだけ喰って、放し飼いにでもしてたのか?)

(―子供。子供だ。大勢の子供達―皆がお揃いのスモッグを着て、お揃いの名札を身に付けている。校外学習にでも出た時に、纏めて“神隠し”にやられたか―?)

(…そういや、藤谷、娘が居るって。学年主任の、藤谷。もしかして、あいつが目を付けられたのって、それ関連―)

(………ああ、クソ。あれ、守衛室のおっちゃんじゃねぇか?)

 黒球が埋め尽くされる。黒球が、“彼女”達で埋め尽くされる。

 ―やがて、ぼとり、ぼとりと、一体、また一体、産み落とされる様に、地表に“彼女”達が落ちて来る。

(―相原)

(…クソ)

(クソ。クソ、クソ、クソクソクソクソ―)

「―走れ!」

 ―アレックスが、僕達の前に躍り出る。静寂を割る様に、怒鳴り声を上げる。

「―ちょっと、一人じゃ無理よ、兄さん!冷静になって―」

「―お前こそ冷静になれ、カミュ!お前の魔素はもう品切れだ。一人じゃどうにもならなくたって、ここは俺が前に出るしかない―」

「―でも、兄さん、多分、あいつは、王の―」

「―真祖様をお助けしろ。カミュ、あの木を滅ぼせ。俺にはそれが何かは分からないが、カミュ、それが真祖様の御下命だというのならば」

「―兄―」

「―行け」

 話は終わりだ、という様に、アレックスが剣を振る。有無を言わさぬその背中に、押し出される様に、舌打ちして、カミュが走り出す。剣を置いて、僕の袖を引いて。僕は一度だけアレックスを振り返る。笑い声と共に、“彼女”達が押し寄せて来る。アレックスの剣先が月明りを受けて鈍く閃く。先頭を歩く“彼女”の首筋へ、横薙ぎに切っ先が向かう。血の剣が“彼女”の喉元に触れるが、その首が跳ね飛ばされる様子は無い。

“彼女”が笑う。アレックスの顔へ、腕を伸ばす。

「―余所見しないで。走って!」

「でも―」

「―あなたが出来る事は何も無いわ。兄さんに対して、あなたが出来る事は、何も。大丈夫、兄さんは戦うのが得意なの、それこそ私よりも、ずっと―」

「でも、あいつらは―」

「―あなたはあなたに出来る事をして。奴らから欠片を奪うのよ。さぁ分かったら立って、考えて頂戴!あいつらをどうにかしなきゃ。あいつらをどうにかしないと、このままじゃ―」

「―でも、一体、どうすれば―」

「『でも』は禁止!分かったら、立って、走って、考えて―!!」

 ―彼女が叫ぶ。僕はよろよろと緩慢に、彼女に言われるがままに、モタモタと足を動かす。頭の中を、ぐちゃぐちゃの思考が横切る。何が起こっているのか、何をすればいいのか、何をしていたのか。何もかも分からない。隣を、真剣な顔で走る、カミュの横顔を見る。彼女が僕の袖を引いて、走っているのを見る。

 金木犀を見る。

(…大きな木だ。いつ見ても、大きな木…)

(金木犀っていう木なんだ。キンモクセイ…)

(燃やさなきゃ。どうやって?生木。水分。魔術…)

(………どうして燃やさなきゃならないんだっけ?)

         『宿主がどのくらい損壊したら、王の欠片が外に出て来るか…』

 金木犀の前に立ち尽くす。カミラが焦った様に僕を振り返って、胸倉を掴んで乱暴に揺さぶる。彼女の声が何処か遠くに聞こえる。横断歩道を挟んで、向こうから話しかけられている様な感覚。僕は彼女にグラグラと揺さぶられながら、金木犀を見る。形にならない思考が、頭の中を乱暴に蛇行する。

                   『―父さん、なんでこの枝はダメなの?』

(生木だからだ…)

                                 『ううん、そうじゃない、そうじゃないよ、祐輔―そうだな、言うなればだな、この枝は…』

                             『―繊細な魔力操作を要求されるので、その分、不純物への反応が激しいんですよ―夜なら別に平気ですけどね。水は血液に通ずるものがありますし、少量なら、寧ろ操り易い部類です―』

                   『出来ない事は無いだろうけど、時間が足りないわ―準備が居るの。吸血鬼一族は、代々、火の魔法とは、相性が悪いのよ…』

                      『水流とか冷気とか、結界の封印、解除とか、幻惑とか―得意なのは、そういうので。ここには良い触媒も無いし…』

         『…生きて居るんだよ、祐輔。この枝は未だ、生きて居るんだ』

「―オギノ?オギノ!」

 ―思いっきり、頬を張り飛ばされる。頭の中が、グワングワンと振動する。鼻先を温かいものが垂れる。カミラが心配そうな、不安そうな顔で、僕の事を覗き込んでいる。僕は鼻の下に手をやりながら、彼女を見る。金木犀を見る。

「オギノ!しっかりして、あなたしか居ないの、あなたがやらないと―!」

「…カミュ」

 僕は言う。木から目を離さずに。カミラの声が止まる。鼻血がぽたぽたと鼻先から零れる。奥歯の辺りが、少しグラグラする気がする。

(おお、痛ぇ、思いっきり遣りやがって…)

(まぁ、でも、お陰で―)

(少し、目が醒めた―気がする)

「…水分を操るのが得意って言ってたよな?」

「う?ええ、でもそれが、今、何か―」

「―この木から、水分を残らず抜き出せないか?」

 金木犀に歩み寄り、幹に手を触れて、彼女を振り返る。彼女は困惑した表情で僕を見返す。僕は地面に落ちている着火剤を拾い上げ、中身を空っぽになるまで金木犀に塗りたくり―再び、100円ライターと制汗スプレーを構える。足元の地面を、踵で削って、慣らす。ピッチャーが投球前に、マウンドを整えるみたいに。

「…つまり―どういう事?」

「この木は、生木なんだ。生きている木だ。中に水分が詰まってる。水分があるから、燃え難い。だから、水分を無くして、枯れ木の状態にしてしまえば―」

「手持ちの道具で―燃やす事が出来る?」

「多分。理屈の上なら。試してみたいんだ…お願いできるかな?」

 僕は彼女を見る。彼女は―ゆっくりと、笑みを形作って見せる。

 素晴らしい悪戯のプランを思い付いた、手に負えない悪餓鬼の様に。憎らしく、雄々しく、頼もしく。

「任せて」

「助かるよ」

「時間が無いわ。燃やす方も並行して―燃料は足りる?無いなら、缶の中身を増やすけど―ごめんね、生憎、可燃性の物質には疎くて。どれが燃える性質のものか分かる?」

 僕は苦笑する。夢現で聞いた、化学の授業の内容を思い出そうとする。物質の燃焼するメカニズムについて、うんたらかんたら言っていた気がする―そこから先は、全て靄の中だ。夢の中の内容しか思い出せない。殺人ペリカンが口の中から笑気ガスグレネードをばら撒く夢。どうでも良い夢の内容だけは明確に憶えている癖に、と自分を呪う。全く人生、何が役に立つか分からない。

「…酸素?」

「…もういいから、成分表、片っ端から読み上げて。さ、火を」


「―クロルヒドロキシアルミニウム、酸化亜鉛混合物、緑茶乾留エキス、β-グリチルレチン酸、LPG、イソペンタン―」

「―待って、もう少しゆっくり―」

「―ゆっくりって、どんくらいゆっくりだよ?未だ結構あるんだぞ―!」

「―私が聞き取れるくらいゆっくりよ、ほら、良いから続けて―!」

「―加減が分からないんだよ!ミリスチン酸イソプロピル、ジル―ジメチコン―」

 制汗スプレーを目の高さに構え、成分表を読み上げる。

 指が痛くなるまで、スプレーの噴射ノズルを押している。カミラが木に向かって手を翳して、金木犀から水分を奪い取る傍ら、左手の指先でスプレーの缶底をノックする。彼女が缶底をノックする度、ライターの火を潜り抜けて生まれる炎の火勢が強くなる。魔術で缶の中身を増やしているんだ、と思う。何となく、気の抜けた笑みが口元に浮かぶ。今までそういった類のものを、一切信じずに生きて来たのに。魔法や幽霊、UFOといった類のもの。自分がそれによって、生かされているなんて。今、自分の命を握っているものが、正にそれだなんて。そんなあやふやなものに自分の運命を左右されているのが、何だか性質の悪い冗談のように感じる。

(…悪夢だ…)

(―その通り。正に悪夢だ。正夢の悪夢ってとこかな。でも、それももう直ぐ終わる―)

(―この木を壊せば。目が醒めるんだ―)

“彼女”の音がする。

 周囲が“彼女”達の音で、埋め尽くされていく。

 耳の中で、“彼女”達の笑い声が木霊する。耳の底に、“彼女”達の笑い声がこびり付いて離れない。耳の中がおかしくなる。距離感が崩れていく。カミラの、先を促す声や、缶の底をノックする音、金木犀の燃える音、僕の声、唾を呑む音、筋肉の軋む音が、“彼女”の声に挟まれて前後し、近くなったり、遠くなったりと入れ替わる。直ぐ隣に居る筈のカミラの声が駅のホームの反対側に居る様に遠くに聞こえる。自分の声が録音して校内放送で流しているみたいに別人のものに聞こえる。耳の奥で金木犀が燃えている。

 ―どうして“彼女”達の笑い声がこんなに傍で聞こえるんだろう、と思う。その先を必死で考えないようにする。アレックスの音は聞こえない。アレックスと、それに属する様な音は一切、何も。

                           『―あの木を滅ぼせ―』

 制汗スプレーの成分表示を叫び続ける。そうしろ、と言われた事を続けていれば、気が楽だから。咽がカラカラになるまで、不必要に、叫び続ける。僕が叫ぶ度に、手元で炎が揺れる。ゴウゴウと燃え盛る音と、僕の叫び声が、耳から“彼女”達の声を遠ざけてくれる。カミラが缶底を叩く音がする。パチパチと水分の弾ける音がする。

 …何だか焦げ臭い匂いがする。

 僕は金木犀を見て目を瞠る。乾いて、罅割れ、心無し白くなった金木犀の胴体を、炎が食い破って焼いている。丁度、僕が着火剤をありったけ塗りたくった辺りだ。炎が金木犀の表面を舐め尽していく。夜の学校で、金木犀が聖火の様に明るく燃えている。

 僕はカミラの方を向く。

 カミラは息も絶え絶えで、その場に膝を突いて、首を垂れている。それでも僕の視線に気付くと、彼女は苦しそうに顎を上げて、僕の顔を見て、弱々しく微笑んで見せる。僕は彼女の肩に、おろおろと手を伸ばす―どうすれば良いか、全く分からずに。

(血を―)

(…血を、あげるべき?)

(僕の血を?)

(…断られたら、どうしよう?)

「―私達―」

「?」

「―私達―やった。やったんだよね、私達?」

 疲労困憊の顔に、辛うじて笑みを浮かべて、彼女は僕に問いかける。僕は顔を顰める。胸が痛くなる。どう答えたら良いのか、分からなくて。彼女を抱き寄せてその通りだよと囁くべきか、“彼女”たちの声の聞こえる方を振り返るべきか、それとも、僕一人だけで、走って逃げ出すべきか。僕は無言で金木犀を見上げる。燃え盛る、さっきまで金木犀だった、巨大な炎の柱を。

(…欠片が…)

(焼け落ちて、ここから欠片が出て来る筈だ。金木犀の死骸から、王の欠片が、12匹)

(―出て来る筈だ。必ず出て来る。そうだろう…?)

 炎が燃える。葉が落ちる。枝が崩れる。

                                 ―ドサリ。

 何かが投げ落とされる様な音がする。何かが飛んで来て、地面を転がるような音。走り幅跳びで着地する様な音。音のした方を見る。カミラの傍らを。

 ―そこには、猪が横倒しに転がっている。

(…?)

 地面に倒れた猪が起き上がろうとして、短い足をバタバタと動かして必死にもがいている。僕は思わず、手にしていた制汗スプレーを取り落とす―その時になって、僕は漸く、自分が点けっ放しのライターを未だ握っている事に気付く。慌てて、それも消す。先っぽが酷く熱くなっている。僕は溜息と共に、不本意ながら、それを地面に投げ落とす。

(…こりゃ、ポケットには仕舞えないな…)

(先っぽが少し溶けてる。そりゃ、簡易火炎放射器みたいな使い方、してたからだろうけど…)

(こいつは―何なんだ、一体?)

 猪に一歩、近付く。途端に、猪の輪郭がぐにゃりと歪む。表面が波打つ。

(不味い)

(まさか―“彼女”?)

 ―急いでカミラに駆け寄ろうとする。カミラが左手でその僕の動きを制する。僕は混乱して、彼女へ目を向ける。疲れた顔をしては居るが、彼女は落ち着いている。僕はどうしたらいいか、分からずに…立ち尽くす。本当に、どうしたら良いのか、分からない。ここに来る事だけが、目的だった筈なのに。

(どうすれば良い?ここから、どうしたら―)

(木から欠片を抜き取る。そうすりゃ全てが終わる。終わる筈だった…)

(…木は燃えてる。僕は目的を果たした。果たした―んだよな?)

「…兄さん?」

(え?)

 猪を見る。猪の形状が変化する―段々と、見慣れた形に。サラサラのストレートの金髪を、頭の後ろで三つ編みに結った、赤い瞳をした青年の姿に―。

 ―但し、その青年の、首から下の辺りには何も無い。

 僕は思わず、吐きそうになる。

(う…)

 アレックスは僕の吐き気など気付かないように、首だけの姿で、流暢に話し始める。それこそ、普段の僕より、舌の回る様子で。

「―カミュ、目的は果たしたか?」

「ええ、兄さん、多分、これでもう直ぐ―」

「―そうか。なら良い、では、撤退するぞ」

「―撤退?どうして―」

「もう奴らを留めてはおけん。首以外は、奴らに奪われた。悔しいが奴らの勝ちだ。撤退して時期を見る。力及ばずで情けないが、主命と、真祖様の御身柄が最優先だ―」

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

                               ―クスクス…。

 僕は後ろを振り返る。

“彼女”達の声がする。

 僕は痺れたようにその光景を眺める。

(…僕が)

(僕が、間違っていたんだろうか?)

(…何もかも間違っていたんだろうか、最初から)

 沢山の、“彼女”達の声がする。

 視界が“彼女”達で埋め尽くされる。東棟の崩れた校舎の前に、4、50人程の“彼女”達が並んで笑っている。東棟の2階辺りに浮かぶ黒球から一人、又一人と、“彼女”が産み落とされる。沢山の“彼女”達が居る。老いも若きも、男も女も、背が高いのも、低いのも、様々な“彼女”がそこに並んで、皆一様に笑顔を浮かべて、肩を揺らしている。皆楽しそうで、嬉しそうで、そして幸せそうに見える。“彼女”達が僕達の方へ、一歩、足を踏み出す。みんな思い思いに、自由に足を運んでいる様に見えるのに、統率の取れた軍隊のパレードの様に足音は一人分しか聞こえない。

                                  ―ざっ。

                               ―クスクス…。

                         ―ざっ。ざっ。ざっ。ざっ。

 ―やがて、重力球を内側から食べ尽してしまったのか、黒球が中から弾けて、4、5人の人間が空から落ちて来る。着地を失敗して頭から落ちた人間も、胴体から落ちた人間も、皆一様に笑っている。彼らも、彼女達も、皆直ぐに立ち上がって、“彼女”の行軍に加わる。それが嬉しくて堪らない様に。それが幸せで堪らない様に。

(―僕が、間違っていたんだろうか)

(彼女はとても幸せそうだ。“彼女”達は、とても幸せそうだ…)

(僕が何かをしようと、藻掻けば藻掻くだけ…)

「―カミュ?何をしている?立て、立って逃げろ、今直ぐに―!」

 アレックスの叫び声がする。僕はそちらを見る。音に反応する様に、反射的に、動物的に。カミラがそこに居る。首から下が無い兄を膝の上に抱えて、呆然とした顔で“彼女”たちを眺めている。カミラと目が合う。彼女が僕を見る。僕と、その傍の、金木犀を。

 彼女の視線を追って、金木犀を見る。

 金木犀は未だ燃えては居るが、その火勢は下り坂になっている。葉は燃え、枝は落ち、幹には大きく縦に亀裂が走って、崩れるのももう時間の問題といった様相を呈している。なのに、金木犀の周囲の何処を見渡しても、王の欠片は見当たらない。

 ―12匹どころか、1匹も。

(僕が―)

(僕が、間違っていたんだろうか?)

(僕が間違っていたのか)

(何かするべきじゃなかった)

(何もするべきじゃなかったのか?)

(僕が何かをしなければ―こんな風にはならなかったのに)

(あの刑事さんの言う事は正しかった)

                           『―何もかも悪くなっていく?。きっともう、これ以上悪くなんてなりようが―』

(…僕が間違っていた)

(後悔は後から遣って来る。最悪に底なんて無い。幸福が貯めておけない様に)

 ―“彼女”達がやって来る。

“彼女”達の笑い声が、足音が、豪雨の様に反響する。“彼女”達の足が、腕が、手が、カミラの下肢を踏み抜き、覆い被さり、組みしだき、首を閉め、笑いながら彼女の左目の中に指を入れる。アレックスが叫んでいる。アレックスが何事か叫んでいるが、やがてその頭部はサッカーボールの様に“彼女”達の内の一人の足に蹴り飛ばされる。

 アレックスの声が遠くなる。“彼女”達の笑い声が大きくなる。

 カミラは殆ど無抵抗で地面に引き倒される。覆い被さる様に“彼女”達の笑い声が響く。左目の中に親指を捻じ込まれながら、彼女は僕に向かって、一言だけ、こう言う。

「…助けて、王様」

 ―カミラに、大勢の“彼女”達が群がる。押し潰す様に。貪り喰らう様に。何もする事が出来ずに、僕はそれをぼんやりと眺めている。カミラに向かって、腕を伸ばす。その手首を、あっさりと“彼女”に捕まえられる。

“彼女”に―相原に。

「相原…」

「だーめ。荻野は、こっち」

“彼女”達が僕を掴まえる。痛みは無い。ただ、“彼女”達が触れている手首が、咽が、胴が、頬が、足首が、じくじくと溶けて失われていっているのが、分かる。涙が溢れる。恐怖からじゃない。

 …後悔だ。

(あの刑事さんの言う事は正しかった)

(僕が何かをしようと、藻掻けば藻掻くだけ…)

(父さんの―)

     『―世の中ってのは良く出来てる。必ず帳尻が合うように出来てるんだ』

              『お前の周りに、今は悪い事が起こったとしても―』

(―父さんの、嘘吐き)

 目を閉じる。閉じる直前、相原が指先で僕の腹を真横に割くのが見える。そこから、あの日飲み込んだ王の欠片が二匹、恐る恐る、僕の腹の縁から飛び立っていく。風景が涙で滲む。“彼女”達の笑い声で耳の中が埋め尽くされる。胸の内に、後悔がある。後悔だけがある。

                           『―何もかも悪くなっていく?。きっともう、これ以上悪くなんてなりようが―』

(僕が間違っていた)

(僕が間違っていた)

(何もかも、僕が間違っていた。金木犀に王の欠片は無かった。この場所は、特別なんかじゃなかったんだ。“彼女”達がここに居たのに理由なんて無かった。全部、僕の思い込みだったんだ)

(何かを分かった積りになっていただけ。何かをしている積りになりたかっただけ)

(僕の所為だ。全部、全部、全部全部全部。僕が間違っていた―)

“彼女”の掌が、半分感覚の無い僕の首筋に触れる。僕は息を止める。最後の瞬間、それがせめて、苦しくない事だけを願う。

(―終わりだ、全部。今度こそ完璧に、なにもかもがもう御仕舞…)




 ―静かだ。

 終わりが来たんだ、と思う。

 思ったより、苦しくも、痛くも、辛くも無い。昔、終わりはどんな風なんだろうと想像した時よりも、訪れたものは遥かにマシだ。死んだらどうなるんだろとか、漠然と、天国や地獄とか、用意された死後の世界みたいなものは、本当は何もかも偽物なんじゃないかと、ぼんやりと考え始めた時期に、想像していたより、ずっと。

 死んだら何もかも無くなる。

 死んだら何も無い所に行く。

 …ずっとそう思っていた。

『自分』、っていうのは、自分の脳味噌の中に入っているものな訳だから、もし自分が死んだら、当然、頭の中から、脳味噌だけ離脱するなんて事出来る筈無いんだから、脳味噌も死んで、その中に入っている自分も消えてしまう。病死にしろ事故死にしろ、寿命にしろ、末端から感覚が途切れていって、外部と連絡が取れなくなって、やがて消えてしまうんだろう。天国や地獄なんて嘘っぱちだ。誰も死んだ事が無い癖に、死後の世界なんて分かる訳が無い。ずっとそう思っていた。

 …ずっとそう思っていたんだ。

 一度だけ、母さんに聞いた事がある。

                   『―ねぇ母さん、死んだらどうなるの?』

                       『死後の世界ってあると思う?』

                                『本当は、死後の世界なんて無くて―死んだら何もかも無くなる。そんな風に考えた事は無い?』

 母さんの答えは、至極単純だった。

       『―さあね、母さんには分からないよ。何せ死んだ事が無いからね』

                     『―そういうの、ゴチャゴチャ考えるのは性に合わないんだよ。死んだら分かるんだからさ。誰にでも、いつかは分かる』

 それから、母さんは面食らった僕の頬をぴしゃぴしゃと叩いて、笑ってこんな風に言う。

 …その笑顔を、今でも覚えてる。

                                  『―それに、死んだら何もかも無くなるなんて、私にはとても、そんな風には思えないね』

               『…周りを見てごらん、祐輔。良いから、周りを』

『お前は、父さんが居なくなってしまったと思うかい?最初から何も無かったみたいだと、ありとあらゆる場所から消えてしまったと、本当に、そんな風に思うかい?』




 風の音が聞こえる。

 …何かがおかしい、と思う。

(苦しくも無い。痛くも無い…)

(痛くも無い―のは、当たり前か。“彼女”は、少なくとも、苦痛を与える存在じゃない。“彼女”の捕食は僕達の一部を削り取っていくけれど、少なくとも苦痛は無い)

(…まぁ、『殺す』宣言されたんだけど)

(未だ生きてんのか、僕―?)

(変な音がする、じゃりじゃり、がりがり、何か削るみたいな―)

 ―目を開ける。恐る恐る、薄らと。

 そこには、奇妙な光景が広がっている。

 夜の学校に、年齢も性別も服装もバラバラの、2クラス分位はありそうな数の人間が集まって、こちらを無遠慮に眺めている。自分が動物園の檻の中に入った様な気分になる。僕は困惑する。“彼女”達だ。彼らは、無数の“彼女”達。この光景は、僕が目を閉じる前の風景の続きだと、自分を納得させるのに時間が掛かる。どうやら、僕は未だ死んでないらしい、理由は分からないが。

(…やっぱり、可哀想になったとか?)

