第2話

 翌日。

 6月16日、月曜日。天気は曇り。今にも雨が降りそうな黒雲が空に立ち込めてはいるが、降水確率はたったの10%だ、とTVの向こうで天気予報士が言っていた。今日は風が強いので、雲は直ぐに東北側に流れていくでしょう、と。

(…行きたくない)

(もう噂になっているだろうか。なってるかもしれない。僕の他にも呼び出された人間は居た筈だ―それに、それこそ2組は全員個人面談だった。それから、僕のことを、刑事に話した奴が居る。あの狐目の刑事曰く、『複数の生徒』が。その上、あれだけでかい声で言い争ってたんだ、教室の側を“偶然”通りかかった奴が、二言三言、話を聞いていたとしてもおかしくはない…)

(―人の口に戸は立てられない…)

(お腹が痛い。頭が痛い。目が痛い。肩が重い。腰が痛い。吐き気がする。立ち眩みがする…)

(…あらゆる不登校児の訴える体調不良の兆候がする)

(ええい、しっかりしろ祐輔、このまま流れに身を任せて、檻の中まで直行したくなけりゃあな。その為に学校へ行く必要がある。お前はきっと大丈夫だ、吸血鬼だって僕を助けてくれる、やれることだって未だ沢山ある…)

(…僕は未だ捕まった訳じゃない。きっとなんとかなる。何とか出来る筈だ…)

 最近の運の悪さを鑑みて、僕は傘を持っていく事にする。コンビニで売ってる、一山幾らのビニール傘だ。通学途中、周囲に傘を持っているものは他に誰も居ない。近くで忍び笑いが起こる度に、自分の事を嗤われている様な気がして、耳が赤くなる。

(…自意識過剰だ。平常心、平常心…)

(案外、誰も噂を知らないかもしれない。皆、僕の事なんて興味無いだろう。別に大した事件じゃ無い―とは言えないけど、僕みたいな奴がこんな大層な事件に関わってる筈無いって、少し考えれば皆気付く筈だ。それに、刑事には、確か守秘義務ってヤツがある―それから今は、個人情報保護法、ってのがある訳だし。きっと僕の事をぺらぺら喋ったりはしていないだろう。それから、ええと、それに…)

(…落ち着け。きっと大丈夫。きっと僕は大丈夫だから。だって僕は、何もしていない―)

 吐き気のする胃をぶら提げて、教室の扉の前に立つ。傘を左手に持ち替えながら、廊下の左右を意味も無く見回す。周りには誰も居ない。何故だか、強烈な安堵が押し寄せる。

(…クソ…)

 扉の取っ手に手を触れる。指先が触れた瞬間、静電気に弾かれた様に、右手がビクンと跳ねる。心臓が口から飛び出しそうになる。自分の事が、酷く情けなく思える。

 もう一度廊下の左右を見回す。廊下の奥から、複数の笑い声が、少しずつ近付いて来る。僕は慌てて教室の扉を開ける。逃げる様に、教室の中に飛び込む。

(…クソ、クソ、クソ…)

(落ち着け。きっと大丈夫。きっと僕は―)

 時刻は8時30分。教室の中には、既にクラスの半数以上の人数が集まっている。その全員が、扉から入って来た僕へ目を向ける。教室から一瞬で音が掻き消える。まるで誰かが突然テレビの消音ボタンを押したみたいに。

(………クソ)

 傘を取り落とす。ビニール傘が派手な音を立てて教室の床の上を転がる。僕は緩慢とした動きでその傘を追う。拾おうと屈んだ途端、教室の隅から、嘲る様な抑えた笑い声が聞こえて来る。

 ―一呼吸の間、僕は動きを止める。耳の先が赤くなる様な気配はない。思っていたより僕は冷静だ、と思う。傘を拾い上げ、脇目も振らずに自分の席を目指す。窓際の前から三番目。途中、耳の先を自分で触ってみる。自分でも驚くくらいに冷えている。まるで、血の変わりに冷たい何かが自分の耳の中を巡っている様だ、と思う。昨日のアレックスの掌よりも、更に冷たい、何か。

(落ち着け。このくらい大丈夫。考えていたより、大したことはない。この位、僕は―)

 席に鞄を引っ掛ける。傘を壁際に立て掛ける。乱暴に椅子を引き、ふと思いついて椅子の上や、机の中をチェックする。どうやら先に来た誰かの悪戯や、何らかの細工は無いらしい。そこまで嫌われては居なかったってことかね、と僕は不細工な笑みを浮かべて考える。

(…だったら、尚更早めに何とかしないと)

(そこまでやっても構わない、と思われる前に。そこまで悪化する前に。現状でも最悪なんだから…)

(…噂は、驚く程早く拡散したらしい。一昨日から、日曜日挟んでもうこれだ。絶対に、生徒だけの仕業じゃないだろ、コレ。いや、別に確信がある訳じゃないけど…)

(―あの狐野郎。やってくれる…)

 席に着き、机の上に覆い被さって、不貞寝する。目を瞑って、やる事の優先順位を考える。

(アイ―なんたらだ。あの日の、日直の相方。あいつに会って、あの野郎―女に、証言してもらう必要がある。あの日、僕が校舎に居た事のについて。あいつの職務怠慢があの日の状況を作り出した。それくらいして貰う義理はあるだろう…)

(幾らあの狐目の刑事が、偶然の連鎖を意図的に紐付けようとしても―そもそもの推理の発端の僕が、校舎に居た事が偶然だったと証明できたなら、あの刑事の論理は崩れ去る筈だ)

(“偶然”校舎に残る事になった僕が、日直業務に身が入らずにダラダラと時を過ごして、そして偶々“偶然”、同じ位の時間帯まで居残ってた園部美佳を、更に“偶然”、誰にも見咎められずに、共犯者と一緒に誘拐する…)

(…ほら、並べてみるとこんなにバカバカしい。僕の行動の計画性の無さを証明するだけで、後の情報と途端に繋がらなくなる。偶然に偶然を重ねた、不確かなジェンガみたいになる。どんな衝動犯だって自分の頭で少しは考える、とあの刑事は言っていた。『場末の強盗団だって、スキーマスクくらい被るってもんです』…)

(―それに、もう一人証人が居る。あの子だ。あの子を見つけなければ)

(ほら、あの日僕を起こしてくれた、真っ白な日誌を書くのを、手伝おうかと言ってくれた―)

(あのとても長くて、綺麗な黒髪の―)

「おーす、はよーす」

 声がする。僕は机にしがみ付く様にして寝た振りを続ける。顔を上げなくても、それが柏木の声だと言う事が分かる。

 心臓の鼓動が僅かに早くなる。固く目を瞑る。歯を食い縛る。

 柏木の足音が近づいて来る。

(落ち着け―)

(―落ち着け、大丈夫、大丈夫、僕は―)

 柏木の足音が僕の傍らで止まる。

(止めろ)

 柏木が手を振り上げる気配がする―。

(止めろ―!)

「―おい、柏木ィ!」

「あ?」

 教室の向こう側から声がする。声に呼ばれるまま、柏木の足音が向こうへ行ってしまう。教室の反対側から、嘲笑混じりの会話が途切れ途切れに聞こえてくる。どれだけ聞かない様に意識していても、耳の奥に直接突き刺さる様な、大きな声で。

「―あんまりあいつに関わんない方が良いぞ―」

「はぁ、なんで?」

「―お前、知らねえのか―?」

「今めちゃくちゃ噂に―」

(止めろ)

「あいつ、誘拐犯の―」

「…嘘じゃないって。攫われた奴ら、皆、あいつの知り合いから選ばれてるんだってさ。噂じゃあいつが校内で獲物を選んで―」

「―主犯らしいよ―」

「―いや、マジだって。刑事さんが言ってたんだけどよ、もう殆ど確定みたいなもんだって―」

(…止めろ―…)

 僕は机にしがみ付いている。海の真ん中で板切れにしがみ付く漂流者みたいに。教室の向こうから、柏木の声が聞こえる。柏木の笑い声が。

 ―嘲笑を吹き飛ばす様に。

「―はぁ、んな訳ねえだろ、お前ら馬鹿か?オギやんがそんなことする筈ねえだろうが」

「―や、けどマジなんだって。だって、刑事さんが―」

「―あんまオギやんを舐めんなよ。自販機のお釣りのとこに残った小銭ですら、猫ババするのを躊躇う男だぞ?そんな大それた事出来る筈ねぇだろうがよ」

「―いやいや、でもさ、そういう奴ほどニュースに良く出るじゃん?『あの人が、まさかこんなことするとは思いませんでした』って―」

「―それに、被害者がオギやんの知り合いから選ばれてる、ってのがもう信用出来ないね。オギやん、人の名前も顔も碌に憶えてないのに。多分お前らの名前、オギやん言えないぜ?」

 机にしがみ付く腕に、一層力を込める。目頭が不意に熱くなる。鼻の頭が、急激にツン、と痛む。自分の身に起こっている事に驚愕する。固く目を瞑って、涙を塞き止めようとする。耳鳴りがする程歯を食い縛って、嗚咽が外に漏れないようにする。

(う―嘘だろ、僕―?)

(落ち着け、大丈夫、大丈夫、お前は―)

(な―泣きそうになってんのか、教室で…?)

 自分が教室の机に突っ伏して泣きそうになっている事実に、思わず笑い出しそうになる。自分の頭の中から、大事な螺子が抜け落ちてしまった様に感じる。自分の感情がコントロール出来ない。僕は歯を食い縛って、兎に角耐える。僕の口から泣き声が出るにしても笑い声が出るにしても、どっちにしろこれじゃあ只の頭のおかしい奴だ。口を開けたら全てが終わる。穏便に事件が解決したとしても、残り2年の学園生活が、全然穏やかじゃ無いものに姿を変えてしまう―。

(―耐えろ。耐えるんだ祐輔、全力で―)

(まさか、柏木に泣かされそうになるなんて。この事件が解決したら、何か奢ってやるか?この事件が無事に終わったら、何か飲み物を―コーヒーか、コーヒー牛乳か)

(落ち着け、大丈夫、大丈夫、僕は―)

「―後、オギやんが女の子を無難に誘い出す姿が、既に想像できないね」

(あ、テメエ、柏木)

「そりゃ―」

「まあ―確かに」

「―オギやんの女子との会話、聞いた事ある?ほぼ業務連絡だよ。あれで誘い出されるの、バイト先のパートのおばちゃんくらいじゃねぇか―?」

(…憶えてろよ、この野郎。前言撤回、奢りの話は、無しだ)




 ―職員室の中の様子を覗く。

 1限目と2限目の間の休憩時間。僕は手持ちのプリントを盾の様に体の前に構えて、半分開けた扉の隙間から中の様子を窺う。ガヤガヤと活気立って、騒がしかった職員室の喧騒は、僕の姿を見止めると同時に急激に萎んでいく。入口近くの席で何やら書類仕事をしていた教師は、僕と目が合うと露骨に目を逸らして、慌しく出席簿を掴んでその場からそそくさと離れる。成程、噂の出火元は、どうやら生徒だけが原因という訳では無いらしい、と僕はやさぐれた笑みを浮かべて考える。

(…そういえば、先生からも証言を取った、みたいなことを狐目が言ってたっけ)

(『君が一人で居残っているのが目撃されている。複数の生徒や、先生に』…)

(…ハ、噂なんかに簡単に踊らされやがって。お前らそれでも、良い歳した大人かよ?)

 ―職員室の奥で、小さなノートパソコンに覆い被さる様にして作業していた担任の澤が、入口の僕に気付いて、溜息と共にのっそり立ち上がる。ガタガタと椅子や人を押し退け、巨体を申し訳無さそうに窄めて、こちらに近付いて来る。

 …澤が僕の前に立ちはだかる。僕は訳も無く緊張する。

「…何の用だ、荻野?」

「あ―の、現国の近江先生は―その。提出物を…」

「―ちょっと待ってろ」

 澤先生は唸る様にそう言うと、振り返って、職員室の雑音を粉々に掻き消す様に、必要以上の大声を張り上げる。まるで、1km以上先に居る人に声を掛ける様に。僕は慌てて耳を塞ぐ。

「おおい、近江先生。済みません、ウチのクラスの生徒が用事がある様で―」

 ―耳を塞いでもお構いなしに、澤の胴間声は掌を貫通して来る。相変わらず、凄まじい声量だ、と思う。そして素晴らしく声量の調節が下手だ。思わず苦笑が浮かぶ。耳の奥がジンジンする。頭の中がグラグラと揺れている。見ると、職員室の他の面々も、まるで地震から逃れる様に、皆頭を抱えている。

 澤先生は周囲の光景など一切気にならない様に、僕の肩を叩いて、乱暴に部屋の中央へと押しやる。職員室の中央に並ぶ席の一つに、淡いピンク色のスーツに身を包んだ、ぽっちゃりとした中年女性が座っている。彼女は僕を見ると、にこにこと笑顔を浮かべ、柔らかく手招きをする。

「―あら、漸く来たのね、遅刻魔さん。10日遅れの提出物は何処かしら?」

「ここに―」

 僕は手元のプリントを先生に見せる―手の中の、ぐしゃぐしゃのプリントを。僕は眉を顰める…が、直ぐに原因に思い至る。情けない笑みが口元に浮かび上がる。

(…澤の大声だ)

(あれで、耳を塞いだ時―)

「―あの。まぁ、済みません、その。諸事情でクシャクシャになってしまいましたが、たった今」

「別に構いやしません。読めれば良いわ、何でも。でも次からは、もっと早く出してね。10日遅れなんて前代未聞よ、それだけ遅れたら、普通は持って来ないわよ?柏木君みたいにね。遅刻分は、キッチリ減点させて貰いますからね。1日に付き1点、10日で10点減点よ」

「この課題、何点満点なんです…?」

「ちょっと待って、今採点返却しちゃうから―大丈夫?荻野くん、他に用事は?」

「いえ…特には」

「そう。なら、ちょっと待っててね―」

 近江先生が僕の手からくしゃくしゃのプリントを受け取る。先生にプリントを渡す時、何時か嗅いだ憶えのある様な香水の香りが、強く僕の鼻先を擽る。先生はそれをテーブルの上に皺を伸ばして広げ、ペン立てから赤の蛍光ペンとボールペンを抜き出して、手際良く採点を始める。僕はそれを待つ間、手持無沙汰にフラフラと視線を泳がせる。先生のテーブルの上を眺める。綺麗に片付いたテーブルだ。右手にペン立て、消しゴム、ブックスタンドに出席簿と、黄色、水色、緑の色分けされたクリアファイルに仕分けされた書類が挟まれて立て掛けられ、左手には恐らく未解決の書類、机の中央には電子カレンダーとコーヒーカップ、それに写真立てが置かれている。

 僕は写真立ての中身を見る。向日葵や朝顔、それに他の名前も知らない花の装飾で縁取られた写真立ての中には、3人の女学生が写っている。どうやら卒業式か何かの写真らしい、と思う。3人は胸に小さな白い花飾りを付け、揃って涙半分の笑顔を浮かべている。彼女達は皆セーラー服を着て、胸元に細長い黒筒を大事そうに抱えている。背景は、どうやらこの高校の、校門前の坂道だ。僕は写真を見て、頬を掻きながら考える。

(?)

(あれ、ウチの学校―ブレザーだよな?)

(この写真、どういうことだろ―他の学校の卒業生?友達の卒業式に遊びに来て、感極まって、ウチの校門前で記念撮影を―)

(―それとも、転校生?いや、でも全員、セーラー服だしな。同じ学校の同じ学年に、セーラー服の女子の転校生が固まる可能性は…)

「―ふふ、その写真、気になる?」

 先生がいつの間にか手を止め、僕の方を笑って眺めている。僕は自分の視線の遠慮の無さに気付き、慌てて写真立てから目を離す。

「ああ、あの、済みません、別に、先生の写真、覗き見する積りはなくて―」

「―それ、先生が卒業した時の写真なの」

「え?」

「どれが先生か、分かる?」

(分からん)

(先生の卒業写真って―先生何歳ぐらいだよ、下手すると、25年とか、30年前の写真なんじゃないの、これ―?)

(欠片も面影が見当たらない―ヒントくれ、とは言えないしな)

「右…左、いや、やっぱ真ん中―」

「…ええ?そんなに分かりにくいかな。ほら、左の子よ、見て。あのはにかみ顔、どう、先生の面影あるでしょう―?」

「ああ、言われてみると―そうですね、薄目で見ると、涙で滲んで先生に見えなくもない様な」

「…あのねぇ、荻野くん?正直は、必ずしも美徳じゃないのよ?」

「嘘はいけない、と母に厳しく躾けられて来ましたから」

「…課題、更に減点するわよ?」

「―いや、僕は最初から左の子が先生だと思ってました!僕が先生みたいな美女、見間違える筈無いじゃありませんか!10km先からでも分かります、流石先生、先生流石、今も昔も、変わらず素晴らしいプロポーションで―!」

 …全く、調子が良いんだから、と近江先生はクスクス笑いながら身を震わせる。先生のぽっちゃりとした肉体の下で、職員室の安物の事務用椅子がぎぃぎぃと悲鳴を上げる。僕は肩を竦め、改めて写真へと目を向ける。

「―ところでこの写真、何年前なんです?」

「あら、女性に年齢を聞く気?覚悟は出来てるの?」

「やぁ、そういう物騒な話じゃなくて。ただの世間話ですよ。ほら、ここに写ってる御三方、皆セーラーじゃないですか、先生を含めて。だから、もしかして、昔はここの制服、セーラー服だったのかな、と。若しくは先生が転校生か、それともセーラー服で記念写真を撮りたくて、態々他校の生徒から借りて来たか」

 ―何それ、と先生は僕にプリントを返しながら、呆れた様に歯を見せて笑う。再び、先生の強烈な香水の香りが僕の鼻腔を刺激する。僕は漸く、その匂いを、何処で嗅いだ事があるのかを思い出す。

(あの子だ)

(―あの、日誌をどうしても書けずに不貞寝していた僕を、起こしてくれたあの子。あの、長くてきれいな黒髪をしていた―)

(―あの子と同じ香りがする。まぁ、あの子は先生ほど、強烈な香りじゃ無かったけれど)

「…昔はセーラー服だったのよ。ほら、昔は制服と言えばセーラーだったから。今は色んな可愛い制服が選べて良いわよねぇ。セーラーだって、勿論悪くないけど。でも、学校の名前が変わる事になって…」

「名前―?」

「ほら、あんな事件があったから―母校の名前が変わってしまうのは、悲しかったけれど。それも仕様の無い事よね、だってここは私立校なんだし。イメージを変える必要があったのよ。生徒数の減少は、深刻だったしね。何処かで歯止めを掛けなければいけなかったのよ。結構苦情もあったみたいだけど―」

「…この学校、名前変わったんですか?」

「?知らない?昔は御影高、って名前だったのよ。私立御影高等学校。確か、創設者の名前だったっけね。それが、12年前の事件があって、今の名前に―」

(―12年前)

                 『でも、あれから結構繰り返し、何度も話題になってるけど』

         『ホントに見た事無い?まぁ興味がなきゃ調べないもんかな―』

                    『だからさぁ、神隠しだよ、神隠し―』

 僕は意識せずに、返却されたプリントを手の中で握り潰す。先生の事を食い入る様に見つめる。先生は僕の視線の変化に気付かない様子で、話の先を並べ立て続ける。

「―千歳学園になったの。その時に制服も変えたのよ。ホントに知らない?校内でも、結構有名な話だけど。まぁ、男の子はこういう噂話には興味無いか。でも、本当に大きな事件だったのよ、当時、とても話題になったの、ほら、七不思議のひとつにもなってる、今起きてる事件と、とても良く似た―」

 ―そこまで言って、先生は僕の後ろを見て、今更気付いたかのように、僕を見る。

(?)

「…ああ、御免なさいね、こんな話。生徒にする話じゃ無かったわよね―」

 先生の声から少し元気が喪われる。僕は不審に思って、後ろを振り返る。

 職員室の入り口に、学年主任の藤谷が立っている。角刈り、ぽっこりと突き出た中年太りのお腹、空色のワイシャツ、スラックス、蛇柄のネクタイ。そして目付きの悪い、突き刺す様な、眼。

「…御免なさいね、本当に。失言だったわ…」

 近江先生は、弁明する様に力無くそう繰り返す。藤谷は何も言わない。先生から視線を外して、黙って自分の席へ足を向ける。サンダルの、ぺたんぺたんという間抜けな足音がする。

「それじゃあね、荻野くん―そろそろ休憩時間、終わるわよ。先生も次の授業があるから」

「はい、それじゃ―あ、先生、もう一つ聞いて良いですか?先生の、その付けてる香水」

「あ―ご免ね、気になる?男の子は苦手って言う子も多いわよね、でも先生くらいの歳になると、付けてないと落ち着かなくて―」

「いえ―そうじゃなくて。その香り、なんていうんですか?」

「え?」

「知り合いが、その香りの香水を付けていたんスけど―なんかの花の香りだと思うんですけど、どっかで嗅いだ事ある臭いな筈なのに、どうしても名前が思い出せなくて」

「あ、ああ…これは、キンモクセイよ」

「なんですって?」

「金木犀。知らない?とっても可愛い、小さなオレンジ色の花なの―」




「オギやん、さっさと教室戻ろうぜ、いい加減腹減ったよ俺ァ」

「…」

「それ何買ったん?」

「コーラ」

 階段を上る。自分達の教室に戻る途中。2-3の教室は、西校舎、中央棟、東棟、と逆凹型に渡り廊下で繋がった校舎の中の、西校舎の2階にある。僕は、西校舎の昇降口に設置してある自販機で買った、缶コーラの蓋を上手く開けられずに苦労する。

(まさか、飲み物を忘れるとはね。今まで一度だって、忘れた事、無かったのに…)

(荷物の確認は怠るな、ってこったな。しかし、よりによってこんな時期に…)

(柏木が付いて来てくれて良かった―いつもはそんな事しない癖に。とことん歩くのが嫌いな奴だからな。こいつなりに、一応、気を使ってくれた―のかな…?)

(―購買部の周りは、結構酷いだった。空気というか、雰囲気というか。僕が傍に近寄るだけで、周囲の奴らがザワついた。思わず頭が痛くなるような瞬間だった。公然と陰口を利き、こちらを指差して嘲笑を漏らし、好奇の目を向けて―その癖、誰もが僕と目を合わせようとはしない。そこには、確かに僕を立ち入らせない空気があった。揃って、僕を枠外に押し出そうとする様な感覚があった)

(―全校生徒がこうだったらと思うと、吐き気がする…)

(まるでもう犯人だ。事実かどうかは関係ない…)

(結局、購買部には入らず、昇降口の自販機で、メニューを見ずに缶のコーラのボタンを押した)

(…ホントは購買で、緑茶のペットボトルを買いたかったけど…)

 プルタブを指先で弾く。苦い溜息が口から漏れる。あの空気の中に分け入っていく度胸が僕にあれば、と思う。そうすれば、今頃お茶のペットボトル片手に弁当を食べ始められていただろうし、こんな硬い缶のプルタブに悩まされる事も無かったろうに。

(…というか、飲み物を忘れなきゃな…)

(―返す返すも、何でよりによって、今日…)

(畜生、指先が痛ぇ…)

「…オギやん、相変わらず缶ジュース開けるの下手ね」

「放っとけ」

「俺が開けてやろうか?プルタブの魔術師と呼ばれたこの柏木サマが、よ」

「―随分間口の狭い魔術師だな。それってプルタブ開ける以外、何が―?」

 ―顔を上げる。階段の上、丁度目の高さの所に、誰かの上履きが立ち止まっているのが目に入る。上履きの先は緑色をしている。どうやら、同学年の誰かが階段の上に立っているらしい。僕は上履き、足首、太腿、胴体と、そいつの姿を半ば反射的に見上げる。

 …反射的に。条件反射的に。

 そいつは脱色気味の茶髪に髪を染めて、多少濃い目の化粧をし、左耳に二つ、右耳に一つ、ピアスをぶら提げている。公園の薄くなった木製ベンチみたいな色の髪の毛にはふんわりとカールが掛かり、腕にはじゃらじゃらと色んなリングやブレスレッドを引っ掛け、腰には制服指定外のパーカーを巻き付けている。そして顔に似合わず、可愛らしいハンカチを手元に握っている。

(赤と白のチェック。側面に薄いフリル…)

 そいつは、階段下の僕を見て、柏木を見て―くるりと踵を返して、来た道を戻っていく。段々と足早に。

「あ―おい、」

(見つけた)

 柏木に缶ジュースを手渡す。階段を駆け上がる。廊下の右手、奥を見る―彼女の去って行った方角を。廊下の奥に彼女の背中が見える。脱色した茶髪が、僕の視線から逃れる様に廊下の角を曲がったのが見える。

(アイ―アイ、なんとか)

(あの日の日直の相方。仕事をすっぽかして帰った、僕をこんな状況に追いやった、原因の内の一人)

(今日一日探していた。まさか、こんな所で出会えるなんて)

(しかも、お誂え向きに一人だ、伏兵も居ない―女子ってのは、群生する生き物だからな。話をするなら今しかない。彼女がもう一度、クラスの輪の中に合流する前に―)

「あ―ちょっと、オギやん?」

「ご免、柏木。オレちょっと用事が」

「え―これ、どうすんの?」

「任せた、プルタブの魔術師。あと、飯ももう先に喰っててくれ」

「ちょっ―」

「ホントごめん、今度なんか奢るから―!」

 弾かれた様に、僕は走り出す―まぁ、本人は至って本気な積りの、帰宅部なりの全速力、ってヤツで。彼女が運動部だったら終わりだな、と思う。廊下を端まで突っ切っただけで、脇腹が既に、差し込む様に痛む兆しを見せる。

(…全力疾走なんて、何年ぶりかな…)

(中学の時の100mが最後だったかも。後は、学校に遅れそうな時―?)

(脹脛がプルプルする。腕が重い。肺の上の方が痛む。空気が上手く入らない…)

 廊下の曲がり角に到達する。中央棟へと向かう渡り廊下の方には誰も居ない。階段の踊り場に頭から突っ込む様に入り、手摺から身を乗り出して、下を見て、上を見上げる。

(居た)

「おい―!」

 ―3階へ上る階段の途中に、粗い呼吸音と共に、上下する茶色の頭髪が見える。僕は手摺に胴を乗せ、吐き気を押さえて声を絞り出す。

「―待て―」

 茶色の毛玉がこちらを振り向く―が、直ぐに方向を変えて、上の階へ上がって行ってしまう。心なしか、さっきよりもスピードが速い気がする。僕は困惑してその光景を眺める。と、同時に、怒りが湧いて来る。納得出来ないものに対する、ある種の純粋な怒りだ。小学生の時、『自分ルール』で勝負の盤面を引っ繰り返す横暴な虐めっ子に感じた、ある意味懐かしささえ覚える、怒り。

「―待―」

(なぜ逃げる―?)

