“骨の王”と神隠しについて

@odendaisuki

第1話


“―王よ、骨の王よ。全ての魔を統べし者、生まれながらの王よ”







 部活動の喧騒が聞こえる。

 バットがボールを弾く音、皆で足並みをそろえて走る音、掛け声、吹奏楽の音、笑い声。

 僕はそれをクラスの窓際からぼんやり眺めている。

 少しずつ落ちて来た陽の光が全身に当たって、緩やかに眠気を誘う。僕は堪らず欠伸を漏らす。教室の中はもう薄暗い。グラウンドの隅っこで陸上部が砲丸を思いっきり放り投げる。鉄球が地面に落ちる重低音が、耳の奥底に心地良く響く。いっそこのまま眠ってしまおうか、等と下らない事を考える。

(…枕でも持ってくりゃ良かった)

 別に僕だって好き好んでここに居る訳じゃない。補習という訳でもないし、部活動に行く準備をしている訳でも、誰かを待っている訳でも、ましてや、自主学習をしていると言う訳でもない。

 僕は自分の机の上に目を向ける。思わず、反射的に顔を顰めてしまう。

 机の上には、日直日誌が広げて置かれている。

 ―ページの白さにうんざりする。

(…うん。まぁ、書かなきゃ進む訳ない、そりゃ当然なんだけど)

 これは僕が、自分の仕事をサボってのんびりしているとか、そういう類の話ではない。…いや、確かにこれも僕の仕事の一部ではあるけれど、飽くまでもそれは日直という仕事の一部だと言う話だ。今日の僕は良くやった方だと思う。実際、良く働いた。黒板消し、時間割変更のお知らせ、ノートの回収・返却、それにゴミ出し。誰にも文句を言われる筋合いはない。

 そして大抵の場合、日直は二人組だ。男子と女子だったり、出席番号の奇数と偶数だったり、名前の順の先頭と最後尾だったり。学校や組によって違うかもしれないが。

 因みに、ウチのクラスでは日直は男女のペアだ。女子の方が人数が少ないので、必然的に少しずつ、順番がずれて来る。誰が考えたか知らないが、全く有難迷惑なシステムだ。

(…お陰で、こんな面倒を背負いこむ羽目になる)

 まぁ、端的に言えば、相方が勝手に帰ってしまった訳だ。『他の雑用は全てやるんで、日誌だけ書いといて下さいね』とお願いしたのに…頼み方が拙かったのか、前から僕の事が嫌いだったのか、それともただ単に面倒くさかったのか…原因はさっぱり分からない。もしかしたら、その全てなのかもしれない。

(…腹減った)

 兎に角僕がゴミ出しから帰ってきたら、僕の机の上には積りたての雪みたいに真っ白の日誌が置かれていた。今までキリキリ一人で日直の業務をこなして来た反動か、それ以降僕はこうして、縁側の老人宜しくぼんやりと窓の外を眺めて時間を過ごしている。もう1時間近くここでこうしている。自分でも馬鹿みたいだと分かる。でも、どうしてもやる気が湧いてこない。

(…一人で80%くらい終わらせた日直の業務が、100%になるだけじゃないか。簡単だろ?)

 これが終われば帰れると、幾ら自分にそう言い聞かせても、手は一向に仕事しようとはしない。まぁ、手が動かないのだから仕方が無いんだと、僕は窓の外を眺めてのんびりと微睡む。窓から入って来る風が気持ちいい。野球部の顧問の怒鳴り声が遠くに聞こえる。真っ白の日誌を、相方の机の中に突っ込んで帰ろうか、と一瞬思う。思うだけだ。実行はしない。そんな大した度胸は持ち合せて居ないから。

(…この野郎、覚えてろよ、アイ―アイザワだったか、アイカワだっけか?)

「ね、」

(アイ―アイが付くのは確実なんだよな。出席番号も前の方だったし。アイ―なんだったっけ。下の名前も結構あやふやなんだよな。取り巻き共は渾名で呼んでるから…)

「ねえ、キミ、どうしたの、こんな所で?」

 ―目を開ける。

 いつの間にか、眠って居た様だ、と思う。何度も目を瞬く。窓の外からは、相変わらずの雑多な喧騒が途切れずに響いて来る。どうやら寝過ごした訳じゃ無いらしい、と思う。5分か10分か、15分か。口の中がパサパサに乾いていて、気持ち悪い。

「おーい」

 目を上げる。僕の机の前に、見知らぬ女子が立っている。綺麗な長い黒髪、夏服の上からカーディガン、途中で結ぶのを諦めたのだろう、結び目がぐちゃぐちゃなリボンのタイ。切れ長の目、悪戯っぽい唇。

(?)

 少なくとも同じクラスでは無い、と思う。まぁ、40人程度のクラスメイトの名前も全部覚えて無いくらいの記憶力だ、そんな確信を得る程でも無いが。

「ねぇ、キミ」

「………僕ですか?」

「そりゃそうでしょ。他に誰も居ないんだし」

「…日誌を書いて居ます」

「寝てたみたいだけど?日誌、真っ白だし」

「寝てから書こうと思ってたんですよ。今日は色々あって、疲れましたし」

「ねえ、何でそんなに死にそうな声なの?」

「ネェネェ煩いな。あんた山羊の親戚か何かか?声が死にそうなのは寝起きだからだよ。寝起きで死ぬほど頭が重たいんだ。そして日誌も死ぬ程進んでいない。ついでに死ぬ程面倒な女に絡まれている」

「ふーん。手伝ってあげようか?」

 僕はシャーペンをリフトアップする指を止め(5kgのダンベルよりも今は重たく感じる)、体面に立つ女子の方をまじまじと見る。その子は穏やかな笑顔を浮かべている。裏表の無さそうな表情に見える。

「…金なら無いぞ」

「あっはっは。たかる積りならもうちょっと金持ってそうな奴のとこ行くよ。それこそ、センセーとかね」

「…そんな金持って無さそうに見えるか、オレ?」

「持ってるの?」

「いや、持ってないけど…」

「ほら」

「ほら―って、お前。いいか、オレが今、金を持ってないのは、先月使い込み過ぎたからであって、別にこれはオレが恒久的に金を持って居ないとかそういうことでは―!」

「そんな下らない見栄、張って無いで。で、どうするの。手伝って欲しい?」

 僕は言葉を止める。シャーペンを手の中で回す。真っ白な日誌を見下ろす。

「…いや、いいよ。後はこれを書くだけだし、日誌を書くなら二人も要らないしな」

「そう?」

「ああ。うん、悪いな。有難う」

「ふふ。そんな、私何もしてないのに」

「起こしてくれただろ?」

 笑う。自分でも、頬の辺りが引き攣っている様な気がする。こういう時に、さりげなくこういう事を済ます奴がモテるんだろうなぁと、今日考えた事柄の中でもぶっちぎりに情けない思考が頭の中を占有する。ちょっと泣きたくなる。頬の辺りをこっそりマッサージして、少しでも笑みを揉み解そうとする。

「次からは目覚ましで起きてね」

 そう言って、彼女は―。

「荻野くん」

 ―僕の耳元に、鼻先を寄せる。

(?)

(な―)

(これ、まだ夢?)

「やっぱりキミ、良い匂いするね」

「―」

「犬を飼ってるの?今度連れて来てよ」

 彼女はそれだけ言うと、ひらひらと手を振って、足音も無く教室を出ていってしまう。僕は彼女の消えた方角を茫然と眺めている。彼女の鼻先が触れた耳を撫でる。シャープペンシルを持ち上げる。

「―?」

 しゃっくりが出る。

(なんだコレ?)

(良い夢だなぁ。まだ夢の中か?耳がくすぐったい。あの子の髪の毛が触れて―)

(良い匂いがした。花の香りだ。あの香り、なんて言うんだっけ。何処かで嗅いだ事が…)

 …結局、僕が日誌を書き終える事が出来たのは、それからたっぷり30分も後の事だった。




「ちょっと、ユースケ」

「…なんだよ、母さん」

「アンタ、帰ってきたら、ただいまくらい言いなさい。黙って冷蔵庫をゴソゴソゴソゴソ、母さんあんたの事泥棒かと思ったわよ。もう少しで発砲する所だったわ」

「…いつから日本は銃社会になったんだよ?」

「ほら、良いから『ただいま』は?それに、うがいと手洗いはしたの?それから、犬の散歩は?」

「煩いな。そんな一辺に、ゴチャゴチャ言われても―」

「―あんた!親に向かって煩いとは何よ。あんたの下手糞なギターの音の方が何倍も煩いわ。あれもう使わないなら、芳ちゃんにあげて良い?ほら、2軒隣の芳ちゃん。あの子が最近ギタ―欲しがってるって、芳ちゃんのお母さん言ってたから―」

「…嫌だよ。あれはまだ使う。今は時間が無いだけだ」

「いいや、そんな言い訳するヤツは、どうせ何時まで経ってもやりゃしないね。ホントにやる気がある奴なら、言い訳なんかしないで黙々とやるもんだ」

「煩い。母さんに、オレの―」

「―それに、あんたに楽器は向いてない。母さんにゃ分かるんだ。なんせあんたはあたしの子だからね。母さんだって壊滅的に楽器が下手だった」

「…そんな悲しい説得しないでよ。少しは夢見させてくれ」

「みんなで友人の結婚祝いに、ちょっとした演奏する事になった時も、みんな母さんにはカスタネットも持たせちゃくれなかった」

「なにその悲しいエピソード…」

「そら、とっとと行って来なさい、犬の散歩。それが終わったら、晩メシにするよ」

「あ、あの、今日疲れてるんだけどオレ、物凄く―」

 ―日誌を書き終えて。

 それを先生に提出して、電車で一駅、片道20分の通学路を、いつもより時間を掛けて歩いて。

 家に着いて、おやつを食べながら、グダグダと管を巻いて。

 いつの間にか、時刻は18時近くだ。母さんは言いたいだけ言うと、犬のリードを僕の肩に引っ掛けて、さっさと行ってしまう。僕は二つ目のプリンを口に収めながら、暫く逡巡する。

(…正直、今日くらいサボってしまいたいなぁ、散歩。肩の辺りが滅茶苦茶筋張って痛いし)

 ―ま、結局は、家の主には逆らえやしない、という結論に達する。反抗したって、晩ご飯のおかず一品抜きやら、風呂掃除トイレ掃除エアコン掃除炊事洗濯、その他諸々の別の罰則のオプションが付くだけだ。今日はどうやら厄日らしい。大人しくしておく事に越した事は無い、と思う。

(それに、元々全部一人で面倒見るから、って約束で飼って貰ったんだよな、確か…)

(…まぁ、そんなこと言って、餌やりと散歩くらいしかしてないんだけれど)

(そんなんだから、ジョンも母さんの言う事ばっか、大人しく聞くんだろうなぁ…)

 嘆息と共にプリンを飲み込み、間食の後始末をしてから、家の裏手にある猫の額程の庭にある、ジョンの犬小屋を訪れる。ジョンはいつも通り、小屋の内側に蹲って鬱陶しそうな目をして僕を見上げる。僕は小屋の前にしゃがみ込み、ジョンの目の前で母さんに渡されたリードを軽く振ってみる。ジョンは勢い良く鼻を鳴らすと、小屋の中で方向転換をして、僕の方にゆっくりと尻を向ける。

「可愛くねぇヤツ」

 僕は小屋の中に手を突っ込み、ジョンの首輪を掴んで、無理矢理外へと引き摺り出す。ジョンはロクに抵抗しない。まぁ、いつもの事だ。最初少しだけ踏ん張るが、それが過ぎれば後はもうされるがままだ。砂袋を引き摺るみたいに、ずるずると外に這い出て来る。

(…ま、大型犬なのがネックだけど。腕がダルい…)

(ゴールデンレトリバー)

(…しっかし、こんな散歩嫌いな犬、他に居ないぞ?小学校の頃の同級の家の犬なんて、リードの金具の音だけで飛び出して来てたのに)

(もうトシなんかねぇ?まぁ、もう10歳くらいだしな…)

 ジョンの首輪にリードを付ける。ジョンはその場に伏せたまま、恨めしそうな顔をして僕の事を見上げる。掠れた声で、哀れっぽい鳴き声を上げる。

「…そんな声出さないでくれよ、ジョン。我が家のボスからの命令なんだ」

 僕はそう言って、立ち上がる。ジョンはそれを聞いて諦めたみたいに、バフッ、と大きく息を吐き出して、のろのろとした足取りで僕の後に続く。


 空のビニールの袋を尻ポケットに突っ込み、シャベルをリードを握る手と反対側にぶら提げて、いつもの散歩コースをのんびり辿る。町内をぐるっと一周するコースだ。川沿いの土手を通り、国道へ出て、駅前を北へ通り抜け、ここいらで一番大きな公園へと行き、そこでウンコして帰る。いつもの散歩コースだ。公園でウンコをする所まで含めて。公園で遊んでる餓鬼共の保護者が、時折もの凄い目で僕の方を睨んでいたりするので、僕としては、そろそろ別の場所で粗相して欲しいものだが。

 のんびりと歩いているのは、別に僕がそうしたいと言う訳じゃない。というか、僕は今直ぐ散歩を終えて、一刻も早く家に帰りたいと思っている。こんなヨボヨボの老犬を引き摺って歩いているのを近所のクラスメイトの奴らに見られたくはないし、これを終わらせないと晩飯も食べられないし、そもそも僕はもう今日の学校での出来事の所為でクタクタだ。

 のんびり散歩しているのは、ジョンが理由だ。

 昔は僕の手からリードを捥ぎ取って、自由に散歩コースを駆け巡っていたジョンも、流石に寄る年波には勝てない、という訳だ。今や、首輪で毛が逆立つくらいに体重を後ろに掛け、僕から二人分は遅れて後を付いて来る始末だ。時々、噛み切れないかと期待するみたいに、がしがしとリードに無気力に牙を立てる。

(…石灰袋でも引き摺ってるみたいだ…)

 ジョンの足取りは重たく、どれだけ早い時でも、散歩には優に30分以上掛かる。偶に、何の為にこんな事をしているんだろう、と思う瞬間がある。

(…ジョンの為の散歩なのか、僕の為の散歩なのか)

(こんなに、本人―本犬が行きたくなさそうにしてるんだ、今日くらいサボっても良いと思うけどねぇ?)

(母さん、そういうとこ融通利かないからなぁ―)

「…だから、何でこんな所まで来たのか、って聞いてるの」

「いや、矢張り、分かり易い地形を目印にしようと思ってな―」

(?)

 緩やかに北西へカーブを描く川沿いを歩いていると、道の先で、二人の男女が言い争っているのが目に留まる。言い争う、というよりかは、鋭い口調で詰問する女性に、男性の方が必死に言い訳している、という感じだ。男性の方は大きな地図を手元に広げている。この辺では見た事の無い顔だ。迷子にでもなったのだろうか、と思う。

(…二人とも、金髪だ。金髪に、赤い目。外国人だろうか?日本語で喧嘩してる…)

「だからって、何でこんな所まで来る必要あんの?」

「これは川だ」

(ディスイズアペン、的な日本語)

「見りゃ分かる。目的地は駅前でしょ?」

「その、川沿いに建っている建物の筈だからな。こうやって、ここから川沿いに北上していけば―」

「―そんな面倒な事しなくても、さっきまで居た場所が駅前じゃない!私達、何に乗ってここまで来たと思ってるの?良い、地図を貸して、兄さんに任してらんない」

「止せ、カミュ、俺は未だ失敗した訳では―」

「―とうの昔に失敗してんだよ!川だって駅前まで繋がってたでしょ!?良いから地図寄越せ!!」

「わ、馬鹿―」

 無言で横を通り過ぎようとしたその時、目の前で件の男女が、地図を巡って取っ組み合いを始める。僕は吃驚して、思わず立ち止まってしまう。僕が止まったのをこれ幸いとばかりに、ジョンが素早く地面に尻をくっつける。僕は事態に気付き、慌ててリードを思いっきり引っ張るが、こうなったジョンは梃子でも動きはしない。舌をだらりと地面に向かって垂らして、面白い見世物でも見る様な目で、金髪の兄妹達の喧嘩を眺めている。

 金髪赤目の兄妹達の喧嘩は続く。喧嘩―というよりか、妹から兄への、一方的な罵倒の嵐だが。

「―地図を寄越せって言ってんでしょ!家の中でも迷子になる癖に、どうしてあんたが地図を持ってんのよ!」

「あのな、我らの邸宅は、一般的な過程と比べるとかなり広いぞ。迷子になったとしても何もおかしくはない。それに、迷子になったのは、もう遠い昔の話で―」

「―さっきも駅の構内で迷子になったでしょ!良いからさっさと地図を渡す、早くしないと日が昇っちゃうわ!」

「日が暮れる前からもう昇る時の心配か?それは杞憂というものだ。それに、駅の中での事は、俺に非は無い。尋ねた御仁の説明が悪かったのだ。『ホーム』と言われたら、それは即ち家の事を指すと、誰しもそう勘違いするだろう?」

「―何で見ず知らずのおっさんがあんたの家を知ってんのよ―」

 僕は恨めし気な目でジョンを見る。ジョンは素知らぬ顔で尻尾を振っている。ビリッ、と引き裂く様な音がして、目の前で派手に地図がビリビリと木っ端に割れる。「あ、おい―」「―この馬鹿兄貴―」「―なんだ、俺の所為か―!?」妹が、千切れた地図の切れ端を丸めて、思い切り兄の頭にぶつける。思いの他良い音がする。

「―やったな、この―」

「―兄さんの所為じゃない、兄さんの馬鹿。地図も無くなって、これからどうすんのよ―?」

「―大丈夫だ、落ち着け、おい。地図は未だ半分ある。これから我々は、川沿いに北上して、住宅街に分け入り―」

「…兄さんと一緒じゃ、年が明けても辿り着けやしないわ」

「―あ、あの」

 声を掛ける。兄妹達の揃いの赤色の目が、僕の方へと向く。

 思わず、溜息が出る。

「…失礼ですが、その、もしかして迷子ですか?」

「だったら何だって言うのよ?」

 妹の刺々しいその口調に、自然と苦笑が浮かぶ。ジョンを見る。無駄とは思いつつ、リードを引っ張る。ジョンはまだ動く素振りを見せない。それどころか、アスファルトの上にべったりと腹を付けて、伏せの体勢に移行までしている。

(…立ち止まるんじゃ無かったなぁ。こうなるって分かってたのに)

(しかも、よりによって喧嘩してるすぐ隣で)

(気不味いったらありゃしない。時々、コイツ分かってやってるんじゃないか、って思う事、あるな…)

「あの、オレこの辺に住んでるんで、良ければ案内しましょうか?目的地の名前か何か、分かります?…あ、このバカ犬の休憩が終わったら、ですけど」


「マンションを探している」

「はい」

「6階建ての建物だ。『フェリス福比良』という。聞いた事はあるか?」

「ああ、多分、駅前のマンションですね。駅のすぐ南の、赤煉瓦みたいな見た目の壁の…」

 ―ジョンが、たっぷり5分の小休止、それから、1分程の便休憩を終えて。

(…金髪兄妹の妹が、汚物を見る様な目でジョンを眺めていたのが、印象的だった)

 僕は再び川沿いを、散歩コースに沿って北上し始める。金髪で赤目の、風変りな連れを二人、伴って。兄妹達は―というより、妹の方は、未だに兄の失敗が許し難いのだろうか、兄を避ける様に、兄との間に僕を挟む様にして、少し遅れて歩いている。その妹からも遅れて、ジョンがヨタヨタと僕らの最後尾に続く。

(…正直、気不味いから止めて欲しい)

「聞いた、兄貴?駅前だって」

(刺々しい口調)

「うむ。いやあ、親切な御仁に出会えて助かったな、カミュ!」

(ゴジン)

「…何が、助かった、よ。結局目的地は駅前だったんじゃない。しかも駅のすぐ近く」

「確かに我々は目的地を少し通り過ぎてしまったようだがな。そんな目先の事ばかりに捉われていてはいかんぞ、カミュよ。どの道、あの広大な地図から、我々が目的地を探り当てるのは難しかっただろう。しかし、こうして現地を歩き、この辺りの地形を把握する事は、今後に於いても決して無駄にはならない。それに、近隣住民とこうしてコミュニケートも―」

「…兄さんのそういう所、ホンッット、ムカつくわ」

「何?どういう所の事の話だ?」

「さあね。何でもかんでも人に聞いてないで、少しは自分の頭で考えたら?どんな事でも屁理屈で正当化しようとして、決して自分の非を認めようとしない所とか、極度の方向音痴の癖に決して妹に地図を渡さない所とか、ああ、それとも、コンビニまで描いてある様な縮尺の地図を広大呼ばわりする所とか、そのバカみたいな黴臭い喋り方かしらね。或いはその全部かも」

「…何?つまりどういう事だ!?」

「………『くたばれ』って事よ、クソ兄貴」

(苦労してんなぁ…)

(―だからと言って、通りすがりの僕を挟んで、兄弟喧嘩をする理由にはならないが)

 川沿いの土手道が途切れ、国道と交わる。僕は川から数歩離れた場所にある、押しボタン式の歩行者信号のボタンを押す。右を見て、左を見る。4車線の舗装道路の、どのレーンにも車は走っていない。だからと言って、僕だけは信号を無視するわけにはいかない。交通ルールの問題では無く、横断中にジョンがどんな気紛れを起こすか、分からない所為だ。

(…昔、横断途中で、ジョンが座り込んじまった事があったっけ。あん時は、ギロチンに首を預けた気分だったな…)

「おい、少年」

「はい?」

「川から離れてしまったぞ」

「たった5メートル程度じゃないですか。我慢して下さい」

「ううむ、しかしだな、件のマンションは川沿いにあって―」

「ここも十分川沿いですよ。それに、マンションの場所は、ちゃんと分かってますから」

「ああ、いや、しかしだな、その、少年、御仁―」

 急に不安に取り憑かれた様に、しどろもどろと質問する兄を尻目に、漸く怒りの波が引いて来たのか、それとも諦めの境地に達したのか、妹の方は、信号待ちのジョンと戯れている。頭を撫で、耳先を軽く引っ張り、喉元の毛を掻き混ぜて。ジョンはその場に突っ立ったまま、されるがままになっている。微動だにしようとしない。愛想の欠片もあったもんじゃない。

(…無愛想な犬だな。まぁ、我が家の犬なんだけど)

(飼主に似るって言うけど、ありゃあ嘘だな。僕ならあんな美人に絡まれたら、そりゃもう千切れるくらい尻尾振って―)

(…今、凄いオッサンみたいな事考えたな…。まだ16だぞ?)

「…ああ、失礼。君、名は何と言う?」

「は?」

「そう言えば、道案内をしてもらっているのに、名前も聞いて居なかったと思ってな。差支えが無ければ、教えてくれないか?」

「荻野です。荻野祐輔」

 名前を問われ、少し考えて、結局、特に隠す程のものでも無いという結論に至り、馬鹿正直に自分の名を名乗る事にする。

(身分証や個人番号なら兎も角、名前だけじゃあ悪用は出来んよな…)

(見ず知らずの人だけど、悪い人達じゃなさそうだし)

(…というか、悪人は多分、迷子になって道端で喧嘩したり、しないよな…)

「こっちは犬のジョン」

「ああ、ジョン殿に―オギノ殿か!して、オギノ殿、君はこの辺に住んでいるのか?」

「ええ」

「住所は?」

「は?」

(住所)

(それは、流石に―ぺらぺら喋るのは、ちょっと)

「はぁ、まあ、それは―この辺りですよ。小東平」

「コヒガシタイラ―成程な。コヒガシタイラ。それで、番地は?」

 僕は押しボタン式の信号機から目を離し、改めて金髪兄妹の兄の方へと目を向ける。兄は取り繕う様な笑みを浮かべ、何度も瞬きを繰り返している。目が合うと、兄は直ぐ様その赤い目を明後日の方向へ逸らす。空いた手で、頻りに首の後ろを掻いている。

(小学校の通学路に貼ってあった、注意喚起のポスター、思い出した)

(黒いスキーマスクを被った男の上に、でかでかと標語が貼ってあるんだ。また、ファンシーなタッチの絵柄なのが、妙に怖かったな。子供達には大不評だった…)

(『もうやめよう あやしいひとに ついてくな』)

「………どうしてそんな事、知りたがるんです?」

「え!?ああ、それは、念の為―じゃなくて、何と言えば―安全の為に―というかだな、ううむ―」

 ―信号の変わる音がする。僕は金髪兄妹の兄から数歩離れて、横断歩道の対岸に向かってそそくさと歩き出す。リードの先で、ジョンがおっさんみたいに、億劫そうにのっそりと尻を持ち上げる。金髪兄妹の妹が、手に付いた犬の毛を、両手を打ち合わせて丁寧に払い落すのが見える。

「う―そうだな、では君は、何年前からここに住んでいる!?一体何年程、この辺りで―」

                                  ―ゴス。

(?)

 背後で少し鈍い音がする。音に釣られて、僕は横断歩道の半ばで後ろを振り返る。横断歩道のボタンの傍に、金髪兄弟が仲良く立っている。

 兄は頭を抱えている。

(…何だ?)

「―何をするカミュ!?これは必要な事だ、分かっているだろう?我々は万難を排して、この地に根差さねばならんのだ!無論、彼を疑っていると言う訳ではない、だが、万が一の為―!」

 熱弁する兄の後ろで、妹は溜息を零す。右手で自分の額を擦り、左手を高く振り上げる。

 それを真直ぐ、兄の頭に振り下ろす。

                                  ―ゴス。

 さっきの鈍い音がする。

(ああ)

 音の正体に納得する。兄は頭を抱え、呻きながらその場にゆっくりとしゃがみ込む。妹はその兄の首根っこを掴み、僕がジョンを小屋から散歩に連れ出す時みたいに、ずるずるとそのまま引き摺って、横断歩道をこちら側に歩いて来る。

(…犬と人間だ。腕力の違いは、比べるべくもないが)

(スゲー力)

(…もしかして、格闘選手か何か…?)

「マンション」

「は!?」

「…こっちで良いんだよね?言ってたマンション」

「ああ、はい、この先もう少し、2、300mくらい先に―」

「ん。分かった」

 妹さんはそのまま、兄を引き摺って、横断歩道の先に行ってしまう。僕はその背中を、茫然と見送る。歩行者信号が点滅を始めてから漸く、僕は慌ててその背中を追い掛ける。

「―おい、ジョン、頼むよ、お願いだ、頼むから立ってくれって―!」

 …横断歩道の真ん中でくつろぎ始めたジョンを、宥め賺しながら。


「カミラ」

「は?」

 兄の襟首を掴んで先を歩く金髪の少女が、突然口を開く。咄嗟に意味が理解出来ずに、間の抜けた音が自分の口から漏れる。彼女は立ち止り、億劫そうな、うんざりした様な顔をして、僕の方を振り返る。

(…何?)

 どうして良いか分からず、咄嗟に彼女の兄の方を見る。兄の方も兄の方で、彼女が何を言っているのか分かっていないみたいだ。両目をぱちくりとさせながら、初めて目にしたものを見る様な目で、妹の横顔を物珍しそうに眺めている。

(…全く。この兄は、本当に)

「名前」

「はぁ」

「…そっちに名乗って貰ったのに、こっちの名前、教えて無かったから」

「あ―ああ。それはどうも、ご丁寧に―」

「私の名前はカミラ。で、こっちのバカが―」

「―ああ。そうだな、俺とした事が。名前を尋ねて置いて、こちらが名乗り忘れるとは非礼の極み。申し訳ない、許されよ、少年。そして遅れ馳せながら、我が名を名乗る機会を与えてくれ。我が名は、アレクセイ・フォン―」

                                  ―ゴス。

 鈍い音がする。又も、さっきのあの鈍い音が。

 僕は苦笑を浮かべて、訳も無く目を逸らす。目を逸らす直前、妹の顔が凶悪に顰められていくのが一瞬、見える。兄は不思議そうな顔をして周囲を見渡し、妹の様子に気付く素振りも無く、先程の科白を繰り返そうとする。

「我が名は、アレクセイ・フォン・アーデ―」

                                  ―ゴス。

「…アレックスよ」

「はい」

「マンション、未だ遠い?」

「もう直ぐですよ。あの信号越えて、後は真直ぐです」


 駅前には、群生する筍の様に同じぐらいの背丈のビルが乱立している。僕は、その内の一つ、目当ての物件へと迷わずに足を運ぶ。通学路沿いに建つ、目立つ外観の6階建てのビルだ。赤レンガ風の、黒く煤けた外壁。他のビルは味気無い灰色のコンクリート造りの物件ばかりなので、赤煉瓦の風貌はその中で殊更浮いて見える。ビルの入り口には、薄汚れた金縁の中に、細筆書き風の階書体で文字が彫られている。

【フェリス福比良】。

「…ああ、ここですね」

 僕はそこで足を止める。ジョンも、待ってました、と言わんばかりに、僕の傍らに座り込む。僕は金髪の兄妹達へと向き直る。

「ホントだ。どうもありがとう、ええと―」

「荻野。荻野祐輔です」

「―ああ、そうだったわね、オギノ。御免なさい、私、人の名前を覚えるのが苦手で。その、何かお礼をしたいのだけれど―」

 思わず苦笑が浮かぶ。僕はそれを、気付かれない様に左手の掌で拭う。

「別にいいですよ。元々、犬の散歩のついででしたし。それに、大した手間でも無かったですから」

(…嘘は言っていない)

(本音を言うと、この兄弟達にはこれ以上関わり合いたくない。見目麗しい金髪赤眼だし、遠くから眺めている分には問題無いけれど、こうやって、積極的に関わるとなると―なんというか、こう、疲れるというか、しんどいというか、その、精神が摩耗するというか)

(お兄ちゃんの方は、何やらパラノイア的な妄言を発症していたし。それに、このド田舎でやる事があるとか何とか、うん。彼らには何かしらの事情があるみたいだ。何かしらの、関わり合いになりたくない類の複雑な事情が)

(病んで田舎に療養に来た兄と、それに付き添いで付いて来た妹―とか?)

(態々日本に?多分、外人だよな。名前もカタカナだったし。それに、金髪…)

(まぁ、ハーフとか、クォーターとかの可能性もあるけれど)

(何にせよ、彼らが悪いと言う訳ではない。一重に、僕の社交性の無さが原因ではあるんだが…)

(…この兄妹は僕の手に余る。僕のキャパシティの埒外の存在だ)

「でも、ここまでこうして連れて来てくれたんだし―」

「そうだぞ、ユースケ。我が家の家訓にもある、『他者の親切には、義を持って報いるべし』と。遠慮するな、さぁ、上がって行ってくれ、せめてお茶の一杯でも―!」

「―このバカもこう言ってる事だし。ね?」

「済みません、折角ですけど」

 僕は手の中で、ジョンのリードを軽く振る。

「…散歩の途中ですし。まぁ、また今度、又の機会にでも」

「そう、残念。それじゃ―」

「―そうか、うむむ、用事があると言うなら、引き留める訳にも行くまいな。致し方無い―だが、分かった、それでは、次の機会に―!」

「―また今度ね。何か好きなお菓子でもある?リクエストがあれば、用意しておくよ」

「え?ああ―特には、その」

「そう?それじゃあね。ほら、いくよ、馬鹿兄貴」

「うむ、では、去らばだ、ユースケ!―なぁカミュ、お前、さっきから俺の事バカバカ言い過ぎじゃないか?」

「?言って不味い事でもあるの?」

「本当にそうだと思われたらどうするんだ?」

「何も問題無いじゃない。それより、さっきのあの、家訓って、何?私初耳なんだけど―」

 ―兄妹達がマンションの中へと入っていく。僕は遠慮がちに手を振って、その背中を見送る。二人を見送った後、ジョンへ目を向ける。ジョンは溜息を吐くみたいに、長々と盛大に息を吐き出した後、ヨタヨタとその尻を大仰に持ち上げる。

「おら、行くぞ、ジョン」

 ジョンは素っ気なく鼻を鳴らす。

「…なんか、変な兄妹だったな、ジョン?」

 ジョンは同意する様に、喉の奥で小さく唸り声を上げる。僕は微笑を浮かべる。

「さぁ、母さんが、飯を作って待ってる。出来れば20分くらいで、何とか家に辿り着きたいんだけど」

 ジョンは大儀そうに尻尾を振る。僕は手の中でリードの先端を振る。

「―分かってんのか?後は全部、お前の頑張り次第なんだぞ、ジョン?」







『皆さん、静かに、静かにして下さい―』

「なあ、オギ、オギやん」

「おう」

『静かに、皆さん、お静かに―静かにしないと、1時間目始まっても皆このままですよ―こら、そこ、私語は慎む様に!では、これより、6月14日の全校朝礼を始めます。気を付け―!』

「―見ろよ、おい。夏服だぞ?うぇっへっへ、衣替えってのはいいもんだな、え?」

「おう」

 後ろから頻りに話しかけて来る悪友・柏木の言葉を聞き流す。未だ6月だってのに、今年の暑さはもう酷い有様だ。天気予報士が言う事にゃ、もうとっくに30度を超えているらしい。校庭に居並ぶ他の生徒達も、皆気怠そうに朝礼台の壇上を見上げている。校庭を蒸し暑い風が撫でる様に吹き抜ける。こんな日くらい、涼しい体育館の中でガンガンにクーラー効かせて朝礼やったらいいのに、と思う。

(…どうせ、全校朝礼なんて月に一度なんだし)

『―それでは、先ずは校長先生のお話から―』

『…あー、それではどうぞ、皆さん楽にして下さい。えー、最近暑くなって来て、こないだ梅雨入り宣言も出された訳ですが―』

「あー、俺この瞬間が一番、高校生やってて良かったなーって思うわ。冬服も良いけどさ、やっぱ夏服の謎の無防備感が堪んねぇわ。な、オギやん?そう思うよな?あのカッター一枚剥いだら後はもう下着な訳だよ?」

「おう」

『…えー、その甲斐あって、先日、我が家の縁側に紫陽花が咲きまして…』

「カシ、煩い」

「おう」

「煩くねえわ。な、オギやん?」

「おう」

「―しかも、喋ってる内容がキモすぎるんですけど。どこのおっさんだよ」

「おう」

「おっさんじゃないですー、心も体もピチピチの16歳ですぅー、まだ肌が水ちゃんと弾きますぅー」

「おう」

「うわっ、ウザッ。キモい上に、ウザッ」

「おう」

『…つまり、何が言いたいかと申しますと、えー、一度駄目になったものにも、やり直す機会は必ずある、と言う話でして…』

「―それに、一応教えといてあげるけど、大抵の女子はちゃんとカッターの下にTシャツ一枚着てるよ」

「おう」

「マジで!?え、で、でもそれってさぁ、こ、こ、校則違反ってヤツなんじゃあないの?ほら、第10条2項とか何とかに書かれてるとかどうとか何とか、俺前一回服装検査で注意されたもん、学年主任の藤谷に、学ランの下に赤シャツ着て来た時さ、あー、『学校既定以外の服装は、着用して登校するべからず』とかそういうあれを小一時間何とかさぁ…」

「―んなの、最初から誰も守って無いよ」

「おう」

「―てか、あんただって守ってないじゃん。それ、その下」

「あ?…ああ、いやこれ、体操服。ほら、この後体育だからさ。体操服は学校指定の服装。お分かり?ドゥー・ユー・アンダァスターン?」

「ウザッ」

「おう」

 校長先生の話が終わる。僕は朝礼台を降りていく校長先生の輪郭をぼんやりと目で追いかける。

(…やれやれ、漸く終わりだよ…)

『―では、全校朝礼の閉会前に、連絡事項を―』

「あー、やっと終わりかー、相変わらず校長の話は無駄に長ぇなぁー、そしてオチも無い」

「―ていうか、1限、体育かぁ…。クソ、あんたの所為で、嫌なこと思い出しちゃったじゃない」

「…え?それはいずれ、誰もが思い出すんだから、早目に思い出させてくれた俺に、寧ろ感謝するべきなんじゃないの?」

「早目に思い出して、何の得があんのよ?」

「………覚悟が出来る?」

『―2-2は1限目を自習にし、個別面談を行います。面談の内容は誰にも明かされる事はありません。勇気を持って、知っている事を話してみて下さい。それから、他の各学年の生徒諸君―』

(?)

 僕は顔を上げる。

 漠然と、朝礼台の方に傾けていた意識を、全校朝礼を進行する声の方へと向ける。いつもの連絡事項と違う、と思う。いつもの、花壇を誰それが踏み荒らしただとか、体育館の天井照明が、いつの間にか、幾つか壊れているだとか、下校時は真直ぐ帰宅するようにとか、そういった連絡事項とは、違う感じがする。

『―外部の人間に、悪戯に情報を漏らさない様に。あなたが軽い気持ちで吐いた嘘や、真偽のはっきりしない噂話が、要らぬ混乱を招く事になるかもしれません。それが無関係な人間を傷付ける可能性も―』

「―何だ?ガイブの人間…?」

「さぁ…。それに、2組だけ、個人面談だって」

「なんだろな。2組でなんか、あったのか?」

『―良いですか?くれぐれも、余計な事は口にしない様に。それが不必要な騒動を招いた結果、学校側がそれに対して、責任を負う事が出来ない可能性もあります。良いですか、くれぐれも皆さん、自分の言動に各自、責任を持って、賢明な判断を―』

「…イジメかね。そんで誰か、自殺でもしたとか?」

「どうだろ、そんな話、聞いた事無いけど…」

「俺だってそうだけどさぁ。でも、分かんないじゃん?別のクラスなんだし」

『―特に…』

「―なぁ、オギやんは―」

『…刑事や記者を名乗る人物には、くれぐれも、くれぐれも慎重に、言葉を選んで下さい』

 ―シン、と校庭が静かになる。

 池に小石を投げ込む様に、少しずつ、少しずつざわざわと、生徒達が密やかに騒ぎ始める。全校生徒と相対する様に前方に居並ぶ先生方が、生徒達の間を縫う様に、疑うような視線を徘徊させる。僕は右隣のクラスを、2組の方を見る。その内の一人の女子と目が合う。彼女は困惑した様子で、僕に向かって緩やかに、言い訳をする様に静かに首を振る。

(―刑事や、記者)

(刑事…?)

「なぁ、オギやん…」

『―では、これにて全校朝礼を終了したいと思います。それでは皆さん、昇降口が混雑しない様に、1年生から各自、校舎の中へと、先生方の誘導に従って―』

「…なんだろ、これ。何か知ってる?」

「荻に聞いてもしゃあないでしょ。他人に興味なんて無いんだから」

「おう」

「はぁ!?お前にオギやんの何が分かんだよ。確かにオギやんは、大親友である俺の下の名前も時々、や、かなり頻繁に、あやふやになる所あるけど―」

「…それは、あんた、それ、その事実に文句はないの?ええと、大親友としてはさ」

「―けど、実はこう見えて、物凄いむっつりスケベなんだよ!!」

「何の話よ」

「おう?」




「そういや、行方不明らしいね」

 机の向こう側で、柏木が言う。

 僕は顔を上げる。口の中の卵焼きが上手く飲み込めなくて、少し噎せる。

「…大丈夫、オギやん?」

 僕は無言で頷く。どうしてだか、無性に自分が情けなくなる。

 昼休み。

 僕は柏木と一緒に、教室で昼食を取っている。結構珍しい事な気がする。柏木は、何かと昼食を教室の外で食べたがる、妙な癖があるからだ。学食や中庭、空き教室や体育館や(何故か鍵を持っている)屋上、果ては駅前のラーメン屋まで足を伸ばす事もある。

(…こっちは弁当持参だっつーのに)

「何が?」

「『何が』って、ほら。今朝の朝の朝礼の時の話だよ。覚えてないの?」

「頭痛が痛くて苦痛みたいな事言うな…」

「『外のヤツに要らんこと喋るな。2組は全員朝から個人面談』」

「ああ、そういえばそんな事、言ってたっけ」

「俺、2組の奴に聞いて来たんだよ、その事」

「へぇ…」

「オギやんがあんまり知りたがるからさ」

「…へぇ?」

 僕は弁当箱の上に揃えて箸を乗せる。それを見て、柏木は悪戯っぽく笑う。どうやら、僕が聞く体勢を態々整えた、と思ったらしい。

「行方不明になったのは、園部美佳ってコ。いなくなったのは昨日だって。夜遊びなんてしない真面目なタイプの子らしくてさ、いつまで経っても帰って来ないのに耐えかねて、その子の親が10時過ぎくらいに警察とガッコに連絡したらしい」

「ほぉ」

「ケーサツは目下の所捜索中、って感じ。学校の方は園部チャンの知り合い集めて、慌てて片っ端から事情聴取だよ。どうやら今んとこ、碌な情報は無いみたいだけどね。4時くらいに、玄関近くで学年主任の藤谷が擦れ違ったのが最後」

「へぇ、部活の帰り?」

「いや、帰宅部だったらしいよ。それに、一人だったって。確か委員会終わりだったとか。同じクラスの奴は、荷物取りに教室の手前でそのまま別れたんだって。で、その後藤谷にあって、それから行方不明」

「何委員会?」

「図書委員。ピッタリだと思うよ。写真見る?」

 頷く。柏木はスマホを手早く操作して、それを僕の方に差し出してみせる。僕はそれを覗き込む。

 画面には、見覚えの無い子が一杯に写っている。

 自分でも薄情だなとは思うが、写真を見ても、可哀想だなとか、彼女は今無事でいるだろうか、等という心配の念みたいなものは、胸中に一切湧かない。写真は写真だ。綺麗な外国の風景写真や、悲惨な事故の現場を知らせる報道写真、それに、歴史上の偉人の遺影と似た様なものだ。綺麗だな、酷いな、或いは、こんな人が居たんだな、とは思うけれど、それが自分に直接繋がる訳ではない。

(…こんな子居たんだな、隣のクラスに)

 まぁ、たかだか一クラス程度の名前も覚えられない自分が、隣のクラスの人間を覚えてる訳も無い、と思い、それに妙に納得する。スマホの中の女子は、穏やかで、柔和で、大人しそうな表情をしている。ライトブラウンの縁色の眼鏡で、垂れ目で、恥ずかしそうに、丸耳を両手で隠す様にして。

 ―そしてとても長くてきれいな黒髪をしている、と思う。

(あ)

 なんとなく、あの昨日会った子を思い出す。昨日、放課後の教室で会った、あの名前も知らない女の子を。そういえば、あの子もとても長い黒髪だった。長くてきれいな―。

                 『―次からは目覚ましで起きてね、荻野くん』

「…オギやん?」

 彼女の事を思い出す。その事が、自分の薄情さに拍車を掛けている気がする。

「そんな顔するなよオギやん、まだこの子に何があったって決まった訳じゃ―」

 …どうしてだか、無性に自分が情けなくなる。

 どうしようもなく。




「ねぇ、君、ちょっと良いかい?」

 校門を出て直ぐの坂道で、見知らぬ男にそう声を掛けられる。無精髭だらけ、ハンチング帽を被って、火の点いてない煙草の端をくちゃくちゃと噛みつぶしている。怪しい人間を雛型に取って作られた様な男だ。僕は目を合わさずに、その傍を素早くすり抜けようとする。

「あ、ヤダ、ちょっと、連れないな~…」

 男は大股で僕の前に回り込み、進路を塞ぐ様に立ち塞がる。屈んで僕の顔を覗き込む。僕は視線から逃げる様に男に背を向ける。思わず舌打ちしそうになる。昨日の今日で、また変な奴に絡まれたなぁ、と思う。もしかしたらそういう星の下に生まれたのかもしれない。

(…勘弁してくれ…)

「別に怪しいものじゃないよ?ほらこれ名刺。分かる?まぁお兄さん所謂、ジャーナリストってヤツ。それが怪しい?ま、人に依ってはそうかもね。でも、見知らぬ大人の他人なんて、君ら位の年代からしたら、みんな胡乱な生き物じゃない?…ああ、これ、この煙草、気になる?これね、火ぃ点けてたら、あそこの守衛さんに滅茶苦茶怒られてね。ここは全館禁煙だ、って。子供たちの教育にも健康にも悪い、君には常識というものが存在しないのか、って。でもさ、良く考えたらここは厳密には校外なんだよね。ちょっとくらい吸っても罰は当たらないと思うんだけどなぁ。君からもあの石頭の彼に言ってくんない?」

 僕の胸ポケットに名刺を押し込みながら、男は聞いても居ないことを延々朗々と喋る。僕は真剣に校内へ逃げ込む事を検討する。

(校門の内側に逃げ込んで、守衛さんか先生に助けを求めて)

(男が居なくなるまで、校内でやり過ごす。刑事や記者に痛くも無い腹を探られたくないんだろう、学校側もちゃんと追い払ってくれる筈だ)

(ああ、一刻も早く家に帰って、クーラーの効いた部屋でのんびりしたいのに…)

「君、行方不明になった子とは知り合い?」

「違います」

「へぇ。君は何年何組?」

「2年3組です。園部さんは、2組。隣のクラスです」

「へぇ。行方不明になった子、園部さんていうの」

(ぐ)

「…らしいですね。噂になってますから」

「へぇ。他にはどんな噂が?」

(―向こうのペースに巻き込まれるな。じゃないと、今日も6時過ぎまで、ジョンの散歩に付き合う羽目になるぞ)

「…大した噂は無いですよ。行方不明になったみたいだ、ってだけで」

「神隠しの話とかは?」

「なんですって?」

「だからぁ、神隠しだよ。聞いた事無い?まぁ、今で言う蒸発みたいなもんだね、意味は結構違うけど。昔は人が突然前触れも無く居なくなった時、神域に消えた、と考えて来たんだ。まぁ一概には言えないんだけどね、天狗みたいな民間信仰における山の神の類から、鬼や狐みたいな妖怪みたいなものの仕業だって言う考え方もあるし―」

「…何の話をしてるんです?」

 僕は男を振り返る。男は微笑んで、僕の胸ポケットの名刺を引っ張り出して、僕にそれを見せる。

【月刊 境界を歩く/在籍記者/小林 縣】

「や、今月は、神隠し特集なんだよね~。それでここまできたら、丁度お誂え向きに、また誰かが消えたって言うじゃない?」

「…だから何の話なんです、さっきから?」

「だからさぁ、神隠しだよ、神隠し。さっきから何度も言ってるじゃない。この学校でしょ?12年前に女の子が消えたのって」

「12年前―?」

「ニュースで見なかった?ああ、2年生だって言ってたっけ君、てことは12年前は4歳か5歳か、そりゃ覚えてる訳ないわな。でも、あれから結構繰り返し、何度も話題になってるけど。ホントに見た事無い?まぁ興味がなきゃ調べないもんかな。けど、あれだけの事件、七不思議のひとつとかになってるんじゃないの?実を言うとさ、俺ァそれを調べに来たんだけれど―」

 ―男を見る。名刺を見る。文字列の上を目が滑る。文章が意味を成した羅列に見えない。全部、蚯蚓ののたくった様な線の集合体に見える。何が書いているのか分からない。

「え?」

 地面が抜けていく様な感覚だけがある。臍の裏から、空中に引っ張り上げられるような感覚。足の裏の感覚が無い。気の抜けた笑いが唇に浮かぶ。見ると、男も僕を見て笑っている。頭の内側で、男の声だけが幾重にも木霊する。

                    『だからさぁ、神隠しだよ、神隠し―』




【神隠し】

《1.子供などが突然行方不明になる事。またそれを超自然的な物の仕業と解釈する考え方》

《2.服喪中、神棚を白紙で隠す事》

 ―辞書を引く。

 僕は自室のベッドに仰向けに横たわって、分厚い辞書に書かれたその小さな文字を何度も読み返す。(子供などが行方不明になる事)(服喪中?喪中ってことかな。喪に服するって言うし…)(子供などが行方不明になる事)(など?などってなんだろう、変な言い方だな。単純に、主に行方不明になるのは子供だったから?それとも、行方不明になった時、神隠しだとされるのは子供の場合が多かった?)(子供などが行方不明に)(子供などが、行方不明に…)

 辞書を傍らに放り出す。目を閉じて、ぼんやりと考える。

(小林、縣…)

(調べてみると、縣は、『アガタ』と読むそうだ)

(月刊・境界を歩く。月刊誌?聞いた事が無いな。少なくとも、コンビニに並ぶ類の雑誌じゃ無いらしい)

(ジャーナリスト。記者。自分で記者って言ってたっけ?)

(なんだか嫌な感じのする人だった。粘着質で、良く喋るのに、目の奥は笑っていない。そんな感じが)

(…神隠しを、調べに来たって言ってた。12年前の神隠しを)

(『今月は、神隠し特集…』)

(他には何を言ってたんだっけ。繰り返しニュースになってた、結構大きな事件で、七不思議のひとつになってるんじゃないか、とか…)

(『俺ァそれを調べに来たんだけれど―』)

(…どうする、ちょっと調べてみるか?)

(『丁度お誂え向きに、また誰かが消えたって―』)

(いや、止めとこう。別に居なくなったのが知り合いって訳じゃないんだ、調べた所で、きっと誰の助けにもなりやしない)

(知ってどうなると言う訳でもないし)

(それに、こうやって神隠しの件を調べる気分になる事自体、あの胡散臭い男の言葉に誘導されてる気がする)

(あの男の言動も、何処までが本当だったのか分からない。生意気な糞餓鬼をからかってやりたかっただけかもしれないし、声を掛けた生徒の中から、神隠しを調べる気になるヤツが出てくれば、そいつを使って校内の噂話が手に入れられる、と思ったのかもしれない。それとも、あいつがこの事件の犯人、園部美佳を誘拐した奴の可能性もある。ほら、犯人となんたらは必ず現場に帰って来るって、刑事もののドラマとかでセンパイ刑事が言ってたりするのを良く見るし…)

(…やっぱりこう言うキナ臭い事件は、警察に任せておくに限る)

「―ちょっとユースケ、あんた、ジョンの散歩はァ―!?」

 階下から母さんの怒鳴り声が聞こえる。僕はそれに、自室のベッドの上から、小声で聞こえない様に、微かに返事をする。

「…分かってる、分かってますって。今から行きますよ、煩いなぁ…」




(…何やってんだろう、アレ)

 ジョンの散歩中。

 いつもの散歩コースを辿る。川沿いの土手を通り、国道へ出て駅前を北へ。僕はそこで足を止めてしまう。余りにも、気になる光景が目に飛び込んできたから。気付いた時には、ジョンは僕の隣に突っ伏して、だらりとアスファルトの上に舌を垂らしていた。僕は舌打ちして、諦め半分にジョンのリードを引っ張る。当然の様に動く気配はない。僕は溜息と共にその場にしゃがみ込む。彼らがこちらに気付かない様に、心の中で祈りながら。

(本当に何やってんだ…)

 車道を挟んで向かい側の歩道に、あの金髪赤目の兄妹達が立っている。道行く人が必ず足を止めて、彼らの方を振り返る所為で、向かい側の歩道は人の流れが澱んで、いつの間にか人だかりみたいになっている。それは別に、彼らの容姿が人目を惹くから…という訳じゃない。確かに彼らは容姿端麗だが、問題はそこじゃない。人々が足を止める理由は他にある。

 彼らの話し声が聞こえる。2車線挟んだ、反対側の歩道に居ても。

「―だから!兄さん、止めて―ホントにもう、頼むからさ」

 妹さんが、髪の毛を掻き毟りながら、必死に兄にそう懇願する。当然と言うかいつも通りというか、兄はその必死さに、一向に気付く様子はない。

(珍しい…ってのは偏見なのかもしれないが、彼ら兄妹は、妹よりも兄の方が髪の毛が長い)

(妹さん、声大きいよな―初めて会った時も、そうだったけど)

(妹さんはショートボブ。兄の方はサラサラストレートの金髪を、後ろで三つ編みに結んでいる)

(―感情が高ぶり易い性質なんかね?まぁ、お兄さんの方も、大概だが)

「何故だ?」

「恥ずかしいからよ―」

「何?我らが宗主から下された重大な使命を、カミュ、よりにもよってお前、恥ずかしいとは―!」

「違う、そうじゃない、問題はそこじゃないわ―兄さん、見て?ほら、周りにこんなに人だかりが出来てる。皆どうして集まってると思う?」

「さぁな。まぁ、こんな田舎町だ、もしかして、外国人が珍しいのではないか?」

「違う。皆あんたを見てんのよ、馬鹿兄貴―」

 彼らは背が高い。兄の方は180以上、妹さんの方も、165くらいあるだろう。僕よりかは確実に背が高い筈だ。だから彼らの姿は、人混みの中でも、頭一つ浮き出て良く見える。

 妹さんはケミカルウォッシュのジャケットにタイトジーンズ。

 兄の方は何故か着物を着て。

(何故和装?)

 ―右手に、赤い風船を持っている。

 僕は何度も瞬きする。彼らの姿を目にしてからやった事を、繰り返し何度も何度も。そんな事をしても、金髪兄妹の兄―アレックスが持っている風船は消えやしない。彼の手の中に、手綱をしっかりと握られたままだ。空中に揺れる赤い風船を見て、人だかりの連中と一緒に、僕は困惑する。

(遊園地に行って来た)

(…無いな。このクソ暑いのに、和服着こんで態々人が密集する場所に行くなんて、そんな奴が居るとしたら、そいつは本物の馬鹿だ)

(―まぁ、目の前のあれが、もしかしたらそうかもしれないという可能性は否定出来んけど)

(駅前で配ってた。何かの新装開店記念)

(…いかにもそれっぽいけど、でも、ああいうのって、普通ちびっ子メインに配るもんじゃ?)

(―何故か、あの兄貴が嬉々としてちびっ子の列に混ざって並んでるの、容易に想像できるな…)

(後は、どっかの縁日の出店で浮かれて買ったとか。でも、この時期祭りやってる所なんて、どこか近くに―?)

                                  ―バン。

 音がする。

 僕達は一様に、同じ方向に目を向ける。僕と、金髪兄妹の周りの、人だかりの皆さんは。最初は風船が割れたのかと思った。音は風船の方から聞こえてきたから。けれども風船は、音がした後も、綺麗な楕円形を保って、アレックスの頭上に浮いている。

(?)

                                  ―バン。

 もう一度音がする。その時、僕はそれを見る。僕だけが見た筈はない、と思う。かなりはっきりと、車道の反対側に居る僕にも見えたから。けれど、それを確かめる術はない。人混みの形が崩れて、駅に、国道側に、各々の方向に人が流れていく。僕も釣られて立ち上がる。

(―風船の中に)

 風船の中に黒い影が見えた。

 それが動いて内側から風船に体当たりをした。その音がここまで聞こえたんだ、と思う。

(…けど、それって何だ?)

(関わりたくない。関わっちゃ、いけない気がする)

(何かが内側からぶつかった。動物だろうか。最初は、音がしなかった。てことは、最初はぶつかる位置に居なかった。若しくは、ぶつかっても音がしない位置に居たんだ。尚且つ、風船にぶつかって、風船が割れない―)

(…動物虐待じゃないのかな。小学生でもやらねぇぞ、そんな遊び。何かの罪に問われるんじゃ―)

(―虫系かな。蜻蛉とか、カナブンとか。けど、結構大きかったし。車道のこっち側にも見えるくらい…)

(…本当、なにやってるんだ、あいつら?)

 ジョンを促して歩き出す。歩きながら考える。

 途中、彼ら兄妹の会話が、背中越しに聞こえる。

「―はっはっは、まぁそう落ち込むな、カミュ。皆このアレクセイの内から滲み出る気品に、足を止めずには居れなかったのだろう。だがカミュ、流石にこの俺には劣るが、お前だって愛しき我が兄妹、その美しい金の髪を伸ばし、珍妙な服装を止めて淑女の礼装を身に付け、兄を殴るのを止めれば、お前も自然に―」

「…そんな心配してないっつーの。私はこれが好きでやってんだ。それに最後のはアンタの願望でしょ」

「アレ凄い痛いんだぞ?」

「痛くなきゃ覚えないでしょ」

「そんな犬の躾みたいにな―」

「―あら、そりゃ犬に失礼ね。犬ならもっと、物覚え良いもの」







「―おい、荻野」

 顔を上げる。

 見ると、僕の前の席の、水泳部だか陸上部に所属している、ホシノだかホッタだったかが、その日焼けした顔を鬱陶しそうに顰めて僕の方を振り返っている。彼女は僕と目があった瞬間、有無を言わさずにプリントの束を僕の手の中に押し込む。僕は状況が飲み込めないまま、そのプリントを一枚手に取って、残りを自分の席の後ろの人へと回す。

 辺りを見回す。

 ―6月15日、土曜日。

 今日は第三土曜なので、我が校じゃ半日授業の日だ。半日だけ学校に来るなんて至極めんどくさいが、私立じゃこういうのは珍しくないらしい。時刻は只今8時35分。まだ1時間目も始まって居ない時間だ、と思う。それに、HRにも早い時間。

(…ウチのHRの時間は、8時40分から50分までだ)

(まだ5分も早い。来てない奴も居る。遅刻の常習犯やら、部活が長引いてるやつやら…)

(―これ、何の時間?)

 クラスの皆は戸惑った様に、視線を交わし合ったり、プリントを表裏頻繁にひっくり返したり、ひそひそと囁き合ったりしている。どうやら、詳しい事情を知っている者は誰も居なさそうだ、と思う。担任の澤先生だけが、厳粛な面持ちで教壇の上から皆を睥睨している。威圧感を孕むその視線から逃げる様に、僕はプリントへとそっと目を落とす。

「静かに」

 教室の空気が、しん、と冷える。皆がダラダラと居住まいを正す、衣擦れの音が聞こえる。

【注意事項:これからの登下校、学校生活に付いて!!】

 プリントの天辺には、大見出しでそう書いてある。

「隠しても、何れ知れ渡る事だろうから、簡単に言うが―」

「何?」

「あれじゃないの?ほら、昨日の全朝礼で言ってたヤツ。なんか、隣のクラスの奴が、行方不明らしいよ」

「―嘘、マジで?」

「センセ、出席は取らないんスか?」

「―実は、そうだ、その行方不明の話だ。実は、一昨日、2組の女子が一人、行方不明になった」

「ほら、やっぱり―」

「うっわ、カワイソ。多分それどっかでもう、犯られてるわ」

「ていうか、まだ生きてんのかね?誘拐事件って、一日経ったら生存は絶望的、みたいなそういう統計無かったっけ?」

「あー、なんか、テレビで聞いた事あるかも」

「身代金の電話とかあったんですか、センセー?」

「―そして昨日、もう一人行方不明になった。今度は2年1組の女子だ」

 クラスから音が消える。

 僕はプリントの文字列を必死に目で追う。碌に情報が頭に入って来ない。

 昨日の、自称ジャーナリストの話が耳の奥に蘇る。胸の中に、嫌な感覚だけが溜まる。夢の続きに居る様な気がする。

【怪しい人物に注意しましょう。なるべく複数人でグループを組み、一人で登下校しないようにしましょう。車に無理やり乗せられそうになった場合、確り大声を上げて、周囲に助けを求めましょう。これから暫くの間、遅くまでの校内での活動は禁止です。17:00までに全ての生徒は下校して下さい。又、本日から、警察官や有志の保護者の方が、登下校の順路に見守りに来て下さいます。怪しい人物や車両を見掛けた場合、直ぐに彼らに報告して下さい。どんな些細な事でも構いません―】

「捜査状況は詳しく教えられないとの事だが、現在鋭意捜索中との事だ。これから多くの警察官や刑事さんがこの学校を訪れると思う、もし彼らに何か尋ねられるような事があれば、どんな些細な事だって構わない、しっかり協力して欲しい、との事だ。但し、嘘や、思い込みで物を言うのは禁物だ。捜査方針を狂わせるだけでなく、もしそれが故意の嘘の発言だとしたら、厳しく罰せられる可能性もある。それに、捜査状況を悪戯に混乱させれば、助けられた筈の行方不明者達を、助けられなくなる可能性もあると―」

 プリントから目を離す。先生を見る。何故か、先生も僕の方を見ている。酷く険しい目をしている、と思う。その目に耐えかねて、僕はぎこちなく視線を明後日の方向に逸らす。

「…聞いていたか、荻野?」

「はい」

 何故だか名指しでそう確認される。僕は反射的に短く返答する。声が上擦ってしまう。教室の中に遠慮がちに、冷やかす様な笑い声が湧き上がる。

「―なら良い。では、出席を取る。一番―」

 教室の中に、緩やかに喧騒が戻って来る。僕は机の上のプリントを見るともなく眺める。文面を目で追う度に、頭の中が締め付けられるように痛む。まるで悪意を持って書かれた文字列が、僕の頭に爪を立てて居る様だ、と思う。

【有志で来て下さる保護者の方々は、腕に本校の校章の入った腕章をしています―】

                    『だからさぁ、神隠しだよ、神隠し―』

【怪しい人間、見慣れない人間に声を掛けられた場合、直ぐに最寄りの交番・民家や、校舎の方へ引き返して来て下さい。決して、一人で何とかしようとしてはいけません―】

 僕はプリントを乱暴に掴んで、机の引き出しの奥にそれを突っ込む。机の上に突っ伏して目を閉じる。1限目が始まるまで、僕はそこで静かにそうしている。




「すみませーん…」

 職員室の入り口から、中を覗き込む。

 次の時間、授業の入っていない先生や、選択実技の先生等が、各々のテーブルに向かって雑務をしたり、生徒の質問に答えていたり、又はチビチビと湯呑の茶を啜っているのが見える。2限目と3限目の間の休み時間。職員室にはあまり来た事が無いが、意外と賑やかなものなんだなぁ、と思う。

「あの、すいません、荻野、来ましたけど―」

「―あら、荻野くん」

 丁度職員室に戻って来た所の、音楽の高橋先生に、後ろから声を掛けられる。

「珍しいね。職員室に来るなんて」

「あ、ああ、はい、先生に呼び出されまして」

「―聞いてたよ。全校放送で呼び出されるなんて、荻野くん、一体全体、どんな悪い事したの?」

「え?いや僕は、別にそんな、何も心当たりが―」

「―なーんてね。ふふ、そうよね、荻野くん、真面目だもの。きっと柏木くん関連じゃない?」

「ああ、はい、そう、そうですね、確かにそうかも…」

「さっき澤先生とそこで擦れ違ったよ。きっともう直ぐここに来るんじゃない?」

「荻野」

 ―噂をすれば、という言葉の通りに、高橋先生の背後から、我らが3組の担任の澤が、ぬっとその巨体を表す。「あ、澤先生。それじゃあね、荻野くん」その白い掌をひらひらと振って、高橋先生は僕の元を立ち去る。「はい、あの、それじゃ…」僕が手を振り返そうと片手を持ち上げると、その視界を塞ぐように、澤先生が僕の前に立ち塞がる。

「荻野、こっちだ」

「はい?」

「着いて来い。話は別室で行う」

「はぁ…」

 先生は職員室に一歩も足を踏み入れずに、踵を返して歩き出す。僕は職員室の中へちらりと目を向け(部屋の中から冷風が流れて来る。全く、教室のクーラーはまだ使用禁止だってのに)、その扉をそっと閉めて、先生の後に続く。

「…あの。僕、どうして呼び出されたんですか?」

「必要だったからだ」

「…。僕、何かしましたか?」

「どうだかな。心当たりがあるか?」

「いえ…。あの、何処へ行くんです?」

「生徒指導室だ」

「生徒―」

(なんだろう、なんだか)

 先生がいきなり立ち止まる。あんまりいきなり立ち止まるもんだから、僕はつんのめって、その背中に激突してしまいそうになる。慌てて急ブレーキを掛けて、先生の背中越しに、前方を覗き込む。

 職員室と同じ階の廊下の突き当たり、階段の傍に、【生徒指導室】と標識の書かれた小さな教室がある。他の教室の半分か、1/3くらい。教室の扉と、扉の上の天窓も、曇りガラスになっているので、中は良く見えない。けれど、曇りガラスの内側が、ぼんやりと白く輝いているのが分かる。

(…電気が点いているんだ)

(ここに通い始めてもう2年目だけど、ここに電気が点いてるの、初めて見た)

(なんだろう、なんか、なんだかとても)

(―中に誰かいる時だって、電気点いてないもんな、ここ。電灯が付いてないのかと思ってた)

(…何故だか、なんだかとても、嫌な予感がする)

 先生が巨体を折り曲げて、生徒指導室の扉を小さくノックする。

「御連れしました」

 先生は丁寧な口調でその言葉を、吐き捨てる様に口にする。

「どーも、有難うございます。それじゃ、すんません、ちゃっちゃと入って貰っちゃって下さい」

 扉の向こうからくぐもった声がする。若い男の声だ、と思う。若いと言っても、僕よりかは幾らも上だろう。26、7といった所だろうか。何処か声に、からかう様な響きがあるのを感じる。それが無償に、嫌な予感を煽る。

 僕は先生を見る。先生は指導室の扉を開けて、扉の傍らに立って、険しい顔で僕に頷く。僕は震える足で、教室の中に一歩、二歩と足を踏み入れる。

 先生が背後でばたりと扉を閉める。

 夢の続きに居る様に感じる。

 目にしているものから、立体的な奥行きが喪われていく。厚塗りの油絵を、鼻先に突きつけられて眺めている様な感覚を覚える。視界が平面に押し潰されていく。頭の先がぎゅうぎゅうと引っ張られていく様に感じる。涙が出そうになる。

 部屋の中央には教室で使われている机の予備が置かれている。その机を挟んで向かい合う様に、二脚のパイプ椅子が置かれている。部屋の手前のパイプ椅子は空で、奥の方の椅子に、濃紺のスーツにピッチリと身を包んだ狐目の男が、汗も掻かずに座っている。その男の後ろに、40、50くらいだろうか、胡麻塩頭の年配の男が、スーツの上を小脇に抱え、ワイシャツの襟をパタパタと動かしながら、寄り掛かる様にして窓辺に立っている。時々、ワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出して、思い直したようにそれを箱に収める、を繰り返している。ここが禁煙だと、誰かに強く言い含められでもしたのだろうか。

「荻野さん?」

 狐目の男にそう尋ねられる。僕は声も出す事が出来ずに、その場で唯静かに、こくこくと頷く。それだけでも狐目は満足した様で、口の端に浮かんだ笑みを大きく膨らませながら、自分の対面のパイプ椅子を、短くその指で指し示す。

「どうぞ、座って」

(嫌だ)

 僕は額の汗を拭き、覚束無い足取りで、パイプ椅子に腰掛ける。椅子がギィギィと喧騒しい悲鳴の声を上げる。その音だけで、僕はその場から飛び上がりそうになる。狐目は、そんな僕の様子を愉快そうに眺めている。嫌な野郎だ、と思う。

(糞)

(クソ)

(―嫌、嫌、なんだか嫌な予感が…)

「僕は苅部、こっちの後ろに居るオジサンは、加納さんって言います」

「おい」

「―なんです、オジサンはオジサンでしょう?それとも、お兄さん、って紹介して欲しかったんですか?」

「…余計な事ばっかり言うんじゃねぇ。さっさと本題に入りやがれ」

「へいへい。荻野君、僕達が何だか分かる?先生に聞いた?」

「………あ、いえ、その、」

 狐目の笑みが、ますます広がってゆく。そろそろ顔の外へ、はみ出してしまいそうな位に。

「刑事です。分かる?ケーサツカン。刑事部刑事課。勿論なんで来たかは、分かってるよね?」

「いえ」

「―ホント!?分からない?本当は分かってるんじゃないの!?」

「僕―」

「誘拐事件の捜査だよ。同級生の身に何が起こってるかは知ってるよね?もう二人の学生が行方不明だ。それも、たった二日の内にね。こんな事件は前例が無い。これは由々しき事態だよ。分かるかい、荻野君?君にも協力してもらおうと思ってね。さて、先ずは何から話して貰おうかな?」


「じゃ、早速で悪いんだけど、この二人に見覚えある?」

 狐目の男が懐から2枚の写真を取り出して、それをテーブルの上に並べる。片方は見た事の無い写真だが、もう片方は見覚えのあるものだ。女の子が一人、大きく写っている。ライトブラウンの縁色の眼鏡で、垂れ目で、恥ずかしそうに、丸耳を両手で隠す様にして。

 ―そして、とても長くてきれいな黒髪。

(…園部美佳…)

 もう片方の写真は集合写真だ。といっても、別にクラスの集合写真みたいな大仰なものじゃない。仲の良い友人達と連れ立って、多分避暑地にでも出かけた時のものだろう。透明に澄んだ小川の傍らで、6人の女子たちがじゃれ合いながらカメラに向かってピースサインを構えている。その女子達の内の一人、写真の一番右端の子に、赤いマジックペンで、大きく丸印が付けられている。恐らくこの子が行方不明になった子なのだろう、と思う。赤い丸印の内側で彼女は、ポニーテールの髪留めを左手で弄りながら、右手で胸元に力無いピースサインを構え、顔を真っ赤にして、皆の方を向いて笑っている。きっと、撮影の瞬間、誰かが皆を笑わせる様な事を口にしたのだろう。笑い声までもが聞こえる様だ、と思う。赤い円の内側で彼女は、大きく口を開け、目の端に涙を浮かべて笑っている。大きく開いた口の端に、白く尖った八重歯が見える。

 ―見覚えの無い子だ、と思う。

「ええと…こっちの写真の子は、オレ、見覚えありません。見た事も無い」

「へぇ、じゃあ、こっちの写真は?」

「園部、美佳…さん、です。あの、最初に行方不明になった」

「お、詳しいねぇ!話が早くて助かるよ。園部さんとは随分親しいの?」

「いえ、名前も知らなくて―知らなかったんです、つい最近まで。あの、昨日、全校集会で、誘拐の話が出た時に―」

「―集会で、誘拐の話なんて無かった筈だけど」

 狐目が静かにそう口にする。小さな声なのに、まるで耳元で囁かれた様にハッキリと聞こえる。狐目の口元に浮かんで居た笑みが、いつの間にか引いている。それだけで、周囲の温度が冷え切ってしまった様に感じる。僕は震える手で、思いっ切り自分の腕を掴む。頭の中がぐつぐつと、沸き立っている様な気がする。肌に感じる温度は冷ややかなのに、頭の方はくらくらする程、熱い。

(怖い)

(なんだろう、なんなんだろう、これ。刑事さんが僕に何の用?これじゃまるで―)

(…落ち着け。落ち着いて、先ずは話をするんだ。落ち着いて、あった事だけを話せ。きっと大丈夫だ。きっと僕は大丈夫。だって僕は、何もしてないんだから―)

「―え、ええ、そうです。集会で、誘拐事件の話はしていませんでした…その。あの、柏木が―僕の友人が、集会の話を聞いて、変な話だって話になって…ええと、その、警察が来るだとか何とか言っていたもので」

「ふんふん」

「それで、ちょっと、2組の奴に聞いてみたらしくて…ええ、それで、あの、その写真を見せられました。そ、園部さんの名前は、その時に教えて貰って、」

「―じゃ、君は園部美佳とは直接的な面識はないと言うんだね?」

(きっと大丈夫)

「う、はい」

 つっかえながらも、直ぐにそう返答する。(きっと僕は大丈夫―)頭の中の熱が、どんどん高温になっていっている気がする。腕を掴んでいた手を放して、僕はそれを額に当てる。途端に、掌に予想していたよりも強い熱を感じる。電源切ったばかりのテレビの表面に触った時みたいだ、と思う。

(…風邪、引いたのかな。おでこが酷い温度…)

(熱があると自覚するだけで、なんだかどんどん体調が悪くなっていく様な気がする。なんだか吐き気がして来た。後、首元の辺りに強い閉塞感。息がし難い…)

(…大丈夫。話せば、きっと刑事さん達も分かってくれる。体調が悪い事を伝えて、話を中断して保健室に連れてってくれるように頼むんだ、それから…)

 額から手を放す。体調不良を伝えようと、狐目の刑事の方を向き、意を決して息を吸い込む。

 ―そして、見る。

(?)

 狐目の男は笑っている。さっきまでとは違う笑みだ、と思う。先程までも彼は笑っていたが、それは一部愛想笑い的というか、その場を取り繕う社交的な笑みだったような気さえして来る。

 この笑みを見た後だと。

(なんだろう、なんなんだろう)

(大丈夫、きっと大丈夫)

(これじゃまるで―)

 狐目の男は笑っている。さっきまでとは違う笑みだ、と思う。罠に掛かった獲物を嘲笑う様な、子供が手の中から絶対に逃げ出せない蟻の胴体を引き千切る様な、無邪気で、攻撃的な、剥き出しの笑みだ。僕は机の上を見る。もうこれ以上、彼の笑顔を見て居たくなくて。机の上には二枚の写真が並べられている。片方は園部美佳。もう片方は―。

                      ―キーンコーン、カーンコーン…。

 遠くの方でチャイムの音が鳴る。僕は反射的に顔を上げ、二人の刑事の間で視線を泳がせる。年配の刑事はそっぽを向いている。聞こえなかった筈はないだろうに、狐目は何事も無かったかのように話を続ける。

「これ、こっちの写真の子」

「は」

 狐目が赤円の付いた集合写真の方を、指先で抓んで持ち上げる。

「吉田優香ちゃんって言うんだけど。こっちの子にも、見覚えないって言ったよね?」

「ええ」

「本当?本当に、見覚えはない?」

「………ええ」

 答える。質問の意図を計りかねて、随分と躊躇ってしまったが、結局はそう返事する。(大丈夫。きっと大丈夫。だって僕は何もしていないんだから。正直に、あった事だけを話して―)水溜りが消える瞬間を誰も気が付かない様に、狐目の顔からいつの間にか笑みが消え失せている。狐目は何かを思い出す様に斜め上を見上げて、コリコリと小指で髭の無い顎を掻いている。

(なんだろう、なんなんだろう―)

(大丈夫、きっと―)

(これじゃまるで―)

「…一昨日の放課後」

「え?」

「―質問を変えようか。一昨日の放課後、君は何処で何をしていた?」

 顎を掻く手を止めて、狐目が僕を見る。パイプ椅子の背に深く凭れ、狐目は僕を見て笑顔を浮かべている。今度の笑みも又、さっきのものとは随分違う。今度のそれはもう、同情していると言っても良い様な微笑だ。ゆったりとした微笑を浮かべ、狐目は僕の事を憐れむ様な目で見ている。

「一昨日の放課後?」

「そう。13日の、木曜日の放課後だ。君は何処で何をしていたんだ?」

「どこで、って…」

 言葉に詰まる。混乱する。何を言っているのか理解できない。何を尋ねたいのかも。息が苦しい。頭の天辺から発火してるんじゃないかと思うくらい、頭部が熱を持っている。吐き気がする。

「―時に、荻野くん、君は部活動とか、入っているのかな?」

「え?いえ、僕は…」

「帰宅部?」

「はい、まぁ…」

「―そうか、いや、勿体無い。最近の子は皆そうなのかな?部活動は良いよォ、授業じゃ学べないものを沢山教えてくれる場所だ。寧ろ部活動の方が、学生の本分という気がするよ。今からだって遅くない、君も部活に入ってみちゃどうだい?」

「いやぁ、僕は…」

「と―脱線したね。雑談好きは僕の悪い癖だ。いっつも要らん事をぺらぺら喋っては、こっちの加納さんに後でド突かれるんだよ。またその拳骨が痛いのなんの…」

「はぁ…」

「じゃ、話を本題に戻そうか。13日の3時半から5時まで、君は学校で何をしていたんだ?」

「そ―」

 口を開ける。呼吸が止まりそうになる。燃える様に頭が痛む。狐目を見る。狐目は笑っている。

 同情する様な笑みを浮かべて。

「―13日の放課後、6時間目が終わってから5時までの間、2-3の教室に君が一人で居残っているのが目撃されている。複数の生徒や、先生にね。君は帰宅部だってさっき言ったよね?部活動に入って無い君が、放課後の教室で、長時間何をしていたんだい?」

「ぼ―僕はその日、日直で―」

「日直!ああ、懐かしい響きだね、学校を出てからは全然聞かなくなった単語だよ―当直、なんてのは良く聞くけどね。でも、差支えなけりゃあ教えて欲しいんだけどさ、最近の学校の日直の仕事ってのは、そんなに時間の掛かるものなのかい?僕らの頃は、日誌や黒板消しが精々だったけど」

「いや―」

「―13日は定刻通りに終わった、って6限目の授業を受け持った先生に聞いたよ。確か、生物の授業だったっけ。通常通りに終われば、3時25分には終わるんだってね。その日の日直は、そんなに忙しかったのかい?3時25分終わりから、5時まで帰れなくなるくらいに。ついでに居残って勉強でもしてたのかい?」

「―違くて、僕は―」

「―そう、違うね。君はそう言う事をしないタイプだと、複数の生徒から証言があったよ。授業が終わったら真っ先に帰る、文化祭の準備があるから手が空いてる人は残ってくれと伝えても、強制じゃないならいつの間にか姿を眩ましてしまうタイプだと」

「―僕―」

「13日に行方不明になった園部美佳さんが、最後に目撃された時間を知ってるかい?」

 狐目が言う。僕は首を振る。

「4時過ぎだよ。昇降口近くで、学年主任の先生が見掛けたのが最後らしい。君は何か知らない?」

「ぼ…」

「?」

「…思ってるんですか?僕が事件に関わってると、本気で」

「―そんな、とんでもない。誤解だよ」

 狐目は態とらしく肩を竦めてみせる。僕は彼の目を見る。彼は相変わらず、穏やかに笑っている。その表情から真意は読み取れない。

「ただ、偶然の符合が多くてね。一つ一つは偶然でも、幾つか重なれば、作為を感じてしまうのが刑事って人種なんだよ。13日の放課後、君は偶々学校に居残っていた。偶々日直で、偶々一人目の被害者が最後に目撃された時間以降も学校に居た。そして、偶々、5時から後の君の行動を知る者は誰もいない。校門の守衛さんも、君が帰る姿を見掛けていない、と言っていたよ」

「それは、僕の所為じゃ―」

「…そうだな、君の所為じゃない。それが偶然の恐ろしい所だよ。僕がさっき挙げた事柄は全て問題の無い行為だし、その全てに君の責任は無い。それが一昨日の13日じゃ無ければね。それが、偶然の恐ろしい所なんだ」

「―僕が―」

「?」

 その言葉を受けて。

 僕は言う。

 思わず口走ってしまう。

「―僕がどうやって、彼女らを誘拐したっていうんです?高校生のガキ1人に、そんなことが出来るって、本気で思ってるんですか?」

 サスペンス映画で、追い詰められた犯人が、最後に口走る様な発言を。さえ証明されてしまえば、自分が犯人に変わってその場所に置き換わってしまっても、問題が無くなってしまうような発言を。

(なんだろう、なんなんだろう―)

(これじゃまるで―)

(…まるで、尋問みたいじゃないか?)