(まさか。そんな、人の心を持っている様には見えなかった)

(それとも―奇跡的に相原が、自我を取り戻したとか、僕の事を、思い出したとか?)

(…無いな。僕があいつの彼氏や大親友なら兎も角、ここ数日の間で、初めて喋った程度の仲だ。それも、必要に駆られて…)

(―王の欠片?僕から飛び出した王の欠片が、“彼女”達に侵入して―?)

(…それも無い様な気がする。僕には分からないけど、欠片を数匹飲み込んだ“彼女”達がこうなんだ、悪化はしても、好転することは無いと思う―どうやら、“骨の王”ってのは、大分マッドな性格の奴だったらしい…)

“彼女”が僕を見ている、“彼女”達が揃って僕を見ている。僕は訳も分からずに、“彼女”たちの視線を見返して戸惑う。どうやら何かが起こっているらしいが、何が起こっているのかが分からない。“彼女”達は時間でも止められたみたいに、並んで静止して、僕の様子を静かに窺っている。

(待てよ―ホントに、時間でも止まってるのか?)

(今日は、普段なら信じられない様な事が、幾つも起きた―時間ぐらい止まっても、不思議じゃ無い)

(でも、風の音は聞こえる―それにあの、じゃらじゃら、ぎりぎり、いう音も。それに、ほら、あそこのヤツ瞬きしてる―)

(…なんか、時間停止もののAVみたいだな)

 ―“彼女”達は固まっている。“彼女”達は皆、一様に固まっている。僕は目前の“彼女”を見る。目前の、僕の首を絞める“彼女”―相原を。相原は僕の首を両手で締め挙げながら、掬いあげる様に僕を見ている―困った様に、どうして良いか迷う様に、唇の端を、おずおずと持ち上げて。

 僕は両手を持ち上げて、僕の首を絞める相原の細い指に触れる。相原の人差し指は僕の小指ぐらいで、力を込めれば容易く折れてしまいそうなのに、万力の様にがっちりと僕の首を引っ掴んで離さない。その内、“彼女”の指に触れる僕の左手の先が、更にじくじくと喰われて欠けて来たので、僕は諦めて、暫くそのまま“彼女”に首を絞められたままで居る事にする。

 幸い、苦しくは無い。

 痛くも無い。

(…ホント、何なんだ…?)

(何が起こってる?訳が分からない―のは、まぁ、今に始まった事じゃないけど)

(やるならさっぱり、ひと思いにやってくれ―)

(―いや、やっぱりやらないで。未だ死にたくない、出来れば御迎えは80後半過ぎてからで―)

                              ―じゃらじゃら。

                                ―がりがり。

 特にやる事も無いので、周囲を見回す。首を回して、時折聞こえて来る、妙に聞き覚えのある音の出所を、特定しようとする。首を動かす度に、感覚のある方の首が少しずつ失われていくのが分かる。僕の胴周りに両手を広げて抱き付いている、スモッグを羽織った二人組の幼稚園児達が、僕の事を不思議そうに見上げているのが目に入る。

(…何だよ。そんな顔したいのは、こっちの方だって…)

(男の子と、女の子。兄妹かな?目元の辺りが、そっくり…)

(―なんだろう、この音。じゃりじゃり、がりがり、じゃらじゃら。聞いた事がある様な、でも、記憶にある音とは、ちょっとだけ違う様な…)

 体の右手側が温かい。取り敢えずそちらに目を向ける。そこには、火勢も衰え、燻った、黒い煙を噴き上げる、金木犀だったものの燃え差しが、辛うじてそこに立っている。

 ―その周囲の何処にも、王の欠片は見当たらない。

(僕が、間違っていた…)

(何もかも、僕が…)

 苦い思いがじんわりと胸の内に広がる。涙が少し滲んで、それを零さない様に、ゆっくりと僕はそれから顔を背ける。自分の惨めさに、少し笑えて来る。

(僕が間違っていた)

(何もかも間違っていた)

(…やっぱり、ガラじゃなかったんだ。何とかしようと思うべきじゃなかった。何とか出来ると思い上がるべきじゃなかった)

 左手から、粗い息遣いが聞こえる。僕は緩慢な動きでそちらを見る。

                              ―じゃらじゃら。

                            ―がりがり、がり…。

 そこには、カミュが居る。地面に組み伏せられ、両足を引き千切られ、馬乗りに跨られ、両手を抑えられ、髪の毛を乱暴に掴まれ、左目に複数人の指を入れられて。彼女は僕の方を見ている―彼女の周囲の、“彼女”達と同じ様に。彼女の左足を大事そうに抱えた女児姿の“彼女”と目が合う。僕と目が合うと、“彼女”は怯えた様に、その首を竦ませる。

(…何だ?)

(だから、そんな風にしたいのは、こっちの方だって―)

(音がする。音が。何処からだ?随分、近くから…)

 カミラが僕を見る。カミラの、残った右目が。僕は彼女を見る。彼女の、赤い目を。炎に照らされて、そこに歪んだ僕の鏡像が映る。

 カミラは言う。

 乾いた涙を流しながら。

 唖然と―した声で。

「オギノ」

「へ?」

「それ―何?」

 僕は彼女の示す先を見る。彼女の視線の先を。

 僕の、左の手首を。

 音が大きくなる。

                              ―じゃりじゃり。

                              ―じゃらじゃら。

                               ―がりがり…。

(?)

 左の手首の先から、何かが垂れ下がっている。それを良く見ようと、手元に引き寄せようとするが、先に重りでも繋いであるかのように、頑として動かない。僕は当惑して左手首を見る。手首の甲を―それから、引っ繰り返して、内側を。

(…何だ、これ?)

                          ―じゃらじゃら、じゃら。

(―鎖…?)

 僕の左手首の、丁度掌の付け根辺りから、真っ白な鎖が垂れ下がっている。

(………………?)

(何?)

(何だ、この―これ、一体―?)

 鎖は長く、地面まで垂れていて、その先は僕の影の中に入ってしまっている。僕が左手首を引っ張る度に、僕の影の表面にちゃぷちゃぷと波紋が浮かぶ。僕は途方に暮れる―今度こそ本当に、完璧に完全に、どうしたら良いか分からずに。

(な―)

(…あれ、影?先っぽ、地面の中に入っちゃってんのか?)

(これ―鎖?鎖がどうして、僕の手首に?いや、僕の手首から、一体、何処へ―?)

 手首の先の手応えは重く、釣り針が地面に引っ掛かってしまった時を思い起こさせる。僕が手首を引く度に、掌の根元からぷしゅぷしゅと、少量の血液が合わせる様に吹き出す。その都度、相応の痛みが僕の脊髄を走る―慌てて僕は、その白い鎖の根元を、苦労して右手を伸ばして、掴む。相原に両手で首を閉められたまま。僕は一体何をしているんだろう、という考えがゆっくりと脳裏を過る。

(痛―痛い、これ―)

(いや、それよりも、手首―手首から血、出ると、ヤバいんじゃなかったっけ―?)

(―て、いうか、この手触り…)

 右手で鎖を引く―左手を出来るだけ動かさないように、手首の根元の鎖を出来るだけ揺らさないようにしながら。その行為に、どんな意味があるのかも分からずに。右手で、鎖を巻き取りながら、引く。鎖の先の何かが、少しずつ浮上して来る手応えがある。

 歯の根が震える。

 歓喜の予感から来るものではない。

 鎖の―触感が、僕の歯の根を震わせる。

(鉄じゃ無い)

(この鎖―鉄じゃ無い)

(すべすべとしてるのに、ごつごつして、ざらざらして…)

(まるで、珊瑚や、河原の石や…)

                                 ―じゃり。

(…骨―みたいな…)

 僕は白い鎖を引く。それ以上考えない様にする。鎖は僕の手首から伸びている。鎖が動く度に僕の左手首から血液が噴出する。歯の根が震える。鎖を巻き上げる。じゃりじゃりという音がする。

 じゃりじゃりという音がする。

 静謐な数分が流れる。“彼女”達の誰も、笑い声を上げない。音も無く地面に広がる僕の影が揺れる。僕が鎖を引く音だけが静寂に罅を入れる。血液が僕の右手と鎖を濡らす。僕は取り憑かれた様に鎖を引く。鎖の先のは、もう直ぐそこまで上がって来ている。僕は奥歯を食い縛る。祈る様に、その先を手繰り寄せる。

                                 ―じゃら。

(…お願い、神様―)

(父さん、母さん―)

                         ―じゃら、じゃら、じゃら。

 鎖の先を引く。

 何かが、僕の影の表面に、浮かび上がって来る。

 ふさふさの―何かが。

                                 ―じゃら。

 僕はそれを見る。

 変な笑みが浮かぶ。

 夢の続きに居る様に感じる。

 …とびきりの悪夢の中に。

 それはふさふさの、色褪せた金の綿毛の様な色をしている。見慣れた形だ。小振りの大根がロシア帽被ったみたいな形の毛玉。上部には、2つ、3つ、10円ハゲのような跡がある。僕は頭を抱える。鎖は間違いなく、そいつを引っ張り上げている。

(これ…?)

 ―頭が出た時点で、僕がそれ以上引っ張らなくても、鎖の先のそれは勝手に僕の影から浮上し始める。僕は苦味9割の苦笑を浮かべ、脱力してそれを眺める。それは酷く見知った顔をしている。目が合うと、そいつは面倒臭そうに顔を逸らして、一言、こう鳴き声を上げる。

                                  ―わん。

「…ジョン?」

 ジョンが僕の影から浮上して来る。白い鎖に繋がれて。ジョンは不機嫌そうに鼻先を鳴らす。

 ―“彼女”達が、笑い声を上げる。

 傍観を決め込んでいた“彼女”達が。心底、愉快そうに、楽しそうに、嘲るように。僕は惨めな思いで、降る様なその笑い声を聞いている。ジョンは何度か欠伸をする。この場の惨状等、自分には関係無いという様に。

「―犬!」

「犬!?」

「何を出すかと思ったら!」

「そんなもの!」

「そんなもの!?」

「そんなものがあなたの切り札だなんて!」

「憐れ!」

「憐れね!」

「「「「「「―憐れ、憐れ、哀れな荻野!」」」」」」

 唱和する。“彼女”達が唱和する。相原が楽しそうに笑いながら僕の首を絞める手に力を込める。僕は鎖を手放して、のろのろと“彼女”の動きに抵抗しようとする。

 痛くは無い。

 苦しくも無い。

 …ただ、少し、悔しいだけだ。

(クソ…)

 相原の指に手を掛ける。腰に纏わり付く子供達を振り払おうともがく。指の先端が擦り減っていく。少しずつ呼吸がし難くなっていく。僕は緩慢な動作で抵抗する。“彼女”の顔を引っ掻く。足をバタつかせる。

 手応えは無い。

 視界の端にジョンが立っているのが見える。ジョンは相原の肩越しに僕の方を眺めている。僕はジョンの方へ手を伸ばす。鎖を蹴る。声にならない叫び声を上げる。

 ―その時。

 僕は見る。

 確かに、見る。

 ジョンが、笑うのを。

         『家の主に密命を受けて、私達はここに来た。それがつい先日』

                         『密命ってのは、王の捜索』

                   『―正しくは、欠片ね。王の欠片の捜索』

 僕は穴が開く程、ジョンを見る。何度も瞬きを繰り返す。ジョンの口角は際限無く上がって行く。その内に毛はボロボロと抜け落ち、肉はドロドロと顔から剥がれ落ちていく。僕はそれを眺める。ただ、それを眺めている。それしか出来ずに。指一本、動かす事も出来なくて。

                      『…あの蝙蝠が、王の欠片なの…』

                       『主様は調査を命じたわ。それでその結果、欠片がこの極東の地、この町に―集合しようとしている事が判明したの』

                              『そういう訳で、私達はこの町に来たの。この町の何処かに他の欠片か、或いはその核がある筈よ―』

            『…中核がこの町の何処かで形を成している筈。欠片の反応からすると大分弱いけれど、形と意志を持った、“骨の王”の中心と成る核がね…』

                  『―それにこの家、なんか変な匂いするし』

 ジョンは笑っている。際限無くジョンは笑っている。ジョンの顔から毛と肉が剥がれ落ちていく。

 その下から、白い、ぬめりとした、何処までも真っ白な―。

                  『“骨の王”の生存は絶望視されていたわ…』

                    『―10年前に行方不明になってから』

           『もうトシなんかねぇ?まぁ、もう10歳くらいだしな…』

 ―真っ白な、犬の頭蓋骨が姿を現す。

「ジョン?」

 僕は尋ねる。

 …掠れた声で。

「―骨の、王?」

 ジョンは嗤う。

 僕の言葉に答える様に、骨の頭部をカタカタと揺らして―。

 相原が振り返る。

 ―哄笑する。

                「―ハ」

             「は」

       「は」               「ハ」     「ハ」                 「は」        「ハ」

  「は」  「ハ」 「ハ」   「ハ」  「は」 「ハ」  「は」     「ハ」「は」  「は」 「は」 「は」  「ハ」 「 ハ」    「は」     「は」 「は」 「ハ」   「ハ」 「ハ」  「  ハ」     「ハ」 「ハ」      「は」 「ハ」    「 ハ」  「ハ」    「ハ」   「ハ」   「は」    「は」  「は」      「は」       「ハ―!!!」


 氾濫する。

 ―非日常が、氾濫する。

 世界の裏側が、引っ繰り返って、目の前で溢れ出す。僕は熱に浮かされた様に、その光景を見ている。感覚器官だけを残して自分という存在が消えてしまった様な気がする。目と耳と、それから薄っぺらい肌の表層だけを残して、自分というものが居なくなってしまった様な感覚。何かを考える事が出来ない、何も考える事が出来ない。頭の中には靄が掛かっている。

 ―ただ、おかしくなってしまったその現実を、傍観する事だけを許される。

“骨の王”が笑っている。

 一人、又一人と、その声に釣られて、“彼女”達が振り返って行く。

 ジョンが頭蓋の天板を揺らし、軋んだ笑い声を上げる度に、地面から一匹、また一匹と、発条仕掛けの人形の様な、やけに頭部だけが大きい、ミニチュアの犬の骨格が生えて来る。次から次へと、ジョンがかちかちと歯を打ち合わせる度に、まるで雨後の筍の様に。

        「は」 「は」       「ハ」  「は」          「は」       「ハ」 「ハ」  「ハ―」

 ジョンが笑うのに合わせて、ミニチュアの犬も嘲る様に笑う。ジョンが、ジョン達が、地の底から響く様な笑い声を上げる度に、“彼女”の笑い声が萎んで、消えていく。まるで、その笑い声に、見えない陣地を奪われているかのように。空白の何かを、じわじわと埋められているかのように。

 僕はそれを見ている。ただ、それを見ている。

 それしか出来ずに。それ以外、出来ずに。

(何?何?何だ、これ、これは―?)

(ジョン)

(僕は何をやっている?僕は何しに、ここに来たんだっけ?あれは何だ?あれは本当に―)

(…本当に、ジョンなのか?)

“彼女”達の内の一人、カミラの足を両腕で大事そうに抱えた女児が、おっかな吃驚といった足取りで、ジョンの方へと歩み寄る。その短い腕をジョンの頭へと伸ばす。まるで日常の一コマみたいに見える。懸命に勇気を振り絞って、自分より背丈の大きい犬を相手に、その頭を撫でようとする少女。

 ―ジョンの顔から肉が剥がれ落ちていなくて、その子がカミラの左足を、傘の様に抱えて居なければ。

 ジョンの笑い声が止む。ジョンと、取り巻きの犬のミニチュア骨格の笑い声が。少女が左手でジョンの頬に触れる。目の前で相原が笑顔を浮かべる。ホッとした様に。

 ―その瞬間。

                  「ハ」

 少女の胴体を骨の鎖が貫く。

 …涙が浮かぶ。

 ジョンの首筋からかちゃかちゃと、からからと、音を立てて、複数の、骨の鎖が生えて来る。僕の左手首から生えているのと同じものだ―但し、ジョンの首筋から出て来た、四―五本の鎖は、先端部分が、槍穂の様な尖状になっている。それが、少女の胴体を勢いよく引き裂く。

 少女が驚きのあまり、カミラの左足を取り落とす。

 僕は悲鳴を上げる―上げた様な気がする。

 ―が、少女は別に、胴から血液を撒き散らして倒れたりはしない。カミラの足を手放しはしたが、立派に自前の足で、今も未だそこに立っている。少女は慌てたように、周囲を見回す―少女の胴体を貫いた筈の骨の鎖が、少女の背中で千切れてからからと力無く地面を転がる。喰われたんだ、と思う。なんとなく、羽を半分毟られた蜻蛉を思い出す。精巧なバランスを失って、もう二度と自力では飛び立てない。

 少女は後ろを振り返って、千切れた“骨の王”の鎖の先端を目に留める。少女は露骨に安心した様な笑みを浮かべる。“彼女”達が笑い声を上げる。“彼女”達が、一斉に―勝利を確信した様に。

「は」

「はは」

「ははははは、ははは」

「ははははははははははははははははははは―」

「―私達!」

「私達の、勝ちだ!」

「―お前もバラバラにして―喰ってやる!!!!」

“彼女”達が、ジョンへ向かって進軍を始める。僕やカミラの事等忘れた様に、カミラを投げ出して、僕を取り落として。“彼女”達は“骨の王”目掛けて、慟哭の様な笑い声を上げながら一気に走り出す。同時に、同様に、老いも若きも、男も女も、背が高いのも低いのも、様々が一様に、一緒くたになって。笑い声が耳の中で一杯に膨らむ。笑いながら、“彼女”達が駆ける。円を描く様に、中心のジョンへ向かって。足で砂煙を上げて。腕を前に突き出して。ジョンを包括して飲み込む様に。

“彼女”の最初の一人が、ジョンから頭蓋の上部を引き剥がす。二人目が尻尾を掴む。三人目が、胴体に右腕を沈み込ませる。次々に“彼女”達がジョンに覆い被さる。集る様に。貪る様に。僕は口元を抑え、感覚の無い喉を掻き毟る。目からは止め処無く涙が溢れる。最早、何を祈っているのかも分からない。何の為に祈っているのかも。ただ、体が震える。背筋を恐怖が覆う。目の前のこれを終わらせてくれ、と願う。誰でも良い、何でも良いから。

 左手首から伸びる鎖を掴んで―祈る。

(誰でも良い)

(何でも良いから―…)

                  「オ」

 …“彼女”達の、動きが止まる。

 全ての“彼女”達の動きが、一斉に、同時に止まる。さっき、ジョンが出てくるのを傍観していたみたいに。理由が分からなくて、僕は周囲を見回す。どうやら、“彼女”達は、何かに注目しているみたいだ―僕は戸惑いながらも、そう結論付ける。遠くに見える、肉塊を抱き締めている吉田優香や、損壊した東棟の前に立っている篠原和澄、それに目の前の相原が―眉根を寄せて、疑る様に、同じ方向に目を向けているから。

(何だ―?)

 僕もそちらを見る。手首から伸びている鎖に、指を滑らせる。そこにはジョンが居る。頭を千切られ、前足を片方失い、腹部に穴を開けられたジョンが、よろよろと危うく傾きながら、こちらを真直ぐに向いて立っている。

(ジョン…?)

                  「オ」

 上顎の無いジョンの喉の奥から、時折、風の音が鳴る様に、声がする。僕はそれを見ている。鎖を握り締めたまま。ジョンの声に倣う様に、足元のミニチュア骨格達も、“彼女”の足の隙間から、嘲笑う様に声を上げる。

               「オ」

  「お」               「オ」  「オ」

     「オ」

 「オ」 「お」                  「ろ」  「オロ」

                    「ロロ…」

(………?)

                「オ…」

              「オ―ロカ」

 ―僕はジョンを見る。

 真直ぐにジョンを見る。

 暗くて深い、ジョンの喉奥の中の暗闇を。

           「―愚    カ 者 に  ハ、毒 ト薬    ノ 区  別 モ   付カな イ」

 ―最初に異変が訪れたのは、あの少女だった。

 カミラの足を抱えていた少女。ジョンに最初に触れた、あの少女。

 少女が、突然腹部を抱えて、その場をのた打ち回る。“彼女”達はめきを上げて、少女から遠巻きに離れる。苦しげに呻き、手を伸ばす少女に、誰も近寄ろうとはしない。誰もが不安げな表情を浮かべて、互いに周囲を見回している。

 その内に―彼女の体からバラバラと、肉や毛が剥がれ落ち始める。あ、と思う間もなく、彼女の体から肉体は消え失せ、骨だけとなって地面に転がり落ちる。それが起こった、と思った次の瞬間には、その骨から液体が染み出す様に、ごぽごぽと肉が溢れ出して、剥がれ落ちる前とそっくりの肉体を形作る。それから、彼女の背中を突き破って、骨の鎖が姿を現す。あの、骨の鎖だ。ジョンの首筋から現れて、少女を貫いたと思った瞬間、あっさりと喰い千切られ、敢え無く地面に転がった、骨の鎖―あの鎖が、少女の背中を突き破って現れ、今やその本数を増やし、密やかに蠢いている。

 ―まるで寄生虫だ、と思う。

(ハリガネムシ…)

 そうして最後に、元通りになった少女の舌の先から、にょっきりと植物が芽を出す。それは、ひと呼吸の間にすくすくと成長し、瞬く間に開花して―。

 少女の舌の上に、花が咲く。彼女の血を吸い上げた様に、茎まで真っ赤な、燃える様な彼岸花が。

 ―変化の終了を知らせる様に。

 時間の経過と共に、他の者も、喉元を抑え、頭を抱えて、その場に倒れ始める。“ジョン”を喰った奴らだ、と思う。“ジョン”の一部を、その手で、その腕で、喰った奴ら。ジョンは地面に倒れた“彼女”達を、微動だにせずに睥睨している。“彼女”達の間に、静かに混乱が広がる。誰かの後退さる音が聞こえる。その音が、全体に波及する前に、少女の背中を突き破って、出て来た白い骨の鎖の先端が、隣の人間の腹部に、後頭部に、鎌首を擡げる様な軌道を描いて、突き刺さる。

 ―悲鳴も上がらない。

 ひとつの悲鳴も上がらずに、一人、又一人と、“彼女”達が倒れ伏していく。その様子を、離れた場所で、吉田優香が、篠原和澄が、園部美佳が、そして、相原が、青褪めた顔で見ている。

 ―声を失って。膝を震わせて。

 隣人が隣人に、自分の体から出た骨の鎖の先端を突き刺す。それが行われる度に、ジョンは満足そうにその身を震わせる。僕は麻痺した様にその光景を眺めている。恐怖する事も、歓喜する事も、嫌悪する事も忘れて。ただ、眺めている。カメラと何ら変わりない。罅割れた笑顔を浮かべて、ただ、それを眺めている。

 白い鎖の先端が突き刺さる。刺さった人間は、一度、体の肉が全て剥がれ落ちる。ジョンの顔の様に。けれども直ぐに骨は肉を纏って、その体からは新しい骨の鎖が二本、三本と生えて来る。鎖の生えた人間の体には、まるでそれを示すかの様に、体の何処かから植物が生えて来る。季節を問わず、場所を問わず。頭から、目から、口から、舌から。チューリップが、紫陽花が、蒲公英が、鈴蘭が、金木犀が。