(お前が)

(…お前が、僕をこの状況に引き摺りこんだんじゃないか。お前が居なきゃ、僕はこうはならなかった。お前が日直の片割れじゃなかったら、僕はあの日もいつもの時間に帰って、いつも通りにジョンの散歩に行って―)

(―吸血鬼の兄妹に会う事も無かったし、誘拐事件の共犯を疑われる事も無かった。全部お前の…)

(…全部、お前の所為じゃないか―)

 胸の奥から突き上げる様な力が湧いて来る。僕は歯を食い縛り、震える膝で、2段飛ばしに階段を駆け上がる。叩きつける様な足音に、先を行く毛玉がこちらを振り返る。苦しい息が漏れる。涙が滲む。僕は階段の折り返しを、手摺を掴んで振り子の様にターンする。毛玉が僕を見てギョッとした顔をする。僕は毛玉の顔を正面から睨みつけてニヤリと笑う。

(やっと追い付いたぞ、この―)

「―待、あ、あ、て、アイ―」

(しめた、奴も疲労困憊だ。そう長くは走れない―)

「―嫌―」

「―何が嫌だ、野郎、絶対に―」

(…お互いに)

 彼女が手摺に寄り掛かる様にして、僕に背を向ける。僕は怒りに背中を押される様に、彼女の後を追う。もう殆ど、歩いていると言っても良い様な速度で。額と背中に、汗が噴き出す。焼け付く様に喉が痛む。そう言えば、今日は一滴も水分を取っていないんだな、とぼんやりと思う。

(―畜生、こりゃ絶対明日筋肉痛だ、缶のプルタブが固いのも、ああ、それもこれも、何もかも全部―)

 汗に濡れた手で、毛玉の彼女の手首を掴まえる。

 ―…彼女が声にならない悲鳴を上げる。


 小休止。

 遠くの方でがやがやと楽しそうに騒ぐ他の生徒の声を、二人で階段の上にへたり込んで黙って聞いている。脇腹が抉る様に痛い。飲み込む唾が、咽に絡まる。ひゅうひゅうと冬の隙間風みたいな音が自分の口から漏れる。見ると、毛玉の女も大体似たり寄ったりな状況だ。僕は目を閉じて、静かに体力回復に努める事にする。

(…痛い…)

(死にそう、死ぬ、ああ、ヒィ…)

(胸が痛い。お腹が痛い。目が痛い。ああ、筋トレとか、走り込みとか、するべきなんかなぁ…)

「―手」

 毛玉の女が喋る。僕は目を開ける。彼女は僕の方を見ずに、心底鬱陶しそうな表情をして、言う。

「…何でずっと握ってんの?いい加減放してくれる?正直キモいんですけど」

 僕は彼女を見、彼女の手首を見て、漸く自分が彼女の手首を掴まえている事を認識する。僕は慌ててその手を離す。意味も無く両掌を天井に向ける。武器を捨てて投降の意を示す、犯人の様に。

(ホールドアップ)

 彼女は舌打ちして、解放された自分の手首を擦る。手首を振り、手首を撫でては溜息を吐き、ポケットから例の可愛いハンカチを取り出して、手首のその部分を丹念に拭き始める。

(…こいつ…)

(暴力にも色々あるんだぜ?言葉の暴力とか、態度の暴力とかな…)

(…こいつとの話が終わる頃、僕の硝子のハートが果たして何割残っているか…)

「で?」

 そっぽを向いたまま、彼女は言う。彼女は時間を掛けて、ハンカチを丁寧に折り畳んでいく。僕は手を下ろして、彼女の手元を見る。彼女はフリルの皺の一つ一つを指先で綺麗に伸ばしていく。

「…」

「用があってあたしの事を追い掛けてたんじゃないの?誘拐犯さん。まさか、あたしの事も誘拐する気?」

「お前―」

「―この前の仕返しって訳?それで、あたしに目を付けたの?そんな酷いことした?ふざけないでよ、たかが日直サボったくらいで―」

「―お前こそふざけんなよ―」

 ―怒りが。

 怒りが再び燃え広がる。極度の疲労と、彼女の心を突き刺すカウンターパンチで消火寸前だった、僕の小さな怒りが。彼女を正面から睨みつける。彼女は一瞬怯んだ様子だが、直ぐに唇を尖らせて睨み返して来る。

「―はぁ?あたしの何が―」

「―オレは無実だ―」

「―はん?あのねぇ、みんなそう言うのよ。犯人ってヤツはね。それ、信じて貰えると思ってる?あたしに言い訳しても無駄よ、信じてやる程お人好しじゃないし、アンタの事も知らないし。言い訳なら警察に―」

「―お前は知ってる筈だ」

 僕は不機嫌にそう言い切る。彼女は驚いた様な顔をし、意味が分からないという様な半笑いを口元に浮かべ、手元のハンカチへと目を落とす。綺麗に畳んだハンカチの中央部を指先で抓んで弄る。

「…あたしが?何言ってんの、頭おかしくなった?懺悔と治療は、医者かカウンセラーに―」

「お前、日直サボったろ」

「はぁ?責めてんの、あたしを?今更?」

「責めてない―」

 僕は下を向く。額を擦る。通学途中や、教室で考えていた事を、疲れた頭で必死に思いだそうとする。

(僕は未だ捕まった訳じゃない。きっとなんとかなる。何とか出来る…)

(証言してもらう必要がある。あの日、僕が校舎に居た事の、について…)

(幾らあの狐目の刑事が、偶然の連鎖を意図的に紐付けようとしても―そもそもの推理の発端の僕が、校舎に居た事が偶然だったと証明できたなら…)

「―こともない―けど」

「は、そんな、何日も前の事をぐちぐち蒸し返すの止めて欲しいね。次の日、あんた、何も言わなかったじゃん?だからあれはもう終わった事なの。大体、なんで誘拐犯がフツーに学校来てんのよ?それが先ずおかしいのよ、さっさとケーサツに捕まっちゃって欲しいわ、次の犠牲者が出る前に―」

「…あの日、お前が日直をサボらなかったら、オレが学校に居残る事も無かった。犯人扱いされる事も」

「―何それ。じゃ、あたしの所為だっての?あんたに疑惑が掛かってんのはあんたが怪しいからでしょ。あたしはなにも悪くない!犯罪者のクセに、エッラそうにしないでよ!あんたが全部悪いんじゃない!あの日、日直サボったのだって、あんたが―!」

「違う」

 僕は彼女を見る。彼女は不思議な表情を浮かべている、と思う。歯を剥き出して、唇の端が震えるほど口角を吊り上げて、目を一杯に見開いて。手はハンカチを捻じり上げている。折角綺麗に折り畳んだのに。僕は彼女の肩が震えているのに気付く。気の抜けた笑顔が口元に浮かぶ。

 ―本当にどうしようもない時に自然に浮かぶ、諦めの境地みたいな、脱力した笑顔が。

(…そうか)

(彼女、怖いんだな)

(大丈夫、僕もだよ…)

「…そうじゃない。そういうことじゃないよ」

「―はぁ?意味分かんな―」

「あの日、キミは日直をサボった。3日前の、13日の木曜日に」

「―煩いわね、何回も言わなくたって―」

「あれは偶然だった」

「?」

 彼女は、食い縛った歯を、ぽかん、と開ける。その様子が池の鯉みたいで、僕は思わず笑ってしまう。

「…何笑ってんのよ。な、何、どういう事?」

「13日にキミは日直をサボった。キミは―まぁ、キミが最初からサボるつもりだったのか、急にそういう気分になったのかは、僕には分からないけど」

「…」

「―問題は、それが突発的なものだった、って事だ。キミのサボタージュは、僕にとっては偶発的なものだった。それを警察に証言して欲しい」

 警察、と聞いて、彼女の表情がきゅっ、と勝手に歪む。僕は、弱々しい苦笑を浮かべて彼女を見つめる。やっぱり、彼女みたいに意図して規則の外にはみ出ようとする輩は、『警察』という単語に弱いんだろうか、と思う。

「…それ、何の為?」

を証明する為だよ。あの日、偶然キミは日直をサボった。突然にね。当然僕はその予定を知らされていなかった。だとしたら、その後の僕の放課後の予定は、必然的に自分で意図したものと違って来る筈…」

「つまり―分かんないけど。何が言いたいの?」

「計画的な行動を行えなかったってことさ」

 僕は彼女の目を見て言う。自分に言い聞かせるように。

「“偶然”学校に居残った僕が、同じく“偶然”学校に残っていた第一被害者を、“偶然”、誰にも見られずに、外部犯を手引きして誘拐するなんて、偶然に頼る部分が多過ぎて、ムシが良過ぎるとは思わないか?」

「うん?まぁ―それは、確かに…」

 彼女は分かった様な分からない様な目で、曖昧に何度も頷く。

「それに、事件は二度起こった。しかも二日続けてだ。有力な目撃証言も特に無い。となると、事件自体には計画性を感じないかい?」

 …彼女はハンカチを膝の上に落とし、腕組みをして、唸り声を上げて天井を見上げてしまう。僕は苦笑を浮かべてその様子を見つめる。彼女が僕の理屈を消化している間、僕は黙って彼女の様子を眺めている。

(…意外と、良い奴なのかな)

 胸の蟠りが解けていくのを感じる。あんまりよく喋った事も無いクラスメイトを、偏見で遠ざけていたのは、案外僕の方だったんだろうか。

(…いや、その前に、日直サボったんだけどな、こいつ…)

「ということは、つまり―計画的な犯罪に、無計画なあんたはらしくない。そう言う事ね?」

「…言い方。まぁ、でも、大体そう言う事だよ。僕は犯人じゃない―」

「―うん。確かに。理屈は合ってる…様な気がする。私はサボる事はあんたに言わなかったし、それに…」

 ―そこまで言って、彼女は無遠慮に僕の事をじろじろと眺める。僕は何となく、両手で胸元を防御する。

「…何だよ?」

「あんたが、吉田ちゃんの気を引く様な会話、出来そうにないと思ってね」

「は!?」

「あんたの説明、滅茶苦茶分かり難かったよ。あんたさぁ、会話下手だって言われない?」

「―言い方。お前さ、言葉をもっと包めよ、オブラートにさぁ…」

「はっは、悪い、悪かったよ…そうね、うん。証言してやる。今度、あの狐っぽい顔の刑事さんが来たら。その代わり―」

「ありがとう、アイ―アイ、アイ―」

 言い掛けて、はたと、彼女の名前を正確に把握していない事に気付く。それとなしに、彼女の方を見る。(…クソ)来ている服にも、腰に巻いたパーカーにも、ハンカチにも、彼女の名前のヒントになる様なものは何も無い。勿論名札の類も身に付けていない。彼女は屈託のない笑みを浮かべて僕を見ている。僕は強張った笑みを彼女に返しながら、必死に草臥れた脳味噌をフル回転させる。授業中、新学期の頭に行われた自己紹介の時間、クラスの中での会話―なんでも良いから、何か手掛かりが無いかと脳の内側を浚う。

「…アイ―アイ―ザワ…?」

 ―頭の中にリストアップした名前の中で、一番それっぽいものを、彼女に向かって、恐る恐る呟く。

 彼女の顔から表情が消える。

「相原です」

「ああ、相原―さん、でしたか…」

「あれ、お前、ひょっとして―やっぱり、犯人―?」

「―相原様。私・荻野、この御恩、決して忘れません―!」


「でもさ、荻野」

「うん?」

 いい加減、階段上から立ち上がる。尻の埃を必死に払っていると、茶色の毛玉―相原が、階段の上に腰掛けたまま、顎に手を当てて、どうでも良さそうな事の様に、言う。

「あんたの推理―なんか、おかしくなかった?」

「ううん?」

 尻を払う手を止め、僕は首を傾げて相原の方を見る。

(何処が?)

(そりゃ、確かに―自分でも、一部の隙も無い推理とは思わない、けど)

(現状じゃこれがベターだと思う。自分と犯罪の無関係さをアピールしつつ…大本の推理との矛盾点を証明する)

(自分で言うのも何だが、良い手だ…と思う。相原が日直をサボった事を僕の無実と関連付けられなくても、僕のを立証する手立てにはなる。実際、あの日は本当に無計画だった訳だし…それが、もし今後この犯行が継続していくなら、この誘拐事件の計画性との齟齬を、確実に起こしていく筈だ)

(それなりに効果がある…と、思いたい)

(それを、言っちゃなんだが―この女が発見出来る様な、大きな破綻が、この論理にあるか?あんだけ懇切丁寧に説明して、それを『滅茶苦茶分かり辛い』っつーて切り捨てる女だぞ?)

(…別に、根に持っている訳ではない)

「何処が?」

「ええと、なんか…どこか」

(茫漠とし過ぎている)

(『砂漠の中に名前を書いた砂粒を入れた。それを今から探し出せ。制限時間は…』)

(“九牛の一毛”ってのは、こういう事を言うんだろうか…)

「何処かって、どこよ?」

「えっと、ちょっと待って―忘れちゃった、さっきまでは憶えてたんだけど―」

「…」

「―その顔止めて。私の事、バカみたいだと思ってるんでしょ」

「ソンナコトハナイヨ」

「ああ、腹立つ、荻野ごときに、バカにされるなんて―」

(僕如き、とは一体)

(…お前な、アメーバだって、ミカヅキモだって、僕だって、生きてるんだぞ?)

(生命という神秘に、もう少し敬意を払ってはどうかね―?)

「―あ」

 彼女が突然声を上げ、両手を合わせて、僕を見る。

 ―何処か、申し訳無さそうに。

(…?)

「ガイブハンだ」

 と、彼女は言う。

「え?」

 僕は思わず聞き返してしまう。彼女の言葉が意外過ぎて。胸の奥が微かにざわつく。彼女の言葉の先を聞きたくない、と思う。漸く前進出来た様な気がしたのに、彼女のその先の言葉が、僕の行く先を打ち壊してしまいそうで。

 彼女は僕を見上げ、僕の心中を知ってか知らずか(多分100%気付いていないだろう)、変わらぬ調子で話の先を続ける。

「ガイブハンだよ。あんた、さっき言ってたでしょ?偶然がいっぱいあるから、ガイブハンをテビキするのは難しい、って」

「ああ、外部犯…」

「でも、それっておかしくない?何でガイブハンなの?」

「へ?それは…」

「―刑事さん、ガイブハンなんて一言も言ってなかったけどな。もっと違う言い方してた。犯人は一人、ないし複数の可能性がある、犯人は一人は少なくとも大人。子供の力だけじゃ、人一人を痕跡無く攫うのには無理がある…」

「…」

(こいつ―あの刑事と、話した事あるのか。そう言えば、さっき狐顔の刑事がどうとか言っていた。ということは、こいつは、『複数の生徒の証言』の内の一人…)

(刑事に僕を売ってやがったって事だ。あれ?でも、という事は、こいつが言っているのは、あの刑事の見解って事になる。それって、つまり…)

(僕は最初から―疑われて無かった、ってこと…?)

「―で、こういう事件が起こる時、いくら普段通りにしようとしても、どうしても普通とは違う行動を取ってしまう事がある、って。犯人が意図するに関わらず、しないに関わらず、自覚するに関わらず、しないに関わらず」

「…」

「その普段とは違う事を、違和感を逃さず拾い上げるのが刑事の仕事だ、って。で、事件初日、普段と違う行動を取っていて、被害者全員と繋がりがある、違和感の塊が―」

 ―彼女が合わせた手を解いて、真直ぐ僕を指差す。僕は二、三歩退いて、彼女の指先から身を逸らす。自然と溜息が出る。どっちにしろ、あの刑事は僕を的にする積りでいたらしい。その話を相原に得意気に語る、刑事のにやけ面が目に浮かぶようだ、と思う。

「…つまり?」

「あれ、今ので分かんない?」

「分かんねぇよ、要点を話せ、要点を」

「―ガイブハンなんて一言も言ってないじゃん」

 彼女は優越感に満ちた笑みを浮かべて僕を見る。まるで、クラスの誰ひとり解けない難問を、自分だけが解いて見せたみたいに。僕は彼女の、邪気の無い笑顔を眺めている。彼女の言葉を飲み込むのに、時間が掛かる。

(―ガイブハンなんて一言も言ってないじゃん)

(ガイブハンなんて一言も言ってないじゃん)

(ガイブハンなんて、一言も…)

(…あの野郎…)

                    『高校生一人じゃ無理でしょう。それと同じく、大人一人でも無理だ。このご時世、監視カメラもあるし、周囲の目も案外厳しいものです。見慣れない大人や、不審な車両が校舎の周囲をうろついていれば、それだけで通報される時代です―』

                    『―が、大人と子供なら、話は別です』

              『14日の放課後、あなたは何をしていましたか?』

                 『昨日の放課後、あなたは校外の人間と会っていたんじゃないですか?守衛さんが教えてくれました。見慣れない大人と、あなたが校門前で何やら口論している様子だったと』

        『ほォ、偶然、偶然!また偶然ですか、やっぱり偶然ってのは―』

(畜生、あの野郎、あの狐野郎…!)

(汚ぇ、それが大人のやる事か―?)

(…騙しやがった。嘘だろ?あの狐野郎、―!)

(確かに、あいつは一言も言っていない。一言も、外部犯が犯人だとは。大人と子供の共犯を示唆して、その後に、僕に14日の放課後の話を聞いただけだ…)

(―僕を騙した。何の為に?騙して、足留めする為?良く分からない。でも、僕を犯人だと考えているのなら、確かに全ての真実を提示する義務はない…)

(僕を騙した…)

(本気で僕を犯人と―)

(いや―そこじゃない。重要なのは、そこじゃない)

(重要なのは―)

「だ―大丈夫、荻野?」

「外部犯じゃないって?」

「う―うぇ?」

 ―感覚の無い足に、必死に力を入れる。平衡感覚の無い体のバランスを、苦労して整える。出来得る限りの平静を装って、僕は相原に尋ねる。最近ショックな出来事が多過ぎて、こういう感覚に慣れ始めている事にじんわりとした悲哀を感じる。

「…外部の犯行じゃないって、ハッキリ言ってたか?」

「う―うん」

 彼女は両目を小動物の様に素早くパチパチ瞬かせながら、言う。

「多分、十中八九、内部の犯行だって」

 僕は職員室の様子を思い出す。今日の1限終わりに訪れた、職員室の様子を。現国のプリントを提出しに言った時の事を。近江先生の事を。学年主任の、藤谷の事を。

           『…ああ、御免なさいね、こんな話。生徒にする話じゃ―』

                 『―学校の方は園部チャンの知り合い集めて、慌てて片っ端から事情聴取だよ。どうやら今んとこ、碌な情報は無いみたいだけどね。4時くらいに、玄関近くで学年主任の藤谷が擦れ違ったのが最後』

                 『確か委員会終わりだったとか。同じクラスの奴は、荷物取りに教室の手前でそのまま別れたんだって。で、その後藤谷にあって、それから行方不明―』

「…藤谷先生だって?」

「え!?」

「犯人、藤谷先生だって、言ってたか?」

「い…いや、そこまでハッキリとは、言ってなかったけど―でも、それらしい事は言ってたよ。あの時間帯、記録と証言によれば、部活中のものを含む生徒複数名に、少なくとも先生は8人がいた。で、その内、校門の守衛さんが見てないのは―最初の被害者の、ええと、園部―と、あとは荻野で、それで、その、守衛さんの証言や、監視カメラの記録とムジュンする話をしているのは―」

「―藤谷と、オレ?」

 彼女は肩を竦める。

「…繋がりがある可能性は否定できないでしょう、ってさ」

 僕は笑う。笑わずには居られない。相原が僕を頭のおかしな人を見る様な目で見るが、僕はそれでも力無く笑う事を止められない。漸く、この事態を抜け出せる道が見つかったと思ったのに、それがこうもあっさりと崩れ落ちてしまうだなんて。砂の橋を歩いている様な気がする。一歩踏み出せば直ぐに崩れ落ちてしまう、砂の橋の上を。どうやっても前へ進めない。同じ所を堂々巡りだ。カフカの小説にそんな話があったなと、僕は笑いながら考える。どうやっても依頼先の城へ辿り着けない、測量士の話だ。

(―僕は逆だ。どうやっても、ここから出られない…)

(…内部犯なら…)

(内部犯なら、僕の無計画性は関係ない)

(最初から中に居るんだから。僕が手筈を整える必要はない。犯人にも僕にも、時間の猶予はたっぷりあるんだ。のんびりと待てばいい。獲物がゆっくりと、一人きりになる時間を)

(…でも、だったら、この事件で僕が示す役割は何だ?大人だけだと目立つから、子供の協力を疑ったんじゃないのか?最初から、校内で目立たない大人の犯人の目処が立っているなら、どうして必ずしも必要無い、子供の僕を疑う必要がある―?)

(またあれか?刑事の勘―?)

(それとも―事件は二つあった。片方の事件で目星を付けた容疑者が、もう片方の事件で上手く役割を果たせないから―共犯者の存在で理由を説明付けようとして、そして―)

(…違和感のカタマリを)

「あー…、荻野?」

「うん?」

「その…ええと、大丈夫?」

「大丈夫じゃないよ」

 僕は顔を覆う。笑いながら顔を覆う。崩れ落ちて、泣き出してしまいたい。目元がじんわりと熱を帯びては居るが、待てど暮らせど涙はやって来ない。

 ―代わりに、声だけが出る。小さな、乾いた笑い声が。

「大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃ…」


「―それで、これからどうすんの?」

 歩く気力も湧かなくて、僕は再び階段上に腰を沈める。静かになったのを見計らった様に、相原が僕にそう尋ねる。僕は顔の表面を何度も拭って、相原の方へ目を向ける。発作的な笑いが治まった代わりに、僕の中に泥の様な感情が堆積する。静かで鬱屈した、その感情に僕は流されてしまいたくなる。

(…これから?)

(コレカラってなんだ?コレカラって?どういう意味?)

(どうもしないよ。どうにもできやしない。僕は終わりだ…)

「どう?あたしの証言は、役に立ちそう?」

 僕は笑う。僕の笑顔を見て安心したみたいに、彼女も微笑を浮かべる。油絵の様な笑顔だ、と思う。色々な感情を混ぜ合わせて、塗り重ねた様な、複雑な色の笑顔。安堵、心配、不安、打算、警戒、期待、好奇心。僕はその顔に斧を突き立ててやりたくなる。その首を絞め潰してしまいたくなる。

(…止めろ)

(そんな顔をするな。お前の所為だろ?僕がどんな気持ちで居るか知らない癖に。全部お前の所為じゃないか!お前さえいなければ、僕がこんな所に閉じ込められる事も、家族がこんな危機に曝される事も―!)

(…違う。彼女の所為じゃない。八つ当たりは止めろ。彼女が日直をサボったのは偶然だった。彼女がこの事態への入り口を作ったのかもしれないけど、事がこんな風に転がったのは、誰にとっても予想外だった。交通事故みたいなものだ。決して彼女だけの所為って訳じゃ―)

(―けど、ちょっとは責任を感じてくれても…)

 ―僕は不安定な風見鶏の様に、どうにか心の中で折り合いをつけようとする。僕の笑顔の意味をどう受け取ったのかは分からないが、相原は機嫌良く、浮ついた調子で言葉の先を続ける。僕は彼女の喉を鈍器で潰したい衝動と闘う。彼女の両目を親指で刳り貫けば、少しはその口を閉じてくれるだろうか、と思う。

「あたしの話であんたの無実が証明されたなら、それはあたしがあんたを助けた、って事よね。あたしがあの狐顔の刑事に話をして、あんたの『ムケーカクセイ』ってのが、証明されたならさ。なら、今度はあんたがあたしを助ける番だと思わない?だから―」

「―何の役にも立たないよ」

「あたしを―そう、何の役にも。え?」

 彼女が間抜け面で僕を見る。僕は自分の表情が崩れていくのを感じる。彼女に当たっても何の意味も無い、と幾ら心に言い聞かせても、自分の言動が意地悪く変容していくのを止められない。吐き捨てる様な調子で彼女に言葉をぶつけながら、僕は今、どんな顔をしているのだろう、とぼんやりと考える。

 怒った顔をしているのかもしれない。嘲笑う様な笑顔を浮かべているのかもしれない。

 ―或いはもしかしたら、泣いているのかも。

「ああ。何の役にも立たない。最悪だよ。必死に考えて、まだ何とかなるかもしれないと思ったのに、もう何の意味も無い。ふざけんなよ―」

「あたし―」

「―外部犯だって?畜生、あの狐野郎―必死に考えたのに。まだ何とか出来るかもって―終わりだ。糞、クソ、クソクソクソあの狐、一体どうしたら―あぁ、最悪だ、もうどうしようも」

「あたし、あ―荻野、大丈夫?あたし、何か、間違え―?」

 焦った様に、相原が口を挟む。僕は改めて彼女を見る。脱色気味の茶髪、多少濃い目の化粧、そして、顔に似合わず、可愛らしいハンカチ。まるで初めてその姿を目にした様な気分になる。不意に我に返る。彼女の証言が効力を失った以上、こうしてお喋りしていても仕方ないし、意味の無い行為だと気付く。僕は無言で立ち上がり、彼女に背を向けて、階段を階下へ向かって降りていく。

「え―ちょっと?荻野、あんた、どうすんの、これから―?」

「…教室へ戻るんだよ。そろそろ5時間目が始まる。その前に昼飯、喰わなきゃ…」

「あ―あんた、大丈夫なんだよね?無実なんでしょ?助かるんだよね、あたしの証言で―?」

「無実だよ」

 背後で彼女が、慌てて立ち上がる音がする。僕は振り返らずに、慎重に次の一歩を踏み出す。自分の中の泥の様な感情が、大蛇の様に渦を巻いていく。

「―でも、あんたの証言で、それを証明する事は出来ない」

 …探る様に、次の一歩を下ろす場所を選ぶ。振り返って、彼女の顔を見るのが怖い、と思う。彼女の目を見るのが。自分の内側の感情を、怒りのままに彼女にぶつけてしまうのが怖い。彼女の目が、他の奴と同じ様に変化しているのを見るのが、怖い。教室の奴らや、購買部に集まって居た奴らと。

(…怖い、怖い、怖い、と―)

(怖いものだらけだ。もうどうしようもない、もうどうしようも―)

(自分で自分が情けない。けど、それをどうにかしたくても、どうして良いのか分からない。いつも、同じ所をグルグル回っている。まるでケージの中を駆け回るハムスターだ…)

「どうして?あんたが言ったんじゃない、あんたの無計画性を証明できたんなら、計画的なこの事件に、あんたは合わないから―?」

「…だからさぁ、その前提がもう無意味なんだよ。あんたの証言は期限切れだ。僕の無計画性の立証が有効だったのは、あくまで犯人の一人が外部犯だった場合だ。外部犯だったら、連絡の手段も、犯行のタイミングも、限られて来る。どうしても、予めが必要だ。けれど、内部犯はそうじゃない―」

「―え…?」

 僕は笑う。情けない笑みが浮かぶ。迷子になった気分だ。昔、遊園地で、親戚達と逸れてしまった時を思い出す。広大な遊園地の敷地内に、見渡す限り、知り合いは一人も居ない。もう一生会えない様な気がしたっけ―。

「―内部犯は、僕のに合わせる事が出来る。だって、最初から内側に居るんだから。連絡の方法も豊富で、タイミングだって、好きなように選べる。あんたの証言は、僕の無計画性を主張するものであって、僕の無実を直接立証するものじゃない」

 僕はもう一段、階段を降りる。彼女の声が、次第に遠くなっていく。

「それが―…?」

「―だから、もう意味が無いんだよ。何もかももう無意味だ。僕の無計画性を主張した所で、僕の共犯説を否定する事にならないんだから。あんたの証言は賞味期限切れだし、僕はもう終わりだ」

「お―終わりって」

「それじゃ。追いかけて悪かった。僕は飯を食いに行く」

「ちょ―ちょっと待って、あんた、これからどうすんの―?」

(どうする?どうするかって?)

(どうもしないよ)

(どうしようもないじゃないか?もうこれ以上、どうしようも―)

「―長い、黒髪の」

「え?」

 …最初に、思い付いた事を、半ば自棄糞気味に言う。最初に頭に思い浮かんだことを、口に直接送り込む様に、無意識に。

「黒髪で、切れ長の目の女子を探す。あの日、教室で寝ていた僕に、話しかけて来た女の子だ。もしかしたら証言してくれるかもしれない。あんたが日誌を放って帰った後、教室で眠りこけていた時の事だ。あれは―確か、結構遅い時間で―」

 僕は階段の手摺に手を掛け、必死にその時の事を思い出そうと左上を向く。あれは…そう、6時間目の終わりから、1時間以上は経っていた筈だ。だから、あの子に会ったのは、大体4時半以降で―。

「…確実に無実は証明できなくても、証明の足しにはなるかもしれない。ええと、最初の被害者の、園部美佳が、最後に目撃されたのは4時に藤谷と昇降口で…その時僕は、教室で未だ真っ白な日誌を前にボーっとしていた。だから、今後正確な犯行の時間が割り出される様な事でもあれば…彼女が教室に居た僕と、真っ白な日誌の事を証言してくれれば、もしかしたらそれが僕の助けになるかもしれない…と、思う」

「どんな子?」

「あー、綺麗な、長い黒髪で、切れ長の目で…何でか、夏服の上にカーディガンを着てた。寒がりだったのかな…?ううん、それと、リボンのタイの結び目が滅茶苦茶だった。あんなに結ぶのが下手糞な子、初めて見た…」

「何それ。他には?」

「他?えー、香水を付けてたな。金木犀の香水を。ほら、現国の近江先生と、同じのヤツ」

「ふーん。ねぇ、黒髪って?長い黒髪って、例えば、どのくらい?」

「どのくらいって…丁度、最初の被害者の、園部さん位だけど―何だ急に、どうしてそんな事を聞く?」

 僕は思わず相原を振り返る。本当に思わず、越えてはいけない、と言われていた線を踏み越える様に。怖い、とか、自分の内側の感情とか彼女の目とか、ゴチャゴチャ考えていた事を全て忘れて。

 相原は階段の上に腰を下ろす。足を組んでその上に頬杖を突き、王様のように踏ん反り返って、僕の方を見下す。何故だかにやにやと、得意気な笑みを浮かべて。

「―なぁ、それ。そいつを探すの、手伝ってやろうか?」

「は?」

「荻野、あんた―どうせ、女子のツテとか無いんだろうし。このままいったらユーザイなんでしょ?あの日、日直をサボった所為であんたがこうなった事、私も少しくらい責任感じてるんだ―」

「―それは少しでなく沢山感じて下さい」

「…煩いな。兎に角、手伝ってやっても良い、って言ってんの。有難く思いなさいよ?正直、聞いただけじゃ、全然分かんないけど―香水付けてる子なんて珍しい筈なのに。キンモクセイ?まぁ良いわ、私が知らない、ってことは、多分上級生かしらね。誰かに聞けば分かると思うわ。女子の横のネットワーク、舐めんじゃないわよ?」

 僕は手摺に寄り掛かって、暫くの間考える―素直に有難う、と言いかけた言葉を、喉の奥に押し込んで。何かがおかしい、と思う。最初は僕から全力で逃げていたし、僕の事を犯人だと思い込んでいた癖に。急に掌を返した様に協力的になった。僕の主張に正当性を認めた―とか、僕の必死さを見て、本当に無実かもしれないと思い始めたとか―あの日、日直をサボった結果こうなった事に、少なからず罪悪感があるとか。

 それもあるのかもしれないが―でも、それだけじゃない気がする。

(…何だろう。何を企んでる?)

(―企んでる、ってのは言い過ぎかもしれないが。でも、彼女が純粋に情けだけで、協力を申し出てるとは思えない―のは、僕の心が汚れているからなのか)

(あの狐目の手じゃないよな?そこまで強引な捜査方法はやらない―と、思いたいけど。だったとしたら、一介の高校生にはお手上げだ…)

「―何を企んでる?」

 素直に尋ねてみる。相原がギョッとした様に、体を硬直させる。視線を四方八方に泳がせ、震える手でハンカチを拾っては、また膝の上に取り落とす。

「なな、な、何の事?やだなあ、あは、は、ははぁ…」

「…良いから、率直に言ってくれ。自分の身が賭かってるんだ、条件次第じゃ、素直に引き受けてやるから」

 ―彼女は僕を睨みつける。僕が言った言葉を、確かに聞いたぞ、と念を押す様に。下唇を尖らせる。頬を僅かに膨らませる。階段上からゆっくりと立ち上がり、尻の埃を丁寧に払う。お尻、スカートの側面、それから太腿。膝に手を掛け、少し前屈みになって俯く。

 …良く見ると、少し頬の辺りが赤くなっている。

(あれ?)