 狐目は笑みを崩さない。頬杖を付いて、僕の目を覗き込んで、言う。

「その通り。御安心を、高校生一人に、そんな事が出来るとは思っちゃいません。人一人を捕えるってのは案外難しいもんですしね、それが子供の、性差がハッキリと別れていく前の、同学年なら尚更です。体育会系なら、体格さはかなりあるんでしょうがね」

「…」

 口調が変わる。狐目の口調が、如実に、柔らかく、丁寧に。

「絞め落とすのは難しいです。被害者に抵抗された跡が犯人に残りますからね。被害者が無茶苦茶に振り回した腕や足で偶然出来る打撲痕や、引っ掻き傷、それに、噛み傷なんかも出来る可能性があります。何の痕跡も無しにそんな事が出来るとは到底思えません」

「…だったら」

「―かといって、道具を使うのも問題があるでしょう。確かに、鈍器や武器を使えば自分の体に痕跡を残す事は無い。けれども、今度はその道具自体が痕跡となって残ってしまう。鈍器で頭を殴ればその鈍器が証拠に、頭部が切れて出血でもあればその血痕が証拠になるでしょう。刃物を突き付けて脅せば、怯えた被害者は着いて来てくれるでしょうが、その状態で誰にも見咎められずに何処まで行けるか、っていう話になってきますしね。そんなの、一山当てる為にベガスいくか、っていうのと同じ類の考え方ですよ。雲を掴む様な話だ。一切の確実性が無い。どんな衝動犯だって自分の頭で少しは考えます。場末の強盗団だって、スキーマスクくらい被るってもんです」

 狐目が徐に椅子から立ち上がる。僕は放心したまま彼の動作を見守る。口の中の唾を飲み込む。その音が、彼らに聞こえない様に、祈りながら。

「薬も無理でしょう。もしも、運よく睡眠薬で被害者を眠りに着かせたとしても、脱力した人間というのは本来の体重よりも重く感じるものです。子供一人がそれを引き摺って、しかも誰にも見咎められずここを抜けだせるとは思えません」

「…だ、だったら、僕は―」

「高校生一人じゃ無理でしょう。それと同じく、大人一人でも無理だ。このご時世、監視カメラもあるし、周囲の目も案外厳しいものです。見慣れない大人や、不審な車両が校舎の周囲をうろついていれば、それだけで通報される時代です―」

 ―途切れる事無く喋り続けながら、狐目は、両手の人差し指を突然、僕の目の前に突き付ける。僕は訳も分からずに、仰け反ってそれを眺める。狐目はその両人差し指の先を、僕の目の前でくっ付けて、にやりと笑う。

「―が、大人と子供なら、話は別です」

「な―」

「14日の放課後、あなたは何をしていましたか?」

「―?」

「昨日の放課後です。あなたは何処で何をしていました?」

「何って―」

「昨日の放課後、あなたは校外の人間と会っていたんじゃないですか?守衛さんが教えてくれました。見慣れない大人と、あなたが校門前で何やら口論している様子だったと」

「あれは―知らない人です、昨日偶然、あっただけで―」

「ほォ、偶然、偶然!また偶然ですか、やっぱり偶然ってのは、恐ろしいもんですねぇ―」

「―本当です、本当に偶然―信じて下さい!あ、名刺、名刺を貰いました、あの大人の人に―ああ、今は、持ってないですけど、家に、家にありますから…」

「本当ですか?まぁ、調べれば分かる事ですけどね。それじゃあ、お帰りはあちらです、荻野さん。授業の続きを受けて来て下さい」

 狐目は笑顔のまま、生徒指導室の出口を指し示す。僕は彼を見て、その手を見て、年配刑事の方へと目を向ける。年配の刑事も僕を追い払うかのように、出口を顎で指し示す。僕は机に手を付いて、震える足で何とか立ち上がる。体重を支えられているのが不思議な位、膝ががくがくと揺れているのが分かる。額に手を当てる。あんなに熱かった頭はいつの間にか冷えていて、代わりに氷の様に冷たい汗でびちゃびちゃに濡れている。僕は手に付いた汗を制服の裾で無気力に拭う。生徒指導室の出口へ足を向ける。

「―ああ、それともうひとつ、荻野さん」

 狐目を振り返る。狐目は再びパイプ椅子に腰を落ち着け、冷笑を浮かべて僕を見上げる。テーブルの上に並んだ二枚の写真を、手の甲でこんこん、と示しながら、言う。

「園部美佳さんとも、吉田優香さんとも、あなた面識が無いと言いましたがね、そんな筈無いんですよ」

「…」

「二人とも去年、あなたと同じクラスだった。分かります?二人とも、あなたの元クラスメイトだ。荻野さん、これも偶然ですかね?」

 僕は返事もせずに狐目に背を向ける。もう沢山だ、と思う。ゾンビの様に足を引き摺って、僕は一刻も早く、生徒指導室の外へと向かう。




                    『だからさぁ、神隠しだよ、神隠し―』

     『高校生一人じゃ無理でしょう。それと同じく、大人一人でも無理だ―』

                    『―が、大人と子供なら、話は別です』

(…頭が)

(頭が痛い。割れる様に痛い。吐きそうだ)

(どうしよう。どうしたら。どうすんだよ?一体どうなってんだ、どうすれば…)

(何?)

(―クソ、クソ、クソ糞糞、ふざけんなよ、畜生、ふざけんなよ、ふざけんなクソッタレ、こんな―!!!)

(…何が起きてるんだ?)

(分からない)

(僕が知るかよ)

(僕は何もしていない。僕は何も。本当だ、信じて、僕は何も…!)

(―何なんだよ。訳分かんねえよ畜生、何なんだよ、何なんだよこれ―!)

 夢の続きに居る気がする。

(昨日までは普通だった。昨日までは普通だったのに。学校に行って、友人と実の有るんだか無いんだか分かんない他愛無い話をして、ジョンの散歩をして。それが僕の日常だったのに、それが僕の日常の全てだったのに)

(くだらない日常の全てだったのに)

(…どうしてこうなった?どうしてこうなってしまったんだろう?僕は何かを間違えてしまったんだろうか?誘拐グループと知らない内に関わって、居なくなった彼女達の個人情報をぽろぽろ漏らしていたんだろうか?大して知りもしない、彼女達の事を。それとも僕のスマホがいつの間にかハッキングされていて、誘拐犯達の尖兵として使われていたんだろうか?もしそうだったとしたら、僕から個人情報を聞き出すよりも、遥かに有益な情報を引き出せるだろう。それか、僕には隠されたもう一つの人格があって、そいつが知らない内に悪事に加担していたとか?ジキルとハイドとか、そう、ビリー・ミリガンの様に)

(…僕が多重人格者だったとしたら、心配事の一つは解決だな。確か、別人格が行った犯罪は罪には問われない。多重人格だと正式に認められれば、だけど。昔、裁判でそういう判決が下された筈。そうだった筈だ…)

(…ビリー・ミリガンはどうだったんだろう。そういえば、有名な多重人格者だってことは知ってるけれど、その後の事は何も知らないな…)

(…天罰なのかな。居なくなった女の子の写真を見せられて、欠片も心配しなかった)

(―ハハ、だとしたら笑えるね。朝のニュースで事件や事故を見て、本気で心配してる奴が世の中に何人いる?皆朝の準備に大忙しさ。そんな調子で天罰振り回してちゃ、神様はあっという間に過労死だ)

(僕は何もしていない)

(頭が痛い。頭が…)

(…だったら、どうして僕なんだ、どうして?)

 家。

 自室でベッドに寝転がって、呆けた顔でノートパソコンを覗き込む。あの狐目の刑事との楽しい“面談”の後、どうやって家まで帰って来たのか、正直言って思い出せない。それどころか、あれから後の授業の内容さえも。もしかしたら、サボって帰ってきてしまったのかもしれない。生徒指導室の入口で、担任の澤と一言二言、何か話した様な気がする。それから後の事は良く憶えていない。

 ただ、人通りの少ない道を選んで、帰って来た事だけを覚えている。

 人の話し声が耳に触れるのが怖かった。密やかな話し声が、全部自分の事を騙っているようで。あの教室で交わされた会話を、皆知ってるんじゃないだろうか、あれは学校中全会一致の噂で、僕だけがそれを知らなかったんじゃないかと、根拠も無くそんな風に思えた。その思い付きは頭にこびり付いてなかなか離れなかった。その考えが怖かったし、道端の誰かの会話が偶然に耳に入って、その考えが確信に変わってしまうのがもっと怖かった。だから人通りの少ない道を選んだ。静かな人通りの無い道を、耳を塞いで出来るだけ駆け足で歩いた。

【神隠しだと思われる事象・事件一覧】

【12年前/2005年/3月31日/8月20日/9月28日…】

【瀬田幸樹くん行方不明事件/橘裕美ちゃん行方不明事件/篠原和澄さん行方不明事件…】

 ノートパソコンの画面をぼんやりと眺める。涎が垂れそうになって慌てて口を閉じる。もうどれくらいそうしているのか、自分でも分からない。いつもは何だかんだと口煩い母さんも、帰って来た僕の顔を見て何も言わなかった。手を洗えとも、宿題は無いのかとも、ジョンの散歩に行け、とも。

 …きっと、相当酷い顔色をしていたのだろう。

(あの母さんが黙っちまうなんて。珍しい事もあるもんだ…)

(ハハ、明日は雨が降るんじゃないか―?)

(母さん…)

(母さんに―何て、何て言ったら)

 窓の外はもうすっかり暗くなっている。もしかしたら少し寝ていたのかもしれない。階下からは包丁で何かを刻むリズミカルな音、ぐつぐつと鍋が煮える音、TVの音、それに、ドタドタと忙しく駆け回る母さんの足音が聞こえる。

(そうか―もう、そんな時間か)

(いつの間にか、7時回ってたんだなぁ…)

(ジョンの散歩―母さんが行ってくれたんだろうか。それとも、今日は休み?)

 遠くの方で、犬の遠吠えが聞こえる。それに釣られる様にして、ジョンも皺嗄れ声でその声に唱和する。ジョンが遠吠えを始めて1秒にも満たない内に、下で母さんが素早く窓を開け、ドスの利いた声で一喝する。

「―こら。煩いよ、この馬鹿犬」

 母さんが全部言い終わる前に、ジョンの遠吠えは情けなく途切れてしまう。TVの音が聞こえんじゃないか、とぶつくさ零しながら、母さんがカラカラと窓を閉め直す。窓に鍵を掛ける音が聞こえてから、ジョンはもう一度遠吠えを再開する。

 ―但し、今度は母さんに聞こえない程、小さな声で。

(ふ)

 僕は笑う。思わず笑ってしまう。

 あんまりいつも通りの母さんと―ジョンの遣り取りを聞いて。

「―ハ、ハハハ、ハハ―」

 …笑う。笑いながら、涙が出る。どうすればいいか分からない。こんな事は初めてで。

(母さん、ジョン、僕―)

(どうしたらいいんだろう。僕、どうしたら良い?)

(…僕、この家に居られなくなりそうだよ)




 味のしない食事をして、温度の無い風呂に肩まで浸かり、歯茎から血が出るまで強く歯を磨いて、自分の部屋のベッドに横たわる。

 母さんは相変わらず何も言わなかった。いつもは晩飯時になると、狂おしい程喧しいジョンも、今日に限っては大人しいままだ。何だか気を使われている様な気がして、それが却って息苦しかった。

 目を閉じる。眠れる筈が無い、と思っていたけれど、こういう時だって、体は意外と習慣に忠実なものだ。電気を消して、耳を塞いで、瞼の裏側をじぃっと見つめていると、悪い考えや今日あった嫌な出来事は、いつの間にか頭の中から溶け出してしまっていた。

(絶対に、今日は朝まで眠れないんだろうな、と思っていたのに…)

 眠りに落ちる前、そんな様な事を考えたのを朧気に憶えている。このまま永遠に目が覚めなけりゃいい、と思った事も。僕の意識が二度と戻らなければ、こんな風に悪夢の中みたいに理不尽な目に遭う事も、あの狐目の刑事がにたにたと笑いながら僕の腕に手錠を掛ける瞬間を見る事も、母さんの悲しむ顔を見る事も無くなる。

(母さん―)

(ジョン…)

(―助けて。誰か、助けて…)

                                  ―ドン。

 音がする。混乱する。それが、夢の中の音か外の音なのか、区別がつかない。狐目の刑事が同情する様な笑顔を浮かべて僕の両膝を拳銃で片方ずつ撃ち抜いていく。撃ち抜かれた膝の穴から行方不明になったあの写真の女の子達が生えて来る。

『何処へ行くんです?お帰りはそちらじゃないですよ、荻野さん。二人とも、あなたの元クラスメイトだ。これも偶然ですかね?―』

 両膝に突き刺すような激痛が走った気がして跳び起きる。全身汗塗れで、体中妙な疲労感に捉われていて、そして口の中がカラカラに乾いている。寝巻が肌に張り付いて気持ち悪い、全身の筋肉が全力疾走した後の様に強張って、張り詰めている。なのに、目だけが異様に冴えている。

(夢?)

(の―咽が痛い、水―)

 周囲の暗さに困惑する。一体、今何時ぐらいなんだろうと、枕元に置いてあったスマホを持ち上げる。その薄い機械の板切れが、指先に酷く重たく感じる。ディスプレイのスイッチを入れる。

【6/16(日) AM2:50】

(…朝の、2時―?)

 スマホをその場に放り出し、再びベッドに身を横たえる。試しに目を閉じてみる。身体と精神は相当に参っているのに、目だけは10時間以上眠り尽くした後の様に、パッチリとしている。

(…こりゃ、もう眠れそうにないな…)

 苦笑を浮かべて、ベッドに横たわったまま、目を開ける。これからどうしよう、とぼんやり考える。寝起きの頭で良いアイデアが思い浮かぶ筈も無く、現実離れした名案と、毒にも薬にもならない様な凡案が、交互に思い浮かんでは消えていく。

(―真犯人を掴まえるんだ。僕の他に、13日の放課後に、あの学校に居た誰かを―)

(…先ずは、14日の放課後の誤解を解こう。幸い、名刺は未だ手元にある。名刺に書かれている電話番号に電話を掛けて、あの小林とかいう胡散臭いジャーナリストに事情を説明して、後は…)

(12年前の神隠しを調べよう。12年前に、もし本当にあの学校で行方不明になった人が居たとしたら、それが今回の事件と関係あるかもしれない。幾らなんでも、同じ場所から2日連続で2人の行方不明者が出るなんて、どう考えてもおかしい。今回の件が、もしも、神隠しの仕業だったとしたら―)

(―もしも神隠しの仕業だったとしたら―僕はどうすればいいんだろう。誰がそれを証明出来るんだろうか。それに、仮にそれが証明できたとして、それは僕の無実を証明する手段になるんだろうか?)

                                  ―ドン。

 ベッドに横たわったまま、僕は首だけを起こしてそちらを見る。眉を顰める。音がする。ベッドの側、窓の辺りから。僕は寝起きの頭で鈍々と考える。

(…何?)

                             ―ドン、ドンドン。

 尚も、窓硝子を何者かが叩く音がする。月明かりで鈍く光る窓が何かにぶつかって揺れる。僕はベッドの上にのっそりと上体を起こす。遅まきながら、心臓がその鼓動の速度をゆっくりと速めていく。

                           ―ドン、ドンドンドン。

(泥棒…?)

                       ―ドンドンドン、ドンドンドン。

 僕はベッドの上に中腰で立ち上がり、一歩、二歩と後退さって、床に足を降ろす。そのまま、窓硝子から目を逸らさない様に、部屋の入り口、電気のスイッチがある方へ向かって、音を立てない様に、静かに後退していく。床がキィキィと軋み、膝の関節がギシギシと悲鳴を上げる。僕は瞬きも忘れて、部屋の入口へ向かって、後ろ向きに前進する。窓硝子は外側からの衝撃の所為で明らかに揺れている。窓の外に何かが居る。

 僕は悲鳴を飲み込んで、部屋の入口のスイッチに指先を触れる。

                      ―ドンドンドン、ドンドンドン―。

(何?一体、何の―?)

                          ―ドンドン、ドンドン―。

(…何だってんだ。僕が何かしたか?)

 意を決して、息を止めて、僕はスイッチを入れる。

 部屋の中央に、目も眩むばかりの目映い光量が溢れ出す。僕は思わず目を細める。窓硝子には照り返しで、部屋の内側の光景しか映らない。僕は電灯の明りから目元を庇う様に掌で覆い隠し、窓硝子の方へと僅かににじり寄る。思い出した様に、ベッドの上に放り出していたスマホに手を伸ばす。もし窓の外に泥棒が居た場合、即座に通報する事が出来るように。

(…警察って、何番だっけ?119?市外局番は―?)

 徐々に光に目が慣れて来る。目元を庇う手を下ろす。スマホを手から取り落とす。

 窓の外を見る。窓の外に居たのは―。

(?)

(黒)

(…何だこれ)

 ―蝙蝠だ。

 夢の続きに居る様に感じる。

 ―蝙蝠が、何匹もの蝙蝠が、僕の部屋の窓に体当たりを繰り返している。8、10、少なくとも10匹以上は居るだろう。10匹以上の蝙蝠が、コントロールを失った様に、僕の部屋の窓に体当たりを続けている。蝙蝠達がぶつかる度に、部屋の窓硝子が激しく揺れる。まるで台風が来た時みたいだ、と思う。窓硝子が激しくガタガタと揺れる。砕けてしまわないのが不思議になる。

 蝙蝠達は各々が、足に白い紐状のものをぶら提げている。それが手綱だ、と気付くのに、寝起きの頭では1分以上掛かる。蝙蝠達はその全てが、足に白い手綱を括り付けられている。その手綱を片手の内側に束ねて、蝙蝠達の後ろに誰かが立っている。

(嘘だろ?ここ―)

(こうもり)

(―ここ、2階だぞ?)

 2階の瓦屋根の上に、人影が蹲っている。2人の人影が。片方は暴れる蝙蝠達の手綱を握り締め、もう片方はその手綱引きの傍らで膝を抱えている。2人とも暗闇の中で目立たない様にだろうか、黒尽くめの服装を身に纏ってはいるが、暗い中で隠密行動するには凡そ不向きな姿をしている。

 僕は取り落としたスマホを拾い上げ、少し考えて、【警察 通報】というキーワードでネット検索をする。(そうか、110番、110番だったな―)【110】を通話ダイヤルに打ち込んで、それを耳元に当て、それから、改めて彼らを見る。

 彼らは暗闇の中で隠密行動するには凡そ不向きな姿をしている。恰好が、という訳ではない。恰好は、上から下まで黒尽くめだ。伝統的な不審者の恰好だ。暗闇の中でコソコソするのに、これ以上の恰好は無いだろう。問題は別の所にある。

 ―髪と、目だ。

 彼らは二人とも、同じ色の髪と目をしている。彼らは二人とも、暗闇の中でも誘蛾灯の様に目立つ金色の髪をしている。蝙蝠達の手綱を持っていない方はショートボブ、手綱を束ねている方は、ストレートの金髪を、後ろで三つ編みに結んでいる。

 …そして彼らは二人とも、真っ赤に燃える様な赤眼をしている。

 僕はスマホの中のダイヤルを眺めて、それから、躊躇いがちに窓の錠を開ける。窓硝子を開けた瞬間、先に、我先にと、蝙蝠達の群れが部屋の中に押し寄せて来る。

「わ」

 僕はそれを必死に払い退ける。蝙蝠達は僕なんかに気付かなかったように、部屋の中へ飛び込んで、空中を自由に旋回し始める。時々、蝙蝠達の一部が、部屋の床や壁に激突する。その度に、母さんがこの音で跳び起きて、部屋に遣って来やしないだろうかと、ハラハラする。

(…頼むから静かにしてくれよ?今は未だ、夜中の3時くらいなんだから―)

 スマホの中のダイヤルをもう一度眺める。(110)それから、何度も瞬きをして、僕は窓の外の2人組を見つめる。どうすればいいか分からない。こんな事は初めてで。

 僕は曖昧な笑顔を浮かべて彼らを見る。彼らも、どうして良いのか分からない、といった感じに、バツの悪そうな表情を浮かべて、僕の方を見返している。

 夢の続きに居る様な気がする。

「あー…アレックス?カミラ…?」

「…ハイ、オギノ」

「あー、その…済まないな、少年、夜分遅くに―もしかして、起こしてしまったか?」

 ―もしもそうなら酷い夢だ、と思う。悪夢で無い分、性質が悪い。1から10まで訳が分からない。


「えー…、改めて自己紹介をするとしよう、オギノ殿」

 ―6月16日、日曜日。午前3時と少し。

(…一体何やってんだろう、僕…?)

 スマホの画面を眺めて考える。画面には未だ、110の通話ダイヤルの画面が往生際悪く映し出されている。あれから、目の前の彼らを気付かなかったふりして締め出す訳にも行かず、僕は仕方なく、金髪赤目の兄妹たちをそのまま部屋に招き入れてしまう。部屋の中に入れる時、彼らに何かを言った気がする。言わなかったかもしれない。頭の中で考えただけだったかも。未だ太陽の上がらないこの時間帯、確かなものは何一つとしてない。

『…蝙蝠達を何とかしてってくれ』

『あんた達、一体何なんだ?』

『取り敢えず、靴は脱いでくれよ…』

 ―性質の悪い冗談で出来た沼に、肩までどっぷりと浸かっている気がする。エイプリルフールの嘘と、サンタクロースと政治家達の国会答弁と、詐欺師のジョークを混ぜ込んで作った様な立派なとびきりの底無し沼だ。何が何だか分からない。天地が引っ繰り返った様に、耳の奥がグラグラとする。何が本当で、何が嘘なのか。今、眼に映っているものが、夢なのか、現実なのか。もしかしたら、自分はもうとっくの昔に正気を失ってしまったのではないか、とさえ思う。直視したくない悪夢のようなデコレーションの現実に、既にぺちゃんこに押し潰されてしまっていて。

 混乱する。自分が混乱していると言う事だけが、確かな事実として解る。立っている気力も湧かなくて、ベッドの縁にへたり込んでしまう。金髪兄妹の兄は部屋の中央に陣取り(『なんだ、この部屋には、クッションの一つも無いのか?』)、妹の方は部屋中を飛び回る蝙蝠達の手綱を、一つ一つ、丁寧に回収していく。

「オギノ殿、我が名は、アレクセイ・フォン・アーデンリッヒ・オプト・デボウト・ガルドエーデルシュタイン」

 …僕はスマホの画面を眺めて頭を抱える。

「―ターン・ヴァンパイアだ」

「なんだって?」

「“転化吸血鬼”だ。知らないのか?」

(…知ってる訳ないだろ…)

 僕は返事の代わりに溜息を吐く。ベッドの上にスマホを放り投げる。どうせ、警察に電話をした所で、『確り目が覚めてから、電話を掛け直しなさい』と話も聞いて貰えないのがオチだ。それに、警察が僕を、園部美佳と吉田優香の誘拐事件の犯人、又は協力者だと考えているのなら、もしかするとこれを切っ掛けに、彼らが家の中にまで乗り込んで来るかも知れない。彼らがどの段階まで確信を得ているのかは分からないし(流石に礼状を手に入れたりはしていないと思う…けど、狐目はかなり自信有り気だった)、この家を調べられた所で、彼女らの行方に繋がるものは何も出てきたりはしないが、近所の人達が僕らを見る目は確実に変わるだろう。なるべくなら、家族に被害は出したくない。僕はもう、どうしようもないとしても。

「…で?その転化吸血鬼さんとやらが、一体僕の家に何の用なんです?」

「オ…オギノ殿?なんだか、先日会った時と、様子が…?」

 僕は顔を上げる。何だか厳しい顔をした金髪の妹と、少し怯えた顔をするアレックスと、目が合う。苦笑する。本当は安心させる様に、微笑んで見せる積りだったのに。どんな風に笑っても、今の僕には苦笑にしかならない。

「…すみません。あれから僕も、まぁ、色々ありまして。他人に愛想良くする余裕が無いんですよ」

「はぁ、そういう―否、済まないな、貴殿の事情も存じ上げずに」

(キデン)

「…いえ、他人の事情なんて、分かりっこないですから」

「そうだな、差支えなければ、何があったのか尋ねても良いか?」

「兄さん」

 舌打ちと共に、まるでそうなるのを予測していたかの様に、妹のカミラが素早く口を挟む。僕は彼女を見る。彼女は蝙蝠の手綱を集め終えている。蝙蝠達は蛍光灯の明りから逃げ惑う様に、手綱の範囲内で弱々しく動き回っている。明るい中で動きの鈍った蝙蝠は、さっきまでと違って数を数え易い。どうやら全部で12体居る様だ、と思う。蝙蝠の総数を目算で数えている途中、カミラとふと目が合う。カミラは決まりが悪そうに、ゆっくりと僕からその目を逸らす。

(…良い子だなぁ。別に、気にする事なんて無いのに。どうせ、名前も知らない、赤の他人の事情だ…)

(…もしかして、この前の風船に入ってたのって、あの蝙蝠?影の大きさもあれ位だったし―)

(―いや、名前は知ってるか。そういえばこの前、教えたばっかりだったっけ…)

「カミュ―」

「駄目よ。分かってるでしょう?私達、任務の途中なのよ。しかも、

「分かってる、分かっているとも。だが―」

「―分かってないわ。兄さんはいつもそう。これっぽっちも理解していない事を、いっつも分かってるって言い張るの。良い?この任務が失敗した時、エーデルシュタイン家がどうなるか考えた事はある?私達の家族は?同胞は?他の種族どころか、同じ吸血鬼でさえどうなるか分からないのよ?アード様は私達が任務を成功した暁には、私達の身の保証を確約して下さったけれど、ラーク公やルナルーダの連中が、先にこの任務を達成した場合―」

「分かっている、カミュ、俺だって、何も考えていない訳ではない。しかし、我々がここへやって来てから、一体どれだけの欠片を手に入れたというんだ?どの道、我々だけでは無理がある。幸い彼は、現地民で―」

「―だから?だから何だって言うの!?兄さん、やっぱり何も分かってないじゃない―!」

 蝙蝠達の手綱を握り締めたまま、カミラが部屋の中央で胡坐を掻く兄へと詰め寄る。その叩きつける様な強い踏み込みと、いっそ怒号と言って良い様な彼女の声に、僕は階下でジョンや母さんが目を覚ましやしないだろうかと戦々恐々とする。咽に餅でも詰まった様な顔をして、兄は妹を見上げている。カミラの蝙蝠達の手綱を握り締めるその手から、白く関節が浮き出ているのが見える。

「―全ての同胞の命が賭かっているのよ。全ての転化吸血鬼達の命が!」

「カ―カミュ。落ち着け、一旦、落ち着いて―」

「―煩い。誰の所為でこうなったと思ってんの?アード様が私達に命じられたのはこの地での橋頭堡の構築よ。欠片が碌に見つからないですって?そんな事は分かり切ってるわ。他の奴らだって直にここへ辿り着く。アード様が議会でどんなに上手く立ち回ろうともね。私達の役目は、ここで前哨基地を造る事。他の奴らがやってくる前に、この地で出来るだけ優位を築く事よ―それを、人間に手を借りるって?そんな事をしたら、鍵が掛からない金庫に情報を仕舞い込む様なものじゃない!やつらが寄って集って、この子の頭の中身を洗い浚い引き摺り出して―!!」

「わ―悪かった、カミュ。俺はただ―彼に手を貸す代わりに、こちらも彼に手伝って貰えたら、と」

「―だから、それが間違いだって言ってるんじゃない―!」

「あ―あの、」

「―悪かったよ、カミュ。確かに軽率だった。ただ、彼にはこの前、道案内してもらった恩義もある。それに少しでも報いる事が出来たらと―」

「それは―それは、私だって分かってるわ。でも、それとこれとは話が別よ―」

「あの、済みません。もうちょっと静かに―」

 僕は唇の前に人差し指を立て、カミラの怒号の間からでも聞こえる様に、出来るだけ抑えた声を上げる。彼らが僕の方を見る。少しホッとする。

(どうやら、一応聞こえたらしい)

 さっきまでは混乱して、考えが全然纏まらなかったが、どうやら彼らにはとっとと帰って貰った方が良さそうだ、と冷えて来た頭でそう結論付ける。人は第一印象で他人への印象が半分以上決まると聞いた事があるが、だとしたら、僕のファーストインプレッションも、割と捨てたものでは無いのかもしれない。

(本音を言うと、この兄弟達にはこれ以上関わり合いたくない。見目麗しい金髪赤眼だし、遠くから眺めている分には問題無いけれど…)

(こうやって、積極的に関わるとなると―なんというか、こう、疲れるというか、しんどいというか、その、精神が摩耗するというか)

(…この兄妹は僕の手に余る。僕のキャパシティの埒外の存在だ)

 彼らを部屋から追い立てる為に、僕はベッドから腰を浮かし、立ち上がる。察するに、彼らにものっぴきならない事情があるらしいが、それはこっちだってお互い様だ。何がどうなってそうなったのか、どうにも分からないが、僕も自分の人生が滅茶苦茶になってしまうかどうかの分水嶺だ。吸血鬼なんぞに関わっている暇なんかありはしない。

 僕は彼らに向かって一歩踏み出す。カミラが僕の方を見上げて、一言言う。

「あ」

(あ?)

 夢の続きに居る様に感じる。

 右手から何かが、僕を目掛けて弧を描いて飛んでくる。僕は反射的に右手を上げて、それを受け止めようとする。僕の反射神経にしては珍しく、僕はそれを手の平で受け止める事に成功する。

 痛みは無い。

(?)

(かなりのスピードで、飛んで来た筈なのに―?)

 野球ボールを素手で受け止めたかのような掌のジンジンする感覚どころか、指先がそのを掴んでいる感覚さえ無い。掌の中には、確かにそのが収まっているのに。

 さっきまで見ていたあの夢を思い出す。狐目の刑事が同情する様な笑顔を浮かべて僕の両膝を拳銃で片方ずつ撃ち抜いていく。撃ち抜かれた膝の穴から行方不明になったあの写真の女の子達が生えて来る。

(…?)

(夢?)

(いつの間にか、眠っちゃってたのか?でも、目は、冴えてる。パッチリと冴えて、眠れないくらい…)

 手首を引っ繰り返して、手の中のものを見る。

(これ―?)

 手の中には蝙蝠が居る。

 夢の続きに居る様に感じる。

(何だ―?)

 僕の掌の中にあの蝙蝠が居る。彼らが連れて来た蝙蝠、カミラが手綱を引いていたあの蝙蝠が、掌に触れている感覚が一切無いままに。僕は訳も分からずに、蝙蝠から指を放し、手を振り、腕を振って、蝙蝠を右手から放そうとする。それでも蝙蝠は僕の掌から離れない。僕が右手を振る度、蝙蝠の足に付いている手綱が鞭の様にひゅんひゅんと音を立てる。

 僕はパニックを起こして、助けを求める様にアレックス達の方へ目を向ける。見ると、彼らも茫然とした様子で僕の方を見ている。アレックスは腰を抜かして引っ繰り返ったみたいな姿勢で、カミラは―。

 カミラは―困った様な笑顔を浮かべて、僕の事を見ている。

「ねぇ、ちょっと、すみません、なんか、手に―」

 僕は手を振る。彼らへ助けを求める。彼らは微動だにしようとしない。僕は半狂乱で、蝙蝠の羽を左手の指先で抓む。今度も、羽を掴んだ様な感覚は指先に無い。

 ―代わりに、右の掌の皮膚を摘まんでいる様な感覚を指先に憶える。

(何だ、これ―?)

(どうして僕が、こんな目に―?)

(―助けて。誰か、お願い、誰か―)

 夢の続きに居る様に感じる。

 夢の続きに居る様に感じる。

 夢の続きに居る様に感じる。

 右の掌と蝙蝠の接触面は、いつの間にか境目が無くなっている。蝙蝠はいつの間にか僕の掌の一部になっている。僕の掌から肌色が蝙蝠の胴体へ昇って行って、蝙蝠はカメレオンが擬態する様に僕の肌色へと変わって行く。蝙蝠の羽が洗濯機で洗ったセーターみたいに小さく縮んでいく。僕が瞬きする間に蝙蝠の羽は消え失せ、後には蝙蝠の胴体だった肌色の膨らみだけが残る。

 僕は思わず笑ってしまう。

(助けて、誰か、助けて…)

(意味が分からない、意味が…)

(これは、夢?でも、目が不思議と冴えてる。目がぱっちりと冴えて、眠れないんだ…)

 夢の続きに居る様に感じる。

 右手に残った肌色の膨らみが、手首を伝って僕の腕を昇って来る。昔、映画で殺し屋に、血管に空気を注射されたチンピラを思い出す。空気が血管を上って行って、そして心臓に辿り着いて、チンピラは泡を吹いて死ぬ。僕は自分で悲鳴を上げている事にも気付かずに、自分の腕を昇って来る肌色を塞き止めようと必死に爪を立てる。肌色は僕の抵抗など意に介さずに、するりと液体の様に形を崩して僕の指を擦り抜けて、そして、消える。

「あ―」

 消える。

 消えてしまう。

(…?)

 夢の続きに居る様に感じる。手首を引っ繰り返し、腕を持ち上げ、何処かに肌色の突起物は無いかと自分の体を手探りで捜索する。何処にも見当たらない。僕が見つける事が出来無いだけかもしれないが。慌てて窓硝子の前へ移動し、硝子の前で寝巻を脱いで、くるくると回ってみる。おかしな所はなにも見当たらない。半裸で涙と鼻水を撒き散らしながら、くるくると踊る間抜けな男が映り込む以外は。

(何―?)

(意味が分からない、誰か…)

(…胡桃割り人形みたいだ。ハハ、いよいよ正気じゃなくなっちまったかな、僕―)

 笑う。硝子の前でくるくる踊る自分が、何だか馬鹿らしく思えて。足を止め、涙を拭い、振り返る。

 僕の背後、手の触れる距離に、アレックスが立っている。

「え?」

 ―夢の続きに居る様に感じる。

「ちょっと、兄さん―!?」

「試すだけだ。なぁカミュ、今まで人間で、こいつを吸い込める奴なんて居たか?」

「いや―そうだけど、でも―!」

「試すだけだ」

「危険過ぎるわ―」

「何、危険は承知の上さ、カミュ。全ての転化吸血鬼達の命が賭かっているんだろう?」

 ―アレックスはその手に、蝙蝠を一匹、握り締めている。

「や―ちょっと、待―!」

 アレックスは僕が何を言うよりも早く、僕の口の中に蝙蝠を押し込む。口角が大きく押し広げられるが、口の中には相変わらず何の感覚も無い。蝙蝠の毛深い胴体の舌触りも、獣臭い匂いも、頑丈な歯触りも。

 アレックスが縋る様な目で僕を見ているのが目に映る。夢の続きに居る様に感じる。

 ―もしもそうなら酷い夢だ、と思う、本当に。







                        ―わん、わん、わんわんわん。

 …目を開ける。

 一晩中目を開いて寝ていたかの様に、眼球がパリパリに乾いて酷く痛む。おまけに喉がぴったりと張り付いて呼吸がし辛い。次いでに強烈な頭痛と吐き気がする。その上口の中が、歯磨きをしないで寝た時みたいにかなり臭う。

(…酷い夢だった…)

(目が痛い。頭が痛い。咽が痛い。その他所々、そこら中が痛い。全部あの夢の所為だ)

(…どうしてあんな夢見たんだか。そりゃ僕の近況も、悪夢と言っても十分差し支えないけど…)

                           ―わん、わん、わん…。

 ジョンの元気な叫び声が頭に響く。耳の穴を穿りながら、僕は枕元のスマホを拾い上げて、時刻を表示する。

【AM 11:39】

「………やべ」

 僕は慌ててベッドから飛び出し、寝巻を脱ぎ捨て、クローゼットにぶら下っているハンガーから、カッターシャツと制服のズボンを素早く掴み出す。寝ぐせ頭を振り乱して、シャツに袖を通し、制服ズボンに片足を突っ込んで、漸く、僕は今日が何曜日だったかを思い出す。

(…あ)

「―馬鹿か、僕は…」

 制服ズボンをその場に蹴落とし、寝巻のズボンを再び拾い上げて、僕は棒立ちで乾いた笑いを上げる。少しだけ、いや、何もかも放っぽっておいて、気の済むまで暫くおいおいと声を上げて泣きたくなる。僕を取り巻く小さな環境は、ここ数日で随分と様変わりしてしまった。このまま順当に檻の中へ運ばれて行きたくなければ、遣るべき事は山程ある筈なのに、よりによって起き抜けに一番にするのが、遅刻の心配だなんて。自分の奴隷根性に吐き気がする。

 寝巻のズボンを片手にぶら提げたまま、僕は意味も無く窓を見る。笑いが出る。止め処無く乾いた笑いが出る。

(…そんなんだから、あんな変な夢見るんだよ…)

(狐目が僕の両膝を撃ち抜いて…)

(金髪兄妹が僕の部屋に窓からやって来て…)

(…口の中に、たらふく蝙蝠を押し込んでいく)

 自然に笑いが途切れるまで、僕はそこでそうしている。ズボンを履いて、カッターシャツを寝巻の上着と取り換えるか考える。制服を汚す心配よりも、面倒臭さの方が心の中で勝る。僕はカッターのボタンを開けたまま、部屋の外へ出る。瞼を擦る。涙は出そうにない、と思う。親の前で突然泣き出したりして、事情を聞かれるのはどうしても避けなければ、と頭の隅でぼんやりと考える。

(どうして?長い間良い子でやって来た。偶には心配かけたって良いじゃないか。それに、もしかしたら、助けになってくれるかも―)

(―心配を掛けるになるのがオチだ。それから、確かに大抵の問題は、子供より大人の方が上手く対処出来るだろうけど、流石にこれはどうしようもないんじゃないか?精々弁護士を呼ぶ相談するのが関の山だ。それに―)

(それに―それに、それに―?)

(もしも僕を―信じて貰えなかったとしたら?)

 涙は出そうにない、なんて思っていたのに、自分の考えに、早速じわりと涙が滲んで来て、仕方が無いと幾ら言い聞かせても、自分を情けなく思う気持ちが溢れだして止まらなくなる。僕は階下に向かう足を止め、階段の途中でしゃがみ込んで、少しの間、そこで蹲っている。目元からじんわりとした熱が消えて無くなるまで。心が凪の様に、波が消えて静かに落ち着いてくれるまで。

 遠くでジョンの鳴き声が聞こえる。

                        ―わんわん、わんわんわん…。

 階下で母さんが素早く窓を開け放ち、鋭くジョンを叱責する声が聞こえる。

「こら、きゃんきゃんきゃんきゃん煩いよこの馬鹿犬―お客さんに迷惑でしょうが!」

 くぅんと憐れを誘うジョンの鳴き声がして、一瞬の後に喧騒が途切れる。母さんが悪態を吐きながらカラカラと窓を閉じる。僕は微笑を浮かべる。階段の上に立ち上がり、大きく伸びをして、再び階下へと歩を進める。いつもの遣り取りだ、と思う。そのいつも通りに、心が慰められる。

(全く、ジョンも母さんも、元気だな―このクソ暑いのに)

(母さんも、相当煩いと思うけど―多分言ったら怒るだろうから、言わないけどさ)

(…僕は未だ捕まった訳じゃない。きっとなんとかなる。何とか出来る筈だ…)

 頬を軽く叩く。確りと目元を拭いて、リビングの扉を開ける。

「おはよう、母さん―」

 ―その目に、飛び込んで来たのは。

「あら、ユースケ。何がおはようだよ、この寝坊助―」

「―いや奥さん、この紅茶、絶品ですな!素晴らしい、今まで飲んだ事の無い、不思議な味がします―是非銘柄を教えていただければ!」

「―あらやだ奥さんだなんて、そんな風に言われたら肩が凝っちゃうわ。ミズホさんでも、お姉さんとでも、好きに呼んで―」

「―母さん」

「ほらユースケ!何ボーっとしてんだい、あんたにお客さんだよ―ホントすみませんねぇ、普段からぐうたらな息子なもんで―今度から寝坊する度に、あんたのクリスマスプレゼントの予算千円ずつ削ってくからね」

「か、母さん?」

「御友達が来るなら、尚更しっかり起きなきゃだめじゃないか―ご免ね二人とも―それにあんた、何て恰好してんだい、ほらさっさと着替えてきな!―お茶のお代わりは居る?」

「頂きましょう」

「ちょっと兄さん、少しは遠慮して―!」

「―あらあら良いのよ、カミラちゃん。こんな安物のお茶っ葉で良ければ幾らでも。カミラちゃんもどう?お茶がいいなら、お菓子は?たしか、買い置きのクッキーが何処かに―」

「―なんと、このお茶の銘柄は、“ヤスモノ”と仰るのですか!而してそれは、一体何処の国の銘柄なのでしょう?国産、それとも、輸入品?」

「はっはっは、中々面白い事を言うねぇ、この子は!」

「わっはっは!」

「―ハァ…」

 リビングの中には、ダイニングテーブルを囲んで、母さんと一緒にあの金髪兄妹が座っている。兄貴は母さんと談笑しながら緑茶を浴びる程に呑み、妹は兄を横目に溜息を吐きながら、テーブルの上の煎餅をチビチビ、リスの様に齧っている。信じられない事に、二人とも全く同じ恰好だ―昨日の僕の夢と―いや、僕が夢であって欲しい、と願っていたもの全てと。

(…畜生。あれ、やっぱり夢じゃなかったのか…)

(てことは、昨日のあれは、全部本当にあった事?口の中に蝙蝠を入れられて―あれからどうなったんだ?)

(頭の先から足の先まで黒尽くめ。御丁寧に、靴下の色も真っ黒だ…)

(こいつらもしかして、昨日の夜から今まで、この家に居座ってたのか?一回帰って着替えて来いよ…)

(…てか、母さんも少しは怪しいと思ってくれ…)

 僕は母さんの言葉を無視してずかずかとテーブルに歩み寄る。金髪兄妹を睨みつけ、右手をテーブルに叩き付ける。

「こら」

 …右手を引っ込める。

 アレックスとカミラは、何故かそれぞれ神妙な顔をしている。(?)僕はその理由を考える事を放棄し、食い縛った歯の隙間から押し出す様に、言葉を少しずつ口にする。

「―ああ、アレックスさん、カミラさん―?」

「はい」

「…はい」

「話がある―あります。少し御時間宜しいでしょうか?」

「ええ、勿論です」

「…分かりました」

(?)

 彼らを見る。上手く言えないが、その様子に―何処か違う所がある、と思う。その変化した態度の内容と理由に、上手く説明は付けられないが、取り敢えずは言う事を聞いてくれそうなだけで、良しと思う事にする。

 今の僕に必要なのは、話を聞く事だ。聞いて、教えて貰う事。どんな小さな物でも、事でも何でも良い。このままじゃ意味が分からなさすぎる。取っ掛かりの無い山肌を、道具も無しに登る様なものだ。

(…昨日のあれは何だ?あの蝙蝠は?)

(あれを僕の口に入れた理由は?あれから何があった?あれは何処に消えた?)

(あんたらは何なんだ?この街に何しに来た?)

(…吸血鬼とか言ってたな、あんたら。この誘拐事件に、何か関わりがあるのか―?)

「はいはい、お待たせ―」

 母さんが暢気な掛け声と共に湯呑を持ってくる。僕はそれを母さんの手から奪い取って一口(熱い)(あ、思ったより熱い)(熱い、待って待って―)…二口、三口に分けて飲み干し、それをテーブルの上にドン、と勢い良く乗せる。

「止めな」

「はい」

「物を大切に、っていつも言ってるでしょうが。壊れたらどうすんの?」

「はい、ごめんなさい―あ、待って待って、痛い、脇腹突かないで」

「次やったらブチ殺すわよ?」

「痛い、それ、ホント痛い、痛いから―あ、アレックス、カミラ、取り敢えず僕の部屋に」

「返事ぃ!」

「―すみません、もう二度としません―!」


 階段を上り、再び自室へと向かう。

 アレックスとカミラが部屋の入り口を潜ったのを確認してから、僕は乱暴に部屋の扉を閉める。彼らはその音に驚いて振り返り、僕を見て、少し怯えた様な顔をする。僕は歯を食い縛って、彼らを睨み返す。そうしていないと、今にも怒鳴り始めてしまいそうだったから。自分の置かれた状況の理不尽さと、二人が持って来た不可解さが綯い交ぜになって、頭がどうにかなってしまいそうだった。訳の分からなさに腸が煮え繰り返る。腹が立って、悔しくて、涙が出そうになる。何がどうなっているのか教えて欲しい。何がどうなっているのか―誰だって良いから。

「説明」

「え?」

「説明を―」

 僕は抑えた声で、辛うじてそれだけを口にする。吸血鬼の兄妹は、困った様に互いの顔を見合わせる。僕は自分が怒鳴り出さない事にホッとする。どうやら欠片程度だが、未だ自制心ってものが残っているらしい。兄妹達は、青褪めた顔をして項垂れる―僕の要求が理解出来ず、その内容を叶えられない事に、何故だか酷く怯えている様に。その表情を見て、僕は益々混乱する。(どうしてそんな顔をする?)そんな顔をしたいのはこっちの方だ。泣き出したいのはこっちの方なのに―。

 僕は心臓の辺りを左手でゆっくりと撫でる。落ち着け、落ち着けと繰り返し自分に言い聞かせる。

「―申し訳ありません、仰る意味が―」

(…敬語ヤメロ)

「説明だ」

「―と、言われても―」

「説明だよ」

 心臓から手を放す。感情の波が引いていくのを感じる。僕は出来るだけ低い声を出す。自分の声に、気分が揺さぶられない様に。

「…説明だ。あんたら、何なんだ?なんで窓から入って来た?昨日のあれ、何なんだ?あの蝙蝠は?ありゃ、夢なのか?あんた、蝙蝠をオレの口の中に突っ込んだよな―なのに、なんの味もしなかった。あれは何だ?夢ってのは、一部の感覚が反映されないもんだけど―昨日のあれは、夢にしては目が冴えていたし」

「―その―」

「…あんたら、確か吸血鬼だって言ってたよな?なんたら―そう、“回転ターン”吸血鬼だって。その吸血鬼が、どうしてオレの部屋の中で蝙蝠をバラ撒く?あんたらの任務とやらと、何か関係があるのか?それに―」

 僕は喋る。喋り続ける。喋り続けながら、状況を整理する。不思議な事に、言葉を並べている間だけは、少しは落ち着きを取り戻す事が出来た。疑問符ばかりの出来事だらけで、頭がおかしくなっていた所為かも知れない。疑問を口から外に追い出せば、その分だけ、少しは気持ちが楽になる。

「―あんたら、この町に何しに来たんだ?もしかして、あの誘拐事件と、なんか関係があんのか?」

 兄妹達は―並んで再び、顔を見合わせる。兄の方は、苦渋に満ちた微笑みを浮かべ―妹は、恐怖と驚愕の入り混じった表情を浮かべている。兄は表情を消して、僕の方に向き直る。妹の方は、怯えた顔でその場に立ち尽くしている。

「…兄さん、このひと」

「止せ」

「―兄さん、このひと、記憶、記憶が―」

「止せ、カミラ。今は止せ」

「―どうして?あれだけの欠片を返したのに。あれだけ欠片があれば、必ず力を取り戻すって、アード様は―!」

「カミュ、落ち着け、カミュ。済みません、愚妹が御無礼を―」

 アレックスは妹の方を見ずに言う。僕は部屋の入口に凭れかかってそれを聞いている。嫌な予感が体の中を這いまわる。部屋に向かう道すがら、これからこうなるだろう、こうしようと考えていた範疇から、少しずつ、予期出来ない、手に負えない範囲へと、事態が食み出し始めているのを感じる。

(怖い)

(スミマセン。ゴブレイ)

(嫌だ。聞きたくない、聞きたくない、聞きたく―)

(…欠片?欠片って、何の―)

「説明、でしたね?あなたが望むのならそれを成しましょう。但し、我々が知り得る範囲内で、ですが。無論、我々とて全てを知っている訳ではありません。主人の開示する情報までが、我々、一介の転化吸血鬼に望み得る限界です―」

 アレックスは言う。僕の部屋のフローリングの床に片膝を突き、両手を眼前で組んで、深く、首を垂れる。足の力が抜けていくのを感じる。僕は扉にずるずると背中を擦りながら床に尻餅を突き、両手で頭を抱えて、笑い声を上げる。

 …声にならない笑い声を。

「―それでも良ければ、あなたの疑問の一端にお答えしましょう、王よ」

(…王?)

Oオー?)

(ホームラン王?血液型?エイエイ・オー?)

(―何なんだよこれ、何なんだよこれ、何なん―!!!)

 夢の続きに居る様に感じる。

(…お願いだ、誰か助けて、母さん、ジョン…)

 最悪の悪夢の中だ。決して目の覚める事の無い悪夢の中。

 ―眠りの中で、刑事に両膝を撃ち抜かれる方がマシだ、と思う。


「王」

「は?」

「…王って?」

 顔の表面を何度も拭い、力無くだらりと腕を垂らして、アレックスの方を見る。気の抜けた笑いが浮かぶ。もういっぱいいっぱいだ、と思う。表面張力ギリギリまで何かを内側に注がれた気分だ。もうこれ以上、他の何かを受け入れる事は出来ない。

「王って何?」

「何?―とは…?」

「だから、何で僕が王様なんだよ?大体、そもそも一体、何の王様なんだ?」

「それは―その、全てです」

 アレックスは少し肩の力を抜いて、微笑む。まるで、答えられる疑問を向けられて、安心しているみたいに。それがなんだか気に入らない。彼らに困らせられているのは僕の方なのに。これじゃ、僕が彼らを困らせているみたいじゃないか―?

「全て?」

「ええ。全てですよ。あなたは全ての生ける者の王であり、全ての魔を統べし者、生まれながらの王…」

「はぁ」

「―“神喰い”、“境界と鍵の支配者”、“知識と時の管理者”、“拷問卿”―そして、絶対の破壊者にして世界の法則すら操る超越者、我らが真祖―それがあなた、即ち、“骨の王”なのです!」

「なんじゃそら」

(骨?Ca。カルシウム…?)

(別に、昔から骨が丈夫、なんて事も無かったけどな…)

 僕のあまりのノーリアクションぶりに、アレックスはショックを受けたのか、泣き出す一歩手前みたいな表情になる。少しは申し訳ないとは思うが、今の僕にそれを気遣ってやる余裕はない。

(…悪いな。自分の事で、手一杯なんだ…)

 フローリングの上で跪くアレックス(板張りに黒尽くめで跪く北欧男子の図は中々にシュールだ)の隣で、カミラが腕組みをして仁王立ちしたまま、扉の前にへたり込んだ僕を上から睨み付ける。

「―そもそも、本当にこいつなの、兄さん?」

「―カミュ」

「あれだけ欠片を飲み込んで、一切の変化が見受けられないのよ?明らかにおかしいわ。私達でさえ、欠片を一つでも内側に受け入れれば、忽ち狂気に陥ってしまうのに。変だと思わない?ルナルーダの連中の罠かも。方法は分からないけど、もしかしたら連中、この子と王のリンクを強制的に排除したのかも。そうね、脳を全摘出するとかして」

(…何か、凄いエグい事を平然と話していらっしゃる…)

「―カミラ―」

「そうして王の欠片を埋め込んで置けば、私たちの欠片と引き合う呼び水になると思わない?そもそも人間が、欠片を飲み込める時点でおかしいのよ。しかもあれだけの数。“”吸血鬼の方々でさえも、3つも吸い込めばたちどころに強制変異するわ。それにこの家、なんか変な匂いするし…」

(失礼な。ちゃんと掃除はしてるぞ―母さんが)

「―カミール・フォン・フォルトナ・パトル・エルセリア・パウズウォーハインド」

 アレックスが言う。静かな声で。ゆっくりと、音も無く立ち上がる。

                                   ―ゴ。

(え?)

 ―アレックスは素早く、思い切り、裏拳で妹の顔面をブン殴る。ゴキリ、と何かが折れる音がする。血が吹き出て、僕の部屋の西壁にパ、と鮮やかに飛び散る。彼女の頭部が、本来向いてはいけない方向に向いているのが見える。彼女の首が、捻れてはいけない方向に曲がっているのが見える。彼女の喉元から、鈍く輝く白いものが突出しているのが見える。

(―えええええええええええええええええええええええええええ…?)

 余りの展開に、脳が追いつくことを拒否しているみたいだ。僕は床に尻をくっ付けたまま、アレックスを制止する事も出来ずにその場にへたり込んでいる。吐き気がする。未舗装の道を走る車の車内に居る様に、頭の中がグラグラと揺れる。夢の続きに居る様に感じる。

 ―最悪の悪夢の中に。

(―何が、何が、何が、何が、何が…)

(―何なんだよこれ、何なんだよこれ、何なん―)

(…助けて、誰か助けて、助けて、お願いだ…)

 声を出したいのに、上手くいかない。立って逃げ出したいのに、体が凄く遠くにある気がする。正しく悪夢の中の感覚だ。指先が今更になって震え始める。漸く、目の前の出来事に気が付いたみたいに。

(何なんだ、何なんだ、何なんだ、何なん―)

(―夜中に吸血鬼が窓から入って来て。起きたら下で母さんとお茶会してて。そいつらを部屋に呼―)

(…何処からが夢?昨日、刑事に呼び出された所?それとも、川辺で、こいつらにあったとこ?)

(今日は色々やる事があった。今日は色々やる事があった筈なのに。あの名刺の男に電話して、僕の無実を証明する一助に―)

 カミラの首が180度捻じれてこちらを向いている。口の端から血を垂らし、眼は何も映して居ないかの様に瞳孔が見開かれている。頬からは血の気が引き、首はとぐろを巻く蛇の胴体の様にクルリと渦を巻いている。首の中央が破れて小指の先程の骨が突び出している。白くテラテラと輝くそれの根元から時折血が噴出する。僕は胸の奥から何かを吐き出しそうになる。朝食を食べる前で良かった、と思う。

「―カミール・フォン・フォルトナ。控えよ、無礼者め。王の御前であるぞ」

 アレックスはカミラを殴りつけた拳をみしみしと音を立ててもう一度握り締める。目を見開き、歯を剥き出して、首の捻じれた彼女の方へもう一歩、踏み出す。

(…あ)

 ―僕はその時、彼が散々名乗っていた《吸血鬼》という肩書を、本当に信じた気がする。

 いや、今までだって、別に信じて居なかった訳じゃない。本当でも嘘でも、どっちでも良かったと言うだけだ。別に本物の吸血鬼でも、自分を吸血鬼だと信じている輩でも、どっちでも構いやしなかった。自分の問題で手一杯だったから。

 彼らの事情に踏み込む気は無かった。ただ、起こった事実があるだけ。こいつらは窓から僕の家の中に入り込んで来た吸血鬼を名乗る無法者の外国人。僕は犯罪の片棒を担いだと疑われている。それぞれを天秤に乗せるなら、どちらに傾くかは一目瞭然だ。人間、誰だって、自分が一番可愛い。自分と、自分に属するもの全てが。優先順位は明白だ。天秤がどちらに傾くか決まっているのなら、もう片方に乗っているものに対して、興味を失うのは当然の事じゃないか。

 ―それが目の前で起こらなければ。

 アレックスの赤眼の縁が、見る見る内に黒く充血していく。白目の部分は消え失せ、黒く染まった眼球の中に赤い瞳が浮いている状態になる。口の中、犬歯の辺りには立派な牙がある。これを突き立てて人から血を吸うんだ、と納得してしまう様な、立派な太い牙。剥き出した歯はキシキシと音を立て、今も少しずつ尖状に変化している。成程、確かに人間じゃ無い。

 ―人間じゃない、と理解する。

(ああ)

 首が一回転捻じれた状態のまま、カミラが瞬きをして、周囲を見渡し始める。瞳孔が集束し、頬に血の気が通い始める。カミラの赤い目が兄の姿を捉える。その目に恐怖が滲む。

「―死を持って償え」

 アレックスが拳を振り上げる。カミラが弱々しく手を上げる。拳が空を裂く音を聞く。

                                 ―ひゅう。

「アメロ」

 ―アレックスの動きが止まる。ぼきぼきと何かを押し砕く様な音がする。去年同じクラスだった三田が、学校を出て直ぐの所で、信号無視して車に爪先を轢かれた時と同じ様な音だ。アレックスの拳がカミラの左手上部を吹き飛ばし、彼女の左胸に半分突き刺さっている。アレックスはその状態のまま、僕の方を向く。アレックスは戸惑った顔をしている。歯は犬歯以外、人間と同じ様に戻り、目も眼球の黒い色が抜けて、少しずつ元に戻ってきている。

「あ―王、至上の君、我らが真祖様。失礼ですが、今何と仰られました?」

「アメロ」

「アメロ?アメロとは―?失礼、一応、日本語は、再度出立前に学んできた積りですが―どうやら、我々が考えているよりも、大きな言語変化が訪れていたみたいで。その、差支えなければ、それがいったいどういう意味なのか教えて頂きたく―」

 僕は笑う。自分が、あんまりに―。

 …情けなくなって。

(―大丈夫。きっと大丈夫。なんとかなる。何とか出来る筈だ…)

(大丈夫―かね?)

 顎を何度も動かす。恐怖で金縛りの様に固まっていた体を、何とか端っこから動かす。脂汗が吹き出る。小指から薬指、薬指から中指へ。脂汗と一緒に涙と鼻水が出る。顎を必死に動かす。自分が情けなくて、何度も泣きそうになる。

(大丈夫。僕は大丈夫。きっとなんとかなる。何とか出来る筈―)

(ハハ、吸血鬼なんてホントに居たんだな―こんなことならキリスト教徒になっておくべきだった。この家には聖書も十字架も無い、何かあるとすれば台所の、粗挽きのガーリックペッパーだけ)

(―問題の解決に、新たな選択肢が出来たな。吸血鬼のお仲間になりゃ、少なくとも人間の刑法なんて、気に病まなくて良くなる…)

「ア―ア、ヤ…ア―メロ」

「は?」

「あ―ああ、や…止めろ、止めろって言ったんだ。これ以上、オレの部屋を、血で汚すのは止めてくれ。掃除はどうすんだよ?ほら、壁紙なんてもう最悪じゃないか…」

 アレックスはチラリと壁を見(壁には横薙ぎに血の水滴が飛び散っている)、叱られ慣れていない子供の如く、どうすればいいのか分からない、といった様に半泣きで笑顔を浮かべる。カミラの首が、折れた時と同じ様にごきごきと音を立てて元の位置に戻る。アレックスが迷うような手付きで、彼女の胴体から拳を引き抜く。カミラが困った様な顔をして僕を見る。地面に落ちていた彼女の左手四指が浮き上がって、その左掌の付け根に再結合していく。

 僕は青褪めた顔でその光景を見ている。

「す―済みませんでした、我が王よ。私の考えが至らなく―」

「あ―良いんだ。その、分かってくれりゃ―」

「―つまり、私は外で愚妹を処刑すべきだったと。つまりはそういう事ですね?」

「………ああ、うん。違うね。全然違う。いや、まぁ俺の言い方も悪かったけど…」

「何!?つまりどういう事です!?」

「…バカ」

「何だと!?カミラ、お前にその様なこと言われたくは―!!」

「…うん。そうだな、アレックスはちょっと黙ってて」

「な!?何と、真祖様、失礼ながら、一体私めにどのような落ち度が―!!」


 ―溜息を吐いて、立ち上がる。

 長時間、同じ姿勢で固まって居た所為で、体中の関節がバキバキと悲鳴を上げる。首を動かし、肩を解し、足の指を端から順に動かして、僕は自分の部屋の扉の前からゆっくりと離れる。

 ちら、と部屋の中の他の二人の様子を見る。

 兄―アレックスは、部屋の隅で正座している。(何で正座…?)僕の言葉がよっぽど堪えたのだろうか、随分しょんぼりとした顔をして、三つ編みを肩口で揺らしながら、肩を落として項垂れている。

 妹―カミラは、変わらず部屋の中央で仁王立ちだ。胸の前で―(立派な胸を抱える様に)―腕を組んで、僕の方へ半分疑う様な、もう半分は―何だろう、こいつを信じても良いものかどうかと、推し量りかねる様な顔をして、こちらの目を覗き込む様に、伺っている。

(身体中が痛い)

(ずっと床の上に座ってたから―お尻の骨が痛いというか、ヒリヒリする)

(カミラ、さっきもあんな風に腕を組んでたな―あれかな、やっぱ、あれだけ大きかったら、立ちっ放しはしんどいんだろうか。だからああやって、抱えるみたいに…)

(…座ってくれ、って言った方が良いんだろうか)

(この部屋、椅子も無いのに?セクハラだって言われたりしないだろうか。いや、寧ろパワハラ…?)

(…吸血鬼にそういう概念、あるんだろうか)

 ―よっこいせ、とおっさんの様な掛け声と共に、ベッドの端に腰掛ける。僕の体重に耐えかねて、ベッドがギィギィと抗議する様に軋み声を上げる。僕は改めて黒尽くめの金髪兄妹達へと向き直る。カミラが僕の言葉を待つかのように、歯を剥きだして僕を見る。僕はその赤い目を見る。何を言えば良いのか、皆目見当もつかない。

 ―結局、最初に思い浮かんだ事を口にする。

「…吸血鬼だ、って言ってたよね」

「ええ」

「まだお昼過ぎだけど。昼間に外出しても平気なの?」

 彼女は目を瞠って僕を見る。それから、額に拳を当てて、呆れた様に、深々と溜息を吐く。

 ―肺の中の空気を全て絞り出すかのように、深々と。

「…最初に聞く事がそれ?」

「―仕方ないだろ。他に何も思い付かなかったんだ。いいよ、別に答えたくなきゃ、答えなくても…」

「マナよ」

 彼女は言う。僕は彼女を見る。彼女は苦々しい表情を浮かべている。

「まな?」

「そう。魔素マナよ。私達吸血鬼は、魔力に依って魔素を操作して、身体の表面に防護膜を創り出しているの。これで満足かしら?」

「あ…うん」

「他に質問は?」

 ぶっきらぼうに彼女は言う。僕の方なんて見たくない、という様にそっぽを向いて。僕は苦笑して彼女を見る。それから、考える。聞きたい事は両手に収まらないくらい沢山あった筈なのに、さぁ何でも聞いてごらんといざ構えられると、尋ねたいことは何も頭の中に残って居ない。バイキング料理を食べに出掛けた時みたいだと思う。何かを食べたくて態々そこに行った筈なのに、何を食べるかで迷っている内に、いつの間にか無為に最初の5分間が過ぎる。

「あー…カミールとアレックス」

「うん」

「はい」

「二人は兄妹じゃないの?」

「はぁ?」

 カミラが驚いた様に振り返って僕を見る。僕はその顔を見て再び苦笑する。今度は正真正銘、馬鹿を見る目付きだ。

「どうして?」

「主様、に―似てませんか、私達―?」

「い、いや、似てる、似てますけど…」

 僕は彼女の視線から身を守る様に両手を上げて、慌てて弁明する様に捲し立てる。自分でも何をそんなに慌てているかは分からない―。

「―その、さっき聞いた妹さんの名前と―お兄ちゃんの方の苗字が違ったから。えと、お兄ちゃんの方が確か、アレックス―アレクセイ・フォン・アード…アーデンなんたら・かんたらうんたらシュタインで―」

 ―分からない、分からないが―自分が今、何かを失おうとしている、それだけは分かる。

「―ええと、カミラの方が、カミール・フォン・フォルトナ―なんたらウォーハインド。ほら、苗字が違う…」

「…ああ。転化させた主が違うのよ」

「なんだって?」

 手の隙間から彼女を見る。カミラはうんざりした様な顔をしては居るが、さっきよりかは何倍も優しい顔をしている。僕はホッとして、両手を下に下ろす。視界の端でアレックスがもぞもぞと身動ぎする。見ると、アレックスがお仲間を見る様な眼で、ニコニコとこちらを眺めている。時折ウインクまでしてくる。

 …それが鬱陶しくて堪らない。

「《転化》よ。吸血鬼が生まれる方法は二通りあるわ。ひとつは生殖に依る出産」

「セ―」

「―もうひとつは、人間を《転化》させ、隷属させる方法よ。その転化によって生み出されるのが―」

「…“転化”吸血鬼ターン・ヴァンパイア?」

「その通り」

 カミラは部屋の中央から離れ、自分の血が飛び散った壁に凭れ掛かって、頷く。僕の答えに、満足した様に微笑んで。

(…マズい)

(何の為に質問してるのか、忘れそうだ。別に今は、吸血鬼の社会科授業の時間じゃねえんだぞ…?)

「私達は、人間だった頃の兄妹。ふたりとも、別々の主に《転化》されたのよ」

「おお…」

(何て言うか…返答に困る)

(そんな気軽に、重い感じの秘密を打ち明けられても…去年柏木が、『俺両親死んでるから、今は叔父さんの所に世話になってるんだよねー』とか急に言い始めて、嘘だと思って聞き流してたらそれが本当だった…時みたいな、)

(えええ色々受け止めきれねぇぞ、そもそも受け止める準備をする為に、色々質問を始めた筈だったのに…)

(受け止める、受け止めるって―一体、何を?)

(夢の続きに居る様な気がする…)

「―で、私の主が行方不明になって…まぁ結構フラフラした人だったから、いつかそうなるかもとは少し思ってたけど―それから、私はエーデルシュタインの家に預けられて」

「はぁ」

「30年くらい前になるかな。で、その家の主に密命を受けて、私達はここに来た。それがつい先日」

「その密命ってのが、あの蝙蝠の―?」

 彼女は自虐的な笑みを浮かべて僕を見る。溜息を吐き、口を開く。

 ―もうどうにでもなれ、という様な、投げやりな調子で。

「そうよ。密命ってのは、王の捜索」

「王…?」

「―正しくは、欠片ね。王の欠片の捜索」

「欠片―?」

「…あの蝙蝠が、王の欠片なの」

(…………………………)

(?)

(何を言っているのか、分からない)

(あの蝙蝠が、王の欠片なの)

(あのこうもりがおうのかけらなの)

(アノコウモリガオウノカケラナノ―)

 彼女は僕の様子など無頓着に話し続ける。ベッドサイドで僕が彼女の言葉を反芻しながら、床の木目を数えている間にも、彼女は話を先へ先へと推し進めていく。彼女が何を言っているのか分からない。それはある種、当然の事なのかもしれない。僕は別に吸血鬼ではないし、あの蝙蝠は彼女たちの問題の一部であって、僕が抱える問題には関わりないからだ。

 僕は床の木目をぼんやり眺めながら、拳で眉間の皺を強く揉み解す。力の無い笑みが頬に浮かぶ。頭が急速に理解を拒み始めたのを感じる。難しい授業の内容に突き当たった時みたいなものだ。先生が言ってる事の意味が殆ど分からなくなって、急に声が遠くに感じる。黒板に書いてある線が動物の体の模様みたいに見えてきて、頭の中身が膨らんだ様に感じて、次第に眠くなる。

(物理の授業の時みたいだな。あれは先生の声も悪いんだよ、あんな念仏唱えるみたいにさ…)

(訳が分からない。蝙蝠が欠片だって?じゃあ猫は何だ?ウサギは?エリマキトカゲは?)

(眠くなって来た。頭が痛い。起きたばっかりなのに…)

「―10年前に行方不明になってから、“骨の王”の生存は絶望視されていたわ。欠片同士は近くにあると、互いを吸収して大きくなり、元の個体に近付こう、とする性質を持っているの。でも、私達の手の中にある欠片は、どれだけ狭い檻に押し込めても、一つに纏まろうとはしなかった…」

「…」

「…けど、最近になって、漸く一つの兆候が見られたの。全ての欠片が、同一の方向に引き寄せられるような反応を示した。主様は調査を命じたわ。それでその結果、欠片がこの極東の地、この町に―集合しようとしている事が判明したの」

「調査?」

「欠片にタグを付けて、世界中ばら撒いたのよ―速度は違えど、皆がこの町を目指したわ」

「いやぁ、我らが主様は凄い御方だ、あの様な人間の造った機器を使い、真祖様の欠片を制御する等と―!」

「思い付いたのはリンダだけどね。それに、あいつ絶対、回収の事考えて無かったでしょ。忘れたの?お陰でどんなに酷い目にあったか…」

「ま―まぁ、全ての問題を同時に解決する手段など、滅多に見つからないと言う事だろう。それに、その為に我らが居るのではないか?我らが主様の両輪と成り、主様が無事に目的地へと辿り着ける様―」

「はいはい。そういうことにしといてやるよ、忠犬さん。ま、そういう訳で、私達はこの町に来たの。この町の何処かに他の欠片か、或いはその核がある筈よ」

「核…」

「そう。中核がこの町の何処かで形を成している筈。欠片の反応からすると大分弱いけれど、形と意志を持った、“骨の王”の中心と成る核がね。他の欠片もそれに引き寄せられてる。昨日もそれを追って―私達はここへ来たんだけれど」

「はぁ…」

 僕の明らかな生返事に、カミラはあからさまに気を悪くした様な顔をする。僕はそれを見て弱々しく笑う。もう少し身を入れて話を聞くべきだろうか?でも、興味が離れてしまったものは、今更どうしようも無い。

(…もう良い。もう沢山だ)

(あんたらにはあんたらの問題がある様に、僕には僕の問題がある…)

(…後は、どうやって話を付けるか、だ。結局、その欠片ってのはどうなったんだろう。今も僕の体の中にあるのだろうか。特に体調の変化は無いけれど…)

「―分かってる?私達が持って来た12の欠片は、今も未だあなたの体の内側にあるのよ?」

「そうなんですか」

「そうなんですかって…」

(…結局こいつら、あれを全部僕の中に入れたのか)

(危険だとか何とか言ってた癖に。まぁどうせみんな、自分の都合の方が大切だって事だ。他人の事情なんて知ったこっちゃない…)

(あんたらにはあんたらの問題がある様に、僕には僕の問題がある。それだけだ…)

「―さ、話は終わりましたかな、真祖様。それでは我らと共にこの小屋を離れ、我らが根城まで―」

「人の実家を小屋とは、心外ですね」

「あ―済みません、その、日本の住宅事情に疎く―ええと、私達とこの、こ―屋敷から離れ、我らが主へ、お目通りを―」

「僕は日本を離れる積りはありません」

「お―王よ、我らが真祖様―」

「僕はあんたらの王様じゃ無い」

 きっぱりと言い切る。アレックスが部屋の隅から中腰で立ち上がって(多分足が痺れているのだろう)、何度も両の爪先を擦りながら、よろよろと僕とカミラの間まで歩み出る。カミラは目を細めて、突き刺す様に僕を睨み付ける。僕は口元に穏やかな笑みを繕う。

(僕には僕の問題があるし―あんたらにはあんたらの問題がある)

「僕は人間だ」

「し―しかし、真祖様―」

「だから、真祖じゃないって。それにカミラ、君は僕が王様とは違うって、疑ってなかった?」

「それは―」

「あれだけ欠片を与えたのに、記憶も力も全然戻らない、って。12個の欠片で、本物の王様がどれだけ力を取り戻すのかは知らないけど。残念ながら、僕は昨日と少しも変わらない」

「…そんな筈―!」

「そういう体質なんじゃないかな?他の生物でも欠片を内側に取り込める、みたいな事をさっき言ってたし。吸血鬼は―失礼、“転化”吸血鬼は、一つ吸い込めば狂気に陥ってしまう、とも言っていたけれど」

 アレックスとカミラは、互いに困惑した様に目を見合わせる。僕は笑みが崩れない様にと心の中で祈る。ここで言葉が過ぎて彼らを怒らせて、さっきの焼き増しみたいに今度は僕が首を捩子切られてしまったらと思うと、下っ腹の辺りに冷やかな震えを感じる。怖い、と素直に思う。そうでなくても、彼らが僕の中の欠片を回収する為に、短絡的な手段に出たとしたら?王の欠片がどういう性質の物かは分からないが、回収の手段として一番簡単なのは解体だろう。内側に入ってしまったものを回収する為に―。

 …それ以上は考えない様にする。

「それは―そうだけど…」

「だろ?だったら、僕が欠片を飲み込めても不思議じゃないし、力が戻らなくても何の不思議も無い。僕が王様本人じゃ無いという証拠だ」

「けど―王の欠片ってのは、それ自体が起爆剤みたいなものよ」

 カミラが喰い下がるように言う。僕は少し可笑しくなる。僕を王様じゃない、と言ったのは、彼女なのに。その彼女が、僕の言い分を否定する。まるで自分が間違っているのを祈る様に、言葉を口にする。

「分かる?劇薬なの―王の欠片ってのは、それ一つだけで致命的なのよ。転化吸血鬼が特別それに弱い訳じゃない、転化吸血鬼、一つだけでそれだけおかしくなってしまう代物なの。欠片はそれぞれが一つ一つ、その内に自我と力を備えているわ。それを内側に受け入れるっていうのは、その王の力の一端と、内側に受け入れるって事よ。それがどういう事か、分からない?欠片を内側に入れるっていう事は、“骨の王”の大いなる意識に、自分の自我を繋ぐって事よ―誰も自分を保てないわ。吸血鬼の他の一族じゃ、それを拷問として使用している所もあるくらいよ」

 僕は肩を竦める。

「だったら、僕はその“大いなる意識”とやらに招かれなかったんじゃない?」

 アレックスが吃驚したようにあんぐりと口を開ける。カミラが苦しそうに顔を歪める。

「そんな―そんな言い訳―」

「言い訳じゃないよ。僕は何も変わって無い。まぁ、ちょっと太った様な気もするけど」

「―人間―欠片を飲み込める人間なんて、今まで居なかったのよ?真祖様が私達の前に現れた35年前から、今まで誰一人、ヒト、人間は―」

「何事にも例外はあるもんさ。そう落ち込む事は無いと思うよ。確率の問題だ。箱の中に99枚の当たり籤が入っていたとしても、たった1枚の外れ籤を引く可能性は誰にだってある」

 僕は言う。臍の上で軽く手を組み、気付かれない様に、深く、深呼吸する。

「―私達がそれを引いたと?」

「そういう事になるかな」

「それを証明する手段は?」

「さあね。僕の首を引き千切ってみるかい?きっと碌に抵抗も出来やしないよ。君達の力はさっき見た。目にも止まらぬ速さで首を捻じり、拳で上指を吹き飛ばし、胸に大穴を開ける。僕にはきっとどうする事も出来ないだろう。そうしてみるかい?そうやって欠片を取り返す?」

「それは…」

「―但し、違う考え方をする事も出来る」

 僕は言う。

 覚悟を決めて。

「…違う、考え方…?」

「と―とは、一体、どのようなもので、真祖様…?」

「…だから、真祖じゃないって」

 ―苦笑する。咳払いをし、改めて彼らを見る。彼らの赤い目を。

「まぁ、外れ籤にだって、探せば使い道はあるっていう事だよ」

「使い道…?」

「簡単な事だ。手を貸してくれない?実は僕、今凄く困っているんだよ。その件を助けてくれたら、今度はこっちが君達の力になろう」

 彼らの目が、揃って丸くなる。吸血鬼兄妹の赤い瞳が、申し合わせたように、ゆっくりと、真ん丸に。

 ―ああ、やっぱり兄妹なんだな、と思う。

(僕には僕の問題があるし―あんたらにはあんたらの問題がある)

「話を聞く気はある?」




 ―玄関で二人の事を見送る。

 上り框に腰掛けるアレックスとカミラを、ぼんやりと背中側から眺める。そういえばこのふたり、2階の窓から入って来た時、もう靴下のままだったけど、もしかしてそのまま帰るんだろうか、いやそれ以前に、こいつらこの黒尽くめの黒子みたいな不審者丸出しの恰好でこのまま家まで帰るんだろうかと、俄かに僕がやきもきし始めると、カミラがそんな僕を尻目に、ポケットから鮮やかな赤色の小さなポーチを取り出す。ポーチの口を開け、それを引っ繰り返して、逆さに乱雑に振る。それから、手の甲で汚れを擦り落とす様に、服の表面を何度か擦る。

「わ…」

 ―見る見る内に、錆が剥げ落ちていく様に、カミラの服の外観が変わって行く。冗談みたいな黒尽くめから、首元のゆったりとした紺色の長袖シャツに、カーキ色のカーゴパンツという出で立ちに。ポーチの中からは、ぽとりと青と白のスニーカーが飛び出て来る。彼女はそれを慣れた手付きで履く。

 …僕は思わず拍手をする。

「―凄いな。それも、魔法?」

 僕がそう尋ねると、彼女は少し拗ねた様な顔をして俯いて、何処だか居心地悪そうにそっぽを向いて、頷く。

「…そうよ。そんな様なもの。ほら兄貴、さっさとして」

 ―話を逸らす様に、彼女は兄を小突く。「お、おう、そうだな―」アレックスは妹に急かされるままに、手の甲で自分の服の表面を擦る。アレックスの着衣からも黒色が剥がれ落ちていく。黒の内側から、濃緑色の着物が姿を現す。

 …僕は苦笑を浮かべてその光景を見つめる。

(―その恰好で帰るんだ、こいつ)

(いい加減、他の日本人が和服を着てない事に、考えが回らないもんかね?そうでなくても目立つのに―)

(…正直、黒尽くめよりも目立つと思う。歩く視線の誘蛾灯だな。広告背負って歩けば、良い宣伝になるだろう…)

「それじゃ、私達はこれで―」

「あ、おい、カミュ―」

「何よ?」

「―俺の分の靴は?」

 ―立ち上がったカミラが、兄の方を向いて絶句する。アレックスは上り框で足をぶらぶらとさせながら、笑顔でカミラの方を向いている―が、妹の無言の時間が長引くに連れて、その静寂に罵倒されているかのように、表情が明るさを失い、足が動きを失い、肩がしょんぼりと窄まっていく。

(…何だろう。多分、このお兄ちゃんの方が悪いんだろうけど―)

(―何て言うか、何だか、居た堪れない…)

「―私、靴を持って来い、って言ったよね?」

「い―言ったかなぁ?言ったかなぁ、どうかなぁ…い、言ってないんじゃないかな…ぁ―?」

(…声、裏返ってんぞ、お兄ちゃん…)

「あぁ?」

「―言った。はい、言いました。カミラちゃん確かに言ってました、うん、お兄ちゃんが忘れていました」

(…これが、僕の部屋で妹の胸に正拳ブチ込んでた奴と同じとは思えんな…)

「そうだよな?私は確かに言った。お前が聞いてなかっただけだ、そうだな、馬鹿兄貴?」

「あ、はい、そうです、私が聞いてなかっただけで…」

(弱い…)

(何故だろう―何故だか、泣きそうだ)

「よし、事実関係はハッキリしたな。それじゃあ帰るぞ」

「え!?でも、僕は裸足で―…」

 …カミラがゆっくりと首を擡げて、アレックスの鼻先に顔を近付ける。(コワイ)僕は思わず目を逸らす。アレックスの肩口が小動物の様にぷるぷると震え始める。内心、アレックスに謝りながら、一歩、二歩と兄妹達からそろりと後退さる。妹が兄の前で牙を剥くのが見える。正直、彼ら兄妹の力関係は良く分からない。が、今の彼女には、先程までとは違う別種の恐ろしさがある。そう、例えるなら、想像し易いが故の恐怖と言うか、日常的に、近くにある恐怖と言うか―…。

(…ヤンキーだコレ)

(これ、完全にヤンキーだよ、コレ…)

「…―そりゃ完全には裸足じゃないけどね、靴下は履いてるけど。でも逆に言えば靴下しか履いてない―訳じゃないですか。家までも結構遠いですし。このまま歩いたら、お兄ちゃん足の裏怪我しちゃう…」

「大昔の人は皆そうやってたんだよ―」

「…うん、大昔の人はね?でもお兄ちゃんは結構現代寄りというか、近代よりの112歳というか、その、靴の無い時代を知らない訳で、生まれた時から靴を履いてた訳で」

「―生まれた時からァ?」

「うん。生まれた時からは言い過ぎたね、どんな生き物も生まれた時は裸ん坊だからね。でもお兄ちゃん物心ついた時にはもう靴を履いていた訳よ。だからそんなに足の裏が固く無いと言いますか、だって家まで未舗装の道もあるし、あんな石ころゴロゴロしている川原を歩くのは結構しんどくないかなと…」

「どうする?だったら空でも飛ぶ?」

「―え?そんなの無理だよ、だってお兄ちゃんカミラちゃんほど魔素のコントロール上手くないし、こんな真昼間に空なんて飛んだら、焼け死んじゃう…」

「安心しろ。私が手伝ってやるよ」

「え、ホントに?ありがとう、カミラちゃ―」

 ―カミラが、スッ、と兄から顔を離す。アレックスの言葉は空中で途切れる。彼の妹は右手を頬に当て、小指で下唇を撫でながら、その顔に笑みを浮かべる。

 …いっそ、邪悪と呼んでも差し支えない様な、清々しい笑みを。

「―ああ。安心しろ、責任持って、私がお前を家まで飛ばしてやるよ。大丈夫、方法はお前に選ばせてやる。どっちが良い?パンチか、キックか」

「パン―」

「―さっきブン殴られたのもあって、心置きなくお前の事を吹っ飛ばしてやれそうだよ。良かったねぇ?兄さん、昔から、真昼の空を飛びたがってたもんね―」

「―ゴ―」

「―これなら魔力のコントロールの心配はしなくて良いわ。あとは着地の心配だけね。勢い余って、飛び過ぎちゃったら御免なさいね、多分、力が入りすぎちゃうと思うから」

「―ゴメ―」

「―我が家のサンダルを使って下さい、アレックスさん!」

(多分、ここで使うべき場面では無いと思うが)ありったけの勇気を振り絞って、僕は二人の会話に割り込む。カミラが吃驚した様に、瞬きして僕の方を見る。アレックスが半泣きと言うか、7分泣きと言うか、兎に角成人(?)男性にあるまじき鼻垂れ顔で僕の方を見上げる。僕は裸足のまま土間へ降り、隅っこの、恐らくこの家で一番アレックスのサイズに近いサンダルの埃を払い、彼の足元に差し出す。

(…ご免、父さん)

「―使って」

「これは、なんと―忝い、このような心遣い―このアレックス、感涙の極みです、真祖様―!」

「…だから、真祖じゃないってば」

 僕は笑う。足の砂を払っている途中、カミラと目が合う。カミラは困った様に、申し訳無さそうに、小さく笑みを浮かべている。

「良いの?別に、この馬鹿に気を使わなくても―」

「…良いよ。元々、余ってるやつだし。それに家の前で、人間砲弾の試射会を開かれた方が、それこそ迷惑だ」

「…そりゃ、確かに。そこまで配慮が回らなかったわ―」

 カミラが顎に触れ、今更その事に気が付いたかの様にそう独り言ちる。アレックスがサンダルを履いて嬉しそうに土間を跳ね回る。僕は自分の笑みに、少しずつ苦い感覚が広がっていくのを感じる。

(…この兄妹は…)

 第一印象を思い出す。直感ていうのも、偶には当てになるもんだ、と痺れた頭で漠然とそう思う。

(…この兄妹は僕の手に余る。僕のキャパシティの埒外の存在だ)

(あんな約束、して大丈夫だったのかな…?)