 ジョンが笑う。

 僕を真直ぐに見て。頭の無い、足の無い、腹部の無い、その身体で。

      「は」 「ハ」      「ハ」 「ハ」  「は」                     「ハ」 「は―!」


 自分の左手首から伸びる、骨の鎖を、右手で何度も、繰り返し引っ張る。

 まるで、そうしていれば、いつかはポロっと引っこ抜ける、と信じているみたいに。鎖に繋がれた囚人が、頭の何処かでは分かっている癖に、ここから逃げられたりしないかと、無駄な努力を試しているみたいに。

 実際には、鎖は僕の力程度じゃビクともしない。多分、僕の左腕の骨に、直接絡んでいるんだろう、と思う。引っ張る度に、全身に痛みが走る。頬が引き攣る。血が吹き出る。

 …けれども、どうしても、そうせずには居られない。

 眼前の光景を、その場に縫い付けられたように、一歩も動けずに、ただ、眺める。

 最新の毒ガスか、新種の細菌兵器でも使えば、きっとこんな風景を作り出せるのだろう、と想像する。何十人もの男女が、声も、音も無く、静かに、一人、又一人と倒れていく。老いも若きも、背が高いのも低いのも。例外は無い。隣の人間から生える骨の鎖に突き刺され、その場に崩れ落ちる。身体の肉が剥がれ落ちては、又、新しい肉をその骨身に纏う。身体の何処かに、王の鎖を受け入れた証の様に、植物の花が一輪と、それから真新しい数本の、未だ花の無い隣人に突き刺す為の、骨の鎖が生えて来る。例外は無い。時間差はあれど、例外は何処にも無い。

 僕は鎖を引っ張る。鎖を引く度に、少しずつ血が吹き出る。痛くて歯の根が震える。涙が滲む。

 倒れている人間の体から生える幾重もの骨の鎖が、立っている“彼女”達の体を選んで、襲い掛かる様に、順繰りに、貫き、突き刺していく。“彼女”達は、誰一人として、悲鳴を上げたりはしない。まるで何処かに、遣り方を置き忘れて来たみたいに。

 無言の中心にジョンが居る。無言で地面に倒れ、崩れていく、“彼女”達の輪の中心に。

 上顎を失い、腹部を失い、右の前足を失い、尻尾の毛皮を少しばかり失ったジョンは、座りの悪い置物の様に、その場でカタカタと小刻みに揺れている。ジョンの足元辺りには、あの、頭部ばかりがやたらとデカい、犬の骨格のミニチュアが、“骨の王”の勝利を誇るかのように、胸を逸らして、生意気な足取りで周囲を凱旋する。ミニチュアが、数えきれない程の、骨格のミニチュア達が。20、30、40、まだまだ数は増える。一匹、又一匹と、地面から浮きだして来て、続々と行軍に加わって行く。ミニチュアの骨格の頭部が揺れる音が幾つも積み重なって、いつの間にかそれは地鳴りの様な反響音になっている。

 …じんわりと吐き気がする。僕はそれを、骨の鎖を引きながら、ゆっくりと飲み下す。

「未だだ―」

 不意に、視界の端で、肌色の波が急速に引いていくのを捉える。津波の直前の様な。不吉の前兆の様な。僕はそちらの方へ目を向ける。意志の宿った行動ではない。

 …ただ、動くものに反応しただけ。

 そこには、肌色の、不定形の―アメーバの様な、風に靡くカーテンの様な、平べったい雲の様な―ひと呼吸毎に形を変える、海月の様なものが地面を這っている。肌色の、海月の様な不定形は―地面の上をゆったりと揺蕩いながら、少しずつ僕達の方へと、滑る様に進んで来る。

「未だ勝負は着いていない―どうだ、これでもう、二度と《分離》は出来まい!?」

 不定形は叫ぶ。不定形の表面に、幾つもの、目や、腕や、口や―衣類や、靴や、装飾品が、浮かんでは流れていく。見憶えのある装飾品が不定形の体表を流れては、落ちる。色取りどりの、ジャラジャラと喧しい、リングやブレスレッド―それが、不定形の上を流れて、地面に吐き出される。

(見覚えのある、アクセサリ。見憶えの―)

                                   『脱色気味の茶髪に髪を染めて、多少濃い目の化粧をし、左耳に二つ、右耳に一つ―』

                        『―ピアスをぶら提げている。公園の薄くなった木製ベンチみたいな色の髪の毛にはふんわりとカールが掛かり―』

      『腕にはじゃらじゃらと色んなリングやブレスレッドを引っ掛けて…』

(…相原)

(あの―中に、居るのか?)

「終わりだ―」

「犬」

「嫌だ、この中は嫌だ―」

「苦しい、息が苦しい、助けて―」

「私の体はどこ?私は―何処?」

「―引き千切って、挽肉にして、飲み込んで、絞り粕にして―!」

「―あの人は?綺麗になった。私、綺麗になったの」

「あの人って誰?」

「―自我をミキサーにかけて、粉々に擦り潰してやる」

 ―“彼女”が吼える。

 肌色が身を翻して、ジョンへと襲い掛かる。海月の頭部は潰れ、津波のように、前のめりな姿で地面を疾走する。不定形の津波から、何本もの腕が突き出される。波から突き出た腕が、ジョンへと伸びる。ジョンを、ジョンの一部を、掴んで、喰い千切ろうとする。

 ―ジョンの首筋から生える、骨の鎖が躍動する。ジョンと、周りに転がる人間達から生える、全ての骨の鎖が、音を立てて。獲物に狙いを定める様に、不定形の“彼女”へ向けて、先端を構える。

              「―コ」

 ジョンの声に呼応して、引き絞った弓の弦を離す様に、骨の鎖が一斉に、不定形の“彼女”へと向けて放たれる。空を裂く音がする。弾丸の如く、鎖の先端が“彼女”を穿つ。肌色の表面に波紋が浮かぶ。次々に鎖が彼女を貫く。骨の鎖が。“彼女”を掻き消そうとする様に。

 が―。

「馬鹿め」

「馬鹿め、馬鹿め」

「馬鹿め馬鹿め馬鹿め―!!!」

“彼女”が嗤う。鎖は“彼女”の、不定形の体表を揺らしただけに過ぎない。肌色の波となった“彼女”は骨の鎖を擦り抜けて、ジョンの元へと到達する。波が渦を巻いてジョンの下半身を握り締め、その身体を締め挙げる。

「油断したな。こうしてひとつになれば、お前の攻撃など恐るるものでは無い―」

「死ね」

「私は誰?私は―」

「―安心しろ。お前が私から剥がした連中も、後で纏めて私の胃袋に入れてやる」

「お前のした事は無駄だ」

「何もかも」

「あっはははっはぁ、残念、全て無駄だったなァ―!!!!」

 肌色の波がジョンの下半身を握り締める。波から何本もの腕が生え、ジョンの下顎を、首を、残った左の前脚を掴み、波の中に引き摺りこもうとする。僕は自分の左手首から生える鎖を握ったまま、茫然とそれを見上げている。何かをするべきなのは分かり切っているのに、何をすればいいのかが、全く分からない。

(ジョン…)

(…何かをしなきゃいけない。このままじゃ、何もかも、失っちまう。何かを、何とかして、何かを。それは分かり切っているのに、それが何なのか、分からない)

(夢の続きに居る様な気がする)

(夢の―続きに)

 不定形の腕がジョンの咽へと伸びる。腕が蕩けて、ジョンの喉奥へと流れ込んでいく。ジョンが暴れる。肌色の波の中で、溺れて、犬掻きをする様に。

 ジョンの首筋から、新しく骨の鎖が吹き出る―まるで、最後の抵抗をする様に。鎖が鞭の様に撓って、宙を舞う。鎖は、“彼女”達を逸れて、見当違いの方向へ飛んで行く。“彼女”達の嘲笑う声が聞こえる。高く、甲高く、“彼女”達は、嗤う。

                                  ―くす。

                                ―くすくす。

                       ―は、はは、キャハハハハハ…。

“彼女”を外れた、ジョンの最後の鎖の先端が、僕の傍に着弾する。僕は首を竦めて―驚いて、そちらを見る。ジョンの鎖が振り下ろされた、その位置を。

 未だ微かに残り火の燃える、幹の罅割れて黒く煤けた、金木犀の燃え滓を。

 金木犀の、燃え滓の―その、根元を。

 僕は立ち上がる。

「オギノ?」

 カミュの不思議そうな声が遠くに聞こえる。息が詰まって、僕はそれに返事する事が出来ない。夢遊病の様に、金木犀の元へ、フラフラと歩み寄る。ジョンの鎖が焼け焦げた金木犀の幹を斜めに傾けて、根っこを持ち上げている。意外と、根っ子は焼け残ってるんだな、と思う。

(白い)

(夜の学校で―白く、光って見える)

 僕はその場に屈み込み―金木犀の根元を、両手で掘り返し始める。

 素手で。鎖の付いた腕で。半分欠けた、指先で。

(硬い…)

(土―手で掘るなんて、何時以来だろ。小学校の、低学年以来か…?)

(爪の間が痛い。小石が挟まって…)

『篠原和澄さんは2005年の9月28日に、校内でご学友と、『用事があるから』と一旦別れ、校門前での待ち合わせを約束したのを最後に、消息を絶ちました―』

『何時まで経っても姿を現さない篠原さんに、心配になったご学友のA子(仮名)さんが先生に相談、先生と二人で校内を捜索するも見つけられず―』

 ―掘る。一心不乱で、掘る。ジョンの鎖が、金木犀を突き刺し、引き倒す。土の中に、ずぶずぶと、その先端を埋めていく。僕はその鎖を追い掛けて、掻き分ける様に、その周りを、掘る。

                    『不安を拭えないA子さんが篠原さんの自宅に電話をし、漸く事件として発覚―』

                                『後日、警官が40人体制で校内を、地元の有志と猟友会が120人体勢で校外周辺を捜索するも―』

                                 『“彼女”達の行為には論理がある。“彼女”達のロジックだ。“彼女”達の間でしか通用しない―』

                      『友達にも内緒の、彼女の用事―』

                   『…あの体育館の傍の、大きな金木犀。学内の、有名な告白スポット。12年前から、あの噂があったとは考えられないか?』

                  『彼女の用事の場があの金木犀の下だった、と仮定しよう。呼び出したか、呼び出されたか。そこで12年前、何かが起きて―』

                              『彼女は消えた』

             『最初からそうだったのか、それとも長年の噂に依ってそうなってしまったのか―あれが彼女の思念を媒介にしている、幽霊のような何かなのか、それとももっと、彼女の噂を下敷きに存在しているだけの、別の何かなのか』

                                 『そうしてあの付近には、目出度く二つの噂が重なる事になった。有名な告白スポットと…』

                           『―神隠しとしての噂』

                       『篠原和澄―は、神隠しだった』

                        『12年前、何かが起きて―』

                             『―彼女は消えた』

 ―鎖が、何かに行き当たった様に、その動きを止める。僕は掘る手を止め、鎖を両手で掴んで、土から引き摺り出し始める。ジョンを、僕の影から引き摺り出した様に。言葉も忘れて。息をするのも忘れて。

                               『12年前―』

                          『“彼女”達のロジック…』

                             『―何かが起きて』

(…何かが)

(簡単な可能性を忘れていた―一番簡単な、可能性を)

(最近、不可思議な出来事に触れ過ぎて…勝手に、12年前の事件まで、人知の及ばないものの仕業だと思い込んでいた)

(神隠しの仕業だと)

(…あの刑事達の行動も、ある意味では、半分正解だったんだ)

(事件が起きたら、それは―)

 鎖を引き抜く。

                                 ―ごぼり。

 水中で気泡を吐く様な音が背後で聞こえる。僕はゆっくりと後ろを振り返る。そこには、首元までジョンを飲み込んだ、肌色の不定形が見える。不定形の表面に、幾つもの目玉が浮かんで、僕の方を見る。肌色が体内のジョンを吐き出して、地面に落とす。ごぼごぼと音を立てて、僕に向き直る―もし、正面というものが存在するのなら、だが。ごぼごぼと音を立てて蠢いて、僕を見る。5本、6本、7本と、次々に増える手で、僕を指差して、言う。

「―返せ」

 僕は、“彼女”から目を離して、手の内を見る。骨の鎖の先端に突き刺さっているそれを、引き抜く。

 目の高さに持ち上げて、まじまじとそれを見る。

 それを―黄色く黄ばんで、半分朽ちた、その、頭蓋骨を。

(―事件が起きたら、それは、大抵の場合は、人間の仕業だ)

“彼女”が叫び声を上げて僕に突進して来る。それが最後の引き金になったみたいに、僕の手の中で朽ちた頭蓋骨は自然にバラバラに砕けて、中から黒い、一匹の蝙蝠が、飛び立つ。“彼女”の半狂乱の声が、何処か遠くに聞こえる。僕は宙に浮く、それに触れる。

 ―途端に、変化が訪れる。

 さっきまで、肌色の不定形だった“彼女”は、一瞬で、蛹の様に縦長の楕円形の状態に丸まってしまう。そして次の瞬間、その背中の部分に亀裂が入ったかと思うと、中から羽化した蝶が姿を見せる代わりに、大量の、恐らく“彼女”が飲み込んだであろう、人が、動物が、道具が、噴出し始める。

 ―噴水の様に。花火の様に。

 園部、黒猫、標識、バスケットボール、鍵、スマホ、スナック菓子の袋、照明、電池、車―兎に角、ありとあらゆる、“彼女”が喰ったであろう、胃袋の内側のものが、引っ繰り返り、裏返り、繭の中から吐き出されて、飛び上がる。それは、奇妙で―幻想的な光景に見える。時折、何か判別の付かない、不完全なものも飛び出て来る―誰かさんの左腕、ヴァンパイアの伝統衣装を着こんだ、左腕と脇腹と、首から上が無い体、誰かの右足、ふさふさの毛皮の付いた―ぶよぶよと膨らんだ、お腹。

(…あれは、ジョンの頭か?)

 吹き上がる。中身を吹き出しながら―肌色の繭が、少しずつ、僕の方へ、歩み寄って来る。中身を吐き出す度に、繭はその身を細く、小さく、変形していく。繭の下半分は割れて、次第に足になり、中心辺りは縊れ、上半分には突き出た二本の突起が現れて、やがてその先端が5本に枝分かれしていく。時間が経つに連れて、繭は、肌色の―人の、外皮の様に変形していく。僕はそれを、眺めている。

 最初は、の上で回る陶器みたいだった、繭の頂点も―徐々にその形を、ハッキリさせていく。段々と、見覚えのある形に。僕はその顔を、何処か懐かしいものを見る様な気持ちで眺める。写真で見た顔、今夜初めて見た顔、けれどずっとずっと、長い事探していた様な気がする、その顔を。

(髪はショートヘア。目元はとても凛々しい。切れ長の目…)

(ヅカ系―って、いうんかね?)

(パリッとして、重心の安定した感じ。スーツとか似合いそう…)

(―篠原、和澄)

 彼女は僕に向かって懸命に指を伸ばす。懇願する様に、涙を流す。

「…返して。それが無いと、私―」

 僕が何かを思う前に、蝙蝠は僕の人差し指の爪の間から、吸い込まれるように僕の内側に入って来る。掃除機に吸い込まれるみたいに。蝙蝠が僕の内側に入って来た瞬間、僕の右手の人差し指が、瞬きする間だけ、関節一つ分長くなる。けれども僕が次に目を開いて、慌てて関節の数を数え始める前に、その幻の関節は蜃気楼のように消えてしまう。

 …ついでに、篠原和澄も。

 まるで最初から居なかったみたいに、その姿はもう何処にも無い。

 …尾を引く様なか細い悲鳴と、夜の学校に横たわる、推定60名程の、意識不明の老若男女を残して。




「…母さんに、一体、なんて言や良いんだよ?」

 両手で頭を抱える。指の隙間から、周囲の光景を盗み見る。溜息が出る。際限無く、溜息が。

 …左手首からぶら下がる鎖が、僕を慰める様に、静かにしゃらしゃらと揺れる。

(―ホントにどうすんだ、これ?)

 夜の学校。

 夜の学校の、半分程消失した東校舎の傍らに―玩具箱を引っ繰り返したみたいに、様々なものが雑多にぶちまけられている。小雀から大型犬まで、大小バラバラな動物、バスケットボール、バレーボール、チョーク粉や、巨大コンパス、石灰粉のライン引きなんかの、色んな学校の備品、【通り抜け禁止】や、【通学路】等の、学校周辺の交通標識、ケーキや、おにぎり、飴玉やチョコ菓子、果ては電柱や電線、土砂や舗装道路の一部まで―様々なものが転がっている。様々なものが、雑多に、一緒くたに。

(警察―に、電話するべき?でも、警察に電話して、それで、なんて言おう?)

 それから―意識不明の、年齢も性別も、何から何まで違う、共通点の無い―大体二クラス分くらいの、総勢60名程の、男女。

(…タダでさえ、疑われてるってのに…)

 意識の無い彼らの体には、首筋から、片耳から、目から、舌の先から、植物が―背筋から、腹部から、喉元から、白い、複数の、骨の鎖が生えている。その骨の鎖が、植物が―僕が溜息を吐く程に、時間が流れる程に、朽ちて、風化して崩れ去り、枯れて、種子も散らさずに萎れていく。僕はその光景を、只、見守っている。言葉も無く―感慨を覚える暇も無く。

(…まぁ、これで心配毎の一つは、解決だな…)

(説明する事は少ない方が良い。ただでさえこんな嘘臭い状況なんだ―説明する事は、出来得る限り、少ない方が…)

(…あの植物、枯れてくれてよかったな。あの骨も。あんなのが残っちゃ、これからの生活、大変だ…)

(―てか、やっぱ僕が―説明しなきゃ、駄目、だよな?)

(…ところで、僕の手首のこれは、いつ外れるんスかね?)

(説明―説明、ね。一体何を、誰に対して?)

 地面に転がる男女の中には、植物の生えていない者も混じっている―植物と、骨の鎖の生えていない子。その代わり、植物と鎖の無い彼らは、その対価とでもいうように、全身に一糸の布も身に纏ってはいない。僕は薄眼でそちらを見る。瞼を強く擦る。今日、何度目かももう分からない、溜息が繰り返し、零れる。謎の罪悪感が胸の内に去来する。彼らは他の人間の隙間に埋もれるように、裸体で砂の上に横たわっている。

(…何で裸?)

(多分、篠原和澄の、最後の肌色の波に飲み込まれていた奴らなんだろう―あの肌色の波の表面を、制服やアクセサリーが滑って行くのを、見た)

                『見憶えのある装飾品が不定形の体表を流れては、落ちる。色取りどりの、ジャラジャラと喧しい、リングやブレスレッド―それが、不定形の上を流れて、地面に―』

(見覚えのある、アクセサリーが)

(…)

(―て事は、あの中に、相原が居るのか)

(…)

(―この件については、あまり考えないようにしよう)

(結構暗いし。あんま良く見えないし。ていうか、知り合いの裸ってのが、なんて言うかこう、見たくないというか、見たいようで見たくないというか、境界線的にギリギリな感じがするというか…)

 ―僕は努力して、意識的に、彼らの倒れている方から目を逸らす。視界の端で、肌色がチラチラと明滅して見える。僕は唇を固く結んで、その誘惑に耐える。左手首からぶら下がる鎖を見る。自分の左手首から、突き出てぶら下がっている、白い骨の鎖を。

(…これ、なんなんだろうな、結局)

(“彼女”達に撃ちこまれていたのとは、違うみたいだし)

(―まぁ、あれもなんなのか、分かんないんだけど―…)

(篠原は《分離》だと言っていた。撃ちこまれた者の実感だろうか?突き刺して、骨の周りを創り変えて、植物の根で隔離して、閉じ込める―理解は出来ないが、イメージは何となく分かる、気がする)

(ワクチン―みたいなもん、だったのかな?)

 僕は骨の鎖を無意識に指先で弾く。途端に、全身に痛みが走る。歯の根が震える。涙が浮かぶ。

(…馬鹿か、僕は…)

(―でも、助けに―)

(…助けに、来てくれた―のかな、一応?)

 僕は、骨の鎖の先を見る。鎖に繋がれたジョンを見る。手が触れそうな位に、傍に居るジョンを。即座に、溜息が漏れる。再び、溜息が。

 …咽の奥につっかえていたみたいな、重くて苦しい、長大な溜息が。

「―母さんに、何て言えば…?」

 同じ言葉が繰り返し口から零れる。途方に暮れて、目の前のジョンを見つめる。

 …上顎を失い、腹部を失い、右の前足を失い、尻尾の毛皮も、少しばかり、失ったジョンを。

(どうする?いっそ、正直に言うか?)

(『やあ母さん!こいつは何だって?薄情だな、家族の顔を見忘れたのかい?こいつがジョンさ!まぁ見ない内に、少しばかり様変わりしたみたいだけれど―?』)

(…駄目だな。絶っっっっ対、100%、殺される…)

 ジョンは僕を見上げて大人しくお座りし、骨になった尻尾をカラカラと震わせる。まるで、僕にご褒美を貰えることを期待しているみたいに。

(…そんな顔で見たって、何も持ってないぞ、僕)

(まぁ、顔―ないんだけど)

 途方に暮れる僕を尻目に、転がる“神隠し”の胃袋の中身だったものを掻き分けて、夜の学校を吸血鬼の兄妹達が闊歩する。カミラが、向こうで自分の右足を拾っているのが見える。アレックスの、首の無い胴体が、自分の生首を追い回しているのが見える。カミラが、自分の右足を、股関節にくっ付ける。すると、まな板の上で刻まれる野菜を逆再生するみたいに、カミラの足が音も無く、元通りに吸い付く。彼女は試す様にその場でくるくると足首を回している。僕はジョンの前に屈みこんで、ぼんやりとそれを眺めている。

(…取り敢えず、心配事のひとつは解決だな―)

(“彼女”に奪われた部位は、取り敢えずくっ付ければ、元通りに戻る―まぁ、アレが、吸血鬼特有の、再生能力の範疇じゃ無ければ、という話だが…)

(―両手に収まりきらないぐらい沢山の、心配事の内の一つだけど)

 自然に欠伸が出る。焦れた様に、ジョンが僕の手首から伸びる、骨の鎖を引っ張る。鈍い痛みが走る。血が零れる。僕は苦笑を浮かべてジョンを見る。ジョンの頭部の無い、剥き出しの暗い喉の奥の方から、何かを要求する様な唸り声が聞こえてくる。僕は鼻の頭を擦りながら、首を傾げる。

(…何だ?)

(腹でも減ってんのか?晩飯、あげ忘れたっけ?)

(…いや、そんな事、無いよなぁ。自分の分は、食べ損ねたけれど…)

 向こう側から、自分の両足を取り返したカミラが歩いて来る―どうやら左目は見つからなかったみたいだ、左目のあった場所には、落ち窪んだ眼窩だけが広がっている。

(まぁ、小さな探し物だしな。況してや夜、こんだけ散らかってる場所でなんて―)

(…吸血鬼って案外、夜目、効かないのかな?)