 僕は俄かに浮き足立つ。意味も無く階段の、上と下を見る。周囲には誰も見当たらない。賑やかな喧騒が遠くの方に聞こえる。僕は生唾を飲み下す。彼女の声を聞き逃さない様に、一歩近寄った方が良いんだろうかと苦悩する。

(近付いた方が良い?でも足音で後退りとかされたら、それはもう立ち直れない破壊力…)

(なんだろう、これ。何なんだ、なんかすごい、ドキドキする。最近、女子にやたらと縁がある気がする。今まで生きて来て、女子との関わりなんて、クラスの緊急連絡網での必要事項の伝達の時くらいだったのに。こ、これ、もしかして、あれか!?噂にしか聞いた事の無い、コ、コ、ココ、告は―)

(…あれ?この流れ、前にも…)

「あのさ、あたし、あんたの―…」

「―ハイ!?」

 思わず声が裏返る。彼女は驚いた様に僕を見るが、特に気にした様子はない。どうやら、自分の事でいっぱいいっぱいなのだろう。彼女はうなじの辺りの髪を手で掻き分ける。僕はその場で足踏みをする。心臓の音が、バイクのエンジン音の様に爆音で聞こえる。

「―あんたの友達の―柏木、いるじゃん?」

「ハイ?」

「その、あたし、あいつが…その。ずっと前から、気になってて―」

「ハイ…」

 ―僕は足を止める。

(知ってた)

(悔しくはない。しかし何故だろう。心臓の辺りが突き刺す様に痛い。大粒の涙が零れそうだ)

(―クソ、なんであいつばっかり?イケメンだから?背が高いから?スポーツ万能だから?空気を読むのがうまくて、場を温めるのが上手だから?それとも、ちょっと悪そうな所がまた良いのか―!?)

(…自分で考えてて、悲しくなって来た。ルサンチマンになりそうだ…)

(クソ、あれだぞ?あいつ、多分私服糞ダサだぞ―?見た事無いけど…)

「あ―あたしと、柏木が上手く行く様に、その、協力してくれないか!?」

「ハイィ…」

「お―OKか?本当だな、荻野、OKなんだな―!?」

「マカセテクダサイィ…」

「やった、ありがとう、荻野―!うん、あたしの方も、頑張るからさ―!」

 階段上で危なっかしくはしゃぐ彼女の様子を、僕は眩しいものを見る思いで眺める。階段の上で小躍りする彼女を見て苦笑する。嬉しそうな彼女のその姿に、先程の疑問の答えを得ると同時に、僕は彼女がどうして日直をサボったのかを漸く、朧気に理解する。

(…成程な。彼女は、僕と―)

(―僕と、話をしたかったんだ、この件に付いて)

(それなのに、僕が徹底的に会話の機会を奪ってしまったから。自分が早く帰りたい為に。彼女も同じ想いだと信じて。日直業務を完全分業制にして、日誌と、それ以外に分けた。文句を言わせない様に、負担の大きい方を自分で取って、日誌の業務を彼女に丸投げした―)

(それが―彼女の逆鱗に触れた)

(彼女はずっと、この話がしたかった―その機会を、ずっと窺っていたんだろう。それこそ、何日も前の日から、あの日直の時を待っていたのかもしれない…)

 僕は目を細めて彼女を見る。彼女は階段の上で小さく、全身でステップを刻む。鼻歌を歌いながら、段上でターンアラウンド。僕と目が合うと、彼女は無邪気に歯を見せて、笑う。僕は脱力して、階段の手摺に凭れ掛かる。

(恋する乙女にゃ敵わないっていうけど、本当だな…)

(…けど、その乙女の所為で、容疑者候補に挙げられちゃ堪らない。傍迷惑な恋心だ…)

 彼女は誰も来ない階段上で、一頻り勝利の舞を踊る。曲が流行りのJ-POPから、サッカー日本代表の応援歌へシフトする。恥も外聞も無く、彼女は踊り狂う。僕の視線を気にする様子も無い。

 僕はそれを眺めている。

 …決して彼女を祝福している訳ではない。疲労でその場を動けないだけだ。


「―じゃ、荻野。また連絡するから」

 相原が僕と電話番号を(半ば強奪する様に)交換した後、手をひらひらと振りながら、階段を駆け下りていく。僕は階段上からその様子を見送る。兎に角疲れた、と思う。彼女の後を追って教室へ向かう元気も無い。僕はそこで暫く休んでいく事にする。遠くの方で10分前の予鈴が鳴るのが聞こえる。多分、もう昼食を食べる時間はないだろう。

(…長かった、そして疲れた、兎に角―)

(―持久走並みのハードさだ。これが女子との会話か。恐ろしいぜ、女子…)

(…成程、だから運動部はモテるんだなぁ…)

「―あ、そういえば、相原」

「?」

「七不思議って知ってる?」

「はぁ?」

 階段下で相原が素っ頓狂な声を上げる。心底、馬鹿を見る様な目で僕を見る。僕は苦笑いを浮かべて肩を竦める。そんな顔しなくても良いじゃないか、と心の中で言い訳をする。自分だって、馬鹿みたいな質問だ、とは思う。でも、理由を話せば、もっと馬鹿にした顔をされそうだ。

(…でも、気になるものは、仕方ないじゃないか?)

                『当時、とても話題になったの、ほら、七不思議のひとつにもなってる、今起きてる事件と、とても―』

(12年前の事件。今起きてる事件と、とても良く似ていたと、近江先生は言っていた―)

                    『だからさぁ、神隠しだよ、神隠し―』

(誘拐事件が起きてから、12年前の事件を調べに来た雑誌記者。あの胡散臭いおっさん、小林縣。彼は貰った名刺の会社には存在しない人間だった…)

                  『―私を除けば、2人しか居ないんだから。この部署には小林某なんて輩は居ないわ』

(…全体像は靄の中だ。相変わらず、何がなんだか分からない。けれど、もしかしたら12年前の件も、今回の事に絡んでいるのかもしれない。先ずは知る事だ。知らなければ、何をどうする事も―)

(…僕は未だ捕まった訳じゃない。きっとなんとかなる。やれることがある筈だ…)

「正気?七不思議って―あの七不思議?」

「そう。この学校の。知ってる?まぁ、別に知らないなら…」

「馬鹿にしないで、知ってるわよ」

(…別に、馬鹿にはしてない)

(どうしてそう、攻撃的なんだ…?)

「先ずは、音楽室前の13階段でしょ、動く創立者の石像でしょ―」

(…割とポピュラーなやつだ。小学校の時は、校門前に二宮金次郎像が置かれていたが、ウチの学校には創立者の禿げたおっさんの像が飾られている。噂じゃ二宮金次郎の像は置かれる数が減ってきているらしい…)

「―生物準備室の動く人体模型に、保健室の合わせ鏡―」

(…合わせ鏡はなんだったっけな。別世界へ引き摺りこまれるんだっけ?それとも、未来の自分の死に顔が見える奴だっけか―)

「―音楽室の動くベートーベン、東校舎一階のトイレのヨーコさん…」

(…動くヤツ多いな。てか、トイレの花子さんじゃないんだな…)

(まぁ、色々バリエーションがあるもんなんかな。ウチの中学も、トイレのヤチマタさんだったし…)

「…で、体育館の神隠し」

「体育館?」

「そ。夜の体育館に行くと、そこは別の空間に繋がっている。飲み込まれると二度と戻って来られない」

 ―良くある話よ、と馬鹿にした様に、彼女は鼻で笑う。僕は彼女に同調する様に微笑んで、彼女の話を聞いている。

(…どうやら、彼女は12年前の事は知らないらしい)

(結構有名な噂だ、って話だったけど。まぁ、女子が皆、噂話に詳しい―ってのは、偏見か…)

(男の子はこういう話、興味無い―ってくらいのね。柏木なら何か知ってるかな?あいつ、結構ミーハーだから…)

(―でも、体育館か…)

(火の無い所に煙は立たないっていうし。もしかしたら、12年前に神隠しにあった子は、体育館で消えたのかも…)

(…はは、渦中の噂の人物が、『それ言うか?』って感じだな…)

(火の無い所に、ね…)

(…クソ)

「荻野?」

 ―彼女が言う。僕は我に返って、彼女を見る。彼女は呆れた顔で僕を見ている。

「―話はそれだけ?」

「うん。…あれ?そう言えば、七不思議って七つ全部知っちゃ、駄目なんじゃなかったっけ?知ったら、ほら、死ぬとか、不幸になるとか…」

「知らないよ、そんなルール。別に良いんじゃない?私はまだ死んでないし、別に不幸にもなってない」

 それどころか―!と、彼女は階段の踊り場で再び喜びに飛び跳ねる。僕は思わず笑う。凄いもんだ。今を全力で生きてる、って感じがする。

(…僕と同じ位の体力の癖に。5、6限目の体育、大丈夫か?ぶっちゃけ、僕はもう見学したい勢いだ。昼食も食べ損ねて…)

(…僕には真似出来ないスタイルだな…)

「―ご免、引き留めて」

「じゃ、あたし、行くから。何か分かったら、連絡するよ」

「りょーかい。こっちも、柏木との件、考えておく」

「―良し。言ったな?考えておくだけじゃ駄目だからな?絶対だからな?」

 彼女は僕を指差して、念を押す様に何度も繰り返す。目が必死さでギラギラと輝いている。僕は階段の上で苦笑を浮かべ、首の座らない赤子の様に、ふらふらと曖昧に頷く。

(…クソ、こっちも難題だな。頭痛の種が、ふたつに増えた…)

(こっちの種は、僕を人生のどん底に連れていったりしないけど―けど、よりにもよって、この僕を恋のキューピッドに選ぶだなんて。相原―人には、向き不向き、ってのがあるんだぜ?)

(上手く行く、上手く行く様に―ね。二人して、裸で更衣室にでも閉じこもれば良いんじゃないか?男子高校生なんて猿だよ、サル…)

(あ―でも先生に見つかるか。もういっそ、どっちかの部屋かラブホに…)




 ―ジョンの散歩に出かける。

 針の筵の様な高校生活から帰宅後。宿題や、その他なんやかんやを終えて、時刻は大体17時頃。

 母さんが僕を追い立てる言葉に、いつもの厳しさや辛辣さは無い。もしかしたら、何か感付いているのだろうか、と思う。母親というのは、時にエスパーみたいにこっちの考えを見透かして来るものだから。隠して置いた酷い点数のテストの用紙や、内緒で買い込んだ新しいゲームハードや、失くしてしまった新品のスニーカーの片方を持って、いつの間にかこっちの背後に立っている。母親とはそういうものだ。

(…世間にゃ、寝ている間に息子の思考を吸い上げる装置でも流通してるんじゃないかね?時々、偶に本気でそう思うよ…)

 リビングで母さんが僕にジョンのリードを手渡す時、TVで丁度5時のニュースが流れる。トップニュースは政治家の新しい収賄の醜聞だ。

「…尚、支倉氏はこの件への関与をきっぱりと否定しており…」

 ―その次に、TV画面一杯に自分の通う高校が映し出される。僕は不意打ちに心臓が止まりそうになる。原稿を読み上げるニュースアナウンサーが情感たっぷりに、では、次は二夜続けて洲央市で起きた、不可解な失踪事件の続報です、と画面の向こうに、真剣な顔で訴えかける様に語りかける。

「…失踪時の状況やその他の情報から、捜査当局は事件としての見方を強めている様です。しかし、未だに身代金の要求も、犯人の声明もありません。犯人の目的は一体何なのでしょうか?この怪事件に怯える街の人の声を、取材陣がインタビューしてきました―」

「―あら、アンタこれ、あんたの高校じゃないの?」

「え?ああ、ホントだ」

 有らん限りの気力を掻き集めて、僕は平静を取り繕う。じゃ、僕散歩行って来るから、とニュースを最後まで見ずに、直ぐ様逃げるようにその場を後にする。一歩の歩幅が大きくなり過ぎない様に気を付ける。急いでいる様に見えないように、歩調を意識して遅らせる。

 ―母さんが、TVの向こうと僕を関連付ける事が無い様に、祈る。

「『―ええェ?もうホント怖いっていうかァ、早く犯人に捕まって欲しいっていうかァ―』」

 ボイスチェンジャーで声音を替えられた、間抜けなキンキン声が聞こえる。明日、あのTVのニュースに出てたの俺なんだぜと、得意げに語る輩が教室の中にいるかもしれないと思うだけでうんざりする。

 ジョンの犬小屋の前でリードの金具を鳴らす。

 ジョンは珍しく、金具の音に反応して犬小屋の外に出て来る。ジョンは僕を見て、僕の掌を一度、ぺろりとぞんざいに舐めて、慰める様に、掌を湿った鼻先で押す。僕は思わず苦笑する。どうやら今の僕は、ジョンに気遣われるくらいにショボくれた顔をしているらしい。

「…おいおい、ジョン、お前が素直なのは嬉しいけどな―」

「わふ」

「―お前に慰められなきゃならない程落ちぶれちゃいないぞ、僕は」

 ジョンの首輪にリードを付け、その太い首に戯れに組み付く。ジョンが鬱陶しそうな顔をして僕を見る。サービス期間は終わったとばかりに、リードの方向と逆に身体の舵を切る。

「あ、ウソウソ―ちょっとは気ぃ遣って。この後まだやる事があるんだよ、だから、散歩が早く終わる程、嬉しいっていうか―!」

 最初からそう言え、と謂わんばかりに、ジョンが勢い良く鼻を鳴らす。撓んだリードを手繰り寄せながら、僕は大袈裟に溜息を吐く。全く、何もかも上手くいかない、と思う。食物連鎖の最底辺になった気がする。刑事には睨まれ、疑惑は一切晴らせず、その上、飼い犬にまで馬鹿にされる始末。

「―あのな、こんな事言いたかないけどな、ジョン」

「フン」

「僕、一応飼い主なんだぞ?」

                                  ―わん。

 ジョンが吼える。僕はリードをしっかりと握り、ジョンを引き摺って、いつもの散歩コースに向かう。ジョンがいつも通り、抵抗する様に、リードに力無くがしがしと牙を突き立てる。


「よ」

 いつものコース、いつもの川沿いを、国道を目指して歩く。道中、太陽はまだ高いが、寂れた未舗装の川沿いに、人影は殆ど見当たらない。その未舗装の道端に、あの金髪の兄妹が立っている。

「…ああ」

「『ああ』って。何よ、反応悪いわね」

「いや、うん―ご免。こういう場合、何て挨拶したらいいのかと思って。こんにちは?こんばんは?それとも、吸血鬼特有の挨拶でも―?」

 カミラは呆れた様に溜息を吐く。今日は黒の細身のズボンに、紺の薄手の春物ジャケット、中にワンピースみたいに裾の部分の広がったシャツ、それに、黒の丸いつばあり帽子といった出で立ちだ。

(ああいう帽子、何て言うんだっけな。ベレー帽に、つばを付けたみたいな…)

(確か、フルーツの名前や、銃の名前に似ていた気がする。マスカットとか、マスケットとか…)

(…カスケット?カスケード?キャスケット?)

「―御機嫌麗しゅう真祖様、今宵、不肖アレクセイ、盟約の元、あなたの貴下に馳せ参じました―!」

 アレックスが川端の歩道に跪く。(今日も和装だ。今日は何故か、紅色)地面に片膝を突く時に、路傍に転がる石ころに、勢い良く左膝が衝突する音がする。

(…あ)

(こんなとこで跪くから。いや、こんな所じゃ無くても、外で跪かないで欲しいけど…)

 アレックスは目の前で掌を合わせて一礼し、笑顔を浮かべて僕を見上げる。驚いたと言うか、見事な事に、痛そうな素振りは微塵も見せない。肩が震え、顔色が少し青白く、目元に僅かに、涙が滲んでいる以外は。

(…凄い。ある意味、見上げた忠誠心だ)

(発揮所は、間違ってるけど―)

(―てか、着物って事は、あの裾の下、素足なんじゃ?剥き出しの足に、あれだけ勢い良く、石を―ああ、あんまり考えたくない)

 …地面に、どろりとした血液が一滴、零れるのが見える。痛みを想像してしまう前に、慌てて僕は目を逸らす。

「―まぁ、この馬鹿は置いといて」

(…おいおい、それでいいのか?あんたの兄貴だろ、これ―?)

「うん…」

「大丈夫、放っといたら直ぐ治るから。それより、アンタとの約束よ」

「―うん」

 僕は彼女を見る。彼女は僕の視線を遮る様に、帽子のつばを目深に降ろす。僕はジョンの手綱を惰性で手繰り寄せながら、彼女の帽子の黒色を見つめる。彼女のその色が、拒絶の度合いを示している様な気がして、僕は何となく居た堪れなくなる。意味も無くその場で、何度も足を踏み変える。

「で?あんたの生活の平穏を守る為に、私達は具体的に何をすれば良い?」

「そうだな、ええと…」

 足踏みを止める。足元の小石を、爪先で明後日の方向に弾く。何をして貰えば良いんだろう、と思う。具体的な事は何も考えていなかった自分に気付く。今日の昼頃までは、相原に会って、証言の約束を取り付けたら、一人は警察に行って、情報を盗み出して貰い―出来れば、犯人に繋がる様な情報を、もう一人には、被害者達を探して貰う―もし生きているなら証言をしてくれる筈だし、それに、もう生きて居なかったとしても、真犯人の供述と、相原の証言が、僕を守ってくれる筈だった―が。

(…内部犯―)

 どうだろう。考えが、泥のスープの様にぐちゃぐちゃに渦巻いていて、ハッキリとした形にならない。そもそも、元々の案も、今となっては大分楽観的だった気もするが―真犯人が内部犯なら、相原の証言は意味を成さないし、被害者達も―もし生きていたとして―内部犯だった場合、碌に顔を見て居ない可能性もある。当然だ、内部の人間が犯人なら、顔を見られただけで、その後に致命的な痕跡を残すことになるんだから。TVに拠れば未だに身代金の要求も無い、犯人の目的が何処にあるのかは分からないけれど―(『うっわ、カワイソ。多分それどっかでもう、犯られてるわ…』)―事が目的なら、素顔を見せる様な愚行はしないだろう。ということは、彼女達の証言が、僕を助けるものになる可能性は低い。

(どうすればいい?どうしたら、僕は…)

 残りは真犯人だが、真犯人の証言だけでは、僕の身の潔白を証明する証拠としては、弱い。だって、身の証を立てるものが、それ一つだけなんだから。庇っている、と思われる可能性もあるし、そもそも犯人が真面目に証言しない可能性だってある。どうせ有罪になるんだから、面白半分に他人を巻き込んでやろうと言う気分になったって―そういう、捨て鉢な気分になったって、おかしくない。そして、そうなった場合、僕にはその渦から逃れる術は無い。

(内部犯―内部犯だって?)

(畜生、あの狐…)

(…未だ終わった訳じゃない。信じるんだ。相原があの子を見つけて、あの子が、13日の僕の放課後を証言して―それと、犯人の犯行時間が重なっていれば。尚且つ、犯人と僕の接点が薄く、犯人が事実だけを証言して―)

(…ハハ。どれだけ薄い線なんだ、それ―?)

(宝くじでも買った方がまだマシだ…)

「―オギノ?」

「あ?ああ、悪い悪い、ボーっとしてた―で、なんだっけ?」

「あなたとの約束を―ねぇ、あんた、大丈夫?」

 カミラが帽子の縁から心配そうな目を覗かせる。僕は笑みを浮かべる。のっぺりとした、平坦な笑みを。昨日こいつらに食べさせられた、12匹の王の欠片の事を思い出す。そんなに大層なものが僕の内側にあるっていうんなら、僕に力を貸してくれたらいいのに、と思う。正気で居ようとする僕の支柱を折って欲しい。僕を狂わせて欲しい。この女を殺して、間抜け面の兄貴を殺して、相原を殺して、あの狐目の刑事を殺して、犯人を殺して、この町を粉々にブチ壊して欲しい。何もかもを津波で押し流して欲しい。何もかもを串刺しにして叩き割って欲しい。僕を見て嗤う奴らを、全員断頭台の端から並べて―。

「お―…わぁ!真祖様―!?」

 ―声が聞こえる。僕はそちらを見る。そこには、未だアレックスが、未舗装の川端に跪いている。

 そこに、ジョンが覆い被さっている。

(…?)

「ええい、止めろ、汚らしい獣め、俺の高貴な顔に―ああ!真祖様助けて下さい!唾が臭い!」

 ―川沿いに片膝を突くアレックスの、肩に両の前足を乗せて、ジョンがアレックスにじゃれついている。興奮した様に、鼻面を擦りつけ、顔を舐め回し、尻尾を振り、上機嫌に吼え声を上げる。

「私を誰だと思ってる!?私は始祖8位、“忠実なる守護者”エーデルシュタイン家に仕える―あ、この、止めろ、臭い!いい加減、私の顔を舐めるのを止めろ―私が高貴過ぎるのがいけないのか!?私があまりにも高貴過ぎるから、私の顔から上質な味が―ああ、もう!止めろ、ホントに!」

 僕はそれを見て、自分の手元の伸び切ったリードを見て、それから、カミラと目を合わせる。カミラは苦虫を噛み潰した様な眼をして僕を見ている。

 僕は思わず笑ってしまう―アレックスには悪いけど。

(ハハ、い、い、犬に負ける吸血鬼―)

(世界広しといえども、吸血鬼に勝った犬は、ウチの犬が初めてじゃないか―?)

(唾が臭いって―ふふ。なんだよ、高貴過ぎるから、顔から上質な味がするって?ホント、こんな田舎町で、なにやってんだ、こいつら―?)

 見かねたカミラが首輪を掴んで、片手でジョンを、あっさりとアレックスから引き剥がす。ジョンに怯えるアレックスが、生娘みたいに着物の裾を綺麗に直して、荒れた川沿いの道をしずしずと後退りする。僕はその様子を見て―又笑い出さない様に、しっかりと臍を噛む。弱々しく暴れるジョンを、カミラがそっと地面に下ろす。ジョンはカミラに不機嫌そうな目線を向けるが、その場に座り込んで、唸り声を上げるに留まる。

「し―真祖様。恐れながら―」

「はい。なんです?」

「―そ―その獣、その恐ろしい獣の、手綱をしっかりと握っていて下さいませ―流石は真祖様に仕えるしもべ、そ奴は恐ろしく凶悪ですぞ―!」

「はい、はい。具体的には、どんな所が凶悪なので?」

 アレックスは、考え込む様に目を落とし―立ち上がり、裾を払い、ジョンの涎塗れの顔を袖口で拭う。

 その袖口を見て、今更気付いた様に、アレックスは僕を見て、真剣な顔で、言う。

「唾が―唾が臭いんです、物凄く」

 ―僕は爆笑する。カミラが僕の頭を、後ろからスパン、と叩く。

「…あんまウチの兄貴虐めんなや」

「ああ、ご、ご、ゴメ―ただ、あまりにも、ちょっと―真面目な顔で言うもんで」

「気真面目なのよ。そこを買われて、今回の任務に就いたんだから…だから、あんまりからかわないであげて頂戴」

「ああ、ゴメ―ご免。ヒィ、ヒィ、その―」

 カミラが帽子のつばを上げ、おもしろくなさそうに僕の方を眺める。僕は笑いの発作が治まるまで、暫くそこで腹を抱えている。アレックスが、何が何だか分からない、という顔で、困惑したように僕とカミラを交互に見比べる。ジョンがすい、と腰を浮かして立ち上がる。アレックスがそれを見て短い悲鳴を上げ、素早くその場から離れる。僕は笑う。気の済むまで笑う。

 …僕の笑いが枯れた頃、それを見計らった様に、カミラが僕に声を掛けて来る。

 彼女は、仕方ないな、という様に微笑んで。

「…何かあった?」

「え?」

「明らかにこの前と様子が違うもの。この前はもう少し、お喋りだった。ね、何があったの?私達は未だ力になれる?それとも約束が果たせなくなる位、大きな障害?」

 僕は彼女を見て、ジョンを見て、遠く、国道側まで行ってしまった、アレックスの方を眺める。ジョンが後を追う様に歩き出す。僕を振り返って、最近ではめっきり減ってしまった、僕を先導する様に手綱を引っ張る仕草を見せる。僕を呼ぶ様に吼え声を上げる。張りのある吼え声を。

 …僕は口元を撫でる。カミラを見る。彼女はまた、目元を隠す様に、帽子を目深に被る。

「―歩きながら話すよ。聞いてくれる?」

「ええ。どうせ、あの馬鹿も追いかけなきゃだし」

「実は、困った事になっててね。この前約束した時より、更に困った事に…」

「はぁ?約束した時より―って、約束したの、昨日よ?昨日の今日で、更に問題が悪化…って、あんたどれだけトラブルメーカーなの―?」

「…僕の所為じゃないよ。そうじゃない―と思いたい…」


「成程ね」

 国道沿い。押しボタン式の信号の支柱に凭れかかって、カミラが納得した様に言う。4車線ある車道を、珍しく多くの車両が行き来する。アレックスは僕達からたっぷり2mは離れて、僕達の話を聞いている。僕はジョンのリードを限界まで短く巻いて手元に握る。ジョンは跳ね回るスーパーボールを追いかける時みたいに、時折機敏な動きを見せ、頭を左右に振る。その度にアレックスが悲鳴とも唸り声とも判別の付かない声を上げる。

「―つまり、内部犯の可能性が出て来た所為で、予定していた証言の一つが駄目になったと。その上、もう一つの証言も、証人が何処の誰か分からない上に、あんたの白を確実に示すものではない」

「…と、いうことは、つまりどういうことだ、カミュ?」

「『クソヤバい』って事よ、クソ兄貴」

 僕は苦笑する。車道の縁で、なるほどなぁ、と妙に感心したように頷くアレックスを見て、僕は肩の力が抜ける。いまいち僕の危機的状況を理解していないアレックスに、少しは腹の立つ部分もあるにはあるが、その暢気な部分に救われた様な気分にもなる。思えば、一昨日くらい、あの狐目に尋問を受けてからこっち、一人で気の休まる暇も無かった―潰れない様に気を張って、一人で内側に抱え込んで。誰かに相談すると言う事は、それだけで意味のある事なんだな、と僕は実感する。

(…それに、あんな感じのお兄ちゃんでも、あの歳まで立派に生きていけてる訳だし)

(確か、110―何歳だっけ、この前、口走ってたよな、ウチの玄関で)

(…いや、あんまり立派ではないか)

「でも、それなら―尚更、こうすればいいのではないですか?」

「…何?」

「我々のコミュニティへ来るのです。我々吸血鬼の、《共同体コミュニティ》へと」

 僕は微笑を浮かべて、直ぐ様首を横に振る。ジョンが舌を垂らして、間抜け面で僕の顔を見上げる。僕はジョンの頭に手をやり、少し撫でる。珍しくジョンは僕の手を振り払わない。大人しく、されるがままになっている。

「…どうしてです?吸血鬼のコミュニティ内なら、人間社会での罪状なんて瑣末なことですし、それに、あなたは《王》だ。いずれ、あなたは我々の元に来られる。天地の全てを司り、神魔の全てを支配する、あなたは―」

「―母さんが」

「?」

「ひとりになっちまう。僕が出てったらさ」

 ジョンの頭から手を離す。アレックスの顔を見られない。堪えていたものが、吹き出しそうな気がして。

「…ウチは母子家庭なんだ」

 ―信号の変わる音がする。僕は音に引き摺られる様に歩き出す。ジョンが僕の傍らについて、僕の手の甲をちろちろと舐める。正直、擽ったい。擽ったくて、笑い出しそうになる。

「ちょっと、止めてくれよ、ジョ―」

                                  ―バン。

 思い切り背中を叩かれる。吃驚して、心臓を吐き出してしまいそうになる。物凄い力だ。ダンプに衝突でもされたのか、と思う。慌てて周囲を見渡すと、ジョンが居るのとは反対側、左の傍らに、カミラが立っている。吸血鬼の力で、手加減なしに―やったら、僕の上半身が吹き飛んでるだろうから、一応手加減はしてくれたんだろうが―背中が酷くヒリヒリする。火傷と擦り傷の中間みたいな感覚がする。こりゃ暫くは、風呂に入るのに苦労しそうだな、と考える。

 黒い帽子に隠れて、彼女の赤い眼が鈍く光っている。帽子に半分くらい覆われて、彼女の表情は良く分からない―が、彼女が何か、奇妙な表情をしている事だけは、分かる。奇妙なというか、不思議な、というか。彼女は怒っている様に目を細めて僕を睨み付け、牙が見える程歯を剥き出して、口元に笑みを浮かべている。

 僕は彼女に背中を押されて信号を渡りながら、彼女の表情の意味をぼんやりと考える。幾ら考えてもそれが正解かは一向に分からない。怒っている様な、笑っている様な―腹を立てている様な、楽しそうな、獲物を狙っている様な、退屈を紛らわす玩具を見つけた様な―。

「任せといて」

「?」

 ―彼女の声には力が籠っている。やる、と決めた事を必ず成し遂げる様な、決意と自信に満ちた、確固たる力が。それが僕を益々困惑させる。

「―約束は必ず守るわ。ね、兄貴?」

「あ、ああ、勿論だとも、カミュ。我々吸血鬼は、約束を違えたりしない。誇り高き―」

 ―それだけ言うと信号を越えて、ずんずんと彼女は進んでいってしまう。僕は横断歩道の終わりで立ち止まる。後ろからアレックスが、僕らの背中に追い付く(すかさずジョンが飛びつこうとする―彼はそれを、僕の背に隠れてやり過ごす)。僕らは顔を見合わせ、互いに首を傾げる。

(…でも、もしかしたら―)

 彼女の言動を思い出す。彼女の言動の内、幾つかを。

                      『…あんまウチの兄貴虐めんなや』

     『―全ての同胞の命が賭かっているのよ。全ての転化吸血鬼達の命が!』

                     『心臓に。心臓に誓って。私達の―』

(―もしかして、彼女)

(…身内に割と、甘い性質なのか?)