「―なんと、薄っぺらい―真祖様、これがジャパニーズ・トラディショナル・シューズ、ゲタですか!?」

「…違うよ、それはただのビーチサンダル。見た事無いの?」

「―あんまり無いわね。私達、殆ど水辺に行かないから」

「へぇ…?」

「なんていうか…流れる水とか、川とか、そういうのが苦手なの、私達」

「はぁ、今時珍しいね。泳げないの、兄妹揃って?」

「違うわよ、種族的によ―あ、でも沼は入れるわよ、泳ぎたくなったら、吸血鬼は皆、沼に行くの」

「沼―?沼かぁ、沼、沼は行った事無いな、僕…」

「沼は良いわよ―沢山カエルも居るし」

「え、それってプラスの要素なの?」

「カエルは嫌い?」


 玄関扉から吸血鬼達が出ていくのを見送る。

 アレックスが、我が家から国道へと向かう路地の上を、スキップしながら軽やかに掛けていく。僕はその光景を見て、20前後の見た目をした北欧系男子が、未知の感覚の履き物を履いてはしゃいでいる様を見て、微笑ましいと思えば良いのか、気持ち悪いと思えば良いのか、それとも素直に爆笑すればいいのか、途方に暮れる。アレックスがカミラを置き去りに、国道への道を半分程走って行ってしまった頃、カミラが僕を振り返って、真剣な表情をして、僕の胸に人差し指を突き立てる。

(―)

 指を見て、息を止めて、彼女を見る。

 胸の上を指が圧迫する感覚がある。

 心臓が竦む。

 僕は精一杯の笑顔を浮かべる。声が震えて聞こえない様に、祈る。

「…何?」

「誓って」

 彼女は言う。厳しい口調で。切迫した表情で。

「誓うって―何を?」

「決まってる。約束よ。私達と約束した事を守ると。私達を裏切らないと」

「…誓うよ」

「ちゃんと誓って」

「ちゃんと、って…」

「心臓に。心臓に誓って。私達の流儀で」

 彼女は言う。僕の胸に人差し指を突き立てて。その表情は、何処か泣き出しそうにも見える。僕は再び途方に暮れる。

「お願いよ………」

 彼女はそのまま首を垂れる。僕は彼女を見る。両手を上げて、それを意味も無く宙に彷徨わせる。彼女を抱きしめたり、その手を握ってやるべきだろうかと、後から考えると自意識過剰で自殺したくなるような思考が恥ずかしげも無く頭の中を駆け巡る。彼女の髪からふわりと優しい匂いがして、慌てて僕は顔を背ける。

(良い匂いがする。女の子ってのは皆、良い匂いがするもんなのかなぁ。この前の、あの子も―)

(―しかし、今まで生きて来て、女の子との関わりなんて、義理チョコの投配の時くらいしか無かったのに。まさかこれ、あれか?齢16にして、これか!?噂の、モ、モ、モ、モテ―)

(爽やかな香りだ。柑橘系の香りがする…)

「………王様」

 ―彼女を見る。

 両手を下ろし、再びその手を持ち上げて、彼女の肩に手を掛け、彼女に顔を上げさせる。

 彼女が驚いた様に僕を見る。僕は笑う。精一杯の、笑顔だ。声が震えて聞こえない様に、心底、祈る。

「誓うよ」

 僕は言う。彼女は僕の心臓から指を離して、微笑む。

「王の心臓に誓う」

「…約束よ」

「大丈夫。ちゃんと守りますって」

 彼女は頷き、手を振って、のんびりと歩いて、兄の後を追う。

 僕はその背中に、手を振る。腕が疲れるまで、取り敢えずその手を振っている。




『―で?』

『うん?』

『あんたが困ってるのは分かったわ。その為に、あんたが手助けを必要としているのも。で?私たちがあんたに力を貸した場合、あんたはどんな風に私達の事を助けてくれるって言うの?』

『決まってる。君達の、王の欠片探しを手伝ってやれる』

 僕は自信たっぷりに―少なくともそう見える様に―微笑んで見せる。カミラが露骨に馬鹿にした様な顔をする。アレックスは僕とカミラの間で、尾を追う犬の様に、おろおろと周回する。

『は、あんたが?一体、只の人間が、どうやって私達の任務を手伝えるって言うの―?』

『―只の人間じゃ無い』

 僕は笑みを崩さずに言う。カミラは、痛い所を突かれた、と言う様に、顔を歪める。

『そ―それは、そうでしょう。あなたは、真祖―』

『…だから、違うって』

 僕はいい加減うんざりしながら、アレックスの鼻先にぴしゃりとそう言葉を叩き付ける。勘弁して欲しい、と思う。僕の主張を受け入れるかどうかはともかく、議題の頭を飲み込んでくれないと、話がそれ以上先に進まない。

(…全く、野良猫だって、もうちょい聞きわけが良いぞ?)

『―あんたの妹さんが言ってたでしょう、お宅の真祖とやらが消息を絶ったのは、10年くらい前だって。あんた、オレを一体、何歳くらいだと思ってるんです?』

『?そ―それくらいでは、ないのですか―?』

 …僕は頭を抱える。カミラが徐に腕を上げて口元を隠し、申し訳無さそうに眉を顰め、そっぽを向いて一、二度、大きく咳払いをする。

(…この野郎…)

『…僕は16ですよ。今年で17になります』

『なんだ、大体同じ位じゃないですか―』

(―同じじゃねぇよ!)

(何だ?吸血鬼ってのは、皆こんなにがばがばの丼ぶり勘定なのか―?)

(…大体同じ位だからって、別人に仕立て上げられて堪るか。僕がその骨のなんたらだっていうんなら、僕のこの余剰の6年間はどう説明する積りだ?僕には僕の記憶がある。僕は荻野祐輔だ)

(―断じて、あんたらの“骨の王”なんかじゃない)

 僕はアレックスを視界から意識的に押し退け、カミラの方へ向き直る。カミラは(時折堪え切れない様に口元を手で覆う、それが癪に障る)僕の方を見て、話の先を促す様に、顎をしゃくる。

『―僕は王の欠片を飲み込める人間だ』

『それで?』

『幸いな事に、飲み込んでもおかしくはならない。聞く所によると、あんたらとは違ってね』

『…』

『欠片が増えてきたら、どうする積りだった?倉庫でも借りて、閉じ込めておく?欠片が全部で何個あるかは知らないけどさ、10匹20匹なら兎も角、100匹単位になった場合、あんたらの手に負えるとは思えない』

『…何とかするわよ』

『へえ?何とかね。一匹入ったら気が狂うって騒いでた癖に、ホントに何とかなんて出来んの?それに、こいつらは近くにあると、互いを吸収して大きくなるんでしょう?大きくなった個体が、あんたらの管理を嫌がったら?』

『それは―』

『―あんなに強いあんたらが“致命的”だって言うんだ、何とか出来るとは思えない。あんたらにも、町の連中にも、その他の誰かにも』

 ―カミラは悔しそうに、僕から目を逸らす。アレックスは、妹を見て、僕を見て―三つ編みを左手で弄りながら、困った様に右手で犬歯を掻く。

 僕は笑う。

 今度は正真正銘、本物の笑みだ。これは降って湧いた様なチャンスだ。冴えない僕が、何の取り柄も無い高校生の僕が、マイナスに滑り落ちそうな自分の人生を元に戻す事の出来る、逆転の一手。

(天秤を傾けるんだ)

(僕には僕の問題があるし―あんたらにはあんたらの問題がある)

(ゼロに戻すだけで良い。マイナスをゼロに押し戻すだけで。平穏を取り戻すんだ。マイナスを然るべき場所に―家族が不幸にならない様に。僕が酷い目に遭わない様に)

 ―逃す手は無い。

『…でも、僕なら何とか出来る』

『………』

『もう分かってるだろ?僕を倉庫代わりに使えば良い。僕ならおかしくはならないし、僕に欠片を集めて置けば、他の欠片を呼び寄せやすくもなる―』

 カミラに同意を求める。カミラは僕の言葉に、不承不承といった感じに頷く。

『…ええ。欠片は元の個体に戻ろうとしている。他の欠片と引き寄せ合うの。大きい欠片なら尚更よ―』

『―それに、僕はこの町の人間だ。この町に欠片が集まって来るって言うのなら、好都合じゃないか?あんたたちが怪しまれる様な場所でも、僕なら自由に出入りできるだろう。それに、あんた達の一族の内紛が起きた時の為に、手持ちの欠片を仕舞って置く、隠し金庫が必要じゃないか―?』

 僕はべらべらと捲し立て続ける。彼女達の心に少しでも引っ掛かる様な、思い付く限りの売り文句を、訪問販売に来るセールスマンも顔負けの熱意を持って。額にじっとりとした汗が滲む。ここで彼女たちに引かれたら終わりだ。ここで彼女たちが僕への協力を拒んで、僕を殺して欠片を回収まではしないにしても―僕が寿命で死ぬのを待って、内側の欠片を回収する事にしたら?吸血鬼の生死観は、僕には推し量れない。もしかしたら、他の誰にも回収出来ないのなら、のんびりと待つことを選択するかもしれない。後80年程度待てば、どうせ勝手に死んでしまうのだから。たった12個の欠片とはいえ、揃わなければ王様が完成しないなら―多分完成しないだろうし―利権争いに一族の中でどういう形で決着を付ける積りなのか僕には分からないが、もしかするとそういう方法だって彼らにはあるのかもしれない。

 或いは、何らかの手段を持って、僕の中から欠片を引き摺り出すとか。こちらの方が簡単かもしれない。僕の内側よりも多くの欠片を持ってきて、僕の中身を引き摺り出せば良いんだから。

(…何だか、パズルゲーみたくなってきたな…)

 ―どっちにしろ、彼女たちがどちらの方法を取っても、僕は終わりだ。僕はこの人生の難局に、僕一人だけの力を持って、事態の収拾に当たる羽目になる。

(…お願いだ、首を縦に振ってくれ―)

(あんたらにはあんたらの問題がある様に、僕には僕の問題がある―)

(―僕には助けが必要なんだ。お願い、ああ、お願いだ…)

 アレックスが妹を見る。カミラはその目を見て、長い時間が経った後―仕方ない、という様に、頷く。僕は肩の力を抜いて彼らを見る。言葉が、思考が、止まる。頬の筋肉が弛緩する。

(?)

(ど―どうなった…?)

 どうやら、彼らの中では決定項が出た様子だ。項の内容がどちらに転んだのかは分からないが、彼らの態度からそれが決まったのが分かる。アレックスが嬉しそうな笑みを浮かべてこちらを振り返る。

『―あなたの提案を呑むわ、オギノ』

 ―僕はほっと溜息を吐く。

『…いやどうも、何、きっとオレ達、上手く―』

『―但し、保険を掛けさせて貰う』

(え?)

 足音がする。顔を上げる。カミラが歩いて来る。カミラが、僕の前へ。歩きながら、彼女は牙を剥き出し、それを自分の親指に突き立てる。音も無く親指の表皮が破れる。ぷっくりと、鮮やかな色の血が浮かび上がる。

(…保険?)

『な―何を…』

『あんたも言ったでしょ?来たるべき、一族の内紛が起きた時の為よ』

『…それは―』

『金庫に最も必要なのは安全性でしょう?鍵の掛からない金庫は要らないの』

 カミラは笑みを浮かべて僕の額に親指で触れる。凪の様な笑みだ、と思う。穏やかで、静かで、そして全てを諦めた様な笑み。僕は思わずその手首を掴む。彼女の腕はピクリとも動かない。

『あなたの頭に《錠》を掛けさせて貰うわ』

『待―!』

『ご免ね、あなたとの約束はちゃんと守るから』

 彼女は親指で、僕の額に何かの模様を書いていく。僕はそれを止めようと、両手で彼女の手首を掴む。彼女はビクともしない。僕の額に、優しく、一定の速度で、何かの図形を書いていく。

『ま、待って、待ってカミラ、何してる?少し待ってくれ―!』

『あなたの平穏は私が守ってあげる』

 彼女が僕の額から親指を離す。と、同時に、彼女は全力を込めて掴んでいた僕の手を、あっさりと振り解く。僕はベッドの上に放り出される。腰をベッドの端で打つ。思わず呻き声を上げる。

『―行くわよ、兄さん』

『ま―待て、カミュ、今のは―?』

『だから、よ。言ったでしょ、鍵の掛からない金庫は要らない、って。魔術耐性の無い人間から、情報を引き出す手段は本当に幾らでもあるのよ?―勿論、耐性のある人間から、引き出す方法もね。調子に乗って色々喋り過ぎたわ―私も、兄さんも。驚いた事に、この子、ホントにただの人間みたい。私の腕を握った手、何の力も感じなかった。内側にも、外側にもね。もしかしたら、信じられないけど―本当にそう人間が出て来ているのかもしれないわ、王の欠片を飲み込めて、その上で、欠片に耐性のある人間が。一度アード様に報告しないと―』

『だ―大丈夫ですか、王、真祖様―?』

『だから無駄よ兄さん、そいつには《鍵》を―』

『あ―あ、痛ぇ、どっちかというと、大丈夫じゃないかな、アレックス―』

 一頻り呻き終え、ベッドの上に腰を起こす。じんじんと、腰が内側から、響く様に痛む。涙が滲む。顔を上げる。視界に、ベッドサイドでホッとした顔をしているアレックスと―僕の目の前で、呆気に取られた様な顔をするカミラが映る。僕は腰を擦り、目元を擦り、額を擦りながら、カミラに文句を言う。

『痛いじゃないか、急に放り投げて―そりゃ無理に掴んだのは悪かったかもだけどさ、吸血鬼と人間の力の差を考えてよ、ああ、腰が痛―』

 大丈夫ですか真祖様と、アレックスがいそいそと遣って来て僕の腰を優しく擦ってくれる。正直有難い、ちょっとばかり手は冷たいが。この際贅沢は言わない事にする。あれだけ否定していた事も忘れて、僕は彼の真祖への好意を有難く受け入れて置く事にする。

 カミラの親指から血液がぽたぽたと零れ落ちる。僕はカミラを見る。カミラは腕をだらりと脇に垂らして僕を見ている。その僕を見る眼に、ギョッとする。

 さっきまでは―まぁ、良くも悪くも、彼女は人間を見る目をしていたと思う。種族差や、力の優劣はあるけれど、喋ってコミュニケーションのとれる、知的な隣人として、僕の事を扱ってくれていた、と思う。

 それが今は―まるで、まるで。

(…あの親指、痛くないのかな…)

(ぽたぽた、ぽたぽた…ああ、今日だけで、部屋があっという間に血塗れだ。母さんに何て言おう…)

(アレックスに折られた首も、吹き飛ばされた指も、穴を開けられた胸も―あんなに直ぐに治ったのに。どうしてあの親指だけ?もしかして、牙で穴を開けたから…?)

 だ、と思う。

 意志の疎通が、及ばないものを見る様に。

 力による干渉が、及ばないものを見る様に。

 …が、及ばないものを見る様に―。

 僕は彼女の目に気付かない振りをする。下を向いて、意味のある事無い事を延々捲し立てる。彼女の血液が零れる音がする。そのぽたぽたという音が、僕の事を責め立てている気がする。

『あ―それに、さっきの―一体何したの、オレのおでこに―まだちょっとヒリヒリする感じする―勘弁してよ、オレ、ここ結構かぶれやすいんだからさ。昔はここばっかりに汗疹が出来てさ、風呂上がりに扇風機の前に立たされて薬をデコ一面に―』

 彼女の目を見ない様にする。下を向いて、自分の言葉だけを聞いている。そうしていると少し安心する。彼女までもが、僕の事を真祖だ何だと言い始めたらどうしよう、と不意に不安を憶える。

(僕は違う)

(僕がその骨のなんたらだっていうんなら、僕のこの余剰の6年間はどう説明する積りだ?僕には僕の記憶がある…)

(…僕の余剰。僕の6年と少し。僕の記憶…)

(僕は荻野祐輔だ)

(…断じて、あんたらの“骨の王”なんかじゃ―)




 ―次第に小さくなっていく彼女の背中を見送りながら、思う。

(もしかして、彼女、王様が好きだったのかな…)

 手を振るのを止める。自分の手を見下ろす。虚しい笑みが浮かぶ。急に何もかもが、馬鹿らしく思えて来る。

(ああ、止めだ、止めだ。考えてもどうしようもない事を、これ以上考えても仕方ない…)

(僕には僕の出来る事をやるしかない。一に連続誘拐事件、二に自分の身の潔白の証明…)

(天秤だ。天秤を傾けるんだ…)

 足元にある、出しっ放しのサッカーボールを蹴ろうとする。右足の靴がすっぽ抜けて、明後日の方向に飛んで行く。僕は片足でピョンピョン飛び跳ねながら、無様にそれを拾いに行く。


 ―名刺とスマホを交互に見比べながら、一つ一つ、番号を打ち込んでいく。

 あの吸血鬼の兄妹との酷く長い会談を終えて、彼らが揃って巣に帰るのを見送って。

 時刻は既に3時過ぎ。疲れ果てた頭で、取り敢えず出来る事をしよう、と思い至る。半分吹っ飛んだ、休日の残りで出来る事。警察の捜査が今、どの辺りまで及んでいるは分からないが、あの狐目の刑事が我が家の扉をノックして、母さんや近所の人が、僕の身に起こった事を知ってしまわない様に。僕の身に掛けられた嫌疑を、信じてしまわない内に。

 頭の中にある、多分一番現実的な案を実行する事にする。とくに有効とも思えないし、これをやる事で、僕の無実の証明に多少なりとも助けになるとも思えないが、少なくとも、あの刑事の根拠の一つに風穴を開ける事は出来る。

(あの夜は、凄い名案に思えたけど―冷静に考えてみれば、あんまり意味の無い行為だよな。これをやった所で、結局の所、刑事の選択肢が少し増えるだけだ。1、あの胡散臭いジャーナリスト、小林縣が誘拐の実行犯である。2、小林縣は犯人ではない。別の外部の人間が実行犯である…)

(…どっちにしろ、これは僕の無罪の立証にはならないな。あの胡散臭いジャーナリストが、14日に僕と校門前で話をしていた怪しい大人=容疑者候補として、警察の捜査線上に浮かびあがるだけだ。結果、小林が無罪だったとしても、それは僕の容疑には関係ない。他の外部犯との関わりを疑われるだけで…)

(―それどころか、本物の犯人の可能性もある。あの胡散臭さ…)

(だとしたら―寧ろ、やらない方が良いのか、これ?)

(…いや、他に名案も思い付かない。兎に角、やれる事をやっていくんだ。猶予が後、どれだけあるか分からない。逮捕されなくても、報道されたら終わりなんだ。レッテルが残る…)

(…消えないレッテルが)

(―幸い、吸血鬼達の協力も取り付けた。やれる事はもっと増える筈だ。それこそ、正攻法で無い方法も。これからの事は後で、授業中にでも、幾らでも考えよう。今は取り敢えず、自分で出来る事を。簡単な事だ。電話一つで済む。大した手間じゃ無い…)

(…それに、たったこれだけの事で、あの刑事の根拠を、ひとつ崩してやれる。ハ、偶然だ?刑事の勘だァ?そんな曖昧なもんに、僕のこれから全部を左右されて、堪るかよ―)

 自室に戻り、部屋の中を引っ掻き回して、名刺を見つけ出す。ベッドの上に胡坐を掻き、スマホと睨めっこしながら、丁寧に番号を入力していく。名刺にはひとつの番号しか書かれていない。恐らく会社の番号だろう。市外局番、3桁、とんで4桁の番号。

(固定電話だ…)

【月刊 境界を歩く/在籍記者/小林 縣―】

 僕は何度も、名刺に書かれている番号と、スマホに打ち込んだ番号を見直す。間違って居ない、と確信出来るまで。数字の羅列は、寸分違わず同じ形をしている、と思う。俄かに緊張して来る。僕は水の中に潜る時みたいに、大きく息を吸い込み、呼吸を止め、目を瞑って、思い切って通話ボタンを押す。

 二回目の呼び出しのコール音が鳴った後―。

「―はいもしもし―」

「あ、もしも―」

「―こちら、ジェミニ出版、月刊・境界を歩く部署、キタガワですが」

 通話が繋がる。(良かった、偽物じゃ無かったんだ―)本当に通話が繋がった事に驚く暇も無く、電話口の向こうからは畳み掛ける様に言葉が飛び出して来る。

「一体、どのような御用件で?」

 …何だか神経質そうな女性の声だ、と思う。

「ええと―…」

「手短にお願いしますね。現在、他の社員が全て出払っておりますので。対応出来るのは私だけですが、申し訳ありませんが私もこの後次の取材のアポが入っております」

「―その―」

「体験談の投稿でしょうか?それでしたら、郵便の場合はハガキを弊社の当該部署まで送って下さるか、Webの場合は弊社のウェブサイトの投稿プラットフォームから、体験談をエントリーして下さい。どちらも締め切りは当月25日、消印有効です。体験談が採用された場合の、今月の粗品は…」

「―いえ、そうじゃなくて」

「では、目撃情報ですか?その場合も、郵便かWebの投稿プラットフォームをご利用下さい。電話では対応する事が出来ません。申し訳ありませんが、当部署は人員3名の零細部署ですので。済みませんが、私も先程申し上げました通り、取材の約束が御座いまして」

「いえ、そうじゃなくて、あの―…」

「では、何です?UMAの捕獲情報でしょうか?そういった場合も、先ずは郵便かWebプラットフォームに写真を添付して―」

「―いえ、そうじゃないんです、そうじゃなくて!」

 僕は思わず語気を荒げる。電話の向こうから聞こえていた声が途切れる。電話の向こうの人が、通話を切ってしまったんじゃないかと思うくらい、プッツリと。

 …思わず、スマホを耳から離して、通話状態を確認する。

(―良かった、まだ繋がってる…)

「あの…」

「―では、一体、どのような御用件で?」

 電話の向こうの声が、再び通話に答える。その口調はさっきまでの捲し立てるものとは打って変わってゆっくりになり、そして、明らかに不機嫌になっている。

(…怖い)

(き―切らないでくれよ、頼むから…)

「あの、ひ―人を探しているんです」

「成程、人をね。では、警察か職業探偵に依頼なさるのが宜しいかと。警察の場合は110番か最寄りの警察署まで、探している人物か又はあなたに後ろ暗い所がある場合は、探偵を利用なさるのが良いでしょう、良い探偵事務所を知って居ますよ、その分値段は高めですが―」

「違います、その部署の人間なんです―その、あなたの部署の。名刺を預かって居ます」

「―ウチの?」

 懐疑的な口調で、電話の主は答える。それでも、取り敢えず話は聞いてくれそうだと、僕は一先ずホッとする。

「本当です、僕、どうしてもその人に話をしなきゃいけなくて―必要な事なんです、僕、どうしてもその人に―証言して貰わなきゃ―」

「…分かった、ええ、分かりましたから。済みません、ちょっとメモの準備を…」

 ―小さな溜息の後、電話の主が、テーブルの上の物をガチャガチャと移動させる騒々しい音が聞こえて来る。何かを押し退ける音、どすん、と何かを放る音、ジッパーを開ける音、ビリビリと何かを破く音、シャープペンシルの、頭を二回押す音。

「…では、どうぞ。先ずはあなたのお名前、その次に相手の名前と、要件を」

「ええと、荻野―僕は荻野祐輔です。えー…、相手の名前は小林、縣―さん。用件は2日前、今月の14日の放課後に―」

「ちょっと待って―小林縣?」

 電話の向こうで、シャーペンがカリカリと紙の上を走る音が止まる。電話の向こうの女性が、鋭い声を上げる。僕は戸惑って―戸惑ったまま、電話の向こうの主に返答する、訳も分からずに。

「え、ええ―『月刊・境界を歩く』の小林縣さん、ハンチング帽を被って、無精髭の。2日前に―」

「そんな人間はウチの部署には居ません」

 間。窓の外で、雲が太陽を覆い隠す。視界が暗くなる。一瞬、視力を失ったかと錯覚する。

「―え?」

「巫戯けてるんですか?こんな小さな部署に、しかも日曜日に悪戯電話を掛けて来るなんて、あなた、よっぽど暇人なんですね」

「―違います、違う、僕、だってこの名刺に、」

「一瞬でも、信じた私が馬鹿でしたよ。じゃあ私、約束がありますので」

「―待って!待って下さい、何かの間違いじゃないんですか?だって僕は名刺を貰いました、名刺、2日前に、確かに―!」

「―だったらあなたも騙されたんですね、可哀想に」

「僕も…?」

「―ええ、ええ。何処にでも暇人は居るもんです。羨ましい事にね。私にはあなたが被害者かどうかを判別する術はありませんが―取り敢えず、お悔やみは言っておきますよ」

「何かの…何かの間違いじゃないんですか?何かの」

 僕は掠れた声で、縋る様に、彼女にそう尋ねる。咽の奥が、カラカラに乾いている。

 電話口の向こうの彼女は、隠そうともせずに長々とした溜息をひとつ、吐く。筆記具を手放す音がする。メモをグシャグシャに丸める音がする。

「あのねえ、キミ。さっきも言ったでしょう?この部署は3人しか人員が居ないわ。所謂、先細り業績の窓際部署よ。何で会社が潰してしまわないか不思議な位のね。その上、2日前?数年前とかなら兎も角、2日前なら間違えようがないでしょう。私を除けば、2人しか居ないんだから。この部署には小林某なんて輩は居ないわ」

「そんな…」

「あなたも騙されたのよ」

 僕は電話を抱えて途方に暮れる。電話口の彼女は、最後に一言、躊躇する様に、こう付け加える。

「…可哀想だけどね」

「待―」

 ―そこで電話は途切れる。

 僕はベッドの上で膝立ちになる。何かを引きとめる様に、空中に手を伸ばす。電話の通話終了を示す音声が、頭の中で響く。スマホを耳元から離しても、何故だかその音が途切れない。

                        ―ツー、ツー、ツー、ツー…。

 平衡感覚を失う。ベッドの中に倒れる。僕は目元を押さえて笑い声を上げる。何が起こっているのかが分からない。何かが起きているのは確実なのに。

(…何なんだよこれ、何なんだよ、何が…)

(疲れた、もう、疲れた…)

(助けて、誰か、助けて―)

 夢の続きに居る様に感じる。

(訳が分からない、訳が分からない、訳が…)

(苦しい。息が苦しい。頭が痛い…)

(…何処からが夢?吸血鬼兄妹との約束?刑事の尋問?それとも、僕という人間が―)

 …とびきり、最悪の悪夢の中だ。

(―もしかしたら、夢の産物なのかも。本当は、人間じゃないのかも。ほら、カミラだって言っていたじゃないか?王の欠片は、決して人間には飲み込む事は出来ないって―)

(苦しい。苦しい。苦しい。痛い。痛い。痛い)

(…訳が分からない。誰か助けてくれ。誰か…)

                    『ほォ、偶然、偶然!また偶然ですか、やっぱり偶然ってのは、恐ろしいもんですねぇ―』

 刑事の言葉が耳の中を巡る。気の済むまで、僕はベッドに伏して乾いた笑いを上げている。咽が痛む、唾に血の味がする。乱暴に瞼を擦る。どれだけ目元を擦っても、決して目が覚める事は無い。

(誰か終わらせて…)

 ―何処まで行っても夢の続きだ。







 翌日。

 6月16日、月曜日。天気は曇り。今にも雨が降りそうな黒雲が空に立ち込めてはいるが、降水確率はたったの10%だ、とTVの向こうで天気予報士が言っていた。今日は風が強いので、雲は直ぐに東北側に流れていくでしょう、と。

(…行きたくない)

(もう噂になっているだろうか。なってるかもしれない。僕の他にも呼び出された人間は居た筈だ―それに、それこそ2組は全員個人面談だった。それから、僕のことを、刑事に話した奴が居る。あの狐目の刑事曰く、『複数の生徒』が。その上、あれだけでかい声で言い争ってたんだ、教室の側を“偶然”通りかかった奴が、二言三言、話を聞いていたとしてもおかしくはない…)

(―人の口に戸は立てられない…)

(お腹が痛い。頭が痛い。目が痛い。肩が重い。腰が痛い。吐き気がする。立ち眩みがする…)

(…あらゆる不登校児の訴える体調不良の兆候がする)

(ええい、しっかりしろ祐輔、このまま流れに身を任せて、檻の中まで直行したくなけりゃあな。その為に学校へ行く必要がある。お前はきっと大丈夫だ、吸血鬼だって僕を助けてくれる、やれることだって未だ沢山ある…)

(…僕は未だ捕まった訳じゃない。きっとなんとかなる。何とか出来る筈だ…)

 最近の運の悪さを鑑みて、僕は傘を持っていく事にする。コンビニで売ってる、一山幾らのビニール傘だ。通学途中、周囲に傘を持っているものは他に誰も居ない。近くで忍び笑いが起こる度に、自分の事を嗤われている様な気がして、耳が赤くなる。

(…自意識過剰だ。平常心、平常心…)

(案外、誰も噂を知らないかもしれない。皆、僕の事なんて興味無いだろう。別に大した事件じゃ無い―とは言えないけど、僕みたいな奴がこんな大層な事件に関わってる筈無いって、少し考えれば皆気付く筈だ。それに、刑事には、確か守秘義務ってヤツがある―それから今は、個人情報保護法、ってのがある訳だし。きっと僕の事をぺらぺら喋ったりはしていないだろう。それから、ええと、それに…)

(…落ち着け。きっと大丈夫。きっと僕は大丈夫だから。だって僕は、何もしていない―)

 吐き気のする胃をぶら提げて、教室の扉の前に立つ。傘を左手に持ち替えながら、廊下の左右を意味も無く見回す。周りには誰も居ない。何故だか、強烈な安堵が押し寄せる。

(…クソ…)

 扉の取っ手に手を触れる。指先が触れた瞬間、静電気に弾かれた様に、右手がビクンと跳ねる。心臓が口から飛び出しそうになる。自分の事が、酷く情けなく思える。

 もう一度廊下の左右を見回す。廊下の奥から、複数の笑い声が、少しずつ近付いて来る。僕は慌てて教室の扉を開ける。逃げる様に、教室の中に飛び込む。

(…クソ、クソ、クソ…)

(落ち着け。きっと大丈夫。きっと僕は―)

 時刻は8時30分。教室の中には、既にクラスの半数以上の人数が集まっている。その全員が、扉から入って来た僕へ目を向ける。教室から一瞬で音が掻き消える。まるで誰かが突然テレビの消音ボタンを押したみたいに。

(………クソ)

 傘を取り落とす。ビニール傘が派手な音を立てて教室の床の上を転がる。僕は緩慢とした動きでその傘を追う。拾おうと屈んだ途端、教室の隅から、嘲る様な抑えた笑い声が聞こえて来る。

 ―一呼吸の間、僕は動きを止める。耳の先が赤くなる様な気配はない。思っていたより僕は冷静だ、と思う。傘を拾い上げ、脇目も振らずに自分の席を目指す。窓際の前から三番目。途中、耳の先を自分で触ってみる。自分でも驚くくらいに冷えている。まるで、血の変わりに冷たい何かが自分の耳の中を巡っている様だ、と思う。昨日のアレックスの掌よりも、更に冷たい、何か。

(落ち着け。このくらい大丈夫。考えていたより、大したことはない。この位、僕は―)

 席に鞄を引っ掛ける。傘を壁際に立て掛ける。乱暴に椅子を引き、ふと思いついて椅子の上や、机の中をチェックする。どうやら先に来た誰かの悪戯や、何らかの細工は無いらしい。そこまで嫌われては居なかったってことかね、と僕は不細工な笑みを浮かべて考える。

(…だったら、尚更早めに何とかしないと)

(そこまでやっても構わない、と思われる前に。そこまで悪化する前に。現状でも最悪なんだから…)

(…噂は、驚く程早く拡散したらしい。一昨日から、日曜日挟んでもうこれだ。絶対に、生徒だけの仕業じゃないだろ、コレ。いや、別に確信がある訳じゃないけど…)

(―あの狐野郎。やってくれる…)

 席に着き、机の上に覆い被さって、不貞寝する。目を瞑って、やる事の優先順位を考える。

(アイ―なんたらだ。あの日の、日直の相方。あいつに会って、あの野郎―女に、証言してもらう必要がある。あの日、僕が校舎に居た事のについて。あいつの職務怠慢があの日の状況を作り出した。それくらいして貰う義理はあるだろう…)

(幾らあの狐目の刑事が、偶然の連鎖を意図的に紐付けようとしても―そもそもの推理の発端の僕が、校舎に居た事が偶然だったと証明できたなら、あの刑事の論理は崩れ去る筈だ)

(“偶然”校舎に残る事になった僕が、日直業務に身が入らずにダラダラと時を過ごして、そして偶々“偶然”、同じ位の時間帯まで居残ってた園部美佳を、更に“偶然”、誰にも見咎められずに、共犯者と一緒に誘拐する…)

(…ほら、並べてみるとこんなにバカバカしい。僕の行動の計画性の無さを証明するだけで、後の情報と途端に繋がらなくなる。偶然に偶然を重ねた、不確かなジェンガみたいになる。どんな衝動犯だって自分の頭で少しは考える、とあの刑事は言っていた。『場末の強盗団だって、スキーマスクくらい被るってもんです』…)

(―それに、もう一人証人が居る。あの子だ。あの子を見つけなければ)

(ほら、あの日僕を起こしてくれた、真っ白な日誌を書くのを、手伝おうかと言ってくれた―)

(あのとても長くて、綺麗な黒髪の―)

「おーす、はよーす」

 声がする。僕は机にしがみ付く様にして寝た振りを続ける。顔を上げなくても、それが柏木の声だと言う事が分かる。

 心臓の鼓動が僅かに早くなる。固く目を瞑る。歯を食い縛る。

 柏木の足音が近づいて来る。

(落ち着け―)

(―落ち着け、大丈夫、大丈夫、僕は―)

 柏木の足音が僕の傍らで止まる。

(止めろ)

 柏木が手を振り上げる気配がする―。

(止めろ―!)

「―おい、柏木ィ!」

「あ?」

 教室の向こう側から声がする。声に呼ばれるまま、柏木の足音が向こうへ行ってしまう。教室の反対側から、嘲笑混じりの会話が途切れ途切れに聞こえてくる。どれだけ聞かない様に意識していても、耳の奥に直接突き刺さる様な、大きな声で。

「―あんまりあいつに関わんない方が良いぞ―」

「はぁ、なんで?」

「―お前、知らねえのか―?」

「今めちゃくちゃ噂に―」

(止めろ)

「あいつ、誘拐犯の―」

「…嘘じゃないって。攫われた奴ら、皆、あいつの知り合いから選ばれてるんだってさ。噂じゃあいつが校内で獲物を選んで―」

「―主犯らしいよ―」

「―いや、マジだって。刑事さんが言ってたんだけどよ、もう殆ど確定みたいなもんだって―」

(…止めろ―…)

 僕は机にしがみ付いている。海の真ん中で板切れにしがみ付く漂流者みたいに。教室の向こうから、柏木の声が聞こえる。柏木の笑い声が。

 ―嘲笑を吹き飛ばす様に。

「―はぁ、んな訳ねえだろ、お前ら馬鹿か?オギやんがそんなことする筈ねえだろうが」

「―や、けどマジなんだって。だって、刑事さんが―」

「―あんまオギやんを舐めんなよ。自販機のお釣りのとこに残った小銭ですら、猫ババするのを躊躇う男だぞ?そんな大それた事出来る筈ねぇだろうがよ」

「―いやいや、でもさ、そういう奴ほどニュースに良く出るじゃん?『あの人が、まさかこんなことするとは思いませんでした』って―」

「―それに、被害者がオギやんの知り合いから選ばれてる、ってのがもう信用出来ないね。オギやん、人の名前も顔も碌に憶えてないのに。多分お前らの名前、オギやん言えないぜ?」

 机にしがみ付く腕に、一層力を込める。目頭が不意に熱くなる。鼻の頭が、急激にツン、と痛む。自分の身に起こっている事に驚愕する。固く目を瞑って、涙を塞き止めようとする。耳鳴りがする程歯を食い縛って、嗚咽が外に漏れないようにする。

(う―嘘だろ、僕―?)

(落ち着け、大丈夫、大丈夫、お前は―)

(な―泣きそうになってんのか、教室で…?)

 自分が教室の机に突っ伏して泣きそうになっている事実に、思わず笑い出しそうになる。自分の頭の中から、大事な螺子が抜け落ちてしまった様に感じる。自分の感情がコントロール出来ない。僕は歯を食い縛って、兎に角耐える。僕の口から泣き声が出るにしても笑い声が出るにしても、どっちにしろこれじゃあ只の頭のおかしい奴だ。口を開けたら全てが終わる。穏便に事件が解決したとしても、残り2年の学園生活が、全然穏やかじゃ無いものに姿を変えてしまう―。

(―耐えろ。耐えるんだ祐輔、全力で―)

(まさか、柏木に泣かされそうになるなんて。この事件が解決したら、何か奢ってやるか?この事件が無事に終わったら、何か飲み物を―コーヒーか、コーヒー牛乳か)

(落ち着け、大丈夫、大丈夫、僕は―)

「―後、オギやんが女の子を無難に誘い出す姿が、既に想像できないね」

(あ、テメエ、柏木)

「そりゃ―」

「まあ―確かに」

「―オギやんの女子との会話、聞いた事ある?ほぼ業務連絡だよ。あれで誘い出されるの、バイト先のパートのおばちゃんくらいじゃねぇか―?」

(…憶えてろよ、この野郎。前言撤回、奢りの話は、無しだ)




 ―職員室の中の様子を覗く。

 1限目と2限目の間の休憩時間。僕は手持ちのプリントを盾の様に体の前に構えて、半分開けた扉の隙間から中の様子を窺う。ガヤガヤと活気立って、騒がしかった職員室の喧騒は、僕の姿を見止めると同時に急激に萎んでいく。入口近くの席で何やら書類仕事をしていた教師は、僕と目が合うと露骨に目を逸らして、慌しく出席簿を掴んでその場からそそくさと離れる。成程、噂の出火元は、どうやら生徒だけが原因という訳では無いらしい、と僕はやさぐれた笑みを浮かべて考える。

(…そういえば、先生からも証言を取った、みたいなことを狐目が言ってたっけ)

(『君が一人で居残っているのが目撃されている。複数の生徒や、先生に』…)

(…ハ、噂なんかに簡単に踊らされやがって。お前らそれでも、良い歳した大人かよ?)

 ―職員室の奥で、小さなノートパソコンに覆い被さる様にして作業していた担任の澤が、入口の僕に気付いて、溜息と共にのっそり立ち上がる。ガタガタと椅子や人を押し退け、巨体を申し訳無さそうに窄めて、こちらに近付いて来る。

 …澤が僕の前に立ちはだかる。僕は訳も無く緊張する。

「…何の用だ、荻野?」

「あ―の、現国の近江先生は―その。提出物を…」

「―ちょっと待ってろ」

 澤先生は唸る様にそう言うと、振り返って、職員室の雑音を粉々に掻き消す様に、必要以上の大声を張り上げる。まるで、1km以上先に居る人に声を掛ける様に。僕は慌てて耳を塞ぐ。

「おおい、近江先生。済みません、ウチのクラスの生徒が用事がある様で―」

 ―耳を塞いでもお構いなしに、澤の胴間声は掌を貫通して来る。相変わらず、凄まじい声量だ、と思う。そして素晴らしく声量の調節が下手だ。思わず苦笑が浮かぶ。耳の奥がジンジンする。頭の中がグラグラと揺れている。見ると、職員室の他の面々も、まるで地震から逃れる様に、皆頭を抱えている。

 澤先生は周囲の光景など一切気にならない様に、僕の肩を叩いて、乱暴に部屋の中央へと押しやる。職員室の中央に並ぶ席の一つに、淡いピンク色のスーツに身を包んだ、ぽっちゃりとした中年女性が座っている。彼女は僕を見ると、にこにこと笑顔を浮かべ、柔らかく手招きをする。

「―あら、漸く来たのね、遅刻魔さん。10日遅れの提出物は何処かしら?」

「ここに―」

 僕は手元のプリントを先生に見せる―手の中の、ぐしゃぐしゃのプリントを。僕は眉を顰める…が、直ぐに原因に思い至る。情けない笑みが口元に浮かび上がる。

(…澤の大声だ)

(あれで、耳を塞いだ時―)

「―あの。まぁ、済みません、その。諸事情でクシャクシャになってしまいましたが、たった今」

「別に構いやしません。読めれば良いわ、何でも。でも次からは、もっと早く出してね。10日遅れなんて前代未聞よ、それだけ遅れたら、普通は持って来ないわよ?柏木君みたいにね。遅刻分は、キッチリ減点させて貰いますからね。1日に付き1点、10日で10点減点よ」

「この課題、何点満点なんです…?」

「ちょっと待って、今採点返却しちゃうから―大丈夫?荻野くん、他に用事は?」

「いえ…特には」

「そう。なら、ちょっと待っててね―」

 近江先生が僕の手からくしゃくしゃのプリントを受け取る。先生にプリントを渡す時、何時か嗅いだ憶えのある様な香水の香りが、強く僕の鼻先を擽る。先生はそれをテーブルの上に皺を伸ばして広げ、ペン立てから赤の蛍光ペンとボールペンを抜き出して、手際良く採点を始める。僕はそれを待つ間、手持無沙汰にフラフラと視線を泳がせる。先生のテーブルの上を眺める。綺麗に片付いたテーブルだ。右手にペン立て、消しゴム、ブックスタンドに出席簿と、黄色、水色、緑の色分けされたクリアファイルに仕分けされた書類が挟まれて立て掛けられ、左手には恐らく未解決の書類、机の中央には電子カレンダーとコーヒーカップ、それに写真立てが置かれている。

 僕は写真立ての中身を見る。向日葵や朝顔、それに他の名前も知らない花の装飾で縁取られた写真立ての中には、3人の女学生が写っている。どうやら卒業式か何かの写真らしい、と思う。3人は胸に小さな白い花飾りを付け、揃って涙半分の笑顔を浮かべている。彼女達は皆セーラー服を着て、胸元に細長い黒筒を大事そうに抱えている。背景は、どうやらこの高校の、校門前の坂道だ。僕は写真を見て、頬を掻きながら考える。

(?)

(あれ、ウチの学校―ブレザーだよな?)

(この写真、どういうことだろ―他の学校の卒業生?友達の卒業式に遊びに来て、感極まって、ウチの校門前で記念撮影を―)

(―それとも、転校生?いや、でも全員、セーラー服だしな。同じ学校の同じ学年に、セーラー服の女子の転校生が固まる可能性は…)

「―ふふ、その写真、気になる?」

 先生がいつの間にか手を止め、僕の方を笑って眺めている。僕は自分の視線の遠慮の無さに気付き、慌てて写真立てから目を離す。

「ああ、あの、済みません、別に、先生の写真、覗き見する積りはなくて―」

「―それ、先生が卒業した時の写真なの」

「え?」

「どれが先生か、分かる?」

(分からん)

(先生の卒業写真って―先生何歳ぐらいだよ、下手すると、25年とか、30年前の写真なんじゃないの、これ―?)

(欠片も面影が見当たらない―ヒントくれ、とは言えないしな)

「右…左、いや、やっぱ真ん中―」

「…ええ?そんなに分かりにくいかな。ほら、左の子よ、見て。あのはにかみ顔、どう、先生の面影あるでしょう―?」

「ああ、言われてみると―そうですね、薄目で見ると、涙で滲んで先生に見えなくもない様な」

「…あのねぇ、荻野くん?正直は、必ずしも美徳じゃないのよ?」

「嘘はいけない、と母に厳しく躾けられて来ましたから」

「…課題、更に減点するわよ?」

「―いや、僕は最初から左の子が先生だと思ってました!僕が先生みたいな美女、見間違える筈無いじゃありませんか!10km先からでも分かります、流石先生、先生流石、今も昔も、変わらず素晴らしいプロポーションで―!」

 …全く、調子が良いんだから、と近江先生はクスクス笑いながら身を震わせる。先生のぽっちゃりとした肉体の下で、職員室の安物の事務用椅子がぎぃぎぃと悲鳴を上げる。僕は肩を竦め、改めて写真へと目を向ける。

「―ところでこの写真、何年前なんです?」

「あら、女性に年齢を聞く気?覚悟は出来てるの?」

「やぁ、そういう物騒な話じゃなくて。ただの世間話ですよ。ほら、ここに写ってる御三方、皆セーラーじゃないですか、先生を含めて。だから、もしかして、昔はここの制服、セーラー服だったのかな、と。若しくは先生が転校生か、それともセーラー服で記念写真を撮りたくて、態々他校の生徒から借りて来たか」

 ―何それ、と先生は僕にプリントを返しながら、呆れた様に歯を見せて笑う。再び、先生の強烈な香水の香りが僕の鼻腔を刺激する。僕は漸く、その匂いを、何処で嗅いだ事があるのかを思い出す。

(あの子だ)

(―あの、日誌をどうしても書けずに不貞寝していた僕を、起こしてくれたあの子。あの、長くてきれいな黒髪をしていた―)

(―あの子と同じ香りがする。まぁ、あの子は先生ほど、強烈な香りじゃ無かったけれど)

「…昔はセーラー服だったのよ。ほら、昔は制服と言えばセーラーだったから。今は色んな可愛い制服が選べて良いわよねぇ。セーラーだって、勿論悪くないけど。でも、学校の名前が変わる事になって…」

「名前―?」

「ほら、あんな事件があったから―母校の名前が変わってしまうのは、悲しかったけれど。それも仕様の無い事よね、だってここは私立校なんだし。イメージを変える必要があったのよ。生徒数の減少は、深刻だったしね。何処かで歯止めを掛けなければいけなかったのよ。結構苦情もあったみたいだけど―」

「…この学校、名前変わったんですか?」

「?知らない?昔は御影高、って名前だったのよ。私立御影高等学校。確か、創設者の名前だったっけね。それが、12年前の事件があって、今の名前に―」

(―12年前)

                 『でも、あれから結構繰り返し、何度も話題になってるけど』

         『ホントに見た事無い?まぁ興味がなきゃ調べないもんかな―』

                    『だからさぁ、神隠しだよ、神隠し―』

 僕は意識せずに、返却されたプリントを手の中で握り潰す。先生の事を食い入る様に見つめる。先生は僕の視線の変化に気付かない様子で、話の先を並べ立て続ける。

「―千歳学園になったの。その時に制服も変えたのよ。ホントに知らない?校内でも、結構有名な話だけど。まぁ、男の子はこういう噂話には興味無いか。でも、本当に大きな事件だったのよ、当時、とても話題になったの、ほら、七不思議のひとつにもなってる、今起きてる事件と、とても良く似た―」

 ―そこまで言って、先生は僕の後ろを見て、今更気付いたかのように、僕を見る。

(?)

「…ああ、御免なさいね、こんな話。生徒にする話じゃ無かったわよね―」

 先生の声から少し元気が喪われる。僕は不審に思って、後ろを振り返る。

 職員室の入り口に、学年主任の藤谷が立っている。角刈り、ぽっこりと突き出た中年太りのお腹、空色のワイシャツ、スラックス、蛇柄のネクタイ。そして目付きの悪い、突き刺す様な、眼。

「…御免なさいね、本当に。失言だったわ…」

 近江先生は、弁明する様に力無くそう繰り返す。藤谷は何も言わない。先生から視線を外して、黙って自分の席へ足を向ける。サンダルの、ぺたんぺたんという間抜けな足音がする。

「それじゃあね、荻野くん―そろそろ休憩時間、終わるわよ。先生も次の授業があるから」

「はい、それじゃ―あ、先生、もう一つ聞いて良いですか?先生の、その付けてる香水」

「あ―ご免ね、気になる?男の子は苦手って言う子も多いわよね、でも先生くらいの歳になると、付けてないと落ち着かなくて―」

「いえ―そうじゃなくて。その香り、なんていうんですか?」

「え?」

「知り合いが、その香りの香水を付けていたんスけど―なんかの花の香りだと思うんですけど、どっかで嗅いだ事ある臭いな筈なのに、どうしても名前が思い出せなくて」

「あ、ああ…これは、キンモクセイよ」

「なんですって?」

「金木犀。知らない?とっても可愛い、小さなオレンジ色の花なの―」




「オギやん、さっさと教室戻ろうぜ、いい加減腹減ったよ俺ァ」

「…」

「それ何買ったん?」

「コーラ」

 階段を上る。自分達の教室に戻る途中。2-3の教室は、西校舎、中央棟、東棟、と逆凹型に渡り廊下で繋がった校舎の中の、西校舎の2階にある。僕は、西校舎の昇降口に設置してある自販機で買った、缶コーラの蓋を上手く開けられずに苦労する。

(まさか、飲み物を忘れるとはね。今まで一度だって、忘れた事、無かったのに…)

(荷物の確認は怠るな、ってこったな。しかし、よりによってこんな時期に…)

(柏木が付いて来てくれて良かった―いつもはそんな事しない癖に。とことん歩くのが嫌いな奴だからな。こいつなりに、一応、気を使ってくれた―のかな…?)

(―購買部の周りは、結構酷いだった。空気というか、雰囲気というか。僕が傍に近寄るだけで、周囲の奴らがザワついた。思わず頭が痛くなるような瞬間だった。公然と陰口を利き、こちらを指差して嘲笑を漏らし、好奇の目を向けて―その癖、誰もが僕と目を合わせようとはしない。そこには、確かに僕を立ち入らせない空気があった。揃って、僕を枠外に押し出そうとする様な感覚があった)

(―全校生徒がこうだったらと思うと、吐き気がする…)

(まるでもう犯人だ。事実かどうかは関係ない…)

(結局、購買部には入らず、昇降口の自販機で、メニューを見ずに缶のコーラのボタンを押した)

(…ホントは購買で、緑茶のペットボトルを買いたかったけど…)

 プルタブを指先で弾く。苦い溜息が口から漏れる。あの空気の中に分け入っていく度胸が僕にあれば、と思う。そうすれば、今頃お茶のペットボトル片手に弁当を食べ始められていただろうし、こんな硬い缶のプルタブに悩まされる事も無かったろうに。

(…というか、飲み物を忘れなきゃな…)

(―返す返すも、何でよりによって、今日…)

(畜生、指先が痛ぇ…)

「…オギやん、相変わらず缶ジュース開けるの下手ね」

「放っとけ」

「俺が開けてやろうか?プルタブの魔術師と呼ばれたこの柏木サマが、よ」

「―随分間口の狭い魔術師だな。それってプルタブ開ける以外、何が―?」

 ―顔を上げる。階段の上、丁度目の高さの所に、誰かの上履きが立ち止まっているのが目に入る。上履きの先は緑色をしている。どうやら、同学年の誰かが階段の上に立っているらしい。僕は上履き、足首、太腿、胴体と、そいつの姿を半ば反射的に見上げる。

 …反射的に。条件反射的に。

 そいつは脱色気味の茶髪に髪を染めて、多少濃い目の化粧をし、左耳に二つ、右耳に一つ、ピアスをぶら提げている。公園の薄くなった木製ベンチみたいな色の髪の毛にはふんわりとカールが掛かり、腕にはじゃらじゃらと色んなリングやブレスレッドを引っ掛け、腰には制服指定外のパーカーを巻き付けている。そして顔に似合わず、可愛らしいハンカチを手元に握っている。

(赤と白のチェック。側面に薄いフリル…)

 そいつは、階段下の僕を見て、柏木を見て―くるりと踵を返して、来た道を戻っていく。段々と足早に。

「あ―おい、」

(見つけた)

 柏木に缶ジュースを手渡す。階段を駆け上がる。廊下の右手、奥を見る―彼女の去って行った方角を。廊下の奥に彼女の背中が見える。脱色した茶髪が、僕の視線から逃れる様に廊下の角を曲がったのが見える。

(アイ―アイ、なんとか)

(あの日の日直の相方。仕事をすっぽかして帰った、僕をこんな状況に追いやった、原因の内の一人)

(今日一日探していた。まさか、こんな所で出会えるなんて)

(しかも、お誂え向きに一人だ、伏兵も居ない―女子ってのは、群生する生き物だからな。話をするなら今しかない。彼女がもう一度、クラスの輪の中に合流する前に―)

「あ―ちょっと、オギやん?」

「ご免、柏木。オレちょっと用事が」

「え―これ、どうすんの?」

「任せた、プルタブの魔術師。あと、飯ももう先に喰っててくれ」

「ちょっ―」

「ホントごめん、今度なんか奢るから―!」

 弾かれた様に、僕は走り出す―まぁ、本人は至って本気な積りの、帰宅部なりの全速力、ってヤツで。彼女が運動部だったら終わりだな、と思う。廊下を端まで突っ切っただけで、脇腹が既に、差し込む様に痛む兆しを見せる。

(…全力疾走なんて、何年ぶりかな…)

(中学の時の100mが最後だったかも。後は、学校に遅れそうな時―?)

(脹脛がプルプルする。腕が重い。肺の上の方が痛む。空気が上手く入らない…)

 廊下の曲がり角に到達する。中央棟へと向かう渡り廊下の方には誰も居ない。階段の踊り場に頭から突っ込む様に入り、手摺から身を乗り出して、下を見て、上を見上げる。

(居た)

「おい―!」

 ―3階へ上る階段の途中に、粗い呼吸音と共に、上下する茶色の頭髪が見える。僕は手摺に胴を乗せ、吐き気を押さえて声を絞り出す。

「―待て―」

 茶色の毛玉がこちらを振り向く―が、直ぐに方向を変えて、上の階へ上がって行ってしまう。心なしか、さっきよりもスピードが速い気がする。僕は困惑してその光景を眺める。と、同時に、怒りが湧いて来る。納得出来ないものに対する、ある種の純粋な怒りだ。小学生の時、『自分ルール』で勝負の盤面を引っ繰り返す横暴な虐めっ子に感じた、ある意味懐かしささえ覚える、怒り。

「―待―」

(なぜ逃げる―?)

(お前が)

(…お前が、僕をこの状況に引き摺りこんだんじゃないか。お前が居なきゃ、僕はこうはならなかった。お前が日直の片割れじゃなかったら、僕はあの日もいつもの時間に帰って、いつも通りにジョンの散歩に行って―)

(―吸血鬼の兄妹に会う事も無かったし、誘拐事件の共犯を疑われる事も無かった。全部お前の…)

(…全部、お前の所為じゃないか―)

 胸の奥から突き上げる様な力が湧いて来る。僕は歯を食い縛り、震える膝で、2段飛ばしに階段を駆け上がる。叩きつける様な足音に、先を行く毛玉がこちらを振り返る。苦しい息が漏れる。涙が滲む。僕は階段の折り返しを、手摺を掴んで振り子の様にターンする。毛玉が僕を見てギョッとした顔をする。僕は毛玉の顔を正面から睨みつけてニヤリと笑う。

(やっと追い付いたぞ、この―)

「―待、あ、あ、て、アイ―」

(しめた、奴も疲労困憊だ。そう長くは走れない―)

「―嫌―」

「―何が嫌だ、野郎、絶対に―」

(…お互いに)

 彼女が手摺に寄り掛かる様にして、僕に背を向ける。僕は怒りに背中を押される様に、彼女の後を追う。もう殆ど、歩いていると言っても良い様な速度で。額と背中に、汗が噴き出す。焼け付く様に喉が痛む。そう言えば、今日は一滴も水分を取っていないんだな、とぼんやりと思う。

(―畜生、こりゃ絶対明日筋肉痛だ、缶のプルタブが固いのも、ああ、それもこれも、何もかも全部―)

 汗に濡れた手で、毛玉の彼女の手首を掴まえる。

 ―…彼女が声にならない悲鳴を上げる。


 小休止。

 遠くの方でがやがやと楽しそうに騒ぐ他の生徒の声を、二人で階段の上にへたり込んで黙って聞いている。脇腹が抉る様に痛い。飲み込む唾が、咽に絡まる。ひゅうひゅうと冬の隙間風みたいな音が自分の口から漏れる。見ると、毛玉の女も大体似たり寄ったりな状況だ。僕は目を閉じて、静かに体力回復に努める事にする。

(…痛い…)

(死にそう、死ぬ、ああ、ヒィ…)

(胸が痛い。お腹が痛い。目が痛い。ああ、筋トレとか、走り込みとか、するべきなんかなぁ…)

「―手」

 毛玉の女が喋る。僕は目を開ける。彼女は僕の方を見ずに、心底鬱陶しそうな表情をして、言う。

「…何でずっと握ってんの?いい加減放してくれる?正直キモいんですけど」

 僕は彼女を見、彼女の手首を見て、漸く自分が彼女の手首を掴まえている事を認識する。僕は慌ててその手を離す。意味も無く両掌を天井に向ける。武器を捨てて投降の意を示す、犯人の様に。

(ホールドアップ)

 彼女は舌打ちして、解放された自分の手首を擦る。手首を振り、手首を撫でては溜息を吐き、ポケットから例の可愛いハンカチを取り出して、手首のその部分を丹念に拭き始める。

(…こいつ…)

(暴力にも色々あるんだぜ?言葉の暴力とか、態度の暴力とかな…)

(…こいつとの話が終わる頃、僕の硝子のハートが果たして何割残っているか…)

「で?」

 そっぽを向いたまま、彼女は言う。彼女は時間を掛けて、ハンカチを丁寧に折り畳んでいく。僕は手を下ろして、彼女の手元を見る。彼女はフリルの皺の一つ一つを指先で綺麗に伸ばしていく。

「…」

「用があってあたしの事を追い掛けてたんじゃないの?誘拐犯さん。まさか、あたしの事も誘拐する気?」

「お前―」

「―この前の仕返しって訳?それで、あたしに目を付けたの?そんな酷いことした?ふざけないでよ、たかが日直サボったくらいで―」

「―お前こそふざけんなよ―」

 ―怒りが。

 怒りが再び燃え広がる。極度の疲労と、彼女の心を突き刺すカウンターパンチで消火寸前だった、僕の小さな怒りが。彼女を正面から睨みつける。彼女は一瞬怯んだ様子だが、直ぐに唇を尖らせて睨み返して来る。

「―はぁ?あたしの何が―」

「―オレは無実だ―」

「―はん?あのねぇ、みんなそう言うのよ。犯人ってヤツはね。それ、信じて貰えると思ってる?あたしに言い訳しても無駄よ、信じてやる程お人好しじゃないし、アンタの事も知らないし。言い訳なら警察に―」

「―お前は知ってる筈だ」

 僕は不機嫌にそう言い切る。彼女は驚いた様な顔をし、意味が分からないという様な半笑いを口元に浮かべ、手元のハンカチへと目を落とす。綺麗に畳んだハンカチの中央部を指先で抓んで弄る。

「…あたしが?何言ってんの、頭おかしくなった?懺悔と治療は、医者かカウンセラーに―」

「お前、日直サボったろ」

「はぁ?責めてんの、あたしを?今更?」

「責めてない―」

 僕は下を向く。額を擦る。通学途中や、教室で考えていた事を、疲れた頭で必死に思いだそうとする。

(僕は未だ捕まった訳じゃない。きっとなんとかなる。何とか出来る…)

(証言してもらう必要がある。あの日、僕が校舎に居た事の、について…)

(幾らあの狐目の刑事が、偶然の連鎖を意図的に紐付けようとしても―そもそもの推理の発端の僕が、校舎に居た事が偶然だったと証明できたなら…)

「―こともない―けど」

「は、そんな、何日も前の事をぐちぐち蒸し返すの止めて欲しいね。次の日、あんた、何も言わなかったじゃん?だからあれはもう終わった事なの。大体、なんで誘拐犯がフツーに学校来てんのよ?それが先ずおかしいのよ、さっさとケーサツに捕まっちゃって欲しいわ、次の犠牲者が出る前に―」

「…あの日、お前が日直をサボらなかったら、オレが学校に居残る事も無かった。犯人扱いされる事も」

「―何それ。じゃ、あたしの所為だっての?あんたに疑惑が掛かってんのはあんたが怪しいからでしょ。あたしはなにも悪くない!犯罪者のクセに、エッラそうにしないでよ!あんたが全部悪いんじゃない!あの日、日直サボったのだって、あんたが―!」

「違う」

 僕は彼女を見る。彼女は不思議な表情を浮かべている、と思う。歯を剥き出して、唇の端が震えるほど口角を吊り上げて、目を一杯に見開いて。手はハンカチを捻じり上げている。折角綺麗に折り畳んだのに。僕は彼女の肩が震えているのに気付く。気の抜けた笑顔が口元に浮かぶ。

 ―本当にどうしようもない時に自然に浮かぶ、諦めの境地みたいな、脱力した笑顔が。

(…そうか)

(彼女、怖いんだな)

(大丈夫、僕もだよ…)

「…そうじゃない。そういうことじゃないよ」

「―はぁ?意味分かんな―」

「あの日、キミは日直をサボった。3日前の、13日の木曜日に」

「―煩いわね、何回も言わなくたって―」

「あれは偶然だった」

「?」

 彼女は、食い縛った歯を、ぽかん、と開ける。その様子が池の鯉みたいで、僕は思わず笑ってしまう。

「…何笑ってんのよ。な、何、どういう事?」

「13日にキミは日直をサボった。キミは―まぁ、キミが最初からサボるつもりだったのか、急にそういう気分になったのかは、僕には分からないけど」

「…」

「―問題は、それが突発的なものだった、って事だ。キミのサボタージュは、僕にとっては偶発的なものだった。それを警察に証言して欲しい」

 警察、と聞いて、彼女の表情がきゅっ、と勝手に歪む。僕は、弱々しい苦笑を浮かべて彼女を見つめる。やっぱり、彼女みたいに意図して規則の外にはみ出ようとする輩は、『警察』という単語に弱いんだろうか、と思う。

「…それ、何の為?」

を証明する為だよ。あの日、偶然キミは日直をサボった。突然にね。当然僕はその予定を知らされていなかった。だとしたら、その後の僕の放課後の予定は、必然的に自分で意図したものと違って来る筈…」

「つまり―分かんないけど。何が言いたいの?」

「計画的な行動を行えなかったってことさ」

 僕は彼女の目を見て言う。自分に言い聞かせるように。

「“偶然”学校に居残った僕が、同じく“偶然”学校に残っていた第一被害者を、“偶然”、誰にも見られずに、外部犯を手引きして誘拐するなんて、偶然に頼る部分が多過ぎて、ムシが良過ぎるとは思わないか?」

「うん?まぁ―それは、確かに…」

 彼女は分かった様な分からない様な目で、曖昧に何度も頷く。

「それに、事件は二度起こった。しかも二日続けてだ。有力な目撃証言も特に無い。となると、事件自体には計画性を感じないかい?」

 …彼女はハンカチを膝の上に落とし、腕組みをして、唸り声を上げて天井を見上げてしまう。僕は苦笑を浮かべてその様子を見つめる。彼女が僕の理屈を消化している間、僕は黙って彼女の様子を眺めている。

(…意外と、良い奴なのかな)

 胸の蟠りが解けていくのを感じる。あんまりよく喋った事も無いクラスメイトを、偏見で遠ざけていたのは、案外僕の方だったんだろうか。

(…いや、その前に、日直サボったんだけどな、こいつ…)

「ということは、つまり―計画的な犯罪に、無計画なあんたはらしくない。そう言う事ね?」

「…言い方。まぁ、でも、大体そう言う事だよ。僕は犯人じゃない―」

「―うん。確かに。理屈は合ってる…様な気がする。私はサボる事はあんたに言わなかったし、それに…」

 ―そこまで言って、彼女は無遠慮に僕の事をじろじろと眺める。僕は何となく、両手で胸元を防御する。

「…何だよ?」

「あんたが、吉田ちゃんの気を引く様な会話、出来そうにないと思ってね」

「は!?」

「あんたの説明、滅茶苦茶分かり難かったよ。あんたさぁ、会話下手だって言われない?」

「―言い方。お前さ、言葉をもっと包めよ、オブラートにさぁ…」

「はっは、悪い、悪かったよ…そうね、うん。証言してやる。今度、あの狐っぽい顔の刑事さんが来たら。その代わり―」

「ありがとう、アイ―アイ、アイ―」

 言い掛けて、はたと、彼女の名前を正確に把握していない事に気付く。それとなしに、彼女の方を見る。(…クソ)来ている服にも、腰に巻いたパーカーにも、ハンカチにも、彼女の名前のヒントになる様なものは何も無い。勿論名札の類も身に付けていない。彼女は屈託のない笑みを浮かべて僕を見ている。僕は強張った笑みを彼女に返しながら、必死に草臥れた脳味噌をフル回転させる。授業中、新学期の頭に行われた自己紹介の時間、クラスの中での会話―なんでも良いから、何か手掛かりが無いかと脳の内側を浚う。

「…アイ―アイ―ザワ…?」

 ―頭の中にリストアップした名前の中で、一番それっぽいものを、彼女に向かって、恐る恐る呟く。

 彼女の顔から表情が消える。

「相原です」

「ああ、相原―さん、でしたか…」

「あれ、お前、ひょっとして―やっぱり、犯人―?」

「―相原様。私・荻野、この御恩、決して忘れません―!」


「でもさ、荻野」

「うん?」

 いい加減、階段上から立ち上がる。尻の埃を必死に払っていると、茶色の毛玉―相原が、階段の上に腰掛けたまま、顎に手を当てて、どうでも良さそうな事の様に、言う。

「あんたの推理―なんか、おかしくなかった?」

「ううん?」

 尻を払う手を止め、僕は首を傾げて相原の方を見る。

(何処が?)

(そりゃ、確かに―自分でも、一部の隙も無い推理とは思わない、けど)

(現状じゃこれがベターだと思う。自分と犯罪の無関係さをアピールしつつ…大本の推理との矛盾点を証明する)

(自分で言うのも何だが、良い手だ…と思う。相原が日直をサボった事を僕の無実と関連付けられなくても、僕のを立証する手立てにはなる。実際、あの日は本当に無計画だった訳だし…それが、もし今後この犯行が継続していくなら、この誘拐事件の計画性との齟齬を、確実に起こしていく筈だ)

(それなりに効果がある…と、思いたい)

(それを、言っちゃなんだが―この女が発見出来る様な、大きな破綻が、この論理にあるか?あんだけ懇切丁寧に説明して、それを『滅茶苦茶分かり辛い』っつーて切り捨てる女だぞ?)

(…別に、根に持っている訳ではない)

「何処が?」

「ええと、なんか…どこか」

(茫漠とし過ぎている)

(『砂漠の中に名前を書いた砂粒を入れた。それを今から探し出せ。制限時間は…』)

(“九牛の一毛”ってのは、こういう事を言うんだろうか…)

「何処かって、どこよ?」

「えっと、ちょっと待って―忘れちゃった、さっきまでは憶えてたんだけど―」

「…」

「―その顔止めて。私の事、バカみたいだと思ってるんでしょ」

「ソンナコトハナイヨ」

「ああ、腹立つ、荻野ごときに、バカにされるなんて―」

(僕如き、とは一体)

(…お前な、アメーバだって、ミカヅキモだって、僕だって、生きてるんだぞ?)

(生命という神秘に、もう少し敬意を払ってはどうかね―?)

「―あ」

 彼女が突然声を上げ、両手を合わせて、僕を見る。

 ―何処か、申し訳無さそうに。

(…?)

「ガイブハンだ」

 と、彼女は言う。

「え?」

 僕は思わず聞き返してしまう。彼女の言葉が意外過ぎて。胸の奥が微かにざわつく。彼女の言葉の先を聞きたくない、と思う。漸く前進出来た様な気がしたのに、彼女のその先の言葉が、僕の行く先を打ち壊してしまいそうで。

 彼女は僕を見上げ、僕の心中を知ってか知らずか(多分100%気付いていないだろう)、変わらぬ調子で話の先を続ける。

「ガイブハンだよ。あんた、さっき言ってたでしょ?偶然がいっぱいあるから、ガイブハンをテビキするのは難しい、って」

「ああ、外部犯…」

「でも、それっておかしくない?何でガイブハンなの?」

「へ?それは…」

「―刑事さん、ガイブハンなんて一言も言ってなかったけどな。もっと違う言い方してた。犯人は一人、ないし複数の可能性がある、犯人は一人は少なくとも大人。子供の力だけじゃ、人一人を痕跡無く攫うのには無理がある…」

「…」

(こいつ―あの刑事と、話した事あるのか。そう言えば、さっき狐顔の刑事がどうとか言っていた。ということは、こいつは、『複数の生徒の証言』の内の一人…)

(刑事に僕を売ってやがったって事だ。あれ?でも、という事は、こいつが言っているのは、あの刑事の見解って事になる。それって、つまり…)

(僕は最初から―疑われて無かった、ってこと…?)

「―で、こういう事件が起こる時、いくら普段通りにしようとしても、どうしても普通とは違う行動を取ってしまう事がある、って。犯人が意図するに関わらず、しないに関わらず、自覚するに関わらず、しないに関わらず」

「…」

「その普段とは違う事を、違和感を逃さず拾い上げるのが刑事の仕事だ、って。で、事件初日、普段と違う行動を取っていて、被害者全員と繋がりがある、違和感の塊が―」

 ―彼女が合わせた手を解いて、真直ぐ僕を指差す。僕は二、三歩退いて、彼女の指先から身を逸らす。自然と溜息が出る。どっちにしろ、あの刑事は僕を的にする積りでいたらしい。その話を相原に得意気に語る、刑事のにやけ面が目に浮かぶようだ、と思う。

「…つまり?」

「あれ、今ので分かんない?」

「分かんねぇよ、要点を話せ、要点を」

「―ガイブハンなんて一言も言ってないじゃん」

 彼女は優越感に満ちた笑みを浮かべて僕を見る。まるで、クラスの誰ひとり解けない難問を、自分だけが解いて見せたみたいに。僕は彼女の、邪気の無い笑顔を眺めている。彼女の言葉を飲み込むのに、時間が掛かる。

(―ガイブハンなんて一言も言ってないじゃん)

(ガイブハンなんて一言も言ってないじゃん)

(ガイブハンなんて、一言も…)

(…あの野郎…)

                    『高校生一人じゃ無理でしょう。それと同じく、大人一人でも無理だ。このご時世、監視カメラもあるし、周囲の目も案外厳しいものです。見慣れない大人や、不審な車両が校舎の周囲をうろついていれば、それだけで通報される時代です―』

                    『―が、大人と子供なら、話は別です』

              『14日の放課後、あなたは何をしていましたか?』

                 『昨日の放課後、あなたは校外の人間と会っていたんじゃないですか?守衛さんが教えてくれました。見慣れない大人と、あなたが校門前で何やら口論している様子だったと』

        『ほォ、偶然、偶然!また偶然ですか、やっぱり偶然ってのは―』

(畜生、あの野郎、あの狐野郎…!)

(汚ぇ、それが大人のやる事か―?)

(…騙しやがった。嘘だろ?あの狐野郎、―!)

(確かに、あいつは一言も言っていない。一言も、外部犯が犯人だとは。大人と子供の共犯を示唆して、その後に、僕に14日の放課後の話を聞いただけだ…)

(―僕を騙した。何の為に?騙して、足留めする為?良く分からない。でも、僕を犯人だと考えているのなら、確かに全ての真実を提示する義務はない…)

(僕を騙した…)

(本気で僕を犯人と―)

(いや―そこじゃない。重要なのは、そこじゃない)

(重要なのは―)

「だ―大丈夫、荻野?」

「外部犯じゃないって?」

「う―うぇ?」

 ―感覚の無い足に、必死に力を入れる。平衡感覚の無い体のバランスを、苦労して整える。出来得る限りの平静を装って、僕は相原に尋ねる。最近ショックな出来事が多過ぎて、こういう感覚に慣れ始めている事にじんわりとした悲哀を感じる。

「…外部の犯行じゃないって、ハッキリ言ってたか?」

「う―うん」

 彼女は両目を小動物の様に素早くパチパチ瞬かせながら、言う。

「多分、十中八九、内部の犯行だって」

 僕は職員室の様子を思い出す。今日の1限終わりに訪れた、職員室の様子を。現国のプリントを提出しに言った時の事を。近江先生の事を。学年主任の、藤谷の事を。

           『…ああ、御免なさいね、こんな話。生徒にする話じゃ―』

                 『―学校の方は園部チャンの知り合い集めて、慌てて片っ端から事情聴取だよ。どうやら今んとこ、碌な情報は無いみたいだけどね。4時くらいに、玄関近くで学年主任の藤谷が擦れ違ったのが最後』

                 『確か委員会終わりだったとか。同じクラスの奴は、荷物取りに教室の手前でそのまま別れたんだって。で、その後藤谷にあって、それから行方不明―』

「…藤谷先生だって?」

「え!?」

「犯人、藤谷先生だって、言ってたか?」

「い…いや、そこまでハッキリとは、言ってなかったけど―でも、それらしい事は言ってたよ。あの時間帯、記録と証言によれば、部活中のものを含む生徒複数名に、少なくとも先生は8人がいた。で、その内、校門の守衛さんが見てないのは―最初の被害者の、ええと、園部―と、あとは荻野で、それで、その、守衛さんの証言や、監視カメラの記録とムジュンする話をしているのは―」

「―藤谷と、オレ?」

 彼女は肩を竦める。

「…繋がりがある可能性は否定できないでしょう、ってさ」

 僕は笑う。笑わずには居られない。相原が僕を頭のおかしな人を見る様な目で見るが、僕はそれでも力無く笑う事を止められない。漸く、この事態を抜け出せる道が見つかったと思ったのに、それがこうもあっさりと崩れ落ちてしまうだなんて。砂の橋を歩いている様な気がする。一歩踏み出せば直ぐに崩れ落ちてしまう、砂の橋の上を。どうやっても前へ進めない。同じ所を堂々巡りだ。カフカの小説にそんな話があったなと、僕は笑いながら考える。どうやっても依頼先の城へ辿り着けない、測量士の話だ。

(―僕は逆だ。どうやっても、ここから出られない…)

(…内部犯なら…)

(内部犯なら、僕の無計画性は関係ない)

(最初から中に居るんだから。僕が手筈を整える必要はない。犯人にも僕にも、時間の猶予はたっぷりあるんだ。のんびりと待てばいい。獲物がゆっくりと、一人きりになる時間を)

(…でも、だったら、この事件で僕が示す役割は何だ?大人だけだと目立つから、子供の協力を疑ったんじゃないのか?最初から、校内で目立たない大人の犯人の目処が立っているなら、どうして必ずしも必要無い、子供の僕を疑う必要がある―?)

(またあれか?刑事の勘―?)