(あれ?でも、日の出までに見つけなきゃ、日光で焼けて、灰になっちゃうんじゃ―?)

(…あ、良いのか?そうなれば、また新しい目玉が再生するし…)

 カミラはふさふさの毛皮が付いた―ぶよぶよでだるだるの、贅肉でだらんとした胴体を腕に抱えている。こういうの、何かで見た事がある、と思う。何処かで見た様な懐かしさがある。牛や、鹿肉の腹部を切り出したものを、背筋に串を指して、焚火の上で盛大に焼き上げる―米も塩も無い、狩猟民族の原風景。ま、その肉の塊は、それらのものよりか、随分小振りだが。

(…やっぱあれ、ジョンの?)

 僕は立ち上がり、一歩下がって、彼女に場所を譲る。僕の鎖に連なるジョンも、一緒に立ち上がって、警戒する様に彼女の顔を見上げる。彼女は無言で前に進み出て、その肉の塊をジョンの欠けた腹部に押し当てる。腹部は音も無くジョンの元に戻る。まるで、片時も、離れた事等無いみたいに。

(…良かった。吸血鬼以外でも、元に戻るんだ、元に…)

 僕は安堵の溜息を吐く。首筋に軽く爪を立てる。

 ―感覚の無い首筋に。

(代わりの部品がある場合、どうなるんだろう?)

(…まぁ、それは今は、考えなくても良いか。そうでなくても、今日は考える事が、多過ぎる…)

 ジョンがカミラを値踏みする様に見上げて、ぐるぐると、彼女の足元を回遊する。骨の鎖が、カミラの膝に絡まる。彼女は困った様に、ジョンを見下ろす。助けを求める様に、僕を見る。

(…そんな顔されても…)

(どうしたらいいか分かんないのは、僕だって同じだ。いやホント、どうしたらいいんだ?誰か教えて…)

(頭―頭だな。先ずはジョンの、前足と頭を見つけて―)

「王―真祖様!我らが、骨の王よ―!」

 遠くの方から、跳ねる様な、元気一杯の声が聞こえてくる。見ると、アレックスが―未だに左腕と脇腹の無いアレックスが(どうやら、見つける事が出来なかったらしい―まぁ、その努力もしていなさそうだが)、右腕をブンブンと、千切れんばかりに振って、よっぽど今のジョンよりも犬らしく、転がる様に、こちらへ駆けて来る。その、激しく振る腕の先に、何かを握っているのが見える。白くて、平べったい、板の様な―何か。それを一振りする度に、ジョンが威嚇する様な唸り声を上げる。首筋からうぞうぞと、新しい骨の鎖を生やし始める。

 ―鎖の先端を、アレックスの方へと向ける。

「あ―アレックス?」

 アレックスは返事をしない。僕の方を見て、露骨に不快そうに顔を歪める。

「あの、多分それ、あんまり振らない方が―」

 僕達に近付くに連れて、アレックスの右手に握られているものが、次第に良く見えてくる。それを振る度に、ジョンの首筋から生える、骨の鎖が増えていく。カミラが膝に絡みつく鎖に躊躇う様に触れる。木の虚を吹き抜ける風の様な音がする。ジョンの喉の奥から、生温い風が吹き上がる。

 アレックスが、ジョンの目前に、嬉々として跪く。その手に握られているのは、白くて平べったい、板の様な形をした―。

 犬の上顎の、頭蓋骨。

(…そりゃ、ブンブン振られたく無いわな。自分の頭だもんな…)

(あ、でも、中身、無いけど。骨だし。骨…だけだし。それでも、気持ち悪いもんかね?)

(やっぱ、“骨の王”―ってくらいだから、骨の中にも、色々入ってるのかもな。記憶とか…意識とか、他にも、何かと)

 アレックスは、それを恭しく、ジョンの頂点に乗せる。まるで、王冠を被せる様に。頭蓋は音も無くジョンの頭部に戻る。それが、在るべき姿だと思い出したみたいに。

(…良かった、これで、後は…)

「アレックス、カミラ、悪いけど、もうひとつ―」

「―黙れ、下賤な人間め」

「―頼まれごとを―え?何だって?」

 …アレックスが、ジョンの前から立ち上がる。その牙と―憎しみを、剥き出しにして。僕は半笑いのまま、その場で固まる。半歩、アレックスから下がって、距離を開ける。戸惑いが胸の内を占拠する。理由が―意味が、分からなくて。横目でカミラを見る。カミラも同じく戸惑った様に、アレックスと―ジョンを見つめている。

(悩み事が…)

(―まるで石鹸を擦るみたいに、休む間もなく、どんどんと増えていく。ひとつ泡を洗い流しても、それを喜ぶ暇も無く、ひとつ、またひとつと、新しい悩みが―)

(…いまなんていった、アレックス?ゲセン…ゲーセン?源泉?)

「貴様とはもう語る口を持たぬ。おのれ、今まで良くも騙してくれたな、真祖を騙る、不届き者め―!」

「フトドキ…いや、僕は自分が真祖だなんて、一言も。それはそっちが、勝手に―?」

「不易な労働を強いてくれた礼だ、せめて高貴な吸血鬼の手に掛かって―」

「フエキって…んな、それがどういうもんかはちゃんと説明したし、別に無理矢理させた訳じゃ―」

「―死ぬことを光栄に思うが良い」

「そりゃ、手伝って貰ったのは、こっちの都合だったけど―え?」

(シ?)

(シぬ?今、もしかして、シぬって言った?)

(シぬって、誰が?)

 アレックスが右腕を振り上げるのがやけにスローモーションに見える。ちょっと兄さん、と言ったカミラが僕の前に出ようとして、鎖に足を止められるのが見える。アレックスの右手に血の剣が握られているのが、写真の様にハッキリと見える。実感の無い現実が緩やかに押し寄せて来る。僕はもう半歩、後ろに下がろうとする。緩んだ顔でアレックスを見上げる。アレックスがカミラの左胸に拳を突き立てた瞬間をぼんやりと思い出す。首が捻じれ、左手の上指が吹き飛んで、胸に拳が半分めり込んでいる。その事が酷く遠い昔に思える。

 夢の続きに居る様に感じる。

(死)

(死ぬって―僕が?)

 アレックスが右手を振り下ろす。

 目を瞑る暇もない。

 今にも振りおろそうとされていたアレックスの右腕は、瞬きする前に四本の骨の鎖に絡め取られ、貫かれて、肉を奪われ、剣を取り落とし、指先からぽろぽろと、砂状に崩壊していく。まるで肉体が壊死するまでの時間を、たっぷりと右腕の中に注ぎこまれた様に。アレックスが悲鳴を上げる。僕は驚く余裕も無く、ただただその様子を見つめている。アレックスが悲鳴を上げて、地面をのた打ち回る。指先から始まった崩壊は、手首に、そして肘に、到達しようとしている。砂状の崩壊は止まらない。アレックスの右腕を、確実に這い上がって行く。

「―何故!?何故です、我が王―!?」

 アレックスの背後から、ジョンが顔を覗かせる。息も荒く、僕の顔色を窺う様に、期待する様に。

 僕はその時、漸く―それが何を望んでいるのか、理解した様な気がする。

 体内を巡る、王の欠片が教えてくれたのか―或いは、何もかも気の所為で、そんな気がしただけか。

 でも、僕はその時確かに、剥き出しの骨だけになった、ジョンの目の奥を見た。

 目の奥に、懐かしい光を見た。

「オギノ、気を付けて、王は正気じゃ無い、ここは一旦離れて―!」

 ―僕は、ジョンの傍へ歩み寄って、屈んで、右手を上げて。

「…オギノ?」

 ―その頭を撫でる。すべすべとして、所々角張っていて、そして、少しざらついた、その骨の頭の表面を。時間を掛けて。親愛を込めて。

「ありがとう、ジョン」

 それから、言う。心の底からの、感謝の意を。

「…でも、もう良い。もう良いんだ。少し遣り過ぎだよ。この人は敵じゃない。まぁ、たった今、僕を殺そうとしてた訳だけど―でも、悪い人じゃないんだ、本当だよ」

 ―瞬きを繰り返す度に、いつの間にか指先に覚える質感が変化していっている事に気付く。すべすべとして、少しざらついた骨の感触から、ふさふさとして、そして少し擽ったい毛先の感覚と、分厚い肉の厚みに。変化は止める間もなく、あっという間に訪れる。目の前に、何年もの間、一緒に過ごして来た、いつものジョンの姿が戻って来る。傍でのた打ち回っていたアレックスも、狐につままれたみたいな顔をして、僕と―ジョンを、戸惑った様に見上げている。その右腕には肉が戻って来ている。崩壊の兆しは何処にも無い。

 ―気の抜けた笑みが口元に浮かぶ。

 疲労感だけが体の芯にある。僕はジョンの耳の先を撫でながら、笑い声とも嘆息とも付かない溜息を漏らす。全ての出来事が夢だったんじゃないかすらと思える。

 周囲に転がる、“彼女”の胃袋の残骸と―僕とジョンを繋ぐ、白くて長い、骨の鎖さえ無ければ。

「…助かったよ、ありがとう、本当に」

 ジョンの頬の毛を掻き混ぜながら、誰にともなく、言う。ジョンは僕を見上げて、一声、鳴く。呆れた様に。仕方ないなと、笑うみたいに。いつもの様に、何処か気怠げに。世話の焼ける兄弟分を慰める様に。

                                  ―わん。




「礼は言わんぞ」

 僕を睨みつけながら、アレックスは今日何度目かももう分からない、先程と同じ言葉を繰り返す。

 …僕は辟易して、乾いた笑い声を上げる。

 ―僕達は、夜の校舎の中を、校門へと向かって歩く。

 何をするにも、取り敢えずは連絡だ―東棟の傍にゴロゴロと転がる“彼女”の胃袋の中身を、当然あのままにはしておけない。この後、どうするにしても―どうすればいいのかは、未だに分からない―あのまま放って置く訳にはいかない。先ずは、連絡だ―これも、何処に連絡すればいいのかは、僕には良く分からない―が、警察に連絡するにしても、消防に連絡するにしたって、このまま校舎の中に居続けるのはちと不味いんじゃないか、と思う。東校舎の件や、プールの件や、その他諸々の学園内の被害の惨状があるからだ―これは、個人で賄える額を優に超えている。自分でやらかした部分も、そりゃ、ちぃとはあるにしたって…公共機関に連絡を取り付けて、この学内の惨状と、僕個人を紐付けて考えられた場合、かなりの不味い状況になる事請け合いだ…最近の僕の事情と合わせて鑑みて、これから先の僕の人生が、煮干しのダシガラよりも吝いものになる事が確定してしまう。

 以上の事から、僕が考えた、今後のプランはこうだ。

 Ⓐ何れかの公的機関に、学外へ出てから、電話をして…、Ⓑその受話器を受け取った奴に、後の事を、丸投げする。

(…最低だな。我ながら、最低のプラン…)

 ―だが、もう他にどうしようもない。手に負える範疇は、とっくの昔に食み出し切ってしまっている。電話を取った奴がどう思おうと、関係ない―例え、そいつが通報して来た僕を怪しいと感じても、東校舎の現状を、個人の仕業と断定するには、流石に無理があるし―(爆弾でもなきゃ、あんな大規模には壊れないし…そもそも、破損の断面が、あんな風に綺麗に、丸く削った様にはならない。まぁ、実際、吸血鬼だって、二人は必要だった訳だし)―そいつがどういう風に考えても、ここで今日あったことの責任を、全て僕の背中に乗せるのは難しいだろう。それに、もう目的は果たした。もう、“神隠し”は起こらない。

 ざまぁみろ。

 後は野となれ、山となれ―だ。

「礼は言わんぞ」

「…」

「礼は言わん」

「はっは」

「…何が可笑しい?」

「ちょっと、兄さん、煩い」

「―煩い、煩いだと?カミュ、お前は何とも思わんのか?元はと言えば、人間風情の、こいつが―!」

「―その人間風情に、王様から取り成して貰っといて、良く言うわ」

「…うぐ」

「それに、オギノを真祖様だって、勝手に勘違いしてたの、兄さんだから」

「…そ、それはだなぁ。その…カミュ、確かに早とちりだったかもしれないが、でも、お前だって―!?」

「―私の所為にしないで。私は可能性があると言っただけ。私だって、こんな風になるとは思わなかったわよ。でも、オギノが嘘を吐いていた訳じゃないわ。少なくとも、私達には、誠実だった」

「それは―その。そうかも知らんが。でも、こいつは、王の―」

「ゴチャゴチャ言い訳しないで。女々しいわよ」

「め―めめ、メメメ―?」

「それにしても―一体、どういう理屈なのかしら。人間が、王の欠片を吸い込めるだなんて。ひょっとして、王様の傍に長期間、身を置く事で、体組織の組成が変異したの?」

「…さらっと怖いこと言わないで貰えます?」

 半壊した東校舎の残骸を潜り抜けて、夜の校庭を突っ切る。そのまま、西棟の昇降口前を横切って、守衛室前を横切って、学外へ。

 歩く、ただ歩く。無言で夜の校庭を、浮ついた気持ちで歩く。靴底が校庭の土を踏み拉く音が、小気味良く響く。僕とジョンを繋ぐ骨の鎖がしゃらしゃらと錫の様に鳴る。先行するジョンが、何度も僕が付いて来ているかを確認する様に、後ろを振り返る。僕は苦笑を浮かべてジョンに小さく手を振る。ジョンが鼻を鳴らして足を踏み出す度に、鎖の付け根、僕の左手首から、小さく血が滴り落ちる。吹き出る血液量が、どんどん少なくなっていく事に気付く。他の鎖は全て朽ちてしまったのに、どうして僕とジョンを繋ぐこの鎖だけは消えてしまわないんだろう、と僕は漠然と不思議に思う。これから、ずっとこのままだったらどうしよう、と小さな不安が芽生えては、消える。今日は、色んな不安や恐怖を、手に余る程、一遍に抱え過ぎた。だから、今だけ、この瞬間だけは、何も考えずに、ただ、歩いていたい。

(ジョン…)

(痛いよ、ジョン―そんなに、急がないで…)

 いつもと違う散歩コースにはしゃぐジョンに、引き摺られる様に、僕はふらふらと、彼の後に続く。足痕の様に、点々と、血の跡を残して。心配気なカミュの声が少し遠くに聞こえる。訝し気なアレックスの声が、遥か遠くに聞こえる。

「…オギノ?」

「オギノ―?」

 西棟の、昇降口前を過ぎる。守衛室前を横切る。校門のシルエットが見えてくる。夢にまで見た出口だ、と思う。悪夢の出口。溜息と共に、全身の力が抜けていく。思わずその場に、へたり込んでしまいそうになる。ジョンに引っ張られるままに、僕は門へと向かう。

 校門はあまりにも見慣れた姿をしている。

 見慣れた姿をしている事に―ふと、違和感を覚える。

(…?)

 足を止める。僕の疑念を感じ取った様に、ジョンも足を止めて、振り返って、僕を見上げる。僕はジョンの元まで歩み寄って、その首筋を指先で梳きながら、少しの間、考える。ジョンが舌を出して、ハァハァと荒い息継ぎをする。僕はそれを見て、笑う。こうしているのを見ると、何処からどう見ても、犬なのに。

(…さて、何がおかしい?)

(普通に見える。普通に見えるのが、おかしい―ってことか?)

(なんかのナゾナゾみたいだな。『パンはパンでも…?』)

「オギノ?どうしたの―?」

「―人間?一体、何をしている?出口は、直ぐそこだぞ―?」

(―あ)

 違和感に気付く。

 違和感の、正体に。

 校門はあまりにも見慣れた姿をしている。

 見慣れた姿に―変化している事に気付く。

(…開いてる)

 校門が開いている。

 僕は瞬きをする。

 門の向こうに、二人分のシルエットが見える。


 ジョンの背中を、手の甲で撫でる。

 左手首から伸びる骨の鎖を、確かめる様に掌の上に乗せる。硬い鎖の重さと冷たさが、これが現実だという事を僕に教えてくれる。カミラがさり気無く歩み出て、僕を庇う様に、半身を前に出す。アレックスがジョンの傍に立って、疑う様に後方に目を配る。

(…何?)

(何もかも終わった。何もかも終わった…筈じゃ、ないのか?)

(何かが立っている。校門の辺りに。誰かが…)

 校門の辺りに、誰かが居る。その黒い輪郭だけが、はっきりと見える。ひとりは、門柱に寄り掛かって、こちらの様子を窺っているみたいだ。もうひとりは―校外へ続く門の中心に立って、まるで出迎える様に、僕達の事を待ち受けて、立っている。口元には、蛍の様に小さな、赤い光が浮いている。鼻を突き刺すような香りが、そちらの方から漂って来る。僕はジョンの背を撫でる手を止め、口を押さえて思わず咳き込む。

 カミラが僕の様子を見て、迷う様に右の掌を持ち上げる。時間を置いて、彼女の掌の上に、水分が吸い寄せられるように集まり始める。彼女の掌の上に、水塊が出来る―先刻、プールから抜き出して、作り上げてみせたものとは比べ物にならないくらい、小さくて頼りない、グリーンピース二つ分程度の水塊を。

(マズい…)

 カミラは舌打ちして、掌の上のものを、手首を軽く振って霧散させる。僕は思わず、唾を飲み込む。縋る様に、アレックスの方を見る。アレックスはしかめっ面を浮かべて、唸る様に喉を鳴らし、右手の親指に爪を立てて、そこから流れ出す血を剣状に生成する。警戒する様に何度も辺りを見回す。獣の様に空を見上げては、鼻をひくひくと動かして、周囲の臭いを確かめる。

(二人とも、もう限界だ。あれだけ戦ったんだ。あれだけ戦った、後なんだ…)

(―僕の勝手に付き合わせて)

(もう少しで出口なのに)

(…クソ、どうすればいい?どうしたらいいんだ!?どうしたら―)

「―オギノ、退がって」

「でも―」

「良いから」

 カミラが、自分の、眼球を無くしたままの、空洞の左目の眼窩に、躊躇わずに左手の指先を突っ込む。僕は慌てて悲鳴を飲み込む。反射的に、目を閉じて、彼女から顔を逸らしてしまう。ぐちゅぐちゅと、肉を穿る様な、嫌な音が聞こえる。ぴちゃぴちゃ、ぽたぽたと、効き慣れた音が僕の手首から垂れる雫の音と混ざり合って、耳元に響く。

「…ルナルーダの連中か?」

 ―アレックスの声。

「分からない。吸血鬼では無い様だけど―?」

「―なら、決まりだな。俺が斬り込む。お前はフォローだ。ただの人間など、例え消耗していたとしても、俺達の敵では無い」

「…油断しないで。確かに吸血鬼じゃないみたいだけど―でも、普通の人間とも思えない」

「分かっているさ。俺を誰だと思っている?」

「…だから心配なのよ。良い?突っ立ってる方を狙って。柱に凭れてるのは―手負いみたいね。呼吸が荒い」

「任せろ」

 ―兄妹の、短い会話が終わる。目を開ける。咽が潰れた様に逼塞して、呼吸が上手くいかない。涙が浮かぶ。どうしてこうなるんだろう、と思う。どうしていつもこうなんだろう。何とかなるかもと少しでも期待を抱いた途端に、何もかも上手くいかなくなる。

 僕を含めると。

 僕が何かをしようと―藻掻けば藻掻くだけ。

 カミラは左の掌に、血溜りを乗せている。彼女がそれを軽く握り締めると、それはいつの間にか、血液で出来たナイフに変わっている。彼女は指の間に挟んだ複数のナイフの内の一本を抜き取ると、それを無造作に校門の向こうに立つ人影に向かって投げる。それを合図に、アレックスが音も無く、門の方へ駆け出す―。

                                  ―カン。

 乾いた音を立てて、空中で血液が解けて、飛び散る。アレックスの足が止まる。カミラが声を出さずに、静かに目を瞠る。血液は人影を避けて、ぱたぱたとその両脇に飛び散る―まるで、見えない盾に衝突した様に。

 人影の口元で、赤い光が揺れ動く。吸血鬼の兄妹達を、からかう様な仕草で。

(僕―僕はどうすれば良い?僕に何か、出来る事は―)

(ジョン)

(…“骨の王”に、戦って貰う?いや、そんなこと言ったって、どうやって言う事聞いて貰うんだ?そもそも、どうやって、ジョンをあの状態にすれば良い?ていうか―あれを、本当に味方だと考えても良いのか?次、ああなった場合に、元に戻せるっていう保証もない。それにもし、またアレックスを狙ったら―?)

 ―影が一歩、門のこちら側へと足を踏み出す。僕が考える暇も無く。アレックスが剣を構え直す。カミラが新しいナイフを抓み上げる。タイミングを合わせる様に、呼吸を整える。

 それを邪魔する様に―。

 人影が手を挙げる。

(?)

 ―掌を一杯に広げて、手を高く、自分の耳辺りに―何も持っていないことをアピールする様に大袈裟に両手を振って、影は無遠慮にこちらへ歩いて来る。カミラがもどかしそうに、抓んだナイフを振り上げた手を止める。アレックスが戸惑った様に、剣先をフラフラと左右へ彷徨わせる。ジョンが居心地悪そうに、コンクリート造りの地面を前足で描く動作をする。

(あ…あれは?)

(もし、勘違いじゃ無ければ―あれは、敵意が無い、事を示すジェスチャーに見える…もし、僕の勘違いじゃ無かったら、だけど)

(…何かの魔術の予備動作じゃなきゃ)

(ていうか、そのジェスチャー…吸血鬼にも通じるの?)

 横目でちらりとカミラを見る。カミラは、警戒する様に、ナイフを振り上げた手を構えたままだが―今は取り敢えず、それを直ぐに放り投げる気は無いらしい。僕は訳も無くホッとする―今日はもう、痛かったり、怖かったり、そういうのはいい加減うんざりだ。今日一日だけで、色んな事があった。最悪だったここ最近の中でも、全部ひっくるめてもお釣りがくるくらい、限界まで最悪を煮詰めて出来た様な日だった。もう、今日はこれ以上、何かを感じたりしたくない―あとひとつでも何かを喰わされたなら、便所に駆け込んで、胃袋の中身を全部吐き出してしまいたくなるような心境だ。もう限界なんだ、相手がなにもしてこないっていうんなら―こっちから、何かを仕掛けなきゃいけない道理も無い。

(…お願い…)

(お願いだ―もうこれ以上、何もしないで。何も起こらないで…)

 ―骨の鎖がカラカラとなる。人影が散策に赴くような足取りで、気軽に距離を詰めて来る。赤い光が、空中を滑る様に移動する。人影の方向から、白い煙が漂って来る。鼻腔を突き刺すような刺激臭が強くなる。

「―動かないで」

 人影が残り5m程まで接近した時、カミラが無愛想な声で、そう短く警告を発する。人影は―男は、警告に従って、素直にそこで足を止める。男だ―と思う。中々にがっちりとした、大人の男の体格をしている。当然、僕よりも遥かに大きい―アレックスと、大体同じ位だろうか。男は両腕を上げたまま、口元の赤い光を動かして、言う。

「やぁ、今晩は。良い夜だねぇ。特に吸血鬼には。なんたって、月の光が薄い」

(この声…?)