(だから、同じく身内を気にする僕を見て―少しだけ約束に、真剣になった、とか)

 ジョンが軽く欠伸をする。僕は慌ててジョンのリードを引いて、彼女の後を追う。ジョンから身を守る盾にする様に、アレックスは僕にぴったりと張り付いて、必死の形相で僕に並走する。


「―で?」

「…と、いいますと?」

「作戦は決まった?」

 ―先を行くカミラが、僕にそう尋ねる。僕は立ち止り、言葉に詰まって俯く。ジョンが僕の傍らで、アレックスを探してキョロキョロと周囲を見回す。そういえば、最初はそんな話だったなぁと、僕は彼女の言葉に現実に引き戻される。

 …駅前の、彼らの駐留するマンション、『フェリス福比良』を通り過ぎて、駅の構内を、北に抜けて。

 駅の裏手の坂を上がる。裏手は急勾配の住宅街になっている。そこの住宅街の内側に、ここいら辺で一番大きな公園がある訳だ。駅の裏手には、駅の近くのスーパーへの買い物客以外、人通りは殆ど見当たらない。ジョンが坂道に差しかかると、露骨に不機嫌そうに唸り声を上げる。僕はその背中を擦り、なんとか宥め賺しながら、坂道を上がる。

「作戦…」

(あれ、そういや、アレックスは…?)

(もしかして―帰ったのか、あいつ?犬が嫌過ぎて―)

「…そもそも、元はどうする積りだったの?」

「え?」

「証言が駄目になる前よ―未だ、外部犯の仕業だと思ってた頃。アイハラの証言が無駄になる前」

「無駄になる、前は…」

 僕は立ち止まる。霞が掛かった頭で、何とか思い出そうとする。ほんの数時間前の事の筈なのに、何もかもが遠い昔の事の様に感じる。ここ数日で、一気に老けてしまったかのように思う。実際そうなのかもしれない。酷く疲れている様な感じがする、体も、心も、頭の中も。まだ何とか出来る、何とかなる筈だ、と思う自分がいる半面、それを遥か彼方から眺めて、付いてけないと冷笑する自分が内側に居る事にも気付く。これからどうなったって構わないし、何人だって攫われてしまえば良い。僕を逮捕したけりゃすればいいんだ。ニヒリズム的な開き直りを以て、そいつが頭の隅から嘲笑う様に足掻く僕を見ている。ジョンが僕の手首を引っ張る。僕は限界まで巻いたリードから軽く手を離して、それをジョンが解くままに任せる。

(前は…)

(何だったっけ。もういいや。疲れた…)

(―駄目だ。弱気になるな。こいつは味方だ。それに、他にも手伝ってくれる奴がいる。僕が一番最初に諦めてどうする?僕は未だ捕まった訳じゃない…)

(きっとなんとかなる。何とか出来る筈―)

「警察署に―」

「うん」

「―忍び込んで貰おうと思ってた」

「…それはまた、どうして?」

「情報が必要だからだ。何をするにしたって、情報が。犯人の情報が一番だが―被害者の情報もあれば助かる、彼女らが僕の無罪を証言してくれるだろうから―だろうと思っていたから」

「…」

 僕は彼女を見る。彼女は無言で、帽子の影から僕の方を見ている。僕は顔が歪むのを感じる。胸の内が苦しくなる。既に使えなった計画を、こうやって語るのは、キツい。それに期待していた事を思い出すから。それが駄目になった瞬間が、こうやってありありと蘇るから。

「―犯人を先に見つけ出して、こっちで先に確保すれば、身の潔白を立てる、何よりの証になるだろう。僕一人じゃ無理でも、大人の人間一人捩じ伏せるくらい、吸血鬼なら容易いだろうし―被害者がそれに付いて来るのなら尚良い。心証的には、更に無実に傾くし―僕には何一つ身に覚えが無いんだから、彼女達が何を証言しようとも、僕にマイナスになる事は無い」

「…結構、冷たいのね」

「自分の身が賭かってるからね。あんただって自分のが全部、テーブルの上に賭けられてるとしたら、どうしたって、それなりに合理的になると思うよ」

「そうね―まぁ、確かにそうかも。あなたの言う通りかもね…」

 そう言って、帽子を直して、彼女は頷く。そして、笑って、言う。

「―ま、でも、その計画、そのままじゃどっちにしろ使い物にならなかったけどね」

(………………)

「え?」

 ああ、痛―と傍らから悲鳴が聞こえて、慌ててそちらを振り向くと、電柱の陰に隠れているアレックスの太腿に、ジョンが思いっきり牙を突き立てている。アレックスが涙目になりながら、ジョンの口の中に手を入れて、無理矢理顎を抉じ開ける。ああ、こら、そんな変なものに噛み付くんじゃありませんと、僕は慌ててリードの先を手繰り寄せる。

「ふ、ふ、よくぞ見破ったな、獣―種族は違えど、流石は同じ真祖様にお仕えする、金色の霊獣よ。我が身を何者からの視野よりも隔絶する、《不可視》の魔術を打ち破るとは―!」

「あの、ほら―犬は嗅覚が鋭いから」

「―む。そうか―成程。そこには考えが至りませんでした。流石は御慧眼です、我らが真祖様―!」

(…馬鹿にしてんのか?それとも、馬鹿なのか…?)

 リードを引き寄せ、ジョンの首根っこを押さえる。ジョンは不満そうに頭を振る。その首振りにふらふらと重心を揺さぶられながら、僕は坂の上のカミラの方を向く。

「どうして―こら、ジョン―使い物にならないんだ、この計画?自分で言うのも何だけど、良いプランだと思うんだが―」

「そうね、悪くない案だと思うわ。あなたを無実にするという一点に於いては、特に」

「だろ―?」

「―そもそも、計画の頭を、始められないという点を除けばね」

「…はぁ?」

「真祖様―」

 太腿をさも痛そうに擦りながら、アレックスが電柱の陰から、一歩前に進み出る(ジョンの唸り声で半歩後退する)。ジョンの方を警戒する様にチラチラと見ながら、アレックスは僕の方を向いて、非常に言い難そうに、切り出す。

「あのォ、真祖様は、記憶の大半が戻られていない状態なので、お忘れかもしれませんが―」

「忘れちゃいないよ。元から知らないんだ。何?」

「―吸血鬼は種族的に、様々な弱点のある生物なのです」

 僕はジョンの首根っこを押さえたまま硬直する。又これか、と笑う。平衡感覚が揺らぐ感触。望んでいた事、期待していた事が簡単に、あっさりと打ち砕かれる様な感覚。その言葉の先を聞きたくない、と思う。耳を塞ぎたくなる。ジョンが僕の重みに耐えきれず、地面の上に伏せってしまう。急勾配の上に寝そべったジョンが、ズリズリと数センチ、坂の下へと滑っていく。

「待って」

「―流れる水の上や、川の上は通れません。船を使っても厳しくて―止むを得まい時は、昔は船倉や柩の中に隠れて、見つからない事を祈りながら移動したと聞いています。今では飛行機がありますが―それでも、墜落したら、ほぼ死ぬしかありませんからね。洋上墜落なんて最悪です。好んで海上に出る吸血鬼なんて、今でも殆ど居ません―」

「待って、待て、待てアレックス」

「―ニンニクは苦手です。まぁニンニクに限らず、臭いのキツいものは、吸血鬼には大抵好まれませんが。人間に比べて、五感が鋭敏に発達している所為です。ですから、酷い体臭や息で、吸血鬼を退治しようとしたヴァンパイアハンターの伝承や、家の周りに糞尿を撒いて、吸血鬼を遠ざけようとした女性の話が残っているくらいです―」

 僕の静止も耳に入らず、アレックスは吸血鬼の種族的性質について、話を続ける。ジョンが興味を無くしたみたいに、アレックスから視線を外す。僕は立って居られなくて、ジョンの隣に膝を突く。自分でも、何がこんなに不安なのか分からない。それでもこの予感と、彼ら兄妹への第一印象が、決して間違ってはいないんじゃないかという、悪夢の様な確信だけが僕の内にある。

「―十字架は別に平気です。これが苦手なんだろ、と見せられる事、結構ありますが。でも、銀と聖水は駄目ですね―銀は魔素の流れを妨げますし、聖水は遮光用の防護膜に穴を開けやすいんです―繊細な魔力操作を要求されるので、その分、不純物への反応が激しいんですよ―夜なら別に平気ですけどね。水は血液に通ずるものがありますし、少量なら、寧ろ操り易い部類です」

「…」

「後は―日光が苦手です、魔力を用いた遮光膜を作らねば焼け死にます。夜に力が増す分、日光にはとことん弱いですね。朝日が一番キツいです。偶に防護膜を貫通します…それで何年かに一人、教育過程の吸血鬼が死んだりします。ええと、その、他には…」

「閉鎖された建物には、招かれないと入れないの」

「―あ、こら、カミュ!」

「お前ら…」

「―良いじゃない、兄さん。隠す事無いでしょ?」

 帽子を脱ぎ、くるくると指の先で回しながら、カミラが言う。何故だか少し、楽しそうに。

(成程、そう言う事ね…)

(Sっぽい笑み。こいつ、絶対拷問とか好きだろ…)

(第一印象は間違って居なかった。この兄妹は僕の手に余る。僕の、キャパシティの…)

「廃墟や、公共の建物なら大丈夫なんだけどね。人が住んでいたり、往来する職種が限定されている建物は、入るのが難しいわ。空いた窓からとかなら、コッソリ忍び込むことも出来るけど―大方の力は制限されるでしょうね。多分、人型には戻れないわ―虫や、良くて鼠位にしかなれない。昔、そうやって小蠅になって、人間の女性宅にばっかり侵入していた吸血鬼が居たの―そいつ、どうなったと思う?」

「さぁね。聞きたくない」

「―小蠅の姿のまま、新聞紙で女性に叩き落とされたの。魔力も使えずに、そいつはそこで、そのままご臨終」

「…まぁ、そいつにゃ悪いが、悪くない結末だな。潰した小蠅が元のサイズに肥大化したり、魔術で反撃してきたりしたら、言っちゃなんだが、女性が可哀想だし…」

「まぁね」

 カミラは嬉しそうに言い、そして笑う。帽子を手の中でくるくると回し、それをそっと頭の上に乗せる。僕は頭を抱えてその場に蹲る。溜息も出ない。アレックスが、僕の顔を恐る恐る、覗き込む―覗き込もうとする。ジョンが小さく吠え声を上げる。アレックスが素早く飛び退く音がする。

「お前ら―」

「私は御免だよ?あんたと確かに約束はした。けど、あんたの為に小蠅になって、誰かに潰されてやる積りは毛頭無い」

「―な!?わ―我が妹ながら、不敬な―王、我らが真祖様、我らが“骨の王”よ、不肖、このアレクセイの命をお使い下さい―このアレクセイめが、あなたの命なら、何年掛けても、必ず必要な情報を揃えて見せましょう。我が身命の全てを賭して、あなたの為に、この身を小蠅に窶し―!」

「…だから、何年も掛けたら駄目なんだよ、兄さん。話聞いてた?それに、ちっちゃな体じゃ情報収集には向かない。話を聞くくらいしか出来ないからね。それに兄さん、サイより小さな生物になれないでしょ―?」

「…そんな事無い」

「変な見栄張らないで。飛ぶ時だって、いっつもコンドルじゃない」

「―なぁ、おい、お前ら、お前ら、お前らよ―」

 顔を上げ、手を振り、二人の注意を惹く。吸血鬼兄妹の赤い瞳が、揃ってこちらの方を向く。僕は彼らに対して、初めて疑念を抱く―彼らに対して、彼らの、種族に対して。吸血鬼という種族に対して、今まで抱く事の無かった、抱く必要も無かった、抱く可能性も無かった、ある懸念―。

「―なぁ、お前ら。お前らさ、一体、何が出来るんだ…?」

 吸血鬼の兄妹は、互いに目を見合わせる。そして申し合わせたように僕の方に目を向けて、言う。

「「―戦闘?」」

 僕は泣き笑いを浮かべる。全身の筋肉が弛緩する。(吸血鬼の、協力を―)地獄で蜘蛛の糸を掴んだと思ったら、それが出店のヨーヨー釣りの釣り糸で出来ていた様な気分だ。(…吸血鬼に何が出来るか、調べるべきだった―)咽の奥から絞り出す様な、か細い呻き声がする。心配そうな、ジョンの鳴き声が聞こえる。冷たい舌が僕の頬を撫でる。僕は思い切り、その首を抱き寄せる。

(…この兄妹は僕の手に余る。僕のキャパシティの埒外の存在だ)

「―ああ。僕の救いはお前だけだよ、ジョン―」

「あら、失礼な」

「―吸血鬼が、こんなに役立たずだとは思わなかった―」

「―な!?し、し、し、真祖様、待って下さい、我々にチャンスを下さい!挽回のチャンスを、何ぞと、我々に御慈悲を―!実はここに控える我が愚妹、変身は大得意で―!」

「―だから、私は嫌よ、兄さん。そもそも私、小さい生物になるのは嫌いなの。身体の周りに四角い壁が出来たみたいで、滅茶苦茶息苦しいし」

「…それに、情報収集に手間取っちゃ、意味無いしな。元からこの作戦はきつかった訳か。ええと、情報が欲しけりゃ、警察署に、向こうから招かれる必要がある―?どうすりゃいいんだ?犯罪行為でも働くか?」

「あんたを無罪にして、私達がこの地で、安全に王の欠片を集める拠点を作る為に?誰が捕まるの?私はお断りよ。この地に安全な橋頭保を築く為にも、私達はここで、当局に睨まれる訳にはいかないの。じゃあ、あんたが捕まる?」

「ううん…」

「ああ、先祖の霊よ―我がエーデルシュタインの英霊たちよ、私は一体、どうすればいいんですか!?我らが真祖の命に報いる為、偉大なる先霊達よ、どうか、御導き下さい―!」

「―どうもせんでいい」

「―どうもしなくていいよ」


「…まぁ、でも、“情報を集める”ってのは、悪くない作戦目標ね。状況がどうなってるのか把握も出来るし、手持ちの札と比べて、次善の策も立てやすくなる。それに、その為に捜査当局を狙う、ってのも悪くないわ。情報の集積位置から、手っ取り早く必要なものだけを奪う。プランが分かり易いし、それなりのリターンも期待出来る。何より、いい度胸だわ」

「…そりゃどうも」

 公園の冷えて罅割れたプラスチックベンチの、真ん中に腰掛けてカミュが何処か楽しそうに微笑んで、言う。僕は端っこに座って、彼女の言葉を話半分に聞いている。閉塞感に息が詰まりそうになる。一つずつ、足を捥がれていく様な感覚に、堪らなく悲鳴を上げたくなる。

(…小林、某なんて雑誌記者、存在しない…)

(外部犯ではない。相原の証言は使えない。僕の無計画性を証明しても、意味は無いだろう。それ所か、僕の無軌道性、逸脱性を証左する、不利な証言として採択されかねない…)

(吸血鬼共は、思ったより不良品ポンコツだ。厄介事を囲い込んだだけだった。資格も無いのに面接に来た奴に、間違って合格通知を送ってしまった様な気分だ…)

(…ああ、厄介事と言えば、もう一つあったな。相原だ。相原を、柏木に紹介する件。あああ、どう言や良いんだろう、適当な理由で納得してくれないだろうか、『よう柏木、ここに映画のタダ券があるからさ、二人で行ってこいよ!相原と一緒にさ―ヒューヒュー、御二人さん、お似合いだぜ?ヒューヒュー』)

(―あのさ、もうこれ、人生詰んでね?)

(嫌だ、もう学校行きたくない…)

(…いや、僕は未だ捕まった訳じゃない。きっとなんとかなる。何とか出来る―)

(―出来る―よな?)

 ―公園。

 この辺の地域では、一番大きな児童公園だ。小学校の校庭を、半分に切って張り付けたみたいな公園。遊具も酷く疎らで、数も3つ4つ程しかない。ブランコと雲梯と、滑り台と…砂場。それが等間隔に、外周に広く設置されている所為で、パッと見、物寂しい印象を受ける。その所為だろうか、いつ来てもあまり人で賑わっているという印象は無い。時間帯によっては、幼稚園以下の子供を持つ主婦達の溜まり場になっているが、僕はこの場所の、そこが気に入っている。

 僕は公園に入り、遊具の近くに置かれているベンチのひとつに腰掛け、ジョンの鎖を外し(アレックスが血相を変えるのが視界の端に見える―勿論僕の知ったこっちゃない)…飲んだくれたおっさんみたいに、ベンチの背に思い切り凭れて、天を仰ぐ。アレックスの悲鳴が聞こえる。出立時間が遅かった所為か、公園の中には他に誰も居ない―公園内でのジョンの粗相を片付ける時、いっつも突き刺すように僕を睨んで来るおばさん集団も、遊ぶのに夢中で5時のサイレンが聞こえなかった子供達も、日が沈むと共に何処からともなく集まって来る、人を値踏みする様な眼をした、不良っ子たちの集団も。

(有難い…)

(今日は、一切の余裕が無い。他人に割く余裕が。誰かに絡まれたりしたくない…)

(溺れそうだ。自分の事で、手一杯なんだ…)

「クソ―この、獣、意外とやるな、この俺に追い付くとは―だが、ここからは、我々の時間だぞ―?覚悟は出来てるか、おら、もう直ぐ日没だぞ?」

「―ワン―」

「―待て。おい、待て!少し待て、おい、聞いているのか、獣!もう少しと言ったろう?もう直ぐ日が沈む、それまで待て―ああ!臭い、手を舐めるな―顔も舐めるな、止めろ、顔は止めろ、顔の方が駄目だ―待て、お願いだ、後10分、15分…30分程―!」

 アレックスの悲鳴が聞こえる。僕は公園のベンチからボーっと追いかけっこをするアレックスとジョンの様子を眺める。あんなにはしゃいでいるジョンを見たのは久しぶりだな、と思う。まさか、ああやって走り回る姿をもう一度見られるなんて。(『ああ、止めろ獣、真祖様に賜った履き物を―ジャパニーズ・トラディショナル・ゲタを!貴様、自分が何をしたか、本気で分かっているのか?もう許さんぞ―!?』)最後にあんな姿を見たのは何時以来だろう、と考える。

(…確か、僕が中学校に上がる前―)

(―あの頃は、ジョンも未だ元気だった。いっつもはち切れんばかりに尻尾を振っていて、散歩のリードを持っていくと、我先に飛び出していってたっけ。僕はいつも置いてけぼりだった…)

(散歩に行く度にパワー負けして、引き摺られて。毎回、膝小僧擦り剥いて…)

(…でも、僕が転んで蹲ってると、いつだって直ぐに引き返して来てくれた)

(そして、僕の膝小僧を舐めて、何処と無く申し訳無さそうな顔を―)

 ―目元を押さえる。泣き出しそうな自分に戸惑う。そのまま額を抑える。現実逃避は止めろ、と自分に言い聞かせる。

(…どうする?どうすればいい?一体どうしたら―)

(―何か名案がある筈だ。きっと僕が気付いてないだけで、全部が丸く収まる素晴らしい名案が―)

(…僕は未だ捕まった訳じゃない。きっとなんとかなる。何とか出来る筈だ―)

「―決まりね。その線で行きましょう」

「はぁ?何言って―」

「警察から情報を盗むの」

 …僕は呆れた顔をしてカミラを見る。彼女は何故か笑っている。両手をポケットに突っ込んで、何処か悪戯っぽく、そして心底楽しそうに。

「…正気かよ?」

 ―押し潰した様な低音で、僕は言う。その笑顔が癇に障る。精一杯、我慢した積りだったが、それでも自分の声が、彼女を咎める様な響きを帯びるのを止められない。

「あら、いつだって私は正気よ。兄さんとは違うわ。地図の縮尺を読み間違えたりしないし、自分の靴を忘れたりしないし、犬と追いかけっこもしない」

「…自分で言ったんじゃないか?招かれてない建物には入れない。どうやって警察署から―」

「―警察署に入るなんて一言も言ってないでしょ」

 彼女は笑う。牙を剥き出して、無邪気に、楽しそうに。僕は彼女を見る。徐々に目を見開く。

(警察署に―)

(情報を、盗む)

(―?入らずに、警察署から、必要な情報を―)

 彼女は人差し指でこんこん、と額を小突く。そして、言う。

 ―心底楽しそうに、牙を浮かべて。

「…『警察』から、情報を盗むのよ」

 僕は彼女の目を見る。きらきらと猫の様に夕闇で輝く、赤い瞳を。僕は空気が―。

           『鍵が掛からない金庫に情報を仕舞い込む様なものじゃ―』

                    『鍵の掛からない金庫は要らないの―』

 『―魔術耐性の無い人間から、情報を引き出す手段は本当に幾らでもあるのよ?』

              『―勿論、耐性のある人間から、引き出す方法も―』

              『―ま、でも、その計画、そのままじゃどっちにしろ使い物にならなかったけどね』

 ―空気が抜ける様な笑い声を上げて、ベンチの上にぺしゃんこに凭れかかる。

 ぐったりと脱力したまま、弱々しい声で彼女に尋ねる。

「…騙したな?」

「心外ね。騙したつもりは無いわよ。ただ、言わなかっただけで」

「…成程な。別に、警察署には入れなくたって、知ってる奴の頭から情報を抜けば良い、って訳か…」

「そう言う事。《誘惑》か、《従化》を使うわ。どっちを使うかは当人の抵抗力次第だけど、場合によっては後遺症が残るかも―」

「あ―や、その辺はお任せするよ。どうせ、聞いたって分かんないし。まぁ、あんまり後に尾を引くのは止めてやってくれ。因みに、後遺症ってのは、どのくらい?」

「そうねぇ―当人次第としか言えないけど、一週間くらい二日酔いみたいな感覚に悩まされるとか、眠気が醒めないとか、酷い場合には、幻覚が見えるとか。まぁ、どうしても精神に作用する術だしね」

 少し考える。(二日酔い…?)―考えて、何だか、あんまり大した事無さそうだと結論付ける。二日酔いは、学生の身分じゃ経験しようも無いが―大人達はしょっちゅうなってるし、眠気が晴れないのは、春先には良く在る事だ。幻覚は…流石に見たこと無いが。でも、風邪が悪化した時に見る、混沌とした夢と似た様なものだろう、と思う。僕は彼女に頷いて見せる。

「―分かった。ま、出来れば手加減してやって。出来ればで良いけど。一応、僕の身が最優先だ」

「分かったわ。となると《誘惑》かしらね?でも、厭くまでこちらに気持ちを傾ける術だから、職業倫理がハッキリしてる相手だと、効果が薄くて意味が無いのよね…」

 彼女は困った様に鼻の頭を掻く。僕は笑う。肩の力が抜ける。気持ちが前向きになるのを感じる。

 希望が芽生える。最近じゃ、何度あったか分からない、そして何度手折られたか分からない、なんとかなるかもしれないという、小さな希望の芽だ。

(きっとなんとかなる。何とか出来る。もしかしたら、本当に、そうできるかもしれない―)

(期待し過ぎるな。これは厭くまで、次善の策を立てる為の案だ。大した情報は得られないかもしれないし、これでもし有益な情報が得られたとしても、その先が漸く本番なんだ)

(…これが本物な事を祈る。これが本物の、僕を救う―)

「―でも、どうして黙っていたんだよ?」

 僕は唇を尖らせて、噛みつく様に彼女に言う。カミュはきょとんとした顔をして僕を見る。

(…その顔止めろ)

「なーにが、『その計画、どっちにしろ使い物にならない』だよ?バッチリ出来るんじゃねえか、必要な事が―僕にとって必要なこと、全部がさ」

 彼女は暫く無言で、僕の顔をまじまじと見ていたが…まるで今、その事実に気が付いたという様に頷き、あっさりと一言、こういう。

「サプライズよ」

「おま…」

(…こいつ。さては、真性のサディストだな?)

「―んなサプライズ要らねぇんだよ、気持ちが時化って、喜びの領域まで届かんわ…」

「あら、サプライズはお嫌い?喜んで貰おうと思ったのに」

「いや、好きとか嫌いとかじゃなくてだな、この場合、問題は―」

「…王様はあらゆるサプライズがお好きだったわ」

 彼女は言い、不意に、柔らかく表情を崩す。その表情に咽を塞がれたみたいに、僕は言葉の先を続けられなくなる。

「―誕生日のサプライズパーティーから、玉座の椅子を、上に座った人のお尻に思い切り噛み付く怪物にすり替えるドッキリ、上位始祖達の棺桶の中身に事ある毎にイタズラ、フラッシュモブ、果ては小さなビックリ箱まで。きっと、驚きそのものを愛していたのね…」

「…知らないよ。あんたらの王様の性癖なんて知りたくも無いし、興味も無い」

「そう?あなたの中に入ってるのに」

 僕は彼女を見る。彼女の優しげな眼差しを見る。少し、吐き気がする。彼女の眼が、僕を映して居ない感じがして。その眼差しが、僕に向けられたものではない感覚がして。

 僕は目を逸らす。彼女の瞳の色に気が付かない振りをする。

(僕は違う)

「…入ってるだけだよ。いつか全部、腹の中から出す。あんたらが約束を果たしてくれるなら、あんたらの問題が片付く少しの間だけ、僕も約束通り、こいつを中に預かっているだけだ」

(僕は人間だ。そんな目で見るな。僕の余剰。僕の6年間と少し。僕には僕の記憶がある…)

(僕は荻野祐輔だ―)

「―自分の内側にあるものに興味無いの?」

「自分の中身になんて興味無いね。自分の中身は自分が一番良く分かってるし、他の誰にも見える事は無い。重要なのは外側さ。外側は誰からも良く見える。それが崩れたら、平穏を保てない―」

「―そうね。確かに、そうかも」

 彼女はやけにあっさりと引き下がる。僕は彼女に疑いの眼を向ける。彼女は頬杖を突いて、公園を走り回るジョンとアレックスに目を向ける。微笑む彼女の横顔に、悪意の様なものを感じるのは、僕が捻くれている所為だからなのだろうかとぼんやりと考える。

(僕は人間だ。僕がその骨のなんたらだっていうんなら、僕のこの余剰の6年間はどう説明する積りだ?僕には僕の記憶がある…)

(…僕の余剰。僕の6年と少し。僕の記憶…)

(僕は荻野祐輔だ)

(僕は、荻野祐輔だ―よな?)


「―じゃ、私、今から警察署に行くわ」

「え、もう?」

「なるべく早い方が良いでしょ?善は急げっていうし。それとも、もう少し後の方が、何か都合が良い?あなたに掛けられた嫌疑には、結構猶予があるの?」

 ―カミラが公園のベンチから立ち上がる。彼女の言葉に、僕は少しの間、考えを巡らせる―が、特別、彼女の提案を断る理由は無い。ベンチから彼女を見上げ、肯定する様に僕は頷く。彼女は笑い、帽子を脱いで、自分の顔を隠す。

 辺りは、いつの間にか暗くなって来ている。

 西側を見る。急勾配の住宅街の屋根の群れに隠れて、日光は殆ど見えなくなっている。夜が来たんだ、と思う。帽子で顔を隠した彼女の輪郭が煙の様に揺らぎ始める。僕はベンチに縫い付けられたように座ったまま、痺れる頭で彼女の姿を見ている。理解が及ばないまま、彼女が目の前で人知の及ばない技を使っているのだろうという事を、朧気ながら受容する。

 何かが羽ばたく音がする。無数の蝙蝠が彼女の体から噴き出る。僕は目を閉じる。

「―あのぉ」

 …目を開ける。彼女は何故か未だそこに居る。顔を覆っていた帽子を胸の前に下ろして、当惑した様に声の主を見つめている。

 僕もそちらへ目を向ける。

 そこには、アレックスが立っている。着物の裾はボロボロに、腕と掌には、無数の歯型が付いて―顔と着物の裾は、涎でべとべとになっている。あと、何故か左足が裸足だ。

 …後ろでジョンが、ビーフジャーキーに齧りつく様に、ビーチサンダルに齧りついている。

「話し合いは終わりました?」

「…」

「その、それで、私は―私の役目は、一体、何をすればいいんでしょうか、真祖様?」

 僕はカミラを見る。カミラは、まるで鳩尾に一撃喰らったかのような、苦悶の表情を浮かべている。多分、あれは、しまった、こいつの事忘れてた―という類の顔だろうと、僕はその表情を見て一瞬で察する。

 …何故なら、恐らく僕も、全く同じ顔をしているだろうから。

 彼女が僕を見る。彼女の眼が訴えている。ああ、僕も、もしかして魔法が使えるようになったのだろうか。彼女の言わんとしている事が、何となく分かる。

(何とかしろ)

 僕は左手と左手を垂直に合わせてT字を作り、アレックスから見えない様に左手で庇いながら、胸の前に右手で小さなCの逆文字を作る。親指と人差し指の間の隙間を、何度も押し潰す動きをする。

(少し時間を下さい)

 カミラが小さく頷き、アレックスの方に向き直る。僕はその間に額を冷やす様に手の甲で触れて、必死にアイデアを絞り出そうとする。

「あ―兄さん?私は、警察署に行く事になって―」

「成程な。ではカミュ、俺もそちらに行けばいいのか?」

「う?いや、署には私一人で行くよ。兄さんには、他にやって貰いたい事が―」

「―しかし、お前が小蠅になる覚悟を固めてくれるとはな!あんなに嫌がっていたのに、真祖様の命の為にその身を捨てる、兄は甚く関心したぞ―!」

「―え?いや、蠅にはならない、少し話し合って、もっと簡単に情報を取得出来る方法を―」

(あ)

 ―ぱん、と両手を叩いて、僕はベンチから立ち上がる。吸血鬼兄妹達は、吃驚したように、揃って僕の方を向く。

「―アレックス、君には―」

「―はい、真祖様、何なりと―」

「―ある女を探して貰いたい」

 …アレックスは、僕の言葉を聞いて、右を向き、左を向き、やがて困った様に笑う。

 カミラが素早く僕の傍に身を寄せて、煩いぐらいの小声で捲し立てる。

(ちょっと、オギノ―!?)