(それとも―事件は二つあった。片方の事件で目星を付けた容疑者が、もう片方の事件で上手く役割を果たせないから―共犯者の存在で理由を説明付けようとして、そして―)

(…違和感のカタマリを)

「あー…、荻野?」

「うん?」

「その…ええと、大丈夫?」

「大丈夫じゃないよ」

 僕は顔を覆う。笑いながら顔を覆う。崩れ落ちて、泣き出してしまいたい。目元がじんわりと熱を帯びては居るが、待てど暮らせど涙はやって来ない。

 ―代わりに、声だけが出る。小さな、乾いた笑い声が。

「大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃ…」


「―それで、これからどうすんの?」

 歩く気力も湧かなくて、僕は再び階段上に腰を沈める。静かになったのを見計らった様に、相原が僕にそう尋ねる。僕は顔の表面を何度も拭って、相原の方へ目を向ける。発作的な笑いが治まった代わりに、僕の中に泥の様な感情が堆積する。静かで鬱屈した、その感情に僕は流されてしまいたくなる。

(…これから?)

(コレカラってなんだ?コレカラって?どういう意味?)

(どうもしないよ。どうにもできやしない。僕は終わりだ…)

「どう?あたしの証言は、役に立ちそう?」

 僕は笑う。僕の笑顔を見て安心したみたいに、彼女も微笑を浮かべる。油絵の様な笑顔だ、と思う。色々な感情を混ぜ合わせて、塗り重ねた様な、複雑な色の笑顔。安堵、心配、不安、打算、警戒、期待、好奇心。僕はその顔に斧を突き立ててやりたくなる。その首を絞め潰してしまいたくなる。

(…止めろ)

(そんな顔をするな。お前の所為だろ?僕がどんな気持ちで居るか知らない癖に。全部お前の所為じゃないか!お前さえいなければ、僕がこんな所に閉じ込められる事も、家族がこんな危機に曝される事も―!)

(…違う。彼女の所為じゃない。八つ当たりは止めろ。彼女が日直をサボったのは偶然だった。彼女がこの事態への入り口を作ったのかもしれないけど、事がこんな風に転がったのは、誰にとっても予想外だった。交通事故みたいなものだ。決して彼女だけの所為って訳じゃ―)

(―けど、ちょっとは責任を感じてくれても…)

 ―僕は不安定な風見鶏の様に、どうにか心の中で折り合いをつけようとする。僕の笑顔の意味をどう受け取ったのかは分からないが、相原は機嫌良く、浮ついた調子で言葉の先を続ける。僕は彼女の喉を鈍器で潰したい衝動と闘う。彼女の両目を親指で刳り貫けば、少しはその口を閉じてくれるだろうか、と思う。

「あたしの話であんたの無実が証明されたなら、それはあたしがあんたを助けた、って事よね。あたしがあの狐顔の刑事に話をして、あんたの『ムケーカクセイ』ってのが、証明されたならさ。なら、今度はあんたがあたしを助ける番だと思わない?だから―」

「―何の役にも立たないよ」

「あたしを―そう、何の役にも。え?」

 彼女が間抜け面で僕を見る。僕は自分の表情が崩れていくのを感じる。彼女に当たっても何の意味も無い、と幾ら心に言い聞かせても、自分の言動が意地悪く変容していくのを止められない。吐き捨てる様な調子で彼女に言葉をぶつけながら、僕は今、どんな顔をしているのだろう、とぼんやりと考える。

 怒った顔をしているのかもしれない。嘲笑う様な笑顔を浮かべているのかもしれない。

 ―或いはもしかしたら、泣いているのかも。

「ああ。何の役にも立たない。最悪だよ。必死に考えて、まだ何とかなるかもしれないと思ったのに、もう何の意味も無い。ふざけんなよ―」

「あたし―」

「―外部犯だって?畜生、あの狐野郎―必死に考えたのに。まだ何とか出来るかもって―終わりだ。糞、クソ、クソクソクソあの狐、一体どうしたら―あぁ、最悪だ、もうどうしようも」

「あたし、あ―荻野、大丈夫?あたし、何か、間違え―?」

 焦った様に、相原が口を挟む。僕は改めて彼女を見る。脱色気味の茶髪、多少濃い目の化粧、そして、顔に似合わず、可愛らしいハンカチ。まるで初めてその姿を目にした様な気分になる。不意に我に返る。彼女の証言が効力を失った以上、こうしてお喋りしていても仕方ないし、意味の無い行為だと気付く。僕は無言で立ち上がり、彼女に背を向けて、階段を階下へ向かって降りていく。

「え―ちょっと?荻野、あんた、どうすんの、これから―?」

「…教室へ戻るんだよ。そろそろ5時間目が始まる。その前に昼飯、喰わなきゃ…」

「あ―あんた、大丈夫なんだよね?無実なんでしょ?助かるんだよね、あたしの証言で―?」

「無実だよ」

 背後で彼女が、慌てて立ち上がる音がする。僕は振り返らずに、慎重に次の一歩を踏み出す。自分の中の泥の様な感情が、大蛇の様に渦を巻いていく。

「―でも、あんたの証言で、それを証明する事は出来ない」

 …探る様に、次の一歩を下ろす場所を選ぶ。振り返って、彼女の顔を見るのが怖い、と思う。彼女の目を見るのが。自分の内側の感情を、怒りのままに彼女にぶつけてしまうのが怖い。彼女の目が、他の奴と同じ様に変化しているのを見るのが、怖い。教室の奴らや、購買部に集まって居た奴らと。

(…怖い、怖い、怖い、と―)

(怖いものだらけだ。もうどうしようもない、もうどうしようも―)

(自分で自分が情けない。けど、それをどうにかしたくても、どうして良いのか分からない。いつも、同じ所をグルグル回っている。まるでケージの中を駆け回るハムスターだ…)

「どうして?あんたが言ったんじゃない、あんたの無計画性を証明できたんなら、計画的なこの事件に、あんたは合わないから―?」

「…だからさぁ、その前提がもう無意味なんだよ。あんたの証言は期限切れだ。僕の無計画性の立証が有効だったのは、あくまで犯人の一人が外部犯だった場合だ。外部犯だったら、連絡の手段も、犯行のタイミングも、限られて来る。どうしても、予めが必要だ。けれど、内部犯はそうじゃない―」

「―え…?」

 僕は笑う。情けない笑みが浮かぶ。迷子になった気分だ。昔、遊園地で、親戚達と逸れてしまった時を思い出す。広大な遊園地の敷地内に、見渡す限り、知り合いは一人も居ない。もう一生会えない様な気がしたっけ―。

「―内部犯は、僕のに合わせる事が出来る。だって、最初から内側に居るんだから。連絡の方法も豊富で、タイミングだって、好きなように選べる。あんたの証言は、僕の無計画性を主張するものであって、僕の無実を直接立証するものじゃない」

 僕はもう一段、階段を降りる。彼女の声が、次第に遠くなっていく。

「それが―…?」

「―だから、もう意味が無いんだよ。何もかももう無意味だ。僕の無計画性を主張した所で、僕の共犯説を否定する事にならないんだから。あんたの証言は賞味期限切れだし、僕はもう終わりだ」

「お―終わりって」

「それじゃ。追いかけて悪かった。僕は飯を食いに行く」

「ちょ―ちょっと待って、あんた、これからどうすんの―?」

(どうする?どうするかって?)

(どうもしないよ)

(どうしようもないじゃないか?もうこれ以上、どうしようも―)

「―長い、黒髪の」

「え?」

 …最初に、思い付いた事を、半ば自棄糞気味に言う。最初に頭に思い浮かんだことを、口に直接送り込む様に、無意識に。

「黒髪で、切れ長の目の女子を探す。あの日、教室で寝ていた僕に、話しかけて来た女の子だ。もしかしたら証言してくれるかもしれない。あんたが日誌を放って帰った後、教室で眠りこけていた時の事だ。あれは―確か、結構遅い時間で―」

 僕は階段の手摺に手を掛け、必死にその時の事を思い出そうと左上を向く。あれは…そう、6時間目の終わりから、1時間以上は経っていた筈だ。だから、あの子に会ったのは、大体4時半以降で―。

「…確実に無実は証明できなくても、証明の足しにはなるかもしれない。ええと、最初の被害者の、園部美佳が、最後に目撃されたのは4時に藤谷と昇降口で…その時僕は、教室で未だ真っ白な日誌を前にボーっとしていた。だから、今後正確な犯行の時間が割り出される様な事でもあれば…彼女が教室に居た僕と、真っ白な日誌の事を証言してくれれば、もしかしたらそれが僕の助けになるかもしれない…と、思う」

「どんな子?」

「あー、綺麗な、長い黒髪で、切れ長の目で…何でか、夏服の上にカーディガンを着てた。寒がりだったのかな…?ううん、それと、リボンのタイの結び目が滅茶苦茶だった。あんなに結ぶのが下手糞な子、初めて見た…」

「何それ。他には?」

「他?えー、香水を付けてたな。金木犀の香水を。ほら、現国の近江先生と、同じのヤツ」

「ふーん。ねぇ、黒髪って?長い黒髪って、例えば、どのくらい?」

「どのくらいって…丁度、最初の被害者の、園部さん位だけど―何だ急に、どうしてそんな事を聞く?」

 僕は思わず相原を振り返る。本当に思わず、越えてはいけない、と言われていた線を踏み越える様に。怖い、とか、自分の内側の感情とか彼女の目とか、ゴチャゴチャ考えていた事を全て忘れて。

 相原は階段の上に腰を下ろす。足を組んでその上に頬杖を突き、王様のように踏ん反り返って、僕の方を見下す。何故だかにやにやと、得意気な笑みを浮かべて。

「―なぁ、それ。そいつを探すの、手伝ってやろうか?」

「は?」

「荻野、あんた―どうせ、女子のツテとか無いんだろうし。このままいったらユーザイなんでしょ?あの日、日直をサボった所為であんたがこうなった事、私も少しくらい責任感じてるんだ―」

「―それは少しでなく沢山感じて下さい」

「…煩いな。兎に角、手伝ってやっても良い、って言ってんの。有難く思いなさいよ?正直、聞いただけじゃ、全然分かんないけど―香水付けてる子なんて珍しい筈なのに。キンモクセイ?まぁ良いわ、私が知らない、ってことは、多分上級生かしらね。誰かに聞けば分かると思うわ。女子の横のネットワーク、舐めんじゃないわよ?」

 僕は手摺に寄り掛かって、暫くの間考える―素直に有難う、と言いかけた言葉を、喉の奥に押し込んで。何かがおかしい、と思う。最初は僕から全力で逃げていたし、僕の事を犯人だと思い込んでいた癖に。急に掌を返した様に協力的になった。僕の主張に正当性を認めた―とか、僕の必死さを見て、本当に無実かもしれないと思い始めたとか―あの日、日直をサボった結果こうなった事に、少なからず罪悪感があるとか。

 それもあるのかもしれないが―でも、それだけじゃない気がする。

(…何だろう。何を企んでる?)

(―企んでる、ってのは言い過ぎかもしれないが。でも、彼女が純粋に情けだけで、協力を申し出てるとは思えない―のは、僕の心が汚れているからなのか)

(あの狐目の手じゃないよな?そこまで強引な捜査方法はやらない―と、思いたいけど。だったとしたら、一介の高校生にはお手上げだ…)

「―何を企んでる?」

 素直に尋ねてみる。相原がギョッとした様に、体を硬直させる。視線を四方八方に泳がせ、震える手でハンカチを拾っては、また膝の上に取り落とす。

「なな、な、何の事?やだなあ、あは、は、ははぁ…」

「…良いから、率直に言ってくれ。自分の身が賭かってるんだ、条件次第じゃ、素直に引き受けてやるから」

 ―彼女は僕を睨みつける。僕が言った言葉を、確かに聞いたぞ、と念を押す様に。下唇を尖らせる。頬を僅かに膨らませる。階段上からゆっくりと立ち上がり、尻の埃を丁寧に払う。お尻、スカートの側面、それから太腿。膝に手を掛け、少し前屈みになって俯く。

 …良く見ると、少し頬の辺りが赤くなっている。

(あれ?)

 僕は俄かに浮き足立つ。意味も無く階段の、上と下を見る。周囲には誰も見当たらない。賑やかな喧騒が遠くの方に聞こえる。僕は生唾を飲み下す。彼女の声を聞き逃さない様に、一歩近寄った方が良いんだろうかと苦悩する。

(近付いた方が良い?でも足音で後退りとかされたら、それはもう立ち直れない破壊力…)

(なんだろう、これ。何なんだ、なんかすごい、ドキドキする。最近、女子にやたらと縁がある気がする。今まで生きて来て、女子との関わりなんて、クラスの緊急連絡網での必要事項の伝達の時くらいだったのに。こ、これ、もしかして、あれか!?噂にしか聞いた事の無い、コ、コ、ココ、告は―)

(…あれ?この流れ、前にも…)

「あのさ、あたし、あんたの―…」

「―ハイ!?」

 思わず声が裏返る。彼女は驚いた様に僕を見るが、特に気にした様子はない。どうやら、自分の事でいっぱいいっぱいなのだろう。彼女はうなじの辺りの髪を手で掻き分ける。僕はその場で足踏みをする。心臓の音が、バイクのエンジン音の様に爆音で聞こえる。

「―あんたの友達の―柏木、いるじゃん?」

「ハイ?」

「その、あたし、あいつが…その。ずっと前から、気になってて―」

「ハイ…」

 ―僕は足を止める。

(知ってた)

(悔しくはない。しかし何故だろう。心臓の辺りが突き刺す様に痛い。大粒の涙が零れそうだ)

(―クソ、なんであいつばっかり?イケメンだから?背が高いから?スポーツ万能だから?空気を読むのがうまくて、場を温めるのが上手だから?それとも、ちょっと悪そうな所がまた良いのか―!?)

(…自分で考えてて、悲しくなって来た。ルサンチマンになりそうだ…)

(クソ、あれだぞ?あいつ、多分私服糞ダサだぞ―?見た事無いけど…)

「あ―あたしと、柏木が上手く行く様に、その、協力してくれないか!?」

「ハイィ…」

「お―OKか?本当だな、荻野、OKなんだな―!?」

「マカセテクダサイィ…」

「やった、ありがとう、荻野―!うん、あたしの方も、頑張るからさ―!」

 階段上で危なっかしくはしゃぐ彼女の様子を、僕は眩しいものを見る思いで眺める。階段の上で小躍りする彼女を見て苦笑する。嬉しそうな彼女のその姿に、先程の疑問の答えを得ると同時に、僕は彼女がどうして日直をサボったのかを漸く、朧気に理解する。

(…成程な。彼女は、僕と―)

(―僕と、話をしたかったんだ、この件に付いて)

(それなのに、僕が徹底的に会話の機会を奪ってしまったから。自分が早く帰りたい為に。彼女も同じ想いだと信じて。日直業務を完全分業制にして、日誌と、それ以外に分けた。文句を言わせない様に、負担の大きい方を自分で取って、日誌の業務を彼女に丸投げした―)

(それが―彼女の逆鱗に触れた)

(彼女はずっと、この話がしたかった―その機会を、ずっと窺っていたんだろう。それこそ、何日も前の日から、あの日直の時を待っていたのかもしれない…)

 僕は目を細めて彼女を見る。彼女は階段の上で小さく、全身でステップを刻む。鼻歌を歌いながら、段上でターンアラウンド。僕と目が合うと、彼女は無邪気に歯を見せて、笑う。僕は脱力して、階段の手摺に凭れ掛かる。

(恋する乙女にゃ敵わないっていうけど、本当だな…)

(…けど、その乙女の所為で、容疑者候補に挙げられちゃ堪らない。傍迷惑な恋心だ…)

 彼女は誰も来ない階段上で、一頻り勝利の舞を踊る。曲が流行りのJ-POPから、サッカー日本代表の応援歌へシフトする。恥も外聞も無く、彼女は踊り狂う。僕の視線を気にする様子も無い。

 僕はそれを眺めている。

 …決して彼女を祝福している訳ではない。疲労でその場を動けないだけだ。


「―じゃ、荻野。また連絡するから」

 相原が僕と電話番号を(半ば強奪する様に)交換した後、手をひらひらと振りながら、階段を駆け下りていく。僕は階段上からその様子を見送る。兎に角疲れた、と思う。彼女の後を追って教室へ向かう元気も無い。僕はそこで暫く休んでいく事にする。遠くの方で10分前の予鈴が鳴るのが聞こえる。多分、もう昼食を食べる時間はないだろう。

(…長かった、そして疲れた、兎に角―)

(―持久走並みのハードさだ。これが女子との会話か。恐ろしいぜ、女子…)

(…成程、だから運動部はモテるんだなぁ…)

「―あ、そういえば、相原」

「?」

「七不思議って知ってる?」

「はぁ?」

 階段下で相原が素っ頓狂な声を上げる。心底、馬鹿を見る様な目で僕を見る。僕は苦笑いを浮かべて肩を竦める。そんな顔しなくても良いじゃないか、と心の中で言い訳をする。自分だって、馬鹿みたいな質問だ、とは思う。でも、理由を話せば、もっと馬鹿にした顔をされそうだ。

(…でも、気になるものは、仕方ないじゃないか?)

                『当時、とても話題になったの、ほら、七不思議のひとつにもなってる、今起きてる事件と、とても―』

(12年前の事件。今起きてる事件と、とても良く似ていたと、近江先生は言っていた―)

                    『だからさぁ、神隠しだよ、神隠し―』

(誘拐事件が起きてから、12年前の事件を調べに来た雑誌記者。あの胡散臭いおっさん、小林縣。彼は貰った名刺の会社には存在しない人間だった…)

                  『―私を除けば、2人しか居ないんだから。この部署には小林某なんて輩は居ないわ』

(…全体像は靄の中だ。相変わらず、何がなんだか分からない。けれど、もしかしたら12年前の件も、今回の事に絡んでいるのかもしれない。先ずは知る事だ。知らなければ、何をどうする事も―)

(…僕は未だ捕まった訳じゃない。きっとなんとかなる。やれることがある筈だ…)

「正気?七不思議って―あの七不思議?」

「そう。この学校の。知ってる?まぁ、別に知らないなら…」

「馬鹿にしないで、知ってるわよ」

(…別に、馬鹿にはしてない)

(どうしてそう、攻撃的なんだ…?)

「先ずは、音楽室前の13階段でしょ、動く創立者の石像でしょ―」

(…割とポピュラーなやつだ。小学校の時は、校門前に二宮金次郎像が置かれていたが、ウチの学校には創立者の禿げたおっさんの像が飾られている。噂じゃ二宮金次郎の像は置かれる数が減ってきているらしい…)

「―生物準備室の動く人体模型に、保健室の合わせ鏡―」

(…合わせ鏡はなんだったっけな。別世界へ引き摺りこまれるんだっけ?それとも、未来の自分の死に顔が見える奴だっけか―)

「―音楽室の動くベートーベン、東校舎一階のトイレのヨーコさん…」

(…動くヤツ多いな。てか、トイレの花子さんじゃないんだな…)

(まぁ、色々バリエーションがあるもんなんかな。ウチの中学も、トイレのヤチマタさんだったし…)

「…で、体育館の神隠し」

「体育館?」

「そ。夜の体育館に行くと、そこは別の空間に繋がっている。飲み込まれると二度と戻って来られない」

 ―良くある話よ、と馬鹿にした様に、彼女は鼻で笑う。僕は彼女に同調する様に微笑んで、彼女の話を聞いている。

(…どうやら、彼女は12年前の事は知らないらしい)

(結構有名な噂だ、って話だったけど。まぁ、女子が皆、噂話に詳しい―ってのは、偏見か…)

(男の子はこういう話、興味無い―ってくらいのね。柏木なら何か知ってるかな?あいつ、結構ミーハーだから…)

(―でも、体育館か…)

(火の無い所に煙は立たないっていうし。もしかしたら、12年前に神隠しにあった子は、体育館で消えたのかも…)

(…はは、渦中の噂の人物が、『それ言うか?』って感じだな…)

(火の無い所に、ね…)

(…クソ)

「荻野?」

 ―彼女が言う。僕は我に返って、彼女を見る。彼女は呆れた顔で僕を見ている。

「―話はそれだけ?」

「うん。…あれ?そう言えば、七不思議って七つ全部知っちゃ、駄目なんじゃなかったっけ?知ったら、ほら、死ぬとか、不幸になるとか…」

「知らないよ、そんなルール。別に良いんじゃない?私はまだ死んでないし、別に不幸にもなってない」

 それどころか―!と、彼女は階段の踊り場で再び喜びに飛び跳ねる。僕は思わず笑う。凄いもんだ。今を全力で生きてる、って感じがする。

(…僕と同じ位の体力の癖に。5、6限目の体育、大丈夫か?ぶっちゃけ、僕はもう見学したい勢いだ。昼食も食べ損ねて…)

(…僕には真似出来ないスタイルだな…)

「―ご免、引き留めて」

「じゃ、あたし、行くから。何か分かったら、連絡するよ」

「りょーかい。こっちも、柏木との件、考えておく」

「―良し。言ったな?考えておくだけじゃ駄目だからな?絶対だからな?」

 彼女は僕を指差して、念を押す様に何度も繰り返す。目が必死さでギラギラと輝いている。僕は階段の上で苦笑を浮かべ、首の座らない赤子の様に、ふらふらと曖昧に頷く。

(…クソ、こっちも難題だな。頭痛の種が、ふたつに増えた…)

(こっちの種は、僕を人生のどん底に連れていったりしないけど―けど、よりにもよって、この僕を恋のキューピッドに選ぶだなんて。相原―人には、向き不向き、ってのがあるんだぜ?)

(上手く行く、上手く行く様に―ね。二人して、裸で更衣室にでも閉じこもれば良いんじゃないか?男子高校生なんて猿だよ、サル…)

(あ―でも先生に見つかるか。もういっそ、どっちかの部屋かラブホに…)




 ―ジョンの散歩に出かける。

 針の筵の様な高校生活から帰宅後。宿題や、その他なんやかんやを終えて、時刻は大体17時頃。

 母さんが僕を追い立てる言葉に、いつもの厳しさや辛辣さは無い。もしかしたら、何か感付いているのだろうか、と思う。母親というのは、時にエスパーみたいにこっちの考えを見透かして来るものだから。隠して置いた酷い点数のテストの用紙や、内緒で買い込んだ新しいゲームハードや、失くしてしまった新品のスニーカーの片方を持って、いつの間にかこっちの背後に立っている。母親とはそういうものだ。

(…世間にゃ、寝ている間に息子の思考を吸い上げる装置でも流通してるんじゃないかね?時々、偶に本気でそう思うよ…)

 リビングで母さんが僕にジョンのリードを手渡す時、TVで丁度5時のニュースが流れる。トップニュースは政治家の新しい収賄の醜聞だ。

「…尚、支倉氏はこの件への関与をきっぱりと否定しており…」

 ―その次に、TV画面一杯に自分の通う高校が映し出される。僕は不意打ちに心臓が止まりそうになる。原稿を読み上げるニュースアナウンサーが情感たっぷりに、では、次は二夜続けて洲央市で起きた、不可解な失踪事件の続報です、と画面の向こうに、真剣な顔で訴えかける様に語りかける。

「…失踪時の状況やその他の情報から、捜査当局は事件としての見方を強めている様です。しかし、未だに身代金の要求も、犯人の声明もありません。犯人の目的は一体何なのでしょうか?この怪事件に怯える街の人の声を、取材陣がインタビューしてきました―」

「―あら、アンタこれ、あんたの高校じゃないの?」

「え?ああ、ホントだ」

 有らん限りの気力を掻き集めて、僕は平静を取り繕う。じゃ、僕散歩行って来るから、とニュースを最後まで見ずに、直ぐ様逃げるようにその場を後にする。一歩の歩幅が大きくなり過ぎない様に気を付ける。急いでいる様に見えないように、歩調を意識して遅らせる。

 ―母さんが、TVの向こうと僕を関連付ける事が無い様に、祈る。

「『―ええェ?もうホント怖いっていうかァ、早く犯人に捕まって欲しいっていうかァ―』」

 ボイスチェンジャーで声音を替えられた、間抜けなキンキン声が聞こえる。明日、あのTVのニュースに出てたの俺なんだぜと、得意げに語る輩が教室の中にいるかもしれないと思うだけでうんざりする。

 ジョンの犬小屋の前でリードの金具を鳴らす。

 ジョンは珍しく、金具の音に反応して犬小屋の外に出て来る。ジョンは僕を見て、僕の掌を一度、ぺろりとぞんざいに舐めて、慰める様に、掌を湿った鼻先で押す。僕は思わず苦笑する。どうやら今の僕は、ジョンに気遣われるくらいにショボくれた顔をしているらしい。

「…おいおい、ジョン、お前が素直なのは嬉しいけどな―」

「わふ」

「―お前に慰められなきゃならない程落ちぶれちゃいないぞ、僕は」

 ジョンの首輪にリードを付け、その太い首に戯れに組み付く。ジョンが鬱陶しそうな顔をして僕を見る。サービス期間は終わったとばかりに、リードの方向と逆に身体の舵を切る。

「あ、ウソウソ―ちょっとは気ぃ遣って。この後まだやる事があるんだよ、だから、散歩が早く終わる程、嬉しいっていうか―!」

 最初からそう言え、と謂わんばかりに、ジョンが勢い良く鼻を鳴らす。撓んだリードを手繰り寄せながら、僕は大袈裟に溜息を吐く。全く、何もかも上手くいかない、と思う。食物連鎖の最底辺になった気がする。刑事には睨まれ、疑惑は一切晴らせず、その上、飼い犬にまで馬鹿にされる始末。

「―あのな、こんな事言いたかないけどな、ジョン」

「フン」

「僕、一応飼い主なんだぞ?」

                                  ―わん。

 ジョンが吼える。僕はリードをしっかりと握り、ジョンを引き摺って、いつもの散歩コースに向かう。ジョンがいつも通り、抵抗する様に、リードに力無くがしがしと牙を突き立てる。


「よ」

 いつものコース、いつもの川沿いを、国道を目指して歩く。道中、太陽はまだ高いが、寂れた未舗装の川沿いに、人影は殆ど見当たらない。その未舗装の道端に、あの金髪の兄妹が立っている。

「…ああ」

「『ああ』って。何よ、反応悪いわね」

「いや、うん―ご免。こういう場合、何て挨拶したらいいのかと思って。こんにちは?こんばんは?それとも、吸血鬼特有の挨拶でも―?」

 カミラは呆れた様に溜息を吐く。今日は黒の細身のズボンに、紺の薄手の春物ジャケット、中にワンピースみたいに裾の部分の広がったシャツ、それに、黒の丸いつばあり帽子といった出で立ちだ。

(ああいう帽子、何て言うんだっけな。ベレー帽に、つばを付けたみたいな…)

(確か、フルーツの名前や、銃の名前に似ていた気がする。マスカットとか、マスケットとか…)

(…カスケット?カスケード?キャスケット?)

「―御機嫌麗しゅう真祖様、今宵、不肖アレクセイ、盟約の元、あなたの貴下に馳せ参じました―!」

 アレックスが川端の歩道に跪く。(今日も和装だ。今日は何故か、紅色)地面に片膝を突く時に、路傍に転がる石ころに、勢い良く左膝が衝突する音がする。

(…あ)

(こんなとこで跪くから。いや、こんな所じゃ無くても、外で跪かないで欲しいけど…)

 アレックスは目の前で掌を合わせて一礼し、笑顔を浮かべて僕を見上げる。驚いたと言うか、見事な事に、痛そうな素振りは微塵も見せない。肩が震え、顔色が少し青白く、目元に僅かに、涙が滲んでいる以外は。

(…凄い。ある意味、見上げた忠誠心だ)

(発揮所は、間違ってるけど―)

(―てか、着物って事は、あの裾の下、素足なんじゃ?剥き出しの足に、あれだけ勢い良く、石を―ああ、あんまり考えたくない)

 …地面に、どろりとした血液が一滴、零れるのが見える。痛みを想像してしまう前に、慌てて僕は目を逸らす。

「―まぁ、この馬鹿は置いといて」

(…おいおい、それでいいのか?あんたの兄貴だろ、これ―?)

「うん…」

「大丈夫、放っといたら直ぐ治るから。それより、アンタとの約束よ」

「―うん」

 僕は彼女を見る。彼女は僕の視線を遮る様に、帽子のつばを目深に降ろす。僕はジョンの手綱を惰性で手繰り寄せながら、彼女の帽子の黒色を見つめる。彼女のその色が、拒絶の度合いを示している様な気がして、僕は何となく居た堪れなくなる。意味も無くその場で、何度も足を踏み変える。

「で?あんたの生活の平穏を守る為に、私達は具体的に何をすれば良い?」

「そうだな、ええと…」

 足踏みを止める。足元の小石を、爪先で明後日の方向に弾く。何をして貰えば良いんだろう、と思う。具体的な事は何も考えていなかった自分に気付く。今日の昼頃までは、相原に会って、証言の約束を取り付けたら、一人は警察に行って、情報を盗み出して貰い―出来れば、犯人に繋がる様な情報を、もう一人には、被害者達を探して貰う―もし生きているなら証言をしてくれる筈だし、それに、もう生きて居なかったとしても、真犯人の供述と、相原の証言が、僕を守ってくれる筈だった―が。

(…内部犯―)

 どうだろう。考えが、泥のスープの様にぐちゃぐちゃに渦巻いていて、ハッキリとした形にならない。そもそも、元々の案も、今となっては大分楽観的だった気もするが―真犯人が内部犯なら、相原の証言は意味を成さないし、被害者達も―もし生きていたとして―内部犯だった場合、碌に顔を見て居ない可能性もある。当然だ、内部の人間が犯人なら、顔を見られただけで、その後に致命的な痕跡を残すことになるんだから。TVに拠れば未だに身代金の要求も無い、犯人の目的が何処にあるのかは分からないけれど―(『うっわ、カワイソ。多分それどっかでもう、犯られてるわ…』)―事が目的なら、素顔を見せる様な愚行はしないだろう。ということは、彼女達の証言が、僕を助けるものになる可能性は低い。

(どうすればいい?どうしたら、僕は…)

 残りは真犯人だが、真犯人の証言だけでは、僕の身の潔白を証明する証拠としては、弱い。だって、身の証を立てるものが、それ一つだけなんだから。庇っている、と思われる可能性もあるし、そもそも犯人が真面目に証言しない可能性だってある。どうせ有罪になるんだから、面白半分に他人を巻き込んでやろうと言う気分になったって―そういう、捨て鉢な気分になったって、おかしくない。そして、そうなった場合、僕にはその渦から逃れる術は無い。

(内部犯―内部犯だって?)

(畜生、あの狐…)

(…未だ終わった訳じゃない。信じるんだ。相原があの子を見つけて、あの子が、13日の僕の放課後を証言して―それと、犯人の犯行時間が重なっていれば。尚且つ、犯人と僕の接点が薄く、犯人が事実だけを証言して―)

(…ハハ。どれだけ薄い線なんだ、それ―?)

(宝くじでも買った方がまだマシだ…)

「―オギノ?」

「あ?ああ、悪い悪い、ボーっとしてた―で、なんだっけ?」

「あなたとの約束を―ねぇ、あんた、大丈夫?」

 カミラが帽子の縁から心配そうな目を覗かせる。僕は笑みを浮かべる。のっぺりとした、平坦な笑みを。昨日こいつらに食べさせられた、12匹の王の欠片の事を思い出す。そんなに大層なものが僕の内側にあるっていうんなら、僕に力を貸してくれたらいいのに、と思う。正気で居ようとする僕の支柱を折って欲しい。僕を狂わせて欲しい。この女を殺して、間抜け面の兄貴を殺して、相原を殺して、あの狐目の刑事を殺して、犯人を殺して、この町を粉々にブチ壊して欲しい。何もかもを津波で押し流して欲しい。何もかもを串刺しにして叩き割って欲しい。僕を見て嗤う奴らを、全員断頭台の端から並べて―。

「お―…わぁ!真祖様―!?」

 ―声が聞こえる。僕はそちらを見る。そこには、未だアレックスが、未舗装の川端に跪いている。

 そこに、ジョンが覆い被さっている。

(…?)

「ええい、止めろ、汚らしい獣め、俺の高貴な顔に―ああ!真祖様助けて下さい!唾が臭い!」

 ―川沿いに片膝を突くアレックスの、肩に両の前足を乗せて、ジョンがアレックスにじゃれついている。興奮した様に、鼻面を擦りつけ、顔を舐め回し、尻尾を振り、上機嫌に吼え声を上げる。

「私を誰だと思ってる!?私は始祖8位、“忠実なる守護者”エーデルシュタイン家に仕える―あ、この、止めろ、臭い!いい加減、私の顔を舐めるのを止めろ―私が高貴過ぎるのがいけないのか!?私があまりにも高貴過ぎるから、私の顔から上質な味が―ああ、もう!止めろ、ホントに!」

 僕はそれを見て、自分の手元の伸び切ったリードを見て、それから、カミラと目を合わせる。カミラは苦虫を噛み潰した様な眼をして僕を見ている。

 僕は思わず笑ってしまう―アレックスには悪いけど。

(ハハ、い、い、犬に負ける吸血鬼―)

(世界広しといえども、吸血鬼に勝った犬は、ウチの犬が初めてじゃないか―?)

(唾が臭いって―ふふ。なんだよ、高貴過ぎるから、顔から上質な味がするって?ホント、こんな田舎町で、なにやってんだ、こいつら―?)

 見かねたカミラが首輪を掴んで、片手でジョンを、あっさりとアレックスから引き剥がす。ジョンに怯えるアレックスが、生娘みたいに着物の裾を綺麗に直して、荒れた川沿いの道をしずしずと後退りする。僕はその様子を見て―又笑い出さない様に、しっかりと臍を噛む。弱々しく暴れるジョンを、カミラがそっと地面に下ろす。ジョンはカミラに不機嫌そうな目線を向けるが、その場に座り込んで、唸り声を上げるに留まる。

「し―真祖様。恐れながら―」

「はい。なんです?」

「―そ―その獣、その恐ろしい獣の、手綱をしっかりと握っていて下さいませ―流石は真祖様に仕えるしもべ、そ奴は恐ろしく凶悪ですぞ―!」

「はい、はい。具体的には、どんな所が凶悪なので?」

 アレックスは、考え込む様に目を落とし―立ち上がり、裾を払い、ジョンの涎塗れの顔を袖口で拭う。

 その袖口を見て、今更気付いた様に、アレックスは僕を見て、真剣な顔で、言う。

「唾が―唾が臭いんです、物凄く」

 ―僕は爆笑する。カミラが僕の頭を、後ろからスパン、と叩く。

「…あんまウチの兄貴虐めんなや」

「ああ、ご、ご、ゴメ―ただ、あまりにも、ちょっと―真面目な顔で言うもんで」

「気真面目なのよ。そこを買われて、今回の任務に就いたんだから…だから、あんまりからかわないであげて頂戴」

「ああ、ゴメ―ご免。ヒィ、ヒィ、その―」

 カミラが帽子のつばを上げ、おもしろくなさそうに僕の方を眺める。僕は笑いの発作が治まるまで、暫くそこで腹を抱えている。アレックスが、何が何だか分からない、という顔で、困惑したように僕とカミラを交互に見比べる。ジョンがすい、と腰を浮かして立ち上がる。アレックスがそれを見て短い悲鳴を上げ、素早くその場から離れる。僕は笑う。気の済むまで笑う。

 …僕の笑いが枯れた頃、それを見計らった様に、カミラが僕に声を掛けて来る。

 彼女は、仕方ないな、という様に微笑んで。

「…何かあった?」

「え?」

「明らかにこの前と様子が違うもの。この前はもう少し、お喋りだった。ね、何があったの?私達は未だ力になれる?それとも約束が果たせなくなる位、大きな障害?」

 僕は彼女を見て、ジョンを見て、遠く、国道側まで行ってしまった、アレックスの方を眺める。ジョンが後を追う様に歩き出す。僕を振り返って、最近ではめっきり減ってしまった、僕を先導する様に手綱を引っ張る仕草を見せる。僕を呼ぶ様に吼え声を上げる。張りのある吼え声を。

 …僕は口元を撫でる。カミラを見る。彼女はまた、目元を隠す様に、帽子を目深に被る。

「―歩きながら話すよ。聞いてくれる?」

「ええ。どうせ、あの馬鹿も追いかけなきゃだし」

「実は、困った事になっててね。この前約束した時より、更に困った事に…」

「はぁ?約束した時より―って、約束したの、昨日よ?昨日の今日で、更に問題が悪化…って、あんたどれだけトラブルメーカーなの―?」

「…僕の所為じゃないよ。そうじゃない―と思いたい…」


「成程ね」

 国道沿い。押しボタン式の信号の支柱に凭れかかって、カミラが納得した様に言う。4車線ある車道を、珍しく多くの車両が行き来する。アレックスは僕達からたっぷり2mは離れて、僕達の話を聞いている。僕はジョンのリードを限界まで短く巻いて手元に握る。ジョンは跳ね回るスーパーボールを追いかける時みたいに、時折機敏な動きを見せ、頭を左右に振る。その度にアレックスが悲鳴とも唸り声とも判別の付かない声を上げる。

「―つまり、内部犯の可能性が出て来た所為で、予定していた証言の一つが駄目になったと。その上、もう一つの証言も、証人が何処の誰か分からない上に、あんたの白を確実に示すものではない」

「…と、いうことは、つまりどういうことだ、カミュ?」

「『クソヤバい』って事よ、クソ兄貴」

 僕は苦笑する。車道の縁で、なるほどなぁ、と妙に感心したように頷くアレックスを見て、僕は肩の力が抜ける。いまいち僕の危機的状況を理解していないアレックスに、少しは腹の立つ部分もあるにはあるが、その暢気な部分に救われた様な気分にもなる。思えば、一昨日くらい、あの狐目に尋問を受けてからこっち、一人で気の休まる暇も無かった―潰れない様に気を張って、一人で内側に抱え込んで。誰かに相談すると言う事は、それだけで意味のある事なんだな、と僕は実感する。

(…それに、あんな感じのお兄ちゃんでも、あの歳まで立派に生きていけてる訳だし)

(確か、110―何歳だっけ、この前、口走ってたよな、ウチの玄関で)

(…いや、あんまり立派ではないか)

「でも、それなら―尚更、こうすればいいのではないですか?」

「…何?」

「我々のコミュニティへ来るのです。我々吸血鬼の、《共同体コミュニティ》へと」

 僕は微笑を浮かべて、直ぐ様首を横に振る。ジョンが舌を垂らして、間抜け面で僕の顔を見上げる。僕はジョンの頭に手をやり、少し撫でる。珍しくジョンは僕の手を振り払わない。大人しく、されるがままになっている。

「…どうしてです?吸血鬼のコミュニティ内なら、人間社会での罪状なんて瑣末なことですし、それに、あなたは《王》だ。いずれ、あなたは我々の元に来られる。天地の全てを司り、神魔の全てを支配する、あなたは―」

「―母さんが」

「?」

「ひとりになっちまう。僕が出てったらさ」

 ジョンの頭から手を離す。アレックスの顔を見られない。堪えていたものが、吹き出しそうな気がして。

「…ウチは母子家庭なんだ」

 ―信号の変わる音がする。僕は音に引き摺られる様に歩き出す。ジョンが僕の傍らについて、僕の手の甲をちろちろと舐める。正直、擽ったい。擽ったくて、笑い出しそうになる。

「ちょっと、止めてくれよ、ジョ―」

                                  ―バン。

 思い切り背中を叩かれる。吃驚して、心臓を吐き出してしまいそうになる。物凄い力だ。ダンプに衝突でもされたのか、と思う。慌てて周囲を見渡すと、ジョンが居るのとは反対側、左の傍らに、カミラが立っている。吸血鬼の力で、手加減なしに―やったら、僕の上半身が吹き飛んでるだろうから、一応手加減はしてくれたんだろうが―背中が酷くヒリヒリする。火傷と擦り傷の中間みたいな感覚がする。こりゃ暫くは、風呂に入るのに苦労しそうだな、と考える。

 黒い帽子に隠れて、彼女の赤い眼が鈍く光っている。帽子に半分くらい覆われて、彼女の表情は良く分からない―が、彼女が何か、奇妙な表情をしている事だけは、分かる。奇妙なというか、不思議な、というか。彼女は怒っている様に目を細めて僕を睨み付け、牙が見える程歯を剥き出して、口元に笑みを浮かべている。

 僕は彼女に背中を押されて信号を渡りながら、彼女の表情の意味をぼんやりと考える。幾ら考えてもそれが正解かは一向に分からない。怒っている様な、笑っている様な―腹を立てている様な、楽しそうな、獲物を狙っている様な、退屈を紛らわす玩具を見つけた様な―。

「任せといて」

「?」

 ―彼女の声には力が籠っている。やる、と決めた事を必ず成し遂げる様な、決意と自信に満ちた、確固たる力が。それが僕を益々困惑させる。

「―約束は必ず守るわ。ね、兄貴?」

「あ、ああ、勿論だとも、カミュ。我々吸血鬼は、約束を違えたりしない。誇り高き―」

 ―それだけ言うと信号を越えて、ずんずんと彼女は進んでいってしまう。僕は横断歩道の終わりで立ち止まる。後ろからアレックスが、僕らの背中に追い付く(すかさずジョンが飛びつこうとする―彼はそれを、僕の背に隠れてやり過ごす)。僕らは顔を見合わせ、互いに首を傾げる。

(…でも、もしかしたら―)

 彼女の言動を思い出す。彼女の言動の内、幾つかを。

                      『…あんまウチの兄貴虐めんなや』

     『―全ての同胞の命が賭かっているのよ。全ての転化吸血鬼達の命が!』

                     『心臓に。心臓に誓って。私達の―』

(―もしかして、彼女)

(…身内に割と、甘い性質なのか?)

(だから、同じく身内を気にする僕を見て―少しだけ約束に、真剣になった、とか)

 ジョンが軽く欠伸をする。僕は慌ててジョンのリードを引いて、彼女の後を追う。ジョンから身を守る盾にする様に、アレックスは僕にぴったりと張り付いて、必死の形相で僕に並走する。


「―で?」

「…と、いいますと?」

「作戦は決まった?」

 ―先を行くカミラが、僕にそう尋ねる。僕は立ち止り、言葉に詰まって俯く。ジョンが僕の傍らで、アレックスを探してキョロキョロと周囲を見回す。そういえば、最初はそんな話だったなぁと、僕は彼女の言葉に現実に引き戻される。

 …駅前の、彼らの駐留するマンション、『フェリス福比良』を通り過ぎて、駅の構内を、北に抜けて。

 駅の裏手の坂を上がる。裏手は急勾配の住宅街になっている。そこの住宅街の内側に、ここいら辺で一番大きな公園がある訳だ。駅の裏手には、駅の近くのスーパーへの買い物客以外、人通りは殆ど見当たらない。ジョンが坂道に差しかかると、露骨に不機嫌そうに唸り声を上げる。僕はその背中を擦り、なんとか宥め賺しながら、坂道を上がる。

「作戦…」

(あれ、そういや、アレックスは…?)

(もしかして―帰ったのか、あいつ?犬が嫌過ぎて―)

「…そもそも、元はどうする積りだったの?」

「え?」

「証言が駄目になる前よ―未だ、外部犯の仕業だと思ってた頃。アイハラの証言が無駄になる前」

「無駄になる、前は…」

 僕は立ち止まる。霞が掛かった頭で、何とか思い出そうとする。ほんの数時間前の事の筈なのに、何もかもが遠い昔の事の様に感じる。ここ数日で、一気に老けてしまったかのように思う。実際そうなのかもしれない。酷く疲れている様な感じがする、体も、心も、頭の中も。まだ何とか出来る、何とかなる筈だ、と思う自分がいる半面、それを遥か彼方から眺めて、付いてけないと冷笑する自分が内側に居る事にも気付く。これからどうなったって構わないし、何人だって攫われてしまえば良い。僕を逮捕したけりゃすればいいんだ。ニヒリズム的な開き直りを以て、そいつが頭の隅から嘲笑う様に足掻く僕を見ている。ジョンが僕の手首を引っ張る。僕は限界まで巻いたリードから軽く手を離して、それをジョンが解くままに任せる。

(前は…)

(何だったっけ。もういいや。疲れた…)

(―駄目だ。弱気になるな。こいつは味方だ。それに、他にも手伝ってくれる奴がいる。僕が一番最初に諦めてどうする?僕は未だ捕まった訳じゃない…)

(きっとなんとかなる。何とか出来る筈―)

「警察署に―」

「うん」

「―忍び込んで貰おうと思ってた」

「…それはまた、どうして?」

「情報が必要だからだ。何をするにしたって、情報が。犯人の情報が一番だが―被害者の情報もあれば助かる、彼女らが僕の無罪を証言してくれるだろうから―だろうと思っていたから」

「…」

 僕は彼女を見る。彼女は無言で、帽子の影から僕の方を見ている。僕は顔が歪むのを感じる。胸の内が苦しくなる。既に使えなった計画を、こうやって語るのは、キツい。それに期待していた事を思い出すから。それが駄目になった瞬間が、こうやってありありと蘇るから。

「―犯人を先に見つけ出して、こっちで先に確保すれば、身の潔白を立てる、何よりの証になるだろう。僕一人じゃ無理でも、大人の人間一人捩じ伏せるくらい、吸血鬼なら容易いだろうし―被害者がそれに付いて来るのなら尚良い。心証的には、更に無実に傾くし―僕には何一つ身に覚えが無いんだから、彼女達が何を証言しようとも、僕にマイナスになる事は無い」

「…結構、冷たいのね」

「自分の身が賭かってるからね。あんただって自分のが全部、テーブルの上に賭けられてるとしたら、どうしたって、それなりに合理的になると思うよ」

「そうね―まぁ、確かにそうかも。あなたの言う通りかもね…」

 そう言って、帽子を直して、彼女は頷く。そして、笑って、言う。

「―ま、でも、その計画、そのままじゃどっちにしろ使い物にならなかったけどね」

(………………)

「え?」

 ああ、痛―と傍らから悲鳴が聞こえて、慌ててそちらを振り向くと、電柱の陰に隠れているアレックスの太腿に、ジョンが思いっきり牙を突き立てている。アレックスが涙目になりながら、ジョンの口の中に手を入れて、無理矢理顎を抉じ開ける。ああ、こら、そんな変なものに噛み付くんじゃありませんと、僕は慌ててリードの先を手繰り寄せる。

「ふ、ふ、よくぞ見破ったな、獣―種族は違えど、流石は同じ真祖様にお仕えする、金色の霊獣よ。我が身を何者からの視野よりも隔絶する、《不可視》の魔術を打ち破るとは―!」

「あの、ほら―犬は嗅覚が鋭いから」

「―む。そうか―成程。そこには考えが至りませんでした。流石は御慧眼です、我らが真祖様―!」

(…馬鹿にしてんのか?それとも、馬鹿なのか…?)

 リードを引き寄せ、ジョンの首根っこを押さえる。ジョンは不満そうに頭を振る。その首振りにふらふらと重心を揺さぶられながら、僕は坂の上のカミラの方を向く。

「どうして―こら、ジョン―使い物にならないんだ、この計画?自分で言うのも何だけど、良いプランだと思うんだが―」

「そうね、悪くない案だと思うわ。あなたを無実にするという一点に於いては、特に」

「だろ―?」

「―そもそも、計画の頭を、始められないという点を除けばね」

「…はぁ?」

「真祖様―」

 太腿をさも痛そうに擦りながら、アレックスが電柱の陰から、一歩前に進み出る(ジョンの唸り声で半歩後退する)。ジョンの方を警戒する様にチラチラと見ながら、アレックスは僕の方を向いて、非常に言い難そうに、切り出す。

「あのォ、真祖様は、記憶の大半が戻られていない状態なので、お忘れかもしれませんが―」

「忘れちゃいないよ。元から知らないんだ。何?」

「―吸血鬼は種族的に、様々な弱点のある生物なのです」

 僕はジョンの首根っこを押さえたまま硬直する。又これか、と笑う。平衡感覚が揺らぐ感触。望んでいた事、期待していた事が簡単に、あっさりと打ち砕かれる様な感覚。その言葉の先を聞きたくない、と思う。耳を塞ぎたくなる。ジョンが僕の重みに耐えきれず、地面の上に伏せってしまう。急勾配の上に寝そべったジョンが、ズリズリと数センチ、坂の下へと滑っていく。

「待って」

「―流れる水の上や、川の上は通れません。船を使っても厳しくて―止むを得まい時は、昔は船倉や柩の中に隠れて、見つからない事を祈りながら移動したと聞いています。今では飛行機がありますが―それでも、墜落したら、ほぼ死ぬしかありませんからね。洋上墜落なんて最悪です。好んで海上に出る吸血鬼なんて、今でも殆ど居ません―」

「待って、待て、待てアレックス」

「―ニンニクは苦手です。まぁニンニクに限らず、臭いのキツいものは、吸血鬼には大抵好まれませんが。人間に比べて、五感が鋭敏に発達している所為です。ですから、酷い体臭や息で、吸血鬼を退治しようとしたヴァンパイアハンターの伝承や、家の周りに糞尿を撒いて、吸血鬼を遠ざけようとした女性の話が残っているくらいです―」

 僕の静止も耳に入らず、アレックスは吸血鬼の種族的性質について、話を続ける。ジョンが興味を無くしたみたいに、アレックスから視線を外す。僕は立って居られなくて、ジョンの隣に膝を突く。自分でも、何がこんなに不安なのか分からない。それでもこの予感と、彼ら兄妹への第一印象が、決して間違ってはいないんじゃないかという、悪夢の様な確信だけが僕の内にある。

「―十字架は別に平気です。これが苦手なんだろ、と見せられる事、結構ありますが。でも、銀と聖水は駄目ですね―銀は魔素の流れを妨げますし、聖水は遮光用の防護膜に穴を開けやすいんです―繊細な魔力操作を要求されるので、その分、不純物への反応が激しいんですよ―夜なら別に平気ですけどね。水は血液に通ずるものがありますし、少量なら、寧ろ操り易い部類です」

「…」

「後は―日光が苦手です、魔力を用いた遮光膜を作らねば焼け死にます。夜に力が増す分、日光にはとことん弱いですね。朝日が一番キツいです。偶に防護膜を貫通します…それで何年かに一人、教育過程の吸血鬼が死んだりします。ええと、その、他には…」

「閉鎖された建物には、招かれないと入れないの」

「―あ、こら、カミュ!」

「お前ら…」

「―良いじゃない、兄さん。隠す事無いでしょ?」

 帽子を脱ぎ、くるくると指の先で回しながら、カミラが言う。何故だか少し、楽しそうに。

(成程、そう言う事ね…)

(Sっぽい笑み。こいつ、絶対拷問とか好きだろ…)

(第一印象は間違って居なかった。この兄妹は僕の手に余る。僕の、キャパシティの…)

「廃墟や、公共の建物なら大丈夫なんだけどね。人が住んでいたり、往来する職種が限定されている建物は、入るのが難しいわ。空いた窓からとかなら、コッソリ忍び込むことも出来るけど―大方の力は制限されるでしょうね。多分、人型には戻れないわ―虫や、良くて鼠位にしかなれない。昔、そうやって小蠅になって、人間の女性宅にばっかり侵入していた吸血鬼が居たの―そいつ、どうなったと思う?」

「さぁね。聞きたくない」

「―小蠅の姿のまま、新聞紙で女性に叩き落とされたの。魔力も使えずに、そいつはそこで、そのままご臨終」

「…まぁ、そいつにゃ悪いが、悪くない結末だな。潰した小蠅が元のサイズに肥大化したり、魔術で反撃してきたりしたら、言っちゃなんだが、女性が可哀想だし…」

「まぁね」

 カミラは嬉しそうに言い、そして笑う。帽子を手の中でくるくると回し、それをそっと頭の上に乗せる。僕は頭を抱えてその場に蹲る。溜息も出ない。アレックスが、僕の顔を恐る恐る、覗き込む―覗き込もうとする。ジョンが小さく吠え声を上げる。アレックスが素早く飛び退く音がする。

「お前ら―」

「私は御免だよ?あんたと確かに約束はした。けど、あんたの為に小蠅になって、誰かに潰されてやる積りは毛頭無い」

「―な!?わ―我が妹ながら、不敬な―王、我らが真祖様、我らが“骨の王”よ、不肖、このアレクセイの命をお使い下さい―このアレクセイめが、あなたの命なら、何年掛けても、必ず必要な情報を揃えて見せましょう。我が身命の全てを賭して、あなたの為に、この身を小蠅に窶し―!」

「…だから、何年も掛けたら駄目なんだよ、兄さん。話聞いてた?それに、ちっちゃな体じゃ情報収集には向かない。話を聞くくらいしか出来ないからね。それに兄さん、サイより小さな生物になれないでしょ―?」

「…そんな事無い」

「変な見栄張らないで。飛ぶ時だって、いっつもコンドルじゃない」

「―なぁ、おい、お前ら、お前ら、お前らよ―」

 顔を上げ、手を振り、二人の注意を惹く。吸血鬼兄妹の赤い瞳が、揃ってこちらの方を向く。僕は彼らに対して、初めて疑念を抱く―彼らに対して、彼らの、種族に対して。吸血鬼という種族に対して、今まで抱く事の無かった、抱く必要も無かった、抱く可能性も無かった、ある懸念―。

「―なぁ、お前ら。お前らさ、一体、何が出来るんだ…?」

 吸血鬼の兄妹は、互いに目を見合わせる。そして申し合わせたように僕の方に目を向けて、言う。

「「―戦闘?」」

 僕は泣き笑いを浮かべる。全身の筋肉が弛緩する。(吸血鬼の、協力を―)地獄で蜘蛛の糸を掴んだと思ったら、それが出店のヨーヨー釣りの釣り糸で出来ていた様な気分だ。(…吸血鬼に何が出来るか、調べるべきだった―)咽の奥から絞り出す様な、か細い呻き声がする。心配そうな、ジョンの鳴き声が聞こえる。冷たい舌が僕の頬を撫でる。僕は思い切り、その首を抱き寄せる。

(…この兄妹は僕の手に余る。僕のキャパシティの埒外の存在だ)

「―ああ。僕の救いはお前だけだよ、ジョン―」

「あら、失礼な」

「―吸血鬼が、こんなに役立たずだとは思わなかった―」

「―な!?し、し、し、真祖様、待って下さい、我々にチャンスを下さい!挽回のチャンスを、何ぞと、我々に御慈悲を―!実はここに控える我が愚妹、変身は大得意で―!」

「―だから、私は嫌よ、兄さん。そもそも私、小さい生物になるのは嫌いなの。身体の周りに四角い壁が出来たみたいで、滅茶苦茶息苦しいし」

「…それに、情報収集に手間取っちゃ、意味無いしな。元からこの作戦はきつかった訳か。ええと、情報が欲しけりゃ、警察署に、向こうから招かれる必要がある―?どうすりゃいいんだ?犯罪行為でも働くか?」

「あんたを無罪にして、私達がこの地で、安全に王の欠片を集める拠点を作る為に?誰が捕まるの?私はお断りよ。この地に安全な橋頭保を築く為にも、私達はここで、当局に睨まれる訳にはいかないの。じゃあ、あんたが捕まる?」

「ううん…」

「ああ、先祖の霊よ―我がエーデルシュタインの英霊たちよ、私は一体、どうすればいいんですか!?我らが真祖の命に報いる為、偉大なる先霊達よ、どうか、御導き下さい―!」

「―どうもせんでいい」

「―どうもしなくていいよ」


「…まぁ、でも、“情報を集める”ってのは、悪くない作戦目標ね。状況がどうなってるのか把握も出来るし、手持ちの札と比べて、次善の策も立てやすくなる。それに、その為に捜査当局を狙う、ってのも悪くないわ。情報の集積位置から、手っ取り早く必要なものだけを奪う。プランが分かり易いし、それなりのリターンも期待出来る。何より、いい度胸だわ」

「…そりゃどうも」

 公園の冷えて罅割れたプラスチックベンチの、真ん中に腰掛けてカミュが何処か楽しそうに微笑んで、言う。僕は端っこに座って、彼女の言葉を話半分に聞いている。閉塞感に息が詰まりそうになる。一つずつ、足を捥がれていく様な感覚に、堪らなく悲鳴を上げたくなる。

(…小林、某なんて雑誌記者、存在しない…)

(外部犯ではない。相原の証言は使えない。僕の無計画性を証明しても、意味は無いだろう。それ所か、僕の無軌道性、逸脱性を証左する、不利な証言として採択されかねない…)

(吸血鬼共は、思ったより不良品ポンコツだ。厄介事を囲い込んだだけだった。資格も無いのに面接に来た奴に、間違って合格通知を送ってしまった様な気分だ…)

(…ああ、厄介事と言えば、もう一つあったな。相原だ。相原を、柏木に紹介する件。あああ、どう言や良いんだろう、適当な理由で納得してくれないだろうか、『よう柏木、ここに映画のタダ券があるからさ、二人で行ってこいよ!相原と一緒にさ―ヒューヒュー、御二人さん、お似合いだぜ?ヒューヒュー』)

(―あのさ、もうこれ、人生詰んでね?)

(嫌だ、もう学校行きたくない…)

(…いや、僕は未だ捕まった訳じゃない。きっとなんとかなる。何とか出来る―)

(―出来る―よな?)

 ―公園。

 この辺の地域では、一番大きな児童公園だ。小学校の校庭を、半分に切って張り付けたみたいな公園。遊具も酷く疎らで、数も3つ4つ程しかない。ブランコと雲梯と、滑り台と…砂場。それが等間隔に、外周に広く設置されている所為で、パッと見、物寂しい印象を受ける。その所為だろうか、いつ来てもあまり人で賑わっているという印象は無い。時間帯によっては、幼稚園以下の子供を持つ主婦達の溜まり場になっているが、僕はこの場所の、そこが気に入っている。

 僕は公園に入り、遊具の近くに置かれているベンチのひとつに腰掛け、ジョンの鎖を外し(アレックスが血相を変えるのが視界の端に見える―勿論僕の知ったこっちゃない)…飲んだくれたおっさんみたいに、ベンチの背に思い切り凭れて、天を仰ぐ。アレックスの悲鳴が聞こえる。出立時間が遅かった所為か、公園の中には他に誰も居ない―公園内でのジョンの粗相を片付ける時、いっつも突き刺すように僕を睨んで来るおばさん集団も、遊ぶのに夢中で5時のサイレンが聞こえなかった子供達も、日が沈むと共に何処からともなく集まって来る、人を値踏みする様な眼をした、不良っ子たちの集団も。

(有難い…)

(今日は、一切の余裕が無い。他人に割く余裕が。誰かに絡まれたりしたくない…)

(溺れそうだ。自分の事で、手一杯なんだ…)

「クソ―この、獣、意外とやるな、この俺に追い付くとは―だが、ここからは、我々の時間だぞ―?覚悟は出来てるか、おら、もう直ぐ日没だぞ?」

「―ワン―」

「―待て。おい、待て!少し待て、おい、聞いているのか、獣!もう少しと言ったろう?もう直ぐ日が沈む、それまで待て―ああ!臭い、手を舐めるな―顔も舐めるな、止めろ、顔は止めろ、顔の方が駄目だ―待て、お願いだ、後10分、15分…30分程―!」

 アレックスの悲鳴が聞こえる。僕は公園のベンチからボーっと追いかけっこをするアレックスとジョンの様子を眺める。あんなにはしゃいでいるジョンを見たのは久しぶりだな、と思う。まさか、ああやって走り回る姿をもう一度見られるなんて。(『ああ、止めろ獣、真祖様に賜った履き物を―ジャパニーズ・トラディショナル・ゲタを!貴様、自分が何をしたか、本気で分かっているのか?もう許さんぞ―!?』)最後にあんな姿を見たのは何時以来だろう、と考える。

(…確か、僕が中学校に上がる前―)

(―あの頃は、ジョンも未だ元気だった。いっつもはち切れんばかりに尻尾を振っていて、散歩のリードを持っていくと、我先に飛び出していってたっけ。僕はいつも置いてけぼりだった…)

(散歩に行く度にパワー負けして、引き摺られて。毎回、膝小僧擦り剥いて…)

(…でも、僕が転んで蹲ってると、いつだって直ぐに引き返して来てくれた)

(そして、僕の膝小僧を舐めて、何処と無く申し訳無さそうな顔を―)

 ―目元を押さえる。泣き出しそうな自分に戸惑う。そのまま額を抑える。現実逃避は止めろ、と自分に言い聞かせる。

(…どうする?どうすればいい?一体どうしたら―)

(―何か名案がある筈だ。きっと僕が気付いてないだけで、全部が丸く収まる素晴らしい名案が―)

(…僕は未だ捕まった訳じゃない。きっとなんとかなる。何とか出来る筈だ―)

「―決まりね。その線で行きましょう」

「はぁ?何言って―」

「警察から情報を盗むの」

 …僕は呆れた顔をしてカミラを見る。彼女は何故か笑っている。両手をポケットに突っ込んで、何処か悪戯っぽく、そして心底楽しそうに。

「…正気かよ?」

 ―押し潰した様な低音で、僕は言う。その笑顔が癇に障る。精一杯、我慢した積りだったが、それでも自分の声が、彼女を咎める様な響きを帯びるのを止められない。

「あら、いつだって私は正気よ。兄さんとは違うわ。地図の縮尺を読み間違えたりしないし、自分の靴を忘れたりしないし、犬と追いかけっこもしない」

「…自分で言ったんじゃないか?招かれてない建物には入れない。どうやって警察署から―」

「―警察署に入るなんて一言も言ってないでしょ」

 彼女は笑う。牙を剥き出して、無邪気に、楽しそうに。僕は彼女を見る。徐々に目を見開く。

(警察署に―)

(情報を、盗む)

(―?入らずに、警察署から、必要な情報を―)

 彼女は人差し指でこんこん、と額を小突く。そして、言う。

 ―心底楽しそうに、牙を浮かべて。

「…『警察』から、情報を盗むのよ」

 僕は彼女の目を見る。きらきらと猫の様に夕闇で輝く、赤い瞳を。僕は空気が―。

           『鍵が掛からない金庫に情報を仕舞い込む様なものじゃ―』

                    『鍵の掛からない金庫は要らないの―』

 『―魔術耐性の無い人間から、情報を引き出す手段は本当に幾らでもあるのよ?』

              『―勿論、耐性のある人間から、引き出す方法も―』

              『―ま、でも、その計画、そのままじゃどっちにしろ使い物にならなかったけどね』

 ―空気が抜ける様な笑い声を上げて、ベンチの上にぺしゃんこに凭れかかる。

 ぐったりと脱力したまま、弱々しい声で彼女に尋ねる。

「…騙したな?」

「心外ね。騙したつもりは無いわよ。ただ、言わなかっただけで」

「…成程な。別に、警察署には入れなくたって、知ってる奴の頭から情報を抜けば良い、って訳か…」

「そう言う事。《誘惑》か、《従化》を使うわ。どっちを使うかは当人の抵抗力次第だけど、場合によっては後遺症が残るかも―」

「あ―や、その辺はお任せするよ。どうせ、聞いたって分かんないし。まぁ、あんまり後に尾を引くのは止めてやってくれ。因みに、後遺症ってのは、どのくらい?」

「そうねぇ―当人次第としか言えないけど、一週間くらい二日酔いみたいな感覚に悩まされるとか、眠気が醒めないとか、酷い場合には、幻覚が見えるとか。まぁ、どうしても精神に作用する術だしね」

 少し考える。(二日酔い…?)―考えて、何だか、あんまり大した事無さそうだと結論付ける。二日酔いは、学生の身分じゃ経験しようも無いが―大人達はしょっちゅうなってるし、眠気が晴れないのは、春先には良く在る事だ。幻覚は…流石に見たこと無いが。でも、風邪が悪化した時に見る、混沌とした夢と似た様なものだろう、と思う。僕は彼女に頷いて見せる。

「―分かった。ま、出来れば手加減してやって。出来ればで良いけど。一応、僕の身が最優先だ」

「分かったわ。となると《誘惑》かしらね?でも、厭くまでこちらに気持ちを傾ける術だから、職業倫理がハッキリしてる相手だと、効果が薄くて意味が無いのよね…」

 彼女は困った様に鼻の頭を掻く。僕は笑う。肩の力が抜ける。気持ちが前向きになるのを感じる。

 希望が芽生える。最近じゃ、何度あったか分からない、そして何度手折られたか分からない、なんとかなるかもしれないという、小さな希望の芽だ。

(きっとなんとかなる。何とか出来る。もしかしたら、本当に、そうできるかもしれない―)

(期待し過ぎるな。これは厭くまで、次善の策を立てる為の案だ。大した情報は得られないかもしれないし、これでもし有益な情報が得られたとしても、その先が漸く本番なんだ)

(…これが本物な事を祈る。これが本物の、僕を救う―)

「―でも、どうして黙っていたんだよ?」

 僕は唇を尖らせて、噛みつく様に彼女に言う。カミュはきょとんとした顔をして僕を見る。

(…その顔止めろ)

「なーにが、『その計画、どっちにしろ使い物にならない』だよ?バッチリ出来るんじゃねえか、必要な事が―僕にとって必要なこと、全部がさ」

 彼女は暫く無言で、僕の顔をまじまじと見ていたが…まるで今、その事実に気が付いたという様に頷き、あっさりと一言、こういう。

「サプライズよ」

「おま…」

(…こいつ。さては、真性のサディストだな?)

「―んなサプライズ要らねぇんだよ、気持ちが時化って、喜びの領域まで届かんわ…」

「あら、サプライズはお嫌い?喜んで貰おうと思ったのに」

「いや、好きとか嫌いとかじゃなくてだな、この場合、問題は―」

「…王様はあらゆるサプライズがお好きだったわ」

 彼女は言い、不意に、柔らかく表情を崩す。その表情に咽を塞がれたみたいに、僕は言葉の先を続けられなくなる。

「―誕生日のサプライズパーティーから、玉座の椅子を、上に座った人のお尻に思い切り噛み付く怪物にすり替えるドッキリ、上位始祖達の棺桶の中身に事ある毎にイタズラ、フラッシュモブ、果ては小さなビックリ箱まで。きっと、驚きそのものを愛していたのね…」

「…知らないよ。あんたらの王様の性癖なんて知りたくも無いし、興味も無い」

「そう?あなたの中に入ってるのに」

 僕は彼女を見る。彼女の優しげな眼差しを見る。少し、吐き気がする。彼女の眼が、僕を映して居ない感じがして。その眼差しが、僕に向けられたものではない感覚がして。

 僕は目を逸らす。彼女の瞳の色に気が付かない振りをする。

(僕は違う)

「…入ってるだけだよ。いつか全部、腹の中から出す。あんたらが約束を果たしてくれるなら、あんたらの問題が片付く少しの間だけ、僕も約束通り、こいつを中に預かっているだけだ」

(僕は人間だ。そんな目で見るな。僕の余剰。僕の6年間と少し。僕には僕の記憶がある…)

(僕は荻野祐輔だ―)

「―自分の内側にあるものに興味無いの?」

「自分の中身になんて興味無いね。自分の中身は自分が一番良く分かってるし、他の誰にも見える事は無い。重要なのは外側さ。外側は誰からも良く見える。それが崩れたら、平穏を保てない―」

「―そうね。確かに、そうかも」

 彼女はやけにあっさりと引き下がる。僕は彼女に疑いの眼を向ける。彼女は頬杖を突いて、公園を走り回るジョンとアレックスに目を向ける。微笑む彼女の横顔に、悪意の様なものを感じるのは、僕が捻くれている所為だからなのだろうかとぼんやりと考える。

(僕は人間だ。僕がその骨のなんたらだっていうんなら、僕のこの余剰の6年間はどう説明する積りだ?僕には僕の記憶がある…)

(…僕の余剰。僕の6年と少し。僕の記憶…)

(僕は荻野祐輔だ)

(僕は、荻野祐輔だ―よな?)


「―じゃ、私、今から警察署に行くわ」

「え、もう?」

「なるべく早い方が良いでしょ?善は急げっていうし。それとも、もう少し後の方が、何か都合が良い?あなたに掛けられた嫌疑には、結構猶予があるの?」

 ―カミラが公園のベンチから立ち上がる。彼女の言葉に、僕は少しの間、考えを巡らせる―が、特別、彼女の提案を断る理由は無い。ベンチから彼女を見上げ、肯定する様に僕は頷く。彼女は笑い、帽子を脱いで、自分の顔を隠す。

 辺りは、いつの間にか暗くなって来ている。

 西側を見る。急勾配の住宅街の屋根の群れに隠れて、日光は殆ど見えなくなっている。夜が来たんだ、と思う。帽子で顔を隠した彼女の輪郭が煙の様に揺らぎ始める。僕はベンチに縫い付けられたように座ったまま、痺れる頭で彼女の姿を見ている。理解が及ばないまま、彼女が目の前で人知の及ばない技を使っているのだろうという事を、朧気ながら受容する。

 何かが羽ばたく音がする。無数の蝙蝠が彼女の体から噴き出る。僕は目を閉じる。

「―あのぉ」

 …目を開ける。彼女は何故か未だそこに居る。顔を覆っていた帽子を胸の前に下ろして、当惑した様に声の主を見つめている。

 僕もそちらへ目を向ける。

 そこには、アレックスが立っている。着物の裾はボロボロに、腕と掌には、無数の歯型が付いて―顔と着物の裾は、涎でべとべとになっている。あと、何故か左足が裸足だ。

 …後ろでジョンが、ビーフジャーキーに齧りつく様に、ビーチサンダルに齧りついている。

「話し合いは終わりました?」

「…」

「その、それで、私は―私の役目は、一体、何をすればいいんでしょうか、真祖様?」

 僕はカミラを見る。カミラは、まるで鳩尾に一撃喰らったかのような、苦悶の表情を浮かべている。多分、あれは、しまった、こいつの事忘れてた―という類の顔だろうと、僕はその表情を見て一瞬で察する。

 …何故なら、恐らく僕も、全く同じ顔をしているだろうから。

 彼女が僕を見る。彼女の眼が訴えている。ああ、僕も、もしかして魔法が使えるようになったのだろうか。彼女の言わんとしている事が、何となく分かる。

(何とかしろ)

 僕は左手と左手を垂直に合わせてT字を作り、アレックスから見えない様に左手で庇いながら、胸の前に右手で小さなCの逆文字を作る。親指と人差し指の間の隙間を、何度も押し潰す動きをする。

(少し時間を下さい)

 カミラが小さく頷き、アレックスの方に向き直る。僕はその間に額を冷やす様に手の甲で触れて、必死にアイデアを絞り出そうとする。

「あ―兄さん?私は、警察署に行く事になって―」

「成程な。ではカミュ、俺もそちらに行けばいいのか?」

「う?いや、署には私一人で行くよ。兄さんには、他にやって貰いたい事が―」

「―しかし、お前が小蠅になる覚悟を固めてくれるとはな!あんなに嫌がっていたのに、真祖様の命の為にその身を捨てる、兄は甚く関心したぞ―!」

「―え?いや、蠅にはならない、少し話し合って、もっと簡単に情報を取得出来る方法を―」

(あ)

 ―ぱん、と両手を叩いて、僕はベンチから立ち上がる。吸血鬼兄妹達は、吃驚したように、揃って僕の方を向く。

「―アレックス、君には―」

「―はい、真祖様、何なりと―」

「―ある女を探して貰いたい」

 …アレックスは、僕の言葉を聞いて、右を向き、左を向き、やがて困った様に笑う。

 カミラが素早く僕の傍に身を寄せて、煩いぐらいの小声で捲し立てる。

(ちょっと、オギノ―!?)

(大丈夫、分かってる―)

(―どういう積り、兄さんに、人探しなんて!?兄さん、そういうの、得意そうに見える!?兄さん、多分、東洋人の顔の区別なんて付かないわよ―あなたや他の顔見知り以外は、皆同じ顔に見えるって―)

(―分かってる、そうだと思ってたよ、大丈夫だって)

(―だったら―)

(―他の奴にも頼んだ人探しさ。頭数は多い方が良い。どうせ、犯人の目処も立ってない現状だ―幾ら戦闘が得意っつったって、そこらで暴れて貰う訳にはいかないだろ?戦力を遊ばせとくのも勿体無いし。キミと違って、魔力操作も得意じゃないんだろう?でも、人探しの、それも補佐くらいなら―)

(―だったら―まぁ、いいけどさ…)

「―カミュ?真祖様と、一体何の話をしているのだ?」

「え!?いや、真祖様の頭の天辺に、蜂が留まってるのが見えて―」

「―何だって!?それは大変だ」

「―良いの、大丈夫、もう追い払ったから」

「―真祖様を足蹴にし、愚弄するとは、何と無礼な、知性を宿さぬ卑しき種族よ。直ぐ様そいつを見つけ、塵の一片になるまでその身を撃滅し―!」

「…あー、アレックスくん。君には、蜂では無く、人間の女性の捜索をお願いしたいんだが…」

「は―」

 アレックスは不満そうに跪いて頷き、言葉の続きを待つように顔を上げ、僕を見る。

(不安だ…)

「…その、アレックスくん。君には、ある女性を探して貰いたい」

「―了解しました、このアレクセイ・フォン・アーデンリッヒ・オプト・デボウト・ガルドエーデルシュタイン、我が身命を賭し、全身全霊を以って―!」

「…あー、大丈夫。これ、そこまでしなくていいやつだから。もっとラクーに、肩の力を抜いていこう、ね?」

「は―何と、勿体無きお言葉―!」

 アレックスは首を垂れ、祈る様に両掌を合わせて高々とそれを僕の方に掲げる。僕は困惑して、彼の様子を見下ろす。カミラが僕の肋骨辺りを肘で小さく突き、さっさと話の先を続けろ、と目線で促す。

(…重ね重ね、不安になってきた。この判断は正しかったんだろうか?思えばここ数日の間、僕は沢山の判断を間違って来た…)

「―えー、君には、ある女性を探して貰いたい」

「ある女性とは―もしかして、真祖様の最愛の方ですか!?」

「違います。うえー、その人は、ウチの学校の生徒で…」

「―成程。ステディな関係の御学友で―!?」

「違う。何が成程だ。あー、その女は…」

「―つまり、遊び相手だと?いけませんな真祖様、その様な不誠実なお付き合いは…」

「ちょっと黙っててくれません?」

 カミラが溜息と共に(『おい、止めろ、何をする、カミュ―!』)、後ろから跪くアレックスの口を塞ぐ。僕はホッと息を吐いて(あのままだったら、10年以上放っていない、全力のパンチをお見舞いする所だった―吸血鬼に効くかは兎も角)、アレックスが口を挟めない間に、要項を口にし終えてしまう。

「彼女は数日前から僕に掛かっているこの容疑の、潔白を証明できるかもしれない、今の所の唯一の鍵なんです。彼女を見つけられたら、そして、彼女が証言をしてくれたら、それが僕のを証明出来たなら、僕の平穏は保たれるかもしれない。まぁ、拙い線ですが」

「―つ―つま、つまり、その」

 カミラの手を口元から押し退けながら、何処か息苦しそうに、アレックスは言う。

(…あれ、鼻まで覆ってないよな?)