(何処かで―聞いたような…?)

【吸血鬼】という単語に過敏に反応する様に、アレックスが剣の切っ先を持ち上げ、カミラが振り上げた手に力を込める。男は慌てた風も無く、両手を上げたまま、のんびりと言葉の先を続ける。

「―そう怖い顔しないでくれよ、な?俺ァ根が臆病者なんだ。お譲ちゃん、そんなに睨むなよ。別嬪さんが台無しだぞ?そんな顔されたら、震えて話も出来無くなっちまう」

「…」

「こっちに敵意は無い。本当さ…ここには、話し合いをしに来ただけでね」

「…話し合い?何について?」

「ああ、好意的で、とても助かるよ―実を言うと、俺ァここに調査に来ていてね。12年前の事件が生んだ小さな厄種が、ここ最近になって、大きく力を付けて来ていると。我が部は万年、人手不足でね…報告自体は2年前くらいからあったんだが、如何せん手が足りなくて―最近になって漸く、暇だった俺がここの調査を命ぜられた、って訳さ」

「…答えになって無い。簡潔に話せ。何についての話し合いだ?」

「そうだな、事後処理に付いて。事の顛末を、どんな風に収めるか、だな。それと―」

 男は少し間を置いて―微かに忍び笑いを漏らして、言う。

「―“骨の王”について」

 ―間髪入れずに、カミラとアレックス兄妹が、動く。カミラが一呼吸の内に一投、二投、三投、と投げる。アレックスが即座に間合いを詰める。カミラのナイフは男に触れる前に、あの乾いた音を立てて血液に戻される。アレックスがカミラのナイフに合わせる様に別の角度から斬り込む。アレックスの血の剣も、男の首を跳ね飛ばす前に乾いた音と共に固形から液体の状態に瞬時に巻き戻される。

                                  ―カン。

 剣を失ったのも意に介さずに、アレックスはそのまま突進する。視界の端で、カミラが右の指先で何かを持ち上げる様な仕草をする。途端に、男の足元に飛び散った、兄妹のナイフや剣を形作っていた液体が、棘の様に固形化して男に襲いかかる。アレックスは牙を剥き出し、目を黒く滾らせて、男の喉笛を掴み、圧し折ろうとする。

(あ―)

 アレックスの右手が首元へと伸びた瞬間、男の背後から肩越しに、赤黒い、電柱程の太さはあるだろう筋骨隆々の巨大な二本の腕が現れて、一撃の元にアレックスを地面へと叩き伏せる。

 …鈍い音が聞こえる。

 僕は悲鳴と吐き気を飲み込んで、震える歯の根でその光景を眺めている。骨の鎖が、僕の揺れに合わせてカチャカチャと震える。ジョンの背中の毛に掌を埋める。ジョンが僕の方を見上げて不思議そうに鳴く。アレックスが口の中から、色の付いた液体を吐き出すのが見える。僕は足の裏に根が生えた様な気分になる。この期に及んでも、どうしようもなく下らない事を祈っている自分が、心底情けなくなる。

(お願いだ。お願い…)

(僕が藻掻けば藻掻くだけ…)

(これ以上、何も起こらないで。これ以上…)

                                  ―カン。

 男の足元で固形化した兄妹達の血液は、男がもう一度踏み付ける事で、再び呆気無く、液体に戻る。カミラは苦し気な呻き声を上げて、男の方へ前進しようとする。その気配を察して、男の背から伸びる、電柱程の巨大な腕の内の左腕が、彼女を牽制する様に掌をこちら側へと向ける。右腕が、アレックスを抑える手に力を込める。赤黒い掌の下でアレックスが苦悶の表情を浮かべる。

(嫌だ…)

(止めてくれ、止めてくれ、もう…)

(助けて、誰か。ジョン―)

 骨の鎖が鳴る。

「止めろ」

 ―静かな声が響く。

 僕は顔を上げる。男は相変わらず両手を上げている。その口元で赤い光が上下する。男は手を上げたまま、自分の背後から伸びている電柱程の太さの巨大な腕を、その指先でトントン、と小突く。

「止めろ」

 ―再度、男は言う。腕は、その命令に、困った様に、戸惑った様にしながらも―するすると、男の背後に、暗闇の中に引いていく。

「…それで良い」

 男は上機嫌にそう呟く。

 カミラは混乱した表情で、地面に押さえつけられていた兄を、先ずは取り敢えず、助け起こす。嫌悪と困惑の入り混じった顔で、彼女は男を見る。男はカミラの表情を見て、愉快そうに、肩と赤い光を揺らし―吸血鬼兄妹を意に介する事無く、又、歩き始める。

 僕の方へ向かって。

(え?)

 僕は身を竦めて男を見る。意味も無く左右を見る―見えるのは校舎ばかりだ。僕を助けてくれる様な何かを見つけられる筈も無く、男はあっという間に僕の目の前に到達する。

「…全く、君からも何とか言ってやってくれないか?あの石頭の吸血鬼共に、俺が悪い奴じゃないってさ、少年?」

(え?)

「ここには、話し合いに来ただけなんだ―調査と、それに付随する事後処理だよ。敵意は無い。君からも、それを彼らに証言してくれない?このお兄さんが、正真正銘、ここに調査に来ただけだ、って」

(え?)

 男の顔を見る。間近で見る。

 僕は目を瞠る。

 ―驚愕する。

(え?)

 男は、無精髭だらけ、ハンチング帽を被って、酷い匂いのする煙草を吸っている。男が喋る度に、火の点いた先端がグラグラと上下に揺れる。怪しい人間を雛型に取って作られた様な男だ、と思う。

 ―あの日のこの人の声が、頭の中で、遠い記憶の呼び声の様に木霊する。

                    『だからさぁ、神隠しだよ、神隠し―』

「…小林、縣?」

 男は、上げていた両手を合わせ、煙草の煙を燻らせながら、胡散臭い顔を綻ばせて、僕を見る。

「―御明察」


 ―脳味噌の奥が、ぎゅうっと、雑巾の様に強く引き絞られるのを感じる。

 呼吸の平静を保てない。心臓の鼓動が酷く不安定になる。説明を求めて、男―小林の顔を見る。小林はニタニタと笑って、僕の顔を楽しそうに見返すだけだ。混乱の波が僕の内側で渦を巻く。口を開いても、果たして何を質問すれば良いのか、分からない。分からない、分からない事だらけだ。僕だけが川の真ん中の浮島に取り残された様な気分になる。

 骨の鎖を握り締める。ジョンが僕の右手の甲を慰める様に舐める。その温かさに、涙が出そうになる。

 僕が言葉に窮していると、校門の門柱に寄り掛かっていた、もう一人の人影が―門を離れて、フラフラと、こちらの方に歩み寄って来る。僕は漠然と、そちらを見る。どうすればいいのか、分からない―接近されても、大丈夫だろうか?足を止めろ、と言うべきだろうか?でも、そこで足を止めさせて―それから、一体僕は、どうしたらいい?

 人影が吸血鬼兄妹の近くを、迂回する様に弧を描いて、通り過ぎる。アレックスは未だ、不機嫌そうに呻いている―その背中を支えるカミラが、人影が通り過ぎる瞬間、目を上げて、そして僅かに驚いた顔をする。

(え?)

(し―知り合い?)

(て―ことは、き…吸血鬼―?)

 人影が、背中を丸め、ぜぃぜぃ、はぁはぁと荒い呼吸を繰り返して―小林縣の隣に並ぶ。僕はその人影の輪郭が、幾らか欠けている事に気付く。右腕は肘から先が無く、咽の表面は鑿で削られたみたいに粗く、凸凹で―腹部の中心からやや左側には、大口径の銃弾で打ち抜かれた跡のような、大きな丸い空洞がある。

 ―まるで、誰かが腕をそこに、直接突っ込んだみたいな。

 僕は人影の顔を見る。膝から下が、消えてしまった様に力が抜けていく。見間違いだろうか、と思う。

 影はカミラの知り合いではない。

 僕の知り合いだ。

(…?)

 吸血鬼であるかどうかは、分からない―それほど深い知り合いじゃないし、もしかしたら、自分の出自を隠して、定職に付く、なんてのは吸血鬼には別に珍しい事では無いのかもしれない。魔術の使い方に依っては、日光の中でも生きていけるみたいだし。それに、彼が僕の前で、奥歯を剥き出しにする程、笑ったのを見た訳でも無い―記憶の中では、彼は終始笑ってはいたが、それは大体僕を嘲笑うかの様な冷笑だった。だから、僕が知っているのは、彼が俗世の職業に付いているという事と、人間の社会でそれなりに上手くやっているという事くらいだ。

 人影は見覚えのある顔をしている。大体、僕の記憶の中にある通りだ―そう古い記憶でも無いんだ、先ず間違いないだろう、と思う。それでも、疑いたくなるような気持ちが、心の何処かにある。それは、僕にとって、彼が現実そのものだったからかもしれない―確かに、僕にとって、彼は悪夢だったけれど、悪夢のような存在だったけれども、それでも、入口は現実だった。まごう事無き、不可思議の入る余地の無い、現実だった。

 僕は、おずおずと、彼の顔を見上げる。

 どういう表情をしていいか、分からなくて。

 …正しく、夢にまで見た顔だ。

「苅部、刑事―さん?」

 狐目の男は、苦り切った表情でこちらを見下ろしている。あの日の飄々とした態度や、あの日感じた、忍び寄る様な威圧感は、何処にも感じない。狐目は、草臥れて、疲れ切って、やつれ切って―憔悴して見える。同情する気持ちと共に、少し、ざまぁみろという溜飲の下がる気持ちも確かに、ある。

(少しだけ)

(ほんの―少しだけ)

 狐目は何も言わない。狐目の苦々しさの滲んだ、弱々しい表情を暫く無言で眺める―不意に、頭の中で、説明出来なかった事が、繋がる様な感覚を覚える。最初に思い浮かんだ事を、小林へ向かって口にする。

「そうか―あんたら」

「うん?」

「―最初からグルだったな?」

「違うよ?」

「道理で、何もして無い筈なのに、僕を巻き込んで、話が進むと―え?」

「彼とは、そこで偶然会っただけさ」

 …あっさりと否定される。

 僕は、小林と、刑事さんを見比べて、何も無い明後日の空間へ目を向けて、暫くの時を過ごす。望んでも居ないのに、頬が段々と、熱くなっていくのが分かる。ジョンが手の甲を慰める様に舐める。僕はその頭を上から抑え付ける。

(止めろ)

(余計…恥ずかしいだろうが)

「ん、まぁ…全くの偶然と言う訳では無いんだけどね。実は、俺ァ彼を探していてさ」

(大人のフォローが胸に沁みる。でも、お願い、止めて。更に恥ずかしい…)

(お願い、もう…家に帰して)

「言ったろ?俺ァ調査と、出来るなら、それらの事後処理を任されてたんだよ。で、調査を終えて、それの事後処理を、まぁ、そちらの刑事さんとだな―事件の細部を話合って、何とか片を付けようとした訳だよ。上とは穏便に話し終わって―で、こちらの現場責任者に話を付けて貰おうと思ったら、こちらさんの電話が繋がらんだの何だのって話になって―こちらの刑事さん、今回の事件にえらく精力的だって話も聞いたもんでね、こりゃ大変な事になる前に、と」

「…もう十分、大変な事になってる気がしますがね」

「おいおい、良い若いもんがそう将来を悲観するなよ。まだ逮捕はされて無かったろ?」

「ていうか―あなた、何なんです?ジャーナリストだなんだ言ってましたけど、会社に電話したら、そんな人間居ないって言われましたし。一体何者なんです?」

「ん、そういや―そいつを話してなかったか」

(?)

 小林は、一人納得した様に頷き―狐目の刑事さんは何やら酷く、落胆した様な、恨めし気な目で、小林を眺めている―置いてけぼりの僕に構わずに、にやにやと相変わらず癪に障る笑みを浮かべて、僕にこう尋ねる。

「名刺、持ってる?」

「は?」

「―あの時、あげたでしょ、俺の名刺。未だ持ってる?」

「そりゃ、持ってる―持ってますけど」

「じゃ、それ、出して」

「はぁ?」

「持ってるんでしょ?じゃあ、それを出してよ、今」

「今、ですか?今―は、無理ですよ、多分、家ですから」

「ああ、そう意味の『持ってる』かぁ…」

 小林は溜息を吐いて、ガッカリした様に頷き―(溜息を吐きたいのはこちらの方だって)―それから、気を改めた様に胸を膨らませて、ポケットから名刺入れを取り出し、新しいものを僕に差し出す。

「はい、じゃあ、これ。今度は失くさないで」

「いや、別に、失くした訳じゃ―」

「しっかりそいつを持ってるんだ。良い?」

 訳も分からずに、新しい名刺を手の中に押し込められて、僕は頷く。名刺の中身を見る。名刺の中身は、前に貰ったものと、一切同じだ。流石に、市街地や電話番号までは、憶えていないが―でも、それらも特に、変わりは無い様に見える。電話番号も3-3-4、何処かの固定電話へと繋がるものだ。

【月刊 境界を歩く/在籍記者/小林 縣】

                 『…この部署には小林某なんて輩は居ないわ』

 僕は首を振る。小林が微笑みを浮かべて、口元から煙草を放す。それを指で抓んで、線香花火の様に、火を点いた方を下にして、ぶら提げる。

「…いいね、しっかりそいつを持ってるんだぞ?」

「はぁ」

「絶対、離すなよ―」

 小林は煙草の火をゆっくりと下ろして―。

 ―それを、自分の名刺に押し当てる。

(?)

 小林を見る。名刺を見る。小林は相変わらずにやにやと笑っている。名刺に火が燃え移る。背筋にじんわりと、薄ら寒いものが走る。もしかしてこの人は、信用してはいけない人だったんじゃないか。どうして僕はこの人の言う事を聞いてしまったんだろうか。何で刑事さんは黙っているんだろうか。僕は、大人が皆、良識のある存在で、決して自分を傷つける事は無いと決めつけてしまっていたんだろうか。本当は、“神隠し”の凶行に紛れて、人間の犯罪が行われていたって、なんにもおかしくは無いのに。僕は、さっき自分で考えていた事も、もう忘れてしまったんだろうか?

                 『―事件が起きたら、それは、大抵の場合は』

                            『…人間の仕業だ…』

 名刺が、煙草を押し当てられた場所から、野火の様に燃え広がる。小林がケタケタと、楽しそうに声を上げて笑う。僕はそれを見る。炎は僕が手を放す暇も無く、真っ青に、真っ白に燃え上がって、瞬きを終える前に鎮火する。眩しさに目を瞑る直前、親指程の小さな狐のような存在が、僕の指の上を走って行くのを、確かに見る。

(な―?)

 目を開ける。悲鳴が咽の先まで出掛かる。炎は無い。狐も居ない。指の先に、熱も痛みも感じない。

 ―手の中には、先程と変わらずに、真新しい名刺が握られている。

「―いやぁ、合コンでこれやるとモテるんだ、これが」

「…馬鹿じゃないのか?」

 ―但し、名刺の文面には、先程までとは違う、新しい文字が刻まれている。

「人呼んで、『合コン荒らしのコバさん』―」

「馬鹿じゃないのか?」

 ―そこにはこう書かれている。

「いや、ホント、ホント。嘘じゃないのよ。君も、合コン行く機会あったら、使ってみ?」

「馬鹿じゃないのか、馬鹿じゃないのか、馬鹿じゃないのか、アンタ―!!!!」

 ―【内閣情報調査室/超常現象対策部門/在籍一級調査員/小林縣】

「お、意外と元気だな。急いで来なきゃ結構不味いかもと思ってたけれど、こりゃ、その心配も無かったかな?」

「―馬鹿じゃないのか、馬鹿じゃないのか、馬鹿じゃないのか、馬鹿じゃ―…!」


「ジェミニ出版ってのは、ウチのフロント企業さ。いや、フロント部署かな」

「…」

「最初こそ、ウチが出資して、企業の体を装っていたけれど―二代目の経営者が意外と優秀でね。ウチが内部のごたごたに手一杯になって、ちょっと手を放している隙に、いつの間にか上場企業の仲間入りしててさ」

「…」

「や、ホント。嘘の様な、本当の話さ。ああ、あれには吃驚したね―それでも、昔の事情を知ってる社員さんも、未だ幾らか残ってくれてるんだよ―でも、まぁ、この『境界を歩く』部署にも、新しい風を入れない訳には行かなくてさ。ほら、人の流れが一切無い部署なんて、如何にも怪しいだろ?」

「…現在3人しか居ないって言ってましたけど?」

「1/3も入れ変えたら充分だろ?」

 ―煙草の煙を遠慮無く吹き上げながら、何処か他人の事情を話すみたいに、愉快そうに、小林は喋り続ける。僕は、貰った新しい名刺を皺になるぐらい握り締めて、朦朧とする頭で小林の話を聞いている。ジョンが僕の太腿に、横腹を擦りつける。その温もりを、有難く思う。僕はジョンの耳の後ろを指の甲で撫でながら、骨の鎖を左手の中に軽く握って、揺らす。鎖が手の中でしゃらしゃらと流れる砂の様な音を立てる。家に帰ったら、ズボンにコロコロを掛けないと、とぼんやり考える。多分、犬の毛でべたべたになってるだろうから。

 新しい名刺を、チラリと見下ろす。名刺に書かれた文面は、既に火を点ける前のものに戻っている。

【月刊 境界を歩く/在籍記者/小林 縣】

(…何が、境界だ。馬鹿じゃないのか…?)

「調査と―事後処理」

「うん?」

「調査と、事後処理に来た―って、言ってましたよね」

「…ああ。それが、どうかしたかい?」

「この件は、結局、何だったんです?これを…どう、収める積りです?」

 小林は、微笑みを浮かべて僕を見る―それを、何となく気に喰わない、と思う。大人の笑みだ、優しくて、何処となく包容力のあって、そして、僕には良く分からない、何かを懐かしむ様な。それがどうしてだか、無性に腹が立つ、どうしても。何がどうして腹立つのか、自分でも説明出来ないが。

(…その顔、止めろ)

(煙臭い…)

「心配しないで、悪い様にはしないよ」

「…信用出来ると思ってます?」

 ―中々手厳しいなと、小林は苦笑を浮かべ、肩を揺らして笑う。僕は指針を求めて、吸血鬼の兄妹と、ジョンの様子を盗み見る―アレックスとカミュは、動ける程度には回復した様だ。カミラがアレックスの背から手を離して、立ち上がる。アレックスがバランスを崩して、コンクリートの床にすっ転ぶ。二人とも、どうしたものかと決めあぐねるように、互いに顔を見合わせている。ジョンの表情に変化は無い。少なくとも、毛が抜けて、顔の肉が溶け落ちたりする、そういう兆候は無い―ジョンは普段と変わらない、眠た気で、気怠げな眼をして、僕を見上げている。

(…どうしたら、良いんだろう…)

(信用―して、良いのか?)

(こんな名刺一枚で。簡単に信じて良いのか?身分確認も出来やしない。特に最近は、色々なものに裏切られて来た…)

(見た目だけなら、胡散臭さ満点なんだけど…)

「…確かに、出会った時には、嘘を吐いた。第一印象は最悪だったかな―」

「…」

「―でも、これだけは信じて欲しい。君がこの件に関わったのは、全くの偶然だ。決して俺が、そういう風に仕向けたって訳じゃない―」

(―は、偶然、偶然ね?)

(嫌な響きだ…)

(言い訳されると、余計胡散臭く感じるな―それで、一体何処の誰が、あんたのその『偶然』が本物だと、証明してくれる?)

        『ほォ、偶然、偶然!また偶然ですか、やっぱり偶然ってのは―』

「…あの女は、12年前の事件の被害者だ。当時は存在すら確認されない、弱い自縛霊だったが―それが、別のエッセンスを外部から得る事で、瞬く間に無視できない状態へと変容した―」

「…」

「分かるだろ?王の欠片さ」

 小林は微笑みを緩めて、言う。僕は不承不承、頷く。ジョンが小さく欠伸をする。少しずつ、張り詰めていたものが、解きほぐされていく様な感覚がする。

「―恐らく、君が渦中に巻き込まれたのは、あの大飯喰らいの幽霊の仕業だ―あそこまで自分を強めてくれたものが何なのか、本能的に気付いていたのさ、あの女は。だから、あれだけ正気を失っても、君に関わり続けていたんだ、あいつは」

              『荻野くん、あなた良い香りね。とても良い香り―』

                     『―やっぱりキミ、良い匂いするね』

                    『犬を飼ってるの?今度連れて来てよ』

                      『…返して。それが無いと、私―』

「…あの女は、君の中にあるものを欲しがっていたんだよ」

「―知りませんよ、そんなこと言われても。あの子は消えた。もう、終わったんだ。これ以上、誰も居なくならない」

 僕の言葉に、鼻面を弾かれた様に顔を上げて、小林は僕を見る。それから、うん、そうだ、そうだねと、苦笑を浮かべて何度も頷きながら、柔らかい声音で小林は相槌を繰り返す。

(―何だ?)

(良く分からない。何なんだ、この人?何を考えてる―?)