(大丈夫、分かってる―)

(―どういう積り、兄さんに、人探しなんて!?兄さん、そういうの、得意そうに見える!?兄さん、多分、東洋人の顔の区別なんて付かないわよ―あなたや他の顔見知り以外は、皆同じ顔に見えるって―)

(―分かってる、そうだと思ってたよ、大丈夫だって)

(―だったら―)

(―他の奴にも頼んだ人探しさ。頭数は多い方が良い。どうせ、犯人の目処も立ってない現状だ―幾ら戦闘が得意っつったって、そこらで暴れて貰う訳にはいかないだろ?戦力を遊ばせとくのも勿体無いし。キミと違って、魔力操作も得意じゃないんだろう?でも、人探しの、それも補佐くらいなら―)

(―だったら―まぁ、いいけどさ…)

「―カミュ?真祖様と、一体何の話をしているのだ?」

「え!?いや、真祖様の頭の天辺に、蜂が留まってるのが見えて―」

「―何だって!?それは大変だ」

「―良いの、大丈夫、もう追い払ったから」

「―真祖様を足蹴にし、愚弄するとは、何と無礼な、知性を宿さぬ卑しき種族よ。直ぐ様そいつを見つけ、塵の一片になるまでその身を撃滅し―!」

「…あー、アレックスくん。君には、蜂では無く、人間の女性の捜索をお願いしたいんだが…」

「は―」

 アレックスは不満そうに跪いて頷き、言葉の続きを待つように顔を上げ、僕を見る。

(不安だ…)

「…その、アレックスくん。君には、ある女性を探して貰いたい」

「―了解しました、このアレクセイ・フォン・アーデンリッヒ・オプト・デボウト・ガルドエーデルシュタイン、我が身命を賭し、全身全霊を以って―!」

「…あー、大丈夫。これ、そこまでしなくていいやつだから。もっとラクーに、肩の力を抜いていこう、ね?」

「は―何と、勿体無きお言葉―!」

 アレックスは首を垂れ、祈る様に両掌を合わせて高々とそれを僕の方に掲げる。僕は困惑して、彼の様子を見下ろす。カミラが僕の肋骨辺りを肘で小さく突き、さっさと話の先を続けろ、と目線で促す。

(…重ね重ね、不安になってきた。この判断は正しかったんだろうか?思えばここ数日の間、僕は沢山の判断を間違って来た…)

「―えー、君には、ある女性を探して貰いたい」

「ある女性とは―もしかして、真祖様の最愛の方ですか!?」

「違います。うえー、その人は、ウチの学校の生徒で…」

「―成程。ステディな関係の御学友で―!?」

「違う。何が成程だ。あー、その女は…」

「―つまり、遊び相手だと?いけませんな真祖様、その様な不誠実なお付き合いは…」

「ちょっと黙っててくれません?」

 カミラが溜息と共に(『おい、止めろ、何をする、カミュ―!』)、後ろから跪くアレックスの口を塞ぐ。僕はホッと息を吐いて(あのままだったら、10年以上放っていない、全力のパンチをお見舞いする所だった―吸血鬼に効くかは兎も角)、アレックスが口を挟めない間に、要項を口にし終えてしまう。

「彼女は数日前から僕に掛かっているこの容疑の、潔白を証明できるかもしれない、今の所の唯一の鍵なんです。彼女を見つけられたら、そして、彼女が証言をしてくれたら、それが僕のを証明出来たなら、僕の平穏は保たれるかもしれない。まぁ、拙い線ですが」

「―つ―つま、つまり、その」

 カミラの手を口元から押し退けながら、何処か息苦しそうに、アレックスは言う。

(…あれ、鼻まで覆ってないよな?)

「その女を捕まえれば―戦況は真祖様に有利に傾くと?」

(…)

(…蛮族みたいな考え方だな)

(まぁ、そう―なるのかな?シンプルに言うと…)

「そうよ」

 僕の了承を得ずに、勝手にカミラがそう肯定する。僕が慌てて彼女を見ると、彼女はこれでいいのよ、という様に、肩を竦める。

(…まぁ、出来るだけ単純化した方が、この場合は良いのかもしれないけど―)

「―して、真祖様、その女の容姿は!?」

「ええと、容姿?そうだな、肩下くらいまでの長い黒髪で―…」

「―ああ、いえ、そういうのではなく」

「?」

 僕は混乱してアレックスを見る。アレックスは満面の笑みで僕を見上げ、高らかに宣言する。

「―写真とか、姿絵とか、そういうものです。細かい特徴なんて言われても、私、絶対覚えられませんので、ええ!」

 …僕は呆気に取られてカミラを見る。彼女は無言で空を見上げている。

 僕は思わず笑い出してしまう。嗚咽の様な笑い声が出る。

(不安―)

(…この判断は正しかったんだろうか?思えばここ数日の間、僕は沢山の判断を間違って―)

(これほど信頼できる、『絶対』も初めてだな…)

「し―真祖様?」

「…ちょっと待って。ああ、少しだけ、立ち直る時間を頂戴…」


 ―街灯の明りが付く。坂の上から順に、ぽ、ぽ、ぽ、と、何の予告も無く、連続する様に、突然に。

 実際には、見たことは何度かあっただろうに。こうやって、それをじっくりと眺めるのは初めてだ。だからだろうか、初めてその瞬間を目撃した様な気分になる。

(…同時に、全部点く訳じゃないんだな)

(電圧の問題?それとも、速度の問題?電球の方の問題かもしれない。実は、全部手動でスイッチを入れてるから、点灯にタイムラグがある―ってことは、ないだろうな)

「準備は良い?」

 ―呼ばれて、僕はカミラの方を向く。ベンチに坐して、睨みつける様な彼女の視線を、正面から受け止める。僕は両手を上げて力無く微笑む。正直、準備なんて何も出来てないが、何を準備すればいいかも分からない―とは言えなくて、僕は一言だけ、短く口にする。

「ああ」

「目を閉じて。力を抜いて。頭の中を、出来るだけクリアに―…」

 出来るだけ言われた通りにする。目を閉じる。息を吐く。力を抜く。何も考えないよう努力する。心の中にある小さな疑問や、今後の心配が、出来る限り、形を持った思考にならない様に。

「―行くわよ」

 カミュの掌が僕の目元に触れる。一瞬、体が硬直する。「力を抜いて」舌打ちと、叱責する様なカミュの声が聞こえる。僕は浅く呼吸を繰り返す。唐突に、彼女が僕の頭に、《鍵》をしようとした時の事を思い出す。

                    『あなたの平穏は私が守ってあげる―』

「―力を抜いて」

「抜いてる、抜いてるよ、出来るだけ―!」

「お願い、あなたの抵抗が強過ぎるの。出来るだけ心を穏やかにして、抵抗力をゼロに近付けて。そうじゃないと私の魔力じゃ通らないわ、あなたの心が硬過ぎて―」

「―んな事言われても―」

「リラックスできる事を考えて、そうでなければ、何か全然別の事を」

「別の事?」

「そう。あなたは今、全然別の場所に居るの。そうね、自室が良いわね。そこであなたは、自分の趣味に没頭している。あなたの趣味は―?」

「吸血鬼の女にアイアンクローかまされる事かな…」

「真面目に」

「そう言われても、パッとは思い付かないよ。割と無趣味な方で…」

 ―指先に突然冷たくて、ザラザラしたものが触れるのを感じる。ジョンの舌だ、と思う。舌が繰り返し繰り返し、僕の中指の先から手の甲に掛けてを丹念に舐め取る。まるで、今の僕に必要なものを気付いているかのように。遠くでアレックスの、悲鳴のような歓声が聞こえる。

「―やあ、獣め!漸く私が真祖様から下賜された、ジャパニーズ・トラディショナル・ゲタを手放しおったな―」

 僕は笑う。カミラが囁く。

「いいわ、その調子―私の魔力、少しずつ入ってるの、分かる?」

「いや、全然―」

「入ってるの。それじゃ、意識して、その女性を思い浮かべて…ほら、アレックスに探させたいって言う、例の女の人を」

 目を固く瞑る。意識を強く集中する。あの日の事を、必死に思い出す。目の前に真っ白の日誌が広がっている。僕はそれから目を逸らして、部活動の雑多な音を聞いている。縁側の老人宜しく窓の外を眺めながら、日直をすっぽかした相原を心の中で呪っている。そこに、声が―。

「もっとよ。もっと、強く」

「やってるよ―」

「イメージして。明確に、クリアに。彼女の細部を思い出す必要は無いわ。彼女のを思い出すの。彼女はどんな人間だったか?あなたは彼女の何を見て、どんな風に感じたか?彼女の印象は?彼女の声は?あなたは彼女に好意を感じた?それとも、敵意を?」

「僕は―」

「憶えてない事はどうしようもないわ。覚えていることを形にするの。ほら、魔力を注ぎ込んでいくわよ。彼女の事を形にするの―」

「彼女―」

「イメージして」

                 『―次からは目覚ましで起きてね、荻野くん』

 ―カミラが、僕の目元から手を放す。僕は首を振って、呼吸を整えてから、目を開ける。少し、頭がフラフラする。頭蓋の内側を、何かが這い回る様な感触がある。

「うわ…」

 目の前には、紛う事無き、あの日見たあの子が立っている。あの子の形をした、血の像が。綺麗な長い黒髪、夏服の上からカーディガン、結び目がぐちゃぐちゃなリボンのタイ。切れ長の目、悪戯っぽい唇。僕は鈍々と驚き、そしてベンチの上で、精一杯仰け反る。正直、気味の悪い光景だ、と思う。等身大のあの子の像が、僕の目の前に立っている。像の表面は生きている様にどく、どくと波打っていて、時折、街灯に照らされて光る。彼女の表情はあの日見た笑顔のままで固定だ。まるで拍動するマネキンだな、と考える。それか、笑顔のまま生きて固められた、血流人形。どっちにしろ、好ましいもんじゃ―。

「―良い出来だわ」

 傍らでカミラが腕組みをして、あの子の像を見て、満足気に呟く。僕は口の端から出掛かった言葉を、もごもごと飲み込む。

「―おら、クソ兄貴!これでアンタも仕事に行けるでしょ、ほら、この像の面、良く拝んで置きなさい―!」

「む、気味の悪い人形だな」

「はぁ?良い出来でしょ、アンタが昔作った、アザラシの石柱よりマシよ―」

「―血生臭いな。彼女、ホントにこんな臭いがするのか?かなり趣味の悪い女だな…」

「…あのねぇ。血生臭いのは、私が血液に《投写》して造ったからよ。本物からこんな匂いする筈が無いでしょ?こんな匂いの女がいたら、正気を疑うわ…」

「―しかし、この臭いのままなら、見つけやすそうではあるがな。本物はどんな臭いがするのだ?」

「…金木犀の香りだそうよ」

「キンモクセイ?それは一体、どのような―」

「…ピンク色のスーツ着た教師が、それの10倍強い臭いを発しているらしいわ。あとは、実地で調べて頂戴―」

 ―吸血鬼兄妹の会話を尻目に、僕はベンチに横たわっている。身体に力が入らない。吐き気がする。頭の中を、何かが這い回る様な感覚が抜けない。

(―これ…)

 心配する様に鼻を鳴らして、ジョンが僕の手の甲を何度も舐める。僕は弱々しく笑って、ジョンを見る。安心させようと口を開いて、強烈な吐き気が突き上げる様に喉を昇って来て、慌てて口を閉じる。頭の中を這い回る感覚は、最早焼け付くような痛みを帯びている。最初はヤモリ位だったその感覚は、いつの間にか蛇を通り越し、イグアナ並みの大きさに肥大している。

(…もしかして、これって―)

 カミラが振り返って、僕の様子に気付く。僕は彼女に無言で質問をする。彼女は僕の眼を見て、血の像へ目を向けて、何かに思い至った様に目を逸らし、誤魔化す様に笑って、明後日の方を向く。

「―か、かみら、おまへ、これ―」

「あ?あはは、もしかして―頭の中痛かったり、焼ける様な感じ、ある?」

「―これ、もしかして、まりょく―」

「―そう!御明察、それが魔力―魔素よ。私の力に依って入った魔素が、私のコントロールを離れたのね―それが魔素―魔法の力の源なの。一応、人体にも、影響無いとは思うけど―」

「―お、おへへ、き、きぼちわるい―」

「あ―その。ね。あんたが、魔力の入ってる感じ、分からないっていうから―その。私も、あんたの内側が見えなくて、良く分かんないし―その。あんた、抵抗が強くてさ。抵抗に逆らって魔力を流し込むってのは、川の流れに逆らって、逆向きに水を流す様なもんよ。だから、ね―加減が分からなくて、さ。うん、どれだけ入れたらいいか分からなくて―ま、そのお陰で、あれだけ立派な像が造れたんだし?」

「―たすけて、たすけ、えあ、うああ―」

「ごめんね?その…入れ過ぎちゃったみたい。多分、あと30分くらいで戻るとおもうから―」

「―いああ!ええ?おまへ、あとさんじゅぷ、はんじゅっふんて、ううう―」

「―ご免。行くね?じゃ、兄貴、後は宜しく頼んだ」

(あ、こら)

「おお?ああ、当然だ、任せておけ、この私に!さぁ真祖様、大船に乗った積りで―」

 カミュが僕の視界の中から姿を消す。視界の外で羽音がする。無数の蝙蝠が視界の端から噴き上がる。僕はそれを恨みを以って見上げる。目の前で、あの子の血の人形が、飴細工を炙って溶かす時の様に、ドロドロに崩れていく。

(…逃げやがった、畜生)

「真祖様、先ずはどうしましょう。手始めに、軽くお背中を擦って―?」

 ―歩み寄って来るアレックスに、素早く立ち上がり、ジョンが吼える。(『何だ、この獣―』)ジョンの吼え声が雷轟の様に脳内に響く。目の前がチカチカする。胃の中に石が入っている様な感覚がする。上を向いていると、自分の嘔吐物で溺れてしまいそうな気がして、僕はベンチの上で横向きに、胎児の様に蹲る。

 ジョンとアレックスの激しい戦いを前に、僕はベンチの上で、静かに目を閉じる。

 …頭の中を、掘削用ドリルで削られている様な痛みと闘いながら。

(力を抜いて、リラックスして、頭の中をクリアに―…)

(体調が戻ったら、ジョンの粗相の跡を見つけて、家に帰らなきゃ。話に夢中で、ジョンを見てなかった。この暗さで、公園の中に落ちているアレを見つけなきゃならないとは、一体何の罰ゲーム―…)

(ああ畜生、頭が痛え、吐き気がする。こんな状態で、家まで帰らなきゃならないなんて。アレックスが連れ帰ってくれないかな。魔法で僕を浮かして、空でも飛んで―…)

(カミラめ、なんつー置き土産を…)

(―いや、やっぱり、良い。もう暫くは、魔法はこりごりだ―…)




「―おや、おかえり、随分掛かったね。あんまりにも遅いんで、可愛い息子が誘拐でもされちまったのかと思ったよ。もう少しで被害届を出す所だった」

「…そりゃ、申し訳ない、ご心配をおかけしまして」

「次からはもうちょっと早く帰ってきな。家がパトカーに囲まれているのを見て仰天したり、冷えた晩飯を食いたく無かったらね。ジョンは?」

「…もう小屋に繋いで来たよ。晩飯、何?」

「ギョーザ。何だ、またジョンが逃げ出したのかい?」

「そんなとこ。あー、ところで、その餃子って、ニンニク抜き?」

「―?ああ、母さん、明日、知り合いと会う用事があるからね―作ってる最中に、思い出したんだけどさ。だから悪いけど、今日のギョーザは少し物足りないかも―でも、どうしてそんな事を聞くんだい?」

「…え?いや、別に、なんとなく。ほら、明日も学校あるし。女子との会話に気を付けなきゃだし」

「―へぇ?あんたに母さん以外の女の子と会話する機会、あるのかい?」

「煩ぇな、あるよ―その、偶に、極稀に。あのねぇ、母さん、ウチ、一応共学よ?後自分の事を女の子に含めるの止めて。図々しいにも程があるよ」

「ほら、良いからさっさと手を洗ってきな」

「―共学っつったら、半分は女子なのよ―?」

 家。

 母さんのブラックユーモアたっぷりの小言を受け流し、リビングで食事を摂る。餃子、少し硬めに炊いたご飯、簡単な汁物(玉葱の味噌汁―多分、餃子の種に刻んで入れた物の残り)。大皿の餃子を端から吸い込んでいく僕を見て、母さんは何処か、安心したみたいな笑みを浮かべる。

「…良く喰うね。あんたもどうやら、まだまだ成長気らしい」

「そ―うかね?もう身長の伸びは止まったけど。背の順も前から3番目だし」

「大丈夫、もっと伸びるよ、父さんに似て―父さんは背が高かったんだ。お代わり居るかい?」

「母さんに似なきゃだけどね―母さん、身長幾ら?150ある?―あ、お代わり、自分で次ぐよ」

 食事を終え、風呂と歯磨きを終えて、自室への階段を上る。足に気力を感じる。昨日より、一昨日よりも、少しだけ生きた心地がするのは…やっぱり、ほんの少しだけでも先の展望が拓けて見えた所為だろうか、あの吸血鬼達のお陰なんだろうか、と思う。アレックスとカミュの金髪を思い出す。心の中に、感謝の念みたいなものが芽生える…それと同時に、先程カミュに喰らった仕打ちの記憶が蘇る。僕は直ぐ様その念を打ち払う。身体の中から追い出す様に、長々と息を吐き出す。

(あいつは許さん)

(覚えてやがれ、いつか絶対仕返ししてやる―いっそ、餃子の中にニンニクが入ってりゃ良かったのに―そうすりゃ、ニンニクがエンチャントされた、必殺のスメルズ・ブレスで―!)

(…止めとこう。絵面的に、あまりにも最悪だ。完全に、小学生男子の嫌がらせの域じゃないか…?)

(クソ、一瞬想像してしまった…)

 カミュに嬉々として臭い息を吹きかける想像上の自分を頭の中から追い払いながら、僕は自室の扉のノブを捻る。部屋に入り、ベッドに腰を投げ出し、手を伸ばして、出しっ放しの炬燵机の上のノートPCを手を伸ばして立ち上げる。数年前の型落ちのPCを、更に親戚に譲って貰った物なだけあって、寝起きのこいつの動作は最早、ロートルの亀の動向と大差無い。何時まで経っても何も映らないモニタ、カリカリ、ジジジと不穏な音を立て続けるHDD、反応しないマウスカーソル、明滅する電源ボタン。僕はその全てを辛抱強く見つめる。

 …時折目を放し、不意を突く様にPCモニタを振り返る。

 途中でトイレに行く。戻ってきても、未だPCは目を覚まさない。

(…クソじじい)

(思えばこいつも、もう随分年寄りだよな。パソコンの寿命ってどれくらいなんだろう?確か、これを親戚に貰ったのが2年くらい前で、その時に3年くらい型落ちだったから…)

(我が家にゃ年寄りばっかだ。高齢化社会の縮図みたいな家だな)

 ―高らかな起動音と共に、5分以上掛けて、漸くデスクトップの壁紙が写し出される。(こっからも長いんだよな…)インターネットに繋ぐ。もう一度トイレに行く。戻って来て、カーソルが動くのを確認してから、少し考えて、真っ白な検索ボックスに、幾つかの単語を羅列していく。

【神隠し 】

 瞼の下を掻く。強張った指を動かす。

【神隠し 12年前 洲央市 御影高校 千歳学園】

 エンターキーを押す。カリカリと耳障りなノイズがして、直ぐに結果が画面に表示される。検索結果は、約22000件。僕は上から画面をスクロールさせていって、取り敢えず最初に目を惹いた項目を、適当にクリックする事にする。

【日本で実際に起きた神隠し事件一覧】

                                  ―カチ。

【年代別神隠し事件アーカイブ一覧】

【1980年代】

【1990年代】

【2000年代】

【2010年以降…】

                                  ―カチ。

【2005年/3月31日 瀬田幸樹くん行方不明事件/8月20日 橘裕美ちゃん行方不明事件/9月28日 篠原和澄さん行方不明事件…】

                                  ―カチ。

 12年前の項目を上から順にクリックしていく。『瀬戸幸樹』と『橘裕美』はどちらも6歳未満の児童の様に見える。写真の背景も自分の通う高校と特に接点を見付けられず、僕はそのふたりの記事を、本文も読まずに流し去る。3件目、『篠原和澄』で手を止める。記事の冒頭に、写真が貼られている。入学式のだろうか、クラスの集合写真の様だ。写真に写る者は皆、一回り大きな学生服に身を包み、期待と緊張で、一様に顔を紅潮させて微笑んでいる。

(…これ―)

(―ウチの学校だ。学校の、校門前の、坂)

 写真は千歳学園の校門を出て直ぐの所で撮影されている。男子は学ランを、女子はセーラー服を身に纏ってはいるが、間違いなくウチの高校前だ、と思う。写真は一部が引き伸ばされて、拡大されている。写真の中心には一人の女学生が居る。それ以外の周囲の生徒達の目線は、全て黒く塗りつぶされている。それがまた異様で、無暗に記事の特異性を煽り立てている気がする。

(…この子が、『篠原和澄』?)

 写真の中央に立つ少女は、背が高く、すらりとしていて、何ていうか、芯が通っていて、立っているだけで華がある感じがする。髪はとても短く、目元はとても凛々しい。良く言えば、恰好良くて―悪く言えば、まぁ、男性的、だろうか。女性受けしそうな風貌だ、と思う。女子高とかで、派手に後輩女子にモテそうなイメージ。

(ヅカ系―って、いうんかね?)

(なんというか、パリッとして、重心の安定した感じ。スーツとか、良く似合いそう…)

(こんな人が、神隠しか―何だか信じられないな。何も悩みも無さそうだし、大人しく誘拐されそうなタマにも見えないけど。モテそうだし、強そうだし。フェンシングとか嗜んでそう。もしかして、本当に神隠し―?)

(―それが12年を経て、あの学校で再発した―?だったとしたら、誰も犯行現場を目撃した人が居ないのも、2日続けて起こったのも、未だに要求が無いのにも説明が付く―けど)

(切っ掛けが分からない。どうして12年前の出来事が、今更になって―?)

(…本当に神隠しの仕業だったとしたら、僕はどうなる?僕の身の潔白は、誰が証を立ててくれる…?)

(記事に何かヒントは無いか?情報を集めなければ。先ずは知る事だ。概要を知らなければ、どうする事も―)

(それにしても―この女の目、何処かで―?)

【篠原和澄さん行方不明事件】

【篠原和澄さんは2005年の9月28日に、校内でご学友と、『用事があるから』と一旦別れ、校門前での待ち合わせを約束したのを最後に、消息を絶ちました。何時まで経っても姿を現さない篠原さんに、心配になったご学友のA子(仮名)さんが先生に相談、先生と二人で校内を捜索するも見つけられず、篠原さんは帰ったものと結論付けて一旦二人とも帰宅するも、不安を拭えないA子さんが篠原さんの自宅に電話をし、漸く事件として発覚したそうです。

 後日、警官が40人体制で校内を、地元の有志と猟友会が120人体勢で校外周辺を捜索するも、篠原さんの手掛かりは杳として見つかりませんでした】

 …僕は記事を半ばまで呼んで、うんざりする。最後まで読み終えて、溜息を吐く。頭を抱える。

(―これほど中身の無い記事も初めてだな…)

(結局、『良く分かんなかった』って事しか、分からない…)

(…校内で行方不明になったのか?今回の事件との共通項だな―今回の事件の、最初の被害者との。確か、最初の被害者の園部は、校内で居なくなったと刑事さんが言っていた―)

(―あれ、刑事さんだったっけ。違った気がする。あの狐目の刑事と、そんな話をしたっけか―?)

(…ああそうだ、相原だ。相原が、園部が校外に出る姿を、守衛さんが見て居ないと言っていた。園部を、守衛さんが見て居ないと―狐目が言っていたと)

(最初の被害者と―僕だけを、あの日)

(…2人目の被害者は?校外で行方不明になったんだっけ?)

(1人目と2人目の事件は別?1人目は神隠しで、2人目は誘拐―?)

(駄目だ―訳分かんなくなってきた)

 ベッドにどさりと倒れ込む。飽和した笑みが浮かぶ。目を閉じる。考え過ぎで、頭が痛くなる。魔力酔いの続きを起こしている様な気分になる。

(…重要なのは、校内で行方不明になった、って事だ)

(校内―に、僕の知らない、何かがあるのか?)

(『用事』…?それが原因で、彼女は居なくなった?他の子たちはどうだっただろう。他の、行方不明になった子たちは―?)

(A子さん―A子さんのお陰で、事件は発覚した。当時の事を覚えているだろうか。探してみる価値は―?)

 グルグルと考え続ける。グルグルと、幾ら追いかけても形を成さない、思考の泥遊びを。なにかが形を持った様な気がしても、それを突き詰めて考えていくと、それがどういう意味を持っていたのか、途端に分からなくなる。それでも僕は考え続ける。

 ―何も考えて居ないと、その分不安に思うだけだから。

 12年前の事を考える。僕はそのまま眠ってしまう。夢の中に狐目の刑事が出て来る。狐目が僕の体に3つの風穴を開ける。腹部と左手と、そして僕の舌に。穴からはそれぞれ植物の様に行方不明になった彼女達が生えて来る。僕は口を閉じる事も出来ずに、引き攣った舌を伸ばして狐目を見る。

 狐目は3枚の写真を愛おしそうに手の甲で撫でて僕に言う。

『―いやあ、可哀想に。荻野さん、何とも思わないんですか?あなたの所為で、彼女達はこうなったのに』

 ―反論したくても、夢の中で、舌から生えた篠原和澄の所為で、上手く答えられない。僕の引き攣った舌から生えた彼女が、僕の頬を優しく包んで、自分の方へ顔を傾けさせる。僕は彼女の眼を見る。彼女の慈愛に満ちた目を見る。

『―3人とも、あなたと関係がある。その所為で、彼女達は皆、消えてしまったんだ』

 僕は首を振ろうとする。けれど、僕の頬を包む篠原和澄の所為で、僕はそれすらも、自由に行うことが出来ない。

『2人はあなたの元クラスメイトだ。知らない筈無いんですよ荻野さん、2人ともあなたのクラスメイトで―』

 僕は捕えられた鼠のように必死に身動ぎをする。声を上げる。手を伸ばす。

『―篠原和澄は、調

 刑事が手の甲で撫でて居るものが、何時の間にか拳銃の銃身に変わっている。刑事は笑いながら僕の脳天を撃つ。痛みは無い。何かが貫いた様な衝撃だけがある。額から、新しい頭皮が枝状に前方へ伸びていく感覚がある。涙が滲む。

『―あんたが調べた所為で、あんたとんだよ、荻野さん。それもこれも、全部あんたの所為だ。何もかもあんたが悪いのさ。きっとどんどん悪くなる。。何もかもあんたに繋がってる。あんたの所為でまた一人、ヒトが消えるよ。大丈夫、必ずきっとそうなる』

『―』

『全部あんたが悪いんですよ、荻野さん』

『―ひが―』

『人間の中に紛れようとするからさ』




 ―身体を揺さぶられる感覚がある。朦朧としたまま、僕は目を開ける。頭がぼんやりして、上下の区別がハッキリと付かない。暗闇と自分の境目が分からない。

 夢の続きに居る様な気がする。

 どんな夢を見て居たのか良く思い出せない。口の中がカラカラに乾いて、右の頬を涎が濡らしている様な感じがする。僕はモタモタと右腕を上げて、取り敢えず寝巻の袖でそれを拭く。瞬きをする。何度も、瞬きを。

「―起きて」

 声が聞こえる。女性の声が。高くて、若くて、柔らかい囁き声。なんだよ母さん若返っちゃったのかよと、寝起きの回らない頭でそんな事を考える。

「…明日から仕事どうすんの…」

「起きて、オギノ」

「若返っちゃったらさぁ…若返ったら駄目なんじゃないの?職場規約に書いてない?大丈夫…?」

 声の方を向く。声のした方を。

 ―そこに、一対の、赤い瞳が浮かんでいる。

 僕は瞬きを繰り返す。何度も何度も、暗闇に目が慣れるまで。暫くして、赤い目玉を包む様に、金髪と、青白い頬の輪郭が、暗闇に浮かんでいるのを確認する。どうやらそこに居るのは、母さんじゃないかもしれないぞ、と眠り半分の頭が僕に警報を発令する。僕は欠伸と共に、寝呆け眼で彼女にそのままの質問を投げ掛ける。

「お前、母さんじゃ―母さんじゃ―あああ―ふぁ。…母さん…?」

「誰がお母さんよ。たった数時間会わない内に、この顔も忘れたの?だとしたらこの同盟も考えものね、脳の容量がハツカネズミ並みしか無いんじゃ、いずれ私達も足元を掬われるもの」

「顔って、この暗闇じゃ、碌に隣の人の顔も見えないよ。か―ファア―母さんじゃないなら、誰なの?」

「カミラよ。さっさと目を覚ませ、寝ぼすけ」

 僕は目を開けて彼女を見る―成程、言われてみれば、確かにそうかもしれない、と思う。僕はよろよろとベッドから立ち上がり、前傾姿勢で部屋の入口へ向かう。地面が揺れている様な感覚がする。船から降りた直後の時に似ている、と思う。フェリーから波止場に降りた時、こんな風に足元が定まらない時が良くある―胃の辺りがムカついて、地面が僕に迫ってくる様な。そう言えば、眠りに落ちる事を『舟を漕ぐ』とも言う。どうやら、僕は相当乱暴に、船を漕いでいたらしい。

(…気持ち悪い。頭の芯が痺れる。ムカムカする…)

(海の夢なんか見なかった筈だけどな。どんな夢だったっけ。確か、あんまり良い夢じゃ無かった気がする…)

(―今何時?数時間?何時の間に眠っていたんだろう。寝る積りなんて無かったのに。どれくらいの間、眠っていたんだろう?)