「その女を捕まえれば―戦況は真祖様に有利に傾くと?」

(…)

(…蛮族みたいな考え方だな)

(まぁ、そう―なるのかな?シンプルに言うと…)

「そうよ」

 僕の了承を得ずに、勝手にカミラがそう肯定する。僕が慌てて彼女を見ると、彼女はこれでいいのよ、という様に、肩を竦める。

(…まぁ、出来るだけ単純化した方が、この場合は良いのかもしれないけど―)

「―して、真祖様、その女の容姿は!?」

「ええと、容姿?そうだな、肩下くらいまでの長い黒髪で―…」

「―ああ、いえ、そういうのではなく」

「?」

 僕は混乱してアレックスを見る。アレックスは満面の笑みで僕を見上げ、高らかに宣言する。

「―写真とか、姿絵とか、そういうものです。細かい特徴なんて言われても、私、絶対覚えられませんので、ええ!」

 …僕は呆気に取られてカミラを見る。彼女は無言で空を見上げている。

 僕は思わず笑い出してしまう。嗚咽の様な笑い声が出る。

(不安―)

(…この判断は正しかったんだろうか?思えばここ数日の間、僕は沢山の判断を間違って―)

(これほど信頼できる、『絶対』も初めてだな…)

「し―真祖様?」

「…ちょっと待って。ああ、少しだけ、立ち直る時間を頂戴…」


 ―街灯の明りが付く。坂の上から順に、ぽ、ぽ、ぽ、と、何の予告も無く、連続する様に、突然に。

 実際には、見たことは何度かあっただろうに。こうやって、それをじっくりと眺めるのは初めてだ。だからだろうか、初めてその瞬間を目撃した様な気分になる。

(…同時に、全部点く訳じゃないんだな)

(電圧の問題?それとも、速度の問題?電球の方の問題かもしれない。実は、全部手動でスイッチを入れてるから、点灯にタイムラグがある―ってことは、ないだろうな)

「準備は良い?」

 ―呼ばれて、僕はカミラの方を向く。ベンチに坐して、睨みつける様な彼女の視線を、正面から受け止める。僕は両手を上げて力無く微笑む。正直、準備なんて何も出来てないが、何を準備すればいいかも分からない―とは言えなくて、僕は一言だけ、短く口にする。

「ああ」

「目を閉じて。力を抜いて。頭の中を、出来るだけクリアに―…」

 出来るだけ言われた通りにする。目を閉じる。息を吐く。力を抜く。何も考えないよう努力する。心の中にある小さな疑問や、今後の心配が、出来る限り、形を持った思考にならない様に。

「―行くわよ」

 カミュの掌が僕の目元に触れる。一瞬、体が硬直する。「力を抜いて」舌打ちと、叱責する様なカミュの声が聞こえる。僕は浅く呼吸を繰り返す。唐突に、彼女が僕の頭に、《鍵》をしようとした時の事を思い出す。

                    『あなたの平穏は私が守ってあげる―』

「―力を抜いて」

「抜いてる、抜いてるよ、出来るだけ―!」

「お願い、あなたの抵抗が強過ぎるの。出来るだけ心を穏やかにして、抵抗力をゼロに近付けて。そうじゃないと私の魔力じゃ通らないわ、あなたの心が硬過ぎて―」

「―んな事言われても―」

「リラックスできる事を考えて、そうでなければ、何か全然別の事を」

「別の事?」

「そう。あなたは今、全然別の場所に居るの。そうね、自室が良いわね。そこであなたは、自分の趣味に没頭している。あなたの趣味は―?」

「吸血鬼の女にアイアンクローかまされる事かな…」

「真面目に」

「そう言われても、パッとは思い付かないよ。割と無趣味な方で…」

 ―指先に突然冷たくて、ザラザラしたものが触れるのを感じる。ジョンの舌だ、と思う。舌が繰り返し繰り返し、僕の中指の先から手の甲に掛けてを丹念に舐め取る。まるで、今の僕に必要なものを気付いているかのように。遠くでアレックスの、悲鳴のような歓声が聞こえる。

「―やあ、獣め!漸く私が真祖様から下賜された、ジャパニーズ・トラディショナル・ゲタを手放しおったな―」

 僕は笑う。カミラが囁く。

「いいわ、その調子―私の魔力、少しずつ入ってるの、分かる?」

「いや、全然―」

「入ってるの。それじゃ、意識して、その女性を思い浮かべて…ほら、アレックスに探させたいって言う、例の女の人を」

 目を固く瞑る。意識を強く集中する。あの日の事を、必死に思い出す。目の前に真っ白の日誌が広がっている。僕はそれから目を逸らして、部活動の雑多な音を聞いている。縁側の老人宜しく窓の外を眺めながら、日直をすっぽかした相原を心の中で呪っている。そこに、声が―。

「もっとよ。もっと、強く」

「やってるよ―」

「イメージして。明確に、クリアに。彼女の細部を思い出す必要は無いわ。彼女のを思い出すの。彼女はどんな人間だったか?あなたは彼女の何を見て、どんな風に感じたか?彼女の印象は?彼女の声は?あなたは彼女に好意を感じた?それとも、敵意を?」

「僕は―」

「憶えてない事はどうしようもないわ。覚えていることを形にするの。ほら、魔力を注ぎ込んでいくわよ。彼女の事を形にするの―」

「彼女―」

「イメージして」

                 『―次からは目覚ましで起きてね、荻野くん』

 ―カミラが、僕の目元から手を放す。僕は首を振って、呼吸を整えてから、目を開ける。少し、頭がフラフラする。頭蓋の内側を、何かが這い回る様な感触がある。

「うわ…」

 目の前には、紛う事無き、あの日見たあの子が立っている。あの子の形をした、血の像が。綺麗な長い黒髪、夏服の上からカーディガン、結び目がぐちゃぐちゃなリボンのタイ。切れ長の目、悪戯っぽい唇。僕は鈍々と驚き、そしてベンチの上で、精一杯仰け反る。正直、気味の悪い光景だ、と思う。等身大のあの子の像が、僕の目の前に立っている。像の表面は生きている様にどく、どくと波打っていて、時折、街灯に照らされて光る。彼女の表情はあの日見た笑顔のままで固定だ。まるで拍動するマネキンだな、と考える。それか、笑顔のまま生きて固められた、血流人形。どっちにしろ、好ましいもんじゃ―。

「―良い出来だわ」

 傍らでカミラが腕組みをして、あの子の像を見て、満足気に呟く。僕は口の端から出掛かった言葉を、もごもごと飲み込む。

「―おら、クソ兄貴!これでアンタも仕事に行けるでしょ、ほら、この像の面、良く拝んで置きなさい―!」

「む、気味の悪い人形だな」

「はぁ?良い出来でしょ、アンタが昔作った、アザラシの石柱よりマシよ―」

「―血生臭いな。彼女、ホントにこんな臭いがするのか?かなり趣味の悪い女だな…」

「…あのねぇ。血生臭いのは、私が血液に《投写》して造ったからよ。本物からこんな匂いする筈が無いでしょ?こんな匂いの女がいたら、正気を疑うわ…」

「―しかし、この臭いのままなら、見つけやすそうではあるがな。本物はどんな臭いがするのだ?」

「…金木犀の香りだそうよ」

「キンモクセイ?それは一体、どのような―」

「…ピンク色のスーツ着た教師が、それの10倍強い臭いを発しているらしいわ。あとは、実地で調べて頂戴―」

 ―吸血鬼兄妹の会話を尻目に、僕はベンチに横たわっている。身体に力が入らない。吐き気がする。頭の中を、何かが這い回る様な感覚が抜けない。

(―これ…)

 心配する様に鼻を鳴らして、ジョンが僕の手の甲を何度も舐める。僕は弱々しく笑って、ジョンを見る。安心させようと口を開いて、強烈な吐き気が突き上げる様に喉を昇って来て、慌てて口を閉じる。頭の中を這い回る感覚は、最早焼け付くような痛みを帯びている。最初はヤモリ位だったその感覚は、いつの間にか蛇を通り越し、イグアナ並みの大きさに肥大している。

(…もしかして、これって―)

 カミラが振り返って、僕の様子に気付く。僕は彼女に無言で質問をする。彼女は僕の眼を見て、血の像へ目を向けて、何かに思い至った様に目を逸らし、誤魔化す様に笑って、明後日の方を向く。

「―か、かみら、おまへ、これ―」

「あ?あはは、もしかして―頭の中痛かったり、焼ける様な感じ、ある?」

「―これ、もしかして、まりょく―」

「―そう!御明察、それが魔力―魔素よ。私の力に依って入った魔素が、私のコントロールを離れたのね―それが魔素―魔法の力の源なの。一応、人体にも、影響無いとは思うけど―」

「―お、おへへ、き、きぼちわるい―」

「あ―その。ね。あんたが、魔力の入ってる感じ、分からないっていうから―その。私も、あんたの内側が見えなくて、良く分かんないし―その。あんた、抵抗が強くてさ。抵抗に逆らって魔力を流し込むってのは、川の流れに逆らって、逆向きに水を流す様なもんよ。だから、ね―加減が分からなくて、さ。うん、どれだけ入れたらいいか分からなくて―ま、そのお陰で、あれだけ立派な像が造れたんだし?」

「―たすけて、たすけ、えあ、うああ―」

「ごめんね?その…入れ過ぎちゃったみたい。多分、あと30分くらいで戻るとおもうから―」

「―いああ!ええ?おまへ、あとさんじゅぷ、はんじゅっふんて、ううう―」

「―ご免。行くね?じゃ、兄貴、後は宜しく頼んだ」

(あ、こら)

「おお?ああ、当然だ、任せておけ、この私に!さぁ真祖様、大船に乗った積りで―」

 カミュが僕の視界の中から姿を消す。視界の外で羽音がする。無数の蝙蝠が視界の端から噴き上がる。僕はそれを恨みを以って見上げる。目の前で、あの子の血の人形が、飴細工を炙って溶かす時の様に、ドロドロに崩れていく。

(…逃げやがった、畜生)

「真祖様、先ずはどうしましょう。手始めに、軽くお背中を擦って―?」

 ―歩み寄って来るアレックスに、素早く立ち上がり、ジョンが吼える。(『何だ、この獣―』)ジョンの吼え声が雷轟の様に脳内に響く。目の前がチカチカする。胃の中に石が入っている様な感覚がする。上を向いていると、自分の嘔吐物で溺れてしまいそうな気がして、僕はベンチの上で横向きに、胎児の様に蹲る。

 ジョンとアレックスの激しい戦いを前に、僕はベンチの上で、静かに目を閉じる。

 …頭の中を、掘削用ドリルで削られている様な痛みと闘いながら。

(力を抜いて、リラックスして、頭の中をクリアに―…)

(体調が戻ったら、ジョンの粗相の跡を見つけて、家に帰らなきゃ。話に夢中で、ジョンを見てなかった。この暗さで、公園の中に落ちているアレを見つけなきゃならないとは、一体何の罰ゲーム―…)

(ああ畜生、頭が痛え、吐き気がする。こんな状態で、家まで帰らなきゃならないなんて。アレックスが連れ帰ってくれないかな。魔法で僕を浮かして、空でも飛んで―…)

(カミラめ、なんつー置き土産を…)

(―いや、やっぱり、良い。もう暫くは、魔法はこりごりだ―…)




「―おや、おかえり、随分掛かったね。あんまりにも遅いんで、可愛い息子が誘拐でもされちまったのかと思ったよ。もう少しで被害届を出す所だった」

「…そりゃ、申し訳ない、ご心配をおかけしまして」

「次からはもうちょっと早く帰ってきな。家がパトカーに囲まれているのを見て仰天したり、冷えた晩飯を食いたく無かったらね。ジョンは?」

「…もう小屋に繋いで来たよ。晩飯、何?」

「ギョーザ。何だ、またジョンが逃げ出したのかい?」

「そんなとこ。あー、ところで、その餃子って、ニンニク抜き?」

「―?ああ、母さん、明日、知り合いと会う用事があるからね―作ってる最中に、思い出したんだけどさ。だから悪いけど、今日のギョーザは少し物足りないかも―でも、どうしてそんな事を聞くんだい?」

「…え?いや、別に、なんとなく。ほら、明日も学校あるし。女子との会話に気を付けなきゃだし」

「―へぇ?あんたに母さん以外の女の子と会話する機会、あるのかい?」

「煩ぇな、あるよ―その、偶に、極稀に。あのねぇ、母さん、ウチ、一応共学よ?後自分の事を女の子に含めるの止めて。図々しいにも程があるよ」

「ほら、良いからさっさと手を洗ってきな」

「―共学っつったら、半分は女子なのよ―?」

 家。

 母さんのブラックユーモアたっぷりの小言を受け流し、リビングで食事を摂る。餃子、少し硬めに炊いたご飯、簡単な汁物(玉葱の味噌汁―多分、餃子の種に刻んで入れた物の残り)。大皿の餃子を端から吸い込んでいく僕を見て、母さんは何処か、安心したみたいな笑みを浮かべる。

「…良く喰うね。あんたもどうやら、まだまだ成長気らしい」

「そ―うかね?もう身長の伸びは止まったけど。背の順も前から3番目だし」

「大丈夫、もっと伸びるよ、父さんに似て―父さんは背が高かったんだ。お代わり居るかい?」

「母さんに似なきゃだけどね―母さん、身長幾ら?150ある?―あ、お代わり、自分で次ぐよ」

 食事を終え、風呂と歯磨きを終えて、自室への階段を上る。足に気力を感じる。昨日より、一昨日よりも、少しだけ生きた心地がするのは…やっぱり、ほんの少しだけでも先の展望が拓けて見えた所為だろうか、あの吸血鬼達のお陰なんだろうか、と思う。アレックスとカミュの金髪を思い出す。心の中に、感謝の念みたいなものが芽生える…それと同時に、先程カミュに喰らった仕打ちの記憶が蘇る。僕は直ぐ様その念を打ち払う。身体の中から追い出す様に、長々と息を吐き出す。

(あいつは許さん)

(覚えてやがれ、いつか絶対仕返ししてやる―いっそ、餃子の中にニンニクが入ってりゃ良かったのに―そうすりゃ、ニンニクがエンチャントされた、必殺のスメルズ・ブレスで―!)

(…止めとこう。絵面的に、あまりにも最悪だ。完全に、小学生男子の嫌がらせの域じゃないか…?)

(クソ、一瞬想像してしまった…)

 カミュに嬉々として臭い息を吹きかける想像上の自分を頭の中から追い払いながら、僕は自室の扉のノブを捻る。部屋に入り、ベッドに腰を投げ出し、手を伸ばして、出しっ放しの炬燵机の上のノートPCを手を伸ばして立ち上げる。数年前の型落ちのPCを、更に親戚に譲って貰った物なだけあって、寝起きのこいつの動作は最早、ロートルの亀の動向と大差無い。何時まで経っても何も映らないモニタ、カリカリ、ジジジと不穏な音を立て続けるHDD、反応しないマウスカーソル、明滅する電源ボタン。僕はその全てを辛抱強く見つめる。

 …時折目を放し、不意を突く様にPCモニタを振り返る。

 途中でトイレに行く。戻ってきても、未だPCは目を覚まさない。

(…クソじじい)

(思えばこいつも、もう随分年寄りだよな。パソコンの寿命ってどれくらいなんだろう?確か、これを親戚に貰ったのが2年くらい前で、その時に3年くらい型落ちだったから…)

(我が家にゃ年寄りばっかだ。高齢化社会の縮図みたいな家だな)

 ―高らかな起動音と共に、5分以上掛けて、漸くデスクトップの壁紙が写し出される。(こっからも長いんだよな…)インターネットに繋ぐ。もう一度トイレに行く。戻って来て、カーソルが動くのを確認してから、少し考えて、真っ白な検索ボックスに、幾つかの単語を羅列していく。

【神隠し 】

 瞼の下を掻く。強張った指を動かす。

【神隠し 12年前 洲央市 御影高校 千歳学園】

 エンターキーを押す。カリカリと耳障りなノイズがして、直ぐに結果が画面に表示される。検索結果は、約22000件。僕は上から画面をスクロールさせていって、取り敢えず最初に目を惹いた項目を、適当にクリックする事にする。

【日本で実際に起きた神隠し事件一覧】

                                  ―カチ。

【年代別神隠し事件アーカイブ一覧】

【1980年代】

【1990年代】

【2000年代】

【2010年以降…】

                                  ―カチ。

【2005年/3月31日 瀬田幸樹くん行方不明事件/8月20日 橘裕美ちゃん行方不明事件/9月28日 篠原和澄さん行方不明事件…】

                                  ―カチ。

 12年前の項目を上から順にクリックしていく。『瀬戸幸樹』と『橘裕美』はどちらも6歳未満の児童の様に見える。写真の背景も自分の通う高校と特に接点を見付けられず、僕はそのふたりの記事を、本文も読まずに流し去る。3件目、『篠原和澄』で手を止める。記事の冒頭に、写真が貼られている。入学式のだろうか、クラスの集合写真の様だ。写真に写る者は皆、一回り大きな学生服に身を包み、期待と緊張で、一様に顔を紅潮させて微笑んでいる。

(…これ―)

(―ウチの学校だ。学校の、校門前の、坂)

 写真は千歳学園の校門を出て直ぐの所で撮影されている。男子は学ランを、女子はセーラー服を身に纏ってはいるが、間違いなくウチの高校前だ、と思う。写真は一部が引き伸ばされて、拡大されている。写真の中心には一人の女学生が居る。それ以外の周囲の生徒達の目線は、全て黒く塗りつぶされている。それがまた異様で、無暗に記事の特異性を煽り立てている気がする。

(…この子が、『篠原和澄』?)

 写真の中央に立つ少女は、背が高く、すらりとしていて、何ていうか、芯が通っていて、立っているだけで華がある感じがする。髪はとても短く、目元はとても凛々しい。良く言えば、恰好良くて―悪く言えば、まぁ、男性的、だろうか。女性受けしそうな風貌だ、と思う。女子高とかで、派手に後輩女子にモテそうなイメージ。

(ヅカ系―って、いうんかね?)

(なんというか、パリッとして、重心の安定した感じ。スーツとか、良く似合いそう…)

(こんな人が、神隠しか―何だか信じられないな。何も悩みも無さそうだし、大人しく誘拐されそうなタマにも見えないけど。モテそうだし、強そうだし。フェンシングとか嗜んでそう。もしかして、本当に神隠し―?)

(―それが12年を経て、あの学校で再発した―?だったとしたら、誰も犯行現場を目撃した人が居ないのも、2日続けて起こったのも、未だに要求が無いのにも説明が付く―けど)

(切っ掛けが分からない。どうして12年前の出来事が、今更になって―?)

(…本当に神隠しの仕業だったとしたら、僕はどうなる?僕の身の潔白は、誰が証を立ててくれる…?)

(記事に何かヒントは無いか?情報を集めなければ。先ずは知る事だ。概要を知らなければ、どうする事も―)

(それにしても―この女の目、何処かで―?)

【篠原和澄さん行方不明事件】

【篠原和澄さんは2005年の9月28日に、校内でご学友と、『用事があるから』と一旦別れ、校門前での待ち合わせを約束したのを最後に、消息を絶ちました。何時まで経っても姿を現さない篠原さんに、心配になったご学友のA子(仮名)さんが先生に相談、先生と二人で校内を捜索するも見つけられず、篠原さんは帰ったものと結論付けて一旦二人とも帰宅するも、不安を拭えないA子さんが篠原さんの自宅に電話をし、漸く事件として発覚したそうです。

 後日、警官が40人体制で校内を、地元の有志と猟友会が120人体勢で校外周辺を捜索するも、篠原さんの手掛かりは杳として見つかりませんでした】

 …僕は記事を半ばまで呼んで、うんざりする。最後まで読み終えて、溜息を吐く。頭を抱える。

(―これほど中身の無い記事も初めてだな…)

(結局、『良く分かんなかった』って事しか、分からない…)

(…校内で行方不明になったのか?今回の事件との共通項だな―今回の事件の、最初の被害者との。確か、最初の被害者の園部は、校内で居なくなったと刑事さんが言っていた―)

(―あれ、刑事さんだったっけ。違った気がする。あの狐目の刑事と、そんな話をしたっけか―?)

(…ああそうだ、相原だ。相原が、園部が校外に出る姿を、守衛さんが見て居ないと言っていた。園部を、守衛さんが見て居ないと―狐目が言っていたと)

(最初の被害者と―僕だけを、あの日)

(…2人目の被害者は?校外で行方不明になったんだっけ?)

(1人目と2人目の事件は別?1人目は神隠しで、2人目は誘拐―?)

(駄目だ―訳分かんなくなってきた)

 ベッドにどさりと倒れ込む。飽和した笑みが浮かぶ。目を閉じる。考え過ぎで、頭が痛くなる。魔力酔いの続きを起こしている様な気分になる。

(…重要なのは、校内で行方不明になった、って事だ)

(校内―に、僕の知らない、何かがあるのか?)

(『用事』…?それが原因で、彼女は居なくなった?他の子たちはどうだっただろう。他の、行方不明になった子たちは―?)

(A子さん―A子さんのお陰で、事件は発覚した。当時の事を覚えているだろうか。探してみる価値は―?)

 グルグルと考え続ける。グルグルと、幾ら追いかけても形を成さない、思考の泥遊びを。なにかが形を持った様な気がしても、それを突き詰めて考えていくと、それがどういう意味を持っていたのか、途端に分からなくなる。それでも僕は考え続ける。

 ―何も考えて居ないと、その分不安に思うだけだから。

 12年前の事を考える。僕はそのまま眠ってしまう。夢の中に狐目の刑事が出て来る。狐目が僕の体に3つの風穴を開ける。腹部と左手と、そして僕の舌に。穴からはそれぞれ植物の様に行方不明になった彼女達が生えて来る。僕は口を閉じる事も出来ずに、引き攣った舌を伸ばして狐目を見る。

 狐目は3枚の写真を愛おしそうに手の甲で撫でて僕に言う。

『―いやあ、可哀想に。荻野さん、何とも思わないんですか?あなたの所為で、彼女達はこうなったのに』

 ―反論したくても、夢の中で、舌から生えた篠原和澄の所為で、上手く答えられない。僕の引き攣った舌から生えた彼女が、僕の頬を優しく包んで、自分の方へ顔を傾けさせる。僕は彼女の眼を見る。彼女の慈愛に満ちた目を見る。

『―3人とも、あなたと関係がある。その所為で、彼女達は皆、消えてしまったんだ』

 僕は首を振ろうとする。けれど、僕の頬を包む篠原和澄の所為で、僕はそれすらも、自由に行うことが出来ない。

『2人はあなたの元クラスメイトだ。知らない筈無いんですよ荻野さん、2人ともあなたのクラスメイトで―』

 僕は捕えられた鼠のように必死に身動ぎをする。声を上げる。手を伸ばす。

『―篠原和澄は、調

 刑事が手の甲で撫でて居るものが、何時の間にか拳銃の銃身に変わっている。刑事は笑いながら僕の脳天を撃つ。痛みは無い。何かが貫いた様な衝撃だけがある。額から、新しい頭皮が枝状に前方へ伸びていく感覚がある。涙が滲む。

『―あんたが調べた所為で、あんたとんだよ、荻野さん。それもこれも、全部あんたの所為だ。何もかもあんたが悪いのさ。きっとどんどん悪くなる。。何もかもあんたに繋がってる。あんたの所為でまた一人、ヒトが消えるよ。大丈夫、必ずきっとそうなる』

『―』

『全部あんたが悪いんですよ、荻野さん』

『―ひが―』

『人間の中に紛れようとするからさ』




 ―身体を揺さぶられる感覚がある。朦朧としたまま、僕は目を開ける。頭がぼんやりして、上下の区別がハッキリと付かない。暗闇と自分の境目が分からない。

 夢の続きに居る様な気がする。

 どんな夢を見て居たのか良く思い出せない。口の中がカラカラに乾いて、右の頬を涎が濡らしている様な感じがする。僕はモタモタと右腕を上げて、取り敢えず寝巻の袖でそれを拭く。瞬きをする。何度も、瞬きを。

「―起きて」

 声が聞こえる。女性の声が。高くて、若くて、柔らかい囁き声。なんだよ母さん若返っちゃったのかよと、寝起きの回らない頭でそんな事を考える。

「…明日から仕事どうすんの…」

「起きて、オギノ」

「若返っちゃったらさぁ…若返ったら駄目なんじゃないの?職場規約に書いてない?大丈夫…?」

 声の方を向く。声のした方を。

 ―そこに、一対の、赤い瞳が浮かんでいる。

 僕は瞬きを繰り返す。何度も何度も、暗闇に目が慣れるまで。暫くして、赤い目玉を包む様に、金髪と、青白い頬の輪郭が、暗闇に浮かんでいるのを確認する。どうやらそこに居るのは、母さんじゃないかもしれないぞ、と眠り半分の頭が僕に警報を発令する。僕は欠伸と共に、寝呆け眼で彼女にそのままの質問を投げ掛ける。

「お前、母さんじゃ―母さんじゃ―あああ―ふぁ。…母さん…?」

「誰がお母さんよ。たった数時間会わない内に、この顔も忘れたの?だとしたらこの同盟も考えものね、脳の容量がハツカネズミ並みしか無いんじゃ、いずれ私達も足元を掬われるもの」

「顔って、この暗闇じゃ、碌に隣の人の顔も見えないよ。か―ファア―母さんじゃないなら、誰なの?」

「カミラよ。さっさと目を覚ませ、寝ぼすけ」

 僕は目を開けて彼女を見る―成程、言われてみれば、確かにそうかもしれない、と思う。僕はよろよろとベッドから立ち上がり、前傾姿勢で部屋の入口へ向かう。地面が揺れている様な感覚がする。船から降りた直後の時に似ている、と思う。フェリーから波止場に降りた時、こんな風に足元が定まらない時が良くある―胃の辺りがムカついて、地面が僕に迫ってくる様な。そう言えば、眠りに落ちる事を『舟を漕ぐ』とも言う。どうやら、僕は相当乱暴に、船を漕いでいたらしい。

(…気持ち悪い。頭の芯が痺れる。ムカムカする…)

(海の夢なんか見なかった筈だけどな。どんな夢だったっけ。確か、あんまり良い夢じゃ無かった気がする…)

(―今何時?数時間?何時の間に眠っていたんだろう。寝る積りなんて無かったのに。どれくらいの間、眠っていたんだろう?)

 僕は壁を探り当て、そのまま壁伝いに、部屋の入口まで辿り着く。左手で照明のスイッチを探り当てる。そこではた、と気付く。彼女を振り向いて、尋ねる。

「…あの。電気点けて良い?」

「別に良いわよ。どうして?」

「ん。いや、大した意味は無いんだけどさ。ほら、吸血鬼って、眩しいの平気なのかなと思って…」

「…散々太陽の下で会っといて、今更何言ってんの?大丈夫よ、その電灯の光に、太陽光の成分でも含まれて無ければね」

「蛍光灯の明りの成分表は見た事無いなぁ…」

「…ジョークよ。ほら、電気点けて、さっさと目を覚まして頂戴」

 スイッチを入れる。カチリ、と音がする。部屋の中に、目も眩む白が溢れる。僕は彼女の方を向く。足元がふらついて、慌てて壁を背に、体勢を支える。光が眼の奥をチクチクと刺す。目元を擦る。涙が滲む。見ると、彼女も眩しそうに、眼を細めて僕を睨んでいる。

(…ごめんって)

 彼女を見る。部屋の中を、キョロキョロと見渡す。アレックスの姿は無い。どうやら、ここに居るのは彼女一人だけの様だ。彼女の服装は、先程、ジョンの散歩途中で別れた時そのままだ。あの後、警察署に直行して―出て来る刑事から情報を抜き取って、その足で、ここへやって来てくれたらしい。

(…そんなに急がなくても良いのに)

(別に、明るくなってからでも―)

(―ああ、でも、良く良く考えると、それが彼らにとっての『夜』になる訳か)

(…もしかして、今までも眠いの我慢して、来てくれてたのかな…)

 僕は背中をずるずると壁に擦れさせて、床にどん、と尻餅を突く。彼女を見て、申し訳無さを誤魔化す様に微笑む。彼女は依然、僕を睨みつけている。僕は顔面を両手で揉み解して―気不味さを有耶無耶にするように、最初に頭に思い浮かんだ疑問をひとつ、口にする。

「―あれ?でも、そう言えばさ」

「…何?」

「吸血鬼って、他人に招かれないと、家に入れないんじゃ―」

「何言ってんの。一度、招いてくれたでしょう?」

「…え?もしかして、一回招き入れたら、後はもう永久フリーパスなの?」

「そうよ。一度、御招きの言葉を貰うと―その人の家を守る結界に綻びが出来るの。その言葉が、鍵の代わりの様なものね。だから、古式ゆかしい吸血鬼達は、揃って社交界で獲物を見繕い、気に入った者から、あの手この手で招待の言葉を引き出したと聞くわ―まぁ、今はそんな事しなくても食事にあり付けるけどね、有難い事に」

「なんか、ずっこいなぁ…」

「そう言わないで。安定して食料を得る為の、先人の知恵よ」

 彼女は肩を竦める。沈黙が訪れる。僕は直ぐに言葉を繋ぐ事が出来なくて、沈黙に気圧されるように、そのまま黙ってしまう。沈黙の時間がどんどん広がって行く。彼女は酷く不機嫌な表情をしている。僕は口元を拭って、二の句を次げないまま、彼女を見る。

(どうしたんだろう…)

(―やっぱり、僕が電気を点けたからか?結構、かなり、眩しそうだし)

(夜行性の動物に、急な灯りは失明の危険がある、っていうもんな…)

(…どうする、電気消すか?)

「刑事に―」

 僕は顔を上げる。彼女は僕を見ずに言う。不機嫌な顔のまま。

「刑事に―話を聞いて来た」

「うん…うん。それで?」

「4人の刑事に。あんたが言ってた―苅部と加納だっけ?学校に来たって刑事の内、胡麻塩頭の方とはコンタクトが取れた。残念ながら、狐目の方とは会えなかったけど」

「うん。それで?それで…どうだった?」

 彼女はチラリと僕を横目で見て、ゆっくりと牙を剥き出す。眉間にきゅっ、と皺を寄せる。僕は、彼女が―彼女の表情が、彼女の表情の険しさが、もしかしたら、不機嫌に依るものではないのではないか、ということに、遅巻きながら思い至る。

 背筋が震える。

 彼女は躊躇う様に口を開き、何度も息を吸い込んでは、決心が付かない様にその歯を噛み合わせる。彼女と眼が合う。彼女の睨みつける様に細められた目が、苦しそうに歪むのが見える。

 僕は立ち上がる。

 彼女の方へ―覚束無い足取りで―僕は彼女の元へと足を運ぶ。彼女は舌打ちして僕から目を逸らす。僕は口元を覆って、彼女に言う。震える唇を見られない様に。

「話して」

「―4人の刑事に話を聞いて来た。刑事達の話は統合性が取れていた。恐らくはそれが、捜査本部の見解なんだと思うわ」

「それで?」

「刑事達は、あなたが9割の確率で黒だと話していたわ。主犯か、若しくは共犯だと。あなたがフジタニという男の弱みを握って、脅して命令に従わせていたか、又はその逆、フジタニがあなたの弱みを握り、自分の犯行に付き合わせて居たか。どちらにしろあなた達二人は共犯で、この二件の女子生徒の誘拐に関与している可能性が極めて高いと思われている」

「…そんな、何で僕が藤谷と。一体、どうして僕が、どんな理由で―?」

「胡麻塩頭の刑事に依れば、あなたは監視カメラに映らない、学校側も認識していない秘密の抜け道を擁しているか―」

「なんだよそれ―?」

「―それか、ある程度の心得はあるが、極めて精神も腕も未熟なクラッカーだと認識されているわ」

(?)

 僕は固まる。彼女の言葉に戸惑う。思わず、笑ってしまう。彼女は笑ってはいない。大真面目な顔で僕を見て、不機嫌そうに口元をへの字に結んでいる。

(くらっかー?)

(クラッカー、クラッカーってなんだよ?)

(クラッカー?クラッカーって、あの…?)

 僕の脳内に、ビスケットの亜種みたいな焼菓子や、パーティーで賑やかしに使う、紙吹雪を撒き散らす円錐形のグッズが明滅しては、消える。クラッカー?あまりにも馴染が無い単語に、僕は頭を抱える。髪の毛を掻き毟る。頭の中が、真っ白に塗り潰されていく。

「―あなたは当局に、サイバー犯罪者クラッカーだと思われているわ」

「―分かってる!じゃなくて、どういう事だよ―?」

「監視カメラに映らない所為よ」

「何?」

「…監視カメラに映っていないの」

 ―頭を掻き毟る手を止めて、僕は身を起して、彼女を見る。肩を揺らして小さく、力無く笑う。へらへらとした軽薄な笑いが口元に浮かぶ。彼女の言っている事が、冗談にしか思えなくて。

(監視カメラ?)

 …あまりにも突拍子が無くて、荒唐無稽で。

 彼女は笑わない。眉間に皺を寄せて、挑むように僕を正面から睨みつけている。まるで、私は何も悪くないと、開き直る悪戯っ子みたいだ、と思う。

(―監視カメラ?)

(監視カメラに、何だって―?)

 僕は目元を覆う。泣き出したいのに、涙が出て来ない。悲鳴を上げて何もかも壊してしまいたいのに、何故だか力が湧いてこない。全ての事が億劫に思える。一本ずつ、四肢を捥がれていく気分になる。子供が羽虫の足を、無邪気に引き千切っていく様に。

 ―夢の続きに居る様に感じる。

「どうして?」

「え?」

「…どうして、監視カメラに映ってない?どうして、僕はクラッカーだと思われている?どうして、僕と藤谷が―…?」

 …足音がする。僕は目元を覆う手を下ろす。彼女が僕から逃げる様に、窓辺に向かって歩を進めるのが見える。窓の外を見て、両手を背中で組んで、彼女は事務的に話の先を続ける。僕は彼女を見る。彼女がどんな顔をしているのか、僕には分からない。窓硝子には、この世の終わりみたいな顔をした僕だけが映っている。彼女の姿は何処にも映っていない。

「―事件が起こってすぐ、監視カメラの記録を精査したそうよ。監視カメラは2週間分のデータが残っていた。2週間だけ手元に取って置いて、残りは警備会社に送られるそうよ。そこでまた、過去1年分が保管される」

「…」

「初動でその2週間分のデータを受け取って、署で若いのに確認させた、と言っていたわ。それで何も見つけられず、他に有力な証拠も見つかられなければ、警備会社の方にも電話しようと。監視カメラは2つ、データは合計4週間分ね。監視カメラは、何処にあるものか、分かる?」

「…ああ、ふたつとも、校門の所にある。一個は校門の内側、もう一個は校門のすぐ外の坂。二つとも、避けて通れる場所じゃ無い…」

「―その通り。南と東側は高いフェンスに囲まれているし、北側は、土地の分だけ山肌を削って造ったから、殆ど断崖絶壁みたいになっている。北から出るには、指が吸盤みたいに何かに張り付かないと無理だし、東と南からは、フェンスを攀じ登って出ようと思えば出られるかもしれないけど、登っている途中で、必ず誰かに見つかる…」

「…まぁ、あのフェンス、10mくらいあるし。確か、野球部のホームラン対策だったかな。近くの公道走る車にホームランボールがぶつかって、その修繕費用を請求されてから、あれだけフェンス高くなったって…」

「―兎に角、監視カメラの映像を先ず調べさせた、と加納とかいう胡麻塩は言ってたわ。それで、自分達は聞き込みに、他の刑事は、何か目ぼしい痕跡が無いか、校内を調査に。痕跡班の成果は0、聞き込み班の結果はぼちぼち、監視カメラの解析班は―」

「…監視カメラに映っていない人間を見つけた?」

「そうよ」

「園部と、僕?」

「そうよ。あと、後日、もう一人の被害者の方もね。ヨシダとかいう子も、監視カメラに映っていなかった。彼女達は二人とも校内で消息を絶っているわ。そしてあなたも監視カメラに映っていない。あなたは、行方不明にはなってないけれど」

 ―息を吸う。その息の遣り場を何処に持っていけばいいのか分からないまま、僕はその場に立ち尽くして眼を閉じる。吐き出したくなる。逃げ出したくなる。叫び出したくなる。悔しさに、心が壊れてしまいそうになる。このまま鱈腹息を吸いこんだら、体が風船の様に膨らんで、僕を高く高く、何処かに連れ去ってくれたらいいのに、と思う。身体が粉々に砕け散ってくれたらいいのに、と思う。体が粉々に砕け散って、僕という原形を留めないくらいに壊れてくれたら。

 ―それこそ、王の欠片の様に。

「…監視カメラの映像と、守衛の証言も一致したわ。あなたはあの日、校門前を、証言通りの時間には通っていない事になっている。あなたは何らかの手段で校内から守衛室の監視カメラをクラッキング、校外へ連れ出される園部と吉田の姿を削除し、映像を改竄して、校外へ出る藤谷の姿をカメラの記録に載せたと考えられているわ」

「…冗談じゃない」

「本当よ。真実がどうであれ、当局はあなたがカメラの映像を改竄した、若しくは校外への別のルートで実行犯を手引きした、と思っている」

「―そんなの、嘘だ。大体、おかしいじゃないか?普通、映像を改竄して、犯人だと疑われない様にするなら、自分の姿まで消す筈無いじゃないか?どうして僕なんだよ?誰か、別の奴がやったって可能性もあるじゃないか?誰か、別の奴が藤谷と協力して誘拐して、他の奴に疑いが向く様に、手近な僕の姿を、監視カメラから―」

「―その日だけじゃないのよ」

「何?」

 彼女が少しだけ振り返り、僕の方へ目を向ける。手遅れの病床の患者を見る様な眼で。同情する様に、微かに、憐れむ様に。

「…過去2週間分の映像の中で、あなたが映っていた日は僅か3日しか無いわ」

「何…」

「―それが、『精神も腕も未熟だ』と評されている理由よ。あなたは自分の力の誇示のため、自己満足の為、繰り返し守衛室の監視カメラの映像をクラッキングした。その内、誰の眼にも付かないその行為では、欲求を我慢する事が出来なくなって―」

「―出鱈目だ―」

「―より、隠匿の難しい犯罪行為に踏み出した。若しくは、あなたの非日常的な刺激を楽しむ行為が実行犯に見つかり、弱みを握られたあなたは、脅されるままに犯罪に加担した。しかし、ハッキングの腕が未熟なあなたは、自分の姿を監視カメラから定期的に消去するルーチン・プログラムの停止を忘れ―」

「…なんだよ、それ。ただの馬鹿じゃないか?」

「そう当局に思われているのよ。胡麻塩―ええと、苅部だったっけ、加納だったっけ?は、少なくともそう思ってるみたいだったわ。パソコンが出来てネットが出来て、色んな犯罪が複雑化していく中でも、こういうある種の馬鹿は居なくならないもんだな、って。便利な道具を手に入れて、それがまるで自分の体の一部みたいに勘違いして、訳の分からない万能感に酔って、下らない犯罪起こして捕まる自制心の効かない馬鹿―昔はチャカ持った糞餓鬼、今はパソコン持った糞餓鬼」

「もう良い。…僕が、監視カメラに映っていないって?」

「ええ。過去2週間、6月1日、3日、それと10日を除いてね」

「…映ってる日もあるのか?どうして?その日、何があったんだ?」

「そうね、関係あるか分からないけど」

「けど―なんだよ?」

「その日は、ぜんぶ雨の日よ」

 僕は、笑う。顔を歪ませて、笑わずには居られない。虫の鳴き声みたいな微かな音が咽の奥から出る。もう立っている事が出来なくて、僕は床に膝を付いて、咽を押さえて歯を食い縛って、笑う。

 ―見ると、彼女も笑っている。僕の方を向いて、窓辺に腰掛けて。爪の先を弄って、どうしたら良いのか分からないというみたいに、疲れ果てた様に、力無く。

「―僕は―」

「ん?」

「僕は、どうして監視カメラに映らない?いや、そもそも、本当に映ってないのか?」

「そうね―多分、本当に映って無いんだと思うわ。少なくとも、話を聞いた4人の刑事の証言は一致した。映像自体を確認した訳じゃないけれど、吸血鬼が情報を奪いに来るような特殊な事態を想定している風には見えなかったしね。本当だと思って良いと思う」

「どうして映らない?」

「え?」

「どうして映らなかった?どうして、僕は―監視カメラに?」

 彼女は目を伏せる。口を噤んで、手首を擦って、言う。かなり言い難そうに。

「…多分、王の欠片ね」

「―はぁ?お前らが、僕に欠片を入れたのは、15日―いや、もう日を跨いでいたんだから、16日の午前だった筈だぞ?もう誘拐事件は二件とも終わってる、オレはその前の日に事情聴取に―?」

「いいえ、恐らく、その前から、あなたの中に王の欠片はあったの」

 僕は口を開ける―あんぐりと、口を。蛇が獲物を丸呑みにする時のように。下顎が取れて、落っこちてしまいそうな位に。

「…今となっては、推測でしか無いけれど。私達の欠片は、あなたに引き寄せられた。それはつまり、私達の持つ12の欠片よりも大きな塊が、あなたの中に既にあったという事に―」

「―ま―待て。待て待て待て―」

「―見える?私達吸血鬼は、水面や鏡に映らないの」

 彼女は腕を伸ばして、背後の窓硝子を手の甲でこんこん、と叩く。彼女は何でも無い事を話すみたいに言う。彼女の唇が自虐する様に歪む。

「人間に言わせれば、それは私達に魂が無いからだって―王様は違うと思う、って言ってたけどね。私達は霧になれたり、夜に近かかったりする分、光の透過率が高いんだろう、って。視認する分には問題は無いけど、反射を挟むとそれが限りなく0に近付くのかもしれない、って」

「…」

「どっちが本当かは、私には分からない。でも、実際問題として、私達は鏡なんかには映らない。これと同じ事が、あなたにも起こってるんじゃない?」

「…どゆこと?オレは鏡に映るけど―」

 彼女は肩を竦める。頬杖を突いて、呆れた様に僕を見る。

「―だからぁ。鏡に映っても、映像には映らなくなってしまったんじゃ、って事」

 僕は無言で彼女を見る。彼女と、それから蛍光灯の明りを反射する、夜の窓硝子を。硝子には僕の姿が映っている。床の上で膝を突いて、大がかりなドッキリに綺麗に嵌められた芸人みたいな面をして、鼻水を垂らして、僕がそこに映っている。僕はそれを袖口で拭く。涎と鼻水で汚れた袖口を、僕は丁寧に折り畳んで、溜息を吐く。

「つまり、欠片、王の欠片が―知らない間に僕の体質を変えた所為で、今こんな事態に陥ってる、って事?」

「そうだと思うわ―あなたが誘拐犯一味のクラッカーじゃない、と仮定した場合、だけど」

「なぁ、どうやったら、王の欠片って取り出せるんだ?」

「あら、裏切る気?」

「いや、そう言う訳じゃない、そう言う訳じゃないけど―でも、この件が落ち着くまでは、特別に、さ?」

「どっちにしろ、今直ぐは無理ね―あなたと同等か、それ以上に大きな欠片が必要だわ。私達の欠片は全部使ってしまったし。後は、自然に出て来るのを待つしかないんじゃない?」

「…どういうことなんだよ?一体いつから?何時から監視カメラに映って無かったんだ?透過率?守衛のおっちゃんの眼も透過しちゃったのか―?訳分かんねえよ、どうしてオレの中に?どうしてオレが―?」

「…きっと、《核》はあなただったのね。他の欠片も、あなたに引き寄せられて、ここに来たんだわ―」

「―なんでそうなるんだ?オレは王の事何にも知らねえし、他の蝙蝠の欠片だって喰った憶え、ないぞ?そもそも人間は、欠片を吸い込めない筈だったんじゃ―」

「―じゃあ、もしかしたら人間じゃないのかもね、あなた」

 彼女は窓辺に腰掛け、笑って言う。

 ―まるでそうである事を望むかの様に。


                         『偶然、偶然!また偶然―』

                    『

                    『―人間の中に紛れようとするからさ』







「―起きろ、寝ぼすけ」

 ドスの効いた声がする。緩んだ腹部を素早く小突かれる。突然の刺激に呼吸が乱れる。自分の咳で、死にそうになる。

 僕は弾かれた様に身体を半分に折って、ベッドの上で上体を起こす。咳が止まらない。陸上に居るのに溺れそうになる。涎と涙が出る。僕は何とか咳を止めようとベッドに蹲る。

「目が覚めた?いっつもそんくらい、素早く跳び起きて欲しいもんだけどねぇ」

 涙目でベッドサイドを見る。そこには、金髪赤目の女の子―では無く、すっかり達磨の様な体形が板に付いて来た、我が家の女帝が立って、こちらを見下ろしている。既に職場の制服の、落ち着いたグレーのオフィス・スーツと濃紺の事務用ベストに着替え、フライ返しのゴム製の柄を脅す様にこちらに向け、呆れた様な、慰める様な笑顔を浮かべている。

「…これは、『跳び起きた』って言わないよ、母さん。『死に掛けてる』っつうんだ。もう少しで永眠する所だったよ…」

「目ン玉開くならどっちだって構やしないよ。ほら、とっととベッドから立ちな。朝食はとっくに出来てるよ」

「…この起こし方、二度と止めてくれって言わなかったっけ…?」

「ふん、だったらもう少し早く起きるんだね。フライパンガンガンガンガンやっても起きないんだから、この子は。さ、さっさと準備する。今何時か分かってんのかい?母さんもう行くよ?」

「…あれ?行くって、何処に?母さん、今日、人と会う用事、あるって…」

「ハッ、一々人と会うくらいで、ちょくちょく仕事を休んでられるかい。昼休みにでも何とか都合付けるさ。大体あいつも、1週間2週間前なら兎も角、3日前に連絡入れて来るなんて、社会人舐めてんのか、って話だよ。これだから世間ずれした奴は、面倒臭くっていけない―」

「あ―母さん、時間大丈夫?オレもそろそろ、準備しないと…」

「―おっと、いけない。じゃ、母さん行くわ。鍵閉め、忘れないでね。遅刻したら殺すわよ」

「努力するよ…」

 母さんが扉を出て、慌てて走って行く音を聞いている。スマホで時刻を確認する。只今の時刻は、8時ジャスト。成程、確かに大ピンチだ、と未だに微睡む頭でぼんやりと、思う。

(HRは8時40分からで…)

(通学には片道、最速で電車に乗れたとしても、どうやっても20分くらいはかかる…)

(で―僕は今、寝間着姿。着替えて準備して、朝―は、喰ってる時間無いな。ご飯はおにぎりにして、おかずはタッパーにでも詰めて、休み時間に…)

(うん…うん。そうすれば、今からでも十分間に合う。支度を10分で済ませて…)

 ベッドに倒れ込みたい欲求に抗う。夢遊病者みたいな足取りで部屋の中を徘徊する。鞄、制服、靴下、財布と必要なものを拾い集める。着替えながら階下に向かう。

(うう、気持ち悪い…)

(―未だ、魔力酔いみたいな感覚が残ってる。昨日、あの後、またカミラに、僕の記憶から《血の像》を創って貰ったから…)

(小林縣を探して貰う為だ)

(ハンチング帽で、無精髭の、あの胡散臭い男。貰った名刺の会社には居なかった…)

(『そんな人間はウチの部署には居ません』…)

(それが事実だとしても、あの男は確かに居た筈だ。あの胡散臭い風貌をハッキリ覚えている。名刺に書いてあった事が全て嘘だったとしても、それはあの男が存在しなかったという証拠にはならない)

(神隠し―12年前。調べていると言っていた。何を知ってる?)

(情報を集めなければ。全体像は未だ靄の中だ。先ずは知る事だ。知らなければ、何をどうする事も―)

 リビングの扉を開ける。点けっぱなしのTVが、誰も居ない居間に向けて、一人でお喋りを続けている。母さん、またスイッチ切り忘れてんなと、僕は苦笑を浮かべて床に転がるリモコンを拾い上げる。TVに向ける。TVの中で、青いスーツを来たニュースキャスターが、画面の向こうの僕を見透かす様に、微笑を浮かべて次のニュースを読み上げる。

「…では、洲央市の不可解な連続失踪事件の続報です」

 僕は息を呑む。リモコンを握った手を止める。

「―どうやら2名の行方不明になった女子生徒達は、園部美佳さん、吉田優香さんの両名ともに、姿の消える当日の放課後、校外へ繋がる通用門を使用して、学校の敷地外へ出る姿が確認されていない事が、監視カメラの解析の結果、分かりました。事件の舞台となった高校では、この通用門以外からの出入りは困難な事等から、この結果を受けて、捜査局はこの件を、極めて事件性の強いものと断定、近く校内の件分の為に、敷地内に立ち入る予定で―」

 頬に平手打ちでも喰らった様な気分になる。完全に眼が醒める。体の末端から、痺れにも似た震えが上ってくる。訳の分からない閉塞感に吐き気がする。

「―保護者会からは、身近な所で警察が動いているのを見て、子供達が情緒不安定になるのではないかという懸念や、女子生徒達が消えた校舎で授業を行って居ては、又誰かが誘拐されてしまうのではないか、少なくとも経緯が分かるまでは、休校にすべき、という複数の不安の声が―」

 ―TVのスイッチを切る。リモコンを手近なテーブルの上に置く。炊飯器の蓋を開け、火傷しそうな温度の米をラップで包んで握って、小さなおにぎりを二つ作る。

 乾いた涙が出る。涙の上から、僕は笑う。不安に押し潰されない様に。

(…僕は未だ捕まった訳じゃない。きっとなんとかなる。何とか出来る筈―)

(―筈だろ?)


 学校へと向かって歩く。もっと慌てて居ないといけない筈なのに、どうしても足が走り出そうとはしない。僕は自分の爪先を眺めて、のんびりとした足並みに成り行きを任せる事にする。

 時々、思い出した様にスマホの時刻表示と睨めっこする。

(8時30分…)

(―あ、今変わった)

(8時31分…)

 辺りに人影は殆ど無い。こんな時間に登校した事無くて、その事をやたらと新鮮に感じる。いつもは人の波でごった返しているのに。同じ制服の群れに紛れて、噎せ返りそうになる。ここに居る奴らが半分、いや、1/10くらいに減ってくれたら、どんなに歩きやすいだろうとずっと思って来た。その夢が叶った様な気分になる。通学路の上り坂に、人は僕を含めて4人程度しか見当たらない。鬱陶しそうな顔で歩く女子生徒、必死の形相で、ゼイゼイと息を荒げて走る眼鏡男子、欠伸をしながら、犬の散歩をするおじさん。おじさんが連れた小走りで歩く小型犬を見て、僕は微笑む。いっそ、僕もこのまま学校に行かず、その犬の散歩に合流できたらどんなに良いだろう、と思う。飼主の人と、その小さな犬と一緒に、この坂を下りて。もう二度と学校に行かず、部屋から出ず、誰の視線にも笑い声にも、怯える事は無い。

(『やあ、こんにちは。良い天気ですね。可愛いワンちゃんですね。名前は何て言うんですか?』―)

(『へえ、○○ちゃんって言うんですか。良い名前ですね。散歩中ですか?少しご一緒しても?』―)

(…はは。馬鹿か、僕は?)

(8時32分…)

 学校に着く。昇り口の緩やかな坂を抜け、正門を抜け、西校舎の昇降口へと足を向ける。

 守衛室の前を通り抜ける。守衛さんの胡散臭そうな眼差しを振り切る様に、足の速度を速める。

 昇降口に足を踏み入れる。声が聞こえる。遠くで声が。途中で足を止める。そちらへ目を向ける。

(―?)

 西校舎の北側の外周沿いに、複数の警官が居る。僕は呼吸を止める。動揺が、鈍器の様な衝撃を僕に与える。肺の中の空気を全部搾り取って、押し出してしまう。僕は茫然として彼らを見る。制服を着た警官が2名、濃紺のスーツの男が一人、背広を小脇に抱えた男が一人。後は―青地に、肩の辺りに、黄色いラインの入った―ドラマで見た事のある、鑑識課の制服を来た者達が、2名。

(ケ―ケイカンだ)

(僕を捉まえに来た)

(違う!僕はまだ大丈夫だ、証拠も無い、きっとなんとかなる、何とか出来る筈―)

(…TVで言っていた。極めて事件性が強い。近く校内の件分―)

 2F校舎の窓硝子が開いて、中から野次馬根性丸出しの女子生徒が数人、顔を出す。背広の男が鬱陶しそうに、片手で彼女達を追い払う。制服警官達は居心地悪そうに彼女達を見ている。濃紺のスーツの男は愛想良くにこにこと微笑んで、顔を出す女子生徒達に、小さく手を振ったりしている。鑑識課の男達は顔を上げもしない。地面の何かを黙々と調べている。

「―おら、さっさと消えろ、糞餓鬼共―」

「は?クソガキ?あんた何様のつもり―?」

「えー、ちょっとぐらい良いじゃん、おじさん」

「わー、ホンモノのケイカンだよ。凄いねー、こんな近くで、初めて見た」

「―誰がおじさんだ、俺ァこう見えても32だ。おじさん呼ばわりするのは―」

「―立派なおじさんじゃん。何がこう見えても、よ。どう見ても見た目通り。こっからでも加齢臭がするわ」

「―ちょっと、アヤカ―」

「ねーねー、一体、何を調べてんの?」

「ああ、これはね、部外者の外部からの侵入の痕跡を―」

「―おう、こら!おいお前、なに捜査機密を、一般の餓鬼に―」

「ああ、待って、痛い、痛いな、黒部さん―」

「―弛んでんじゃねえのか?こいつ等餓鬼とは言え、一応容疑者候補に変わりは無ぇんだぞ―?」

「―いいでしょ?どうせ、何も見つかりゃしませんて。ニュース以上の事は言いませんよ、捜査本部でも結論は出てるんでしょう?本命は、大筋の予想通りで確定―」

「―そこが弛んでるっつうんだよ、馬鹿が。クソ、こんな奴の御守りとは。苅部も詰まんねぇ仕事押しつけやがって―」

「―あら、詰まんないとは心外だな。苅部先輩も信頼して、僕を黒部さんに預けたんですよ―?」

「…ちょっと待て。何で苅部には先輩付けて、俺は敬称略なんだよ?」

「え?それは―」

 ―僕は彼らから視線を無理矢理引き剥がし、懸命に息を吸って、昇降口の中へ向かう。ロッカーの間を通り抜けて、自分の下駄箱がある場所へと行く。ロッカー上部の出席番号と名前を確認して、下駄箱の蓋を開ける。

(…う)

 鼻を覆う。目元を擦る。顔を覆う。

 ロッカーの中には飲みかけのカフェオレのペットボトルが突っ込まれている。酷い悪臭が溢れる。ペットボトルはご丁寧に中身が上履きの内側に零れる様に斜めに立て掛けられて置かれている。左側の上履きの中には小さなカフェオレの湖が出来ている。履き潰された踵側から中身が溢れてロッカー内に液体が零れている。

(―始まった)

(僕は大丈夫―)

(…大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。きっとなんとかなる、だって僕は何もしていない、きっと大丈夫、だって僕は何もしていないんだから、真相はいずれ分かる、きっと誰かが、なんとかして―…)

 僕は顔を覆ったままそこに立ち尽くしている。立ち直る気力を振り絞ろうと、懸命に心の底を浚う。暫し時間を忘れる。予鈴の音にも微動だにせずに、僕はそこに案山子の様に立ち尽くしている。

「―どうしたんだい、君?」

 突然、声を掛けられる。振り返って、驚く。自分の肩が、跳ねるのが分かる。

 そこには2名の制服を着た警察官が立っている。

 思わず悲鳴を上げそうになる。僕はロッカーに背中をペッタリと引っ付ける。二人の警官はとても親切そうな表情を浮かべている。一様に安心させるように微笑み、心配そうな顔をして、二人は腰に付けた無線を撫でながら僕に近付いて来る。

「―困り事かい?何か力になれるようなら、僕らにでも―?」

 彼らの内の一人が、僕のロッカーの中を見て顔を顰める。「おや、これは酷い」ロッカーの中へゆっくりと手を伸ばす。彼らのもう片方が、僕を見て眉を上げる。

「あれ、君は、確か―?」

 僕はロッカーの蓋を乱暴に閉める。慌てて居たので、警官の指を挟んでしまいそうになる。吃驚した顔をして、ロッカーの傍に居た方の警官が指を引っ込める。僕は靴を履いたまま、彼らから逃げ出す様に廊下を走る。

 …途中、一度だけ、後ろを振り返る。二人の警官が無線を持ち上げているのが目に入る。如何すればいいのか全く分からない。笑っていいのか、怒れば良いのか、泣けば良いのかすらも。

 僕は外靴のまま廊下を歩く。階段の傍まで来て、確か守衛室の近くに来賓用のスリッパが段ボールの中に纏めて置いてあった筈だ、と思い出す。それを履いて、靴を鞄の中に押し込んで、取り敢えず教室へ向かおう、と考える。間延びしたチャイムの音が聞こえる。その音に追い立てられるみたいに、一斉に教室へ駆け込む足音が、廊下の中で木霊の様に反響する。

 ポケットからスマホを取り出す。時刻表示を見る。

(…8時41分…)

 僕は力無く笑う。踵を返して、守衛室の方へ向かう。


 目の前で柏木が欠伸をする。本日何度目か分からない、片手に収まりきらないくらいの、大欠伸。

「…今日、なんか寝むそうね」

「まぁね、昨日、夜更かししたから―」

「へぇ、そりゃどうして?」

「いや、俺も一刻も早く寝ようとは思ってたんだよ?でもCS点けたら『エイリアン』やってたから。しかもシリーズ一挙放送。そりゃあ見ちゃうでしょ?」

「…知らんけど。録画しとけば良かったんじゃないの?」

「オギやん。分ーかってないなぁ。今やってるんだから、せっかくだから、それを“今”見たいじゃない?今、その時を、楽しみたいじゃない?録画なんてしたら、絶対見返さないの、自分でも分かってるから。ほら、そこにあるだけで満足しちゃうでしょ?」

「…分かった様な、分からんような。で、どうだったの?オレ、エイリアンって見た事ねーなぁ…」

「そりゃもう、サイッコーだったね。特に『2』のラスト、州知事が親指を立てて溶鉱炉に沈んでいくシーンが…」

「それ違う映画じゃない?」

 昼休み。

 教室。僕は自分の席に着いて、昼食と、朝食の残りを頬張る。あんまり食欲が湧かなくて、それ程食べ進める事が出来なかった。タッパーの中身には、未だ今朝のスクランブル・エッグとソーセージ二切れが残っている。僕はタッパーの隅を箸で突いて、柏木に残りを進める。柏木がソーセージを摘まんで口に放り込む。

「ウマい。流石、オギやんのお袋さんは、料理上手だね」

「冷凍食品だよ」

「…ウマい!流石、オギやんのお袋さんの選ぶ冷凍食品会社は、料理上手だよね」

「言い直さなくて良いから。途中から、訳分かんなくなってるし。なんだよ、料理上手な冷凍食品会社って?」

「…『家庭の味を、瞬間冷凍しました』?」

「キャッチコピー考えなくても良いから」

 ―朝、HRが終わってから、教室に入って。先生の小言を首を垂れて受け流して、僕は自分の席の椅子と、ロッカーの中を、丹念に調べる。取り敢えずは何も無くなっては居ないし、何かを仕掛けられた様子も無い。机の上に落書きされていたり、花瓶を置かれていたりといった定番の嫌がらせも無い。今の所は、どうやら被害は下駄箱だけの様だ、と思う。それを喜べばいいのか、安堵すれば良いのか、何かの兆候と見るべきか、それとも怒れば良いのか、僕には分からない。

(…あれ掃除するの大変だぞ…?)

(犯人は何処のどいつだ?必ず見つけ出して―)

(…あの上履きはどうする?買い替えるのか?上履きは確か―一足揃えて14000円、片方だけでも、あんまり覚えてないけど、7000円くらいはしたと思う。気楽に変える様な値段じゃ無い)

(…酷い悪臭。どうして乳製品なんだよ?せめてあのペットボトルの中身がお茶だったなら、洗うのにもそれ程手間がかからずに―?)

(―この先、おんなじ事が起こる度に、上履きを買い替えて、って母さんに頼むのか?)

(…私立に通ってるだけでも大変なのに)

 ―そういえばその時も、柏木は酷く眠そうにしていたなぁとぼんやりと思い出す。HR終わりの教室で、後方の窓際で、欠伸をしながら、気だるそうに手を振って。珍しく早く教室に来ていた。そう言えば昨日もだ。いつもは気が向いた時以外、2限目まで自主休憩する癖に。HR前に学校に来るなんて、一週間に2日あれば良い方だった筈だ。そろそろ槍でも振るんじゃないか、と思う。もしかして、結構出席日数が危うくなって来たんだろうか。

(…それとも、先生に直接、何か言われた?)

(いや、そういうの、大人しく聞くタイプにも見えないしなぁ…)

(待てよ、そういえば、柏木が言ってた、例の映画―)

(シリーズ一挙放送とか言ってたな。詳しくは知らないけど、あれ、もう5、6本くらい公開されてるんじゃないか?)

(…シリーズ一気見って、個人的にはあんまり好きじゃないけどな。同じ作風ばかりで飽きるというか、違う風を入れたくなるというか。かといって、監督が変わるのも嫌なんだけど―)

(―映画一本90分程として、6本で540分。という事は、大雑把に計算すると、大体9時間くらい―)

(…徹夜じゃないよな?)

 スマホが着信を告げる振動をする。僕は箸を置いて、ポケットからスマホを取り出す。画面をタップする。短いメッセージがそこに表示される。

 ―相原だ。

 僕は思わずスマホを取り落とす。その音に、周囲が一斉に僕の方を振り返る音がする。僕は取り繕う様な笑顔を浮かべて、教室の床に落ちたスマホをのっそりとした動作で拾い上げる。恥ずかしさに、顔から火が出そうになる。情けなさに涙が出そうになる。

(言えない…)

(女子の名前に吃驚しただなんて。全く、僕って奴は…)

(連絡先、昨日交換したばっかだろ…?)

 目の前で、眠っている所を引っ叩かれた様な顔で、柏木が僕の方を見つめている。

「お…オギやん。どうしたの。大丈夫―?」

「だ―大丈夫。何でもない。ホントに何でも―」

 ―スマホを見る。そこには、ごく短いメッセージだけが表示されている。

                                【見つけた】

                               【今、体育館】

                             【約束、守れよ?】

 僕は席を立つ。スマホをポケットに仕舞う。教室前方の、黒板の上に掛かっている時計を確認する。

(13時20分)

(…昼休みの終わりまで、未だ15分はある)

(大丈夫、今から走って行って、直ぐ戻ってくれば。少し話すだけ―)

「お―オギ―?」

「…ご免、柏木。オレ、行くよ。用事が出来た」

「は?よ―用事って、今から?昼飯どうすんの?それに、もう授業も―?」

「これ、良かったら残り喰っといて」

「え!?いや、俺ももう結構、お腹一杯―」

 僕は教室を出ていく。極力、爪先に力を入れて歩く。スリッパが間抜けな音を立てないように。どうして自分がそれを履いているのか、その理由を、あまり思い出さなくて済む様に。

「おおい、オギやん―!?」

(あの子がいる)

(体育館に、あの子が。会って、証言を貰う。残り15分。価値のある証言を引き出せるだろうか?少なくとも、彼女の証言で僕が有利になるには、幾つかのポイントをクリアしなければならない。犯行の時間が明らかになる事と、僕があまり日直業務に対して乗り気でなかった事を、彼女が証言してくれる事。それと、犯行時間が、僕と彼女の面会時間に近ければ尚、良い。僕が消極的に日直業務をこなす時間が、その業務を終える為に必要なコストとしての拘束時間が、それを先生に提出するまでの時間が―)

(―僕のアリバイを証明してくれるかもしれない―かも。我ながら、随分薄い線だ…)

(金木犀の香り…)

(まるで蜘蛛の糸だな。正に、これこそが。薄くて細くて、頼りなくて、今にも切れそうで―)

(―でも、僕にはもう頼る線がこれしかない。途中で千切れるかは、日頃の行いと、後は運次第…)

(ああ、神様、仏様―ジョン、父さん母さん、それに、吸血鬼様々―)

(―僕を救ってくれ。何だって良い、この先も僕たち家族に平穏を与えてくれるなら、何だって)


 体育館は、学校の敷地内の、一番東側にある。

 逆凹型の校舎の、東棟の、更に向こう側に、巨大な蒲鉾みたいなデザインの体育館が横たわっている。その北っ側にはプールがある。基本、授業か部活動くらいでしかこちらに来たりしないので、僕がこの方面に来る事は、始業式や終業式以外、殆ど無いと言っても良い。

(…最近の体育は、専らサッカーかマラソンばっかだしな…)

(雨の日は、偶にこっち来るけれど…)

(…そういや、もう直ぐ水泳の授業、始まるかもな。水着、何処に仕舞ったっけ…)

 体育館に行く方法は、二通りある。渡り廊下を辿って、校舎の中を東棟の一階まで巡って行く方法と、昇降口で靴を履き換え、逆凹の内側のグラウンドを突っ切って、東棟一階まで行く方法だ。西校舎からなら校庭を突っ切って行く方が早いが、今は出来るだけ、誰の目にも触れずに居たい。誰かの好奇の目に曝されるのが怖い、と思う。だから、スリッパをパタパタ鳴らしながら、出来る限り短い脚を懸命に動かして、西校舎二階から、人通りの少ない、多目的教室の並ぶ中央棟の3Fへ移動し、そこからまた、東棟の一階へと降りる。面倒臭いけど、仕方ない。

 ―心の平穏を保つためには、仕方ない。

(…クソ、移動だけで、3分くらいはロスしたな…)

(相原は―)

 ―体育館側面の西側に、校舎側からの視線を切る様に、一本の大きな木が植わっている。幹は真直ぐに縦に伸び、大体地上1mの辺りから奔放に、細身の枝が幾つも複数分岐して生え、縦に、横に、その版図をドーム状に目一杯に広げている。

(いつ見ても大きな木だ…)

(―立派なもんだな。これで樹齢何歳くらいなんだろう。横に突き出た枝振りが、何度見ても鬱陶しい)

(…確か、校内の、有名な告白スポットなんだっけ?)

(“この木の下で告白すれば、必ず成功する”…まぁ、何処の学校にも似た様なのはあるけどさ、でも、この木の下は無ぇよなぁ。考えた奴、馬鹿だろ…)

(…枝の生え際が、1mくらいだぞ?先ず、木の下に入れねぇよ。幼稚園児か、ホビットでも無い限り…)

 木の根元から50cm程の所に、剪定忘れの様な小さな枝があって、そこに一枚の札が引っ掛けてある。そこにはこう書かれている。

【学名:Osmanthus fragrans var.aurantiacus モクセイ科モクセイ属 キンモクセイ】

 ―木の傍らに、相原が立っている。枝の葉を気紛れに毟り、右足の踵を苛々と踏み鳴らし、スマホを親の敵の様に睨みつけている。

(…うわ)

(あんま、話しかけたくないなぁ…)

 パタパタという僕の足音で、相原が顔を上げる。露骨に不機嫌そうな表情を隠そうともしない。スマホをポケットに落とし込み、腰に手を当てて、舌打ちする。

「遅い」

「…無茶言うなよ。これでも昼飯返上で、急いで来たんだぞ?」

「せめて返信くらいしなさいよ?」

「それは―」

(…忘れてた)

「―それは、その、悪かった、けどさ」

「言い訳しないで。全く、これだからコミュ症は」

「…うう。ああもう、ご免、悪かったよ、それに関しては完全に弊社の落ち度だ。なぁ、でも今はもう良いだろ?悪いけど時間が無いんだ。休み時間的にも、オレ的にもさ。あの子は何処に居る?」

「…」

「約束は必ず守るよ。約束する―ややこしいな。兎に角、約束は守る。あの子は?」

 相原は、仕様が無いなぁというように溜息を吐いて、自分の後ろ、体育館の方に顎をしゃくる。

「あ―体育館?の、裏?」

「中よ」

「どうして、そんな所に―いや、そもそも、今って鍵、開いてんの?」

「開いてるみたいよ、さっき確かめてみたけど。多分、4限終わりでセンセーが締め忘れたか、5限からまた使うから、開けっ放しにしてるんじゃないの?」

「ううん、澤が、そんなズボラするかなぁ―一体、中で何してるんだ?」

「知らないわよ。無人の、広い空間が好きなんじゃない?ほら、深夜の人気の無い街を歩いていると、街が丸ごと自分のものになった様な気がするじゃない?そういう支配的な感覚が好物な、メンタル面がアレな子なのかも」

「…ええ?お前がそれを―」

「―何よ。私の方がイカれてるって言うの?」

「…そうは言ってないけどさ。結構真面目そうな子だったし。そんな危なそうには見えなかったけど…」

「はン。あたしに言わせりゃ、外面取り繕ってる奴ほど、頭の中に何飼ってるか分かりゃしないね。そういう奴こそ、とんでもない事を仕出かすもんなんだよ。決まってる。あたしには、分かる」

「…どうしたんだ。お前、昔、何かあったのか?」

「?別に何も。でも、ニュースに出て来るのって、そういう奴ばっかじゃない?」

「…そりゃ、そういう奴の方が悪目立ちするからだろ…?」

 首を振って、体育館の方へ、僕は歩き出す。長く張り出した木の枝の、青々とした葉を大きく迂回する。

 …後ろから、何故か相原も付いて来る。

「―なんだよ?」

「何よ?」

「…何で着いて来るんだ?」

「いや、どうするのかなー、って思ってね。やっぱ気になるじゃない?それに、あたしが見つけて―まぁ見つけてくれたのは友達だけど―あたしが呼んだ訳だし。万が一があったら困るでしょ?」

「…何だよそれ?興味本位は止めてくれよ。オレにとっては、笑い事じゃないんだ」

「何それ。あたし、そんなつもりじゃ―」

「それに―何だよ、万が一って?」

「え?そりゃ、荻野が、証言を強要して、断られた挙句―」

「…」

「―激昂して揉み合い―彼女にボコボコにされるとか?」

「…何でオレがボコボコにされる方なんだよ?」

「荻野くらいなら、あたしでも簡単にやれそうだからさ」

「そんな事ないでしょ。一応男子ですよ?流石に女子には負けないだろう―と思う…と、信じたい」

「自信無いんじゃん」

「…煩いな。ああもう、時間が勿体無い。着いて来るんなら、もう勝手にしてくれ…」

「そうさせて貰うわ。安心して、万が一が起きたら守ってあげるからさ」

「…ありがとよ。そりゃ嬉しくって頼もしくって、涙が出てくるよ…」

「ところで荻野、何で今日スリッパ履いてるの?」

「…お前がそれを聞くのか?察しろ。これはある意味、お前の所為でもあるんだぞ?」

「何でもかんでも女子の所為にしないで。そんなんだからモテないんだよ、荻野は」

「それ今関係無くない…?」


「おじゃましまーす…」

 体育館の扉を開ける重苦しい音が、静かな屋内に必要以上に響く。僕はその音に、何度も吃驚して手を止めながら、少しずつ扉を押し開いていく。スリッパのまま館内に上がろうとして、少しの間考えて、僕は入り口にスリッパを揃えて脱いで、体育館の中へ、足を踏み入れる。

 相原は躊躇する様子も無く、上履きのまま館内へ踏み入る。

(…こいつは…)

「―何よ?」

「何でも無いです…なぁ、ホントにこの中に居るのか?」

「そう言ったでしょ?」

「それにしては、何の音もしないけど…」

「何?あたしの言う事が信じられないの?だったらそう言えよ」

「―や、そういうんじゃないんだけどさぁ…」

 体育館の中は外界から切り離された様に静かだ。僕はその中を、ツルツルと滑る床に苦労しながら、意味も無く忍び足でそろそろと進む。館内の、土間の部分と、板張りの部分の間を仕切る鉄製の内戸は、目一杯に解放されている。電気の点いていない屋内に、暗がりに潜む様に、細身の人影が一人分、見える。

 ―バスケットボールの弾む音が聞こえる。

 相原が唐突に肘で僕の脇腹を突く。つるつると滑る床の上で、僕は極短い距離をスリップする。言葉にならない悪態を吐きながら、必死で腕を振り回して踏ん張り、バランスを保つ。我慢していた分、悲鳴の様な吐息が口から漏れる。

「ね?やっぱ居たじゃん」

「…」

「さ、『疑って悪かった』って言って?『疑ってごめんなさい、相原サマ』って」

「…ああ、クソ、だからって、脇を突くな、脇を。こちとら靴下なんだよ。足元が不自由なんだって…」

「早く。ほら、はーやーくー」

「―分かったよ、ああ、悪かった。確かに今回はお前の言う通りだよ、ありがとう、相原」

「へへ」

「疑って悪かった。感謝してる」

「…なんかあんたがそこまで素直だと気持ち悪いな」

「―ええ?お前が言えっつったのに―」

「鳥肌立って来ちゃった。アレルギーになりそう、感謝アレルギーに。なったら、あんたの所為だからね」

「…理不尽過ぎない?」

「慰謝料取るから」

 ―一定のリズムで聞こえていた、バスケットボールの跳ねる音が止まる。人影がこちらの方を向いた様な気配がする。僕は生まれたての小鹿の様な足取りで、ツルツルと滑る館内を苦労して進む。体育館のコートの中で、バスケットボールを突いていた人影に近寄る。電気が無くても、顔が見れる距離まで歩み寄る。

(…あ)

(あの子だ)

 彼女まで後、二、三歩という位置で立ち止まる。彼女はあの日と何も変わりない様な顔をして微笑んでいる。綺麗な長い黒髪、切れ長の目、悪戯っぽい唇。このクソ暑い時期に、相変わらず夏服の上から、カーディガンを羽織っている。なのに、汗一つ掻いていない。

 今日の彼女はリボンをしていない様だ。結ぶのを諦めてしまったのだろうか。

 目の端でぼんやりと薄い光源が点る。目を細めてそちらを見ると、相原がこちらに興味を無くしたかのように、手の中のスマホを俯いて覗き込んでいる。

(…分かってたよ、お前はそういう奴だ)

(なーにが、万が一が起きたら、守ってあげる、だよ?)

(ま、ここまで連れて来てくれたんだ、十分、感謝しないと。後は、僕が何とかするべき問題だ。なんとかすべき…)

(何とか―出来れば、良いけど)

 彼女は手の中のバスケットボールを持て余すかのようにくるくると回している。僕は出来るだけ、感じの良い―(と、自分では思っている、そう見える様に願っている)愛想笑いを浮かべて、彼女に話しかける。第一声が中々決まらずに、悩む。結局、出たとこ勝負だと自棄糞気味に、頭の先に思い付いた言葉を口にする。

「あー、はい、あの…久しぶり」

「…」

「憶えてる?オレだよオレ、荻野―この前会ったばっかりの」

「…この前会ったばっかりなのに、『久しぶり』?変わってるわね」

「そりゃ、あれだよ―何て言うか、アヤだ―言葉の綾。まぁ、あれからオレも、色々あったからさ―たった数日程度が、夏休みにも思えるくらいの、色んな出来事がさ」

「へぇ?一体、何があったの?」

「実は、その事で君に頼みがあるんだ―こうして君に会いに来たのも、それに関係する事なんだ。君に助けて欲しいんだよ」

「私が?キミを?」

「そう。だからと言って、ああ―君に無理を頼む訳じゃない。君にやって欲しいのは、至極単純な事だ。君に証言をして欲しいんだよ。警察に、あの日あった事を、手短に、簡潔に―無人の教室で会って、話をして、真っ白な日誌を見て。それが何時くらいの事だったか、僕がその後、直ぐに教室を動く素振りがあったかどうか。それだけで良い。それだけを警察に話してくれれば―僕の容疑は、簡単に晴れるかもしれない、もしかしたら」

「…容疑?一体、何の?」

 僕は言葉に詰まる。声にするのを躊躇う。一度言葉にしてしまえば、それが本当になってしまう様な気がして―けれども僕は、結局その意志に反して、それを無理矢理喉の奥から押し出す。今一番大事なのは、彼女の信頼と、同意を得る事だ。その為に僕に出来る事は、出来るだけ誠実に振る舞う以外にない。それしか手段を知らないから。僕の意志は、今は呑み込んで置くしかない。

(浮いた言葉でも操れるなら、話は別だけど―)

(それをするには、僕には色んなものが足りない。容姿と、経験と、自信と―ああ、あと、身長も)

(―ああ、こんな瞬間が来ると分かっていたなら、そういう啓発本でも読んでおくんだった―駅前の本屋にお試しの小冊子があったな…『女性を簡単に口説き落とす How to テクニック~ブサイクなあの人がモテる11の理由とは~』…)

(…今の僕に出来るのは、真摯な姿勢を見せる事だけだ。彼女に、僕の真剣さ、必死さが伝わる様に)

「………………誘拐の」

 僕はぽろりと零す様に言う。絞り出す様に、小さな声で。誰かに言い訳する様に。

 ―彼女がバスケットボールを落とす音がする。

 僕は慌てて顔を上げる。彼女を見る。彼女は相変わらず柔らかく微笑んでいる。怯えた顔や、こちらを非難する様な目付きをしてる訳じゃない。その事に、僕は少なからずホッとする。彼女が落としたバスケットボールが、ころころと僕の足元まで転がって来る。僕はそれを反射的に足で留める。

「あの、これ―」

「荻野ォー、もう話、終わった?そろそろ次の授業始まるよ、もうあたし、退屈で退屈で―」

「ああ、いや、ちょっと待って、まだ返事を―?」

 彼女が僕の傍へ歩み寄って来る。僕はぎこちない笑みを浮かべて、屈んでボールを拾い上げ、それを彼女に差し出す。彼女はそれを受け取ろうとはしない。

 僕は戸惑いながら―強張った笑みを浮かべたまま、ボールを引っ込めて、臍の辺りに抱える。

「あ―このボール、もう使わない?だったら、こっちで片付けて置くけど―」

 彼女は微笑んでいる。僕は誤魔化す様に笑顔を取り繕って―彼女の真意が分からずに、惑う。

 彼女が手を伸ばす。僕の方に、両方の手の平を。僕は安堵の溜息を吐いて、彼女の手の中にボールを受け渡そうとする。

 ―彼女が歯を見せて笑う。

「ねぇ、荻野、返事しろよ、荻野さぁ―」

(?)

 僕は瞬きをする。

(彼女―)

(…八重歯だ)

 彼女が両方の掌を僕の方へ伸ばす。滴る雨水を受け止めようとするみたいに、両の掌を上へ向けて。彼女は笑っている。下っ腹の辺りから、ぞわぞわと蟲の様に、嫌な予感が這い上がって来る。ここから離れた方が良い、と誰かが頭の中で囁いているのに、嫌な予感に絡め取られて上手く動けない。事故の直前を思い描く。トラックに轢かれる瞬間、迫りくる車両を前に、結構距離が離れていても、棒立ちになってしまう人の映像を時々TVなんかで見る。今の僕の姿、何だかそれに良く似ている、と頭の片隅で、醒めた自分が他人事の様にそう考えているのを自覚する。

「…荻野?」

(八重歯だ)

(―彼女、八重歯だ)

(…前から八重歯だったか?)