「それで―事態がこれ以上大きくなる前に、早急に決着をと思ってね―根回しを終え、奴の住処の周囲に結界を張り終えて―それから、さああの大食い霊との勝負だという道中で、この刑事さんに出会ってね」

「…」

「多分、君を尾けてたんだろうな―張り込みしてたのか、偶々、君を見掛けて後を尾けたのか、それは分からないがね。見つけた時は一人だった。そりゃひどいもんだったよ―効き腕を盗られて、腹に穴を開けられ、咽も削られて―所々、空気の漏れる音が聞こえて来るんだ。だから、取り敢えずガムテープで応急処置をして―」

「―そんな事はどうでも良いんです」

「え?」

 小林は口を噤む。僕の目を見て、隣の刑事さんを尋ねる様に見て、それから、未だ話していない何かがあっただろうかと頭の中を探る様に、煙草を咥えて、天井を見上げる。僕は自分の咽を擦る。乾いて張り付いた喉を、声が通る様にする為に、懸命に、外側から擦る。必死に言葉を絞り出す。

「終わった事は、もう、良いんです。聞きたいのは、その後の事だ」

「あ―ああ。安心して、悪い様にはしない。言っただろ?自慢じゃないが、俺ァ約束は守る男さ。君一人に、責任を背負わせる様な事はしない。学校の敷地内に倒れてる、他の連中の事も纏めて面倒見るよ。校舎の修繕費を、何処から捻出するかが一番の問題だけど―君がこれまでと変わらない生活を送って行ける様に、最大限努力する―」

「―そうじゃない、いや、それも気になるけど―」

 小林が不思議そうな顔をして、僕を見る。僕は骨の鎖を握り締め、ジョンを見下ろして、その頭を撫でる。小林が、視界の端で、察した様に頷いた気がする。

 ―それとも、それは僕の願望だろうか。

 ジョンの柔らかい毛に指を絡ませながら、顔を上げずに僕は尋ねる。

「ジョンは―どうなりますか?」

「ああ…」

 小林が嘆息する。僕はギュッと目を瞑る。小林がこれから吐くであろう言葉に対し、ショックを受けない様にとあやふやに覚悟を固める。保健所や、処分と言った単語が漠然と脳内をチラつく。骨の鎖を強く握り締める。鎖が手の中で軋んで、嫌な音の悲鳴を上げる。

 だから―小林が次に言った事は、酷く意外だった。そうなる事を望んでは居ても、そうなる筈が無い、と諦めてしまっていたから。

 …特に最近は、嫌な予感だけが、選んだみたいに的中していたし。

「君と一緒に帰って貰う」

「え?」

「君が今まで通り生きていける様に、最大限努力する―約束したろう?」

 目を開ける。信じられない想いで、小林を見る。小林は煙草を口から放して、優し気に微笑んでいる。初めてその微笑みを、信じて良いのかもしれない、という気分になる。信じたいという思いと、猜疑心が胸に同居する。

 信じても良いのだろうか。

 望む度、裏切られて来た。

 でも、今度こそ、本当に、本当の本当に、信じても―。

 悪夢は終わりだと。

 夢から―覚める、時が来たんだ、と。

(僕が藻掻けば藻掻くだけ…)

 小林は笑っている。その表情が豹変したり、背後から赤黒い腕が伸びて来て僕を押し潰したり、懐から『ドッキリ大成功!』の看板を突然取り出して、僕の鼻先で、それをチラつかせる様子は無い。ジョンは落ち着いている。吸血鬼兄妹は、事の推移を見守っている。終わりが来たんだ、と思う。終わりが来た、んだろうか?半信半疑のまま、体の力が抜けていく。

(あ、これ―)

(クソ―)

(ヤバい―頭が)

 ―突然、標高の高い所へ放り出されたみたいな感覚を覚える。酸素が足りなくなる。意識が朦朧とする。目の奥がチカチカする。頭の中から血液の流れが消え失せてしまった様な気がする。掌がジョンの毛の上を滑る。そんな積りも無いのに、膝がくの字に折れる。地面に崩れそうになったところを、目の前に立っていた狐目の刑事が慌てて駆け寄って来て、残っていた左腕を僕の脇の下に差し込んで、助けてくれる。目の奥がチカチカすると共に、視界が段々と暗く染まって行く。息が出来ない。肺の底に、穴が開いてしまった様だ、と思う。

 声が聞こえる。

 真っ暗闇の中で―声だけが。

「…そろそろ、放してあげてくれるかい?」

「…?」

「…ああ、あなたの事じゃないよ、刑事さん―こっちの話さ」

「…」

「…見なよ。この子、血が出てる―あんたが繋いでいる所為だ。そろそろ、この子を放してあげないと…この子、死んじまうよ」

「…」

「もう大丈夫だよ」

「…」

「約束したろ?」

「…」

「この子が今まで通り生きていける様に、最大限努力する」

                                 ―じゃら。

                            ―から、からから…。

 何かが砕けて、引き摺られていく様な音がする。手首が軽くなる。少しだけ、呼吸が楽になった様な気がする。沈んでしまいそうな意識を何とか繋ぎ止めて、必死に瞼を開ける。

                                  ―から。

 ―僕はそれを見る。

 僕は刑事さんの腕の中に居る。狐目の刑事はその細い瞳を、嫌悪と畏怖に染めて、見開いている。僕は自分の左手首を見下ろす。手首には血がべっとりと付いているが、何処にも傷跡は見当たらない。まるで最初から、何も無かったかのように。カラカラと音がして、そちらを見る。骨の鎖が、逃げていく蛇のように、その尻尾を少しずつ崩壊させながら、からから、じゃらじゃらと、ジョンの方へ這い進んでいく。僕はジョンを見る。

 ジョンは小林と向かい合っている。ジョンの頭はあの時のように、毛と肉が崩れて、頭蓋骨が剥き出しになっている。僕とジョンを繋いでいた骨の鎖が、掃除機のコンセントを巻き戻すみたいにからからと、ジョンの首筋に吸い込まれていく。小林はジョンの前に跪き、その骨の頬を優しく撫で、笑って、言う。

「―おかえり、骨の王」

 そこで僕の意識は途切れる。スイッチを切る様に。







 後日譚。

「―ああ、あんた、良かった、無事だったかい?」

 見知らぬ病室で眼が覚める。どうやら、個室みたいだ、と思う。左手奥に、L字型に通路の伸びている病室で、そちら側が多分出入り口なのだろう、かちゃかちゃ、がちゃがちゃと、遠くで忙しく何かが行き交う音だけが聞こえる。頭の中で脳味噌が柔らかく突っ張って、暫くの間何も考える事が出来ず、ただボーっとしている。個室の右手には、窓がある。窓は開いている様で、そこから夏の匂いのする、暖かく湿った風が吹き込んで来て、優しくカーテンを揺らす。僕は窓の外へ目を向ける。窓の外には見知らぬ風景が広がっている。川と、観覧者と、遥か遠方で山彦のように響く、車のクラクションの音。僕は少しだけ、目を閉じてその音に耳を傾ける。その平和な日常の雑音に、もう安心しても良いんだと、ぼやりと実感する。

 ―漸く悪夢は、終わったんだと。

「ドジだねぇ、あんたは。ああ、ホント、ドジだ。全く、一体誰に似たんだか。トラックの前に飛び出したんだって?今度からは自分の足の速さと相談して、そういう事をするんだね。あんたの足は父さんに似て、のんびり屋なんだから―」

 ベッドの両サイドには、右手に小さな飾り棚と、移動用の点滴棒、左手側には冷蔵庫が置かれていて、その冷蔵庫のある側に、母さんがこちらに身を乗り出す様にして座っている。僕は、状況が呑み込めずに何度も瞬きをする。自分の様子を見下ろす。右腕には、血管に点滴針が突き刺さっていて、左腕は丸太の様に、ギプスで何重にも、グルグルに固められている。

 …まるで重病人みたいだな、と思う。

(―どういうことだろ。何だ、このギプス。トラック…?)

 僕は、右手を持ち上げて、自分の頬に触れる―指先に、乾いた硬い、包帯の感触を感じる。どうやら、顔の周りにも、ガチガチにギプスが巻かれているらしい。苦笑しようとして、頬の筋肉が動かない事に気付く。相当厳重に、封をされているみたいだ。不自由さに、僅かに苛立ちを覚える。入院?冗談じゃない。点滴だって、必要無い。僕はこんなに、元気なのに―。

「―安静にしときなよ。あんた、二日も寝てたんだからさ」

 僕は驚いて、母さんを見る。僕の目を見た母さんが、疲れた様な表情のまま、思わず、といった感じに吹き出す。身体を震わせて、くつくつと笑う。僕はそれを、茫然と眺めている。何だかそれを、懐かしいと思う。

「ま、その様子なら、大丈夫そうだけど―なんたって、あんたはあたしの子だからね。あんたのしぶとさはあたし譲りさ」

 ―笑う。母さんは、笑う。僕は不満を示す様に、ギプスの間から勢いよく空気を押し出す。ぴぃぴぃと、空気がギプスの合間から、口笛の様な音を立てる。母さんは、笑いながら目元を拭う。

 …そして不意に、真面目な顔になって、母さんは顔を上げる。

 僕は、その眼に向かい合う事が出来なくて―僅かに視線を、下に逸らす。

「…あんま、心配掛けるんじゃないよ」

                                  ―ぴー。

「無茶するな、とは言わないけど…もう、あたしにゃ家族は、あんたしか居ないんだからさ。危ない事は止めておくれ。少しでも怖いと思ったら、逃げ帰って来ておくれ」

                                 ―…ぴー。

「分かってんなら良いさ。じゃあな、また来るよ」

 そう言うと、母さんは僕のギプスで守られた頬を小突いて、鷹揚に手を振って、行ってしまう。

 僕はベッドに寝転がって、また目を閉じる。頭の中で、母さんの言葉を反芻する。

                    『…あんま、心配掛けるんじゃないよ』

                                 『無茶するな、とは言わないけど…もう、あたしにゃ家族は、あんたしか居ないんだからさ』

            『危ない事は止めておくれ。少しでも怖いと思ったら―』

(…ごめん、母さん)

(やっぱり、相談するべきだったのかな。例え、手に負えないと、分かっていたとしても―)

(―でも、もう終わったよ。何もかも、もう終わったんだ―)


「―ハッハッハ、やあ、目が覚めたかい、寝ぼすけ君?それじゃ、定期診療を始めようか」

 母さんが出ていって、1時間か、2時間後。病室に、一人の男が入って来る。真っ白な白衣を羽織っている以外は、何処と無く、だらしない感じのする男だ。天然パーマに、頑固な寝癖まで組み合わさったロングヘア、首周りに乱雑に掛けられた聴診器具、胸ポケットには3色ボールペンが4本、5本、足元は何故か便所サンダル。胡散臭さでは小林某といい勝負だ、と思う。男は片手に銀色のトレイを掲げて立っている。

「意識ははっきりしてるかい?身体に、何処か痛みは?自分の名前は思い出せる―?」

 男は、そう言いながら、銀色のトレイを冷蔵庫の上に乗せる。トレイの中には、ピンセットと、何か、肌色の、薄い生ハムの様なものや、細切れのソーセージみたいなものが沢山入っている。僕は男と、銀色の、トレイの中身を見比べる。少し、気味が悪くなる。どう見ても、トレイは食器用の皿には見えないし、ピンセットは食事用の道具には見えない。それに、トレイの中身は到底調理されている様には見えない。ランチにしては酷く重たい内容だ。肉類一色、白米も副菜も見当たらない。

 ―一体、この男は、何しにここに来たんだろう、と思う。

「いや、一応精密検査は終えたんだけどね。でも、こういうのはやっぱり、本人に聞くのが一番だというか。自分の体の事が一番良く分かっているのは、いつだって自分だからね。だから、何かしら自覚症状があるんなら、どうか遠慮無く―」

 男は喋り続ける。途切れることなく、喋り続けながら―腰のベルトから、工作用の鑿と、ハンマーを取り出す。

 僕はそれを見る。

 ギプスの内側で―顔が恐怖に歪むのを、自覚する。

(ああ…)

 男が、鑿とハンマーを構えながら、僕の方ににじり寄って来る。

「―ああ、動かないで。こういうのは初めてなんだ。どうも、加減が良く分からない―」

 ―僕は歯を食い縛って目を瞑る。遠くの方で、車のクラクションが遠雷の様に重なって鳴り響いている。

(まただ。今度こそ終わりだと思ったのに。夢から覚めたと思ったのに―)

(夢から覚めても―又、夢の中だ)

 自分が情けなくなって、涙と笑いが同時に込み上げて来る。悪夢は終わったと思ったのに。夢の中で目を覚ましたと思ったら、又新しい夢の続きに放り込まれた気分だ―今度は病院の中に潜り込んで来た、白衣を纏った殺人鬼の出て来るサイコ・スプラッタ・ホラー。どうして僕はこんな風なんだろう、と惨めな気分で僕は考える。どうして僕はこんな風になるんだろう。やっぱり何もかも、僕が悪いんだろうか。

                             『…違和感の塊―』

                                  ―かん。

                            ―かん、がん、がん。

(…?)

                                 ―ばかん。

 何かが景気良く割れる様な音が直ぐ側で聞こえる。僕は目を開ける。左手が不意に自由になった様な感覚を覚えて、そちらへ目を向けると、そこには綺麗に、真っ二つに割れたギプスと、指先や掌の上部がボロボロに欠けた、懐かしの僕の左手が露わになって居るのが見える。明るい所で改めてみると、如何にも痛々しい。

(?)

(これ―?)

 男へ目を向ける。

 男はハンマーと鑿を、銀色のトレイの隣へ置き―如何にも一仕事終えたという様に、草臥れた様に手首を振りながら、大袈裟な溜息を吐いている。(「おお、痛ぇ…」「指先が痺れる…」「こういう、大雑把な仕事は、僕の繊細な指先には向いてないんだよな…」)散々独り言を一通り呻いた後、男は、僕の視線に気付いたみたいで、へにゃりとした笑顔を唇に乗せ、気を取り直した様に僕に笑い掛ける。

「ご免―その、随分、待たせたね。さて、それじゃ、そろそろ修復作業を始めようか」

 僕は上手く事態を飲み込めずに、男の顔を無言で見つめ返す。

 すると、男は忘れ物を思い出した様に、明後日の方向へ視線を持ち上げて―何処か言い訳する様に、困った様に、僕に尋ねる。

「あー…もしかして、アガタから、何も聞いてない?」

(アガタ…)

(…小林、縣?)

「―だよね。そりゃそうか。忘れてたよ、そういや今朝まで気絶してたんだもんな―」

 男はモタモタと首周りを手探り、赤い首紐の付いた名札を、胸ポケットから苦労して引っ張り出す。男がそれを、僕の方へ向ける。差し出されるままに、僕は僅かに身を傾けて、その名札を覗き込む。名札の中身を見る直前、あの小林の、意味の無い悪戯を思い出して顔を顰める。

       『…いいね、しっかりそいつを持ってるんだぞ?絶対、離すなよ―』

【医療法人 千境会/所属医療スタッフ/外科・総合内科/柊辰巳】

「…ドクター柊と呼んでくれたまえ。あ、因みに千境会というのは、超対部ウチのフロント部署の事さ。いや、フロント医局ってとこかな―?」

 僕は戸惑ったまま、男の―ドクター柊の話を聞いている。柊さんは僕の戸惑いを察したみたいに、再びハンマーと鑿を持ち上げて、苦笑する。

「ま、話は追々ね。先ずは、そのギプスをさっさと剥がして、君の素顔を曝け出すとしよう。そのままじゃ、碌に話も出来ないだろう?」

「…」

「安心して。時間はたっぷりある。僕が君の疑問に、全て答えられるとは限らないけれど―」

「…」

「話せる事は話すさ。約束するよ」


「―これはあの日分かたれた、君の一部だ」

 男は―ドクターは銀色のトレイを膝の上に寄せ、一部をピンセットで抓み上げながら、言う。僕はギプスから解放された口元で大きく息を吸いながら、ドクターの話を無言で否定する。ドクターはピンセットで持ち上げた肌色の肉片を、何処か恍惚とした視線で眺めながら、楽しそうに唇を綻ばせる。

「“彼女”に喰われた、君の一部だよ」

「…そうですか」

「素晴らしいとは思わない?嘗ては只の幽霊に過ぎなかった“彼女”が、たった一欠片の“王”に依って、こうも変貌してしまうなんて」

「…」

「いや全く、素晴らしい出来栄えだ―“彼女”は、欠片を吸収する事で、自分の周囲を取り巻く環境との境界を失ったんだ」

「…境界…?」

「そうさ。物理的にしろ、精神的にしろ、我々の周りには、それを取り巻く膨大な『線』がある―境界線だ。他人の手足は自分の思う通りには動かないものだし、どれだけ近しい人でも、頭の中で考えている事が、何もかも分かる訳じゃない。岩やコンクリートは固くて通り抜けられないし、刃物に触れれば、こちらの皮膚が容易く切り裂かれるだろう」

「…」

「あらゆるものには、線がある―それはある意味、必要な線だ。何もかもが体を擦り抜けるなら、道路や屋根、もしかしたら、食事すらも必要無いかもしれない。障害物が無いのなら、道を整備する必要は無いし、風雨が体を擦り抜けるなら、それを凌ぐ場所を作る必要もない。それに、他者の考えている事が、もしも余すところなく分かるのなら―それはもう、同じ個体と言っても差支えないかもね。そうなりゃ、他者との交流さえ、その種には必要無い。子孫を残す必要すらも」

「…何故です?」

「完璧だからさ」

 ドクターはにやりと笑い、ピンセットの先に抓んだ肉片を、僕の左手の小指の先にちょこんと乗せる。僕は掌を開いたまま、どうして良いか分からずに困惑する。指の先に確かに乗っているのに、そのピンクの肉片が僕に触れている感覚は全く無い。ドクターはピンセットの先で肉片を突いて、僕の小指の上でそれをのそのそと回転させる。思わず、こそばゆくて、笑い出しそうになる。ティッシュで鼻先を擽られるみたいな感覚だ。ドクターのピンセットを思いっ切り跳ね飛ばしたい衝動を抑えて、僕は必死に、込み上げる笑いを我慢する。

「一個体で完璧なら―種族を後世に保存する必要もない。何故なら、ある意味それが、全ての生物の究極目標だからね。それ一体だけで、共同体コミュニティであり、社会ソサエティであり、そして個人である事が出来るなら―他の何を必要とする事も無い。もしその種が、危機感を覚えて子孫繁栄の努力をしたとしても、やがて生まれて来るものは、また次の己というだけだ。同じ個体は、何も新しいものを齎さない。繁殖行動は業務的になり、ゆくゆくは必要数を維持するだけの行為に留まるだろう。つまりは、絶対数の衰退だね―一個体で完璧なのに、完璧が故に、種族としては、何も発展せずに、衰退していく。あのまま“彼女”が成長していれば、中々面白い事例になっただろうに―」

「あー…何が言いたいか、良く分かんねぇです。つまり―?」

「ああ、ご免、話が逸れたね―」

 ドクターは苦笑しながら、ピンセットで僕の小指をギュッと上から抑え付ける。小指の先に圧迫感を覚え、僕は顔を顰める。ドクターはそんな僕の表情を見て満足そうに頷くと、ピンセットの先を指から放して、ほら、動かしてごらん、と言う。

(…楽しそうな顔、してんなぁ…)

(所詮、人事だもんな。僕も、これが自分の欠片じゃ無かったら、もっと気楽に構えて居られるんだろうけど…)

 言われるままに、指を動かす。束の間、嫌な予感が胸の内を過ぎるが、ドクターが乗せたピンクの肉片は、あの日見たジョンのお腹やカミラの両足の様に、問題無く僕の小指の先にくっ付いてくれる。途端に、思っていたよりも盛大に、安堵の波が自分の内側にどっと押し寄せて来る。どうやら自分で考えていたよりずっと、もっと深刻に考えていたみたいだ。自分の指先に戻った小指の指紋を見て、不覚にも、僕は泣き出しそうになる。

(…良かった…)

(くっ付いた)

(良かった。くっ付いた。元通りだ…)

 僕は右手で目元を覆う。ドクターは僕の様子にお構いなしに、新しい肉片を抓んで、鼻歌交じりにそれを僕の指先に乗せる。

「“彼女”は境界を失った」

「…」

「“彼女”は触れた物を自分の一部にする事にしたんだ。“彼女”に触れられたものは、境界を奪われる。つまり、“彼女”は入り口になった訳だ」

「い―りぐち、ですか…?」

「そうだよ。“彼女”は喰ったものを、異相空間に溜め込んでいた。胃袋の様なものさ。その中に、沢山の“彼女”達をね―。“彼女”は最早、入り口であり、門であり、境界の外の物を食す、取捨選択の為の口に過ぎなかった。“彼女”がそう望んだのか―それとも、胃袋の中の沢山の“彼女”達がそれを望んだのか、今となってはもう分からないがね。けれども“彼女”がそうやって、食事を行い続けた結果―次第に“彼女”は、その純度を失い始めていった」

「…純度?」

「“彼女”としての純度さ。つまりは、意志だよ」

「イシ―?」

 ドクターが、僕の薬指に乗せていた肉片を、中指へと移し替えながら、言う。

(…どうやら場所を間違えていたらしい)

(まぁ、殆ど形、違わないからなぁ。どう見ても、細切れにしたソーセージって感じだし…)

「言うなれば、“篠原和澄”としての意志だね。彼女が核だったんだ、最初は彼女としての意志があった筈だよ―」

「…」

「―でも、それが、人を喰う毎に、他人を喰う毎に。まぁ、ある意味当然だけどね。他人の意識が自分にくっ付いて、自分と混ざり合うんだ。二種類のジュースを混ぜる様なもんさ。どう考えたって、元の形を保てるわけが無い」

(…)

(…何処かで聞いた様な話だ)

(―王の欠片。あの日、“彼女”のものを、僕が呑み込んだ。僕もおかしくなってしまうんだろうか?それとももう、とっくにおかしくなってしまってる…?)

(…“彼女”…)

(最初にあった時は、“彼女”は別に普通に見えた。少なくとも、受け答えは普通だったと思う)

(最後の時も)

(…)

(あれが本当の彼女だったんだろうか?返して、と言っていた。王の欠片を。あんなに正気を失ってまで、彼女は何を欲していたんだろうか?)