 僕は壁を探り当て、そのまま壁伝いに、部屋の入口まで辿り着く。左手で照明のスイッチを探り当てる。そこではた、と気付く。彼女を振り向いて、尋ねる。

「…あの。電気点けて良い?」

「別に良いわよ。どうして?」

「ん。いや、大した意味は無いんだけどさ。ほら、吸血鬼って、眩しいの平気なのかなと思って…」

「…散々太陽の下で会っといて、今更何言ってんの?大丈夫よ、その電灯の光に、太陽光の成分でも含まれて無ければね」

「蛍光灯の明りの成分表は見た事無いなぁ…」

「…ジョークよ。ほら、電気点けて、さっさと目を覚まして頂戴」

 スイッチを入れる。カチリ、と音がする。部屋の中に、目も眩む白が溢れる。僕は彼女の方を向く。足元がふらついて、慌てて壁を背に、体勢を支える。光が眼の奥をチクチクと刺す。目元を擦る。涙が滲む。見ると、彼女も眩しそうに、眼を細めて僕を睨んでいる。

(…ごめんって)

 彼女を見る。部屋の中を、キョロキョロと見渡す。アレックスの姿は無い。どうやら、ここに居るのは彼女一人だけの様だ。彼女の服装は、先程、ジョンの散歩途中で別れた時そのままだ。あの後、警察署に直行して―出て来る刑事から情報を抜き取って、その足で、ここへやって来てくれたらしい。

(…そんなに急がなくても良いのに)

(別に、明るくなってからでも―)

(―ああ、でも、良く良く考えると、それが彼らにとっての『夜』になる訳か)

(…もしかして、今までも眠いの我慢して、来てくれてたのかな…)

 僕は背中をずるずると壁に擦れさせて、床にどん、と尻餅を突く。彼女を見て、申し訳無さを誤魔化す様に微笑む。彼女は依然、僕を睨みつけている。僕は顔面を両手で揉み解して―気不味さを有耶無耶にするように、最初に頭に思い浮かんだ疑問をひとつ、口にする。

「―あれ?でも、そう言えばさ」

「…何?」

「吸血鬼って、他人に招かれないと、家に入れないんじゃ―」

「何言ってんの。一度、招いてくれたでしょう?」

「…え?もしかして、一回招き入れたら、後はもう永久フリーパスなの?」

「そうよ。一度、御招きの言葉を貰うと―その人の家を守る結界に綻びが出来るの。その言葉が、鍵の代わりの様なものね。だから、古式ゆかしい吸血鬼達は、揃って社交界で獲物を見繕い、気に入った者から、あの手この手で招待の言葉を引き出したと聞くわ―まぁ、今はそんな事しなくても食事にあり付けるけどね、有難い事に」

「なんか、ずっこいなぁ…」

「そう言わないで。安定して食料を得る為の、先人の知恵よ」

 彼女は肩を竦める。沈黙が訪れる。僕は直ぐに言葉を繋ぐ事が出来なくて、沈黙に気圧されるように、そのまま黙ってしまう。沈黙の時間がどんどん広がって行く。彼女は酷く不機嫌な表情をしている。僕は口元を拭って、二の句を次げないまま、彼女を見る。

(どうしたんだろう…)

(―やっぱり、僕が電気を点けたからか?結構、かなり、眩しそうだし)

(夜行性の動物に、急な灯りは失明の危険がある、っていうもんな…)

(…どうする、電気消すか?)

「刑事に―」

 僕は顔を上げる。彼女は僕を見ずに言う。不機嫌な顔のまま。

「刑事に―話を聞いて来た」

「うん…うん。それで?」

「4人の刑事に。あんたが言ってた―苅部と加納だっけ?学校に来たって刑事の内、胡麻塩頭の方とはコンタクトが取れた。残念ながら、狐目の方とは会えなかったけど」

「うん。それで?それで…どうだった?」

 彼女はチラリと僕を横目で見て、ゆっくりと牙を剥き出す。眉間にきゅっ、と皺を寄せる。僕は、彼女が―彼女の表情が、彼女の表情の険しさが、もしかしたら、不機嫌に依るものではないのではないか、ということに、遅巻きながら思い至る。

 背筋が震える。

 彼女は躊躇う様に口を開き、何度も息を吸い込んでは、決心が付かない様にその歯を噛み合わせる。彼女と眼が合う。彼女の睨みつける様に細められた目が、苦しそうに歪むのが見える。

 僕は立ち上がる。

 彼女の方へ―覚束無い足取りで―僕は彼女の元へと足を運ぶ。彼女は舌打ちして僕から目を逸らす。僕は口元を覆って、彼女に言う。震える唇を見られない様に。

「話して」

「―4人の刑事に話を聞いて来た。刑事達の話は統合性が取れていた。恐らくはそれが、捜査本部の見解なんだと思うわ」

「それで?」

「刑事達は、あなたが9割の確率で黒だと話していたわ。主犯か、若しくは共犯だと。あなたがフジタニという男の弱みを握って、脅して命令に従わせていたか、又はその逆、フジタニがあなたの弱みを握り、自分の犯行に付き合わせて居たか。どちらにしろあなた達二人は共犯で、この二件の女子生徒の誘拐に関与している可能性が極めて高いと思われている」

「…そんな、何で僕が藤谷と。一体、どうして僕が、どんな理由で―?」

「胡麻塩頭の刑事に依れば、あなたは監視カメラに映らない、学校側も認識していない秘密の抜け道を擁しているか―」

「なんだよそれ―?」

「―それか、ある程度の心得はあるが、極めて精神も腕も未熟なクラッカーだと認識されているわ」

(?)

 僕は固まる。彼女の言葉に戸惑う。思わず、笑ってしまう。彼女は笑ってはいない。大真面目な顔で僕を見て、不機嫌そうに口元をへの字に結んでいる。

(くらっかー?)

(クラッカー、クラッカーってなんだよ?)

(クラッカー?クラッカーって、あの…?)

 僕の脳内に、ビスケットの亜種みたいな焼菓子や、パーティーで賑やかしに使う、紙吹雪を撒き散らす円錐形のグッズが明滅しては、消える。クラッカー?あまりにも馴染が無い単語に、僕は頭を抱える。髪の毛を掻き毟る。頭の中が、真っ白に塗り潰されていく。

「―あなたは当局に、サイバー犯罪者クラッカーだと思われているわ」

「―分かってる!じゃなくて、どういう事だよ―?」

「監視カメラに映らない所為よ」

「何?」

「…監視カメラに映っていないの」

 ―頭を掻き毟る手を止めて、僕は身を起して、彼女を見る。肩を揺らして小さく、力無く笑う。へらへらとした軽薄な笑いが口元に浮かぶ。彼女の言っている事が、冗談にしか思えなくて。

(監視カメラ?)

 …あまりにも突拍子が無くて、荒唐無稽で。

 彼女は笑わない。眉間に皺を寄せて、挑むように僕を正面から睨みつけている。まるで、私は何も悪くないと、開き直る悪戯っ子みたいだ、と思う。

(―監視カメラ?)

(監視カメラに、何だって―?)

 僕は目元を覆う。泣き出したいのに、涙が出て来ない。悲鳴を上げて何もかも壊してしまいたいのに、何故だか力が湧いてこない。全ての事が億劫に思える。一本ずつ、四肢を捥がれていく気分になる。子供が羽虫の足を、無邪気に引き千切っていく様に。

 ―夢の続きに居る様に感じる。

「どうして?」

「え?」

「…どうして、監視カメラに映ってない?どうして、僕はクラッカーだと思われている?どうして、僕と藤谷が―…?」

 …足音がする。僕は目元を覆う手を下ろす。彼女が僕から逃げる様に、窓辺に向かって歩を進めるのが見える。窓の外を見て、両手を背中で組んで、彼女は事務的に話の先を続ける。僕は彼女を見る。彼女がどんな顔をしているのか、僕には分からない。窓硝子には、この世の終わりみたいな顔をした僕だけが映っている。彼女の姿は何処にも映っていない。

「―事件が起こってすぐ、監視カメラの記録を精査したそうよ。監視カメラは2週間分のデータが残っていた。2週間だけ手元に取って置いて、残りは警備会社に送られるそうよ。そこでまた、過去1年分が保管される」

「…」

「初動でその2週間分のデータを受け取って、署で若いのに確認させた、と言っていたわ。それで何も見つけられず、他に有力な証拠も見つかられなければ、警備会社の方にも電話しようと。監視カメラは2つ、データは合計4週間分ね。監視カメラは、何処にあるものか、分かる?」

「…ああ、ふたつとも、校門の所にある。一個は校門の内側、もう一個は校門のすぐ外の坂。二つとも、避けて通れる場所じゃ無い…」

「―その通り。南と東側は高いフェンスに囲まれているし、北側は、土地の分だけ山肌を削って造ったから、殆ど断崖絶壁みたいになっている。北から出るには、指が吸盤みたいに何かに張り付かないと無理だし、東と南からは、フェンスを攀じ登って出ようと思えば出られるかもしれないけど、登っている途中で、必ず誰かに見つかる…」

「…まぁ、あのフェンス、10mくらいあるし。確か、野球部のホームラン対策だったかな。近くの公道走る車にホームランボールがぶつかって、その修繕費用を請求されてから、あれだけフェンス高くなったって…」

「―兎に角、監視カメラの映像を先ず調べさせた、と加納とかいう胡麻塩は言ってたわ。それで、自分達は聞き込みに、他の刑事は、何か目ぼしい痕跡が無いか、校内を調査に。痕跡班の成果は0、聞き込み班の結果はぼちぼち、監視カメラの解析班は―」

「…監視カメラに映っていない人間を見つけた?」

「そうよ」

「園部と、僕?」

「そうよ。あと、後日、もう一人の被害者の方もね。ヨシダとかいう子も、監視カメラに映っていなかった。彼女達は二人とも校内で消息を絶っているわ。そしてあなたも監視カメラに映っていない。あなたは、行方不明にはなってないけれど」

 ―息を吸う。その息の遣り場を何処に持っていけばいいのか分からないまま、僕はその場に立ち尽くして眼を閉じる。吐き出したくなる。逃げ出したくなる。叫び出したくなる。悔しさに、心が壊れてしまいそうになる。このまま鱈腹息を吸いこんだら、体が風船の様に膨らんで、僕を高く高く、何処かに連れ去ってくれたらいいのに、と思う。身体が粉々に砕け散ってくれたらいいのに、と思う。体が粉々に砕け散って、僕という原形を留めないくらいに壊れてくれたら。

 ―それこそ、王の欠片の様に。

「…監視カメラの映像と、守衛の証言も一致したわ。あなたはあの日、校門前を、証言通りの時間には通っていない事になっている。あなたは何らかの手段で校内から守衛室の監視カメラをクラッキング、校外へ連れ出される園部と吉田の姿を削除し、映像を改竄して、校外へ出る藤谷の姿をカメラの記録に載せたと考えられているわ」

「…冗談じゃない」

「本当よ。真実がどうであれ、当局はあなたがカメラの映像を改竄した、若しくは校外への別のルートで実行犯を手引きした、と思っている」

「―そんなの、嘘だ。大体、おかしいじゃないか?普通、映像を改竄して、犯人だと疑われない様にするなら、自分の姿まで消す筈無いじゃないか?どうして僕なんだよ?誰か、別の奴がやったって可能性もあるじゃないか?誰か、別の奴が藤谷と協力して誘拐して、他の奴に疑いが向く様に、手近な僕の姿を、監視カメラから―」

「―その日だけじゃないのよ」

「何?」

 彼女が少しだけ振り返り、僕の方へ目を向ける。手遅れの病床の患者を見る様な眼で。同情する様に、微かに、憐れむ様に。

「…過去2週間分の映像の中で、あなたが映っていた日は僅か3日しか無いわ」

「何…」

「―それが、『精神も腕も未熟だ』と評されている理由よ。あなたは自分の力の誇示のため、自己満足の為、繰り返し守衛室の監視カメラの映像をクラッキングした。その内、誰の眼にも付かないその行為では、欲求を我慢する事が出来なくなって―」

「―出鱈目だ―」

「―より、隠匿の難しい犯罪行為に踏み出した。若しくは、あなたの非日常的な刺激を楽しむ行為が実行犯に見つかり、弱みを握られたあなたは、脅されるままに犯罪に加担した。しかし、ハッキングの腕が未熟なあなたは、自分の姿を監視カメラから定期的に消去するルーチン・プログラムの停止を忘れ―」

「…なんだよ、それ。ただの馬鹿じゃないか?」

「そう当局に思われているのよ。胡麻塩―ええと、苅部だったっけ、加納だったっけ?は、少なくともそう思ってるみたいだったわ。パソコンが出来てネットが出来て、色んな犯罪が複雑化していく中でも、こういうある種の馬鹿は居なくならないもんだな、って。便利な道具を手に入れて、それがまるで自分の体の一部みたいに勘違いして、訳の分からない万能感に酔って、下らない犯罪起こして捕まる自制心の効かない馬鹿―昔はチャカ持った糞餓鬼、今はパソコン持った糞餓鬼」

「もう良い。…僕が、監視カメラに映っていないって?」

「ええ。過去2週間、6月1日、3日、それと10日を除いてね」

「…映ってる日もあるのか?どうして?その日、何があったんだ?」

「そうね、関係あるか分からないけど」

「けど―なんだよ?」

「その日は、ぜんぶ雨の日よ」

 僕は、笑う。顔を歪ませて、笑わずには居られない。虫の鳴き声みたいな微かな音が咽の奥から出る。もう立っている事が出来なくて、僕は床に膝を付いて、咽を押さえて歯を食い縛って、笑う。

 ―見ると、彼女も笑っている。僕の方を向いて、窓辺に腰掛けて。爪の先を弄って、どうしたら良いのか分からないというみたいに、疲れ果てた様に、力無く。

「―僕は―」

「ん?」

「僕は、どうして監視カメラに映らない?いや、そもそも、本当に映ってないのか?」

「そうね―多分、本当に映って無いんだと思うわ。少なくとも、話を聞いた4人の刑事の証言は一致した。映像自体を確認した訳じゃないけれど、吸血鬼が情報を奪いに来るような特殊な事態を想定している風には見えなかったしね。本当だと思って良いと思う」

「どうして映らない?」

「え?」

「どうして映らなかった?どうして、僕は―監視カメラに?」

 彼女は目を伏せる。口を噤んで、手首を擦って、言う。かなり言い難そうに。

「…多分、王の欠片ね」

「―はぁ?お前らが、僕に欠片を入れたのは、15日―いや、もう日を跨いでいたんだから、16日の午前だった筈だぞ?もう誘拐事件は二件とも終わってる、オレはその前の日に事情聴取に―?」

「いいえ、恐らく、その前から、あなたの中に王の欠片はあったの」

 僕は口を開ける―あんぐりと、口を。蛇が獲物を丸呑みにする時のように。下顎が取れて、落っこちてしまいそうな位に。

「…今となっては、推測でしか無いけれど。私達の欠片は、あなたに引き寄せられた。それはつまり、私達の持つ12の欠片よりも大きな塊が、あなたの中に既にあったという事に―」

「―ま―待て。待て待て待て―」

「―見える?私達吸血鬼は、水面や鏡に映らないの」

 彼女は腕を伸ばして、背後の窓硝子を手の甲でこんこん、と叩く。彼女は何でも無い事を話すみたいに言う。彼女の唇が自虐する様に歪む。

「人間に言わせれば、それは私達に魂が無いからだって―王様は違うと思う、って言ってたけどね。私達は霧になれたり、夜に近かかったりする分、光の透過率が高いんだろう、って。視認する分には問題は無いけど、反射を挟むとそれが限りなく0に近付くのかもしれない、って」

「…」

「どっちが本当かは、私には分からない。でも、実際問題として、私達は鏡なんかには映らない。これと同じ事が、あなたにも起こってるんじゃない?」

「…どゆこと?オレは鏡に映るけど―」

 彼女は肩を竦める。頬杖を突いて、呆れた様に僕を見る。

「―だからぁ。鏡に映っても、映像には映らなくなってしまったんじゃ、って事」

 僕は無言で彼女を見る。彼女と、それから蛍光灯の明りを反射する、夜の窓硝子を。硝子には僕の姿が映っている。床の上で膝を突いて、大がかりなドッキリに綺麗に嵌められた芸人みたいな面をして、鼻水を垂らして、僕がそこに映っている。僕はそれを袖口で拭く。涎と鼻水で汚れた袖口を、僕は丁寧に折り畳んで、溜息を吐く。

「つまり、欠片、王の欠片が―知らない間に僕の体質を変えた所為で、今こんな事態に陥ってる、って事?」

「そうだと思うわ―あなたが誘拐犯一味のクラッカーじゃない、と仮定した場合、だけど」

「なぁ、どうやったら、王の欠片って取り出せるんだ?」

「あら、裏切る気?」

「いや、そう言う訳じゃない、そう言う訳じゃないけど―でも、この件が落ち着くまでは、特別に、さ?」

「どっちにしろ、今直ぐは無理ね―あなたと同等か、それ以上に大きな欠片が必要だわ。私達の欠片は全部使ってしまったし。後は、自然に出て来るのを待つしかないんじゃない?」

「…どういうことなんだよ?一体いつから?何時から監視カメラに映って無かったんだ?透過率?守衛のおっちゃんの眼も透過しちゃったのか―?訳分かんねえよ、どうしてオレの中に?どうしてオレが―?」

「…きっと、《核》はあなただったのね。他の欠片も、あなたに引き寄せられて、ここに来たんだわ―」

「―なんでそうなるんだ?オレは王の事何にも知らねえし、他の蝙蝠の欠片だって喰った憶え、ないぞ?そもそも人間は、欠片を吸い込めない筈だったんじゃ―」

「―じゃあ、もしかしたら人間じゃないのかもね、あなた」

 彼女は窓辺に腰掛け、笑って言う。

 ―まるでそうである事を望むかの様に。


                         『偶然、偶然!また偶然―』

                    『

                    『―人間の中に紛れようとするからさ』







「―起きろ、寝ぼすけ」

 ドスの効いた声がする。緩んだ腹部を素早く小突かれる。突然の刺激に呼吸が乱れる。自分の咳で、死にそうになる。

 僕は弾かれた様に身体を半分に折って、ベッドの上で上体を起こす。咳が止まらない。陸上に居るのに溺れそうになる。涎と涙が出る。僕は何とか咳を止めようとベッドに蹲る。

「目が覚めた?いっつもそんくらい、素早く跳び起きて欲しいもんだけどねぇ」

 涙目でベッドサイドを見る。そこには、金髪赤目の女の子―では無く、すっかり達磨の様な体形が板に付いて来た、我が家の女帝が立って、こちらを見下ろしている。既に職場の制服の、落ち着いたグレーのオフィス・スーツと濃紺の事務用ベストに着替え、フライ返しのゴム製の柄を脅す様にこちらに向け、呆れた様な、慰める様な笑顔を浮かべている。

「…これは、『跳び起きた』って言わないよ、母さん。『死に掛けてる』っつうんだ。もう少しで永眠する所だったよ…」

「目ン玉開くならどっちだって構やしないよ。ほら、とっととベッドから立ちな。朝食はとっくに出来てるよ」

「…この起こし方、二度と止めてくれって言わなかったっけ…?」

「ふん、だったらもう少し早く起きるんだね。フライパンガンガンガンガンやっても起きないんだから、この子は。さ、さっさと準備する。今何時か分かってんのかい?母さんもう行くよ?」

「…あれ?行くって、何処に?母さん、今日、人と会う用事、あるって…」

「ハッ、一々人と会うくらいで、ちょくちょく仕事を休んでられるかい。昼休みにでも何とか都合付けるさ。大体あいつも、1週間2週間前なら兎も角、3日前に連絡入れて来るなんて、社会人舐めてんのか、って話だよ。これだから世間ずれした奴は、面倒臭くっていけない―」

「あ―母さん、時間大丈夫?オレもそろそろ、準備しないと…」

「―おっと、いけない。じゃ、母さん行くわ。鍵閉め、忘れないでね。遅刻したら殺すわよ」

「努力するよ…」

 母さんが扉を出て、慌てて走って行く音を聞いている。スマホで時刻を確認する。只今の時刻は、8時ジャスト。成程、確かに大ピンチだ、と未だに微睡む頭でぼんやりと、思う。

(HRは8時40分からで…)

(通学には片道、最速で電車に乗れたとしても、どうやっても20分くらいはかかる…)

(で―僕は今、寝間着姿。着替えて準備して、朝―は、喰ってる時間無いな。ご飯はおにぎりにして、おかずはタッパーにでも詰めて、休み時間に…)

(うん…うん。そうすれば、今からでも十分間に合う。支度を10分で済ませて…)

 ベッドに倒れ込みたい欲求に抗う。夢遊病者みたいな足取りで部屋の中を徘徊する。鞄、制服、靴下、財布と必要なものを拾い集める。着替えながら階下に向かう。

(うう、気持ち悪い…)

(―未だ、魔力酔いみたいな感覚が残ってる。昨日、あの後、またカミラに、僕の記憶から《血の像》を創って貰ったから…)

(小林縣を探して貰う為だ)

(ハンチング帽で、無精髭の、あの胡散臭い男。貰った名刺の会社には居なかった…)

(『そんな人間はウチの部署には居ません』…)

(それが事実だとしても、あの男は確かに居た筈だ。あの胡散臭い風貌をハッキリ覚えている。名刺に書いてあった事が全て嘘だったとしても、それはあの男が存在しなかったという証拠にはならない)

(神隠し―12年前。調べていると言っていた。何を知ってる?)

(情報を集めなければ。全体像は未だ靄の中だ。先ずは知る事だ。知らなければ、何をどうする事も―)

 リビングの扉を開ける。点けっぱなしのTVが、誰も居ない居間に向けて、一人でお喋りを続けている。母さん、またスイッチ切り忘れてんなと、僕は苦笑を浮かべて床に転がるリモコンを拾い上げる。TVに向ける。TVの中で、青いスーツを来たニュースキャスターが、画面の向こうの僕を見透かす様に、微笑を浮かべて次のニュースを読み上げる。

「…では、洲央市の不可解な連続失踪事件の続報です」

 僕は息を呑む。リモコンを握った手を止める。

「―どうやら2名の行方不明になった女子生徒達は、園部美佳さん、吉田優香さんの両名ともに、姿の消える当日の放課後、校外へ繋がる通用門を使用して、学校の敷地外へ出る姿が確認されていない事が、監視カメラの解析の結果、分かりました。事件の舞台となった高校では、この通用門以外からの出入りは困難な事等から、この結果を受けて、捜査局はこの件を、極めて事件性の強いものと断定、近く校内の件分の為に、敷地内に立ち入る予定で―」

 頬に平手打ちでも喰らった様な気分になる。完全に眼が醒める。体の末端から、痺れにも似た震えが上ってくる。訳の分からない閉塞感に吐き気がする。

「―保護者会からは、身近な所で警察が動いているのを見て、子供達が情緒不安定になるのではないかという懸念や、女子生徒達が消えた校舎で授業を行って居ては、又誰かが誘拐されてしまうのではないか、少なくとも経緯が分かるまでは、休校にすべき、という複数の不安の声が―」

 ―TVのスイッチを切る。リモコンを手近なテーブルの上に置く。炊飯器の蓋を開け、火傷しそうな温度の米をラップで包んで握って、小さなおにぎりを二つ作る。

 乾いた涙が出る。涙の上から、僕は笑う。不安に押し潰されない様に。

(…僕は未だ捕まった訳じゃない。きっとなんとかなる。何とか出来る筈―)

(―筈だろ?)


 学校へと向かって歩く。もっと慌てて居ないといけない筈なのに、どうしても足が走り出そうとはしない。僕は自分の爪先を眺めて、のんびりとした足並みに成り行きを任せる事にする。

 時々、思い出した様にスマホの時刻表示と睨めっこする。

(8時30分…)

(―あ、今変わった)

(8時31分…)

 辺りに人影は殆ど無い。こんな時間に登校した事無くて、その事をやたらと新鮮に感じる。いつもは人の波でごった返しているのに。同じ制服の群れに紛れて、噎せ返りそうになる。ここに居る奴らが半分、いや、1/10くらいに減ってくれたら、どんなに歩きやすいだろうとずっと思って来た。その夢が叶った様な気分になる。通学路の上り坂に、人は僕を含めて4人程度しか見当たらない。鬱陶しそうな顔で歩く女子生徒、必死の形相で、ゼイゼイと息を荒げて走る眼鏡男子、欠伸をしながら、犬の散歩をするおじさん。おじさんが連れた小走りで歩く小型犬を見て、僕は微笑む。いっそ、僕もこのまま学校に行かず、その犬の散歩に合流できたらどんなに良いだろう、と思う。飼主の人と、その小さな犬と一緒に、この坂を下りて。もう二度と学校に行かず、部屋から出ず、誰の視線にも笑い声にも、怯える事は無い。

(『やあ、こんにちは。良い天気ですね。可愛いワンちゃんですね。名前は何て言うんですか?』―)

(『へえ、○○ちゃんって言うんですか。良い名前ですね。散歩中ですか?少しご一緒しても?』―)

(…はは。馬鹿か、僕は?)

(8時32分…)

 学校に着く。昇り口の緩やかな坂を抜け、正門を抜け、西校舎の昇降口へと足を向ける。

 守衛室の前を通り抜ける。守衛さんの胡散臭そうな眼差しを振り切る様に、足の速度を速める。

 昇降口に足を踏み入れる。声が聞こえる。遠くで声が。途中で足を止める。そちらへ目を向ける。

(―?)