(そりゃそうだろ、一朝一夕で変わるもんじゃなし、前に会った時は気付かなかっただけさ―)

 彼女は笑っている。彼女の口角の隅から小さな尖った歯が可愛らしく覗いている。僕は指先が震えるのを感じる、頬が引き攣るのを感じる、背筋が氷柱を差し込まれたかのように冷たくなって、背中に嫌な汗が滲んでいくのを感じる。馬鹿のひとつ覚えみたいに、彼女は八重歯だっただろうかとグルグルと考え続ける。彼女は八重歯だったろうか。彼女は前から八重歯だったか?彼女は八重歯じゃなかったんじゃないか?彼女は―。

(違う。問題は―)

(尖った歯。鋭い歯。犬歯)

(―問題は、そこじゃない。八重歯なんて、珍しいもんじゃない)

(…八重歯の人口分布について、詳しい訳じゃないけど)

(八重歯を見た)

(最近、八重歯を見た―)

(―カミラとアレックス以外に)

(…吸血鬼以外の、八重歯を見た。八重歯を見た、場所だ。それが問題なんだ)

 彼女は手を伸ばす。彼女の掌がボールの位置を通り過ぎる。

(写真だ)

(写真で見た)

(そうだ、写真で見たんだった―)

(写真を見た―写真を見せられたんだ、警察に)

                              『―集合写真だ。といっても、別にクラスの集合写真みたいな大仰なものじゃない。仲の良い友人達と連れ立って、多分避暑地にでも出かけた時のものだろう。透明に澄んだ小川の傍らで、6人の女子たちがじゃれ合いながらカメラに向かってピースサインを構えている。その女子達の内の一人、写真の一番右端の子に、赤いマジックペンで、大きく丸印が付けられている。恐らくこの子が行方不明になった子なのだろう、と思う。赤い丸印の内側で彼女は、ポニーテールの髪留めを左手で弄りながら、右手で胸元に力無いピースサインを構え、顔を真っ赤にして、皆の方を向いて笑っている。きっと、撮影の瞬間、誰かが皆を笑わせる様な事を口にしたのだろう。笑い声までもが聞こえる様だ、と思う。赤い円の内側で彼女は、大きく口を開け、目の端に涙を浮かべて笑っている。大きく開いた口の端に、白く尖った八重歯が見える』

(吉田優香だ)

(二人目の被害者の―…)

(八重歯だった)

 僕は宙に差し出したボールを手放して素早く振り返る。相原に警告を発しようとする。それよりも早く、彼女の掌が僕の首を撫でる。途端に巨大なハンマーで喉元を押し潰される様な感覚がして、息が出来なくなる。溺れて、犬掻きをする様に、僕は両手で宙を掻く。左手で首の辺りに爪を立てようとする。僕の首のある筈の場所には、何も無い。肉も、骨も、血も、感覚さえも。

 僕の首の左から半分の感覚は、虫に食われた様に穴が開いて、ぽっかりと欠落している。やがて右に僅かに残った首の肉だけじゃ頭蓋の重さを支え切れず、しんなりと曲がって前方に折れてしまう。ピカピカに磨かれた体育館の床に、チョウチンアンコウの頭から垂れ下がる灯りの様に、胴の前側に力無く頭部を垂らす僕の姿がモザイクアートの様にぼんやりと映る。

「―荻野?おい、荻―」

「荻野くん、あなた良い香りね。とても良い香り」

 彼女の声がする。遠くから彼女の声が。彼女の声はチャンネルが上手く合わないラジオの様に二重に重なって聞こえて来る。僕は胴体を上手く操る事が出来ずに前傾に転倒する。頭部を強かに打つ。次に膝、そして手の平。呼吸が出来ない。倒れて来た体に、頭部が上から押し潰される。必死に跪く足が体育館の床を滑るきゅっきゅという場違いな音が聞こえる。

「―でも、残念。私の中に、もう男は要らないの」

「荻野!おいアンタ、一体荻野に、何を―」

(逃げろ、相原)

「―私の中に居て良いのは、女の子だけ。私の中を素敵な女の子で埋め尽くせば、きっとみんな、私を見てくれる筈」

「―荻野!荻野?聞こえる、ねぇ、あたしの声!?一体何よこれ、ちょっと待って、直ぐに誰か、呼んで来るから―!」

(逃げてくれ…)

「―あなた、素敵ね。とても素敵。芯の強い、柔らかな橙色。まぁ、髪の毛は、傷み過ぎだけど…」

「は?あんた、何言ってんの?状況、分かってる?荻野―死ぬかもしれないんだよ?邪魔しないで、今、救急車呼ぶから。ああと、それから、先生も―」

「あなた、何て名前?」

「あ?相原、愛子―」

(頼まなければ良かった)

(頼まなければ、こんな事にはならなかったのに)

(逃げて、相原。逃げろ。頼む、お願いだ、お願いだから―)

「―そう。愛子ちゃん、っていうの」

 彼女が両腕を広げて、ハグをするような気軽さで、相原に歩み寄る。僕はのたうつ自分の胴体に押し潰されながらその光景を眺めている。彼女が相原を後ろから抱き締める。救急車を呼ぼうと、スマホを構えていた相原は、一瞬、鬱陶しそうに顔を歪めるが―次の瞬間、その顔は恐怖に塗り替えられる。彼女の細腕に触れた部分から、ずぶずぶと相原の体が削られて、飲み込まれていく。相原が半狂乱で悲鳴を上げる。スマホを指先から取り落とす。それから相原の下半身と、上半身が千切れて別々に床の上に落下する。相原の下半身が、僕と同じ様に床の上で暴れ、上半身が、絶叫を上げながら必死に床を這って、彼女から逃れようとする。彼女は千切れた相原の塊を、食べ残しを掃除機で吸い取るような気軽さで回収していく。

 僕はそれを眺めている。声を出す事も出来ずに。視界の左半分が赤く染まっていく。きっと転倒した時に、何処かを強くぶつけて、出血してしまったんだろう、と思う。

 血と錆と、汗と、恐怖の臭いで窒息しそうになる。

 彼女が這いずって逃げる相原の上半身を捕まえる。相原の喉の奥から、聞いた事も無い様な叫び声が次から次へと溢れ出す。とうとう、相原の喉から血が溢れ出す。それでも、自分の出血で溺れそうになっても、相原は叫び声を上げるのを止めようとはしない。

 ―あ、あ、あ、あ、あ、アアアアアアアアアアアアァァアァァァァァァァァッァァァァァ…。

「良い子。愛子ちゃん。良い子ね。とても良い子」

 ―い、ひ、ひ、ひやぁああアアアアアアアアアアアアァァァァァァアァァァァァァッァァァッッ…。

「私と一緒に行きましょうね。大丈夫、優しく食べてあげるから」

 恐怖に引き攣った表情の相原を、彼女は優しく後ろから抱き止める。相原の体がずぶずぶと、底無し沼に沈む様に、彼女の内側にゆっくりと沈んでいく。相原の腰が、乳房が、肩が、顔が、そして指先が、彼女の腹の中に沈んでいく。抵抗する様に弱々しく暴れる相原の指先が彼女の喉を通過した時、彼女は満足そうに、小さなゲップを一つする。

「―ごちそうさま」

 彼女は唇をぺろりと舐めて、誰も居ない体育館の内側で、そう囁く。僕は自分の胴体に潰されて、息も出来ずにそれを眺めている。

 ―後悔だ。

 後悔だけがある。

 僕は涙と血の海に溺れながら彼女をぼんやりと眺めている。彼女と、居なくなった相原を。

(頼まなければ良かった。頼まなければ良かった。頼まなければ良かった。頼まなければ…)

 それだけを、呪文の様に繰り返し考える。まるでそれが、万難を退ける真言であるかの様に。失った時をやり直せると信じているかのように。失くしたものを取り戻せると信じているかのように。

(頼まなければ―こんな事には、ならなかったのに)

(あああ…)

(あ、あ、あ、あ、あ―)

                    『

                    『―人間の中に紛れようとするからさ』

(僕の所為だ)

(僕の所為だ)

(僕の―)

 視界が一面に赤く染まる。体の動きが鈍って来て、今までよりも更に重く、頭の上に圧し掛かって来る。涙と鼻水が出る。息が出来ない。頭の中心が、白く、痺れる様に痛む。もう何の音も聞こえない。

(こんな事になるのなら―何もしなければ良かった)

(最初から何もしなければ―相原は)

(僕の所為だ)

(僕の所為だ…)

(何もかも、僕の…)




「―ねぇ、ちょっと、聞こえる?」

「止めなよ、キナコ…」

「―だって、この人、泣いてる。おーい、もしもし、私の声、聞こえますか?こんな所で寝てたら、風邪、引きますよぉ―?」

「―だから、関わんない方が良いって、絶対。どう考えたってヤバい奴じゃん。こんな体育館の真ん中で寝っ転がって泣いてんのよ?意味不明にも程があるわ。もう直ぐ先生来るし、このままそっとしといた方が良いって―?」

「せめて、お腹の辺りだけでも、温かくして寝た方が―」

「…そういう問題じゃないでしょ、バカ」

 ―目が覚める。

 一瞬、何が起こったのか分からない。体の左側だけが酷く冷えている。長時間正座した後の様に、体のそちら側が痺れる。目がパサパサに乾いていて、傷む。何度も瞬きを繰り返す。どうやら固い床の上に横になっているみたいだと、寝起きのはっきりとしない頭で、辛うじて理解する。

(…?)

 苦労して上体を床の上に起こす。まるで体の動かし方を忘れてしまったみたいに、何度も滑っては、床の上に倒れる。その様子を見かねて、傍に居た女の子の内の一人が、体を起こすのを手伝ってくれる。僕は不明瞭なありがとうを言う。それでも一応それは伝わったみたいで、彼女は僕の脇の下を抱えて小さく苦笑しながら、いいえ、どういたしましてと、丁寧な返事を僕に返す。

(…ありがとう)

(良い人だ…)

 僕はどうやら体育館に居る様だ、とぼんやりした頭で考える。僕はどうやら体育館の床の上で寝ていたらしい。身体の節々が痛い。僕は体育館の固い床の上に座り、周囲の様子を見るともなく眺める。目に映るものが意味を成さない。耳に入るものを理解出来ない。頭の中に隙間無くセメントを詰め込まれたみたいに、白くて重たいもので一杯で、意義のある事を何一つ考える事が出来ない。

(頭が…)

(?)

(目が痛い。目が…)

 目の周りが酷く痛む。腫れぼったい感じがする。僕は右手を上げて、指先で目元に触れる。直ぐに手を引っ込める。あまりの痛さと、その腫れ具合に、驚く。右目の下は小指の先端程に腫れて膨れ上がっている。蜂に刺されたんだろうか、それとも水膨れでも出来たんだろうか、と思う。

「―あのぉ」

「…?」

「あんまり触らない方が良いですよ。とっても膨れてますから。でも、どうしてそんなになるまで泣いてたんです?」

「…何?泣いて…?」

「そう。凄い涙の痕ですよ。そんなにしてる人、初めて見ました。目元もブクブクですし」

(?)

(なにをいってるんだろう、このひと。僕が泣いて…?)

(目元が痛い…)

(でも、そういえば、何か―怖い夢を)

                                  ―ダム。

 バスケットボールの音が聞こえる。

 僕は飛び跳ねる様にそちらを見る。僕のその行動に、僕の正面側に居た女子生徒が驚いて仰け反る(『何、コイツ、急に―やっぱこいつ、ヤバい奴なんじゃない、キナコ?』)。数人の女生徒達が、仕舞い忘れのバスケットボールに群がって遊んでいる。彼女達は皆一様に体操着を着ている。

 僕はそれを眺める。ぼんやりと、何かを思い出せそうな気がする。

(…?)

(怖い…)

(あの音が―)

(バスケットボール…誰かがあれを突いて―)

(僕はここに来た…ここに来て、あの音を―)

「…ていうか、こいつさぁ…」

「―そんな言い方しないで、涼ちゃん。何?」

「いや、こいつ、例の二年の―」

(―そうだ、僕は―相原と、ここに来て)

(あの子に会いに)

(あの子。僕の最後の頼みの綱だった、あの子。あの日、知らない間に僕の分水嶺になっていたあの日、無人の教室で、真っ白な日誌を抱えて、僕が出会ったあの子)

(金木犀の香り…)

(あの子とここで会って―)

(…ここで会って…)

「レイ?レイのって、何の?」

「…だからさ、その…例のだよ。こいつ、例の、噂の―」

(―相原は?)

「…噂の誘拐犯じゃない?」

 僕はゆっくりと周囲を見回す。今度こそ、何も見落とさない様に。入口付近のゴール下で、数人がバスケットボールで遊んでいる。その付近の壁際に集まって、4人程のグループが、見覚えのあるスマホを覗き込んで笑っている。後は、目に入るのは、体育館の汚い床を歩いて、汚れた僕の靴下だ。他には何も無い。どれだけ周囲を見回しても。

 相原の姿は何処にも無い。

 僕は素早く立ち上がる。少しふらつく。僕の事を助け起こしてくれた子が、慌てて僕の腕を掴んで、支えてくれる。(ありがとう)僕は口の中でモゴモゴとお礼を言い、彼女の手をやんわりと振り解く。つるつると滑る床の上を、周囲を確認しながら、辛抱強く歩く。何度も、何度見回してみても、あの子と、相原がここに居たという証は何処にも無い。僕が倒れていた場所に、頭部を強く打って出血した筈の痕も無い。相原は消え失せてしまった。

 夢の続きに居る様に感じる。

 覚束無い足取りで、バスケットボールで遊ぶ子たちの間を通り抜け、壁際でスマホを弄っている4人組のグループへと歩み寄る。最初は誰も僕に気が付かない様子だったが、やがてグループで最も左端に居る女子が(スマホから最も遠い場所に居る、多分グループ内でのヒエラルキーも最も低いんだろう)―ちらつく僕の影に気付き、妙に好戦的な様子で、僕に話しかけて来る。

「―何だぁ?お前―」

 僕はそれを意に介さず、グループの、恐らくリーダー格であろう女子が持っているスマホを手早く奪い取る。

「―は?」

「―何コイツ、何して―?」

「―おい涼、コイツあんたの知り合い―?」

「―違うよ、なんであたしが―」

「―返せよキモ男、それ愛子センパイの―」

 僕はスマホの画面を点ける。タップしてホーム画面に移行する。画面には相原と、多分、仲の良い友人であろう、ゴテゴテに過飾された二人のツーショット写真が大写しになる。僕は電話アプリを起動する。少し考えて、発信履歴をタップして、確認する。

【119】

 僕はスマホを、さっき持っていた奴に向かって投げ返す。彼女は悲鳴を上げて、スマホを上下から挟む様に掌でキャッチする。僕はそれを尻目に体育館の出口へと向かって、移動する。

「―おい、待て、何すんだ、この―」

 夢の続きに居る様に感じる。

(僕の所為だ…)

 ―いっそ、全部夢なら良かったのに、と思う。

(僕の所為で…)

 僕は逃げる様に体育館を後にする。スリッパの立てるパタパタという間抜けな足音にも構わずに、走る。もう授業はとっくに始まってしまったようだ。廊下には、他に誰の足音も聞こえない。教室からは粛々と先生が授業を進める声と、生徒達が賑やかにろぐ音がする。

 ―途中、疲れ果てて、僕は足を止める。廊下の壁に凭れかかって、近くの窓を見る。窓の向こうから僕を見返して来る鏡像は、体育館で倒れた時とは違って、正常な頭部の位置をしている。

 …但し、首の辺りに、そこだけ掌で押し潰して抉り取った様な、大きな手形の痕がある。

 僕はそこに手を触れる。思わず笑う。力無く笑う。指先には、何の感触も無い。確かに頭は正常な位置にある。首は動き、呼吸も出来る。なのに、指先には、何かが触れる一切の感覚が無い。

                  『―私達吸血鬼は、水面や鏡に映らないの』

                    『それは私達に魂が無いからだって―』

                    『―もしかしたら人間じゃないのかも』

                         『偶然、偶然!また偶然―』

                    『

                    『―人間の中に紛れようとするからさ』

(王の欠片だ…)

 僕は笑う。感触の無い首筋を撫でながら、涙と鼻水を垂らして、声も無く笑う。

(…どうして、僕が?)

(どうして、僕だけ?)

(どうして、彼女じゃなくて、僕だけ?どうして、僕はここに居る?どうして彼女は消えてしまった?)

(王の欠片―)

(僕の所為だ。僕の所為だ、全部、全部、全部。何もするべきじゃ無かった。僕の所為で彼女は―)

(…王の欠片が、補填したんだ)

(僕が死なない様に。宿主が死なない様に)

 僕はその場に蹲って暫く静かに泣いている。畑から引っこ抜かれる雑草はこんな気持ちなのだろうかとぼんやりと考える。僕の行う行動の全てが周囲に悪影響を与える。もう直ぐ、僕は合法的に、世間から除かれてしまうだろう。それを防ぐ為に、僕が出来る事は、もう何も無い。最後の望みも、もう断たれてしまった。僕が縋った蜘蛛の糸は、何の事は無い、この騒動の元凶だった。僕はそうとは知らず虎口の元に相原を案内した訳だ。相原は喰べられてしまった。全てが最悪の結果に終わってしまった。やがて、相原の事も、世間では僕の仕業になるだろう。僕と、存在しない、もうひとりの共犯者の仕業に。でも、それも仕方のない事なのかもしれない。藤谷には気の毒だけど、相原の事は、紛れも無く、僕の所為なのだから。

(何かするべきじゃなかった)

(何もするべきじゃなかった)

(僕が何かをしなければ―相原が、居なくなってしまう事は無かったのに)

(僕の所為だ)

(僕の所為だ…)

(全てが、僕の―…)

(…あの刑事さんの言う事は正しかった)

 僕は、泣く。声を殺して、泣く。廊下の片隅で、誰にも気付かれない様に。前に進む為に必要だったもの全てを、失ってしまったように感じる。感覚の無い首筋を思い切り掻き毟る。臭いの無い液体が指先に滲む。指先に付いた液体を見て、目元を覆って、堪え切れず、僕は笑う。

(…

(何かをしようと思うべきじゃなかった)

(僕の所為だ、僕の所為だ、僕の所為で、相原は―…)

 ―廊下の中を、骸骨が歯を打ち鳴らす様な笑い声が木霊する。それが自分の声だ、と気付くのに数分掛かる。

(…終わりだ、全部。終了、なにもかも、もう御仕舞)




 目を覚ます。

 天井の白い壁紙を、珍しい物を見る様に眺める。点けっぱなしの照明が、目に刺さる様に痛い。

 夢の続きに居る様に感じる。

 僕は自室のベッドの上で、苦労して上体を起こす。体がダルい。辺りはいつの間にか、暗くなっている。僕は枕元のスマホを持ち上げて、現在の時刻を確認する。只今の時刻は22時13分。外でジョンが、情けを誘う様な遠吠えをしているのが聞こえる。家の中からは、他に誰の気配もしない。

(目が痛い)

(気持ち悪い。吐き気がする…)

(…そうか。あれから僕は帰って来て、ベッドに倒れ込んで不貞寝して。それで…)

(…母さんは?)

 スマホに一件の着信と、幾つかのメッセージが届いている旨が表示されている。着信は母さんからだ。時刻は19時05分頃、今から大体3時間前だ。メッセージの方も確認する。

 …メッセージの方も、母さんからみたいだ。

                                 【スマン】

             【言ってた例の話し合い、あれちょっと長引きそうだ】

              【メシ先に喰って寝ててくれ。閉締まりも忘れずに】

 僕はそれを見て、少し笑う。【分かりました、そっちも気を付けて】と短い返信を返す。まるで普通の親子の遣り取りみたいで、可笑しくなる。ここ数日の気忙しさが嘘みたいに感じる。夢の中の出来事だった様にすら思える。

(もう終わりだ)

(…もう終わりなんだよ母さん、僕は)

 僕はスマホを枕の上に放り投げ、ベッドを降りて、窓辺に立つ。それも又、悪夢の中の産物の様な光景である事には違いないが、そこに映る姿が、今までの出来事が夢で無かったと教えてくれている。

 硝子に映る僕には、左側半分、首が無い。右側面の、薄い肉一切れでくっついて、頭が宙に浮かんでいる。

 僕はそれを見て、吹き出す様に、笑う。左側面の首を掻く。硝子に映らない首、感覚の無いその首を。

(何なんだ、これ…)

(…人間じゃなくなっちまった)

(何なんだよこれ、ホント、何なんだ…)

 鎖で繋ぎ止められたように宙に浮かぶその首が、相原が本当にいなくなってしまったのだと僕に教えてくれる。涙と、悔しさと、吐き気が込み上げる。僕は硝子の中の自分から目を逸らす。感覚の無い首元を掻き続ける。

(相原は居なくなってしまった)

(…)

(だからといって、どうする?僕に何が出来るって言うんだ?もうどうしようもないじゃないか。僕は只のガキだ。無力なチビの、ガキ。借り物の他人の欠片が、腹の中にあるだけの…)

(…それに、助かったのだって、偶々だ。王の欠片が、僕に代わりの首をくれたってだけで。僕が何かをした訳じゃない。次は何もしてくれないかもしれない。僕が死ねば、彼らは何処へなりとも行ける。本当は最初から、そうしたかったのかも…)

(…吸血鬼達と、連絡先を交換しておけば良かった。二人とも、今何処に居るんだろうか?せめてあのマンションの―何号室に住んでいるのかだけでも、聞いておけば。彼らと連絡を付ける事が出来れば、未だ事態を、何とかする事が出来たかも知れないのに…)

(…僕は何もしない方が良い。僕が何かをしようと藻掻けば藻掻くだけ、何もかも悪くなっていく。もう何もしない方が良いんだ…)

 何もかもが、もうどうでも良くなる。全てを諦める決断をする。そうと決めるだけで、課せられた責任から解き放たれたような、ある種の清々しい気分になる。思えばここ数日間はずっと、追い詰められていく現状に対して、急き立てられるだけの日々だった。心から寛げる瞬間なんて無かった気がする。ベッドに腰掛けて、思い切り伸びをする。欠伸と同時に、笑いが込み上げる。どうせいつか逮捕されるにしても、奴らが玄関を叩くその日までは、僕は自由の身なんだと、開き直ってのんびりする事にする。

 心が楽になる。感覚の無い首元に触れても尚、今日までの出来事が、嘘だったかのように思える。

 僕はベッドに凭れて、見納めとばかりに部屋の中を眺める。ふと、付けっ放しのPCに目が留まる。

(…あら)

(帰って来て、点けたんだっけ?立ち上げ待ってる内に、寝ちゃったのか…)

 立ち上がり、PCの前に行く。スリープ状態を解除して、インターネットに繋ぐ。鼠が天井裏を走る様な、カリカリする音がPCの内部から聞こえる。

(眠い)

(さぁ、繋いで…何を見る?連続誘拐犯に相応しい、PCの閲覧履歴って、何?)

(子守り歌でも流しとくか?滅茶苦茶眠い。でも、ちょっと腹も減ってるし。簡単レシピとかでも…)

 ―カリカリという音がピタリと止まり、インターネットのブラウザが起動する。僕はマウスを動かして【お気に入りのサイト】フォルダを開き…少し考えて、【閲覧履歴】のフォルダを開く。

 閲覧履歴の上方に、明らかに他からは浮いたサイトが乗っている。

【日本で実際に起きた神隠し事件一覧/年代別神隠し事件アーカイブ一覧/2010年以降】

【2005年/9月28日 篠原和澄さん行方不明事件】

 僕は思わずそれをクリックする。クリックしてしまう。

 画面にはあの、毒にも薬にもならない事件概要と―彼女の写真が表示される。

 写真の中央に立つ少女は、背が高く、すらりとしていて、何ていうか、芯が通っていて、立っているだけで華がある感じがする。髪はとても短く、目元はとても凛々しい目をしている。とても凛々しい―切れ長の瞳を。

 僕は彼女を見る。写真の彼女の眼を。彼女の見覚えのある目を。

 漸く―気付く。

(彼女だ)

 僕は思わず立ち上がる。その際に向う脛を、PCの置いてある炬燵机の角にぶつける。その痛みに気付かないくらい、僕は目の前の、PCの中の事実に戦慄する。歯の根が震える。写真の彼女から、目が離せなくなる。

(…彼女だ)

(間違いない、今日会ったばっかりだ、僕は彼女を見た、彼女の―)

(―目を)

               『綺麗な長い黒髪、切れ長の目、悪戯っぽい唇―』

(…

 ―肩を擦る。震える歯の根を落ち着けようと、二の腕を押しつける。感覚の無い首元を掻く。歯を食い縛る。何度も瞬きをする。

(篠原和澄は誘拐犯だった)

(…?)

(どういうことだ?意味が分からない。それに、彼女なのは、目だけだ。彼女に―そっくりなのは)

(…八重歯)

                        『彼女は八重歯だったろうか。彼女は前から八重歯だったか?彼女は八重歯じゃなかったんじゃないか?彼女は―』

                      『違う。問題は、そこじゃない―』

                               『吉田優香だ』

                          『二人目の被害者の―…』

                              『八重歯だった』

(…彼女は八重歯じゃ無かった。初めて会った時、やっぱり彼女は、八重歯じゃなかったんだ。あれは思い違いじゃ無かった。彼女は八重歯を―)

               『荻野くん、あなた良い香りね。とても良い香り』

(盗んだ)

               『―でも、残念。私の中に、もう男は要らないの』

(喰った)

          『―あなた、素敵ね。とても素敵。芯の強い、柔らかな橙色』

(―奪ったんだ。吉田優香から)

 僕はPCの前に腰を落ち着ける。画面の中の、彼女を―篠原を睨みつける。必死で考えを整理しようとする。額が熱くて、上手く頭が動かない。僕は手の甲で頭を冷やしながら、どうにか考えを先へ繋ごうとする。

(篠原和澄は―)

(違う。連続誘拐犯の正体は―…)

(七不思議のひとつ。“

(喰ったんだ。幾人もの人間を喰って―ひとつずつ、そのパーツを奪っていった)

(目的は?)

                      『―私の中に居て良いのは、女の子だけ。私の中を素敵な女の子で埋め尽くせば、きっとみんな、私を見てくれる筈―』

(簡単だ。女を喰って、その部位を奪う事。自分で言っていた。自己顕示欲の発露、って所か。噂としての七不思議の一部から、誰の眼にも留まる、実態を持った存在になる為に―)

(…犠牲者が女子ばかりだったのも、納得がいく。噂の発端の、ベースとなった被害者が、女子だから。女子なら女子、男子だったら男子で、記号部分を強めて、より人目に留まる存在に―)

(…ううん、いや、一体どっちが先なんだろう?彼女が居なくなった事で、“神隠し”の噂が生まれたのか、“神隠し”によって、篠原和澄が消えたのか…)

(―卵が先か、鶏が先か?)

(…もしかしたら、校内だけじゃないのかもしれない。校外でも、彼女は誰かを喰っていたのかも。失踪届が出されなければ、警察はいちいち一個人を捜索したりしない―と、聞いた事がある、本とか、ドラマなんかで。もしかすると、もっと他にも、沢山いたのかも。こればっかりは、調べてみないと分かんないけれど)

(―でも、何故、今更?)

(篠原和澄の事件が起こったのは、確か、12年も前。今頃になって、活動を始める理由は―)

                       『…あの蝙蝠が、王の欠片なの』

                           『最近になって、漸く一つの兆候が見られたの。全ての欠片が、同一の方向に引き寄せられるような反応を示した。主様は調査を命じたわ。それでその結果、欠片がこの極東の地、この町に―』

         『けど―王の欠片ってのは、それ自体が起爆剤みたいなものよ』

     『分かる?劇薬なの―王の欠片ってのは、それ一つだけで致命的なのよ』

(…欠片…)

 僕は頭を抱える。どうしたらいいのか分からずに。

(…

 ―立ち上がる。部屋の中を行ったり来たりして、どうにか考えを筋道立てようとする。ふと、自分が学校から帰って来て、制服のまま眠ってしまっていた事に気付く。ズボンとカッターシャツを脱ぎ捨て、タンスの中身の一番上に積まれていた、Tシャツとジーンズに身を包む。制服のズボンを精一杯丁寧にハンガーに掛け、カッターを洗濯籠に入れる為にくるくると手元に丸めて回収する。

 …少しの間逡巡して、制服のズボンの尻ポケットから、財布を抜き出す。それをジーンズのポケットに突っ込む。スマホを枕元から取り上げて、それもジーンズの別のポケットに収める。階段を降りる。一階に向かう。

(僕の所為だ…)

(―神隠しだ)

(僕の所為で、相原は…)

(―神隠しが、王の欠片を飲み込んだ)

(僕が何かをしようと藻掻けば藻掻くだけ、何もかも悪くなっていく。僕にはもう、何が正しいのか分からない…)

(―てことは、神隠しから王の欠片を抜けば―未だ事態を収拾できる可能性は、あるってことか?)

(僕のことは、どうにもならないとしても…)

(神隠しをどうにかした所で―僕の容疑が消えて無くなる訳じゃない。僕の身に迫る現状が、消えて無くなる訳じゃ…)

(僕が何かをしようと、藻掻けば藻掻くだけ…)

(…でも、“神隠し”が、“王の欠片”を飲み込むって、どういう事だ?そうとしか説明が付かないとしても、“神隠し”は、どうしたって、絶対的に、だ。それに反して、王の欠片には実体がある)

(触れた感覚が無いとしても―)

(―『飲み込む』必要がある。王の欠片を取り込むべき器が必要な筈だ。王の欠片を飲み込む為に、王の欠片に触れる事の出来る、依り代としての、器―)

                                  『相変わらず夏服の上から、カーディガンを羽織っている。なのに、汗一つ掻いていない―』

                                   『良い匂いがした。花の香りだ。あの香り、なんて言うんだっけ。何処かで嗅いだ事が…』

                                『先生にプリントを渡す時、何時か嗅いだ憶えのある様な香水の香りが、強く僕の鼻先を擽る―』

                       『先生の強烈な香水の香りが僕の鼻腔を刺激する。僕は漸く、その匂いを、何処で嗅いだ事があるのかを思い出す―』

         『金木犀。知らない?とっても可愛い、小さなオレンジ色の―』

(…あの子は、常にカーディガンを羽織っていた)

(このクソ暑い時期に、最初に会った時も、体育館で会った時も、カーディガンを…)

 僕はカッターシャツを洗濯籠の中に投げ入れる。僕は籠の中身を見て、欠伸をして、それから洗面所の鏡に映る自分の顔を眺める。鏡に映っている首の欠けた男は、別人の様に虚ろな目をしている。一瞬、それが誰なのか、自分でも分からなくなる。

(―篠原和澄が居なくなったのは、9月28日)

(…秋の入り口だ)

(所によっては、まだ暑いけれど―カーディガンを羽織ってても、おかしくない時期だ…)

(…もしかして、金木犀の開花時期って、その位なんじゃないか?)

(何人あいつに喰われたのかは知らないが―この30度越えの時期に、好き好んでカーディガンを着て居る馬鹿が居なければ、あれは―篠原和澄の自前のものの可能性が、高い)

(最初の犠牲者)

(神隠し)

(金木犀―)

 僕は玄関を見る。玄関の扉を。僕は頭を掻き毟る。盛大な溜息を吐く。

(…試してみる価値はあるかもしれない)

 僕は階段をどすどすと踏み鳴らして、自分の部屋へと乱暴な足取りで戻る。小さなショルダーバッグを、押し入れの中身から取り出す―買って貰ってから、一切使ってなかったものだ。通学用の物よりも軽くて、持ち運びしやすい。僕はそれに、家の中で役立ちそうな物を、片っ端から入れる―懐中電灯、野球ボール、麦茶入りペットボトル(水分は大事)、食パン、着火剤、新聞紙、スマホ扇風機、防犯ブザー―金槌、百円ライターに、母さんの制汗スプレー。兎に角ありとあらゆるものを、詰め込めるだけ。荷物が重ければ重いだけ、安心する気がした。膨らんでいれば膨らんでいるだけ、何かが何とかなる様な気がした、から。

(僕の所為だ)

(…金木犀が、神隠しの依り代なのかも)

(僕の所為で、相原は…)

(金木犀が、王の欠片を取り込んで、受肉したのかも)

(僕が何かをしようと藻掻けば藻掻くだけ、何もかも悪くなっていく。僕にはもう、何が正しいのか分からない…)

(…だからもう、何が正しいかなんて、糞喰らえだ)

(―何もかも悪くなっていく?。きっともう、これ以上悪くなんてなりようがない。僕はもう犯罪者確定だ。そろそろ報道も始まる頃だろう―記者団に責付かれて、警察もそろそろ渋々情報を小出しにし始めるくらいじゃないか―そうなったら、僕はもう終わりだ。レッテルは一生剥がれないだろう。母さん共々、逃げる様に別の街に移るか―)

(…吸血鬼にでも、なるしかない)

(けれども、相原の事は、それとは別だ。あいつは僕を助けてくれた。助けようとしてくれた―)

(…まぁ、発端も、ある意味あいつなんだけど…)

(―だから、見捨てる事は出来ない。こうなったのも、全部僕の所為だから。あいつの事だけは)

(義理がある)

(…糞喰らえだ)

(―正しさなんて、犬に喰わせてしまえ。これ以上事態を悪く出来るってんなら、やって見せてみろ!何もかも悪くなっていく。何もかももう終わりだ。。潔白の証明の手段を失い、首を半分失い、多分きっと、16年間慣れ親しんだ、この家と生活をも失う。これ以上悪くなんてなりようがない。糞喰らえだ。正しさなんて便所に流しちまえ!だからここからは、僕のやりたいようにやる)

(やりたい事だけを)

(―試してみる価値は、ある)

 僕は、パンパンに膨らんだ小さなショルダーバッグを背負って、靴を履く。履き慣れた、通学用の靴を。僕は玄関を振り返る。ジョンの情けない遠吠えに苦笑し、誰も居ない玄関に向かって、いってきますを呟く。

(もしもそうだったとしたら―神隠しの依り代が金木犀だとしたら、後は単純な綱引き合戦だ。あちらの欠片が多いか、こちらの欠片が多いか。これは単純な賭けだ。こちらの欠片が多ければ、向こうの中身を引き摺り出せるかもしれない)

(違ったら―まぁ、今だって最悪なんだ、もうこれ以上どうなるってことも無いだろ?)

 ―玄関のカギを閉める。少し立ち止まって考えて、その鍵は、ポストの中に入れて置く事にする。僕があれに喰われてしまったら―若しくは、殺されてしまったら。

(もう男は要らない、とか言っていたし)

 紛失した鍵を気にして、母さんが錠前を付け帰る手間を省いておく。ポストの底でカチャンと金属の音がする。僕はそれを聞いて満足する。次の上りの電車は何分だっけと思いながら、駅までの道を走る。

 ―胸の内に、吹き上がる様な怒りだけがある。それが何に対してのものなのか、自分でも分からない。僕はそれを胸に、笑みを浮かべて街灯の明りの隙間を駆け抜ける。


「―22時28分発、東西線各駅停車洲央行き、間もなく発車致します―」

 電車に乗り込む。帰宅ラッシュのこの時間、上り線の電車の中は面白い様に空いている。僕は開いた座席の一つに、ショルダーバッグを膝の上に抱えて座る。目を閉じる。目を開いていると、そこいら中の硝子に、首の欠けた男の姿が映るから。電車が空いていて良かった、と思う。隣駅に電車が付くまでの間に、考えを少し整理する。

(篠原和澄―)

(篠原和澄―は、神隠しだった)

(最初からそうだったのか、それとも長年の噂に依ってそうなってしまったのかも、僕には分からない。あれが彼女の思念を媒介にしている、幽霊のような何かなのか、それとももっと、彼女の噂を下敷きに存在しているだけの、別の何かなのか。僕には分からない。分からない事だらけだ)

(金木犀)

(金木犀―は、なんなんだ?どうして彼女からあの香りがするんだろう。彼女に何の関係がある?)

(…そういえば、あのサイト、神隠しを纏めたあの記事の中に―)

         『篠原和澄さんは2005年の9月28日に、校内でご学友と、“用事があるから”と一旦別れ、校門前での待ち合わせを約束したのを最後に、消息を―』

                                  『何時まで経っても姿を現さない篠原さんに、心配になったご学友のA子(仮名)さんが―』

              『―先生と二人で校内を捜索するも見つけられず―』

 『不安を拭えないA子さんが篠原さんの自宅に電話をし、漸く事件として発覚―』

(…用事がある、と言っていたとか、なんとか。そんな風な事が書いてあった様な気がする)

(友達にも内緒の、彼女の用事)

(金木犀―)

(…あの体育館の傍の、大きな金木犀。学内の、有名な告白スポット。12年前から、あの噂があったとは考えられないか?)

(こういうのは、流行り廃りはあったとしても、完全に無くなってしまうって事は無い。中学校の時にも、小学校にだって、こういう噂はあった。中学校の時は中庭の池の畔、小学校の時は、校庭の桜の木の下だった。やっぱり、木の下ってのが定番なんだろうか?のびのびと育った樹木の姿が、長く続く関係を暗示させてくれるから―)

(…話を戻そう。金木犀の樹齢は知らない。あれが何時からあそこにあるのか、何歳くらいであそこまで育つのかも。けれど、可能性としては決して無い話では無い)

(それに、実際問題―今更別の金木犀を探している時間は無い。校内に、他に生えてる木は無かったと思うけど。でも、それを言い出したらキリがない。校外の木の場合の可能性だってあるんだ。神隠しの生態にゃ、生憎詳しく無い―依り代、活動範囲、食事、目的、飼い方。何もかも分からない。これだって結局、賭けみたいなもんだ)

(…気付けば又、細い蜘蛛の糸の上を綱渡り、だ。薄い可能性、生きているかどうかも分からない知り合い、助けも無い、自分の状況が好転する見込みも、ゼロ―)

(―ああ、ヤダヤダ、うんざりする。うんざりし過ぎて、吐き気がする―)

(…兎に角、彼女の用事の場があの金木犀の下だった、と仮定しよう。呼び出したか、呼び出されたか。そこで12年前、何かが起きて―)

(―何かって、何だよ?)

(…12年前だぞ?分かる訳ねえだろ。何かが起きて、彼女は消えた。篠原は―神隠しに。そうしてあの付近には、目出度く二つの噂が重なる事になった。有名な告白スポットと…神隠しとしての噂)

(誰が意図した訳では無いにしても)

(―で、人知れず、千歳高のパワースポットとなっていたその場所に、10年前に飛散した、王の欠片が舞い込んで―)

(…ってのは、強引な考え方かね?)

(試してみる価値はある)

(後は単純な綱引きだ―)

「―間もなく停車致します。東西線各駅停車洲央行き、お降りの際は、忘れもの等にお気を付けて―」

 アナウンスが流れる。僕は席を立つ。鞄を背負い直す。向かいの席に座っていた酔っ払いのおじさんが、僕の方を見て怪訝な顔をする。

「兄ちゃん、あんた―」

「はい?」

「首が半分無いじゃねぇか。首忘れてるぞ、首ィ。車掌さんもアナウンスで言ってたろろ?忘れもんに気を付けれって―」

「ええ、分かってますよ―」

 僕は苦笑して、赤ら顔で座席にぐでんと寝そべるおじさんを見る。首元を左手で覆って、言う。

「―実を言うと、盗られたんです、この前」

「ほぉ?そりゃ大変だぁ。首が無いと―キスマークで浮気がバレない。んん、良い事しか無ぇなぁ…」

「―なので、今から取り返しに行こうかと」

「はっはー!いいねえ、男ってのは、そうじゃないといけない。かくいう俺も若い頃はなぁ―」

 電車が停まる。空気の抜ける音がして、扉が開く。僕は迷わず駅のホームに足を踏み出す。

「―で、手応えから察するにこりゃ大物だと、勇んで釣竿を振り上げた訳だ。ところが、そりゃ良く見りゃ社長のハゲかつらで―」

 おじさんの武勇伝の途中で電車の扉がゆっくりと閉まる。無人の車内で語り続けるおじさんを乗せて、電車は次の駅を目指して行ってしまう。僕は彼に向かって胸元で小さく手を振る。それから誰も居ない駅のホームを降り、夜の高校へと向かって静かに歩き始める。




 ―夜の学校。

 夜の学校、という言葉には、特別な響きがある。

 それは大体の場合、学校が人里離れた場所に立っている所為かも知れない。それとも、昼にはあんなに沢山の人が居るのに、夜中には誰一人いなくなってしまう所為かも知れない。長い歴史がある所為かも知れない。あんなに大きくて広い建物なのに、電気も碌に付いていない所為かも知れない。

 理由は良く分からない。が、夜の学校という言葉には、やはり特別な響きがあると思う。

 ―僕はその夜の学校を、南側から、10m強のフェンス越しに眺める。灯りの点らない夜の校舎は堅牢な漆黒の城の様にも見える。僕は等間隔に寂しく並ぶ街灯の一つに寄り掛かって、物音ひとつしない真っ暗な校舎をのんびりと観察する。ひんやりとした夜気が僕の頭を冷やす。我ながら、なんつー馬鹿な事をしてるんだろう、と何処か他人事の様にそう考える。ああ、そう言えば、夜の校舎を見るのはこれが初めてだ、と思う。

(まぁ普段、この時間に出歩かないし。そもそも、夜に学校の方に来る事なんて、無いし…)

(…不気味だな。そりゃ、怪談話も、いっぱい出来る訳だ…)

 街灯を離れて、僕は歩き出す。公道沿いを離れて、昇降口のある、校舎の西側へと向かう。緩やかな坂道を上る。坂の途中で、無造作に、隠す様子も無く設置されている、監視カメラの存在を認める。僕はそれに向かってなんとなく、気怠く、手を振る。一頻り手を振り終わった後、今日は雨が降っていない、という事にぼんやりと思い至る。と、いうことは、僕の姿はあの監視カメラには今も映っていないのかもしれない。今でも未だ、信じられないけれど。

(…監視カメラに映らなくなってるなんてな…)

(普通、気付かないよな。何時からなんだろう。もしかして、ずっと前?)

(鏡とか、硝子には映ってたしな。余計、気付かないよな…)

(わざわざ自分を動画に撮る機会なんて、殆ど無いしなぁ…)

(…何か悪い事、出来そうだよな。監視カメラに映らないんだ、現代社会では透明人間みたいなもん―)

(―ま、特に何も思い付かないけど。それに、カメラには映らないだけで、誰の眼にも見えるし、実体だってある。誰かに見咎められたら、もう終わりだ…)

(…監視カメラに映らないって事は、僕が今日、ここへ来た事は誰も知らない、って事だ。“神隠し”が僕をバラバラに引き裂いて殺してしまったら、僕の行方を知る者は、誰もいなくなる…)

 ―手を下ろす。

 監視カメラから目を背ける。ショルダーバッグから懐中電灯を取り出して、スイッチを入れる。灯りの中に居ると、少しだけ安心する。その事をちょっぴり情けなく思いつつも、僕は灯りの安堵に引き摺られる様に、唾を飲み込んで、下っ腹に力を込めて、前進する。

(…怖い…)

 坂道を登る。坂の上へとライトを向ける。光の輪の中に、突然侵入を阻む門が現れる。僕はそれを見て少なからず動転する。慌てて左手で口元を押さえる。もう少しで絶叫の悲鳴を上げてしまう所だった。歯の根の震えが収まるまで、懐中電灯を落とさない様に握り直して、背中を丸めて僕はそこで暫くそうしている。

(…危なかった…)

(―落ち着け、落ち着け―)

(…落ち着け、馬鹿)

(門は突然現れた訳じゃない。お前が予期していなかっただけだ―)

(―当然だ。昼間は閉鎖している訳じゃない。何時だって、校舎の門は開いている。生徒たちが出入りするんだから。夜中は誰も居なくなったら門を閉めて、誰も入れない様に施錠する。当たり前の事だ。門があるのは当たり前…)

(―落ち着け…)

(ああ痛い、心臓が痛い…)

(僕の様なビビりが、多分こうやって、怪談を創っていくんだろう。怖かった事を誤魔化す様に。怖かった事に、何か理由を付けようとして。ああ息がし難い―今の恐怖は、こじつけるなら、『ぬりかべ』か?僕の進路を遮る、門の様な化物―その正体は、僕の行く手を防ぐ妖怪で…)

(落ち着け、落ち着け、落ち着け、僕―)

 ―深呼吸をする。心臓の辺りが痛い。目を開けて、もう一度門の方を確認する。昇降口への道を塞ぐ様に閉じている校舎の正門が見える。僕は溜息を吐いて、ぐったりとした笑みを浮かべる。

(全く…)

(…先が思いやられる。こんなんで夜の学校の中に入って、大丈夫なんかね?)

(小心者過ぎて泣きそうだ。自分の事を、これ程嫌だと思った事は無い。何の為にここまで来たんだ?思い出せ…)

(―相原の事、助けたいんだろ?)

 門を攀じ登ろうと傍に近付いて、ふと、門の表面に看板が紐付けてある事に気付く。懐中電灯をそちらに向ける。そこに書いてあるロゴを見る。その下の、細かい箇条書きも。思わず顔を顰める。

 そこには―警備会社の名前と、社章のロゴと。

【門には触れないで下さい!

                   関係者以外の立ち入りを一切禁止します。

                   正規の手続きを踏んで、入校して下さい。

   もし、施錠後に入校したいのであれば、一度、必ず弊社の方へご連絡下さい。

                                弊社への連絡無いまま校内へ侵入を試みた場合、正門の鍵を使用しても必ず警報が作動致します。

                 お手数ですが、必ず弊社へ一度ご連絡下さい。

         無暗に門へ触れるのもご遠慮ください。警報が作動致します―】

(…困った)

 門の前で立ち尽くす。そりゃ監視カメラも付いているんだ、警備会社と契約してるんだろうから、こういう事態も考えてしかるべきだった筈なのに、それをすっかり失念していた事に気付く。懐中電灯を近付けて、看板の箇条書きを何回も読む。当たり前だけど、何度読んでも、文面は変わらない。

(―門に触れるな)

 …なんだか、自分が酷く馬鹿になった様に思える。

(こういうのって、どうしたら―?)

(柏木、知ってたりしないかな。や、不良だけど、犯罪者ではないし…)

(フェンスを登る?)

(…いや、無理だな。そりゃ高いと言っても10mくらいだ、無理すりゃ登れなくはないんだろうけど…もし、途中で“神隠し”に見つかったら?それで、フェンスの根元の方を切り取られたりしたら―)

(―考えたくはない。あの高さから、落ちたら―)

(…こういうのって、作動させたら罰金とかあるんだろうか。誤作動で違約金、とか聞いた事あるけれど…)

(家庭で払うんだろうか。それとも学校?学校まで、母さんに来て貰わなきゃならないんだろうか。保護者同伴で謝罪?この歳になって…)

 ―そこまで考えて、こんな風になっても、自分が今までの生活の続きを送る積りで居る事に気付いて、苦笑する。自分の底抜けの楽観主義に吐き気を覚える。もう終わってしまったんだ、と思い出した様に、自分に言い聞かせる。自分の今までの生活は終わってしまった。ここに来たのはけじめを付ける為だ。相原には義理がある。その義理を果たす為に、僕はここに来た。

 僕は手を見る。懐中電灯を握っていない、自分の左手を。

 考える。

(…カメラ…)

(考えろ…)

              『―見える?私達吸血鬼は、水面や鏡に映らないの』

(門に触れると、警報が作動する)

(触れずに入るのは僕には無理だ。なんせ、凡そ平均の男子高校生だから)

(…そう。僕は、只の…)

(―違う所があるとすれば―)

                      『…監視カメラに映っていないの』

(門に触れると、警報が作動する。どうして?)

(重さ、赤外線。後は―振動、ってとこか?)

(重さかなんかだとキツいかな。別段、僕の体重に、変化がある様には思えないし…)

(…価値―)

(まぁ良いさ、別に警報が作動したって、警備員が大量に来るだけだ。最悪の場合は、そいつらを巻き込んで何とかするしかない。ここで帰るって言う選択肢は無いんだ。僕には時間が無い。いつ、僕の家の前に警察が大挙して押し寄せて来るかも分からない。でも、ここで、本当に何が起こっているのか、知っているのは僕しか居ないんだ。相原がどうなったのかも)

(どうにか出来るかもしれない。義理がある)

               『―もしかしたら人間じゃないのかもね、あなた』

(―監視カメラに映らない所だけ)

(価値はある。…だろ?試してみる、価値は)

 僕は、一瞬、躊躇して―それから思い切って、勢い余って、看板を殴る様に、左手を門にぶつける。

(痛い)

 涙が滲む。目を細めて、耳を澄ませる。何の音もしない。警報が作動した場合、どうなるのかは詳しくは分からないが、少なくとも今の所、ビカビカと回転灯が輝き始めたり、防犯ブザーが喧しくなり始めたり、大量の警備員を乗せたトラックが大挙して押し寄せて来るような様子は無い。

 少し待つ。1分、2分、3分。何度もスマホを取り出して、時刻を確認する。1秒が酷く遅い。時間が誰かに作為的に引き延ばされている様な気さえする。懐中電灯のスイッチを切り、それを鞄に入れて、息を顰めて待つ。何も起こらない。暗闇に目が慣れる様に、固く、固く、目を瞑る。何の音もしない。自分の心臓の音だけだ。

 4分、5分、6分―。相変わらず何の音もしないし、何も起こらない。僕は門の傍で、待つ。膝を抱えて、目を閉じて、祈る様に。

 ―それから覚悟を決めて、ショルダーバッグを門の向こうに投げ落とす。両手に息を吹きかけて、門の上辺にどうにか指を引っ掛けて、攀じ登る。

(―大丈夫)

(王だ)

(…多分、大丈夫。大丈夫だ。きっと大丈夫。大丈夫、なんだろう)

(王の欠片だ―)

(…王の欠片の仕業だ)

(欠片に、感謝だな…)

(監視カメラに、雨の日以外、姿が映らなくなってしまったみたいに―どうやら僕は、ある種の電子機器に、検知され難くなってしまったらしい)

(ある種の、電気機器…)

(色々試した結果じゃないから、はっきりとは分からないけど―状況から察するに、光とか、光線とか。恐らくは、そういうものを利用した装置)

(王の欠片の所為で)

(…凄いな。滅茶苦茶地味ではあるけれど、現代社会だと、ホントに透明人間みたいになれるかも―)

(―最近、自動ドアとかが中々開いてくれないのも、もしかしてその所為?)

(何か恰好良い技名とか付けるべきかな?“不可視の…インビジブル~”とか、“…幽霊~ゴースト”とか、“…幻影~ファントム”とか―)

(…イカン、背中がむず痒くなって来た)

(―ま、こんな風になっちまった元凶が、その王の欠片サマなんだがな。それでもこの状況は、素直に感謝だ。警備員から逃げ回りながら、“神隠し”を相手にする訳にもいかない。何が起こるか分からないし、他に死人も出るかもしれない。それにそんなに、器用な方じゃ無い。“神隠し”だけでも大変なのに…)

(―待ってろ相原、もう直ぐだ)

(クソッタレの、王の欠片を、野郎から引き摺り出して―何もかも終わらせる。それから、この町を出ていくんだ。最初から母さんに言うべきだった。母さんに打ち明けて、この町を…)

(…吸血鬼になるのも、案外悪くないかもしれないな。はは、もうどうすれば良いのか、僕にはさっぱりだ。他に選択肢が無いなら、母さんにOK貰って、吸血鬼に。親子共々ってのも、アリかもなぁ。吸血鬼ってのは、年齢制限あったりするのかね?“ミドルエイジは転化お断り”とか―)

(今度会ったら、聞いてみるか…)


 門の上から飛び降りる。

 地面に泥の塊を落とす様に。不格好に、僕は地面の上に転がり落ちる。「グェ」と短く、蛙が潰された時に漏らす様な音が口から出る。掌を強かにアスファルトに打つ。悲鳴だけは漏らさない様にと、必死で歯を食い縛る。門を乗り越えただけで、乗り越えただけなのに、もう十全とはいかないのが自分らしい、と草臥れた笑みを浮かべて思う。手首から上が、暫くしたら本格的に痛み始めるだろう、ジンジンという痺れるような感覚を発し始めている。絆創膏も鞄の中に入れて来るべきだったな、と考える。既に順風満帆とは言い難い。何だか泣きたくなってくる。

(さて、こっから、どうする―?)

(鞄、取り敢えず、鞄を…)

 ―直ぐ側に落ちていたショルダーバッグを取り上げて、中身を確かめる。特に壊れたものは無い様に思える。懐中電灯の電球部分を保護するガラスが割れて―制汗スプレーが金槌でへこんでいる以外は。僕は苦笑して、硝子の砕けた懐中電灯だけ引っ張り出して、ショルダーバッグの口を閉じる。

(…ま、そりゃそうか。あの高さから落として、金槌と一緒に、物を入れてたらな…)

(―何で金槌?金槌なんか入れたっけ、僕?)

(相当テンパッてたんだな。武器になるとでも思ったんだろうか。相手は人を呑み込む、怪物なのに…)

(―ま、概ねは無事。それが肝心なんだ…)

 懐中電灯のスイッチに指を掛けて―。

 そこで考える。

(…待てよ。これ、このまま点けて良いのか?)

 このまま懐中電灯のスイッチを入れてしまうと、この暗い校舎の中で、僕の電灯の明かりだけが唯一の光源となってしまう、という事実に、漸くぼんやりと思い至る。僕は瞬きをして、何度も瞼の上を擦る。額を擦る。考える。

(…駄目だ。駄目だ駄目だ、駄目な気がする、それは絶対に不味い)

(―もう遅いのでは?暢気にライトのスイッチ入れて、正門前を登って来ちまった。もう僕がここに居る事に気付いているかも)

(外出中だったりしない?駅前辺りに、あー…“食事”に出掛けてたり。彼女、自分磨きに忙しいみたいだったから…)

(…駅前、殆ど人居なかったけどな)

(―ていうか、学校にあの女が居る前提で話を進めているのが、先ずおかしい気がする。彼女は王の欠片を得て、“七不思議の噂の一部”という座を脱却した存在になったんだ。彼女は実際に、人に害を成し―その部品を喰らう。部品を上手い事持ち寄れば、まるっきり別人の様に振舞う事も出来るだろう。外に住居を持つ事だって―)

(そんな器用そうには見えなかったけど)

(―ていうか、先ず正気には見えなかったね)

(………うん)

 僕は懐中電灯を宙ぶらりんに構えたまま、周囲の様子に耳を澄ませる。何の音もしない。自分の唾を飲み込む音と、呼吸の音、衣擦れ、背筋の軋む音、それに、時折足を踏み変える音がするだけ。溜息を吐き、目を細めて、辺りを注意深く見回す。暗い。どれだけ必死に目を凝らしても、10mより遠くの物は、画質の粗い映像の様に大雑把に霞んでしまう。舌打ちをして、目元を擦る。一応、校舎の中も見てみる。校舎の中の暗闇は、外の比じゃない。触れそうな程の固形質の暗闇が一部の隙も無くみっちりと詰まっている。この中を光源も無しに歩くのは正気の沙汰じゃない、と思う。

(…幸い、暗闇に目も慣れて来たし)

 僕は懐中電灯を右手から左手に持ち替える。

(校庭を突っ切って、体育館へ向かうか。どうせ目的地はそこだし、そっちの方が、距離も短いし―)

(…それに)

(それに、怖い)

(…怖いんだ。怖い。怖いよ、これは。どんなに情けない奴だと嘲笑われたって、良い)

(この暗闇の中を歩くのは。それも、明りを点けたら不味いとなりゃ、尚更だ。この暗闇の中に、なにも居ないと分かっていたとしたって―)

(―況してや、確実にが居ると、分かり切っているからこそ)

(…僕には無理だ)

(小さい頃を思い出す。小学一年生くらいの時の事だ。夜中にトイレに行きたくなって目が覚めて、中々起きない母さんの代わりに、父さんを叩き起こして。トイレとトイレまでの道中の電気を全部点けて来て貰って、トイレまで手を繋いで連れて行って貰って、トイレが終わるまで絶対にそこを動かないで、そこに居て、と全力で懇願したっけ。父さんは確か、苦笑いしてたような気がする。トイレの間中、父さんが消えて居ないか確認する為に、色んな話をおねだりした。父さんは困ったみたいに笑ってたけど、何処か嬉しそうだった。おしっこがなかなか止まらなくて、僕は慌てて、父さんは『だから言ったじゃないか、寝る前に、あんなにココアを飲むからだ』って―)

(―思い出すんじゃなかった、こんな事)

 …僕は目元を覆う。歯を食い縛る。思い切り、軋む音がする程に。掌がじんわりと痛みを伝え始める。懐中電灯が手の内で滑る。もしかしたら、出血しているのかもしれない、と思う。

(…今は父さんは居ない。電気を点けるのも禁止だ)

(やるしかない)

(やるしかないんだ―)

 懐中電灯を左の尻ポケットに突き刺す。吐き捨てる様に息を吐く。頬を何度か抓る。

(きっと大丈夫)

 校庭に足を踏み出す。砂利の音が、薄氷を踏み砕いた時の音の様に、周囲に響き渡る。足を止める。僕は顔を顰める。

(…きっと大丈夫)

(―大丈夫じゃないよ。今に彼女が来る。彼女が来て、相原を引き千切った時の様に、僕の事も簡単に―)

(大丈夫。父さんがいつも言ってたろ?『世の中ってのは良く出来てる。必ず帳尻が合うように出来てるんだ。お前の周りに、今は悪い事が起こったとしても、それは明日、お前の周りに良い事が起こる印しなんだよ』―…)

(…大丈夫)

(大丈夫、大丈夫。僕は大丈夫―)

 自分に言い聞かせる。喉元を撫で、ショルダーバッグを背負い直し、深呼吸をして、もう一度足を踏み出す。靴が砂利を踏み拉く音は、今回も相変わらず爆音の様に酷く響いて聞こえる。

 ―それでも、意を決して、僕は歩き出す。少し前のめりに、誰かに背中を押されているかのように。


 夜の校庭を歩く。

 ―ザクザクと砂利を蹴散らして、土を掘り返す音を立てて。その音を聞いていると、新雪の上を歩く時の感覚を思い出す。この辺りでは、滅多に雪は降らない。だから小さい頃は積る度に大はしゃぎして、朝から誰も歩いていないまっさらな雪の上に、足跡を付けに出掛けたりしていた。

(―なんか、昔のことばっかり思い出してんな、僕…)

(…これも、ある種の走馬灯ってヤツなのかね?)

 急ぎ足になりそうなのを堪えて、出来るだけゆっくりと歩く。誰かに足音を聞き咎められない様に、他の音を、何かの前兆を聞き洩らさない様に。足元を見て、耳を欹てて、歩く。どうせ前を見てても大した物は見えない。両手を耳の後ろに添える様にして、聴力に全神経を集中する。

(―大丈夫、大丈夫、大丈夫、僕は―)

(何の音も聞こえない。相変わらず、何の音も。聞こえるのは、煩い僕の心臓の音と、風の音だけ)

(…心臓ってのは、生涯で何回鼓動を打つか、大体決まっているらしい。は、今日だけで、僕の寿命は何回分縮まったかね…?)

 何の音も聞こえない。何の音も聞こえない校庭を歩く。生温い夜風が僕の顔を撫でる。気温はそれほど低くないのに、風が吹く度に背筋がぶるりと震える。自分の臆病さに泣きたくなる。200m走のトラックも直線で引けない校庭を、今日ほど広いと思った事は無い。

(…もう半分くらいまで来たかな…)

 どれくらい歩いただろう、と顔を上げる。未だ校庭の1/5も踏破していない事に気づいて、愕然とする。自然と苦笑が零れる。唇を撫で、再び耳の後ろに手を当てて、足を踏み出す。

(―夜―)

(夜は好きだ。父さんが居た時を思い出すから)

(小さい頃、絵本を読み終えても未だ僕が眠れない時、僕のお腹をポンポンと叩きながら、外で鳴いているものの正体をひとつずつ、教えてくれたっけ。あれはアマガエル、あれは暴走族、あのジィジィ鳴いているのはクビキリギス、あの口笛みたいなピューッていう音は―)

                                 ―ザクッ。

 靴底が静寂を割る音がする。僕は足を止める。口元を押さえる。そこで気付く。

(…音が―)

 ―漸く、気付く。

 立ち尽くす。

 ―夜の校庭に、立ち尽くす。

(音がしない)

(何の音も聞こえない。風の音と、僕の心臓の音以外には)

(…もっと、色んな音が聞こえてたって、良い筈なのに―)

 ―咽元を掻く。焦燥に咽が乾く。無理矢理唾を呑み下して、恐る恐る、耳を澄ませる。何の音もしない。緩やかな風と、早鐘を打つ自分の心臓の鼓動以外には。揺れる木々の音も、鳥の羽音も、犬や猫や、虫の鳴き声も、近くの公道を行き交う車の音も、最寄りの電車の音も。

 何も。

 …何の音も聞こえない。

(不味い)

(何だこれ?何が起こってる?僕は失敗したのか?未だ耳は残ってる、喰われた訳じゃないみたいだ、でも何の音も聞こえない、心臓と風の音以外本当に何も―)

(落ち着け、考えろ)

(―本当に何も聞こえない。どうすればいい?このまま、ここに居て良いのか?一体、どうしたら―?)

(怖い)

(…落ち着け、パニックを起こすな。冷静に考えろ、冷静に―)

(―レイセイって何だ?僕はここで何をしている?僕は相原みたいになるのは御免だ。ああやってバラバラになって、誰も知らないままに死ぬのは―)

(落ち着け)

(死にたくない)

(怖い。暗い。彼女に会いたくない。逮捕されたって、良い)

(―体育館に行くだけだ。体育館前まで行って、金木犀の木に触れる。それだけだ、それだけ―)

「―あら、荻野」

 暗闇から声がする。僕は文字通り跳び上がる。悲鳴の様な何かを口にする。声のした方向を見る。

 そこには、全校集会の朝礼台に、優雅とも言える様子で、彼女が腰掛けている。

 彼女。

“神隠し”。

(それだけ―…)

 綺麗な長い黒髪、切れ長の目、悪戯っぽい唇。結び目のぐちゃぐちゃなリボンのタイ、夏服の上から、カーディガン。彼女は相変わらず汗一つ掻いていない。涼しい顔をして、僕の方を、笑って眺めている。

 ―まるで、僕と彼女の間に、諍いなんて一切無かったかのように。

(それだけ―だったのに…)

 僕はだらりと両腕を体の脇に垂らす。息が苦しい。歯の根が震えるのを止められない。彼女は暗闇の中でも発光している様にくっきりと浮かんで見える。まるで海月だ、と僕は思う。水族館で、ライティングされて展示される海月の様に、彼女は内側から青白く発光して見える。僕は悲鳴を飲み込む。彼女は微笑みを崩さない。

「何しに来たの?夜のお散歩?」

「あ…」

「―それとも、私達を殺しに来た?」

 ―僕は首を振る。辛うじて首を振る。涙が出そうになる。咽が痛い。心臓が苦しい。僕は震える自分の両肩にしがみ付く。何とか懸命に言葉を絞り出そうとする。

「ぼ…ぼくは」

「―あたしを見捨てた癖に。荻野、何しに来たの?あたしから奪わないで。あたし達からこれ以上、何も奪わないで」

 ―彼女の声が変化する。彼女の声音が、声そのものが。僕は口を開けたまま、その場で呆然と固まる。彼女の音声がここ数日で聞き慣れたものへと変化していく。彼女は微笑みを絶やさないまま、自分の両耳を、ギュッと、軽く握る。

 ―その手を開いた時、両耳にはピアスがぶら下がっている。左耳に二つ、右耳に一つ。

 …僕は笑う。思わず、本当に思わず。噴き零れるみたいに。

(―相原)

(…糞)

(―ああ、あれは、相原の―)

 出来損ないの笑みを浮かべて、僕は彼女と対峙する。

「何しに来たの、荻野?」

「…相原を、返して貰いに来た」

「あたしを?どうして?」

「…助けて貰ったからさ。助けてくれようとした。だから僕も、相原の事を、出来るだけ、助けたい」

「あの時は、あたしを見捨てた癖に。随分都合が良いのね?」

「…あん時は仕様がなかったろ?僕は首が半分無かったし、それに、頭から出血もしてた。おまけに、気絶してたんだ、許してくれよ―」

「あたしを見捨てた癖に。あたしを見捨てた癖に。あたしを見捨てた―」

「―なぁ、アンタ。篠原和澄、“神隠し”、何でも良いさ。頼む、相原を返してくれ。アンタの中身にはそれ以上手出しはしないし、アンタの正体についても公言しない、約束する―」

「―荻野、あたしが見える?」

「―あ?ちょっと、言ってる意味が―」

「あたし、綺麗になったわ。十分綺麗になったでしょう?」

「あ、ああ―そうだな、アンタは十分綺麗だ。だからさ、だから―」

「―ああ、なのに、どうしてあの人がみえないの?」

「お―」

 ―本能に圧される様に。

 僕は後ろによろめく。一歩、後退さる。彼女はクスクスと笑う、クスクスと肩を揺らして笑う。彼女は腰を浮かして、朝礼台の壇上に、爪先を揃えて立つ。

 夢の続きに居る様に感じる。

 現実感のぼやけた夜の校庭で、僕は半笑いのまま壇上に立つ彼女を見上げている。彼女はバレエのダンサーの様に、右腕を体の前に寄せて身を捻り、そのまま右腕を弧を描くように開きながら、上体を大きく仰け反らせる。

 ―花束を解く様に。

 彼女の上体が、バラバラと複数の体に分かれていく。ストップモーションのコマ送りのように、幾つもの容姿の違う上体が、残像の様に彼女の体の後を追って現れ、そしてバラバラに千切れていく。

 朝礼台の上はいつの間にか手狭になっている。朝礼台の上には6人の少女が立っている。右の二人には見覚えが無いが、左の4人は全て見覚えのある顔をしている。

 篠原和澄。

 園部美佳、吉田優香。

 そして―。

(…相原)

 ―彼女達は笑う。彼女達は皆、一様に同じ仕草をしてクスクスと笑う。両端の二人が壇上を降りる。僕はチラリと横目で東棟を盗み見る。

(…クソ、遠い)

(追いつかれずに走れるか?相原は、足、遅いけど…)

(―今年の体力測定、100m、何秒だっけ?)

「―ああ、綺麗にならなきゃ」

「「「「「足りないの。ああ、もっと、もっと、もっと、もっと、綺麗に!!」」」」」

 篠原の言葉を追う様に、他の五人が一斉に唱和する。

 ―僕はポケットの懐中電灯を引き抜いて彼女たちに投げ付ける。それから、脇目も振らず、弾かれた様に逃げ出す。懐中電灯が何かにぶつかる様な音も、地面に落ちた音もしない。喰われたんだと、目にせずとも、理解する。

 忘れる。

 ―今だけは忘れる。

 明日の事を。明日からの事を。

(走れ)

(ああクソッタレ、ヤバいヤバイヤバイヤバい―!!)

(死ぬ気で走れ。吐くまで走れ)

(死にたくなけりゃ)

 走る。つんのめり、転びそうになりながら、校舎へ―東校舎では無く、西校舎へと。

(捕まったら終わりだ)

(あの距離を6人に追いかけられて、僕の足で、逃げ切れる保証は無い―校舎の中を巡りながら、やり過ごしていくしかない。畜生、もう脇腹が痛ェ―それに、ああ、息が)

(文系なんだよ僕ァ―!)

(死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたく…)

「荻野」「荻野くん」「荻野くん、何処行くの?」「駄目」「駄目だよ」「駄目だよ荻野」

「駄目」

「駄目」

「駄目」

「駄目、逃げちゃ―」

 彼女達の声がする。彼女達の輪唱が聞こえる。僕はそれを振り切って、昇降口の触れられそうな程の濃密な暗闇の中に、肩口からぶつかる様にダイブする。

 息を止める。衝撃を覚悟する。けれども肩口が何かに激突する様な事は無く、僕はそのまま校舎内へ転がり込む様に足を踏み入れる。

 校庭から彼女達の声が追いかけて来る。

 決して、叫んでいる訳では無いのに。耳元で囁いているみたいに。

「追いかけなきゃ」

「追いかけて」

「追いかけて」

「追いかけて?」

「追いかけて、どうするの?」

「殺さなきゃ」

「そうね」

「そうしましょう。もう男は要らないもの」

「殺しましょう」

「殺して、バラバラにしましょう」

「殺して、バラバラにして」

「殺して、バラバラにして、どうするの?」

「そうね、殺して、バラバラにして、それを部屋の飾り付けに使いましょう」

「そうね、それが良いわ。きっと素敵な部屋になる。彼も喜ぶわ」

「背骨はコート掛けに使いましょう。足りない部分は木で補って」

「下半身は椅子にしましょう。丁度良い高さになってくれそう」

「頭蓋骨は小物入れに」

「目玉でプティングを、肉体で石鹸を。皮は鞣して敷物に、脳味噌はトロトロに溶かしてお吸い物に。腕の骨はどうする―?」

「傘の柄に」

「鍋を掻き混ぜる柄杓が欲しいわ」

「靴ベラを無くしちゃって―」

 ―耳を塞ぐ。爪先すら見えない暗闇の中を、記憶を頼りに、必死で目を凝らして疾走する。西棟、一階の窓から、彼女達が朝礼台から散開して動きだすのが見える。僕は歯を食い縛って、身を低くして、息を殺して、瞬きを忘れて、夜の廊下を、非常灯の明かりを標に駆け抜ける。

(クソッタレ)

(相原…)

(―なんとかしてやる、必ず何とかしてやる、なんとか…!)


 西校舎の中央階段から、取り敢えず校舎の二階へと上がる。昨日、相原を見つけて、追いかけっこを始めた場所だ。その事を、もう随分遠い昔の様に感じる。

(待ってろよ、クソ、待ってろ―)

(―落ち着け、落ち着け、落ち着け―)

(…あの木に着きさえすれば。あの木に触れさえすれば、何とか…)

 二階に上がったのに、大した意味は無い。二階部分に居れば、上にも下にも咄嗟に逃げられるだろう、という安易な考えからだ。それは階段の傍に居る場合だけだ、と気付いたのは、既に西棟二階の廊下を中程まで進んでしまってからだ。又も情けない笑みが零れる。自分の浅慮さを呪いたくなる。

(…一階に居た方が、窓の外にも逃げられる。遥かに逃げ道の選択肢が多いのに…)

(多分、考えた積りになっていただけで、本当は違う理由なんだろう。この階には、僕のクラスがある。馴染の道が、僕を安心させてくれる。多分、本当は、理由は、それだけで…)

(―心底、自分が嫌になる。もう二度と、間違える事は出来ないのに…)

(考えるんだ。良く考えろ。この状況を、自分の失敗を、どうにかしたいのなら)

 夜の廊下を、息を殺して、這うように進む。自分の歯の根が立てるカチカチという音と、心臓の音だけが周囲に木霊する。僕は左胸と口元を押さえ、どうかこの音が消えますようにと知っている限りの神様の名前に祈る。僕は浅い呼吸を繰り返しながら、膝立ちで前進する。深い呼吸をしてしまえば、それだけ多く、周囲の暗闇を吸い込んでしまう気がして。体の内側に多く暗闇を吸い込んでしまえば、それが僕の位置を彼女に密告してしまうだろう、という根拠の無い確信が、頭の中にこびり付いて離れない。

(苦しい)

 ―袖口で口元を押さえて、歩く。火災現場で煙から逃げ惑う人々の様に。

(―落ち着け、落ち着け。落ち着いて―)

(怖い。暗い。どうして僕はこんな事を?相原なんかどうなったっていい。自分の部屋に帰りたい―)

(―助けてくれた。助けようとしてくれた。僕の話を信じてくれた。相原だけだったんだ、そういうの)

(…夜に来る必要あった、これ?明日、試してみりゃよかったじゃないか。明日、体育館前のあの木に触れて、王の欠片が出て来ないか、確かめてみて―)

(―明日まで待っている余裕はない。僕には時間が無いんだ。警察はもう、学校の中まで踏み込んで来ている。捜査方針も発表した、事件の終幕も近い。そんな中、相原が行方不明になった―)

(―僕と一緒の時に)

(…僕は、体育館の中でぶっ倒れているのを目撃されている。特に隠れて移動していた訳じゃない、僕と相原が体育館に向かっていたという目撃証言も取れるかもしれない。相原が、友人に何かを告げていた可能性もある。僕が自由に動けなくなるのも時間の問題だ。もしかしたら、何かを試せるのは今日が最後かも)

(―相原の行方を知っているのは僕だけだ)

(王の欠片の事も)

(…今日しかない。今日しか無いんだ、頼むよ、お願いだから―)

 ―太腿を叩き、怯える体を少しずつ前進させる。西校舎の終わりが見える。中央棟の二階へと繋がる、渡り廊下。僕は思わず、ほうっと安堵の溜息を吐く。指先を床に突き、そこまで急いで向かおうと、僅かばかり腰を浮かす。

 瞬間。

                                 ―コツン。

 音が聞こえる。

                         ―コツン、コツン、コツン。

 …階段を登って来る、足音が。

 僕はクラウチングスタートもどきの体勢のまま、動きを止めてしまう。その恰好のまま、固まってしまった首筋をぎこちなく動かして、後ろを振り返る。

「―荻野くん?」

 暗い廊下の南端に、鈍く青白く輝く少女がひょっこりと姿を覗かせる。垂れ目で、可愛らしい丸耳をして。眼鏡を掛けて、そしてとても長くてきれいな黒髪をした少女。

(…園部)

 僕は床から手を離し、屈んだまま、彼女の方へと向き直る。口を開く。何を喋る積りだったのか、途端に分からなくなる。言葉の代わりに、溜息が出る。呆れた様な溜息だけが、長々と。

「何処へ行くの?」

「…やあ、園部さん」

「何処へ行くの?」

「見逃してくれないか?ちょっと、試してみたい事があるんだよ。これはあんた達の為でもあるんだ。なぁ、もし、上手くいったら―」

「何処へ行くの?」

「…言いたくないね」

「何処へ行くの?」

「後100回言ったら教えてやるよ」

「何処へ行くの?」

 肩を揺らして彼女は笑う。僕は遣り切れない笑みを浮かべて遠く、彼女を眺める。今の彼女は、最初、柏木に写真で見せられた時の印象とはあまりにも違う。写真の中の彼女は柔和で、穏やかで、そして優しそうだった。今の彼女は冷徹そのものだ。青白い光が暗闇に慣れた僕の瞳を焼く。昔、TVで見た、放射能の光にとても良く似ている、と思う。

「何処へ行くの?」

「頑張れ。後98回だ」

「…私を見捨てた癖に」

 ―その言葉は思いの外、僕に衝撃を与える。鳩尾を圧迫された様な感覚がして、息が苦しくなって、僕は思わず体を前に折る。顔を歪めて彼女を見上げる。彼女は先程と一切変わらずに笑っている。彼女の言葉が、他の“彼女”達と同じ様に、壊れたレコードの様に繰り返される譫言の様なものだったとしても、それの含む真実が、僕の心臓を握り潰す様に締め付ける。

「私を見捨てた癖に」

「…仕方ないじゃないか。あんな奴相手に、一体どうしろって言うんだ?」

「私を見捨てた癖に」

「僕は只の高校生だ。何にも無い、何の取り柄も無い、只の…」

「私を見捨てた」

「…大した事は出来ないんだ。出来る事は限られてる」

 ―彼女が腕を上げる。授業中、先生に発言の許可を求める様に。彼女の右腕の延長に何かが握られているのが見える。僕はそれをぼんやりと目で追う。彼女がクスクスと笑う。

(…僕が投げた、懐中電灯…?)

(―や、それにしては、やけに細い―)

(それに―尖ってる)

 彼女の腕の先の延長が、外の明りを受けて光る。

 僕は、頭で考えるよりも先に、その正体に気付く。声を出す暇も無く、尻餅を突く。腕を目一杯に、前に突き出す。彼女を階段下に押し返す様に。

 ―目を閉じる。閉じてしまう。

(ヤバい、あれ―)

(包丁―…?)

                                 ―ひゅう。

 風切り音がする。

 背後で金物が転がる音がする。右手と右頬に、鋭い痛みを感じる。痛みが僕を現実に引き戻す。怪我の具合も分からぬままに、息を殺していた事も忘れて、目を見開き、両手を滅茶苦茶に振り回して、半狂乱で僕は駆け出す。

(痛い)

(ヤバイ)

(何が起きた―?)

(痛い。心臓が、心臓と手が、痛い―)

 何度も彼女を振り返る。青白く光る彼女は廊下の奥をのんびりと歩いている。全く急ぐ様子は無い。

(クソ)

(糞)

(クソ、糞、糞―…!)

 僕は必死に足を回転させながら、中央棟への渡り廊下へと飛び込むようにカーブする。途中、彼女の投げた包丁を見つける。膝を折り、左手を伸ばして、倒れ込む様にそれを拾う。振り返って、彼女との距離を測る。彼女は未だ遠く、遥か彼方に居る。慌てた様子は一切、無い。

 彼女が又発言の許可を求める様に、右手を上げて、挙手をする。僕は慌てて身を低くして、中央棟への渡り廊下を息も絶え絶えに走り抜ける。

(痛い)

(血ィ―出てる?)

(後だ。何もかも、全部後。先ずは、あの木に、辿り着いて―)

(辿り着いて―それで?辿り着いたら、本当にどうにかなるのか?)

 僕はその考えを、直ぐさま頭から振り払う。中央棟の2階廊下を、身を低くして、蜥蜴の様に身を伏せて、地を這って、前へと向かう。

(痛い)

(クソ…)

(ああ―本当に、どうにかなんのか?僕が何かをしようと藻掻けば藻掻くだけ、何もかも悪くなっていく。本当は僕は、家の中に居た方が、良かったんじゃないのか?母さんが帰って来るのを待って、事情を話して、荷物を纏めて。消えてしまったクラスメイト達の事なんてなにも知らないフリして、何処か遠くの土地で息を顰めて暮らしていた方が―)

(―明日だ)

(痛い…)

(糞喰らえ)

(…明日になったら、そうしてもいい。明日になったら、そうするか考えよう。だから頼むよ、今日だけは、お願いだから―)

(…もうこれ以上、臆病風に吹かれないでくれ、祐輔。これ以上、自分を嫌いにさせないでくれよ。僕に勇気をくれ、覚悟をくれ、誰だって良い、なんだって良いから、死ぬほど暗くて、死ぬほど痛くて、死ぬ程怖いけど―…)

(…逃げる訳にはいかないんだ。これが多分、最後のチャンスだから)

 ―地面を這って、歯を食い縛って、僕は情けなく前進する。彼女の笑い声が後ろから付いて来る。息を止めてその声を聞きながら、僕は左手に包丁を握り締め、床の上を埃塗れになって、みっともなく前進する。

(…どれだけ無様だって、良い)

 時折顔を上げて、窓から西校舎の様子を確認する。西校舎二階の中央階段前に、青白い女がこちらの方へ歩いて来ているのが見える。彼女は未だ右手を高々と上げている。僕は再び身を屈め、今度は中腰の体勢で、前へと歩き始める。

(―これを、終わらせられたなら)


(…一階だ)

 渡り廊下を進む。ほんの5m程の渡り廊下を越えたその先に、中央棟の西端の階段が見える。

(一階へ降りよう)

(上の階へ上がって来たのは失敗だった。我ながら、馬鹿だった。上階に上がれば上がるだけ、逃げる選択肢を狭くする。一階に下りた方が良い。そうすれば、窓から校庭にも、校舎裏にだって―…)

(怖い)

(地面に降りよう、地面に、地面の近くに…)

 駆け足で階段の傍に寄る。喜び勇んで階下へと一歩、踏み出す。思わず顔が緩む。

 ―その時、音がする。

 彼女達の音がする。

                                  ―クス。

                                ―クスクス。

                              ―クスクスクス。

 …階下に流れそうになる体重を抑え、済んでの所で足を止める。ゆっくりと自分の顔が、しわくちゃの、渋面に歪んでいくのが分かる。僕は右手で咄嗟に顔を覆う。零れそうになる、涙と溜息を堪える。

(…駄目だ)

(今は駄目)

(今は駄目、今は…)

 ―静かに、深く息を吸い、顔を拭って、僕は諦めて階下へ向けた爪先を方向転換し、中央棟三階へと続く階段に、足を乗せる。階段を登る途中、何度も立ち止まって、耳を澄ませる。彼女達の笑い声は、未だ階下をうろついている様だ。それに、“園部”の足音も、まだ遠くの方に聞こえる様に、思う。

(―下に降りるのはマズい…)

(反響していて良く分からないが、多分、あの声、一人分のものじゃない…)

(恐らく“彼女”は、中央棟に複数人を投入した。一階に居るのは、二人か三人。下に降りるのはマズい、廊下で両側から挟まれたら―あんまり考えたくない。窓を開けて外へ逃げるのと、彼女達が走って来て僕に触るの、どっちが早い?)

(触られたら終わりだ。喰われたら、終わり…)

(―クソ、そのリスクを冒してでも、階下に降りて、選択肢の多さを取るべきだったか?逃げの選択肢の広さを―)

(…僕は、また間違えたのか…?)

(―“彼女”は、最初グラウンドに居た。グラウンドの、全校集会で使う、朝礼台に。その後6人に別れた。“園部”は西校舎、中央棟一階には、最低二人は居るとして…)

(残り3人。グラウンドに一人残してるかも?あー…、ほら、司令塔として。あいつらに、そういったものが必要なのかは、僕には分かんないが…)

(同じ仕草。同じ笑い方)

(全く同じセリフ)

(コピー&ペーストしたみたいに)

(―意識共有?脳波伝達?意志統一?)

(…けど、そうだとしたって、校庭を見張る役割は必要だろう。僕が窓から逃げ出して、校庭を突っ切る可能性だって、向こうからすりゃ、未だ無くは無いだろうし…)

(…なら、階下に逃げた所で、残る選択肢は校舎裏くらいだ。なら、選択肢としてはあんまり変わらないか?少なくとも、上の階からは、クスクス笑いは聞こえない。だったら、上の階でやり過ごして、何とか東棟まで―)

 ―階段を踊り場まで上がる。息が上がる。思考が停まる。

(マズい…)

(疲れ―てんのか、僕…?)