              『―ああ、なのに、どうしてあの人がみえないの?』

「―ま、何はともあれ、“彼女”は消えたんだ。“彼女”はもう、それ程重要な存在と言う訳ではない。重要なのは、どちらかというと、その能力の方だね。いや、実を言うと、僕は最初、その話をしに来たんだよ」

「…?」

「“彼女”は境界を失わせる」

「はぁ…」

「―ところが、胃袋の中身を吐き出して、“彼女”は消滅した」

「はぁ」

「正直、回収要請を受けて、頭を抱えたよ―こんなもの、一体どうしたら良いんだ、とね。こんな相手は初めてだった。境界を失わせて、切断面から出血も無しに、相手の一部を奪う。もし体のパーツを何かしら奪われたとしても、別に死ぬわけじゃない。身体とパーツが別々の場所で生きている事になる訳だ。聞いた事も無い事例だよ―身体からパーツが失われても、そのパーツは、別の場所で、別個体として生きているんだ。“彼女”としてね。結果、体の方からパーツは失われるが、特に体の方が傷付いたり、死んだりするわけじゃない―ある意味、繋がった状態のままなんだよ。奪われたのに、途切れた訳じゃない。失ったのに、身体的にフィードバックがある訳でも無い」

「はい…」

 僕は気のない相槌を打ちながら、ドクターの手元をぼんやり見守る。ドクターは僕の中指に乗せていた肉片を、今度は左手の人差し指に移す。どうやら漸くしっくり来たようで、僕の指紋をくるくる回しながら、ドクターは嬉しそうに小さく声を上げる。

「ああ、そういえば―“彼女”に喰われていた他の人達は無事だよ」

「え?」

「皆、無事だ―今朝がた、最後の一人が退院したよ。安心したかい?倒れていた人達の中には、君の知り合いも居たかもしれないね―や、もしかしたら、君があの夜、あの場所に行ったのは、それが動機だったかな?」

「あ…ああ、いえ、別に、そんな事―」

「―彼らを検査していて、面白い事が分かったよ」

 ドクターは新しい肉片を抓み上げながら、口元を緩ませて、言う。

「…彼らは、ああ、正確には、“彼女”の死亡時、胃袋の中に居た一団だな―吐き出されてから暫くの間、“彼女”の因子を持っていたんだ」

「へ?」

「彼らは、自分の境界を取り戻し、個人としての形を取り戻すと同時に―少しの間だけ“彼女”の性質を保っていたんだ、驚くべき事にね」

 ドクターは肉片を僕の中指に乗せる。僕は話の行き先が分からず、数学の授業を聞き流す様な気分でドクターの言葉の先を待つ。ドクターは相変わらず楽しそうに笑っている。中指に空いた窪みに肉片がピタリと収まる。ドクターが控えめな口笛を吹く。

「…凄いと思わないかい?いや、生命の神秘かもしれないね。核に危険が訪れた時、他の部分にまで危険が分散しない様に、最後に核が因子を全個体に残して消失する。所謂セーフティネットと言う訳だ。もしそれで、その個体の内の一つが、首尾良く王の欠片を、再び手に入れられたなら―」

「…あの、すいません。結局、何が言いたいんです?」

「―最も恐れていた、最悪の事態だけは回避できた、と言う事だよ」

「はい…?」

「君は考えなかったかい?もし、“彼女”が死んで―」

「はぁ…」

「―その瞬間、“彼女”との繋がりが、“彼女”の胃袋の内側の、全個体と断たれたら」

「は―」

 ―僕はドクターを見る。

 まじまじと見る。

 ドクターは新しい肉片をピンセットで抓み―顔を上げて、僕の目を見る。

 目が合うと―ドクターは微笑みを浮かべたまま、遠慮がちに、少し顎を引く。

 僕は覆い被さる様に、ドクターの持つ銀色のトレイの中身を見る。

 トレイの中には、肌色の薄い生ハムの様なものや、細切れのソーセージみたいなものが、沢山入っていて―。

「―その瞬間、千切れた個体はどうなるか?“彼女”に一部分を奪われた人や、バラバラに分けられて喰われた人間が、境界線を取り戻して―」

「…首は?」

「―その瞬間、現実を取り戻した境界面から、一斉に出血し始めたりしたら―え?今、何て?」

「首ですよ。僕の首。今、何処にあるんです?」

 ―銀色のトレイの中にあるのは、生ハムや、細切れにした様なソーセージサイズの物だけだ。“彼女”に押し潰されて、抉り出された様な、僕の首を塞ぐ事が出来る様な大きさの肉片は、何処にも無い。

                                 『彼女の掌が僕の首を撫でる。途端に巨大なハンマーで喉元を押し潰される様な感覚がして―』

「あ―ああ、大丈夫、大丈夫。うん、ちゃんと見つけたから」

「…何が大丈夫なんです?」

「今、君の首を補填している、王の欠片と拒否反応を起こさない方法を模索中で―」

「…喰われた人達が、“彼女”の因子を持っていたのは暫くの間だって言ってましたね。暫くって、どれ位です?」

「あ?うん、暫くは、暫くさ―その、早い人だと、4時間位かな。全身を保持している人だと、それぐらい。大きい個体ほど、因子の消失が早かったんだ。でも大丈夫、君の指、未だくっ付くだろ?」

「首は?」

「大丈夫、因子の消失を最初に確認してから、直ぐに冷蔵庫で冷やしたから。因子が消えていないのも確認済みで―」

「首」

「まぁ、少し、状態は悪くなっちゃったかもだけど―」

「いいから、首を」

「…怒らないで、聞いてくれる?」

「子供かアンタは…」

 僕は溜息と共に、深々とベッドに沈み込む。ドクターは疲労交じりの苦笑を浮かべ(どうやら、この人はこの人なりに、色々な苦労があったみたいだ)、ポケットから白い手袋を取り出して、それを身に着ける。それから、冷蔵庫から―僕の左手にある、ベッドサイドの冷蔵庫から、氷と水が沢山入った透明の硝子のケースを取り出す。ドクターは冷蔵庫の上にそれを置き、白い手袋を嵌めたまま、そのケースの蓋を開け―中から、ビニール袋に入った、蒲鉾の成り損ないみたいな形の、肌色と筋繊維のグロテスクな塊を掴み出す。

(わ…)

「―ご免ね、こうして保管しておかないと、少し危険でね。大きい固体ほど、周囲のものを無差別に良く喰うんだ。しかも“彼女”の因子は受け継いでいても、“彼女”から力のコントロールを学んだ訳じゃないから、余計性質が悪い。何を食べるのかも、完全にランダムでね。“彼女”の被害者達も、因子の消失が確認されるまでは、隔離処置を行うしか無かったよ。最初の因子消失が確認されてからも、それから10時間以上、完全に軟禁状態で。可哀想に、彼らは酷く怯えていて―」

「…ちゃんとくっ付くんです、それ?」

「多分。ま、少しは、痕が残るかもしれないけど―」

「…端っこのとこ、完全に青紫になってるんですけど」

「まぁまぁ、気にしない、細かい所は。内出血の色と、大体同じじゃないか。これでも一応、最善は尽くしたんだよ?検体として欲しがる上と格闘し、因子の消失を疑う現場を、緩やかな監視という条件で説得し―」

「…それは、まぁ、ありがとうございます。お手数をお掛けしまして…」

「―これを今直ぐ標本にしてしまいたい、という自分の良心とも闘って―」

「おい」

「―この場所に運び込んだのは、数時間前さ。さぁそれを装着、という段階になって、君の母上の再度の来訪なんかもあったりもしてね。因子の消失まで猶予も未だありそうだったし、そう何度も、意識不明の息子さんへの、面会を断るわけにもいかず―」

「…まぁ、それは…」

「―幸い、ビニール製品は食べない、と言う事は判明していたからね。取り敢えずビニールで君の首を覆って、冷蔵保存、という形に落ち着いたよ。まぁ因子が完全に残っているなら冷やす必要も無かったかもしれないがね、一応、念の為。まぁ、保険行動が役に立って良かったよ。因子、消えかけてるもんねこれ、どう見ても」

「…本人を目の前にして言います、それ…?」

「さ、それじゃ早速、取り付けようか?」

「え?い、今からですか?心の準備が―」

「ところで、君が無くしたのって、首のどの部分?」

「…アンタ、ホントにドクターなんですか?」

「まぁ、ドクターはドクターだけどね。どっちかと言うと、博士の方さ。僕ァ研究畑なんだ―」

「…急に不安になって来たな。本当に大丈夫なんですよね、それ。あ、冷たい、それ、凄い冷たい―」

「大丈夫、大丈夫。一応、医師免許も持ってるからさ。ところで君の首、噛みついたりしないよね?」

「…僕を何だと思ってるんです?」

「いや、君じゃなくて、王の欠片がさ―」







(…行きたくねぇ…)

 6月21日、金曜日。7時40分。天気は晴れ。

(頭が痛い気がする。お腹が痛い気がする。吐き気がする気がする)

 ―あれから、身体を修復して貰って(『なんか、プラモを組み上げてるみたいだな』―とは、ドクター柊の談だ)、病院を追い出される様に後にして、タクシーで家まで送って貰って。

 母さんの手料理を食べて。何時の間にか眠りについて。

 目が覚めたのは、7時過ぎだ。母さんに追い立てられるように飛び起きて、慌ただしく準備を済ませて―。

 鏡の前で歯磨きをしている今の段階になって、何も事情が好転していない事に、漸く気付く。

(…足が痛い気がする。腕がダルい気がする。熱がある気がする…)

 事情。世間での事情だ―学校での事情、と言い変えても良いかもしれない。あの狐目の刑事はもう、僕が犯人じゃ無いという事ぐらい分かっては居るだろう。あの日、あの人だって、僕と同じものを見た筈だ。特に喋ったりはしなかったが、“彼女”に右腕を奪られていたみたいだし、腹部に大穴だって開けられていたんだから。あの人はもう、僕を犯人扱いしたりはしないだろう―けれども、それはあの人の中だけの変化だ。あの人が僕を犯人扱いという部分は変わらない。そしてそれが警察の方針だったなら、つまりは、世間での僕に対する評価は何も変わらない、と言う事だ。

(嫌な夢を見た気がする。今日は良く無い事が起きる気がする。寿命が残り少ない気がする…)

    『―君がこれまでと変わらない生活を送って行ける様に、最大限努力する』

 考えれば考える程、そんな魔法はありえない、と思う。それこそ、魔法でも使わなければ。一体どんな魔法だよ、と鏡の前で冷笑する。僕が顔を歪めるのに合わせて、首の真ん中を引き裂く様に走る、青紫の痣が綱引きの縄みたいにピン、と伸びる。僕はそれを指先で軽く撫でる。皮が少し薄くなっているみたいで、微かに触れるだけでも、猛烈にむず痒く感じる。

(…ま、それでも、感覚が全く無いよりマシか…)

「ユースケ、あんた、何時まで歯ぁ磨いてんの―!」

「もう終わるよ」

「さっさとしな!そろそろ、出る時間だよ―!」

 苦笑する。母さんの怒号を、呆れるほど懐かしい、と感じる。帰って来たんだ、と実感する。

 …数日前の、“彼女”を探して奔走していた頃の、無茶苦茶になった、僕の学園生活に。

「…母さん、今日休んじゃ駄目?」

「駄目だね」

「どうして?」

「何故かって?今日が平日で、あんたが健康で、あたしが休みじゃないからさ。ほら、もう準備しな」




『皆さん、静かに、静かにして―』

「なあ、オギやん、オギやんやん」

『―静かに、はい、静かに、静粛に―この前も注意したばかりですよ、恥ずかしくないんですか?今年受験だという人も居る筈でしょう、皆さん、もう少し、高校生という自覚を持って―では、これより、6月21日の全校朝礼を―』

「…人の名前を無尽蔵に改編するなよ。何?何だよ、どうした?」

「今日、どうして全校朝礼なんだろうな?先週位にもうやったのに。大体いつも月一なのに、なんで今月だけ、2回目?」

「…知らないよ。やったかやってないか、忘れちゃったんじゃないか?ほら、良く在るだろ、そういう事。晩飯何喰ったか忘れるみたいなもんだよ」

「成程。因みに、オギやんは何喰ったの?」

「…そりゃアレだよ、アレ。あの、白い、炊いた穀類を、茶碗にアレしたものを…」

「―カシ、煩い」

 校庭。

 僕はこういう集会がある度の常通りに、後ろから話しかけて来る柏木の言葉を聞き流して、前を向いている。今日の最高気温は32度だと、冷房の効いた室内で天気予報士がうんざりした様に言っていたのを思い出す。真夏並みの陽光が僕の首筋を容赦なくジリジリと焼く。治り切っていない薄皮の部位が、他の部分よりも先に、音を上げる様に、傷む。

「―しかし、オギやん、ここ、首のこの辺り、どしたん?」

「…え?そりゃ、アレだよ、アレ…触るな」

「カシ」

「あ?何だよ、親友の様子を心配しちゃ、いけねぇのかよ?」

「いや、そうじゃなくて―アンタ、知らないの?」

「は?知らないって、何を?」

「何?」

「…何で荻まで知らないのよ?」

『―分かりますか?要は、自覚です。あなた方には、きちんと自覚をして頂きたい。漫然と歳を重ねるのではなく、一歩一歩、大人に近付いていっているのだという事を、きちんと自覚をし、受け止めて…』

「だからぁ、何をだよ?」

「…別に、只の噂よ。ここ最近、荻、入院してたでしょ?それが、あの東棟がブッ壊れた件に関わってるって噂が…」

「―待って。オレ、噂になってんの?」

「…だから、何でそれ荻が聞くのよ…」

「良い噂、悪い噂?」

「良い噂だね」

「…何でそんなに自信満々なの、カシ?」

「俺が知らないから」

「…なんか、不覚にもちょっと納得してしまった」

「腹立つわね…」

『…しかし、再三の注意にも拘らず、未だ東棟の跡地に出入りしている生徒がいる様です。嘆かわしい事です。あなた達は、もう子供ではありません。危険な事は危険、駄目な事は駄目だと判断し、自分で取捨選択が出来る年齢だ、と先生は信じています。良いですか?東棟跡地は立ち入り禁止です。注意するのはこれが最後です。次、跡地に侵入している者を発見した場合、警告無しに一週間の停学処分に処します。大丈夫ですね?後10日程で工事の業者が敷地内に入ります。テスト期間が終わり次第です。それまでどうか、あのロープを越えない様に。分別ある行動を―』

「…てか、荻、あの日、校舎に居たんでしょ?」

「うん?あー…、まぁ…、うん…」

「何その歯切れの悪い返事…」

「ウチの叔父さんの尿切れみたいだな」

「品の無い例えは止めて」

(実際…どういうことになってるんだろう?)

(朝のニュースでは特に、何も言ってなかった。続報が途切れて、世間の興味が移り変わってしまったって所だろうか?学校では、下駄箱に、新しい上履きが入っていたけれど―これは、小林さんが入れてくれたんだろうか?教室では、何を考える暇も無く、全校集会に駆りだされたし―)

           『―君がこれまでと変わらない生活を送って行ける様に…』

(…何かしたんだろうか、あの人?何かしてくれたんだろうか?僕の立ち位置はどうなっている?希望を持っても良いんだろうか?何もかも…もしかして、何もかも、元通りに)

(…)

『―はい、それでは、校長先生、ありがとうございました。では、連絡事項です。校長が先程仰った通り、崩れた東棟、並びにプールは以後も立ち入り禁止です。皆さん、必ずそれを守って下さい。今後、あのロープを生徒が越える所を教師が目撃した場合、警告無しに一週間の停学処分にします。これがどれだけ重い処罰か、皆さんちゃんと分かっていますね?こちらとしても、この処置は本意ではありません。最後まで反対していた先生も居た位です。しかし、それほどまでに、皆さんが決してそうだという訳ではありませんが、一部の生徒たちの行動が、目に余る状態だったという事です。良いでしょうか?工事の業者の入りは、テスト期間の終わり、7月4日の午後を予定して―』

(なんて…有り得ないか)

(何もかも変わってしまった)

(僕はこれから、どうするべきだろう?僕は、これから―何をすべき?)

(約束…)

『―では、続いて、表彰に移りたいと思います―』

(…少なくとも、果たすべき約束が、未だふたつ残ってる)

(そういや、相原は、どうしてるんだろうか?)

(一応、みんな無事だった、とは聞いているけれど―)

『―県警から感謝状が届いています。では、2年3組、荻野祐輔くん、前へ』

 僕は首を伸ばして、自分のクラスの列の、前の方を覗き込む。クラスの列の先頭に、相原の、傷んだ木の床みたいな、薄い茶髪が目に留まる。相原が、僕の視線に気が付いた様に、ゆっくりとこっちを振り返る。僕はほっ、と溜息を吐く。どうやら、ドクターの言っていた事に嘘は無かったらしい。僕は相原に見つかる前に首を引っ込めて、炎天下から首の薄皮を守る様に、首の後ろを両手で覆う。

(―良かった、元気そうだ)

(後は、約束、約束だな―)

(王の欠片探しと―柏木とのデートのセッティング)

(どっちも嫌だけど…精神的には後者の方がキツいかな。デートって何だろう。哲学かな…?)

 ―柏木に肩を突かれる。僕は驚いて柏木を振り返る。周囲はいつの間にか、しんと静まり返っている。訳が分からなさに、居心地が悪くなる。周りの静けさに、少しの間だけ、あの日の事を思い出す。“彼女”と、夜の校舎と、あの日の静かさを。降る様な蒸し暑さなのに、身体の内側に底冷えする様な冷たさを感じる。周囲の視線が自分に集まっている様な気がする。自意識過剰だ、と自分に言い聞かせる。気にしない振りをして、柏木に言う。

「…何だよ?朝礼中だぞ、ちゃんと先生の話、聞いてろよ」

「呼んでるよ」

「は?」

「―呼んでんぞ、荻」

「い?」

 ―背中を押される。よろける様に、僕は列から食み出る。周囲の目が、自分に集まっている。今度は気の所為じゃない、と思う。僕は震える指先で、頬を掻く。朝礼台の上に立った先生が、僕を見て、呆れた様に、もう一度名前を呼ぶ。

 他人の名前の様に―僕の名を。

『―2年3組、荻野祐輔。前へ』

 ―僕は覚束無い足取りで、前へ踏み出す。嫌々、綱で繋がれ、引き摺られているみたいに。顔が、赤くなったり、青くなったりしている様な感じがする。呼吸が儘ならない。咽が乾く。目の前がチカチカする。壇上で先生が催促する様に、再度僕の名前を呼ぶ。

『荻野』

「はぃ」

 蚊の鳴く様な返事をして、全校の列からやっとの思いで抜け出す。途中、相原の隣を擦れ違う時、相原が何とも言えない気不味そうな笑みで僕の背中を押す。僕は転びそうになりながら、朝礼台の下へと歩み出る。先生が、壇上へ上がって来い、と僕に無言で催促する。僕は半ば自棄糞で、朝礼台の上へと駆け上がる。

(…何だ?僕が一体、何をしたって言うんだ?)

(どうなってる?一体何が、どうなって―?)

(…曝し首になるって、こんな気分だろうか)

 先生は、壇上に上がって来た僕を見て満足そうに頷くと、生徒達に向き直って、表彰状を読み上げる。生徒の皆も、嘗てなく真面目に、先生の話を静かに聞いている。勤勉さから来るものでは無く―興味津々、といった顔付きで。

『感謝状。私立千歳学園、2年3組、荻野祐輔殿。あなたは同年6月18日、同校で発生した連続誘拐事件、及び殺人未遂事件に於いて、いち早くそれを察知、通報し、被害の発生を未然に防止されました。そのご協力に深く感謝の意を表し―』

 …吐き気がする。

 僕は引き攣った笑みを浮かべて、出来そこないのマネキンの様に、そこに突っ立っている。ひそひそ、ざわざわという声が大きくなっていく度に、自分の顔が赤くなっていく様に思う。何が起こっているのか、良く分からない。混乱と緊張で、膝がかくかくと震える。自分がつくづく、情けなく感じる。

(誰か助けて)

(何がどうなってる?一体何が、どうなって…?)

(―感謝状?)

(僕が何をしたって言うんだ?僕のした事と言えば…)

 事実を一切合財、スプリンクラーのように壇上でぶちまけたくなる。深呼吸して、僕は唇を噛む。多分、この感謝状は、あの小林某の差し金なんだろう。宣言通り、僕の生活を守る為に、動いてくれたみたいだ。もしかしたら、あの狐目の刑事も一枚噛んでいるのかもしれない。悪評を無かった事には出来ないけれど、せめてあの悪評が嘘だったという公的な発表があれば、評価の帳尻を合わす事くらい出来る筈だから。

    『―君がこれまでと変わらない生活を送って行ける様に、最大限努力する』

                                『最大限…』

 事実をここで叫んでも意味は無い。僕だって、それくらい分かってる。そもそもこれは、僕の我儘が発端になった結果だ。元の、平穏な生活を取り戻したくて―他人を巻き込んで、巻き込んで、巻き込んで―滅茶苦茶にしてしまった。小林さんは、僕と交わらない所で、水面下に動いていた―僕が何もしなくても、小林さんは事態を丸く収めていたかもしれない。もしかすると、僕が何もしなかった方が。

                        『僕が藻掻けば藻掻くだけ…』

 ―これは好意だ、と理解している。

 けれどもどうして、こんな気持ちになるのだろう。

 それは、僕が何もしてこなかったから。何も出来なかった―と、自覚しているから。

 それが、情けなく思える。あの賞状に触れるのを、恥ずかしい、と思う。

(…助けて貰っただけだ)

(助けて貰っただけだ。僕は助けて貰っただけ。助けて貰っただけなんだ…)

『―報道されている通り、犯行は“神の杖”を名乗る宗教団体の仕業だったそうです。彼らはその、この現代に俄かには信じがたい話ですが、生贄―による、忌まわしい儀式に、我が校の生徒が相応しいと考えていたようです。その4件目の犯行に、偶然、ここに居る荻野が遭遇―』

(…二人の吸血鬼の友人と、それから年老いた、我が家の愛犬に)

『―その後、無謀にも彼らの後を尾け―それを見咎められ、トラックに撥ねられて』

(あ、そういう事になってるのか…)

 生徒たちの間に、控えめな笑い声が、細波の様に広がる。『笑い事じゃない、笑い事じゃ』マイクの前で先生が賞状を振って、生徒達を諌める。けれども、こちらを振り返った先生も、口元に柔らかい笑みを浮かべている。

(…アンタも笑ってんじゃん)

『―荻野くん。無事で良かったですがね。感謝状を持って来た人も言っていましたよ?今後、こう言う事をする場合―』

「はい」

『―もう少し慎重に、良く考えて行動して欲しい、と言っていましたよ』

「…次が無い様に祈りたいですけどね」

『全くです』

 先生が賞状を差し出す。束の間、それを真っ二つに引き裂きたい衝動に駆られる。

 …けれども、結局僕は、大人しくそれを受け取る。俯いて、無言でそれを手の中でくるくると丸める。







(疲れた…)

 ―7月7日。日曜日。天気は、晴れ。

 僕は昼下がりの古ぼけたベンチに、へばり付く様にして一人、座っている。

(兎に角疲れた。温泉にでも行きたい。一週間くらい、何もしないで過ごしたい…)

 あれから半月ぐらいたった。あの忌まわしい日々から、僕の根幹を揺るがす様な恐るべき事件から、半月と少し。

 その間にも、色々な出来事があった。

(期末テストに、期末テスト、あと、期末テスト…)

 ―テストの結果は散々だった。一応、休んでいる間の授業内容を、柏木や相原にノートを見せて貰ったり、先生に尋ねに行ったりしたのだが…言わずもがな、柏木は碌なノートを取っておらず(妙に上手い担任・澤のゴリラ風落書きや、窓辺に留まっていた鳩の形態模写が書かれているだけ)、一縷の望みを託して相原に頼み込むも、結果は予想の範疇と言った感じで(妙に色取り取りのペンでカラフルに描かれた駅前の人気クレープ店の名に、箇条書きで書かれたバイト先の候補地、こちらは黒一色)…先生に聞きに行っても―全く、先生ってのは、どうして一枚のプリントに、色んな問題を幾つも詰め込むのがあんなに好きなんだろう?数枚のプリントに濃縮された入院期間中の授業内容はまるで理解出来ず、お陰でテストの答案は、返却を待つまでも無く、ズタボロなのが分かってしまう様な、悲しい出来栄えとなった。テストの残り時間で、絹ごし豆腐並みに真っ白な答案を眺めるのは、正に悪夢と呼んでも差し支えない瞬間だった。まぁ、それでも正真正銘悪夢だったあの件に比べれば、まるで出涸らしみたいな、ささやかな悪夢だったが。

(…でも正直、名前以外埋める所無かった英語と数学は、本気で泣きたくなったけど)

(自分では、も少し出来る子だと思ってたんだけどな…)

(―ああ、もうヤメヤメ。もう何もかも終わった、終わったんだ…)

「オギノ」

 ―声を掛けられて、顔を上げる。そこには、ここ暫くですっかり御馴染になった、カミュの姿がある。今日はフード付きのロングパーカーにショーパン、黒のストッキングと言う出で立ちだ。

(…また長袖。暑く無いのかな?)