 西校舎の北側の外周沿いに、複数の警官が居る。僕は呼吸を止める。動揺が、鈍器の様な衝撃を僕に与える。肺の中の空気を全部搾り取って、押し出してしまう。僕は茫然として彼らを見る。制服を着た警官が2名、濃紺のスーツの男が一人、背広を小脇に抱えた男が一人。後は―青地に、肩の辺りに、黄色いラインの入った―ドラマで見た事のある、鑑識課の制服を来た者達が、2名。

(ケ―ケイカンだ)

(僕を捉まえに来た)

(違う!僕はまだ大丈夫だ、証拠も無い、きっとなんとかなる、何とか出来る筈―)

(…TVで言っていた。極めて事件性が強い。近く校内の件分―)

 2F校舎の窓硝子が開いて、中から野次馬根性丸出しの女子生徒が数人、顔を出す。背広の男が鬱陶しそうに、片手で彼女達を追い払う。制服警官達は居心地悪そうに彼女達を見ている。濃紺のスーツの男は愛想良くにこにこと微笑んで、顔を出す女子生徒達に、小さく手を振ったりしている。鑑識課の男達は顔を上げもしない。地面の何かを黙々と調べている。

「―おら、さっさと消えろ、糞餓鬼共―」

「は?クソガキ?あんた何様のつもり―?」

「えー、ちょっとぐらい良いじゃん、おじさん」

「わー、ホンモノのケイカンだよ。凄いねー、こんな近くで、初めて見た」

「―誰がおじさんだ、俺ァこう見えても32だ。おじさん呼ばわりするのは―」

「―立派なおじさんじゃん。何がこう見えても、よ。どう見ても見た目通り。こっからでも加齢臭がするわ」

「―ちょっと、アヤカ―」

「ねーねー、一体、何を調べてんの?」

「ああ、これはね、部外者の外部からの侵入の痕跡を―」

「―おう、こら!おいお前、なに捜査機密を、一般の餓鬼に―」

「ああ、待って、痛い、痛いな、黒部さん―」

「―弛んでんじゃねえのか?こいつ等餓鬼とは言え、一応容疑者候補に変わりは無ぇんだぞ―?」

「―いいでしょ?どうせ、何も見つかりゃしませんて。ニュース以上の事は言いませんよ、捜査本部でも結論は出てるんでしょう?本命は、大筋の予想通りで確定―」

「―そこが弛んでるっつうんだよ、馬鹿が。クソ、こんな奴の御守りとは。苅部も詰まんねぇ仕事押しつけやがって―」

「―あら、詰まんないとは心外だな。苅部先輩も信頼して、僕を黒部さんに預けたんですよ―?」

「…ちょっと待て。何で苅部には先輩付けて、俺は敬称略なんだよ?」

「え?それは―」

 ―僕は彼らから視線を無理矢理引き剥がし、懸命に息を吸って、昇降口の中へ向かう。ロッカーの間を通り抜けて、自分の下駄箱がある場所へと行く。ロッカー上部の出席番号と名前を確認して、下駄箱の蓋を開ける。

(…う)

 鼻を覆う。目元を擦る。顔を覆う。

 ロッカーの中には飲みかけのカフェオレのペットボトルが突っ込まれている。酷い悪臭が溢れる。ペットボトルはご丁寧に中身が上履きの内側に零れる様に斜めに立て掛けられて置かれている。左側の上履きの中には小さなカフェオレの湖が出来ている。履き潰された踵側から中身が溢れてロッカー内に液体が零れている。

(―始まった)

(僕は大丈夫―)

(…大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。きっとなんとかなる、だって僕は何もしていない、きっと大丈夫、だって僕は何もしていないんだから、真相はいずれ分かる、きっと誰かが、なんとかして―…)

 僕は顔を覆ったままそこに立ち尽くしている。立ち直る気力を振り絞ろうと、懸命に心の底を浚う。暫し時間を忘れる。予鈴の音にも微動だにせずに、僕はそこに案山子の様に立ち尽くしている。

「―どうしたんだい、君?」

 突然、声を掛けられる。振り返って、驚く。自分の肩が、跳ねるのが分かる。

 そこには2名の制服を着た警察官が立っている。

 思わず悲鳴を上げそうになる。僕はロッカーに背中をペッタリと引っ付ける。二人の警官はとても親切そうな表情を浮かべている。一様に安心させるように微笑み、心配そうな顔をして、二人は腰に付けた無線を撫でながら僕に近付いて来る。

「―困り事かい?何か力になれるようなら、僕らにでも―?」

 彼らの内の一人が、僕のロッカーの中を見て顔を顰める。「おや、これは酷い」ロッカーの中へゆっくりと手を伸ばす。彼らのもう片方が、僕を見て眉を上げる。

「あれ、君は、確か―?」

 僕はロッカーの蓋を乱暴に閉める。慌てて居たので、警官の指を挟んでしまいそうになる。吃驚した顔をして、ロッカーの傍に居た方の警官が指を引っ込める。僕は靴を履いたまま、彼らから逃げ出す様に廊下を走る。

 …途中、一度だけ、後ろを振り返る。二人の警官が無線を持ち上げているのが目に入る。如何すればいいのか全く分からない。笑っていいのか、怒れば良いのか、泣けば良いのかすらも。

 僕は外靴のまま廊下を歩く。階段の傍まで来て、確か守衛室の近くに来賓用のスリッパが段ボールの中に纏めて置いてあった筈だ、と思い出す。それを履いて、靴を鞄の中に押し込んで、取り敢えず教室へ向かおう、と考える。間延びしたチャイムの音が聞こえる。その音に追い立てられるみたいに、一斉に教室へ駆け込む足音が、廊下の中で木霊の様に反響する。

 ポケットからスマホを取り出す。時刻表示を見る。

(…8時41分…)

 僕は力無く笑う。踵を返して、守衛室の方へ向かう。


 目の前で柏木が欠伸をする。本日何度目か分からない、片手に収まりきらないくらいの、大欠伸。

「…今日、なんか寝むそうね」

「まぁね、昨日、夜更かししたから―」

「へぇ、そりゃどうして?」

「いや、俺も一刻も早く寝ようとは思ってたんだよ?でもCS点けたら『エイリアン』やってたから。しかもシリーズ一挙放送。そりゃあ見ちゃうでしょ?」

「…知らんけど。録画しとけば良かったんじゃないの?」

「オギやん。分ーかってないなぁ。今やってるんだから、せっかくだから、それを“今”見たいじゃない?今、その時を、楽しみたいじゃない?録画なんてしたら、絶対見返さないの、自分でも分かってるから。ほら、そこにあるだけで満足しちゃうでしょ?」

「…分かった様な、分からんような。で、どうだったの?オレ、エイリアンって見た事ねーなぁ…」

「そりゃもう、サイッコーだったね。特に『2』のラスト、州知事が親指を立てて溶鉱炉に沈んでいくシーンが…」

「それ違う映画じゃない?」

 昼休み。

 教室。僕は自分の席に着いて、昼食と、朝食の残りを頬張る。あんまり食欲が湧かなくて、それ程食べ進める事が出来なかった。タッパーの中身には、未だ今朝のスクランブル・エッグとソーセージ二切れが残っている。僕はタッパーの隅を箸で突いて、柏木に残りを進める。柏木がソーセージを摘まんで口に放り込む。

「ウマい。流石、オギやんのお袋さんは、料理上手だね」

「冷凍食品だよ」

「…ウマい!流石、オギやんのお袋さんの選ぶ冷凍食品会社は、料理上手だよね」

「言い直さなくて良いから。途中から、訳分かんなくなってるし。なんだよ、料理上手な冷凍食品会社って?」

「…『家庭の味を、瞬間冷凍しました』?」

「キャッチコピー考えなくても良いから」

 ―朝、HRが終わってから、教室に入って。先生の小言を首を垂れて受け流して、僕は自分の席の椅子と、ロッカーの中を、丹念に調べる。取り敢えずは何も無くなっては居ないし、何かを仕掛けられた様子も無い。机の上に落書きされていたり、花瓶を置かれていたりといった定番の嫌がらせも無い。今の所は、どうやら被害は下駄箱だけの様だ、と思う。それを喜べばいいのか、安堵すれば良いのか、何かの兆候と見るべきか、それとも怒れば良いのか、僕には分からない。

(…あれ掃除するの大変だぞ…?)

(犯人は何処のどいつだ?必ず見つけ出して―)

(…あの上履きはどうする?買い替えるのか?上履きは確か―一足揃えて14000円、片方だけでも、あんまり覚えてないけど、7000円くらいはしたと思う。気楽に変える様な値段じゃ無い)

(…酷い悪臭。どうして乳製品なんだよ?せめてあのペットボトルの中身がお茶だったなら、洗うのにもそれ程手間がかからずに―?)

(―この先、おんなじ事が起こる度に、上履きを買い替えて、って母さんに頼むのか?)

(…私立に通ってるだけでも大変なのに)

 ―そういえばその時も、柏木は酷く眠そうにしていたなぁとぼんやりと思い出す。HR終わりの教室で、後方の窓際で、欠伸をしながら、気だるそうに手を振って。珍しく早く教室に来ていた。そう言えば昨日もだ。いつもは気が向いた時以外、2限目まで自主休憩する癖に。HR前に学校に来るなんて、一週間に2日あれば良い方だった筈だ。そろそろ槍でも振るんじゃないか、と思う。もしかして、結構出席日数が危うくなって来たんだろうか。

(…それとも、先生に直接、何か言われた?)

(いや、そういうの、大人しく聞くタイプにも見えないしなぁ…)

(待てよ、そういえば、柏木が言ってた、例の映画―)

(シリーズ一挙放送とか言ってたな。詳しくは知らないけど、あれ、もう5、6本くらい公開されてるんじゃないか?)

(…シリーズ一気見って、個人的にはあんまり好きじゃないけどな。同じ作風ばかりで飽きるというか、違う風を入れたくなるというか。かといって、監督が変わるのも嫌なんだけど―)

(―映画一本90分程として、6本で540分。という事は、大雑把に計算すると、大体9時間くらい―)

(…徹夜じゃないよな?)

 スマホが着信を告げる振動をする。僕は箸を置いて、ポケットからスマホを取り出す。画面をタップする。短いメッセージがそこに表示される。

 ―相原だ。

 僕は思わずスマホを取り落とす。その音に、周囲が一斉に僕の方を振り返る音がする。僕は取り繕う様な笑顔を浮かべて、教室の床に落ちたスマホをのっそりとした動作で拾い上げる。恥ずかしさに、顔から火が出そうになる。情けなさに涙が出そうになる。

(言えない…)

(女子の名前に吃驚しただなんて。全く、僕って奴は…)

(連絡先、昨日交換したばっかだろ…?)

 目の前で、眠っている所を引っ叩かれた様な顔で、柏木が僕の方を見つめている。

「お…オギやん。どうしたの。大丈夫―?」

「だ―大丈夫。何でもない。ホントに何でも―」

 ―スマホを見る。そこには、ごく短いメッセージだけが表示されている。

                                【見つけた】

                               【今、体育館】

                             【約束、守れよ?】

 僕は席を立つ。スマホをポケットに仕舞う。教室前方の、黒板の上に掛かっている時計を確認する。

(13時20分)

(…昼休みの終わりまで、未だ15分はある)

(大丈夫、今から走って行って、直ぐ戻ってくれば。少し話すだけ―)

「お―オギ―?」

「…ご免、柏木。オレ、行くよ。用事が出来た」

「は?よ―用事って、今から?昼飯どうすんの?それに、もう授業も―?」

「これ、良かったら残り喰っといて」

「え!?いや、俺ももう結構、お腹一杯―」

 僕は教室を出ていく。極力、爪先に力を入れて歩く。スリッパが間抜けな音を立てないように。どうして自分がそれを履いているのか、その理由を、あまり思い出さなくて済む様に。

「おおい、オギやん―!?」

(あの子がいる)

(体育館に、あの子が。会って、証言を貰う。残り15分。価値のある証言を引き出せるだろうか?少なくとも、彼女の証言で僕が有利になるには、幾つかのポイントをクリアしなければならない。犯行の時間が明らかになる事と、僕があまり日直業務に対して乗り気でなかった事を、彼女が証言してくれる事。それと、犯行時間が、僕と彼女の面会時間に近ければ尚、良い。僕が消極的に日直業務をこなす時間が、その業務を終える為に必要なコストとしての拘束時間が、それを先生に提出するまでの時間が―)

(―僕のアリバイを証明してくれるかもしれない―かも。我ながら、随分薄い線だ…)

(金木犀の香り…)

(まるで蜘蛛の糸だな。正に、これこそが。薄くて細くて、頼りなくて、今にも切れそうで―)

(―でも、僕にはもう頼る線がこれしかない。途中で千切れるかは、日頃の行いと、後は運次第…)

(ああ、神様、仏様―ジョン、父さん母さん、それに、吸血鬼様々―)

(―僕を救ってくれ。何だって良い、この先も僕たち家族に平穏を与えてくれるなら、何だって)


 体育館は、学校の敷地内の、一番東側にある。

 逆凹型の校舎の、東棟の、更に向こう側に、巨大な蒲鉾みたいなデザインの体育館が横たわっている。その北っ側にはプールがある。基本、授業か部活動くらいでしかこちらに来たりしないので、僕がこの方面に来る事は、始業式や終業式以外、殆ど無いと言っても良い。

(…最近の体育は、専らサッカーかマラソンばっかだしな…)

(雨の日は、偶にこっち来るけれど…)

(…そういや、もう直ぐ水泳の授業、始まるかもな。水着、何処に仕舞ったっけ…)

 体育館に行く方法は、二通りある。渡り廊下を辿って、校舎の中を東棟の一階まで巡って行く方法と、昇降口で靴を履き換え、逆凹の内側のグラウンドを突っ切って、東棟一階まで行く方法だ。西校舎からなら校庭を突っ切って行く方が早いが、今は出来るだけ、誰の目にも触れずに居たい。誰かの好奇の目に曝されるのが怖い、と思う。だから、スリッパをパタパタ鳴らしながら、出来る限り短い脚を懸命に動かして、西校舎二階から、人通りの少ない、多目的教室の並ぶ中央棟の3Fへ移動し、そこからまた、東棟の一階へと降りる。面倒臭いけど、仕方ない。

 ―心の平穏を保つためには、仕方ない。

(…クソ、移動だけで、3分くらいはロスしたな…)

(相原は―)

 ―体育館側面の西側に、校舎側からの視線を切る様に、一本の大きな木が植わっている。幹は真直ぐに縦に伸び、大体地上1mの辺りから奔放に、細身の枝が幾つも複数分岐して生え、縦に、横に、その版図をドーム状に目一杯に広げている。

(いつ見ても大きな木だ…)

(―立派なもんだな。これで樹齢何歳くらいなんだろう。横に突き出た枝振りが、何度見ても鬱陶しい)

(…確か、校内の、有名な告白スポットなんだっけ?)

(“この木の下で告白すれば、必ず成功する”…まぁ、何処の学校にも似た様なのはあるけどさ、でも、この木の下は無ぇよなぁ。考えた奴、馬鹿だろ…)

(…枝の生え際が、1mくらいだぞ?先ず、木の下に入れねぇよ。幼稚園児か、ホビットでも無い限り…)

 木の根元から50cm程の所に、剪定忘れの様な小さな枝があって、そこに一枚の札が引っ掛けてある。そこにはこう書かれている。

【学名:Osmanthus fragrans var.aurantiacus モクセイ科モクセイ属 キンモクセイ】

 ―木の傍らに、相原が立っている。枝の葉を気紛れに毟り、右足の踵を苛々と踏み鳴らし、スマホを親の敵の様に睨みつけている。

(…うわ)

(あんま、話しかけたくないなぁ…)

 パタパタという僕の足音で、相原が顔を上げる。露骨に不機嫌そうな表情を隠そうともしない。スマホをポケットに落とし込み、腰に手を当てて、舌打ちする。

「遅い」

「…無茶言うなよ。これでも昼飯返上で、急いで来たんだぞ?」

「せめて返信くらいしなさいよ?」

「それは―」

(…忘れてた)

「―それは、その、悪かった、けどさ」

「言い訳しないで。全く、これだからコミュ症は」

「…うう。ああもう、ご免、悪かったよ、それに関しては完全に弊社の落ち度だ。なぁ、でも今はもう良いだろ?悪いけど時間が無いんだ。休み時間的にも、オレ的にもさ。あの子は何処に居る?」

「…」

「約束は必ず守るよ。約束する―ややこしいな。兎に角、約束は守る。あの子は?」

 相原は、仕様が無いなぁというように溜息を吐いて、自分の後ろ、体育館の方に顎をしゃくる。

「あ―体育館?の、裏?」

「中よ」

「どうして、そんな所に―いや、そもそも、今って鍵、開いてんの?」

「開いてるみたいよ、さっき確かめてみたけど。多分、4限終わりでセンセーが締め忘れたか、5限からまた使うから、開けっ放しにしてるんじゃないの?」

「ううん、澤が、そんなズボラするかなぁ―一体、中で何してるんだ?」

「知らないわよ。無人の、広い空間が好きなんじゃない?ほら、深夜の人気の無い街を歩いていると、街が丸ごと自分のものになった様な気がするじゃない?そういう支配的な感覚が好物な、メンタル面がアレな子なのかも」

「…ええ?お前がそれを―」

「―何よ。私の方がイカれてるって言うの?」

「…そうは言ってないけどさ。結構真面目そうな子だったし。そんな危なそうには見えなかったけど…」

「はン。あたしに言わせりゃ、外面取り繕ってる奴ほど、頭の中に何飼ってるか分かりゃしないね。そういう奴こそ、とんでもない事を仕出かすもんなんだよ。決まってる。あたしには、分かる」

「…どうしたんだ。お前、昔、何かあったのか?」

「?別に何も。でも、ニュースに出て来るのって、そういう奴ばっかじゃない?」

「…そりゃ、そういう奴の方が悪目立ちするからだろ…?」

 首を振って、体育館の方へ、僕は歩き出す。長く張り出した木の枝の、青々とした葉を大きく迂回する。

 …後ろから、何故か相原も付いて来る。

「―なんだよ?」

「何よ?」

「…何で着いて来るんだ?」

「いや、どうするのかなー、って思ってね。やっぱ気になるじゃない?それに、あたしが見つけて―まぁ見つけてくれたのは友達だけど―あたしが呼んだ訳だし。万が一があったら困るでしょ?」

「…何だよそれ?興味本位は止めてくれよ。オレにとっては、笑い事じゃないんだ」

「何それ。あたし、そんなつもりじゃ―」

「それに―何だよ、万が一って?」

「え?そりゃ、荻野が、証言を強要して、断られた挙句―」

「…」

「―激昂して揉み合い―彼女にボコボコにされるとか?」

「…何でオレがボコボコにされる方なんだよ?」

「荻野くらいなら、あたしでも簡単にやれそうだからさ」

「そんな事ないでしょ。一応男子ですよ?流石に女子には負けないだろう―と思う…と、信じたい」

「自信無いんじゃん」

「…煩いな。ああもう、時間が勿体無い。着いて来るんなら、もう勝手にしてくれ…」

「そうさせて貰うわ。安心して、万が一が起きたら守ってあげるからさ」

「…ありがとよ。そりゃ嬉しくって頼もしくって、涙が出てくるよ…」

「ところで荻野、何で今日スリッパ履いてるの?」

「…お前がそれを聞くのか?察しろ。これはある意味、お前の所為でもあるんだぞ?」

「何でもかんでも女子の所為にしないで。そんなんだからモテないんだよ、荻野は」

「それ今関係無くない…?」


「おじゃましまーす…」

 体育館の扉を開ける重苦しい音が、静かな屋内に必要以上に響く。僕はその音に、何度も吃驚して手を止めながら、少しずつ扉を押し開いていく。スリッパのまま館内に上がろうとして、少しの間考えて、僕は入り口にスリッパを揃えて脱いで、体育館の中へ、足を踏み入れる。

 相原は躊躇する様子も無く、上履きのまま館内へ踏み入る。

(…こいつは…)

「―何よ?」

「何でも無いです…なぁ、ホントにこの中に居るのか?」

「そう言ったでしょ?」

「それにしては、何の音もしないけど…」

「何?あたしの言う事が信じられないの?だったらそう言えよ」

「―や、そういうんじゃないんだけどさぁ…」

 体育館の中は外界から切り離された様に静かだ。僕はその中を、ツルツルと滑る床に苦労しながら、意味も無く忍び足でそろそろと進む。館内の、土間の部分と、板張りの部分の間を仕切る鉄製の内戸は、目一杯に解放されている。電気の点いていない屋内に、暗がりに潜む様に、細身の人影が一人分、見える。

 ―バスケットボールの弾む音が聞こえる。

 相原が唐突に肘で僕の脇腹を突く。つるつると滑る床の上で、僕は極短い距離をスリップする。言葉にならない悪態を吐きながら、必死で腕を振り回して踏ん張り、バランスを保つ。我慢していた分、悲鳴の様な吐息が口から漏れる。

「ね?やっぱ居たじゃん」

「…」

「さ、『疑って悪かった』って言って?『疑ってごめんなさい、相原サマ』って」

「…ああ、クソ、だからって、脇を突くな、脇を。こちとら靴下なんだよ。足元が不自由なんだって…」

「早く。ほら、はーやーくー」

「―分かったよ、ああ、悪かった。確かに今回はお前の言う通りだよ、ありがとう、相原」

「へへ」

「疑って悪かった。感謝してる」

「…なんかあんたがそこまで素直だと気持ち悪いな」

「―ええ?お前が言えっつったのに―」

「鳥肌立って来ちゃった。アレルギーになりそう、感謝アレルギーに。なったら、あんたの所為だからね」

「…理不尽過ぎない?」

「慰謝料取るから」

 ―一定のリズムで聞こえていた、バスケットボールの跳ねる音が止まる。人影がこちらの方を向いた様な気配がする。僕は生まれたての小鹿の様な足取りで、ツルツルと滑る館内を苦労して進む。体育館のコートの中で、バスケットボールを突いていた人影に近寄る。電気が無くても、顔が見れる距離まで歩み寄る。

(…あ)

(あの子だ)

 彼女まで後、二、三歩という位置で立ち止まる。彼女はあの日と何も変わりない様な顔をして微笑んでいる。綺麗な長い黒髪、切れ長の目、悪戯っぽい唇。このクソ暑い時期に、相変わらず夏服の上から、カーディガンを羽織っている。なのに、汗一つ掻いていない。

 今日の彼女はリボンをしていない様だ。結ぶのを諦めてしまったのだろうか。

 目の端でぼんやりと薄い光源が点る。目を細めてそちらを見ると、相原がこちらに興味を無くしたかのように、手の中のスマホを俯いて覗き込んでいる。

(…分かってたよ、お前はそういう奴だ)

(なーにが、万が一が起きたら、守ってあげる、だよ?)

(ま、ここまで連れて来てくれたんだ、十分、感謝しないと。後は、僕が何とかするべき問題だ。なんとかすべき…)

(何とか―出来れば、良いけど)

 彼女は手の中のバスケットボールを持て余すかのようにくるくると回している。僕は出来るだけ、感じの良い―(と、自分では思っている、そう見える様に願っている)愛想笑いを浮かべて、彼女に話しかける。第一声が中々決まらずに、悩む。結局、出たとこ勝負だと自棄糞気味に、頭の先に思い付いた言葉を口にする。

「あー、はい、あの…久しぶり」

「…」

「憶えてる?オレだよオレ、荻野―この前会ったばっかりの」

「…この前会ったばっかりなのに、『久しぶり』?変わってるわね」

「そりゃ、あれだよ―何て言うか、アヤだ―言葉の綾。まぁ、あれからオレも、色々あったからさ―たった数日程度が、夏休みにも思えるくらいの、色んな出来事がさ」

「へぇ?一体、何があったの?」

「実は、その事で君に頼みがあるんだ―こうして君に会いに来たのも、それに関係する事なんだ。君に助けて欲しいんだよ」

「私が?キミを?」

「そう。だからと言って、ああ―君に無理を頼む訳じゃない。君にやって欲しいのは、至極単純な事だ。君に証言をして欲しいんだよ。警察に、あの日あった事を、手短に、簡潔に―無人の教室で会って、話をして、真っ白な日誌を見て。それが何時くらいの事だったか、僕がその後、直ぐに教室を動く素振りがあったかどうか。それだけで良い。それだけを警察に話してくれれば―僕の容疑は、簡単に晴れるかもしれない、もしかしたら」

「…容疑?一体、何の?」

 僕は言葉に詰まる。声にするのを躊躇う。一度言葉にしてしまえば、それが本当になってしまう様な気がして―けれども僕は、結局その意志に反して、それを無理矢理喉の奥から押し出す。今一番大事なのは、彼女の信頼と、同意を得る事だ。その為に僕に出来る事は、出来るだけ誠実に振る舞う以外にない。それしか手段を知らないから。僕の意志は、今は呑み込んで置くしかない。

(浮いた言葉でも操れるなら、話は別だけど―)

(それをするには、僕には色んなものが足りない。容姿と、経験と、自信と―ああ、あと、身長も)

(―ああ、こんな瞬間が来ると分かっていたなら、そういう啓発本でも読んでおくんだった―駅前の本屋にお試しの小冊子があったな…『女性を簡単に口説き落とす How to テクニック~ブサイクなあの人がモテる11の理由とは~』…)

(…今の僕に出来るのは、真摯な姿勢を見せる事だけだ。彼女に、僕の真剣さ、必死さが伝わる様に)

「………………誘拐の」

 僕はぽろりと零す様に言う。絞り出す様に、小さな声で。誰かに言い訳する様に。

 ―彼女がバスケットボールを落とす音がする。

 僕は慌てて顔を上げる。彼女を見る。彼女は相変わらず柔らかく微笑んでいる。怯えた顔や、こちらを非難する様な目付きをしてる訳じゃない。その事に、僕は少なからずホッとする。彼女が落としたバスケットボールが、ころころと僕の足元まで転がって来る。僕はそれを反射的に足で留める。

「あの、これ―」

「荻野ォー、もう話、終わった?そろそろ次の授業始まるよ、もうあたし、退屈で退屈で―」

「ああ、いや、ちょっと待って、まだ返事を―?」

 彼女が僕の傍へ歩み寄って来る。僕はぎこちない笑みを浮かべて、屈んでボールを拾い上げ、それを彼女に差し出す。彼女はそれを受け取ろうとはしない。

 僕は戸惑いながら―強張った笑みを浮かべたまま、ボールを引っ込めて、臍の辺りに抱える。

「あ―このボール、もう使わない?だったら、こっちで片付けて置くけど―」

 彼女は微笑んでいる。僕は誤魔化す様に笑顔を取り繕って―彼女の真意が分からずに、惑う。

 彼女が手を伸ばす。僕の方に、両方の手の平を。僕は安堵の溜息を吐いて、彼女の手の中にボールを受け渡そうとする。

 ―彼女が歯を見せて笑う。

「ねぇ、荻野、返事しろよ、荻野さぁ―」

(?)

 僕は瞬きをする。

(彼女―)

(…八重歯だ)

 彼女が両方の掌を僕の方へ伸ばす。滴る雨水を受け止めようとするみたいに、両の掌を上へ向けて。彼女は笑っている。下っ腹の辺りから、ぞわぞわと蟲の様に、嫌な予感が這い上がって来る。ここから離れた方が良い、と誰かが頭の中で囁いているのに、嫌な予感に絡め取られて上手く動けない。事故の直前を思い描く。トラックに轢かれる瞬間、迫りくる車両を前に、結構距離が離れていても、棒立ちになってしまう人の映像を時々TVなんかで見る。今の僕の姿、何だかそれに良く似ている、と頭の片隅で、醒めた自分が他人事の様にそう考えているのを自覚する。

「…荻野?」

(八重歯だ)

(―彼女、八重歯だ)

(…前から八重歯だったか?)

(そりゃそうだろ、一朝一夕で変わるもんじゃなし、前に会った時は気付かなかっただけさ―)

 彼女は笑っている。彼女の口角の隅から小さな尖った歯が可愛らしく覗いている。僕は指先が震えるのを感じる、頬が引き攣るのを感じる、背筋が氷柱を差し込まれたかのように冷たくなって、背中に嫌な汗が滲んでいくのを感じる。馬鹿のひとつ覚えみたいに、彼女は八重歯だっただろうかとグルグルと考え続ける。彼女は八重歯だったろうか。彼女は前から八重歯だったか?彼女は八重歯じゃなかったんじゃないか?彼女は―。

(違う。問題は―)

(尖った歯。鋭い歯。犬歯)

(―問題は、そこじゃない。八重歯なんて、珍しいもんじゃない)

(…八重歯の人口分布について、詳しい訳じゃないけど)

(八重歯を見た)

(最近、八重歯を見た―)

(―カミラとアレックス以外に)

(…吸血鬼以外の、八重歯を見た。八重歯を見た、場所だ。それが問題なんだ)

 彼女は手を伸ばす。彼女の掌がボールの位置を通り過ぎる。

(写真だ)

(写真で見た)

(そうだ、写真で見たんだった―)

(写真を見た―写真を見せられたんだ、警察に)

                              『―集合写真だ。といっても、別にクラスの集合写真みたいな大仰なものじゃない。仲の良い友人達と連れ立って、多分避暑地にでも出かけた時のものだろう。透明に澄んだ小川の傍らで、6人の女子たちがじゃれ合いながらカメラに向かってピースサインを構えている。その女子達の内の一人、写真の一番右端の子に、赤いマジックペンで、大きく丸印が付けられている。恐らくこの子が行方不明になった子なのだろう、と思う。赤い丸印の内側で彼女は、ポニーテールの髪留めを左手で弄りながら、右手で胸元に力無いピースサインを構え、顔を真っ赤にして、皆の方を向いて笑っている。きっと、撮影の瞬間、誰かが皆を笑わせる様な事を口にしたのだろう。笑い声までもが聞こえる様だ、と思う。赤い円の内側で彼女は、大きく口を開け、目の端に涙を浮かべて笑っている。大きく開いた口の端に、白く尖った八重歯が見える』

(吉田優香だ)

(二人目の被害者の―…)

(八重歯だった)

 僕は宙に差し出したボールを手放して素早く振り返る。相原に警告を発しようとする。それよりも早く、彼女の掌が僕の首を撫でる。途端に巨大なハンマーで喉元を押し潰される様な感覚がして、息が出来なくなる。溺れて、犬掻きをする様に、僕は両手で宙を掻く。左手で首の辺りに爪を立てようとする。僕の首のある筈の場所には、何も無い。肉も、骨も、血も、感覚さえも。

 僕の首の左から半分の感覚は、虫に食われた様に穴が開いて、ぽっかりと欠落している。やがて右に僅かに残った首の肉だけじゃ頭蓋の重さを支え切れず、しんなりと曲がって前方に折れてしまう。ピカピカに磨かれた体育館の床に、チョウチンアンコウの頭から垂れ下がる灯りの様に、胴の前側に力無く頭部を垂らす僕の姿がモザイクアートの様にぼんやりと映る。

「―荻野?おい、荻―」

「荻野くん、あなた良い香りね。とても良い香り」

 彼女の声がする。遠くから彼女の声が。彼女の声はチャンネルが上手く合わないラジオの様に二重に重なって聞こえて来る。僕は胴体を上手く操る事が出来ずに前傾に転倒する。頭部を強かに打つ。次に膝、そして手の平。呼吸が出来ない。倒れて来た体に、頭部が上から押し潰される。必死に跪く足が体育館の床を滑るきゅっきゅという場違いな音が聞こえる。

「―でも、残念。私の中に、もう男は要らないの」

「荻野!おいアンタ、一体荻野に、何を―」

(逃げろ、相原)

「―私の中に居て良いのは、女の子だけ。私の中を素敵な女の子で埋め尽くせば、きっとみんな、私を見てくれる筈」

「―荻野!荻野?聞こえる、ねぇ、あたしの声!?一体何よこれ、ちょっと待って、直ぐに誰か、呼んで来るから―!」

(逃げてくれ…)

「―あなた、素敵ね。とても素敵。芯の強い、柔らかな橙色。まぁ、髪の毛は、傷み過ぎだけど…」

「は?あんた、何言ってんの?状況、分かってる?荻野―死ぬかもしれないんだよ?邪魔しないで、今、救急車呼ぶから。ああと、それから、先生も―」

「あなた、何て名前?」

「あ?相原、愛子―」

(頼まなければ良かった)

(頼まなければ、こんな事にはならなかったのに)

(逃げて、相原。逃げろ。頼む、お願いだ、お願いだから―)

「―そう。愛子ちゃん、っていうの」

 彼女が両腕を広げて、ハグをするような気軽さで、相原に歩み寄る。僕はのたうつ自分の胴体に押し潰されながらその光景を眺めている。彼女が相原を後ろから抱き締める。救急車を呼ぼうと、スマホを構えていた相原は、一瞬、鬱陶しそうに顔を歪めるが―次の瞬間、その顔は恐怖に塗り替えられる。彼女の細腕に触れた部分から、ずぶずぶと相原の体が削られて、飲み込まれていく。相原が半狂乱で悲鳴を上げる。スマホを指先から取り落とす。それから相原の下半身と、上半身が千切れて別々に床の上に落下する。相原の下半身が、僕と同じ様に床の上で暴れ、上半身が、絶叫を上げながら必死に床を這って、彼女から逃れようとする。彼女は千切れた相原の塊を、食べ残しを掃除機で吸い取るような気軽さで回収していく。

 僕はそれを眺めている。声を出す事も出来ずに。視界の左半分が赤く染まっていく。きっと転倒した時に、何処かを強くぶつけて、出血してしまったんだろう、と思う。

 血と錆と、汗と、恐怖の臭いで窒息しそうになる。

 彼女が這いずって逃げる相原の上半身を捕まえる。相原の喉の奥から、聞いた事も無い様な叫び声が次から次へと溢れ出す。とうとう、相原の喉から血が溢れ出す。それでも、自分の出血で溺れそうになっても、相原は叫び声を上げるのを止めようとはしない。

 ―あ、あ、あ、あ、あ、アアアアアアアアアアアアァァアァァァァァァァァッァァァァァ…。

「良い子。愛子ちゃん。良い子ね。とても良い子」

 ―い、ひ、ひ、ひやぁああアアアアアアアアアアアアァァァァァァアァァァァァァッァァァッッ…。

「私と一緒に行きましょうね。大丈夫、優しく食べてあげるから」

 恐怖に引き攣った表情の相原を、彼女は優しく後ろから抱き止める。相原の体がずぶずぶと、底無し沼に沈む様に、彼女の内側にゆっくりと沈んでいく。相原の腰が、乳房が、肩が、顔が、そして指先が、彼女の腹の中に沈んでいく。抵抗する様に弱々しく暴れる相原の指先が彼女の喉を通過した時、彼女は満足そうに、小さなゲップを一つする。

「―ごちそうさま」

 彼女は唇をぺろりと舐めて、誰も居ない体育館の内側で、そう囁く。僕は自分の胴体に潰されて、息も出来ずにそれを眺めている。

 ―後悔だ。

 後悔だけがある。

 僕は涙と血の海に溺れながら彼女をぼんやりと眺めている。彼女と、居なくなった相原を。

(頼まなければ良かった。頼まなければ良かった。頼まなければ良かった。頼まなければ…)

 それだけを、呪文の様に繰り返し考える。まるでそれが、万難を退ける真言であるかの様に。失った時をやり直せると信じているかのように。失くしたものを取り戻せると信じているかのように。

(頼まなければ―こんな事には、ならなかったのに)

(あああ…)

(あ、あ、あ、あ、あ―)

                    『

                    『―人間の中に紛れようとするからさ』

(僕の所為だ)

(僕の所為だ)

(僕の―)

 視界が一面に赤く染まる。体の動きが鈍って来て、今までよりも更に重く、頭の上に圧し掛かって来る。涙と鼻水が出る。息が出来ない。頭の中心が、白く、痺れる様に痛む。もう何の音も聞こえない。

(こんな事になるのなら―何もしなければ良かった)

(最初から何もしなければ―相原は)

(僕の所為だ)

(僕の所為だ…)

(何もかも、僕の…)




「―ねぇ、ちょっと、聞こえる?」

「止めなよ、キナコ…」

「―だって、この人、泣いてる。おーい、もしもし、私の声、聞こえますか?こんな所で寝てたら、風邪、引きますよぉ―?」

「―だから、関わんない方が良いって、絶対。どう考えたってヤバい奴じゃん。こんな体育館の真ん中で寝っ転がって泣いてんのよ?意味不明にも程があるわ。もう直ぐ先生来るし、このままそっとしといた方が良いって―?」

「せめて、お腹の辺りだけでも、温かくして寝た方が―」

「…そういう問題じゃないでしょ、バカ」

 ―目が覚める。

 一瞬、何が起こったのか分からない。体の左側だけが酷く冷えている。長時間正座した後の様に、体のそちら側が痺れる。目がパサパサに乾いていて、傷む。何度も瞬きを繰り返す。どうやら固い床の上に横になっているみたいだと、寝起きのはっきりとしない頭で、辛うじて理解する。

(…?)