 縺れる足で壁際まで歩く。額を押し付ける様にして目を閉じて、正面から壁に凭れ掛かる。額がひやりとして気持ちいい。雑多な思考が頭の中をぼんやりと駆け巡る。このまま眠ってしまいたくなる。馬鹿な考えだ、と思う。けれどもその馬鹿な考えに、思わず縋ってしまいたくなる。何もかも全て忘れて、眠りの中に引きこもってしまいたくなる。

(…駄目だ、駄目、今は…)

(目を開けろ。息を吸い込め。傷の確認を…)

 右手で右頬に触れる。傷口を指先で探り当てる。右手の中指の先が、頬骨の下辺りに、小さな裂傷があるのを見つける。裂傷の長さは精々小指程度だが、結構ざっくりと、縦に深く抉れているのが分かる。が、全くと言って良い程、痛みは無い。

 それに―出血も。

(?)

 壁から離れる。目を開ける。右の掌を、頬に押し付ける。その手を、暗がりの中で、目を凝らして見る。掌の上に色は無い。血液に触れる様な感触も無い。

(何だ?)

(かまいたち、とか?確か、かまいたちによって出来た傷は、出血が少ないとか、昔マンガか何かで―)

(―馬鹿。現実に、包丁投げつけられたんだぞ?現実とは、到底思えないけど―)

(夢の続きに居る様な気がする)

(―痛くない。傷はある、確かにある。あの時は、はっきりと痛みを感じたのに…)

(…まさか、怖すぎて、痛みを感じたのか?幻肢痛、的な…)

(割り箸を熱した焼きごてだと偽って、人の肌に押し付けると実際に火傷した、みたいな話、あったな。あれみたいなもんか?包丁に向かって、手、伸ばしたから―)

(でも―血ぃも、出てないんだぞ?それって、何か、おかしくないか?)

 右手を、目の前に近付けて見る。右手の外側、小指の付け根辺りが、感情線に沿ってぱっくりと割れている。僕は思わず顔を顰める。かなり深い傷だ。親指の第一指程度はある。何か、白い、骨…のようなものも見える。

 けれども、痛みは無い。

 出血も。

(…?)

(痛くない)

(痛くない)

(痛く…)

 僕は痺れた様に暫く掌を見つめている。傷口から入り込む生温い夜気が、酷く冷たく感じる。血がドバドバと溢れて、悲鳴を上げるような痛みが押し寄せて来ない事が、何故だかとても恐ろしい。

(怖い)

(助けて、父さん)

(母さん…)

 僕は傷口を見つめている。と、不意に左腕の先が重たく感じる。僕は左手へと目をやる。

 ―左手の指先に、包丁が握られている。それを何処で拾ったか、思い出すのに、何故だかとても時間が掛かる。

(あ?)

(何だっけ、これ―)

(これ―は、彼女の)

 僕はそれを、目の高さに持ち上げる。包丁を眺める。胸騒ぎがする。

 胸騒ぎだけが。

 …包丁の、巻き起こしている異変に漸く気付く。

(―あ)

(うわ…うわ)

 ―反射的に包丁から手を話す。悲鳴を上げてしまわない様に、辛うじて両手で口元を抑える。けれど、地面に落下していく包丁は止められない。自分の間抜けさに吐き気がする。涙が滲む。包丁が切っ先を下に落ちていく様がやけにスローモーションに見える。自己嫌悪に気が狂いそうになる。

 包丁が地面に落ちる。からんからんと金属音を、喧伝する様に周囲に撒き散らす。

 ―忽ち、“彼女”の声がする。

 彼女たちの声が。

「荻野?」

「荻野くん」

「荻野」

「荻野くん、上かな?」

「上だね」

「上に居るよ」

「見つけた」

「見つけた」

「見つけた」

「「「行かなくちゃ」」」

 ―一斉に。

 クスクスという笑い声が聞こえる。廊下を走りだす音がする。階段を駆け上がる音がする。僕は考える暇も無く走り出す。壁を蹴り、階段を段飛ばしで駆け昇って、中央棟三階の廊下に出る。

(三階―)

(クソ、どんどん目的地から遠ざかってる―)

(開いてる教室は無いか?何処かの教室に入って、奴らをやり過ごして―)

(音楽室、書道室、美術室、生物室―)

(―『音楽室の動くベートーベン』、『生物準備室の動く人体模型』…)

(…クソ、こんな時に、何思い出してんだよ!?)

 手近の音楽室の扉を乱暴に揺する。扉は当然の様に、鍵が掛かっている。僕はショルダーバッグの中から金槌を取り出し(ごめん、母さん)、それを窓硝子に叩き付ける。包丁を落とした時よりも酷い、破傷音が鳴り響く。割れた穴に手を突っ込んで、窓の鍵を開ける。窓からのめり込む様に、内側へと入る。硝子の破片を踏み砕きながら、窓をもう一度締め直し、積んであった机や椅子を引き倒して、壊した窓の前に、何とも頼りないバリケードを作る。

(―クソ)

(クソ、クソ糞、糞糞糞―!)

(どうする!?)

(どうすんだよ、どうしたらいい!?どうすれば―!??)

 頭を抱える。教室の中を見回す。ふと、教室の後ろの、壁に掛かったベートーベンに目が留まる。

(『動くベートーベン』…)

 ―曖昧な笑いが口元に浮かぶ。自分の掌を見る。左の掌を。

 …左の掌は、虫に喰われたみたいに、指先から掌の上部に掛けて、ボロボロに欠けている。特に、指の付け根と、第一関節の辺りは、酷い有様だ。人差し指から小指まで、四指の指紋が丸く削れて骨が剥き出しになっている。

 けれども、痛みは無い。

 出血も。

(クソ…)

(喰われた)

(…喰われたんだ、あの包丁に)

(包丁の柄に)

 目元を覆う。歯を食い縛って、気持ちが落ち着くまで、暫くそうしている。そんな事をしている暇は無い、と分かっていても、そうせずには、立って居られない。

(―喰って、パーツを奪ってる訳じゃないんだ、“彼女”は)

(…喰われたものも、“彼女”なんだ)

(“彼女”が喰ったものは、全て“彼女”になる。“彼女”は、喰ったものを、自分と同質化する…)

(あの包丁も―“彼女”の一部なんだ)

 僕は目を開ける。周囲をぐるりと見回す。考えるよりも先に、体が動く。カーテンを無理矢理引き裂き、引き千切って、それを音楽室のピアノの足に括りつける。外へと続く、廊下側とは逆の窓を開ける。下を見て、もう一枚、カーテンをレールから引き剥がす。それをさっきのカーテンの先に結び付ける。固く、固く、力の限り。命を預けられる、と納得できるまで。

(クソ)

(クソ―)

(クソ、クソ、クソ―!)

 ―即席のカーテンロープの先を窓の外へ投げ出して、震える足で、僕は窓辺へと向かう。相原を呪う。自分を呪う。自分の意気地の無さを呪う。僕は自分の膝を何度も拳で殴り付け、ロープを掴んで、恐る恐る、窓枠を跨ぐ。

 下を見ない様に、意識して視線を逸らす。教室の後ろの、壁に掛かったベートーベンと、目が合う。

「…なぁ、あんた、“彼女”と同じ、七不思議なんだろ?」

 僕は皮肉っぽい笑みを浮かべる。ベートーベンは笑わない。僕は天井を見上げて、深呼吸しながら、頭の中でカウントダウンをする。

「あんたなら出来るんじゃないか?“彼女”を足止めしてくれよ。10分か、5分。1分でも良い、頼むからさ」

 ―ベートーベンの表情は変わらない。僕は肩を竦め、息を止めて、即席のロープに全体重を掛ける。


(死ぬ)

(ヤバい)

(死ぬ―死んだ、これ)

 ―中央棟3階から、夜の校舎の外に身を投げ出す。

 手の中でロープが撓んだと思った次の瞬間、心配になるくらい、限界まで、布が張り詰めるのを感じる。何かがブチブチと裂ける様な音がする。自分が何をしているのか分からなくなる。即席のロープが手の中で泥鰌の様に滑る。周囲から音が消える。咽が痛い。断続的な、短い、甲高い悲鳴が聞こえる様な気がする。それが自分の内側から聞こえるのか、外側から聞こえるのか、分からない。“彼女”たちのやって来るパタパタという足音を聞いた様な気がする。音楽室のグランドピアノがガリガリと床を削って横滑りしているのがロープを通して伝わる。涙と鼻水が同時に出る。

(怖い)

(死ぬ)

(助―たすけて、かみさま)

 思わず下を見る。余計、気が動転する。高所から見る夜の暗闇は、底無しの奈落の様に思える。顔が引き攣る。心臓を直接鷲掴みにされている様に、苦しい。何故か、今日、晩御飯を食べて来なかった事や、ジョンの散歩に行かなかった事ばかりを思い出す。スイッチを切ったかどうか、うろ覚えのPCの事や、やり忘れていた課題の事、それに、相原との約束。

(死―)

(怖い)

(―馬鹿、馬鹿、馬鹿だ、僕。僕は馬鹿か、馬鹿なのか?何だ、何の為に、こんな―?)

(…死ぬ、死んだ、死んじまう、絶対無理だ、死んじまう―)

 ―真下に、階下の窓の上部を覆う、幅15cm程の、短い庇の縁が見える。僕は考える猶予も無くそれに乗る。手の中から即席のロープがするりと擦り抜けていってしまう。僕はイモリの様に、限界まで校舎の外壁にへばり付いて庇の上に立ち、夜風に揺れるロープを情けなく見上げる。ロープは風に流されて、僕の頭上、遥か上空を揺蕩っている。多分、恐らくもう二度と、あれを掴まえる事は出来ないだろう。

(…万事休す、って感じだな…)

(何だ?何だ、これ?今、僕どうなってる?踵が滑る、それに手汗が酷い、息を吸うだけで、体が後ろに―?)

(―生きてる、僕?それとも、死んでる?これは夢?)

(…体が震える。どうすんだこれ、こっから…)

 ―首だけを動かして、何とか下を見ようとする。顔を動かすだけで、体のバランスが崩れて、背中から下に落っこちてしまいそうになる。足が震える。肺の空気を目一杯吐き出して、出来るだけ体を平べったくしようとする。混乱した笑みが浮かぶ。自分の状況が、心底可笑しくなる。

(…何やってんだ、僕?3階から飛び降りて、二階の窓の庇の上で、校舎の外壁に、標本宜しくべったり張り付いて…)

(おかしくなってしまった。何もかもだ。なにもかもおかしくなってしまった。いつからこうなってしまったんだろう。僕はどこで間違ったんだろうか)

(…馬鹿みたいだ。潰れた蛙みたいに、壁にピッタリと…)

(おしっこ漏れそう)

(…考えろ。このまま朝を迎える訳にはいかない。どうすりゃいい?)

(跳び下りるか?)

(2階の屋根くらいの高さだ、死ぬ―って事は、無いだろうが…)

(音がする)

(―それに、骨折でもしたら?そうしたら、もう逃げられない。地面に落ちて、動けず蹲っている僕の周りに、6人の“彼女”たちが集まって…)

(…そうなったら、終わりだ。選択肢は、他に何がある?)

(足元の、窓の庇の、縁を掴んで―窓から、二階の教室に、入る)

(…それしかないか。けど、どうする?窓は閉まってる筈だ。どうやって、中に―?)

(蹴破るしかない)

(―蹴破る?僕が?庇に、指先でぶら下がって―勢いを付けて、キックと共に、教室に突入、ってか?)

(正気か?僕はいつから、ハリウッドのアクションスターになった?)

(…一発で上手く行きゃ、良いけどな。最悪、窓硝子も割れず、庇にぶら下っている事も出来ず、反動で後ろに投げ出されて―地面に投げ出され、肋骨と足の骨でも次いでに折って、その音を、“彼女”達に聞かれ…)

(もう失敗は、出来ないんだ)

(―そうだ、それに、音だ。音はどうする?窓を割れば、音がする。“彼女”達は、その音を絶対に、聞き逃さない…)

                                  ―クス。

                                ―クスクス。

 僕は動きを止める。息を殺す。恐る恐る、上を見上げる。

 音がする。

“彼女”達の音がする。

(猶予は無い)

 僕は引き攣った顔で、音楽室から、窓の外へと棚引く、ロープ状のカーテンを見上げる。音は3階から聞こえる。中央棟の、3階の廊下辺りから。僕は歯を食い縛り、唾を飲み込む。彼女達の足音がする。彼女達の軽やかな足音がする。

 ―胃袋が雑巾の様に締め挙げられるのを感じる。

(どうする?)

(―どうする?どうする?一体、どうしたら―!)




 私。

 私。私。私。私。

 沢山の私達が居る。私達は輪になって、校舎の両端を対になって歩く。

 ―楽しい。

 ―楽しい。

 ―楽しい。

 楽しさが込み上げて来る。尽きる事の無い泉の様に、お腹の底から笑いが込み上げて来る。自分達に足りないのはこれだったんだ、と思う。幸せが頭の先から足の爪先まで満ちる。私達は完璧になったんだ、と思う。『完璧な幸せ』だ。以前はこうじゃ無かったような気がする。思い通りに行かない事の方がずっと多くって、それは仕方の無い事だと、半ば諦めてもいた。けれども今は違う。世界中に、体の外まで、私が満ちている。何もかも、私の思い通りになる。諦めなきゃならない事なんて、ひとつも無い。

(パーフェクト・ワールド)

 ―でも、それを今、壊そうとしている奴がここに居る。■■だ。■■くんは何故だかここに来て、私の■を返せと文句を言って来た。理由は良く分からない。■■くんはその■の何でもないし、前はどうだったかは知らないけど、今はもう、この■は私のものなのだから。

(■?)

(■ってなんだっけ?)

(分からない)

(以前ってなんだっけ?)

(―以前?以前って、前って事?前って、何?この完璧な世界になる前の―)

(自分ってなんだっけ?)

(私、って何だっけ?)

(■■。■■なんか、嫌いだ。この完璧な私を、壊そうとするのなら―)

(どうして■を返して欲しいの?)

(分からない。■は私のものなのに)

(―食べてしまおう。お腹が空いて来た。前に食べたのはいつだっけ?前に■を食べたのは)

(…私、何を食べてたんだっけ?)

(男は駄目。もう男は中に要らないの。あの人に会えなくなっちゃう)

(…あの人って何だっけ?)

(―もっと綺麗にならないと。あの人が会いに来てくれないのは、私にきれいが足りないからだ。もっともっと■を食べましょう。■の人を。綺麗になったって、■■も言ってた。だからもっと、■を食べて、これ以上に―)

(…咽が乾いた)

(苦しい)

(だから■■は食べずに殺してしまいましょう。食べずに、皮を剥いで、肉を削いで。骨を剥き出しにして、家具を作るの。素敵な部屋を造らないと。あの人が驚くくらいの、素敵な素敵な、レディのお部屋を)

(脳みそと目玉は取って置いて。あの子たちが、料理に使うから―)

(…あの子たちって誰だっけ?)

(お腹すいた)

(■■って、なんだっけ?)

 私は笑う。沢山の私達は笑う。上から硝子の砕ける音が聞こえて来る。みんなが口々に、それは■■の仕業だって言う。それが可笑しくて、また私達は笑う。それが■■くんの仕業だなんて、そんなこと分かり切っているのに。だって、他に生きているものなんて、この辺りにはひとつもいないんだから。

(この辺りに居るのは、みんな、私。私達だけ)

(私達の楽園)

(パーフェクト・ワールド…)

 私達は笑いながら、伸び縮みする階段を駆け上がる。ブヨブヨと弾力のあるグミみたいな階段の段を登って、私達は『チュウオウトウ』の三階へとやって来る。『チュウオウトウ』の廊下の西端に居る私が、東端に居る私に言う。

「ここ」

「何?」

「どうしたの?」

「硝子が割れてる」

「ホントだ。割れてるね」

「なんの教室?」

「音楽室。音楽室だ」

「ホントだ。音楽室だね」

「音楽室に、何の用だろう?」

「さぁね。ベートーヴェンに、助けでも求めてるんじゃない?」

 私達は一斉に笑う。楽しい。楽しくて仕方が無い。笑いながら西端に居る私が、『オンガクシツ』の扉に手を掛ける。

「…あれ」

「どうしたの?」

「どうしたの?」

「いや、扉が、開いてない…」

「そりゃそうでしょ。■■は硝子を割って、音楽室に入ったんだからさ」

「それは困った。どうやって中に入ろう?」

「困った。困った。困った。困った―」

「窓から入れば良いんじゃ?」

「はしたないでしょう。スカートの中が見えちゃう」

「どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう―」

「―じゃあ―食べちゃえばいいんじゃない?」

「それは良い」

「それは良い考え。鍵を食べてしまいましょう」

「ドアを食べてしまいましょう」

「校舎を食べてしまいましょう」

 私達は笑う。私達は一斉にクスクスと笑う。西端に居る私が、『オンガクシツ』の扉の中央に手を沈み込ませる。私達は、それを東端から見守っている。

「―ゲ。マズイ味―」

「塩でも持ってくるべきだった?」

「多分家庭課室にあるわよ。誰かに取りに言って貰う?」

 ―と。

 その時。

 音がする。

 大音量で、音がする。

 私達の世界を揺るがす様な、大きな大きな雑音がする。




(…上手くいったか?)

 首を思う様に動かせない所為で、行動の成否は分からない。―が、そう思うのと同時に、頭上で大音量のビープ音が鳴り響き始める。僕はホッとして、防犯ブザーの安全ピンを口からプッと吐き出す。鞄を体の前側に背負い直す。

(良かった、成功した―)

(―の、かな?一応、音は3階の音楽室辺りからしている気がする。もしかしたら、別の教室とか、屋上に行ってしまったかも分からないけど…)

(…他に窓が開いてる教室があるとは考え難いけど、別の教室なら、まだマシかな。問題は、ブザーが屋上まで行ってしまった場合だ。これからする事を考えると。どうしたって、多少音は出る…)

(―あんまり離れていると、僕の行為を、音が掻き消してくれるかが分からない)

(…けどまぁ、屋上まで届くほど、僕の肩は強く無い。自分の弱肩を、信じるとするか…)

 鞄の中に手を突っ込む。金槌を取り出し、それを足元に、落としてしまわない様に、そっと立て掛ける。もう一度バッグの中に手を入れ、次に新聞紙を掴めるだけ、取り出す。千切れる様にして出て来た二、三枚の新聞紙を口に咥え、震える指先で、ショルダーバッグのジッパーを閉じる。

(…しかしまぁ、小学校の頃の防犯ブザーなんて、良く動いたな…)

(電池が腐って無くて良かった。碌に中身を替えた記憶は無かったけど。母さんが替えててくれたのか?それでも、多分5―6年前くらいの―)

(…それに、スイッチ式で無くて良かった。助かった、ピン式で…)

(―持ってて良かった、防犯ブザー。やっぱ、有事の際には、頼りになるよなぁ、これ…)

 ―顔を校舎の外壁にくっ付けたまま、僕は可能な限り、膝を曲げる。精一杯指を伸ばして、足元の金槌を拾おうとする。新聞紙が自分の呼吸でかさかさと揺れる。足場の無い部分で、宙に浮いている尻が、夜風に曝されて体温を失っていく。右手が校舎の外壁を削る。少しでも爪の立つ場所は無いのかと、指先が取っ掛かりを探して、汚れるのも構わずに、そこいら中をガリガリと引っ掻く。

(…クソ。タマヒュンどころの騒ぎじゃないぞ、これ。こちとら、高いとこはそんなに得意じゃないってのに。腰が震える。風の音が、怖い。何やってるんだろ、僕。命綱無しのバンジージャンプか?どっかの部族の、成人の儀式かよ…)

 左手の指先が金槌の柄に触れる。

(来た!)

(落ち着け…これで、金槌を弾き出したりしたら―)

(早く―早く早く、クソ、早く―)

 ―左手の親指と、穴の開いた人差し指が、慎重に金槌の柄を掴む。思わず顔が綻ぶ。ここ最近の出来事の中で、唯一上手く行った良い事例だ、と思う。

(幸先、良い)

(落とすなよ…落とすな。頼むから―)

 金槌を足元から引き揚げる。それを右手に預けて、左手で口元の新聞紙を剥ぎ取る。それを一枚ずつ、お腹の辺りで、金槌に丁寧に巻いていく。

(…こんなんで、音が抑えられるかは、分からないけど―)

(―出来る事をやっていく。それしかないんだ。出来る事をやるしかない…)

(…ハ、こんな事になるなら、命綱とザイルでも、持ってくるんだったな)

 ―金槌に新聞を巻き終える。それをズボンのベルトにしっかりと挟み込み、深く、深く息を吸って、窓の庇の上に、屈みこむ。

(幸先が良い)

(二度ある事は、三度ある)

(大丈夫。父さんだって、言ってたろ?『世の中ってのは良く出来てる。必ず帳尻が合うように出来てるんだ―』)

 ―呼吸を止める。庇の縁を掴み、片足ずつ、空中に下ろしていく。指先がキシキシと軋む限界まで力を込める。何も無い場所にぶら下る体重を、酷く心許無く思う。舌を噛む。下唇を噛む。歯を食い縛る。

(二度ある事は、三度ある)

(父さん…)

(大丈夫。幸先が―)

 ―もう片足を、庇から降ろす。体重が僕を、真っ暗な地上へと引っ張る。落ちている、といった方が良いかもしれない速度だ。一瞬、目の前の光景が全て、あやふやな、帯状の縦線になる。腕が伸び切る。全体重の掛かった肩が悲鳴を上げる。指先を放さなかったのが、奇跡の様に思える。次に目を開けた時には、視界は正常に戻っている。僕は2階の何処かの教室の前にぶら下っている。

 やったんだ、と思う。

(…いや、まだだ)

(この窓を開けなきゃ、結局こっから落ちて―)

(―ていうか、ハンマーで窓を割る為に、この状態から片手、放さなきゃならないのか?今のままでも、いっぱいいっぱいなのに…)

(正気かよ…)

 考えてる暇は無い。即座に覚悟を決める。左手を、掴んでいる庇から放し、ベルトに挟んだ金槌を抜き取る。右肘が限界を伝える白熱した痛みを上げる。僕はそれを無視して、金槌を思い切り窓に向かって振り下ろす。

                               ―ゴ。コ、コ。

(―これで、二枚目。弁償代、幾らだ…?)

 窓に小さな罅が入る。僕はそれを死に物狂いで蹴り付け、叩き広げる。額を冷や汗が流れる。右手の握力が弱まっているのが分かる。窓の穴が直径15cm程になった時、僕は意を決して金槌を捨て、左手を伸ばして、窓の鍵を開ける。金槌が草むらに落ちる鈍い音がする。指紋の欠けた左手で、苦労して窓を開ける。窓辺に左足を突っ込む。

(…これ、いけるか…?)

(右手の指先の感覚が無い。これ、未だ、ちゃんと掴んでる…?)

(大丈夫だ、手を―)

 ―手を放す。

 再び重心が地上へと落ちていく。停まっていたエレベーターが、急に動き始めるみたいに。僕は悲鳴を上げる間もなく、左膝を思いっきり折り曲げる。足首の先に重りでも付いてる様に、右足が僕を地上側へと引き摺り落とそうとする。考えるよりも早く、体を窓辺に寄せる。体が反射的に、上半身を、胎児の様に丸める。両手を窓辺に付いて、何とか重心を引き寄せようとする。

 目を閉じる。

 祈る。

(死んだ)

(怖い)

(落ち―)

 体の浮遊感が消えない。

 ―が、何時まで経っても、体が地面に衝突する様な衝撃は、無い。

(…て、ない?)

(生きてる…?)

(―いや、これは、死んでるあれかも。ショックが強過ぎて気付かないんだ、で、目を開けると、そこには自分の死体があって―…)

 目を開ける。恐る恐る。

(お―)

 ―眼前に、大量の硝子の破片が散らばっている。

 思わず後ろに仰け反る。すると、ぐらりと体重が傾いて、今度は校舎の外に、シーソーの様に、体重が流れ始める。

(―た―すけ)

 必死で窓辺を手繰り寄せる。体重が校舎内へと傾き始めた時、漸く僕は自分が呼吸を忘れていた事に気付く。咳き込む様に新鮮な空気を吸い込んで、口元を拭って、硝子を出来るだけ踏まない様に、右足を丁寧に、教室の内側に招き入れる。上を見る。天井の、更に向こうを、目を細めて、透かす様に。

 防犯ブザーの音はもう止まっている。

(…何時止まったんだろう?)

(気付かなかった。こっちはこっちで、必死だったから―)

(…そろそろ行かなきゃ。ここで捕まる訳にはいかない。それじゃ、折角死に掛けた甲斐が無い…)

 ―溜息を吐いて、忍び足で、休む暇も無く僕は歩き始める。中央棟2階の廊下へと続く鍵を開ける。扉を薄く開け、耳を耳を澄ませて、廊下の音を拾おうとする。廊下からは、今の所、何の音もしない。

 …“彼女”達の笑い声も。

(―段々、笑ってる場合じゃ、無くなってきたか?)

(ざまあみろ)

(上階で、誰かが動いている様な気配はある―まぁ、誰かっつったら、奴らしか居ない訳だけど―けど、最低一人は上に居るなら、今なら包囲は薄い筈―)

(…一階に降りるか?それとも、二階の廊下を突っ切るか―?)

(ま、教室を出てから、考えよう。少しは距離を稼がないと―)


 階段を降りる。

 教室を出て、直ぐ近くの中央棟西端の階段を、出来るだけ音を立てない様に、抜き足差し脚で。

 ゴールに少しでも近づいた方が良い、と頭では分かっていても、上階に、最低一人は“彼女”が居るという事実と、さっきの自由落下の恐怖も相まって、ちょっとでも地上に近い所に近付きたい、という欲求に、抗う事が出来なくなる。お腹を右手で何度も擦りながら、一段ずつ、階段を降りる。臍の辺りの浮遊感が、未だに拭えない。

(死ぬかと思った…)

(足元がふわふわする。エレベーターの中に、ずっといるみたいだ…)

(―いい加減、切り替えないと。問題は山積みだ。僕を取り巻く環境は、何一つ変わった訳じゃない…)

(…ハハ、本当に、何ひとつ好転してないのが笑える…)

 ―一階に到着する。

 廊下は暗く、窓からの明りで、足元が僅かに照らされている程度だ。5m程度先でさえ、判然としない。息を殺して、耳を澄ませる。さっきまでとは違い、絶えず聞こえていた“彼女”達の笑い声も聞こえない。

(クソ…)

 草臥れた笑みが口元に浮かぶ。暗闇が吸水性の良いスポンジみたいに音を残らず吸い込んでいる様に思える。不意に、堪え切れずに泣き出しそうになる。僕は頬を抓り、歯を食い縛り、心に鞭を入れて、無理矢理暗闇の中に、足を一歩、踏み出す。歩かなければ何も始まらない、と自分に言い聞かせる。例えどれだけ苦痛に思えても、一歩でも前に踏み出さなければ、目的地の方から、こちらにやって来てくれる事は無いんだと。

(…こういうの、何て言うんだっけ?)

(『全ての道はローマに通ず』?いや、違うな…)

(…『千里の道も、一歩から』…)

 音がしない。音がしない廊下を、東へ向かって、歩く。廊下を抜けて、東棟を外へ抜ければ、それだけでもう目的地なのに、その距離が途方も無く茫漠としたものに感じる。時々、校舎の中から、校庭の方を盗み見る。何もかもハッキリと見通せる訳ではないが、少なくとも、朝礼台の上にはもう誰も居ないし、目に見える範囲にも誰の姿も無い様に思える。見えるのは月明かりの下で暢気に歩き回る、小さな雀くらいだ。このまま校舎の中を前進していくか、それとも校庭を横切って目的地へ向かうか、迷う。校庭を突っ切って行く方が距離的には近いし、それに、校舎の中には、少なくとも3人の“彼女”が居る―。

(…西校舎2Fの園部と、中央棟の1階に居た、2人)

(―最低2人)

(もう居場所が分からない。ずっと音に注意していた訳じゃないし、さっきの防犯ブザーと、跳び下りの時のどさくさに紛れて―彼女達の移動音を、聞き逃してしまった)

(…何の音も聞こえない。静かだ。もう笑い声も聞こえない。あの耳障りな、“彼女”達の笑い声も)

(夢の続きに居るみたいだ)

(―校舎に僕だけしか居ない様に思える。ホントにそうだったら、どんなに良かっただろうけど)

(…多分、中央棟の1階に居た“彼女”達は、3階に移動したと思う。園部ももう、西校舎から中央棟に着いている筈だ。さっきの騒ぎの最中に来たのなら、音に釣られて3階へ行ってしまったかもしれない―)

(―けど、その考えには、何の根拠も無い。そんなものに、命を預けても良いのか?)

(…怖い…)

(―死にたくない。死ぬかもしれないんだ。そうかもしれない、でも、そうじゃないかもしれない。そんなのは糞喰らえだ。せめて少しでも、確かな足場に自分を乗っけて居たい。少しでも、安全と思える方向に―)

(―校庭を突っ切って行った方が早い。校庭の半分を斜めに走り抜けて、そのまま東校舎を突き抜けてしまえば、ほら、そこはもう体育館―)

(終わらせてしまいたい)

(早く終わらせてしまいたい。早く終わらせて、安全な、自分の家に…)

 どうするか決めかねたまま、惰性で中央棟の廊下を、東に向かって進む。校舎の外を羨望の眼差しで見つめる。校庭の中央を、小さな雀が鷹揚に、支配者の様に、歩き回る。

(安全だ)

(外は安全に見える。安全に…)

(―駄目だ。考えなしに外に出て、校庭と、東棟への入り口の境目に、残りの“彼女”たちが並んで待ち構えて居たらどうする?並んでスクラムを組んでいたら)

(もう失敗は出来ないんだ。もう二度と、失敗は…)

 中央棟の廊下を、半分程歩く。意味のあるのか無いのか分からない事を、ぐるぐると考えながら。言葉が頭の中でブクブクと膨れ上がる。額が痛む、汗が冷えて、凍える様に寒い。何が正しい事なのか、何が確かなものなのか、何ひとつ分からない。触れるもの全てが、砂になってしまったような気分になる。それでも考える事は止められない。そうしなければ、終わってしまうから。

(外は―…)

(外は不味い。不味い気がする)

(理由は?)

(分からない。嫌な予感がする。見晴らしが良いし、隠れる場所も無い。校舎の中だって安全とは言い難いけど、隠れる場所だけは豊富にある…)

(どうすればいい?教科書が欲しい。『上手な化け物からの隠れ方』、『緊急時における七不思議対策マニュアル・上』…)

 ―雀が校庭を飛び立つ。雀が校庭から飛び立つのが見える。窓を閉め切っているので、その小さな羽音は僕には聞こえない。僕は微笑んで、雀に向かって力無く手を振る。雀は僕の予想に反して、短く離着陸を繰り返し、中央棟一階の、廊下の窓辺へと降り立つ。

 僕は立ち止る。立ち止まってしまう。手を挙げたまま、足を止めて、窓辺の雀をぼんやりと眺める。

 雀と目が合う。

(?)

(―あれ?)

(雀って―夜行性だっけ?)

 雀が嘴を振り上げる。硝子をノックする様に。但し、その嘴が硝子にぶつかる音はしない。

 ―その嘴が触れた部分から、ドロドロと炎で溶かす様に、硝子が崩れて消えて行ってしまうから。

(…)

(………)

(…………………クソッタレ)

 僕はのろのろと二、三歩後退する。疲れ切った笑みが口元に浮かぶ。溜息とも嘆息とも付かない吐息が漏れる。雀から目を放さずに、必死で胸元のショルダーバッグのチャックの辺りを引っ掻く。頭で理解する前に、心が、そいつが何なのかを、漠然と理解する。疲労が体を蝕む。倦怠感に絡め取られる。涙が胸の奥から、止め処無く噴き上がりそうになる。目元と鼻が熱くなる。下唇を噛む。

(―“彼女”だ)

(…クソ、あれも“彼女”?)

(同質化。同質化だ。“彼女”は、喰ったものを、自分と同質化する…)

(…あれも“彼女”、これも“彼女”、か。ああ、もしかしたらもう、この付近に棲む、ありとあらゆる生物が―)

(―クソ、考えるのは後だ。先ずはこの場を、何とか―…)




「見つけた」

 と、目の前の私が言う。私が私に言う。

「見つけた?」

「見つけたって、何を?」

「何か探してたっけ?」

「何だっけ?」

 口々に尋ねる私達に、大袈裟に肩を落として私が言う。呆れた様に下唇を尖らせて。

「…■■よ」

「■■?」

「■■って、何だっけ?」

「探しものよ」

「さがしもの」

「さがしものって、なんだっけ?」

「殺さなければいけないものよ」

「なるほど」

「なるほど」

 私達は納得して頷く。その様子を見て、安心した様に向こうの私が微笑む。私達は手を繋いで、一列に連なって、『チュウオウトウ』の東側の階段を下りていく。自然に笑いが込み上げて来る。

(楽しい)

(■■?)

(幸せ。幸せ。しあわせ。ずっとこうしていたいくらい…)

 ―声を上げて笑いだしたくなる。手を繋いだまま踊り出したくなる。けれども、そうは出来ない事に気付く。そうする事自体を止められているかのように、咽を何かに塞がれている様な感覚がある。

(■■?)

「■■の所為?」

「■■くんの所為だ」

「見つけなきゃ。見つけて、さっさと壊してしまわないと」

 私達は連なって歩く。誰にも何にも教えて貰わなくても、■■が『チュウオウトウ』一階に居る事は、何となく、頭の何処かで分かっている。

(…どうしてだろう。■■は一階に居る。私には分かる…)

(皆黙っちゃった。咽がウズウズする。大声で笑いたい。皆で踊りたい…)

(『見た』―から?)

(…でも、私はここに居る。私はここに居るのに、どうして一階の廊下を『見る』事が出来るんだろう?)

(…頭が痛い。この事は、深く考えたら駄目な気がする…)

 頭が酷く痛む。酷く痛む。酷く痛む。

 楽しい。楽しい。楽しい。

 自分がくっついたり離れたりするような、奇妙な感覚を覚える。自分達は、最初はもっと別の、バラバラの“何か”だったんじゃないかという、突拍子も無い考えが、時折頭を過ぎる。楽しい。考える度に頭が痛んで、その度に幸せが膨らんでいく。しあわせが私の■■■場所を押し潰していく。繋いだ手の、指の先から、境目が喪われていく様に感じる。その感覚が、私をしあわせに浸していく。けれど―前はそんな風じゃ無かったと思う。良く思い出す事は出来ないけど。それが、その違いが、何故が不安でたまらない。

「私?」

「どうしたの、私?」

(?)

「…え?」

「お腹が痛いの?」

「心配事でもあるの?」

「な―無いわ。何も無い。どうして?」

「どうして?」

「どうしてって―」

 私の顔を覗き込んで、私達が顔を見合わせる。

「…泣いてる」

「泣いてるよ?」

 ―私は戸惑う。自分の顔に触れて確かめようと、繋いだ手を持ち上げようとする。けれどもそれよりも早く、手を繋いだ両側の私が、私の目を覆う様に、そっと掌を伸ばす。

(―あ)

 あたたかい。あたたかい掌が私の目を塞ぐ。私は笑う。涙が零れる。

(―止めて。思い出した。私―)

(…奪わないで、私の■■■場所を、これ以上―)

(―駄目、駄目、駄目駄目駄目、それを盗ったら―)

(盗ったら―なんだっけ?盗ったら、何?『それ』って、何?私って、何?)

 私達が私の顔から手を離す。私は私達の心配そうな顔を見返す。涙が止まるのを感じる。気分がすっきりとして、晴れの日の日曜日の朝の様に、幸せで胸が一杯に満たされる。

「…大丈夫、私?」

「私、大丈夫?」

「…うん、もう大丈夫。ご免ね、心配かけて」

「そんな事無いわ、私。そんなこと言わないで」

「そうよ、私。同じ私じゃない」

「ありがとう―」

 私達は階段を降りる。連なって階段を降りる。楽しい。こっそりと、スキップする様な足取りで、階段を下りていく。笑い声を上げられないのが、苦しくて堪らない。繋いだ手から、しあわせが流れ込んでくる。私達は、最初からこういう生き物だったという気さえする。

(楽しい)

(―私達は、どうしてここに居るんだっけ?)

(しあわせ。しあわせ。しあわせ…)

(―■■を殺さないと。この幸せを奪われる前に…)

『チュウオウトウ』一階に辿り着く。『チュウオウトウ』一階は、壁も天井も床も、白銀色に、眩しく輝いている。眩しくって、目がチカチカする。私達は手を繋いで、暫くその場に立ち尽くしている。それが何だか可笑しく思える。可笑しくて堪らなくなる。私達は額を突き合わせて、誰の耳にも聞こえない様に息を顰めて笑う。世界に私達しか居ない様に感じる。何もかもが光り輝いて見える。心の中には、しあわせだけがある。

(完璧な場所。どうして最初から、こうじゃなかったんだろう)

(私は何を不安に思ってたんだろう。私は一体、何を…)

(パーフェクト・ワールド…)

 ―その内、右端の私が、廊下の中央辺りに散らばる何かを指差す。指を指して、私達を見る。声に出さなくても、何を言いたいのか、分かる。

(何かある)

(何かって、何?)

(行ってみよう)

(行ってみよう)

(行ってみようよ…)

 ―廊下を歩く。『チュウオウトウ』一階の廊下を、私達で並んで歩く。私達は幸せに満ちている。それは永久に普遍のものの様に思える。

 廊下の中央には小さな私が居る。小さな私は機敏な動きで飛び跳ね、首をくるくると動かし、嘴を持ち上げて並んだ私達を見上げる。小さな私は、直ぐに私達から興味を失ったみたいに視線を外して、また廊下の中央に散らばった、白い何かを啄む作業に戻る。

 私はそれを見る。

(なに?これ…)

(白い―)

(―パン屑?)

 私達は顔を見合わせる。どの顔も不安に脅かされている。左端の私が左の靴の裏で、小さな私を踏みつける。小さな私は小さな悲鳴を上げて、左端の私の足の裏に、ゆっくり、時間を掛けて、呑み込まれていく。

(どうしよう)

(どうしよう?)

(どうしよう…)

(■■を止めないと)

(失くしてしまう前に。壊されてしまう前に。奪われてしまう前に…)

(―『普遍』を、脅かされる前に)




(…まさか、こんなもんが効くとはな…)

 廊下を先へ進む。東校舎一階を、前方に注意して。

 ―パンの耳を齧りながら。

(持ってきて良かった…)

(…クソ、慌てた所為で、粗方中身ぶちまけちまったからな。もう耳の一切れくらいしか残って無い…)

(ああ、そういや晩飯、まだだったなぁ…)

(…うう、こんなんなら、喰わない方がマシだった、ちょっとだけ胃に入れたから、余計にひもじく…)

(―しかし、なんでパン屑なんか効いたんだろな?あれじゃ、“彼女”っていうより、まるっきり、雀―)

(…脳味噌の容量の問題かね?雀の小さな脳味噌じゃ、性質は同化出来ても、“彼女”の意志が内側に入りきらないから―)

(―本当にそうだとしたら、朗報なんだがね、今日の唯一の)

(ま、でも、脳味噌とか関係無かったら―包丁に足が生えて、僕を追い掛けて来てもおかしくない訳で)

 東棟の様子も、先程までの校舎と同様だ。暗く、見通しが悪く、何の音も聞こえない。

(ああ、暗い暗い。クソッタレ、人工太陽でも持ってくりゃ良かったよ―)

(…流石に、この状況にも、少しくらい慣れて来たな…)

(―いや、麻痺して来たって言うのかね、これは?)

 ―けれど、先程までとは、如実に違う点がある。

 僕は窓の外を見る。パンの耳を、口に押し込みながら。

 窓の外には体育館が見える。体育館と―その手前に佇む、野放図に空に枝を伸ばす、あの、金木犀の木が。

(…来た)

 咽につっかえるパンの耳を、無理矢理奥に流し込む。金木犀を睨み付ける。自然に笑みが浮かぶ。嘲笑う様な、酷薄な笑みが。

(…待ってろよ、相原)

(触れて、欠片を盗んで、逃げる。それだけだ。それで終わりだ…)

(家に帰って、ちゃんとした晩飯を食べて、それから母さんと話をしよう。この町を出ていく算段を付けるんだ…)

(この町を出て―何処へ行こう?)

(さあね。それは後で考えるとしよう。取り敢えずは、目の前だ。体はひとつ。僕には僕の、出来る事をするしか…)

(…とは言え、どうしたもんかな。誰の姿も見えないし、それに、何の音も―…)


 ―考える。

 東棟一階、真っ暗な廊下の窓辺で、考える。息を止めて、身を縮めて。

 刻一刻と、時間が過ぎていく。時間が過ぎていくほどに、自分の居場所が失われていく気がする。正体不明の焦燥に胸が苦しくなる。窓の外には金木犀が見える。他に人影は見当たらない。今直ぐ、窓を開けて、外へ飛び出して行きたくなる。

(落ち着け…)

(それは本当に正しい判断か?良く考えろ。それは本当に、正しい行動なのか?)

(良く考えろだって?そんな時間は―)

(…僕はずっと間違って来た。僕はここ最近、ずっと間違って来たんだ。これ以上は失敗できない。もうこれ以上は―)

(良く考えろ)

(…あんまり時間は無い。中央棟には少なくとも、3人の“彼女”がいた。全員が3階に上がったのかは分からないが、上に上がった奴らは僕が音楽室の窓を割った跡を見つけただろう。校舎外へ繋がる方の窓の、外へと垂らしたカーテンを結んで作ったロープも。もうやり過ごされた事に、気付いているかもしれない―いや、最悪、あの雀と“彼女”達が一部でも繋がっているとしたら、僕の居場所ももうバレて居るかも。僕が東棟へ向かったってことも―)

(クソ―何が正しい?考えろ、考えろ、考え―)

 窓に鼻先をくっ付けて、目を見開いて、体育館前を見渡す。目がパリパリに乾いて、痛みを訴えるのにも構わずに。確かに人影は見当たらない。それどころか、他の生き物、犬一匹、小鳥一羽ですら。

(安全―なのか?)

(安全に見える)

(でも、“彼女”には、無機物だろうと関係ない。ここから見えるものが、既に“彼女”に喰われて、同質化している可能性だってある。包丁の先例が―)

 ―そこまで考えて、僕は慌てて窓から身を離して、自分の鼻先を擦る。触れた鼻先は、自分の記憶にある姿と寸分違わず同じ形をしている。思わずホッとする。鼻先は削れて平べったくなったり、喰われて歪な形になったりはしていない。

(…良かった、只でさえ低いんだから―)

(―と。そんな心配してる場合じゃないな…)

(決断しなきゃ。そろそろ決めないと。中央棟に3人、校庭には誰も居なかった。と、いう事は、この付近に残りの“彼女”達が勢揃いしている場合だってある。もし囲まれたら―)

(…もう間違えたくない。もう間違えられないんだ―)

 ―溜息を吐く。屈んだまま窓辺から離れ、東棟北端の、一番近い階段から二階へと上る。階段を登っている最中、自嘲する様な笑みが浮かんで、口元から拭えなくなる。

(…全く。追い詰められた時、人間、一番本性が出るって言うけど…)

(無難な選択肢。問題を、先送りにする選択肢。チキンな選択肢…)

(…正しく僕だな。嫌になるくらい…)

 東棟二階に着く。腰を低くして窓辺に近付いて、もう一度窓の外を見る。

 ―二階の窓辺からは、下からでは見えなかったものも、良く見える。

(うわ…)

 東棟、体育館へと繋がる出口の脇に、ふたりの彼女が腕組みをして、壁に凭れて待ち構えているのが見える。上からじゃ良く分からないが、吉田優香と、多分、篠原和澄。目にした瞬間、思わず体が飛び跳ねる。

(…良かった、臆病で…)

 窓辺から後退りして、頭を抱えて、考える。頭痛がする。鼻の奥に、ツンとした痛みがある。

(…目的地、バレてたんだな…)

(―馬鹿が、それくらい想定内だろ?寧ろ喜ぶべきだ、あれは、あれが“彼女”にとって大事なもんだっていう証なんだから。大事なものには防衛を置く。当たり前の事だ)

(僕の読みは間違ってなかった…)

(…でも、こっからどうする…?)

(どうするんだよ―?)

 苦悶の吐息が漏れる。頭を目茶目茶に掻き毟る。“彼女”達があそこに居る事が、それ自体が、自分の考えの証左だと思う。だから、あの金木犀に触れれば、あの木に触れさえすれば、どうにかなる筈なのに、きっとどうにかなる筈なのに、ここからどうして良いか、僕には全く分からない。

(…朝まで待つか?)

(バカ)

(…母さん、どうしてるかな)

(流石に、もう帰って来てるだろうか。僕が居なくなった事、気付いてるかもな。一応、布団はそれらしく膨らましておいたけど…)

(―注意を逸らす?でも、見張りは二人居るんだぞ?どうにか一人を引き剥がす事に成功したとしても、残った一人を、どうすりゃいいってんだ?)

(向こうは人喰いの、化物だぞ…?)

(―しかも、もう5人はヒトを喰ってる。胃袋に、限界がある様にも見えないし―…)

                                  ―ぺた。

 音が。

 音がする。

 今まで一切の音がしなかったのに。自分の立てる雑音ぐらいしか聞こえなかったのに。突然の音に耳が驚く。限界まで空腹の胃が、入って来る食料を受け付けない様に。混乱する。音が何処から聞こえたのか分からない。けれど、妙に聞き覚えのある音だと思う。湿っぽくて、柔らかくて、やけに馴染がある音。

 僕は息をする事が出来ない。

                            ―ぺた。ぺた、ぺた。

 音は南から聞こえる。南の、廊下の暗闇の奥から。僕は顔を上げて、そちらを見る。両手で顔を覆ってしまいたくなる。けれども、手は僕の意志に反する様に、体の脇に、だらりと力無く垂れる。

                            ―ぺた、ぺた、ぺた。

 顔が強張る。

 そこに居るのが何なのか、何となく分かる気がする。でも、どうしても、その直感を信じられない自分が居る。そうでなければ良い、と願う。そうでなければ良い、と祈る。

(嫌だ)

 体が石膏で固められたように身動き出来ない。

                                  ―ぺた。

 音がする。

 裸足の足音がする。

 暗闇の帳の奥から彼女がやって来る。手提げ鞄を持つように、両手に上履きをぶら提げて。脱色気味の茶髪、多少濃い目の化粧、ピアスを左耳に二つ、右耳に一つ。公園の薄くなった木製ベンチみたいな色の髪の毛にはふんわりとカールが掛かり、腕にはじゃらじゃらと色んなリングやブレスレッドを引っ掛けて、腰には制服指定外のパーカーを巻き付けている。

 ―見覚えのある姿だ、と思う。良ぉく見憶えのある姿。最早懐かしささえ感じる、その姿。

「相原…」

 掠れた声が咽から漏れる。小さな、弱々しい声。こんなに静かな夜じゃ無かったら、きっと自分にだって聞こえなかっただろう。

「荻野」

 相原は笑っている。心底楽しそうに、屈託の無い笑みを浮かべている。クラスで見掛ける様な、彼女の笑みだ。クラスで見掛ける様な、日常の彼女の笑み。友達と下らない話をして笑い合って、互いの肩を叩きながらじゃれ合って浮かべる様な、日常的な笑み。

 ―相原は笑っている。僕はそれが恐ろしい。恐ろしくて堪らない。

「相原、頼む…」

 僕は彼女に、訴えるように囁く。必死に、声を咽から絞り出す。口の中で血の味がする。

 相原は笑っている。相原は心から笑っている。

「だーめ」

「相原、頼む、お願いだ―」

「ダメだよ。ダメ、ダメなもんはダメ。荻野の使い道はもう決まってるの。話し合って決めたんだから」

「は―話し合って?誰と?」

「誰?」

 相原は一瞬、きょとんとした顔をする―が、直ぐにその表情も掻き消える。彼女は腹を抱えて楽しそうに笑う。クスクスと囀る様に笑う。楽しそうに。心底楽しそうに。

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

 音が校舎の中を反響する。“彼女”達の笑い声が聞こえる。四方八方から。目の前の相原からも、東棟の一階からも、中央棟への渡り廊下からも。僕は耳を塞ぐ。悲鳴を上げたくなる。相原を見る。

「誰って、可笑しなこと言うのね」

「あ―何が?何がおかしいって…」

「世界には私達しか居ないのよ?私と、あの人と、それ以外。相談する相手なんて決まってる」

「…随分大味な人口分布だな。総人口3人か?凄ぇな、人口問題も一気に解決だ…」

「荻野の使い道はもう決まってるの」

「そりゃさっき聞いたよ。呆けちまったか?」

「出来れば食べてあげたかったけれど」

「…もっといい雰囲気の時に言って欲しかったね」

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

 東棟階段下から、校庭で出会った“彼女”の内、見覚えの無い姿をした一人が、中央棟の渡り廊下から園部と、6人の内の、見覚えの無いもう一人が、クスクスと肩を揺らし、口元を押さえて笑いながら、姿を現す。僕は廊下に膝を突いて、苦り切った顔でその光景を眺めている。絶望がその身を覆う。頭が、痺れた様に真っ白になる。何も考えられない。指先が、痺れる様に痛む。涙が滲む。

(こんなの…)

(あんまりだ、こんなの)

(怨むぜ、神様…)

 園部が腕を振り上げる。腕から箒の棒が枝分かれするように出て来る。彼女はそれを槍投げのように構える。彼女の隣の見知らぬ“彼女”からは、その腹部を突き破る様にして、内側から二頭の犬が出て来る。柴犬と、ダルメシアン。“彼女”は、その二頭の首筋を両手で撫でる。

 東棟の階段下から出て来た“彼女”は、左手を上げて、手招きをする様に僕に向かって手を振る。その指先から水泡の様に、ぷつぷつと無数の虫が湧き出て、辺りを飛び交い始める。

 僕は相原の方を向く。正面の相原の方を。

 相原は手に持った上履きを揺らす。靴の中からぽろぽろと、ぽとぽとと、幾つもの飴玉が吹き出ては、零れ落ちて来る。飴玉が落ちた跡の床は、綺麗に円形に、丸く削れている。僕は茫然と、彼女を見る。彼女は変わらずに笑っている。まるでこれから起こる事は、素敵なショーの一部だとでもいう様に。

(クソ…)

 目が痛む。吐き気を抑える様に、口元を覆う。これが報いか、と考える。今までやって来た事の、これが。

 ―だとしたら、あまりに遣り切れないじゃないか、と思う。

(…クソ)

(クソ)

(クソ、クソクソクソクソ―!!!)




 ―その時。

(?)

(な―)

 何が起こったのか分からない。台風にでも呑み込まれた様な気分になる。一瞬にして状況が変化する。“彼女”達ですら、何が起こったのか、理解していない様に見える。

(―んだ―)

(―に、これ―?)

 ―窓硝子が破裂する。

(うわ―)

 窓硝子が、内側に向かって破裂する。東棟廊下の、体育館側に面する窓硝子が、全て。音が聞こえたかどうかは分からない。あっという間の出来事だったからなのか、それともあまりの音量に、脳が認識を拒否してしまったのか。僕は頭を覆って咄嗟に床に伏せる。外で爆弾でも爆発したんだろうか、と思う。硝子が粉々になって廊下の内側に降り注ぐ。誰かの悲鳴が聞こえた様な気がする。目を瞑る直前、外から何かが雪崩れ込んで来るのが見える。

 何か。

(助け―)

(―)

(あれ―)

 黒い、何か。夜の暗闇よりもさらに暗い、何か。

(あれ、は―?)

 音が聞こえる。僕は目を開ける。床に這い蹲ったまま、僕は顔を上げる。僕の周囲を、真っ暗な無数の何かが旋回しているのが見える。顔の筋肉が弛緩する。呆然と、その音に暫し聞き入る。頭が現状を整理するまでの間、それが何なのか、何度も念を押して確認する様に。

 その音に。

 ―無数の蝙蝠達が巻き起こす、その羽音に。

(…これは…)

「真祖様」

 背後から男の声がする。僕は軋む首を動かして、ぎこちなく背後を振り返る。聞き覚えのある声だ、と思う。ここ最近で何度も繰り返し聞いた、馴染みのある、声。それが誰の声か分かっても、それを上手く受け入れることが出来ない。近頃は、上手く行くことの方が、ずっと少なかったから。そんな筈無い、と思ってしまう。そんな訳が無い、と疑ってしまう。

 …期待するだけ、苦しいだけだと。

     『―世の中ってのは良く出来てる。必ず帳尻が合うように出来てるんだ』

              『お前の周りに、今は悪い事が起こったとしても―』

          『…それは明日、お前の周りに良い事が起こる印しなんだよ』

 ―僕の背後、直ぐ側に、金髪赤目の男が立っている。後手に手を組んで、サラサラのストレートの金髪を、頭の後ろで三つ編みに結って。男は僕を見て、柔らかく微笑んでいる。僕はその姿を見て、思わず泣き出しそうになる。慌てて目元を抑える。今日はあの、いつもの和服とビーチサンダルという出で立ちじゃない。黒の外套にタキシード、胸元に真っ赤な蝶結びのタイと、まるで物語の内側から抜き出して来た様なきちんとした装束を、身に纏っている。

 僕はその名を呼ぶ。

 ―恐る恐る、確かめる様に。

「…アレックス?」

 アレックスは笑みを膨らませ、廊下に膝を突いて、地面に倒れ伏した僕を助け起こすと、優雅にお辞儀をする。その非現実的な光景に、何度もそれを夢だと疑いそうになる。

 こんな事は起こる筈が無いのだと。

 こんな事は起こる訳が無いのだと。

 蝙蝠達の羽音がする。重力がその頸木を失ってしまったみたいに、体が酷く浮つく。何が起こっているのか分からない。何を思ったらいいのか分からない。

 蝙蝠達の羽音がする。蝙蝠達の羽音の渦の中で、彼の声だけが、透き通る様に良く聞こえる。

「―アレクセイ・フォン・アーデンリッヒ・オプト・デボウト・ガルドエーデルシュタイン、遅れ馳せながら、お求めに依り、推参致しました」

「…夢じゃないよな?」

「当然です」

「助け、助けて―」

「―その為に来ました」

 アレックスはニカッ、と歯を見せて笑い、立ち上がると、廊下の前後に向けて、両手を突き出す。途端に蝙蝠の渦が奔流となって分かれ、廊下の中を突風の様に吹き荒れる。耳の中が蝙蝠の羽音で一杯になる。僕は反射的に、耳を塞いで歯を食い縛る。頭の中を直接掻き毟る様なその音に、気が狂いそうになる。僕は耳を塞いだまま廊下の南側へと慌てて目を向ける。蝙蝠の群れの中から、咳込みながら、裸足の相原が歩み出て来るのが見える。

(効いて…る?)

(咳、してる)

(どうにかなる?どうにかなるのか?どうにか―)

 …彼女の、肘や太腿や胸や腹から、黒い、羽の様なものが飛び出している事に気付く。それが、彼女の体の内側に、少しずつ沈み込んでいっている事に気付く。アレックスが来て、久しぶりに自分の胸の内に点った小さな明るい何かが、それを見て瞬時に萎んでいくのを感じる。吐き気を抑える様に、自分の喉元に触れる。感覚の無い首を掻き毟る。

(―駄目だ)

(駄目だ、駄目だ、やっぱり駄目だ―)

(―“彼女”は触れたものを食べる。食べて、同質化するんだ。やっぱり駄目だ、アレックス。逃げよう。逃げて、僕の部屋まで逃げて、朝になるまで目を閉じて―)

(―あと少しなのに。あそこに見えているのに。あそこに行きさえすれば、あれに触れさえすれば、そうすれば、そうすればきっと―…!)

 アレックスが眉を顰める。

「ふむ」

「…駄目だ、アレックス駄目だ、逃げよう。奴は触れたものを取り込んじまう。物でも生き物でも関係ない。喰われたら変化させられちまう、あいつと同じに。もうどうしようもない、もう終わりだ、もう―」

「―ならば、アプローチを変えてみる事にしましょう」

「アプ―何だって?」

 混乱したまま、アレックスを振り返る。アレックスが旋風のように素早く回転するのが見える。東棟一階からの階段側に居た“彼女”が、僕の足首に手を伸ばしている。意味を成さない喚き声が自分の口から吹き出す。アレックスが“彼女”の頭部に向かって蹴りを繰り出す。僕はその動きを制止しようと指先を動かす。吸血鬼の速度に着いて行けない事なんて、分かり切っている筈なのに。

(―お前、さっき僕が言った事、聞いてなかったのかよ―!?)

 アレックスが、“彼女”の頭部への蹴りを振り抜く。

 僕はその足を捕まえようと、手を伸ばす。

                                 ―ゴキン。

(―い―?)

(―何だ、今―?)

 ―思考が追いつく暇も無く、“彼女”の身体が後ろへ吹っ飛んで、一階へ通じる階段の踊り場の壁に、強かに背中を打ち付ける。“彼女”が苦悶の表情を浮かべて、体を二つに折る。

(な―)

(何、を―?)

 …階段下から、“彼女”がアレックスを睨み上げる。その表情に、初めて、怒り―や、敵意の様なものが見えた気がする。僕と鬼ごっこをしている時には、決して見られなかった顔。自分の思い通りにならない、異物を見る様な眼差し。

(これ―)

(これは、どうにかなる―効いてるんだろうか?)

(信じて良い、信じて良い…んだよな?)

“彼女”の掌から、ガランと何かが剥がれ落ちる。

(何だ?)

(二つに折れた―丸い―標識?)

(『通り抜け禁止』…)

「―敵もさる者ですな。どうやら咄嗟にガードしたようで」

「ガー…?あ―一体、何を―?」

「空気圧ですよ。触れるものを取り込むという事でしたので、触れないもので攻撃してみようかと」

 僕は笑う。

 間抜けに、口角を曲げて。

(何―)

(何、してんだ、こいつら―?)

(空気圧?知ってる知ってる。ちびっ子科学教室で見た、空気を、圧力に依って、アレして―)

(―イケメンは、空気圧を発射する事が出来るんだ、凄いなぁ)

(何とかなる―何とかなるって、信じても良いのか?)

 夢の続きに居る様に感じる。

 僕は半端な笑顔を浮かべながら、感覚の無い首を掻き毟り、砕けた窓の外、金木犀の方へと振り返る。金木犀が、かつてなく近く思える。手を伸ばせば、触れられそうに感じる。暗闇の中で見る樹木は、酷く禍々しい。多数に分かれて空に伸びる枝は、邪蛇の数多の多頭に見える。夜風に揺られて喚く木の葉は、化物の鳴き声に、幹に浮かんだ歪んだ紋様は、呑み込まれた人の顔に見える。

 金木犀の根元に、二人の“彼女”が立っているのが見える。二人の“彼女”がこちらを見上げている。

 二人の“彼女”。

 吉田優香と―篠原和澄。

「真祖様、ここは私が抑えます。真祖様は、お先に」

「あ―うん、そうさせてもらいたいのは、やまやまだけど―」

「―行け、カミュ!」

「え―?」

「―真祖様を、頼むぞ」

「何を―」

 ―言葉を発する前に。

 体を思い切り後ろに引っ張られる。悲鳴を上げる暇も無く、自分の体が窓から外へ飛び出すのを感じる。混乱して、暴れる間も無い。東棟、二階の廊下に、アレックスが四人の“彼女”に囲まれて、ひとり取り残されているのが見える。僕は思わず手を伸ばす。伸ばした手は空を切る。胴体を何者かにしっかりと捕まえられているのを感じる。体が後ろに引っ張られながら、ぐんぐんと飛翔する。

 東棟の屋上を越えた辺りで、体の上昇は止まる。足が地面に着いていないので落ち着かないが、胴体をがっちりと抑えられているので、中央棟でカーテンバンジーした時の様な恐怖感は無い。

 僕は背後を懸命に振り返る。そこには、背中から羽を生やして、アレックスと同じ様に、伝統的な吸血鬼風の衣装に身を包んだ―カミュが疲れた顔をして、こちらの方を見下ろしている。

「…オギノ。こっからどうするの?」

「あの木に向かってくれ。あの木が多分、全ての元凶だ…と思う」

「了解。この辺りに水源はある?」

「あ?あーと…あそこにプールがある―そこに水栓があると思うけど―?」

「分かった。じゃ、口を閉じて。急降下する」

「―その前に、ひとつ聞いても良い?」

「…何?」

 カミュは、心底鬱陶しそうな顔をして、僕の事を見る。僕はそれを見て、小さく苦笑する。その表情を酷く懐かしく感じる。日常の一幕に戻って来た様な気がする。“彼女”たちの、型に嵌めたような、一揃いの笑顔では無い、生きた人間の表情。

(…まぁ、彼女、人間じゃないんだけど)

「さっさとして。何?あんたの居場所なら、悪いけど私には筒抜けよ。あんたは私を部屋に招き入れたし、私の魔術を受けて、魔素も取り込んだんだから。こんな夜更けに一人で外へ出て、何事かと思ったわ。さぁ、分かったら口を―」

「あ―そうじゃなくて。君達、許可されて無い建物には入れないんだろ?」

             『―閉鎖された建物には、招かれないと入れないの―』

                          『廃墟や、公共の建物なら大丈夫なんだけどね。人が住んでいたり、往来する職種が限定されている建物は―』

                               『空いた窓からとかなら、コッソリ忍び込むことも出来るけど―大方の力は制限されるでしょうね』

「―どうやってここに?」

 カミュは複雑な表情を浮かべる―嬉しい様な、ホッとした様な、馬鹿らしい様な、笑い出してしまいたい様な。やがて、カミュは言葉少なに、自分の肩に袈裟懸けに掛かった白い紐を、顎を動かして僕に示してみせる。僕はその紐を目で追う。紐の先に、何かがぶら下がっている。

(?)

(何だ、これ―?)

 僕はその紐を、後手に手繰り寄せて、眼前に持ち上げる。紐の先には、小さなプラカードがぶら提げられている。そこには手書きでこう書いてある。

【入校証】

「………?」

 僕はカミュを見る。カミュは苦笑いを浮かべて、言う。

「そんな顔しないで。私も同じ気持ちなんだから」

「いや、どういう事?意味が―」

「…兄さんよ」

 彼女は笑う。疲れた様に。でも少し、誇らしそうに。

「あなたの命令を実行していたのよ。後で褒めてあげて。あなたは多分、あの女を校外で探せって意味で言ったんでしょうけど―兄はそう思わなかったみたい」

「つまり―」

「―『木を隠すなら森の中、学生を探すなら学校の中』だって。今日一日ずっと粘って、私の分も、それを捥ぎ取ったそうよ」

「それは―なんとも」

「…真面目なのは良い事なんだけどね。クソが付く程なのは、どうにかして欲しいわ。しかも手書きだし。まぁ、向こうは多分適当にあしらった積りなんだろうけれど―私達には、これで十分だったみたい」

「手書きで?」

「ええ。複雑だけどね。さぁ、お喋りはもう終わり。そろそろ行くわよ。準備は良い?」

「駄目って言ったら、聞いてくれる?」

「口閉じて」


 …ジェットコースターを思い出す。

 臍の辺りを宙に取り残されるような感覚がして、尻から落下するように、猛スピードで落ちていく。舌を噛まない様に、彼女に言われるがままに口を閉じる。僕の胴体を掴む彼女の腕に、不思議と安心感を覚える。僕はその腕に上からしがみ付く。手袋を嵌めた彼女の指先は、その上からでも分かる位、氷の様に冷えている。

 僕達は落ちていく。駄々っ子のように、自分の足が激しくバタつくのを感じる。仕方ないだろ、空を飛ぶのに慣れてないんだから―と、誰に対してなのか分からない、言い訳が頭を掠める。向かい風で目が痛む。痛みに目を閉じる。目を閉じる直前、“彼女”達がこちらを向いたのが見えた様な気がする。

 二人の“彼女”。

 吉田優香と―篠原和澄。

「カミュ―」

「分かってる。一瞬で終わらせるわ」

「そうじゃなくて―“彼女”の片方は、クラスメイトなんだよ。元クラスメイト。八重歯の方だ、出来れば―」

「…悪いけど、そんな余裕は無いわ、残念ながら」

「カミュ…?」

 聞いた事の無い、彼女の硬くて乾いたその声に、妙に胸がざわつく。それを形にする前に、彼女が僕の胴体を掴んだ両腕をパッ、と手放す。あ、と思う暇も無く尻から地面に接地する。硬い地面の感触が下腹部に響く。衝撃が脳髄を駆け抜ける。

(は………)

 涙が出る。今日幾度と無く零した、それらのどれとも違う種類の涙。

(痛―)

(クソ―こいつ、絶対、ワザとだぞ、このドS…)

 ヒィヒィと荒い呼吸を繰り返す。痛みが引くまでの間、紙相撲の人形の様な体勢で、その場に固まっている。バサバサと突風の様な羽音がして、カミラが直ぐ側に、そっと着地する音が聞こえる。

(―しかも着地前かよォ!!)

 僕は震える瞼を開けて、カミラの方に恨めし気な目線を向ける。カミラは僕を見て居ない。張りつめた笑みを浮かべて、彼女は東棟の方向を見つめている。

(ま―そりゃそうか)

(敵がいる。しかも二人、多分、“王の欠片”入り…)

(ああ痛ぇ、ケツが少し擦り減った様な気がする…)

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

 ―声が聞こえる。僕は慌てて向きを変える。震える膝に手を掛けて、立ち上がる。東棟を背に、二人の“彼女”が立っているのが見える。僕は素早く首を振って、“彼女”達と、金木犀までの距離を目算する。カミラは良い場所に降り立ってくれた。金木犀は僕達の背後、ほんの5m程の場所にある。東棟入り口付近に陣取っている“彼女”より、僕達の方が、到達が絶対に早い。

 それでも―“彼女”らに背を向けて良いものかどうか、惑う。判断が出来ない。カミラを見て、それから“彼女”達を見る。

 二人の“彼女”達。

 吉田優香と、篠原和澄。

(クソ…)

(…今でも見憶え無えな、吉田―さん。去年ホントに居たんだっけ、彼女、同じクラスに?)

(ま、そりゃ、向こうも同じだろうけど…)

“彼女”達は一様に笑う。右手を口元に当てて、右手を腹部に当てて。肩をゆらゆらと揺らして。

「荻野」

「荻野だ」

「荻野は殺さなきゃ」

「殺して、バラバラにして、家具にして」

「…そりゃどーも」

「相手にしないで」

 カミラからの叱責染みた反応に、思わず肩を竦める。彼女の方を見る。カミラは、白い手袋を嵌めた手を体の脇で僅かに持ち上げて、決して“彼女”達から目を逸らさない様にしている。その眼差しからは、ピリピリとひりつく様な緊張を感じる。僕はそれをみて、自分の口をそっと両手で塞ぐ。

(…そうだな。今、邪魔なのは僕だ。こっから先は、彼女の領分だ―)

(と―いうより、僕にはどうにも出来ない領域。僕にはずっと縁の無かった世界。避けて来た世界―)

(暴力の世界…)

(…喧嘩したのなんて、一体何年前かな…)

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

“彼女”達は変わらずに笑う。まるで脅威など何処にも無い様に。日常の地続きの出来事かの様に。

「ね、それより―彼女」

「ええ、彼女」

“彼女”達がカミラを指差す。順番に。最初に吉田優香が。次に、篠原和澄が。

「…凄く良いわ」

「とても素敵ね」

「金髪は持ってたんだっけ?」

「それに、赤い目。まるで、ワインレッドのルビー」

「透き通るような白い肌」

「ああ、欲しい。凄く欲しい。どれも欲しいわ」

「食べてあげる」

「食べてあげる」

「食べてあげるわ。これから仲良くしましょう」

「仲良くしましょう、ずっと。ずっとずっと。永遠に」

「お断りよ」

 カミラは短くそう言い、“彼女”達の言葉を鼻で嗤う。“彼女”たちは笑顔を崩さない。吉田優香が左腕を伸ばす。その腕の上部に、次々に、駱駝の瘤の様な突起が複数現れて、それが鴉や雀、燕、鶏、翡翠に変化する。篠原和澄が右腕を伸ばす。右腕から氷柱の様に沢山の肌色が垂れ下がって、そこから何本もの腕や足が連なって、枝の様に生えて来る。

「「大丈夫。私達が仲良くしてあげる。きっととっても、とってもとってもとってもとっても楽しいわ」」

「ご免ね。あんたらと遊んでる暇は無いの」

「「もう何も悩まなくても良いの。完璧な世界よ」」

「…一気に終わらせる」

 カミラが右の掌を上に向ける。左手で何かを引き抜くような仕草をする。途端に何かが爆発する様な音がして、僕は咄嗟に頭を庇ってその場にしゃがみ込む。

(な―?)

(また、爆発―?)

(どんな紛争地帯だよ、この学校は―?)

 音の出所を探して、必死に辺りを見回す。

 …直ぐにそれを見つける。

(…に…)

 ―体育館北のプールの上空に、巨大な水塊が浮いている。

(………?)

(これ…)

 プールの浴槽のコンクリートが、外側からも分かる位に、罅割れて砕けている。中から時折、噴水の様に、水が空中に勢い良く吹き上がる。僕は言葉も無くそれを眺めている。放物線を描いて飛ぶ水滴は、勢いを失って地面へ落ちていく手前で静止し、ゆっくりと上空に、プールの上部に浮いている水塊へと引き寄せられていく。

(これ―弁償代、幾らだよ?)

「素敵」

 カミラが隣で呟く。僕は彼女の方へ抗議の声を上げようとする。彼女の右の掌が、その上で何かを転がそうとする様に、傾く。途端に水塊が、ごうんごうんと不吉な音を立てて、空中を移動し始める。その音に制される様に、僕はそこに屈んだまま、痺れた様に、場の推移を見守る。“彼女”達の笑顔が幾分か、薄まっている事に気付く。

 ―良い気味だ、と思う。

(ザマミロ、このまま―)

(―やったれ、カミュ―)

 カミラが右の掌の上を、左手で弾く。その瞬間、水塊から氷柱が―。

(…え?)

 ―二本の、全長3mはありそうな氷柱が水塊から飛び出て来て、それが素早く、正確に“彼女”達の胴を貫き通す。

(お―)

 ―二本では終わらない。三本、四本、五本と次々に水塊から氷柱が生まれ出て、“彼女”達へ向かって飛んで行く。幾つもの氷柱が“彼女”達を貫く。吉田優香の顎を、篠原和澄の右膝を、胸を、左足を。僕はカミラを止めようと屈んだまま腕を伸ばす。冷気と砂煙が彼女達を覆い隠す。カミラが右の掌の上を握り潰す。

(―いおい、おいおいおいおい―!)

 水塊が破裂し、激流へと形を変えて、東校舎の壁を削り、残っていた窓硝子を砕き、“彼女”達の居た場所を瞬時に呑みこんでいく。僕はその場にのろのろと立ち上がって、暫くその光景をぼんやり眺めている。災害に偶然居合わせた人は、皆こんな気持ちになるのだろうか、と思う。

「お、おま、おまえぇ…」

「―行くわよ、オギノ」

「八重歯の方は、ク、クラスメイ、元クラスメイトだっていったよな―!?」

「―多分、殆ど時間の猶予は無いわ」

「え?」

 水流が地面を押し流していく。その音を聞きながら、僕はカミラを見る。カミラは東棟を見ている。東棟を襲う奔流を。カミラは右の掌の中を片手で掻きながら、僕の方へ目を向けずに言う。

「ど―?」

「…仮説よ。あんまり深刻にならずに聞いて頂戴」

「カ―?」

「兄さんは“彼女”達を攻略出来た積りで居るみたいだけど、私はそんな風には思えない。あいつらからは、オギノ、あんたと同じものを感じる。あんたの…中に入れたものと、その、同じ様な波動を」

 カミラが僕の方を見る。彼女は少し、困った様な顔をしている。水の音が引いていく。それが僕の不安を掻き立てる。

「―多分、奴らは“王の欠片”を飲み込んだんだ。そうでしょう?」

「ぼ―僕は―」

「憶測でも良い。違うならそう言って」

「そう―ああ、そうだと―僕も思ってる、その、確たる証拠は無いけど…」

「恐らく正解よ。奴らは“王の欠片”を飲み込んだ。奴らは触れた対象を飲み込む。兄さんは、触れずに奴らと闘う事にしたみたいだけれど。で、こっからが本題」

 カミラが右の親指を立てる。それに左手の人差し指を乗せる。僕は唾を飲み込む。

「ひとつめ。奴らはひとつの物体、或いは同一性質の物体しか飲み込めない」

「そ―」

「―もしそうなら、話は一番簡単ね。前者なら《氷槍》の二射目で死んでるだろうし、後者なら《タイダルウェイブ》で打撲、窒息、複雑骨折、ってとこだろうから。少なくとも、全身打ち身は避けられない。あの激流の中で泳げない限りは」

「そ―うじゃない可能性がある、の?」

「多分ね。《氷槍》が奴らの体に刺さった感触が無かった…自分の魔素で造ったものだから、ある程度感覚が残るの。ナイフを指先で持ってるみたいなものね。けど、奴らの体には全然手応えが無かった…」

「そんな―…」

「多分、氷は食べられたわ」

 カミラが右の人差し指を立てる。僕はそれを見る。彼女はそれに、左手の人差し指を乗せる。

「…ふたつめ。奴らの《口》は、食べられないものがある。或いは、食べようと意識したものしか食べられない」

「くち………?」

「兄さんの戦いを思い出して。兄さんが、奴らの内の一体と、建物内で戦ってたでしょう?あの時―…」

 ―直ぐ様脳裏に、先程の光景が蘇る。“彼女”の内の一人が、階段下から、僕の足首へ向かって手を伸ばす。その時の、僕を見上げる“彼女”の表情まで、頼んでも居ないのに、鮮明に。

 …心臓の辺りに、締め付けられるような感覚を覚える。

         『…意味を成さない喚き声が自分の口から吹き出す。アレックスが“彼女”の頭部に向かって蹴りを繰り出す。僕はその動きを制止しようと指先を―』

「…―周りの空気ごと食べて居たなら、兄さんに吹っ飛ばされる事は無かったのに。けれど、奴らはそうしなかった。それは、奴らが気体を食べる事が出来ないからか―」

「―アレックスの、蹴りを喰おうとしていたから?」

「そう。足ね、正確には。奴らは兄さんの、足を喰らおうとしていた。だから、飛んで来る衝撃には対応出来なかった」

「理に適ってる、と思う、けど…」

 カミラは笑う。静かに、苦々しく、微笑する。そうだったら良い、と願う様に。そうでない事を確信しているかのように。

 彼女は右の中指を立てる。僕はそれを見る。それ以上聞きたくない、と思う。

 ―彼女は左手の人差し指でそれに触れる。

「みっつめ」

「…まだ何かあるのか?」

「“彼女”達は自分と他人を繋いでる。その上、“王の欠片”を取り込んで、自分達の意識を“骨の王”と結合している。だから、意志決定が分散し過ぎて…若しくは“欠片”を飲み込んだ、基盤の自我が肥大し過ぎて、意識が混濁している。その所為で、端末達の動作が鈍重になっている」

「…」

「心当たり、ある?」

                                『―僕はポケットの懐中電灯を引き抜いて彼女たちに投げ付ける。それから、脇目も振らず、弾かれた様に逃げ出す。懐中電灯が何かにぶつかる様な音も、地面に落ちた音もしない』

                             『何度も彼女を振り返る。青白く光る彼女は廊下の奥をのんびりと歩いている。全く急ぐ様子は無い…』

                                  『荻野』

                                『荻野くん』

                         『荻野くん、何処行くの?』

                             『駄目だよ荻野…』

                        『―荻野、あたしが見える?』

           『あたし、綺麗になったわ。十分綺麗になったでしょう?』

              『―ああ、なのに、どうしてあの人がみえないの?』

「…だったら、どうなんだよ?」

 ―カミラは微かに歯を覗かせて笑う。疲れた様に、呆れた様に、皮肉気に。

「だったら終わりね」

「おわ―り?」

「そうだった場合、“彼女”は無敵よ。、そうだった場合、ね。そうだった場合、“彼女”の意志が認識を改めて、周囲の全てを何もかも飲み込んで、こちらに向かって来る事を選んだなら、私達に出来る事は何も無い」

「何も―…」

「―あなたが、奴らから王の欠片を抜き出す以外には」

 カミラが、仮説を数えて居た左手の人差し指を持ち上げて、白い手袋を嵌めたその指で、僕の胸を、真直ぐに突く。

「…僕?」

「そう。欠片の場所に、見当は?」

「金木犀…」

「―そう。その為に来たのね。信じても良いの?」

「…誓うよ」

 彼女の問いに、僕は応える。胸を突く彼女の指を見て、彼女の目を、覗き込んで。彼女は眉を顰める。僕は微笑みを浮かべて見せる。ぎこちなく、気弱な笑みを。こういう時、剛毅に笑い飛ばしてみせる事が出来たらどんなに良いだろう、と思う。自分の情けなさに泣きたくなる。自分の小ささを、悔しく思う。

(こういう時、もっとピシッと決められたらなぁ―)

(決められたなら…いや、決められないから、僕なのか)

「王の心臓に誓う」

 ―彼女はそれを聞いて、口元を綻ばせて、にっこりと微笑む。僕は目を丸くして彼女の顔を見る。彼女の、邪気の無い満面の笑顔を、僕はその時、初めて見た様に思う。

「―宜しい」

 彼女は僕を金木犀の方向に向き直らせ、その背中を思いっきり、引っ叩いて、押し出す。僕はその勢いに呑まれる様に、金木犀へ向かって力強く、一歩を踏み出す。

 夢の続きに居る様に感じる。

 ―金木犀が、目の前に在る。


(…大きな木だ。いつ見ても、大きな木…)

 ―体育館側面の西側に、校舎側からの視線を切る様に、一本の大きな木が植わっている。

(金木犀。これが金木犀…)

 幹は真直ぐに縦に伸び、大体地上1mの辺りから奔放に、細身の枝が幾つも複数分岐して生え、縦に、横に、その版図をドーム状に目一杯に広げている。6月中旬のこの時期に、流石に花の咲く様な気配は無い。枝の先には青々とした葉が、幾つも連なって生い茂っている。夜中に見る木の影は、普段見るよりも、もっとずっと、巨大に思える。大きく、黒く、枝の先は目に見えないくらい細くて、夜半の空との境目が分からない。

(…不思議だ。何の匂いもしない。雑草を擦り潰した様な、青臭い匂いがするだけ…)

(もっと、強烈な臭いがすると思っていたのに。現国の、近江先生からした様な。“彼女”からした様な…)

(―ここまで来た。漸く、ここまで来た。これに触れば、全てが終わる。漸く全てが終わる)

(終わるんだ…)

 ―勢いのままに、僕は歩き続ける。金木犀へ向かって、フラフラと。まるで、夢の中を歩く様な足取りだ。現実感が無い。暗闇の中を掻く様に、腕を前へ突き出す。

(…そんなの、最初からそうだったじゃないか?)