(見てるこっちが、汗が出る…)

(まぁ、吸血鬼は、水分操るのが得意だ、っていうし。実際、汗一つ掻いてない…)

「―どうしたの?この世の終わりみたいな顔して」

「…はは。大体、同じ様なもんかな。この世の終わりと言うか、これから終わりが訪れるというか」

「…どういう意味?確か、人間の預言者の、終末予想は外れたんじゃなかったっけ?」

「―ああ、そうじゃなくてね、こっちの話。我が家の家庭内の話さ。あぁ、殆ど赤点のアレが返ってきたら、我が家の女帝がどんな審判を下すか…」

 …おおーい、と遠くから呼び声がして、僕はそちらへ顔を傾ける。そこには、ものすごい速度で回転するコーヒーカップに乗って、はしゃぐ吸血鬼兄妹の兄、アレックスと―。

 柏木と。

 ―若干引き攣った笑顔を浮かべる、相原が居る。

 アレックスと柏木は、まるで旧来の友人の様に、呼吸の合った様子で、僕に向かって合わせてブンブンと手を振る。僕は苦笑を浮かべて、ベンチから弱々しく手を振り返す。相原がこちらに恨みがましい目を向けているような気がする。僕はそれに気付かない振りをして、ベンチに深々と座って、ぼんやり空を見上げる。

(疲れた、本当に…)

 ―7月7日。日曜日。天気は、晴れ。

 僕は遊園地に来ている。

(家に帰りたい。何で休日にわざわざ、暑苦しい外に出なきゃいかんのだ?クーラーの効いた居間で寝転んで、只管惰眠を貪りたい。月曜日の事を忘れて、体が溶けるくらいピッタリと、床に張り付いて眠りこけて居たい…)

 ―勿論、約束を果たす為だ。相原との約束を果たす為。気の効いた計画や、デートの口実なんてものを一切考え付く事が出来なかったので、半ば自棄気味に自腹を切って遊園地のチケットを買い、それを貰ったタダ券という事にして、柏木と相原をそれぞれテスト終わりの日曜に遊びに行こうと誘った。3人だとお邪魔虫としての立場が辛いので、吸血鬼兄妹にも声を掛けた(藁にも縋る思いだったけど…来てくれたのは意外だった)―遊園地の場所決めも、正直、テキトーだ。近場のそういう場所にあまり詳しく無かったので、最初に思い付いた場所にした。入院中、病室の窓から見えた、あの観覧車のある遊園地だ。

   『川と、観覧者と、遥か遠方で山彦のように響く、車のクラクションの音…』

(…しかし、今更だけど、これ完全に来る必要無いな、僕…)

(急用が出来て、僕は来られない、って事にして―後は若い二人に任せて、うんたらかんたら)

(てか、それだったら、こんな寂れた遊園地である必要もなかったなぁ。僕と、吸血鬼兄妹の分のチケ代が浮くんだから。そしたら、もう少し遠くの、有名な某テーマパークへ、相原にチケットだけ渡して…)

(…どうやら、僕はデートプランナーには向いてないらしい)

「…誘ってくれて、ありがとうね」

「うん?」

「―兄さん、最近、塞ぎこんでたから。お陰で、ちょっと調子、戻ったみたいだし」

「うん…」

 お礼を言われて、居心地が悪くなる。考えていた事を頭の中から、直ぐ様振り払う。カミュを見る。カミュがベンチの傍に立ちっ放しな事に、遅まきながら、気付く。慌てて僕は、ベンチの右端へと身を寄せる。

 ―けれども、カミュがそれに気が付く様子は無い。

 僕はベンチの端っこで、所在無く尻をもぞもぞと動かす。

「―でも、アンタは行かなくて良いの?オギノ」

「え?」

「遊園地。アンタが誘って来たのに。こんなとこに、ひとりでぼんやり座って。遊びに来たんでしょ?」

「ああ…いや、僕は」

「ほら、あの皆が乗ってるやつは?巨大なコップに乗って、グルグルと回る」

「回る奴は駄目だ。三半規管が弱くて、直ぐに気持ち悪くなる」

「じゃあ、あれは?あの、レールに沿った乗り物で、高い所から急降下するやつ」

「…絶叫マシンも苦手だな。昔あれに乗ってる時に、前の人がゲロ吐いた事あって―」

「…なら、あれは?ええと、『おばけ屋敷』―」

「―わざわざ金払ってまで、怖い思いしたくないよ」

「…アンタ、ここに何しに来たのよ?」

「うん…。散財?」

「何それ。バカじゃないの?」

 ―僕は彼女の方を向く。何かを取り繕おうとして、腰を浮かして、口を開く。

 彼女は―。

 笑う。

 僕は目を丸くする。彼女は肩を揺らし、腹を抱え、眼の端に涙を浮かべて、くつくつと笑っている。僕は言葉を失う。ベンチの隅っこに身を沈めて、口をぽっかりと開けて、まるで幽霊でも見るような気分で、笑う彼女を暫くの間眺める。

「―はぁ。あぁ、可笑し。アンタほんとに、そんな理由でこんなとこまで来たの?」

「うん。え?あ、いや、その、ホントは―」

「まぁ良いや。好みは人それぞれだもんね。私も騒がしいのはあんまり得意じゃないけど、兄さんには、ここが性に合ったみたいだし」

 ―彼女はそれきり無言になる。僕はその間が気不味くて、それを何とか埋めようと、ベンチの端で必死に話題を探す。共通の話題が驚くほど少ない事に、今更ながら、気付く。(テスト?は、吸血鬼にゃ関係無いし―)(天気?本日は、お日柄も良く―いや、吸血鬼的には、悪いのか?)(ゲーム?吸血鬼って、ゲームとかやるんだろうか?)

 共通の話題をするならば―覚悟をしなければならない、と言う事にも、思い至る。

 あの、不安や恐怖を思い出す事や―。

(事件について)

(王の欠片について)

(…“彼女”について)

 ―あやふやにしていた事態に、形を持たせる事になるかもしれない、と言う事に。

(“僕”の処遇について)

(―結局、僕は王様じゃ無かった。彼女達は当初、そうは思ってなかったみたいだったけど。協定はどうなる?僕と彼らの、約束は。僕の身柄は―どうなる?)

(…彼らは、僕を開いて、中身の欠片を回収するだろうか?)

 色々と考えてはみたけれど、どうやっても、他の話題を捻り出したり、共通の話題をして、問題を明確化する事も出来なくて―僕は逃げる様に、明後日の方向の話題を口にする。

「あの―ありがとう」

「え?」

 ―驚いた様に、カミラが僕を振り返る。僕は思わず苦笑する。

「ああ、いや、その―そう言えば、ちゃんとお礼を言ってなかったな、と思って」

「礼…?」

「助けに来てくれただろ?」

 訝しげな顔をしていたカミュが―その瞬間、合点が入った、というように、ひとつ、ふたつと頷く。僕は、何度も落ち着きなく足を踏み変えながら、彼女の目を見て、言う。

「…賞状を貰ったんだ」

「?」

「―感謝状だよ。警察から。事件解決に尽力~とか、ご協力に感謝~とか、色々当たり障りの無い事が書かれてるやつ」

「…」

「―まぁ、何にもして無いんだけどさ、僕」

 半ば自嘲気味に、そうぼやく。言い訳がましく、何処か弁明する様に。彼女が何も言わなくても、そんな風な口調になってしまうのは、やっぱり心の何処かに、彼女達に対する負い目があるからだろうか。

(―彼女達が受け取るべきだったんだ、本当は)

(そう出来ない事は分かってるし、あの賞状は、僕の生活を守る為の、免罪符だってことも分かってる、でも―)

(…だったら、僕は何が気に入らないんだ?一体、何がしたいんだろ、僕…?)

「…ありがとう。本当に何度も、助けてくれた」

「…良いって。それ、さっき聞いたよ」

「約束を守ってくれた」

「約束―?」

「忘れた訳じゃないだろ?僕が、あんたらの倉庫番になる代わりに、あんたらは、僕の生活の、平穏を守る」

 ―首の皮の、薄くなった部分を擦る。自然に、弱々しい笑みを浮かぶ。こういうのはやっぱり苦手だ、と思う。どれだけ言葉を尽くしても、真意が空中に抜け出していってしまう気がするから。どれだけ心からそう思って居ても、形にすると、途端に薄っぺらになってしまう気がするから。

 だから、僕はそれを、吐き出す様に、一気に言う。

「―あんた達は完璧に約束を果たしてくれた」

「…」

「僕を助けてくれた。助けに来てくれた。僕の命を守って、僕の生活も守ってくれた。本当に、心から礼を言うよ。あの日、あんた達が来てくれなかったら、僕は今頃、多分死んでいた。あの時、あんた達に出会わなかったら、僕は今頃、檻の中だっただろう―」

「…」

「―ああ、後、折角手伝ってくれたのに、的外れなことばっかりして、あんた達を危険な目に合わせた。足を引っ張って、余計な事して、問題を増やして。その、ご免、悪かった、謝るよ―」

 …気の所為だろうか。僕が喋れば喋るだけ、謝辞を尽くせば尽くすだけ、彼女の表情が、どんどんと不機嫌に変化していっている気がする。理由が分からずに、僕は困惑する。それでも、口から出したものを引っ込める事も出来ずに―僕はぺらぺらと、舌の赴くままに、慌ただしく捲し立て続ける。

「―ありがとう。アレックスにも、後でちゃんとお礼を言うよ。本当に助かった。感謝してる―」

「そうしてやって。あなたの事、どういう風に扱ったらいいか、未だ分からないみたいだし―少なくとも、敵意は無いんだ、って事、教えてあげて」

「うん…そうするよ。必ず、そうする」

「それと」

「?」

「何もしてない、なんて事、無いと思うわ」

「へ…?」

 彼女は―うんざりしたように、大きな溜息を吐いた後―僕を見て、呆れた様に笑って、言う。

「―あなたはね、行動したの」

「そ―」

「結果はどうあれね。その決意が、あの場所に、骨の王を呼んだのよ」

「―れは、どういう―良く、意味が―?」

「…王様は、昔から、人の決意が好きだったわ。決意と言うか、覚悟を固める瞬間がね。王様はそれを、“魂の色が変わる時”と呼んでいたわ―」

「…はぁ。タマシイの―?」

「そう。“魂の色が変わる時”―」

 彼女は懐かしむ様に、呟く。

「―“人間は、極上の味に変化する”って」

 懐かしむ様に、しみじみと―ノスタルジーが吹き飛ぶ様な、物騒な単語を。

 …僕は無意識に、自分の中心を抱き寄せる。

 彼女は僕の様子に気付くと、手を振って、慌てた様に弁解する。

「…ああ、いや。その。違うわ、王様は―その、大丈夫、人間は、あまり食べなかったから」

「…ちょっとは嗜んでいらっしゃったんですか?」

「いや、その、違くて―そう、王様は―大抵の場合、ちろっと舐めて、味見するだけで―」

「飴ちゃんか何かかよ…」

「大丈夫、魂齧られてたら、結構重度な自覚症状あるから―」

「…大丈夫な要素が何一つ無いんですが…」

「―はい、終了、この話は、もう終わり」

 彼女は、パンパン、と両手をリズミカルに叩いて、強引に話を終了しようとする。僕は、疑う様に彼女の顔を覗き込む。彼女は面倒臭そうに、視線を振り払う様に手を振って、急かす様に、僕の太腿を爪先で突っつく。

「―ほら、立って。丁度あいつらもあのコップ、降りるみたいだしさ。ほら、今度はアンタも乗れる乗り物に行こ?」

「いや、苦手なだけで、別に乗れなくは―」

「そうね―アレなんて、どう?」

 彼女は真直ぐに指を指す―遊園地の中心に鎮座する、見上げる程に、巨大な観覧車を。

「…まさか、あんなにゆっくり回ってるのまで、苦手だなんて言わないわよね?」

 彼女はそう言って、人を小馬鹿にするみたいに、にやにやと笑う。その笑顔を見て、僕は何だか素直に答えるのが癪になる。

「―いいや、苦手だね。高い所は苦手なんだ、つい最近、女吸血鬼に、尻から軟着陸させられてからは、特に」

「ちょっと、蒸し返さないでよ。あの時は仕方なかったでしょ?相手は二人、しかも“王の欠片”入りよ?」

「―にしても、もうちょっとやり方があったと思うけどな。ああ、尻の面積が減った気がする。体重も少し、減ってるかも知れないな―」

「…何よ、さっきまでありがとうありがとう言ってた癖に」

「それとこれとは、話が別です」

「そんなに体重が気になるんなら、もう少し削ってあげようか?いっそバサッと、縦に半分ぐらいに―」

「―スミマセンデシタ」

「分かれば良いのよ」




「おー、オギやん、大丈夫?もう復活した?」

「―さ、オギノ、皆、それでは次はこの、キュー…リュー…スベリ?―とやらに、行ってみないか?」

「えー?私、濡れるのヤダー…」

「あー…、その、君達―兄妹は、その、そういったアトラクションは…?」

「私は、下で見てるわ。オギノ」

「はい?」

「―機を見て、兄にそれが、どういうアトラクションなのか教えてやって」

「…え?僕が?」

「そ。あなたが」

 柏木達と合流し、別のアトラクションへと移動する―途中。

 僕は木に引っ掛かっている赤い風船と、それを見上げている一人の女の子を目撃してしまう。どうしたもんかと周囲を見回している間に、柏木達は会話しながら、ずんずんと先へ行ってしまう。周りに、他に助けてくれそうな大人も見当たらない。仕方ないなと溜息を吐いて、柄にも無い事をしようとしていると自覚しながら、僕は風船と女の子の方へ足を向ける。

(…しかし、ホント碌に人が見当たらないな。この遊園地、経営大丈夫なんかね?)

(この子の親らしき人も見当たらない。重ねて迷子、って訳じゃないよな?そこまで面倒見切れないぞ…?)

(しかし―勇んで来たのは良いけど、身長、足りるかな?背の順、前から数えた方が早いし…)

「あの」

 女の子に、背中から声を掛ける。女の子は、飛び跳ねる様に、全身で僕へ振り向くと、涙で濡れた顔で僕を見上げ、必死に自分のポケットや、首に掛けた小さなポーチの中身を両手で弄り始める。どうやら防犯ブザーを探している様だ―と勘付いて、僕は少し慌てる。

「あ、ちょっと、大丈夫、大丈夫だから―!」

(…この言い方、自分で言ってて、大丈夫じゃない感じするな…)

(最近の子は、防犯意識、しっかりしてるなぁ。子供の頃の自分にも、見習って欲しいもんだ…)

(こういう時、何故か両手を上げてしまう。プリーズ、ホールドアップ、手を上げろ…)

「その、僕は、怪しいものじゃ無くて―ええと、キミ、あの風船、取って欲しいんだよね?」

 女の子はピタリと動きを止め、僕を見る―涙で潤んだ目で、疑う様に、じろじろと。逞しい子だ、と両手を上げて、僕は苦笑する。例えさっきまで泣いていたとしても、他人への警戒心は、キッチリと外さない―正直、自分よりもしっかりしている位だ。僕の助けなんて、要らないんじゃないかとさえ、思う。

(放っておいても、問題を解決しそうな感じあるな、この子。大物感ある…)

(ていうか―この子、何処かで見た事が、ある様な…?)

(小さい子供の知り合いは、居ない筈だけど。親戚の誰かに似てるのかな…?)

「お兄さんが、あの風船…取ってあげようか?」

「―ホント!?」

 その言葉を聞くや否や、女の子は鼻水を思いっ切り啜り、涙に濡れた目を、キラキラと輝かせる。僕はその目に気圧される様に、半ば強制的に、頷く。しまったなぁ、と思う。あの子が返事をした瞬間、他の選択肢が全て、消えてしまったような気がする。身長が足りなかったらどうしよう、と急に、不安になる。ジャンプで届かなかったら…木登りする事になるんだろうか。木登りなんて、何時以来だろう―?

(…少なくとも、小学校高学年からは、記憶に無い)

(しかもあの木、枝が無いよ、つるつるだよ、上級者向けだよ―)

(…ここで、『この風船は僕には取れないので、風船を取る事の出来る別の大人のひとを呼んできます』とか言ったら、どうなるだろうか?この子の情操教育過程に、罅を入れる事にならないだろうか…?)

「ちょっと待ってね―」

 妙に既視感のある女の子にそう声を掛け、僕は入念に足周りを解して、準備する。

(…さっさとやれよ、と言う視線を、背中に感じる)

(さぁ、勝負は一瞬。一回で成功しなかったら、後はジャンプ力が、どんどん下がっていくだけ…)

(そうなったら―後は木登り?出来るかなぁ、指の先、剥がれたり、しない?この前くっ付けたばっかりなんだけど―)

 …呼吸を整え、助走の距離を取って、走り出す。1、2の、3で―思い切り、ジャンプする。

(うお、これ―)

(思ったより、勢いが―)

 空中で慌てて、風船の方に、腕を伸ばす。無茶苦茶に振り回した指先が、偶然風船の紐に引っ掛かる。ホッとしたのも束の間―。

「ぐ」

 ―勢いもそのままに、木の幹に体ごと、ブチ当たる。

(ああ、クソ―)

(痛ぇ。ヒィ、痛ぇ―)

(―風船は?当たった拍子に、手放したりしてたら―)

 …立ち上がり、慌てて辺りの様子を見回す。飛んで行く風船が無いかどうか。倒れた拍子に、風船を下敷きにして、割ってしまったりしてないだろうか。自分の手の中にある、風船の紐の感覚を自覚する前に、あの子が駆け寄って来て、僕の手から力強く風船を捥ぎ取る。

(…ああ、無事か。良かった…)

(ほんと、逞しい子だな。無事じゃないのは、僕だけか…)

(おお、痛ぇ。まだちょっと、息がし難い…)

 女の子は嬉しそうに、風船を空に浮かべて、その周りをグルグルと回る。僕は苦笑いを浮かべて、その光景を眺める。まぁ、風船がちゃんと取れただけでも重畳だ、と思う事にする。それに、見方を変えれば、中々微笑ましい姿だ、と言えなくもない。

(…幹に衝突して、脇腹がクソほど痛くて…)

(未だ立ち上がれずに、しゃがんでいるのが自分じゃ無ければ―な)

(…あ、待って、これ、更に、じわじわ痛く…)

「―アスカ」

「アスカちゃん―?」

 ―向こうの方から、ボーダーの半袖シャツを着た大柄な男性と、向日葵色のゆったりとしたワンピースを着た若い女性が、慌てた様子でこちらに駆け寄って来る。アスカ、と呼ばれた女の子は、くるりと回転椅子の様に勢い良く振り返って、パパ、ママ、と脳に直接突き刺さる様な、キンキン声でそう叫ぶ。

(ぐお―)

「一体何処行ってたんだ?探したぞ―」

「あのね、フーセンがとんでね、それで―」

「―そちらのお兄さんは?」

「―それで、あのおにーちゃんに、フーセンとってもらったの―!」

「まぁ―」

 母親らしき若い女性が、上品に口元を押さえて、僕を見る。僕は脇腹を擦りながら、彼女に向かって、弱々しく頷く。

「―あのね、すごかったの、あのね、おにーちゃんね、こっからバーンととんで、フーセンとってね、木にズーンて―!!」

「あら、そうなの、へえぇー…」

「…さっぱり分からんな」

「―ま、助けて貰ったみたいね。どうもありがとうございます、お兄さん。ほら、アスカちゃんも。ちゃんとお礼は言った?」

「まだ!!!」

「未だなら、さぁ、ちゃんとお礼を言わないと」

「わかってますって、ちゃんとやりますって。ノーキはちゃんとまもりますからぁ―」

「―おい、それ、誰の真似だ?」

「あなた、」

 ―女の子が僕の方を向く。風船が揺れる。女の子は後ろ手に母親と手を繋ぎ、父親の足に凭れ掛かりながら、泣いていた事なんて遥か昔の様に、満面の笑顔で口を開く。

「ありがとう、お―」

「ああ、いいえ、どう―」

          「オ―」

「―いたしまし―」

                「オウサマ」

 …言葉が途中で途切れる。

 僕は彼らを見る。

 何度も瞬きをして―その一家を。

 風船が風に揺れる。女の子の頭上に、ぷかぷかと浮かび上がる。一家の様子は、先程までと大きくは変わらない。彼らは一様に、満面の笑みを浮かべて、こちらを見ている。まるでこれから、記念写真でも撮るみたいに。

 違うのは、一部だけだ。

 父親は、右肩から。母親は、左耳の隙間から。それから女の子は、その短い舌の先から―。

 瞬き毎に、成長する様に―それぞれ植物の芽が、生えて来る。

(あ…)

 ―心臓を抑える。これは、木にブチ当たったのとは無関係の痛みだ、と思う。心臓が突き刺す様に痛む。呼吸をする度に、身体の何処かに穴が開いた様に、傷む。苦痛で視界が歪む。立ち上がる事も出来ずに、僕は、その場に根が生えた様に、彼ら家族を茫然と見上げている。

 父親の右肩からは、向日葵が。

 母親の左耳からは、菫草が。

 そして、女の子の舌の先からは―。

(ああ…)

 僕は、その子への既視感が、何処から来ているのものなのか、漸く理解する。

(あの子だ…)

  『少女の舌の上に、花が咲く。彼女の血を吸い上げた様に、茎まで真っ赤な―』

 ―舌の先からは、血を吸い上げた様に、茎まで真っ赤な、燃える様な彼岸花が咲いている。

 あの子だ、と気付く。あの子だ、と理解する。あの日、あの夜最初に、ジョンの鎖に貫かれた、あの子。カミラの左足を、傘の様に抱えていた、あの子。最初にジョンによって、《分離》された女の子―。

(《分離》…)

                     『―愚    カ 者 に  ハ…』

           『―どうだ、これでもう、二度と《分離》は出来まい!?』

              『―彼らを検査していて、面白い事が分かったよ…』

              『―吐き出されてから暫くの間、“彼女”の因子を…』

   『…彼らは、ああ、正確には、“彼女”の死亡時、胃袋の中に居た一団だな―』

                   『―愚    カ 者 に  ハ、毒 ト薬    ノ 区  別 モ   付カな イ』

(…一体、何からの《分離》だった?)

(彼らは…何になったんだ?)

 僕は声も無く、そこに竦んで座っている。どうしようもなく、どうすればいいかも分からずに。彼らは満面の笑みのまま、身を寄せ合って、回れ右して、行ってしまう。何もおかしな事など、起こらなかった様に。父親の右肩の向日葵が、音も無く萎れる。母親の左耳の菫草が、風に揺られて千切れる。きっと、あの子の舌の上の彼岸花も、次に振り返った時には消えて居るだろう。

 僕は、耳を塞いで、その場に蹲っている。

 自分が、何をして―何を変えてしまったのか、上手く受け入れられないままに。

(…あれは、何?)

(僕は―どうなった?)

(…僕が、何もかも悪いのか?僕が、何もかもを変えてしまったのか?彼らの、何もかもを。僕はただ、自分の、ささやかな生活を―)

           『―何もかもあんたが悪いのさ。きっとどんどん悪くなる』

(違う―)

                    『

(違―)

                    『…人間の中に紛れようとするからさ』

 振り絞る様な悲鳴が漏れる。僕はその場で、固くかたく、目を閉じる。







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“骨の王”と神隠しについて @odendaisuki

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