 苦労して上体を床の上に起こす。まるで体の動かし方を忘れてしまったみたいに、何度も滑っては、床の上に倒れる。その様子を見かねて、傍に居た女の子の内の一人が、体を起こすのを手伝ってくれる。僕は不明瞭なありがとうを言う。それでも一応それは伝わったみたいで、彼女は僕の脇の下を抱えて小さく苦笑しながら、いいえ、どういたしましてと、丁寧な返事を僕に返す。

(…ありがとう)

(良い人だ…)

 僕はどうやら体育館に居る様だ、とぼんやりした頭で考える。僕はどうやら体育館の床の上で寝ていたらしい。身体の節々が痛い。僕は体育館の固い床の上に座り、周囲の様子を見るともなく眺める。目に映るものが意味を成さない。耳に入るものを理解出来ない。頭の中に隙間無くセメントを詰め込まれたみたいに、白くて重たいもので一杯で、意義のある事を何一つ考える事が出来ない。

(頭が…)

(?)

(目が痛い。目が…)

 目の周りが酷く痛む。腫れぼったい感じがする。僕は右手を上げて、指先で目元に触れる。直ぐに手を引っ込める。あまりの痛さと、その腫れ具合に、驚く。右目の下は小指の先端程に腫れて膨れ上がっている。蜂に刺されたんだろうか、それとも水膨れでも出来たんだろうか、と思う。

「―あのぉ」

「…?」

「あんまり触らない方が良いですよ。とっても膨れてますから。でも、どうしてそんなになるまで泣いてたんです?」

「…何?泣いて…?」

「そう。凄い涙の痕ですよ。そんなにしてる人、初めて見ました。目元もブクブクですし」

(?)

(なにをいってるんだろう、このひと。僕が泣いて…?)

(目元が痛い…)

(でも、そういえば、何か―怖い夢を)

                                  ―ダム。

 バスケットボールの音が聞こえる。

 僕は飛び跳ねる様にそちらを見る。僕のその行動に、僕の正面側に居た女子生徒が驚いて仰け反る(『何、コイツ、急に―やっぱこいつ、ヤバい奴なんじゃない、キナコ?』)。数人の女生徒達が、仕舞い忘れのバスケットボールに群がって遊んでいる。彼女達は皆一様に体操着を着ている。

 僕はそれを眺める。ぼんやりと、何かを思い出せそうな気がする。

(…?)

(怖い…)

(あの音が―)

(バスケットボール…誰かがあれを突いて―)

(僕はここに来た…ここに来て、あの音を―)

「…ていうか、こいつさぁ…」

「―そんな言い方しないで、涼ちゃん。何?」

「いや、こいつ、例の二年の―」

(―そうだ、僕は―相原と、ここに来て)

(あの子に会いに)

(あの子。僕の最後の頼みの綱だった、あの子。あの日、知らない間に僕の分水嶺になっていたあの日、無人の教室で、真っ白な日誌を抱えて、僕が出会ったあの子)

(金木犀の香り…)

(あの子とここで会って―)

(…ここで会って…)

「レイ?レイのって、何の?」

「…だからさ、その…例のだよ。こいつ、例の、噂の―」

(―相原は?)

「…噂の誘拐犯じゃない?」

 僕はゆっくりと周囲を見回す。今度こそ、何も見落とさない様に。入口付近のゴール下で、数人がバスケットボールで遊んでいる。その付近の壁際に集まって、4人程のグループが、見覚えのあるスマホを覗き込んで笑っている。後は、目に入るのは、体育館の汚い床を歩いて、汚れた僕の靴下だ。他には何も無い。どれだけ周囲を見回しても。

 相原の姿は何処にも無い。

 僕は素早く立ち上がる。少しふらつく。僕の事を助け起こしてくれた子が、慌てて僕の腕を掴んで、支えてくれる。(ありがとう)僕は口の中でモゴモゴとお礼を言い、彼女の手をやんわりと振り解く。つるつると滑る床の上を、周囲を確認しながら、辛抱強く歩く。何度も、何度見回してみても、あの子と、相原がここに居たという証は何処にも無い。僕が倒れていた場所に、頭部を強く打って出血した筈の痕も無い。相原は消え失せてしまった。

 夢の続きに居る様に感じる。

 覚束無い足取りで、バスケットボールで遊ぶ子たちの間を通り抜け、壁際でスマホを弄っている4人組のグループへと歩み寄る。最初は誰も僕に気が付かない様子だったが、やがてグループで最も左端に居る女子が(スマホから最も遠い場所に居る、多分グループ内でのヒエラルキーも最も低いんだろう)―ちらつく僕の影に気付き、妙に好戦的な様子で、僕に話しかけて来る。

「―何だぁ?お前―」

 僕はそれを意に介さず、グループの、恐らくリーダー格であろう女子が持っているスマホを手早く奪い取る。

「―は?」

「―何コイツ、何して―?」

「―おい涼、コイツあんたの知り合い―?」

「―違うよ、なんであたしが―」

「―返せよキモ男、それ愛子センパイの―」

 僕はスマホの画面を点ける。タップしてホーム画面に移行する。画面には相原と、多分、仲の良い友人であろう、ゴテゴテに過飾された二人のツーショット写真が大写しになる。僕は電話アプリを起動する。少し考えて、発信履歴をタップして、確認する。

【119】

 僕はスマホを、さっき持っていた奴に向かって投げ返す。彼女は悲鳴を上げて、スマホを上下から挟む様に掌でキャッチする。僕はそれを尻目に体育館の出口へと向かって、移動する。

「―おい、待て、何すんだ、この―」

 夢の続きに居る様に感じる。

(僕の所為だ…)

 ―いっそ、全部夢なら良かったのに、と思う。

(僕の所為で…)

 僕は逃げる様に体育館を後にする。スリッパの立てるパタパタという間抜けな足音にも構わずに、走る。もう授業はとっくに始まってしまったようだ。廊下には、他に誰の足音も聞こえない。教室からは粛々と先生が授業を進める声と、生徒達が賑やかにろぐ音がする。

 ―途中、疲れ果てて、僕は足を止める。廊下の壁に凭れかかって、近くの窓を見る。窓の向こうから僕を見返して来る鏡像は、体育館で倒れた時とは違って、正常な頭部の位置をしている。

 …但し、首の辺りに、そこだけ掌で押し潰して抉り取った様な、大きな手形の痕がある。

 僕はそこに手を触れる。思わず笑う。力無く笑う。指先には、何の感触も無い。確かに頭は正常な位置にある。首は動き、呼吸も出来る。なのに、指先には、何かが触れる一切の感覚が無い。

                  『―私達吸血鬼は、水面や鏡に映らないの』

                    『それは私達に魂が無いからだって―』

                    『―もしかしたら人間じゃないのかも』

                         『偶然、偶然!また偶然―』

                    『

                    『―人間の中に紛れようとするからさ』

(王の欠片だ…)

 僕は笑う。感触の無い首筋を撫でながら、涙と鼻水を垂らして、声も無く笑う。

(…どうして、僕が?)

(どうして、僕だけ?)

(どうして、彼女じゃなくて、僕だけ?どうして、僕はここに居る?どうして彼女は消えてしまった?)

(王の欠片―)

(僕の所為だ。僕の所為だ、全部、全部、全部。何もするべきじゃ無かった。僕の所為で彼女は―)

(…王の欠片が、補填したんだ)

(僕が死なない様に。宿主が死なない様に)

 僕はその場に蹲って暫く静かに泣いている。畑から引っこ抜かれる雑草はこんな気持ちなのだろうかとぼんやりと考える。僕の行う行動の全てが周囲に悪影響を与える。もう直ぐ、僕は合法的に、世間から除かれてしまうだろう。それを防ぐ為に、僕が出来る事は、もう何も無い。最後の望みも、もう断たれてしまった。僕が縋った蜘蛛の糸は、何の事は無い、この騒動の元凶だった。僕はそうとは知らず虎口の元に相原を案内した訳だ。相原は喰べられてしまった。全てが最悪の結果に終わってしまった。やがて、相原の事も、世間では僕の仕業になるだろう。僕と、存在しない、もうひとりの共犯者の仕業に。でも、それも仕方のない事なのかもしれない。藤谷には気の毒だけど、相原の事は、紛れも無く、僕の所為なのだから。

(何かするべきじゃなかった)

(何もするべきじゃなかった)

(僕が何かをしなければ―相原が、居なくなってしまう事は無かったのに)

(僕の所為だ)

(僕の所為だ…)

(全てが、僕の―…)

(…あの刑事さんの言う事は正しかった)

 僕は、泣く。声を殺して、泣く。廊下の片隅で、誰にも気付かれない様に。前に進む為に必要だったもの全てを、失ってしまったように感じる。感覚の無い首筋を思い切り掻き毟る。臭いの無い液体が指先に滲む。指先に付いた液体を見て、目元を覆って、堪え切れず、僕は笑う。

(…

(何かをしようと思うべきじゃなかった)

(僕の所為だ、僕の所為だ、僕の所為で、相原は―…)

 ―廊下の中を、骸骨が歯を打ち鳴らす様な笑い声が木霊する。それが自分の声だ、と気付くのに数分掛かる。

(…終わりだ、全部。終了、なにもかも、もう御仕舞)




 目を覚ます。

 天井の白い壁紙を、珍しい物を見る様に眺める。点けっぱなしの照明が、目に刺さる様に痛い。

 夢の続きに居る様に感じる。

 僕は自室のベッドの上で、苦労して上体を起こす。体がダルい。辺りはいつの間にか、暗くなっている。僕は枕元のスマホを持ち上げて、現在の時刻を確認する。只今の時刻は22時13分。外でジョンが、情けを誘う様な遠吠えをしているのが聞こえる。家の中からは、他に誰の気配もしない。

(目が痛い)

(気持ち悪い。吐き気がする…)

(…そうか。あれから僕は帰って来て、ベッドに倒れ込んで不貞寝して。それで…)

(…母さんは?)

 スマホに一件の着信と、幾つかのメッセージが届いている旨が表示されている。着信は母さんからだ。時刻は19時05分頃、今から大体3時間前だ。メッセージの方も確認する。

 …メッセージの方も、母さんからみたいだ。

                                 【スマン】

             【言ってた例の話し合い、あれちょっと長引きそうだ】

              【メシ先に喰って寝ててくれ。閉締まりも忘れずに】

 僕はそれを見て、少し笑う。【分かりました、そっちも気を付けて】と短い返信を返す。まるで普通の親子の遣り取りみたいで、可笑しくなる。ここ数日の気忙しさが嘘みたいに感じる。夢の中の出来事だった様にすら思える。

(もう終わりだ)

(…もう終わりなんだよ母さん、僕は)

 僕はスマホを枕の上に放り投げ、ベッドを降りて、窓辺に立つ。それも又、悪夢の中の産物の様な光景である事には違いないが、そこに映る姿が、今までの出来事が夢で無かったと教えてくれている。

 硝子に映る僕には、左側半分、首が無い。右側面の、薄い肉一切れでくっついて、頭が宙に浮かんでいる。

 僕はそれを見て、吹き出す様に、笑う。左側面の首を掻く。硝子に映らない首、感覚の無いその首を。

(何なんだ、これ…)

(…人間じゃなくなっちまった)

(何なんだよこれ、ホント、何なんだ…)

 鎖で繋ぎ止められたように宙に浮かぶその首が、相原が本当にいなくなってしまったのだと僕に教えてくれる。涙と、悔しさと、吐き気が込み上げる。僕は硝子の中の自分から目を逸らす。感覚の無い首元を掻き続ける。

(相原は居なくなってしまった)

(…)

(だからといって、どうする?僕に何が出来るって言うんだ?もうどうしようもないじゃないか。僕は只のガキだ。無力なチビの、ガキ。借り物の他人の欠片が、腹の中にあるだけの…)

(…それに、助かったのだって、偶々だ。王の欠片が、僕に代わりの首をくれたってだけで。僕が何かをした訳じゃない。次は何もしてくれないかもしれない。僕が死ねば、彼らは何処へなりとも行ける。本当は最初から、そうしたかったのかも…)

(…吸血鬼達と、連絡先を交換しておけば良かった。二人とも、今何処に居るんだろうか?せめてあのマンションの―何号室に住んでいるのかだけでも、聞いておけば。彼らと連絡を付ける事が出来れば、未だ事態を、何とかする事が出来たかも知れないのに…)

(…僕は何もしない方が良い。僕が何かをしようと藻掻けば藻掻くだけ、何もかも悪くなっていく。もう何もしない方が良いんだ…)

 何もかもが、もうどうでも良くなる。全てを諦める決断をする。そうと決めるだけで、課せられた責任から解き放たれたような、ある種の清々しい気分になる。思えばここ数日間はずっと、追い詰められていく現状に対して、急き立てられるだけの日々だった。心から寛げる瞬間なんて無かった気がする。ベッドに腰掛けて、思い切り伸びをする。欠伸と同時に、笑いが込み上げる。どうせいつか逮捕されるにしても、奴らが玄関を叩くその日までは、僕は自由の身なんだと、開き直ってのんびりする事にする。

 心が楽になる。感覚の無い首元に触れても尚、今日までの出来事が、嘘だったかのように思える。

 僕はベッドに凭れて、見納めとばかりに部屋の中を眺める。ふと、付けっ放しのPCに目が留まる。

(…あら)

(帰って来て、点けたんだっけ?立ち上げ待ってる内に、寝ちゃったのか…)

 立ち上がり、PCの前に行く。スリープ状態を解除して、インターネットに繋ぐ。鼠が天井裏を走る様な、カリカリする音がPCの内部から聞こえる。

(眠い)

(さぁ、繋いで…何を見る?連続誘拐犯に相応しい、PCの閲覧履歴って、何?)

(子守り歌でも流しとくか?滅茶苦茶眠い。でも、ちょっと腹も減ってるし。簡単レシピとかでも…)

 ―カリカリという音がピタリと止まり、インターネットのブラウザが起動する。僕はマウスを動かして【お気に入りのサイト】フォルダを開き…少し考えて、【閲覧履歴】のフォルダを開く。

 閲覧履歴の上方に、明らかに他からは浮いたサイトが乗っている。

【日本で実際に起きた神隠し事件一覧/年代別神隠し事件アーカイブ一覧/2010年以降】

【2005年/9月28日 篠原和澄さん行方不明事件】

 僕は思わずそれをクリックする。クリックしてしまう。

 画面にはあの、毒にも薬にもならない事件概要と―彼女の写真が表示される。

 写真の中央に立つ少女は、背が高く、すらりとしていて、何ていうか、芯が通っていて、立っているだけで華がある感じがする。髪はとても短く、目元はとても凛々しい目をしている。とても凛々しい―切れ長の瞳を。

 僕は彼女を見る。写真の彼女の眼を。彼女の見覚えのある目を。

 漸く―気付く。

(彼女だ)

 僕は思わず立ち上がる。その際に向う脛を、PCの置いてある炬燵机の角にぶつける。その痛みに気付かないくらい、僕は目の前の、PCの中の事実に戦慄する。歯の根が震える。写真の彼女から、目が離せなくなる。

(…彼女だ)

(間違いない、今日会ったばっかりだ、僕は彼女を見た、彼女の―)

(―目を)

               『綺麗な長い黒髪、切れ長の目、悪戯っぽい唇―』

(…

 ―肩を擦る。震える歯の根を落ち着けようと、二の腕を押しつける。感覚の無い首元を掻く。歯を食い縛る。何度も瞬きをする。

(篠原和澄は誘拐犯だった)

(…?)

(どういうことだ?意味が分からない。それに、彼女なのは、目だけだ。彼女に―そっくりなのは)

(…八重歯)

                        『彼女は八重歯だったろうか。彼女は前から八重歯だったか?彼女は八重歯じゃなかったんじゃないか?彼女は―』

                      『違う。問題は、そこじゃない―』

                               『吉田優香だ』

                          『二人目の被害者の―…』

                              『八重歯だった』

(…彼女は八重歯じゃ無かった。初めて会った時、やっぱり彼女は、八重歯じゃなかったんだ。あれは思い違いじゃ無かった。彼女は八重歯を―)

               『荻野くん、あなた良い香りね。とても良い香り』

(盗んだ)

               『―でも、残念。私の中に、もう男は要らないの』

(喰った)

          『―あなた、素敵ね。とても素敵。芯の強い、柔らかな橙色』

(―奪ったんだ。吉田優香から)

 僕はPCの前に腰を落ち着ける。画面の中の、彼女を―篠原を睨みつける。必死で考えを整理しようとする。額が熱くて、上手く頭が動かない。僕は手の甲で頭を冷やしながら、どうにか考えを先へ繋ごうとする。

(篠原和澄は―)

(違う。連続誘拐犯の正体は―…)

(七不思議のひとつ。“

(喰ったんだ。幾人もの人間を喰って―ひとつずつ、そのパーツを奪っていった)

(目的は?)

                      『―私の中に居て良いのは、女の子だけ。私の中を素敵な女の子で埋め尽くせば、きっとみんな、私を見てくれる筈―』

(簡単だ。女を喰って、その部位を奪う事。自分で言っていた。自己顕示欲の発露、って所か。噂としての七不思議の一部から、誰の眼にも留まる、実態を持った存在になる為に―)

(…犠牲者が女子ばかりだったのも、納得がいく。噂の発端の、ベースとなった被害者が、女子だから。女子なら女子、男子だったら男子で、記号部分を強めて、より人目に留まる存在に―)

(…ううん、いや、一体どっちが先なんだろう?彼女が居なくなった事で、“神隠し”の噂が生まれたのか、“神隠し”によって、篠原和澄が消えたのか…)

(―卵が先か、鶏が先か?)

(…もしかしたら、校内だけじゃないのかもしれない。校外でも、彼女は誰かを喰っていたのかも。失踪届が出されなければ、警察はいちいち一個人を捜索したりしない―と、聞いた事がある、本とか、ドラマなんかで。もしかすると、もっと他にも、沢山いたのかも。こればっかりは、調べてみないと分かんないけれど)

(―でも、何故、今更?)

(篠原和澄の事件が起こったのは、確か、12年も前。今頃になって、活動を始める理由は―)

                       『…あの蝙蝠が、王の欠片なの』

                           『最近になって、漸く一つの兆候が見られたの。全ての欠片が、同一の方向に引き寄せられるような反応を示した。主様は調査を命じたわ。それでその結果、欠片がこの極東の地、この町に―』

         『けど―王の欠片ってのは、それ自体が起爆剤みたいなものよ』

     『分かる?劇薬なの―王の欠片ってのは、それ一つだけで致命的なのよ』

(…欠片…)

 僕は頭を抱える。どうしたらいいのか分からずに。

(…

 ―立ち上がる。部屋の中を行ったり来たりして、どうにか考えを筋道立てようとする。ふと、自分が学校から帰って来て、制服のまま眠ってしまっていた事に気付く。ズボンとカッターシャツを脱ぎ捨て、タンスの中身の一番上に積まれていた、Tシャツとジーンズに身を包む。制服のズボンを精一杯丁寧にハンガーに掛け、カッターを洗濯籠に入れる為にくるくると手元に丸めて回収する。

 …少しの間逡巡して、制服のズボンの尻ポケットから、財布を抜き出す。それをジーンズのポケットに突っ込む。スマホを枕元から取り上げて、それもジーンズの別のポケットに収める。階段を降りる。一階に向かう。

(僕の所為だ…)

(―神隠しだ)

(僕の所為で、相原は…)

(―神隠しが、王の欠片を飲み込んだ)

(僕が何かをしようと藻掻けば藻掻くだけ、何もかも悪くなっていく。僕にはもう、何が正しいのか分からない…)

(―てことは、神隠しから王の欠片を抜けば―未だ事態を収拾できる可能性は、あるってことか?)

(僕のことは、どうにもならないとしても…)

(神隠しをどうにかした所で―僕の容疑が消えて無くなる訳じゃない。僕の身に迫る現状が、消えて無くなる訳じゃ…)

(僕が何かをしようと、藻掻けば藻掻くだけ…)

(…でも、“神隠し”が、“王の欠片”を飲み込むって、どういう事だ?そうとしか説明が付かないとしても、“神隠し”は、どうしたって、絶対的に、だ。それに反して、王の欠片には実体がある)

(触れた感覚が無いとしても―)

(―『飲み込む』必要がある。王の欠片を取り込むべき器が必要な筈だ。王の欠片を飲み込む為に、王の欠片に触れる事の出来る、依り代としての、器―)

                                  『相変わらず夏服の上から、カーディガンを羽織っている。なのに、汗一つ掻いていない―』

                                   『良い匂いがした。花の香りだ。あの香り、なんて言うんだっけ。何処かで嗅いだ事が…』

                                『先生にプリントを渡す時、何時か嗅いだ憶えのある様な香水の香りが、強く僕の鼻先を擽る―』

                       『先生の強烈な香水の香りが僕の鼻腔を刺激する。僕は漸く、その匂いを、何処で嗅いだ事があるのかを思い出す―』

         『金木犀。知らない?とっても可愛い、小さなオレンジ色の―』

(…あの子は、常にカーディガンを羽織っていた)

(このクソ暑い時期に、最初に会った時も、体育館で会った時も、カーディガンを…)

 僕はカッターシャツを洗濯籠の中に投げ入れる。僕は籠の中身を見て、欠伸をして、それから洗面所の鏡に映る自分の顔を眺める。鏡に映っている首の欠けた男は、別人の様に虚ろな目をしている。一瞬、それが誰なのか、自分でも分からなくなる。

(―篠原和澄が居なくなったのは、9月28日)

(…秋の入り口だ)

(所によっては、まだ暑いけれど―カーディガンを羽織ってても、おかしくない時期だ…)

(…もしかして、金木犀の開花時期って、その位なんじゃないか?)

(何人あいつに喰われたのかは知らないが―この30度越えの時期に、好き好んでカーディガンを着て居る馬鹿が居なければ、あれは―篠原和澄の自前のものの可能性が、高い)

(最初の犠牲者)

(神隠し)

(金木犀―)

 僕は玄関を見る。玄関の扉を。僕は頭を掻き毟る。盛大な溜息を吐く。

(…試してみる価値はあるかもしれない)

 僕は階段をどすどすと踏み鳴らして、自分の部屋へと乱暴な足取りで戻る。小さなショルダーバッグを、押し入れの中身から取り出す―買って貰ってから、一切使ってなかったものだ。通学用の物よりも軽くて、持ち運びしやすい。僕はそれに、家の中で役立ちそうな物を、片っ端から入れる―懐中電灯、野球ボール、麦茶入りペットボトル(水分は大事)、食パン、着火剤、新聞紙、スマホ扇風機、防犯ブザー―金槌、百円ライターに、母さんの制汗スプレー。兎に角ありとあらゆるものを、詰め込めるだけ。荷物が重ければ重いだけ、安心する気がした。膨らんでいれば膨らんでいるだけ、何かが何とかなる様な気がした、から。

(僕の所為だ)

(…金木犀が、神隠しの依り代なのかも)

(僕の所為で、相原は…)

(金木犀が、王の欠片を取り込んで、受肉したのかも)

(僕が何かをしようと藻掻けば藻掻くだけ、何もかも悪くなっていく。僕にはもう、何が正しいのか分からない…)

(…だからもう、何が正しいかなんて、糞喰らえだ)

(―何もかも悪くなっていく?。きっともう、これ以上悪くなんてなりようがない。僕はもう犯罪者確定だ。そろそろ報道も始まる頃だろう―記者団に責付かれて、警察もそろそろ渋々情報を小出しにし始めるくらいじゃないか―そうなったら、僕はもう終わりだ。レッテルは一生剥がれないだろう。母さん共々、逃げる様に別の街に移るか―)

(…吸血鬼にでも、なるしかない)

(けれども、相原の事は、それとは別だ。あいつは僕を助けてくれた。助けようとしてくれた―)

(…まぁ、発端も、ある意味あいつなんだけど…)

(―だから、見捨てる事は出来ない。こうなったのも、全部僕の所為だから。あいつの事だけは)

(義理がある)

(…糞喰らえだ)

(―正しさなんて、犬に喰わせてしまえ。これ以上事態を悪く出来るってんなら、やって見せてみろ!何もかも悪くなっていく。何もかももう終わりだ。。潔白の証明の手段を失い、首を半分失い、多分きっと、16年間慣れ親しんだ、この家と生活をも失う。これ以上悪くなんてなりようがない。糞喰らえだ。正しさなんて便所に流しちまえ!だからここからは、僕のやりたいようにやる)

(やりたい事だけを)

(―試してみる価値は、ある)

 僕は、パンパンに膨らんだ小さなショルダーバッグを背負って、靴を履く。履き慣れた、通学用の靴を。僕は玄関を振り返る。ジョンの情けない遠吠えに苦笑し、誰も居ない玄関に向かって、いってきますを呟く。

(もしもそうだったとしたら―神隠しの依り代が金木犀だとしたら、後は単純な綱引き合戦だ。あちらの欠片が多いか、こちらの欠片が多いか。これは単純な賭けだ。こちらの欠片が多ければ、向こうの中身を引き摺り出せるかもしれない)

(違ったら―まぁ、今だって最悪なんだ、もうこれ以上どうなるってことも無いだろ?)

 ―玄関のカギを閉める。少し立ち止まって考えて、その鍵は、ポストの中に入れて置く事にする。僕があれに喰われてしまったら―若しくは、殺されてしまったら。

(もう男は要らない、とか言っていたし)

 紛失した鍵を気にして、母さんが錠前を付け帰る手間を省いておく。ポストの底でカチャンと金属の音がする。僕はそれを聞いて満足する。次の上りの電車は何分だっけと思いながら、駅までの道を走る。

 ―胸の内に、吹き上がる様な怒りだけがある。それが何に対してのものなのか、自分でも分からない。僕はそれを胸に、笑みを浮かべて街灯の明りの隙間を駆け抜ける。




続く

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