 我知らず、笑みが浮かぶ。前へ進む足に力が籠る。叩きつける様に、足を前へ踏み出す。

(ここ最近、ずっと、悪夢の中に居るみたいだった…)

(次から次に悪い事が起こる。まるで自分がそれを生み出してるみたいな。『違和感の塊』…)

(―でも、遂に、それから醒める時が来たんだ…)

 腕を伸ばす。金木犀が最後の抵抗をする様に、枝の先を揺らして、ざわざわと葉を鳴らす。僕は深く息を吸う。左手で枝を払って、右手を思い切り前へと出す。

(終わりだ―)

(これに触れたら、これに触れさえしたら…)

(きっと大丈夫、きっと何とかなる、きっと相原は…!)

 右手で幹に触れる。

 金木犀の幹に。

(は―…)

 幹の表面はザラザラで、デコボコとしていて、そして少ししっとりと湿っている。僕は幹の表面を撫で、親指で爪を立てる。ザラザラとした木の感触が擽ったい。僕は瞬きをして、幹の違う部分に何度も触れて、屈んで幹の傍に歩み寄って、左手でも触れてみる。両手で確かめる様に。何度も何度も。

(…―?)

 何も起こらない。

(これ―?)

(これ―で、欠片を抜き出した事になる…のか?)

 劇的な何かが起こる。

 劇的な何かが起こる、と勝手に期待していた。

(これ―…)

(これ…で良いのか、本当に?)

 何かが光り輝いたり、爆発したり、それとも鼓膜を突き破るような轟音がしたりして、“王の欠片”が噴き出して来るんだろうと勝手に思っていた様な気がする。心の何処かで、何故か当然のように、そうなるもんだと。信じていた。信じていた、気がする。

 頑張って来たから。

(終わった―)

 ―頑張って、ここまでやって来たんだから、と。

(終わった―のか?)

                                 ―ザクッ。

 音がする。

 する筈の無い音が。

 僕は後ろを振り返る。両膝を突いて、金木犀に両手を触れたまま。音が聞こえる。何度も音が聞こえる。僕は混乱する。する筈の無いその音の、正体が分からなくて。

                         ―ザクッ。ザクッ。ザクッ。

                                 ―ザクッ。

                             ―ザクッ。ザクッ。

                         ―ザクッ。ザクッ。ザクッ。

 カミラが溜息を吐いて前へ歩み出る。東棟の入り口に何人もの人影が見える。音はそこから聞こえて来る。カミラが左手を口元に寄せて、掌に牙を立てる。鈍い音がして、白い手袋の先からぽたぽたと血が零れる。彼女が左手を振ると、それが流動する剣状の物へと変化する。

(?)

(音がする)

(カミラは何をやっているんだ?終わったのに。もう、何もかも終わったのに―)

(―でも、音がする)

(あの人影は何?アレックス?でも、影は一人じゃない。影は一人分じゃ―?)

(―音がする、音がする、音がするんだ―)

 カミラが右手を持ち上げる。掌を空に向ける。東棟にぶつかった水流の名残が、音を立てて僕達の方に向かって来る。水が空中に再び球体を造形し始める。先程のものよりか、随分小さな水球。未だ造りかけとはいえ、サイズは1/4程しかない。

 ―人影が水球に向かって、何かを投げる。

(…?)

(小さい―)

(…ボール?)

 ボール大の何かが表面をあっさり抜けて、水球の内側に入る。ボール大のなにかは水中で体を開き、やがて腕を回してグルグルともがき始める。

(…毛玉?)

(黒い…)

(―黒猫?)

 黒猫は空気を求める様に水中の中で必死にもがき、暴れる。黒猫が暴れる度にその口からごぼごぼと水泡が零れる。僕はその場に根が生えたみたいに釘付けになってその光景を見ている。やがてカミラが何かに気付いた様に、舌打ちして、水球の中に浮かぶ黒猫に向かって素早く剣を振る。僕はそれを止めようと腰を浮かして、彼女に向かって左手を精一杯に伸ばす。

 ―それよりも早く、黒猫に変化が訪れる。

(何?)

(―僕は―)

(音がする、音がする、音が…)

 暴れる黒猫の口から最後の水泡が溢れると同時に、それの首筋を突き破る様に犬の頭部が姿を現す。猫の足が鋭く水を蹴り上げると同時に、その足の先から蛇が、足の付け根から魚の顔が姿を現す。腕が弧を掻く度に、その腕の先から連なった子供の足が生えて来る。蛇の頭から鼠の親子が姿を現す。犬の口から、色取り取りの、チョークの粉末が煙の様に吹き出す。鼠の親子の背中から植物の枝葉が生えて来る。子供達の靴の隙間から沢山の飴玉が零れる。魚が口から標識を吐き出す。

(『通学路』…)

                            『同質化。同質化だ』

              『―“彼女”は、喰ったものを、自分と同質化する…』

                     『…あれも“彼女”、これも“彼女”…』

(“彼女”だ…)

 僕はその場に座り込んだまま、呆然とその光景を見ている。右手で金木犀の幹に触れ、行き場の無くなった左手を、宙に彷徨わせて。

“彼女”が水球の内側で、体積を肥大化させていく。

(僕は…)

 カミラが水球の中に居る“彼女”に、血の剣を突き立てる。“彼女”が痛みを覚える様子は無い。カミラが短く何事か呟きながら、その場から飛び退く。同時に右の掌を素早く持ち上げるような仕草をする。逆さに雨が降るように、水滴が上空へ零れ落ちていくが、肥大化した“彼女”の上部から傘が飛び出して、逃げていく水滴の先を覆ってしまう。逆さに落ちる水分が傘の内側に吸い込まれていく。

「…こんにゃろ」

 カミュが地面を蹴る。汚れを振り払う様に、血の剣の先を振る。

 …刀身の半分を喰われた血の剣を。

(僕は―失敗した)

(失敗したのか?)

(僕が何かをしようと、藻掻けば藻掻くだけ…)

(どうして、“彼女”が居る?僕は金木犀に触れた。欠片は抜き出した、筈じゃないか…)

(話が違う)

(…違う、違う。何もかも違っていたのか?僕は最初から間違えて居たのか?僕は失敗したのか?この金木犀じゃなかったのか?別の金木犀だった?)

(―でも、この場所は“彼女”が守っていた。“彼女”達が、6人の内の2人、人数を割いてまで…)

(…この場所の筈なんだ。それとも、この場所じゃないのか?僕の勝手な思い込みなのか?“彼女”達のやる事に、意味なんて無いのか?“彼女”達は、欠片を守っていた訳じゃないのか?欠片を“神隠し”が吸い込めないっていうのは、僕のただの願望で―本当は最初から、“彼女”が欠片を持っていたんだろうか?)

(分からない、分からない、分から―)

                                ―クスクス。

 声が聞こえる。

 声に背筋が跳ねる。肩が震える。胃が戦慄く。僕は声のした方を見る。左手を地面に下ろす。

 …金木犀から、そっと手を離す。

                           『―何もかも悪くなっていく?。きっともう、これ以上悪くなんてなりようが―』

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

                ―クスクス。クスクス。クスクス。クスクス…。

“彼女”達がそこに居る。“彼女”達が、東棟の入り口から溢れ出て来る。6人の“彼女”達が。それらは一様に笑っている。口元に手を当て、背筋を逸らして、如何にも可笑しくて堪らない、という様に。僕は“彼女”達を見る。横隊を組んで歩く“彼女”達を見る。食パンくらいしか胃に入れて来なくて良かった、と思う。

 …食べた分だけ、きっと残らず吐いていただろうから。

「―オギノ!さっさと片付けて!さっさと―!」

 カミラの声が遠くに聞こえる。僕はお腹を抱えてその場に蹲る。頭の天辺がぎゅうぎゅうと絞られる様な感触がする。胴の前に抱えたショルダーバッグをカリカリと爪で削る。背中を何かに抑えつけられるような感覚がある。視界が白くなったり黒くなったりして明滅する。皮膚に空気が触れるのを感じない。只管に喉が渇く。咽がカラカラに乾いていく。焦燥が僕を内側から焼く。

「…オギノ?」

(失敗した)

(失敗したのか?)

(答えを見つけた)

(答えを見つけた積りになっていただけ)

(考えろ)

(分からない、分からない、何も―)

(最初の推論から何もかも間違っていたのか?)

(死ぬ、死ぬ、嫌だ、死にたくない、死にたくない、死にたく―)

(…そうは思わない。“彼女”達はここを守っていた)

(―そんなの、“彼女”達の気紛れかもしれないだろ?東棟の入口の両脇に立って、狛犬の気分味わいたかっただけかも―!)

(終わりだ。終わりだ。終わりだ)

(正にデッドエンド)

(…違う。“彼女”達の行為には論理がある)

(論理?)

(ロンリー?)

(…“彼女”達のロジックだ。“彼女”達の間でしか通用しない、ロジック。ロジックを持たない人間はこの世には居ない。物事には全て理由がある)

(―理由?理由が何だってんだ?もう直ぐ死んじまうってのに!理由なんて糞喰らえだ、理由の無い事なんて世の中には溢れてる、僕が今日死んじまうみたいに!明日にゃチンパンジーが大統領になって、猿に惑星が支配されるかも―!)

(…この場所に、欠片は必ずある)

(―だから、それが見付けられないから、こんな事になってんだろうが―!)

 顔を上げる。

 カミラと目が合う。その目には、不安そうな光が覗いている。カミラは僕が顔を挙げたのを見ると、何も言わず、僕に背を向けて“彼女”達と対峙する。血の剣の欠けた剣先を爪でなぞる。血の剣の刀身が修復されていく。

“彼女”達が、僕達の方に笑いながら歩いて来る。

“彼女”達が足を踏み出した瞬間、東棟の外壁が衝撃音と共に切り崩されて、中からアレックスがよろよろと姿を現す。アレックスは眼下の光景を見ると、“彼女”達が振り返るよりも早く飛び立ち、フラフラと蛇行して、カミラの隣に、不格好に、ドスンと着地する。アレックスは、カミュと同じ様に、右手に血の剣を握っている。その左腕と脇腹は、既に“彼女”に依って喰い千切られている。

「に、兄さん―?」

「―気を付けろカミュ、こやつら、奇妙な技を使うぞ」

「そうね、多分―」

「―奴らに触れるな。再生が効かなくなる。左腕と脇腹をやられた―」

 僕は彼らから目線を外す。吸血鬼兄妹から目を離して、後ろを振り返る。両手を地面に着いて、蹲ったまま、金木犀を見る。

 金木犀を見上げる。

 考える。

(…考えが、全て間違っていたとは思わない)

(―元々、賭けに近い様な考えだったけれど。でも、“彼女”達の行動を見て、確信した。欠片はここに必ずある)

                          『―後は単純な綱引きだ』

(…なら、何が間違っている?)

(何かを間違えている。だから、金庫の場所が分かっても、中身を引き摺り出せないんだ―)

                                『欠片同士は近くにあると、互いを吸収して大きくなり、元の個体に近付こう、とする性質を―』

                                 『欠片は元の個体に戻ろうとしている。他の欠片と引き寄せ合うの。大きい欠片なら尚更よ―』

『―分かってる?私達が持って来た12の欠片は、今も未だあなたの体の内側に―』

        『劇薬なの―王の欠片ってのは、それ一つだけで致命的なのよ…』

(あ)

「…同数なのか?」

 僕は呟く。

「来るぞ―!カミュ、構えろ!」

 アレックスの、怒号と大差無い叫び声が、夜の学校に木霊する。それを掻き消す様に、“彼女”たちの笑い声が聞こえる。僕は彼らの方をチラリと盗み見る。アレックスが剣を構える、それに釣られる様に、カミラも隣で慌てて剣を構え直す。“彼女”達がこちらへやって来る。“彼女”達の内の一人、吉田優香が、カミラの水球を吸い尽くした元・黒猫の肉塊を抱き締め、端から少しずつ飲み込み、吸収していく。

(…あっちも、一刻の猶予も無い、って感じだな…)

(勝手にひとつだと思い込んでいた。何となく勝手に、欠片はひとつだと…)

(―もしかして、“彼女”と僕、王の欠片が同数なんじゃないか?)

(欠片が同数の場合だ。欠片が同数の場合―綱引きはどうなる?欠片はどっちに引き寄せられる?)

(…同じ個数だ。同じ力で、綱の両端持って引っ張り合った時みたいに―多分、決着をつけられないんじゃないか?)

(同じ欠片の数。僕の中にも12個、この、木の中にも12―)

(…一刻の猶予も無い)

 僕は顔を顰める。溜息と共に、立ち上がる。両手の砂を払い、ショルダーバッグのジッパーを開ける。中に手を入れながら、これからやろうとしている事の愚かしさに、我ながら、笑う。

(…馬鹿だな、僕は)

(何を今更)

(多分、他にもっとスマートなやり方が―)

(―誰かに見られたら、言い訳の仕様も無いな…硝子と合わせて、弁償代幾らだよ?)

(弁償で済めばいいけどな、下手すりゃ、退学…)

(―そんな心配、してる場合じゃないか。死ぬかもしれないって時に)

(…明日の事は、考えるな。もう終わってしまったんだ。僕の日常はもう戻って来ない。ここには相原を助けに来ただけだ)

(やるしかない)

(綱引きで駄目なら―やる事はもう決まってる。中身を無理矢理、吐き出させるだけだ)


 ショルダーバッグの中から、目当ての物を引っ張り出す。

 100円ライターと―金槌で少しへこんだ、制汗スプレー。

(ライターの火にスプレー缶の中身を吹きかけると―可燃性の気体が燃えて、忽ち即席の火炎放射器の出来上がり)

(原理は分からないけど…)

(やり方さえ、合っていれば良い。望む結果さえ、得られたら。方法は分かってる。何度も映画や…漫画なんかで、見た)

 ライターの火打石を弾く。カチッ、カチッと何とも心許無い音がして、三回目くらいで漸く手元に火が点る。暗い校舎の片隅で、久しぶりに見る灯りの眩しさに思わず目が眩む。今まで、よっぽど暗い所に居たんだなぁと、スプレー缶を握った右手の甲で、目元をごしごし擦りながら、思う。何だか少し、可笑しくなる。こんなに小さなライターの明かり一つに、これほど安心するなんて。

「―オギノ?何を―」

「―余所見するなカミュ!あれを使うぞ。こいつら、初見の技には反応出来ない―」

「―でも、兄さん、それは―」

「―止せ、カミュ。お前の悪い癖だ。解を出すのは後でも良い。最も優先させるべき事を忘れたか―?」

 ライターを構える。スプレー缶のスイッチに指を引っ掛けて、躊躇う。ライターの火が、僕を僅かに正気に戻してくれる。正気というか…日常の、慣れ親しんだ感覚の中に。自分のやろうとしている事が、具体的に刑条何法だかに触れる可能性が頭の隅を掠める。小学校の通学路に卒業するまでずっと貼ってあった、色褪せてくすんだ啓蒙ポスターを思い出して、苦笑する。

(『やめましょう。火遊びは火事の元』…)

(綱引きで駄目なら―やる事はもう決まってる)

(中身を、無理矢理…)

(…これ、僕の手も燃えたりしないよな?)

 ―念の為、ライターの火をもう少し、スプレー缶の射出口に寄せる。ライターを持つ左手の指の位置を少しだけ、下げる。左手の指先が、“彼女”に喰われて剥き出しになった骨が、ライターのオイルケースの表面をコツコツと、叩く。

 僕は覚悟を決める。

 引き金を引く。

                                 ―ゴウン。

 背後で咽の奥に響く様な重低音が遠くに聞こえる。けれども、僕には振り返っている余裕はない。制汗スプレーから勢い良く気体の噴き出す音がする。気体がライターの火を潜り抜けて、噴出する真っ赤な火の尾に変わる。

(わ…)

 ―思わず悲鳴を上げて、缶を取り落としそうになる。指先が震え、汗でつるつると滑る。悪態の様な何かを繰り返し口から漏らして、懸命に缶を手の中から逃がさない様にする。背後から音がする度に、炎の先端が後ろに引っ張られる。僕はそれに煩わされない様、出来るだけ火の根元を金木犀へ近づける。頭の中で数を数える。

(1…)

(2、3、4―)

                                 ―ゴウン。

                           ―ガリガリ、ゴリゴリ。

                                ―ズズズ…。

 5、まで数える。スプレーの噴出を止める。金木犀の具合を見る。木の表面は所々焼け焦げて、煤けては居るが、火の点いている所は何処にも無い。

 金木犀は、何も変わらずにそこに立っている。

 僕は金木犀を見上げて、当惑する。

(―?)

(燃えて無い。黒くなってるけど、火が点いても居ない…)

(綱引きが駄目なら―やるしかないんだ。無理矢理、中身を吐き出させるしか。焼いてしまうしか…)

(木を、焼いて―潰してしまうしか…)

(―どうして燃えない?何か、やり方が間違っているのか?それとも、欠片を得た事に依って、この木も変化したのか?)

(僕みたいに)

(僕が、ある種の電子機器に、察知されなくなった様に―)

(…この木も変わったのか?燃えなくなったとか?)

(―燃えない木?そりゃ、今は不味い。不味い冗談だ…)

 ―スプレー缶を左脇に挟む。右手をショルダーバッグにもう一度突っ込む。そういえば、と願う様に指先を動かす。そういえば、あれを入れた様な気がする―あの時は夢中だったが、夢中で、何か役立ちそうな物を、程度の度合いを問わず、適当に詰めてしまったが―確かにあれを入れた様な記憶がある、朧気に。

 指先が、プラスチックのつるつるとした質感に触れる。指先の間に挟んで、急いでそれを摘まみ出す。シルエットを見て、思わず安堵の溜息が零れる。そう言えば、そんな物も入れていたなぁ、と思う。全く、こんなもので、どうやって“神隠し”と渡り合う積りだったのか。苦々しい笑みが滲みでる。自分で自分が分からない。

 ライターの火の上で、それを引っ繰り返す。プラスチックで出来た、チューブ型のケースを。ケースにはラベルが貼られている。ラベルにはこう書いてある。

【着火剤】。

(…でもまぁ、今は、有難い)

 ―蓋を開けて、それを金木犀の幹に塗りたくる。それを地面に放り捨てて、スプレー缶を構えて、再び思いっきり噴出する。さっきよりも、明らかに火勢が強い。思わず笑みが浮かぶ。

(…燃えろ)

(燃えろ)

(燃えろ―!)

 パチパチ、バチバチと何かが爆ぜる音がする。背後で聞こえていた重低音が不意に途切れる。目の前の明るさに安堵する。何もかもが上手く行きそうな気がする。力の限り、スプレーのスイッチを押す。

 頭の中で5秒数える。スプレー缶の噴射を止める。

 金木犀が燃えている。

 金木犀の、表面だけが。

(…?)

 自分の笑みが、薄れて、掻き消えていくのが分かる。混乱する。何が起きているのかが分からない。金木犀が燃えている。金木犀の表面だけが。表面の皮だけが、ぶすぶすと音を立てて、黒い煙を上げて、燻っている。

(何だ?また何か、また何か間違えたのか―?)

(―火?火が足りなかった?もっと噴射するべきだった―?)

(それとも、本当に、燃えない木?欠片を飲み込んで進化して、本当に、燃えない木になったのか―?)

 …未だ燃えている所もある。僕はその場所を、祈る様に見つめる。金木犀の皮の上を、着火剤の跡をなぞる様に、小さな火が燃えている。火は僕の願いも虚しく、直ぐにもっと縮んでしまって、やがて黒い煙に変わって、ぶすぶすという音を立て始める。僕はそれを眺める。

 惨めな思いで眺める。

(―焼く―)

(焼いてしまうしかない―のに。焼いて、潰してしまうしか―)

(それしかないのに。欠片を取り出すには。綱引きが駄目なら。僕は―)

 煙が消える。

「―ッハァ!これで―」

 アレックスの雄叫びが聞こえる。アレックスの雄叫びが、背後から。溺れる寸前で、水面に浮上した様な声。僕は後ろを振り返る。

 ―そこには、想像だにしなかった光景が広がっている。

(―うわ)

 東棟の半分が、丸く削られている。東棟の、体育館側に面する方向が、校舎の半分程を残して、綺麗に、円形に。まるで、円形の消しゴムで神様がその場所を消す事に決めてしまったみたいだ、と思う。そう思う程に、その場所には、綺麗さっぱり、跡形も無く、何も無い。校舎の半分が消えた東棟は、側面から、トイレや教室の中が丸見えだ。小さい頃、友達の妹が持っていた、人形用のお屋敷にとても良く似ている。壁の半分が外れる様になっていて、屋敷の中身が側面から見える。その中に、人形をそれらしく配置していく、この子はダイニングでお食事、この子はロビーをお掃除、この子は―。

(―何を考えてんだ、僕…)

 東棟の消失した円形の中心に、握り拳程の、黒い小さな球体が浮いている。あれだけ深かった、校舎の中の暗闇よりもなお深い、暗闇の中でもはっきりと輪郭の分かる様な、墨汁を煮固めて作った様な球体だ。一目であれが、この惨状の正体だと分かる。僕はそれをぼんやりと見上げる。吸い寄せられるように、麻痺したように。

「―これで―いい加減―くたばったか?なぁ?どうだ?この、クソッタレの化物め―」

「―兄さん、止めて。それ、私達にも効くから。自分を何だと思ってるの?一応、私達もあっち側の生物なんだけど」

「―完璧な一撃だった。お前も腕を上げたな、カミュ?今の《黒鎖の密封》は、間違いなく今世紀中最高の出来―」

「―それも止めて、兄さん。ワインのキャッチコピー思い出すから。それに、《黒鎖》、今世紀入ってから撃ったの、初めてだし。今世紀、未だ始まったばかりだし…」

「…なんだぁ?カミュ、あれも駄目、これも駄目って、お前。じゃあ俺は何を言えば良いんだ?決め台詞位、好きに言わせてくれよ―」

「―決め台詞だったんだ、今の………」

 ―血の剣を地面に突き刺して、杖代わりに寄り掛かっていたカミラが、僕に気付いて、草臥れたように片手を上げる。それを見たアレックスが、満面の笑みで、跳ねる様に僕に駆け寄って来る(元気なもんだ―左腕と、左の脇腹が無いのに)。僕も二人へ、力無く手を振る。アレックスが抱きつかんばかりの勢いで、僕の鼻先で立ち止まる。鼻息荒く、期待にキラキラと、目を輝かせて。僕はその頭を、思わず撫でてしまいそうになる。

(犬系、ってこういう奴の事を言うんかな…)

(後輩が居たら、こんな感じなんだろうか―)

(―だから、ジョンにあんなに絡まれるんかね?犬っぽいから。同種だと思われてたりして…)

「―ご覧下さい、真祖様―見て下さい!奴を見事に、誅殺してみせましたよ!」

 アレックスが満面の笑顔でそう宣言する。僕は無理矢理笑顔を捻り出し、右手を上げ―手首をブラブラと振る。空返事をし、足元を見る。アレックスをまともに見る事が出来ない。

「褒めて下さい!」

 アレックスが言う。真直ぐに僕を見て―満面の笑みで、力強く。思わず、噴き出してしまう。

(素直なやっちゃな…)

 僕は苦笑を浮かべ、ありがとう、良くやった、助かったよアレックスとカチカチの謝辞を並べたてながら(アレックスの、本当に嬉しそうな顔―少し胸が痛い)カミラを見る。カミラは寂しそうな微笑みを浮かべ、ゆっくりと横に首を振る。緩やかに、でも、きっぱりと、一度、二度。

「…やっぱり?」

「ええ。仮説その三ね」

「どれくらい持つ?」

 彼女は肩を竦める。投げ遣りに、見当もつかない、という風に。

「―さぁ?分からないわ。後10分か20分、そんなとこじゃない?」

 アレックスは困惑した様に、僕を見、そしてカミラへと目を向ける。僕は東棟の方を見る。空中に浮かぶ黒球を見る。崩れた校舎の残骸を見る。何かを思い出しそうになる。

(父さんと昔、キャンプに行った時―あんな感じの竈を、石で作ったな…)

(大きめの石くれを集めて、丁寧に積み上げて―ウチの水場の整備にもその位熱心ならね、と母さんに文句を言われたっけ…)

「…で、あんたの方は、オギノ?」

「―え?」

「お、おいカミラ、不躾だぞ―」

 僕は口を開く。言い淀む。項垂れる。カミラの顔を、正面から見る事が出来なくて。頭の中を、幾つもの言い訳が駆け巡る。目の奥がツンと痛む。金木犀の方を、力無く指差す。

(決断だ)

(諦めてしまおう。相原なんてどうなったって良いじゃないか?二人とも、凄く疲れてる。次、あいつらが来たら、死んでしまうかもしれない)

(僕と一緒に)

(欠片は間違いなくここにある)

、ここにあると言い切れるのか?本当に、、ここに?今まで一体、幾つ間違えて来たんだ?これまで決断を、幾つ間違えて来た―?)

(僕が何かをしようと藻掻けば藻掻くだけ、何もかも悪くなっていく…)

(相原は僕を助けてくれた。僕を信じてくれた。そりゃ、心からの信頼じゃなかったかもしれない、不純な動機に依る打算だったのかもしれない、でも―)

(本当に間違いは無いのか?間違いなんて、そこら中に転がってる。何一つ確証なんて無い。ただの推論だ。そんなあやふやなものに、彼らの命を乗せてしまって良いのか?彼らの命まで、根拠の無い賭けの質草に―)

(カミュとアレックス。二人にまで、死んで欲しくない。そんな義理は無い。家に帰って眠りたい。温かい布団の中で、眩しくて、寝て居られなくなるまで)

(相原、何だかんだ、楽しそうにやってたじゃないか?もしかしたら、“彼女”の一部として生きる方が、ずっと幸せかもしれない。誰からも心が切り離された状態で、孤独に生きるよりも)

(―でも、相原は救急車を呼んでくれた)

(僕を助けようとしてくれた…)

(欠片は間違いなくここにある)

(間違いは、そこら中に転がっている)

(決断だ…)

「…そんな顔しないで、オギノ」

 カミラが言う。

 僕は彼女を見る。

 彼女は微かな笑みを浮かべている。疲れた様に、穏やかに、慰める様に。彼女は血で出来た剣を地面に突き刺して、それに後手に凭れている。彼女の視線が時折不安そうに揺れる。僕は彼女と金木犀を見比べる。金木犀は火を吹き掛けられた事等無かったかのように、変わらずに揺れている。

「王の心臓に、誓ったじゃない」

 …僕は、無言で夜の金木犀を眺めている。

 彼女の言葉が、胸の奥に、針のように鋭く突き刺さる。

(…僕は―)

「あなたを信じる。でも、どうして欠片が抜き出せないの?」

「多分、同数なんだ―と思う。僕の中の欠片と、あの金木犀の中にある欠片、多分、同じ数なんだ」

「成程―最悪ね。今、一番聞きたくない冗談だわ」

「でも、それしか考えられない。“彼女”達はここに人数を割いて守っていた。“彼女”達の行動は、深い考えがあってのものとは思えないし。防衛に人数を割くという事自体が、ここの重要度を表している…と思う。それに、“彼女”達の内の一人、一番古い一人は、金木犀の開花時期に失踪しているし、ここはふたつの噂が重なる場所でも―」

 喋る。捲し立てながら、カミラの方を向く。不機嫌そうな顔のカミラと目が合う。途端に言葉が引っ込むのを感じる。彼女のその表情を、なんだか懐かしく思う。最初にあった頃は、良くこんな顔をしていた様な気がする。こんな風に、露骨に機嫌の悪そうな表情を。それが酷く、遠い昔の様に感じる。

 …何故だか、その表情を見て、少しホッとする。

 アレックスが、話の推移に付いて行けない様に、困惑した眼差しで、僕とカミュを見比べる。鶏みたいに、素早く首を振る。その動きに、僅かに肩の力が抜けるのを感じる。頭の中に、物を考える猶予が戻って来る。

「それで―火を点けようとしていたの?中身を取り出す為に?でも、どうして燃えない?欠片を得て―火への耐性でも、手に入れたとか?」

「―それは―」

 彼女が突き刺す様な眼で僕を見る。僕は目を逸らす。視線を持ち上げながら、結論を捻り出そうとする。東校舎が目に入る。半分削られた東棟が。父さんが未だ居た頃、未だ小さい時に、父さんと母さんと、家族三人でキャンプに行ったのを思い出す。

 母さんは食事の準備、父さんはテントの設営と、竈と、火起こしの準備。

 薪を拾って来るのは僕の役目だった。

(『―父さん、なんでこの枝はダメなの?』)

(『何でって、祐輔、これは木から直接折って来たものだろう?それじゃ駄目だ。いいか祐輔、ちゃんと落ちてる枝を拾うんだ…』)

(『…でも、木の枝折る方が、カンタンだよ?』)

(『ううん、そうじゃない、そうじゃないよ、祐輔―そうだな、言うなればだな、この枝は』)

 僕は笑う。

 気の抜けた笑みが浮かぶ。

 あんまりに、馬鹿馬鹿しい―理由に思い至って。

「…生木だからだ」

「は?」

(『…生きて居るんだよ、祐輔。この枝は未だ、生きて居るんだ』)

「生きているからだ。枯れ木じゃないから燃えにくい。生木は中に、水分が詰まってる…」

 ―両手で顔を覆う。笑う。暫くの間、発作的に、衝動的に。自分が恥ずかしくなる。今までいろんな事を教えて貰って生きて来たのに、こんな、簡単な事を―夜の学校を、化け物に追い回された位で、忘れてしまうなんて。

(ごめん、父さん…)

(最後にキャンプ行ったの、一体、何時だったっけ。昔は良く行ったなぁ。一体いつから、行かなくなったんだろう…)

(………ありがとう)

 顔を上げる。カミュとアレックス、二人の吸血鬼兄妹が、揃ってギョッとした顔をして、恐る恐る僕の方を覗き込んでいる。僕は口元を拭い、改めて彼らを見る。

「アレックス」

「は―ハ、真祖様?」

「あの木を切り倒せるか?」

「…ちょっと待って、焼かなくても良いの?」

 ―と、カミラ。

「え?別に欠片を出せるなら、木の壊し方には拘らないけれど―焼いた方が良いのかな、やっぱり?」

「出来るのならそうした方が良いと思うわ。宿主がどのくらい損壊したら、王の欠片が外に出て来るか、分からないし…それに、植物って、明確な死の基準、ってのが何処にあるのかが、良く分からないじゃない?枝を地面に植えて置いたら、根を張ることだってある訳だし」

「ううん…」

 成程なぁ、と納得する。アレックス―よりも、カミラが適任だろうかと、視線を移して、質問を重ねる。

「じゃあ、カミラ―あの木を、燃やせる?」

 僕の質問に、カミラは明らかに困った顔をする―僕はその表情に、何となく答えを察する。

「…出来ないの?」

「出来ない事は無いだろうけど、時間が足りないわ―準備が居るの。吸血鬼一族は、代々、火の魔法とは、相性が悪いのよ。水流とか冷気とか、結界の封印、解除とか、幻惑とか―得意なのは、そういうので。ここには良い触媒も無いし…それに、さっき魔力を大量に使ったばかりだから」

 僕は東の校舎の方を見る。校舎の側、中二階くらいの高さに浮いている、黒色の球体の方を。確かに、あんな小さなもので、あれだけ苦しめられていた“彼女”達の姿を一掃したんだ、ただのちびっこい球体だとは思ってない―けれど。

「―《黒鎖の密封》です。圧縮した重力を、固定化した結界の中に入れて、撃ち出す技です!私達兄妹の、出来得る限り、最高の技です―敵を結界の内側に入れてしまえば、こっちのもんですよ!地球上の何処に居たって、触媒も無しに撃つ事が出来るのも、この技の優れた所です―まぁ、その分魔力を多く消費しますがね」

(…思ったよりヤバい技だった…)

 ―僕の視線に気付いたアレックスが、その視線の先を追って、得意気にそう解説してくれる。僕は苦笑交じりに、アレックスを振り返る。アレックスは、今、僕達が置かれている状況を忘れたかのように、能天気に、宙に浮かぶ黒球を誇らしげに、指差す。

「―本当は、磁石でもあれば助かるんですけど―」

「…つまり、あれは、ちっちゃなブラックホールって事?」

「ブ…?何ですかな、それは?」

(…どうやら、原理は良く分かっていないらしい…)

(カミラが僕に魔術を使った時、散々イメージがどうこう言っていた気がするけど…)

(記憶から、血液で“彼女”の人形を作った時だ…)

(まぁ―こういうのは、各々のイメージが大切なんかね?)

 カミラを見る。カミラは血の剣を杖代わりに、辛うじて立ってはいるが、疲労の色濃く俯いている。呼吸も荒い。どうするべきか、僕は考える。駄目元で、アレックスに聞いてみる。

「―アレックス。あれ、もう一回撃つ事は出来ない?」

 ―アレックスは、まるで鼻先を弾かれた様に、驚いて、怯んだ表情を浮かべる。その表情を見て、僕は一人納得する。アレックスが覚悟を決めた様な顔になって、何かを口にするその前に、カミラがその口を塞ぐように、下を向いたまま僕に言う。

「無理ね」

「―待て、カミュ。真祖様、あなたの御下命とあれば、不肖アレックス、この身命を賭して―!」

「…やっぱり?」

「無理。あれは最後の最後、どうしようもなくなった時に使う為の技なの。切り札とも言えない様な技ね、威力と―消費魔力だけが、馬鹿みたいに高くて。一度、興味本位で作った様な技よ―覚えたての魔術で、何処まで威力を上げられるか、試したくて」

「…それが、あれ?」

「ええ。アード様には、二度と使うなと、キツく言われたわ―エーデルシュタイン家の、御当主様に。もし使う積りなら、周囲の被害が少なくなるように、周りを硬く、結界の殻で覆え、って」

(成程…)

「おまけに、使った後は、へとへとになっちゃうから―こんな風にね。こうなったら、もう戦えないわ。多分、そこらの人間と、殆ど同じ位―あんたと腕相撲しても、負けちゃうかもね、オギノ」

(結構、良い人だな―まだ見ぬ、アード様)

 僕は考える。頭を掻き、考える。これからどうするべきか。どうするのが、一番最善か。

(クソ、生木…)

(―考えろ、どうすれば良い?金木犀を焼くには、火力が足りない…僕の手持ちは、小さなライターと、着火剤と、スプレー缶ひとつ…吸血鬼共は火の魔術が苦手、その上、魔力も足りない、と来たもんだ)

(…魔力を、補充する?)

(どうやって?)

(血―?やっぱり、吸血鬼だから…)

(血をやって、どうする…?)

(考えろ、考えろ。もう間違えられない…)

(血って―どれくらいの血があれば、こいつら、回復するんだ?これだけフラフラなのに?お兄ちゃんの方は、未だマシだとしても―妹の方が、一滴や二滴、ペロリと舐めただけで、直ぐに元気一杯、と復活するとはとても思えない)

(…大量の血液が必要だったとしたら?)

(僕一人で、それを補えるのか?)

(―欠片はどうだ?)

 僕は彼女を見る。無意識に、自分の首に触れる。感覚の無い、自分の首筋に。

        『劇薬なの―王の欠片ってのは、それ一つだけで致命的なのよ…』

 …首を振る。結局、次善の策を試す事にする。金木犀の方へ腕を傾けながら、アレックスの方へと正面から向き直る。

「―アレックス。あの木を、引っこ抜いて―」

「ハ」

「―あの球体に―」

(…球体の中に、投げ入れてくれるか?)

 ―言う。言い掛ける。口を開く。東棟の、黒い球体の方を見る。

 …球体に罅が入る。

 球体に罅が入るのを、見る。


 ―吸血鬼兄妹の様子を、ちらりと横目で見る。

 兄妹の反応は、各々、其々だ。兄の方は、純粋に、驚愕と―恐怖の入り混じった表情を浮かべている。それでも、直ぐ様、その表情のまま、右手で血の剣を構えているのは流石だ、と思う。

 妹の方は―笑っている。額から汗を流して、草臥れた顔をして。全てを諦めて、なにもかもどうでも良くなった様な表情と、開き直りの極致みたいな笑顔が混在している。彼女の視線の先には、東棟がある。僕も東棟の方を見る。

 球体に罅が入っている。

《黒鎖の密封》とアレックスが呼んでいた、東棟の二階辺りに浮かぶ、握り拳程度の小さな重力球に、僅かに亀裂が入っている。

(…?)

 いや、それは裂け目じゃない―単なる裂け目では無い、良く見ると。その亀裂は動いている。その亀裂は、肌色をしている。

 その亀裂は、生きている。

(………嘘だろ?)

 亀裂はあっという間に、人間の腕になる。幾つもの人間の腕に。球体の上部から柳の枝の様に、五本、六本、七本と後から後から人間の腕が生えて来る。腕に連なる様に、その上に顔が、気泡の様にぷつぷつと現れて来る。葡萄の様に密接した人間の顔が。沢山の人の顔が。“彼女”達の顔もあるし、そうでないものも沢山ある―“彼女”が食べて来た人間の顔。“彼女”が食べて来た、沢山の人間の顔。見覚えのあるものもあるし、そうでない顔も沢山ある。

(篠原和澄、吉田優香、園部美佳―)

(年齢も性別もバラバラだ。見境無しだな。ここら辺は、最初に喰った奴らか―?ニュースで流れたりもして居なかったと思うけど。喰うだけ喰って、放し飼いにでもしてたのか?)

(―子供。子供だ。大勢の子供達―皆がお揃いのスモッグを着て、お揃いの名札を身に付けている。校外学習にでも出た時に、纏めて“神隠し”にやられたか―?)

(…そういや、藤谷、娘が居るって。学年主任の、藤谷。もしかして、あいつが目を付けられたのって、それ関連―)

(………ああ、クソ。あれ、守衛室のおっちゃんじゃねぇか?)

 黒球が埋め尽くされる。黒球が、“彼女”達で埋め尽くされる。

 ―やがて、ぼとり、ぼとりと、一体、また一体、産み落とされる様に、地表に“彼女”達が落ちて来る。

(―相原)

(…クソ)

(クソ。クソ、クソ、クソクソクソクソ―)

「―走れ!」

 ―アレックスが、僕達の前に躍り出る。静寂を割る様に、怒鳴り声を上げる。

「―ちょっと、一人じゃ無理よ、兄さん!冷静になって―」

「―お前こそ冷静になれ、カミュ!お前の魔素はもう品切れだ。一人じゃどうにもならなくたって、ここは俺が前に出るしかない―」

「―でも、兄さん、多分、あいつは、王の―」

「―真祖様をお助けしろ。カミュ、あの木を滅ぼせ。俺にはそれが何かは分からないが、カミュ、それが真祖様の御下命だというのならば」

「―兄―」

「―行け」

 話は終わりだ、という様に、アレックスが剣を振る。有無を言わさぬその背中に、押し出される様に、舌打ちして、カミュが走り出す。剣を置いて、僕の袖を引いて。僕は一度だけアレックスを振り返る。笑い声と共に、“彼女”達が押し寄せて来る。アレックスの剣先が月明りを受けて鈍く閃く。先頭を歩く“彼女”の首筋へ、横薙ぎに切っ先が向かう。血の剣が“彼女”の喉元に触れるが、その首が跳ね飛ばされる様子は無い。

“彼女”が笑う。アレックスの顔へ、腕を伸ばす。

「―余所見しないで。走って!」

「でも―」

「―あなたが出来る事は何も無いわ。兄さんに対して、あなたが出来る事は、何も。大丈夫、兄さんは戦うのが得意なの、それこそ私よりも、ずっと―」

「でも、あいつらは―」

「―あなたはあなたに出来る事をして。奴らから欠片を奪うのよ。さぁ分かったら立って、考えて頂戴!あいつらをどうにかしなきゃ。あいつらをどうにかしないと、このままじゃ―」

「―でも、一体、どうすれば―」

「『でも』は禁止!分かったら、立って、走って、考えて―!!」

 ―彼女が叫ぶ。僕はよろよろと緩慢に、彼女に言われるがままに、モタモタと足を動かす。頭の中を、ぐちゃぐちゃの思考が横切る。何が起こっているのか、何をすればいいのか、何をしていたのか。何もかも分からない。隣を、真剣な顔で走る、カミュの横顔を見る。彼女が僕の袖を引いて、走っているのを見る。

 金木犀を見る。

(…大きな木だ。いつ見ても、大きな木…)

(金木犀っていう木なんだ。キンモクセイ…)

(燃やさなきゃ。どうやって?生木。水分。魔術…)

(………どうして燃やさなきゃならないんだっけ?)

         『宿主がどのくらい損壊したら、王の欠片が外に出て来るか…』

 金木犀の前に立ち尽くす。カミラが焦った様に僕を振り返って、胸倉を掴んで乱暴に揺さぶる。彼女の声が何処か遠くに聞こえる。横断歩道を挟んで、向こうから話しかけられている様な感覚。僕は彼女にグラグラと揺さぶられながら、金木犀を見る。形にならない思考が、頭の中を乱暴に蛇行する。

                   『―父さん、なんでこの枝はダメなの?』

(生木だからだ…)

                                 『ううん、そうじゃない、そうじゃないよ、祐輔―そうだな、言うなればだな、この枝は…』

                             『―繊細な魔力操作を要求されるので、その分、不純物への反応が激しいんですよ―夜なら別に平気ですけどね。水は血液に通ずるものがありますし、少量なら、寧ろ操り易い部類です―』

                   『出来ない事は無いだろうけど、時間が足りないわ―準備が居るの。吸血鬼一族は、代々、火の魔法とは、相性が悪いのよ…』

                      『水流とか冷気とか、結界の封印、解除とか、幻惑とか―得意なのは、そういうので。ここには良い触媒も無いし…』

         『…生きて居るんだよ、祐輔。この枝は未だ、生きて居るんだ』

「―オギノ?オギノ!」

 ―思いっきり、頬を張り飛ばされる。頭の中が、グワングワンと振動する。鼻先を温かいものが垂れる。カミラが心配そうな、不安そうな顔で、僕の事を覗き込んでいる。僕は鼻の下に手をやりながら、彼女を見る。金木犀を見る。

「オギノ!しっかりして、あなたしか居ないの、あなたがやらないと―!」

「…カミュ」

 僕は言う。木から目を離さずに。カミラの声が止まる。鼻血がぽたぽたと鼻先から零れる。奥歯の辺りが、少しグラグラする気がする。

(おお、痛ぇ、思いっきり遣りやがって…)

(まぁ、でも、お陰で―)

(少し、目が醒めた―気がする)

「…水分を操るのが得意って言ってたよな?」

「う?ええ、でもそれが、今、何か―」

「―この木から、水分を残らず抜き出せないか?」

 金木犀に歩み寄り、幹に手を触れて、彼女を振り返る。彼女は困惑した表情で僕を見返す。僕は地面に落ちている着火剤を拾い上げ、中身を空っぽになるまで金木犀に塗りたくり―再び、100円ライターと制汗スプレーを構える。足元の地面を、踵で削って、慣らす。ピッチャーが投球前に、マウンドを整えるみたいに。

「…つまり―どういう事?」

「この木は、生木なんだ。生きている木だ。中に水分が詰まってる。水分があるから、燃え難い。だから、水分を無くして、枯れ木の状態にしてしまえば―」

「手持ちの道具で―燃やす事が出来る?」

「多分。理屈の上なら。試してみたいんだ…お願いできるかな?」

 僕は彼女を見る。彼女は―ゆっくりと、笑みを形作って見せる。

 素晴らしい悪戯のプランを思い付いた、手に負えない悪餓鬼の様に。憎らしく、雄々しく、頼もしく。

「任せて」

「助かるよ」

「時間が無いわ。燃やす方も並行して―燃料は足りる?無いなら、缶の中身を増やすけど―ごめんね、生憎、可燃性の物質には疎くて。どれが燃える性質のものか分かる?」

 僕は苦笑する。夢現で聞いた、化学の授業の内容を思い出そうとする。物質の燃焼するメカニズムについて、うんたらかんたら言っていた気がする―そこから先は、全て靄の中だ。夢の中の内容しか思い出せない。殺人ペリカンが口の中から笑気ガスグレネードをばら撒く夢。どうでも良い夢の内容だけは明確に憶えている癖に、と自分を呪う。全く人生、何が役に立つか分からない。

「…酸素?」

「…もういいから、成分表、片っ端から読み上げて。さ、火を」


「―クロルヒドロキシアルミニウム、酸化亜鉛混合物、緑茶乾留エキス、β-グリチルレチン酸、LPG、イソペンタン―」

「―待って、もう少しゆっくり―」

「―ゆっくりって、どんくらいゆっくりだよ?未だ結構あるんだぞ―!」

「―私が聞き取れるくらいゆっくりよ、ほら、良いから続けて―!」

「―加減が分からないんだよ!ミリスチン酸イソプロピル、ジル―ジメチコン―」

 制汗スプレーを目の高さに構え、成分表を読み上げる。

 指が痛くなるまで、スプレーの噴射ノズルを押している。カミラが木に向かって手を翳して、金木犀から水分を奪い取る傍ら、左手の指先でスプレーの缶底をノックする。彼女が缶底をノックする度、ライターの火を潜り抜けて生まれる炎の火勢が強くなる。魔術で缶の中身を増やしているんだ、と思う。何となく、気の抜けた笑みが口元に浮かぶ。今までそういった類のものを、一切信じずに生きて来たのに。魔法や幽霊、UFOといった類のもの。自分がそれによって、生かされているなんて。今、自分の命を握っているものが、正にそれだなんて。そんなあやふやなものに自分の運命を左右されているのが、何だか性質の悪い冗談のように感じる。

(…悪夢だ…)

(―その通り。正に悪夢だ。正夢の悪夢ってとこかな。でも、それももう直ぐ終わる―)

(―この木を壊せば。目が醒めるんだ―)

“彼女”の音がする。

 周囲が“彼女”達の音で、埋め尽くされていく。

 耳の中で、“彼女”達の笑い声が木霊する。耳の底に、“彼女”達の笑い声がこびり付いて離れない。耳の中がおかしくなる。距離感が崩れていく。カミラの、先を促す声や、缶の底をノックする音、金木犀の燃える音、僕の声、唾を呑む音、筋肉の軋む音が、“彼女”の声に挟まれて前後し、近くなったり、遠くなったりと入れ替わる。直ぐ隣に居る筈のカミラの声が駅のホームの反対側に居る様に遠くに聞こえる。自分の声が録音して校内放送で流しているみたいに別人のものに聞こえる。耳の奥で金木犀が燃えている。

 ―どうして“彼女”達の笑い声がこんなに傍で聞こえるんだろう、と思う。その先を必死で考えないようにする。アレックスの音は聞こえない。アレックスと、それに属する様な音は一切、何も。

                           『―あの木を滅ぼせ―』

 制汗スプレーの成分表示を叫び続ける。そうしろ、と言われた事を続けていれば、気が楽だから。咽がカラカラになるまで、不必要に、叫び続ける。僕が叫ぶ度に、手元で炎が揺れる。ゴウゴウと燃え盛る音と、僕の叫び声が、耳から“彼女”達の声を遠ざけてくれる。カミラが缶底を叩く音がする。パチパチと水分の弾ける音がする。

 …何だか焦げ臭い匂いがする。

 僕は金木犀を見て目を瞠る。乾いて、罅割れ、心無し白くなった金木犀の胴体を、炎が食い破って焼いている。丁度、僕が着火剤をありったけ塗りたくった辺りだ。炎が金木犀の表面を舐め尽していく。夜の学校で、金木犀が聖火の様に明るく燃えている。

 僕はカミラの方を向く。

 カミラは息も絶え絶えで、その場に膝を突いて、首を垂れている。それでも僕の視線に気付くと、彼女は苦しそうに顎を上げて、僕の顔を見て、弱々しく微笑んで見せる。僕は彼女の肩に、おろおろと手を伸ばす―どうすれば良いか、全く分からずに。

(血を―)

(…血を、あげるべき?)

(僕の血を?)

(…断られたら、どうしよう?)

「―私達―」

「?」

「―私達―やった。やったんだよね、私達?」

 疲労困憊の顔に、辛うじて笑みを浮かべて、彼女は僕に問いかける。僕は顔を顰める。胸が痛くなる。どう答えたら良いのか、分からなくて。彼女を抱き寄せてその通りだよと囁くべきか、“彼女”たちの声の聞こえる方を振り返るべきか、それとも、僕一人だけで、走って逃げ出すべきか。僕は無言で金木犀を見上げる。燃え盛る、さっきまで金木犀だった、巨大な炎の柱を。

(…欠片が…)

(焼け落ちて、ここから欠片が出て来る筈だ。金木犀の死骸から、王の欠片が、12匹)

(―出て来る筈だ。必ず出て来る。そうだろう…?)

 炎が燃える。葉が落ちる。枝が崩れる。

                                 ―ドサリ。

 何かが投げ落とされる様な音がする。何かが飛んで来て、地面を転がるような音。走り幅跳びで着地する様な音。音のした方を見る。カミラの傍らを。

 ―そこには、猪が横倒しに転がっている。

(…?)

 地面に倒れた猪が起き上がろうとして、短い足をバタバタと動かして必死にもがいている。僕は思わず、手にしていた制汗スプレーを取り落とす―その時になって、僕は漸く、自分が点けっ放しのライターを未だ握っている事に気付く。慌てて、それも消す。先っぽが酷く熱くなっている。僕は溜息と共に、不本意ながら、それを地面に投げ落とす。

(…こりゃ、ポケットには仕舞えないな…)

(先っぽが少し溶けてる。そりゃ、簡易火炎放射器みたいな使い方、してたからだろうけど…)

(こいつは―何なんだ、一体?)

 猪に一歩、近付く。途端に、猪の輪郭がぐにゃりと歪む。表面が波打つ。

(不味い)

(まさか―“彼女”?)

 ―急いでカミラに駆け寄ろうとする。カミラが左手でその僕の動きを制する。僕は混乱して、彼女へ目を向ける。疲れた顔をしては居るが、彼女は落ち着いている。僕はどうしたらいいか、分からずに…立ち尽くす。本当に、どうしたら良いのか、分からない。ここに来る事だけが、目的だった筈なのに。

(どうすれば良い?ここから、どうしたら―)

(木から欠片を抜き取る。そうすりゃ全てが終わる。終わる筈だった…)

(…木は燃えてる。僕は目的を果たした。果たした―んだよな?)

「…兄さん?」

(え?)

 猪を見る。猪の形状が変化する―段々と、見慣れた形に。サラサラのストレートの金髪を、頭の後ろで三つ編みに結った、赤い瞳をした青年の姿に―。

 ―但し、その青年の、首から下の辺りには何も無い。

 僕は思わず、吐きそうになる。

(う…)

 アレックスは僕の吐き気など気付かないように、首だけの姿で、流暢に話し始める。それこそ、普段の僕より、舌の回る様子で。

「―カミュ、目的は果たしたか?」

「ええ、兄さん、多分、これでもう直ぐ―」

「―そうか。なら良い、では、撤退するぞ」

「―撤退?どうして―」

「もう奴らを留めてはおけん。首以外は、奴らに奪われた。悔しいが奴らの勝ちだ。撤退して時期を見る。力及ばずで情けないが、主命と、真祖様の御身柄が最優先だ―」

                                ―クスクス。

                                ―クスクス。

                               ―クスクス…。

 僕は後ろを振り返る。

“彼女”達の声がする。

 僕は痺れたようにその光景を眺める。

(…僕が)

(僕が、間違っていたんだろうか?)

(…何もかも間違っていたんだろうか、最初から)

 沢山の、“彼女”達の声がする。

 視界が“彼女”達で埋め尽くされる。東棟の崩れた校舎の前に、4、50人程の“彼女”達が並んで笑っている。東棟の2階辺りに浮かぶ黒球から一人、又一人と、“彼女”が産み落とされる。沢山の“彼女”達が居る。老いも若きも、男も女も、背が高いのも、低いのも、様々な“彼女”がそこに並んで、皆一様に笑顔を浮かべて、肩を揺らしている。皆楽しそうで、嬉しそうで、そして幸せそうに見える。“彼女”達が僕達の方へ、一歩、足を踏み出す。みんな思い思いに、自由に足を運んでいる様に見えるのに、統率の取れた軍隊のパレードの様に足音は一人分しか聞こえない。

                                  ―ざっ。

                               ―クスクス…。

                         ―ざっ。ざっ。ざっ。ざっ。

 ―やがて、重力球を内側から食べ尽してしまったのか、黒球が中から弾けて、4、5人の人間が空から落ちて来る。着地を失敗して頭から落ちた人間も、胴体から落ちた人間も、皆一様に笑っている。彼らも、彼女達も、皆直ぐに立ち上がって、“彼女”の行軍に加わる。それが嬉しくて堪らない様に。それが幸せで堪らない様に。

(―僕が、間違っていたんだろうか)

(彼女はとても幸せそうだ。“彼女”達は、とても幸せそうだ…)

(僕が何かをしようと、藻掻けば藻掻くだけ…)

「―カミュ?何をしている?立て、立って逃げろ、今直ぐに―!」

 アレックスの叫び声がする。僕はそちらを見る。音に反応する様に、反射的に、動物的に。カミラがそこに居る。首から下が無い兄を膝の上に抱えて、呆然とした顔で“彼女”たちを眺めている。カミラと目が合う。彼女が僕を見る。僕と、その傍の、金木犀を。

 彼女の視線を追って、金木犀を見る。

 金木犀は未だ燃えては居るが、その火勢は下り坂になっている。葉は燃え、枝は落ち、幹には大きく縦に亀裂が走って、崩れるのももう時間の問題といった様相を呈している。なのに、金木犀の周囲の何処を見渡しても、王の欠片は見当たらない。

 ―12匹どころか、1匹も。

(僕が―)

(僕が、間違っていたんだろうか?)

(僕が間違っていたのか)

(何かするべきじゃなかった)

(何もするべきじゃなかったのか?)

(僕が何かをしなければ―こんな風にはならなかったのに)

(あの刑事さんの言う事は正しかった)

                           『―何もかも悪くなっていく?。きっともう、これ以上悪くなんてなりようが―』

(…僕が間違っていた)

(後悔は後から遣って来る。最悪に底なんて無い。幸福が貯めておけない様に)

 ―“彼女”達がやって来る。

“彼女”達の笑い声が、足音が、豪雨の様に反響する。“彼女”達の足が、腕が、手が、カミラの下肢を踏み抜き、覆い被さり、組みしだき、首を閉め、笑いながら彼女の左目の中に指を入れる。アレックスが叫んでいる。アレックスが何事か叫んでいるが、やがてその頭部はサッカーボールの様に“彼女”達の内の一人の足に蹴り飛ばされる。

 アレックスの声が遠くなる。“彼女”達の笑い声が大きくなる。

 カミラは殆ど無抵抗で地面に引き倒される。覆い被さる様に“彼女”達の笑い声が響く。左目の中に親指を捻じ込まれながら、彼女は僕に向かって、一言だけ、こう言う。

「…助けて、王様」

 ―カミラに、大勢の“彼女”達が群がる。押し潰す様に。貪り喰らう様に。何もする事が出来ずに、僕はそれをぼんやりと眺めている。カミラに向かって、腕を伸ばす。その手首を、あっさりと“彼女”に捕まえられる。

“彼女”に―相原に。

「相原…」

「だーめ。荻野は、こっち」

“彼女”達が僕を掴まえる。痛みは無い。ただ、“彼女”達が触れている手首が、咽が、胴が、頬が、足首が、じくじくと溶けて失われていっているのが、分かる。涙が溢れる。恐怖からじゃない。

 …後悔だ。

(あの刑事さんの言う事は正しかった)

(僕が何かをしようと、藻掻けば藻掻くだけ…)

(父さんの―)

     『―世の中ってのは良く出来てる。必ず帳尻が合うように出来てるんだ』

              『お前の周りに、今は悪い事が起こったとしても―』

(―父さんの、嘘吐き)

 目を閉じる。閉じる直前、相原が指先で僕の腹を真横に割くのが見える。そこから、あの日飲み込んだ王の欠片が二匹、恐る恐る、僕の腹の縁から飛び立っていく。風景が涙で滲む。“彼女”達の笑い声で耳の中が埋め尽くされる。胸の内に、後悔がある。後悔だけがある。

                           『―何もかも悪くなっていく?。きっともう、これ以上悪くなんてなりようが―』

(僕が間違っていた)

(僕が間違っていた)

(何もかも、僕が間違っていた。金木犀に王の欠片は無かった。この場所は、特別なんかじゃなかったんだ。“彼女”達がここに居たのに理由なんて無かった。全部、僕の思い込みだったんだ)

(何かを分かった積りになっていただけ。何かをしている積りになりたかっただけ)

(僕の所為だ。全部、全部、全部全部全部。僕が間違っていた―)

“彼女”の掌が、半分感覚の無い僕の首筋に触れる。僕は息を止める。最後の瞬間、それがせめて、苦しくない事だけを願う。

(―終わりだ、全部。今度こそ完璧に、なにもかもがもう御仕舞…)




 ―静かだ。

 終わりが来たんだ、と思う。

 思ったより、苦しくも、痛くも、辛くも無い。昔、終わりはどんな風なんだろうと想像した時よりも、訪れたものは遥かにマシだ。死んだらどうなるんだろとか、漠然と、天国や地獄とか、用意された死後の世界みたいなものは、本当は何もかも偽物なんじゃないかと、ぼんやりと考え始めた時期に、想像していたより、ずっと。

 死んだら何もかも無くなる。

 死んだら何も無い所に行く。

 …ずっとそう思っていた。

『自分』、っていうのは、自分の脳味噌の中に入っているものな訳だから、もし自分が死んだら、当然、頭の中から、脳味噌だけ離脱するなんて事出来る筈無いんだから、脳味噌も死んで、その中に入っている自分も消えてしまう。病死にしろ事故死にしろ、寿命にしろ、末端から感覚が途切れていって、外部と連絡が取れなくなって、やがて消えてしまうんだろう。天国や地獄なんて嘘っぱちだ。誰も死んだ事が無い癖に、死後の世界なんて分かる訳が無い。ずっとそう思っていた。

 …ずっとそう思っていたんだ。

 一度だけ、母さんに聞いた事がある。

                   『―ねぇ母さん、死んだらどうなるの?』

                       『死後の世界ってあると思う?』

                                『本当は、死後の世界なんて無くて―死んだら何もかも無くなる。そんな風に考えた事は無い?』

 母さんの答えは、至極単純だった。

       『―さあね、母さんには分からないよ。何せ死んだ事が無いからね』

                     『―そういうの、ゴチャゴチャ考えるのは性に合わないんだよ。死んだら分かるんだからさ。誰にでも、いつかは分かる』

 それから、母さんは面食らった僕の頬をぴしゃぴしゃと叩いて、笑ってこんな風に言う。

 …その笑顔を、今でも覚えてる。

                                  『―それに、死んだら何もかも無くなるなんて、私にはとても、そんな風には思えないね』

               『…周りを見てごらん、祐輔。良いから、周りを』

『お前は、父さんが居なくなってしまったと思うかい?最初から何も無かったみたいだと、ありとあらゆる場所から消えてしまったと、本当に、そんな風に思うかい?』




 風の音が聞こえる。

 …何かがおかしい、と思う。

(苦しくも無い。痛くも無い…)

(痛くも無い―のは、当たり前か。“彼女”は、少なくとも、苦痛を与える存在じゃない。“彼女”の捕食は僕達の一部を削り取っていくけれど、少なくとも苦痛は無い)

(…まぁ、『殺す』宣言されたんだけど)

(未だ生きてんのか、僕―?)

(変な音がする、じゃりじゃり、がりがり、何か削るみたいな―)

 ―目を開ける。恐る恐る、薄らと。

 そこには、奇妙な光景が広がっている。

 夜の学校に、年齢も性別も服装もバラバラの、2クラス分位はありそうな数の人間が集まって、こちらを無遠慮に眺めている。自分が動物園の檻の中に入った様な気分になる。僕は困惑する。“彼女”達だ。彼らは、無数の“彼女”達。この光景は、僕が目を閉じる前の風景の続きだと、自分を納得させるのに時間が掛かる。どうやら、僕は未だ死んでないらしい、理由は分からないが。

(…やっぱり、可哀想になったとか?)

(まさか。そんな、人の心を持っている様には見えなかった)

(それとも―奇跡的に相原が、自我を取り戻したとか、僕の事を、思い出したとか?)

(…無いな。僕があいつの彼氏や大親友なら兎も角、ここ数日の間で、初めて喋った程度の仲だ。それも、必要に駆られて…)

(―王の欠片?僕から飛び出した王の欠片が、“彼女”達に侵入して―?)

(…それも無い様な気がする。僕には分からないけど、欠片を数匹飲み込んだ“彼女”達がこうなんだ、悪化はしても、好転することは無いと思う―どうやら、“骨の王”ってのは、大分マッドな性格の奴だったらしい…)

“彼女”が僕を見ている、“彼女”達が揃って僕を見ている。僕は訳も分からずに、“彼女”たちの視線を見返して戸惑う。どうやら何かが起こっているらしいが、何が起こっているのかが分からない。“彼女”達は時間でも止められたみたいに、並んで静止して、僕の様子を静かに窺っている。

(待てよ―ホントに、時間でも止まってるのか?)

(今日は、普段なら信じられない様な事が、幾つも起きた―時間ぐらい止まっても、不思議じゃ無い)

(でも、風の音は聞こえる―それにあの、じゃらじゃら、ぎりぎり、いう音も。それに、ほら、あそこのヤツ瞬きしてる―)

(…なんか、時間停止もののAVみたいだな)

 ―“彼女”達は固まっている。“彼女”達は皆、一様に固まっている。僕は目前の“彼女”を見る。目前の、僕の首を絞める“彼女”―相原を。相原は僕の首を両手で締め挙げながら、掬いあげる様に僕を見ている―困った様に、どうして良いか迷う様に、唇の端を、おずおずと持ち上げて。

 僕は両手を持ち上げて、僕の首を絞める相原の細い指に触れる。相原の人差し指は僕の小指ぐらいで、力を込めれば容易く折れてしまいそうなのに、万力の様にがっちりと僕の首を引っ掴んで離さない。その内、“彼女”の指に触れる僕の左手の先が、更にじくじくと喰われて欠けて来たので、僕は諦めて、暫くそのまま“彼女”に首を絞められたままで居る事にする。

 幸い、苦しくは無い。

 痛くも無い。

(…ホント、何なんだ…?)

(何が起こってる?訳が分からない―のは、まぁ、今に始まった事じゃないけど)

(やるならさっぱり、ひと思いにやってくれ―)

(―いや、やっぱりやらないで。未だ死にたくない、出来れば御迎えは80後半過ぎてからで―)

                              ―じゃらじゃら。

                                ―がりがり。

 特にやる事も無いので、周囲を見回す。首を回して、時折聞こえて来る、妙に聞き覚えのある音の出所を、特定しようとする。首を動かす度に、感覚のある方の首が少しずつ失われていくのが分かる。僕の胴周りに両手を広げて抱き付いている、スモッグを羽織った二人組の幼稚園児達が、僕の事を不思議そうに見上げているのが目に入る。

(…何だよ。そんな顔したいのは、こっちの方だって…)

(男の子と、女の子。兄妹かな?目元の辺りが、そっくり…)

(―なんだろう、この音。じゃりじゃり、がりがり、じゃらじゃら。聞いた事がある様な、でも、記憶にある音とは、ちょっとだけ違う様な…)

 体の右手側が温かい。取り敢えずそちらに目を向ける。そこには、火勢も衰え、燻った、黒い煙を噴き上げる、金木犀だったものの燃え差しが、辛うじてそこに立っている。

 ―その周囲の何処にも、王の欠片は見当たらない。

(僕が、間違っていた…)

(何もかも、僕が…)

 苦い思いがじんわりと胸の内に広がる。涙が少し滲んで、それを零さない様に、ゆっくりと僕はそれから顔を背ける。自分の惨めさに、少し笑えて来る。

(僕が間違っていた)

(何もかも間違っていた)

(…やっぱり、ガラじゃなかったんだ。何とかしようと思うべきじゃなかった。何とか出来ると思い上がるべきじゃなかった)

 左手から、粗い息遣いが聞こえる。僕は緩慢な動きでそちらを見る。

                              ―じゃらじゃら。

                            ―がりがり、がり…。

 そこには、カミュが居る。地面に組み伏せられ、両足を引き千切られ、馬乗りに跨られ、両手を抑えられ、髪の毛を乱暴に掴まれ、左目に複数人の指を入れられて。彼女は僕の方を見ている―彼女の周囲の、“彼女”達と同じ様に。彼女の左足を大事そうに抱えた女児姿の“彼女”と目が合う。僕と目が合うと、“彼女”は怯えた様に、その首を竦ませる。

(…何だ?)

(だから、そんな風にしたいのは、こっちの方だって―)

(音がする。音が。何処からだ?随分、近くから…)

 カミラが僕を見る。カミラの、残った右目が。僕は彼女を見る。彼女の、赤い目を。炎に照らされて、そこに歪んだ僕の鏡像が映る。

 カミラは言う。

 乾いた涙を流しながら。

 唖然と―した声で。

「オギノ」

「へ?」

「それ―何?」

 僕は彼女の示す先を見る。彼女の視線の先を。

 僕の、左の手首を。

 音が大きくなる。

                              ―じゃりじゃり。

                              ―じゃらじゃら。

                               ―がりがり…。

(?)

 左の手首の先から、何かが垂れ下がっている。それを良く見ようと、手元に引き寄せようとするが、先に重りでも繋いであるかのように、頑として動かない。僕は当惑して左手首を見る。手首の甲を―それから、引っ繰り返して、内側を。

(…何だ、これ?)

                          ―じゃらじゃら、じゃら。

(―鎖…?)

 僕の左手首の、丁度掌の付け根辺りから、真っ白な鎖が垂れ下がっている。

(………………?)

(何?)

(何だ、この―これ、一体―?)

 鎖は長く、地面まで垂れていて、その先は僕の影の中に入ってしまっている。僕が左手首を引っ張る度に、僕の影の表面にちゃぷちゃぷと波紋が浮かぶ。僕は途方に暮れる―今度こそ本当に、完璧に完全に、どうしたら良いか分からずに。

(な―)

(…あれ、影?先っぽ、地面の中に入っちゃってんのか?)

(これ―鎖?鎖がどうして、僕の手首に?いや、僕の手首から、一体、何処へ―?)

 手首の先の手応えは重く、釣り針が地面に引っ掛かってしまった時を思い起こさせる。僕が手首を引く度に、掌の根元からぷしゅぷしゅと、少量の血液が合わせる様に吹き出す。その都度、相応の痛みが僕の脊髄を走る―慌てて僕は、その白い鎖の根元を、苦労して右手を伸ばして、掴む。相原に両手で首を閉められたまま。僕は一体何をしているんだろう、という考えがゆっくりと脳裏を過る。

(痛―痛い、これ―)

(いや、それよりも、手首―手首から血、出ると、ヤバいんじゃなかったっけ―?)

(―て、いうか、この手触り…)

 右手で鎖を引く―左手を出来るだけ動かさないように、手首の根元の鎖を出来るだけ揺らさないようにしながら。その行為に、どんな意味があるのかも分からずに。右手で、鎖を巻き取りながら、引く。鎖の先の何かが、少しずつ浮上して来る手応えがある。

 歯の根が震える。

 歓喜の予感から来るものではない。

 鎖の―触感が、僕の歯の根を震わせる。

(鉄じゃ無い)

(この鎖―鉄じゃ無い)

(すべすべとしてるのに、ごつごつして、ざらざらして…)

(まるで、珊瑚や、河原の石や…)

                                 ―じゃり。

(…骨―みたいな…)

 僕は白い鎖を引く。それ以上考えない様にする。鎖は僕の手首から伸びている。鎖が動く度に僕の左手首から血液が噴出する。歯の根が震える。鎖を巻き上げる。じゃりじゃりという音がする。

 じゃりじゃりという音がする。

 静謐な数分が流れる。“彼女”達の誰も、笑い声を上げない。音も無く地面に広がる僕の影が揺れる。僕が鎖を引く音だけが静寂に罅を入れる。血液が僕の右手と鎖を濡らす。僕は取り憑かれた様に鎖を引く。鎖の先のは、もう直ぐそこまで上がって来ている。僕は奥歯を食い縛る。祈る様に、その先を手繰り寄せる。

                                 ―じゃら。

(…お願い、神様―)

(父さん、母さん―)

                         ―じゃら、じゃら、じゃら。

 鎖の先を引く。

 何かが、僕の影の表面に、浮かび上がって来る。

 ふさふさの―何かが。

                                 ―じゃら。

 僕はそれを見る。

 変な笑みが浮かぶ。

 夢の続きに居る様に感じる。

 …とびきりの悪夢の中に。

 それはふさふさの、色褪せた金の綿毛の様な色をしている。見慣れた形だ。小振りの大根がロシア帽被ったみたいな形の毛玉。上部には、2つ、3つ、10円ハゲのような跡がある。僕は頭を抱える。鎖は間違いなく、そいつを引っ張り上げている。

(これ…?)

 ―頭が出た時点で、僕がそれ以上引っ張らなくても、鎖の先のそれは勝手に僕の影から浮上し始める。僕は苦味9割の苦笑を浮かべ、脱力してそれを眺める。それは酷く見知った顔をしている。目が合うと、そいつは面倒臭そうに顔を逸らして、一言、こう鳴き声を上げる。

                                  ―わん。

「…ジョン?」

 ジョンが僕の影から浮上して来る。白い鎖に繋がれて。ジョンは不機嫌そうに鼻先を鳴らす。

 ―“彼女”達が、笑い声を上げる。

 傍観を決め込んでいた“彼女”達が。心底、愉快そうに、楽しそうに、嘲るように。僕は惨めな思いで、降る様なその笑い声を聞いている。ジョンは何度か欠伸をする。この場の惨状等、自分には関係無いという様に。

「―犬!」

「犬!?」

「何を出すかと思ったら!」

「そんなもの!」

「そんなもの!?」

「そんなものがあなたの切り札だなんて!」

「憐れ!」

「憐れね!」

「「「「「「―憐れ、憐れ、哀れな荻野!」」」」」」

 唱和する。“彼女”達が唱和する。相原が楽しそうに笑いながら僕の首を絞める手に力を込める。僕は鎖を手放して、のろのろと“彼女”の動きに抵抗しようとする。

 痛くは無い。

 苦しくも無い。

 …ただ、少し、悔しいだけだ。

(クソ…)

 相原の指に手を掛ける。腰に纏わり付く子供達を振り払おうともがく。指の先端が擦り減っていく。少しずつ呼吸がし難くなっていく。僕は緩慢な動作で抵抗する。“彼女”の顔を引っ掻く。足をバタつかせる。

 手応えは無い。

 視界の端にジョンが立っているのが見える。ジョンは相原の肩越しに僕の方を眺めている。僕はジョンの方へ手を伸ばす。鎖を蹴る。声にならない叫び声を上げる。

 ―その時。

 僕は見る。

 確かに、見る。

 ジョンが、笑うのを。

         『家の主に密命を受けて、私達はここに来た。それがつい先日』

                         『密命ってのは、王の捜索』

                   『―正しくは、欠片ね。王の欠片の捜索』

 僕は穴が開く程、ジョンを見る。何度も瞬きを繰り返す。ジョンの口角は際限無く上がって行く。その内に毛はボロボロと抜け落ち、肉はドロドロと顔から剥がれ落ちていく。僕はそれを眺める。ただ、それを眺めている。それしか出来ずに。指一本、動かす事も出来なくて。

                      『…あの蝙蝠が、王の欠片なの…』

                       『主様は調査を命じたわ。それでその結果、欠片がこの極東の地、この町に―集合しようとしている事が判明したの』

                              『そういう訳で、私達はこの町に来たの。この町の何処かに他の欠片か、或いはその核がある筈よ―』

            『…中核がこの町の何処かで形を成している筈。欠片の反応からすると大分弱いけれど、形と意志を持った、“骨の王”の中心と成る核がね…』

                  『―それにこの家、なんか変な匂いするし』

 ジョンは笑っている。際限無くジョンは笑っている。ジョンの顔から毛と肉が剥がれ落ちていく。

 その下から、白い、ぬめりとした、何処までも真っ白な―。

                  『“骨の王”の生存は絶望視されていたわ…』

                    『―10年前に行方不明になってから』

           『もうトシなんかねぇ?まぁ、もう10歳くらいだしな…』

 ―真っ白な、犬の頭蓋骨が姿を現す。

「ジョン?」

 僕は尋ねる。

 …掠れた声で。

「―骨の、王?」

 ジョンは嗤う。

 僕の言葉に答える様に、骨の頭部をカタカタと揺らして―。

 相原が振り返る。

 ―哄笑する。

                「―ハ」

             「は」

       「は」               「ハ」     「ハ」                 「は」        「ハ」

  「は」  「ハ」 「ハ」   「ハ」  「は」 「ハ」  「は」     「ハ」「は」  「は」 「は」 「は」  「ハ」 「 ハ」    「は」     「は」 「は」 「ハ」   「ハ」 「ハ」  「  ハ」     「ハ」 「ハ」      「は」 「ハ」    「 ハ」  「ハ」    「ハ」   「ハ」   「は」    「は」  「は」      「は」       「ハ―!!!」


 氾濫する。

 ―非日常が、氾濫する。

 世界の裏側が、引っ繰り返って、目の前で溢れ出す。僕は熱に浮かされた様に、その光景を見ている。感覚器官だけを残して自分という存在が消えてしまった様な気がする。目と耳と、それから薄っぺらい肌の表層だけを残して、自分というものが居なくなってしまった様な感覚。何かを考える事が出来ない、何も考える事が出来ない。頭の中には靄が掛かっている。

 ―ただ、おかしくなってしまったその現実を、傍観する事だけを許される。

“骨の王”が笑っている。

 一人、又一人と、その声に釣られて、“彼女”達が振り返って行く。

 ジョンが頭蓋の天板を揺らし、軋んだ笑い声を上げる度に、地面から一匹、また一匹と、発条仕掛けの人形の様な、やけに頭部だけが大きい、ミニチュアの犬の骨格が生えて来る。次から次へと、ジョンがかちかちと歯を打ち合わせる度に、まるで雨後の筍の様に。

        「は」 「は」       「ハ」  「は」          「は」       「ハ」 「ハ」  「ハ―」

 ジョンが笑うのに合わせて、ミニチュアの犬も嘲る様に笑う。ジョンが、ジョン達が、地の底から響く様な笑い声を上げる度に、“彼女”の笑い声が萎んで、消えていく。まるで、その笑い声に、見えない陣地を奪われているかのように。空白の何かを、じわじわと埋められているかのように。

 僕はそれを見ている。ただ、それを見ている。

 それしか出来ずに。それ以外、出来ずに。

(何?何?何だ、これ、これは―?)

(ジョン)

(僕は何をやっている?僕は何しに、ここに来たんだっけ?あれは何だ?あれは本当に―)

(…本当に、ジョンなのか?)

“彼女”達の内の一人、カミラの足を両腕で大事そうに抱えた女児が、おっかな吃驚といった足取りで、ジョンの方へと歩み寄る。その短い腕をジョンの頭へと伸ばす。まるで日常の一コマみたいに見える。懸命に勇気を振り絞って、自分より背丈の大きい犬を相手に、その頭を撫でようとする少女。

 ―ジョンの顔から肉が剥がれ落ちていなくて、その子がカミラの左足を、傘の様に抱えて居なければ。

 ジョンの笑い声が止む。ジョンと、取り巻きの犬のミニチュア骨格の笑い声が。少女が左手でジョンの頬に触れる。目の前で相原が笑顔を浮かべる。ホッとした様に。

 ―その瞬間。

                  「ハ」

 少女の胴体を骨の鎖が貫く。

 …涙が浮かぶ。

 ジョンの首筋からかちゃかちゃと、からからと、音を立てて、複数の、骨の鎖が生えて来る。僕の左手首から生えているのと同じものだ―但し、ジョンの首筋から出て来た、四―五本の鎖は、先端部分が、槍穂の様な尖状になっている。それが、少女の胴体を勢いよく引き裂く。

 少女が驚きのあまり、カミラの左足を取り落とす。

 僕は悲鳴を上げる―上げた様な気がする。

 ―が、少女は別に、胴から血液を撒き散らして倒れたりはしない。カミラの足を手放しはしたが、立派に自前の足で、今も未だそこに立っている。少女は慌てたように、周囲を見回す―少女の胴体を貫いた筈の骨の鎖が、少女の背中で千切れてからからと力無く地面を転がる。喰われたんだ、と思う。なんとなく、羽を半分毟られた蜻蛉を思い出す。精巧なバランスを失って、もう二度と自力では飛び立てない。

 少女は後ろを振り返って、千切れた“骨の王”の鎖の先端を目に留める。少女は露骨に安心した様な笑みを浮かべる。“彼女”達が笑い声を上げる。“彼女”達が、一斉に―勝利を確信した様に。

「は」

「はは」

「ははははは、ははは」

「ははははははははははははははははははは―」

「―私達!」

「私達の、勝ちだ!」

「―お前もバラバラにして―喰ってやる!!!!」

“彼女”達が、ジョンへ向かって進軍を始める。僕やカミラの事等忘れた様に、カミラを投げ出して、僕を取り落として。“彼女”達は“骨の王”目掛けて、慟哭の様な笑い声を上げながら一気に走り出す。同時に、同様に、老いも若きも、男も女も、背が高いのも低いのも、様々が一様に、一緒くたになって。笑い声が耳の中で一杯に膨らむ。笑いながら、“彼女”達が駆ける。円を描く様に、中心のジョンへ向かって。足で砂煙を上げて。腕を前に突き出して。ジョンを包括して飲み込む様に。

“彼女”の最初の一人が、ジョンから頭蓋の上部を引き剥がす。二人目が尻尾を掴む。三人目が、胴体に右腕を沈み込ませる。次々に“彼女”達がジョンに覆い被さる。集る様に。貪る様に。僕は口元を抑え、感覚の無い喉を掻き毟る。目からは止め処無く涙が溢れる。最早、何を祈っているのかも分からない。何の為に祈っているのかも。ただ、体が震える。背筋を恐怖が覆う。目の前のこれを終わらせてくれ、と願う。誰でも良い、何でも良いから。

 左手首から伸びる鎖を掴んで―祈る。

(誰でも良い)

(何でも良いから―…)

                  「オ」

 …“彼女”達の、動きが止まる。

 全ての“彼女”達の動きが、一斉に、同時に止まる。さっき、ジョンが出てくるのを傍観していたみたいに。理由が分からなくて、僕は周囲を見回す。どうやら、“彼女”達は、何かに注目しているみたいだ―僕は戸惑いながらも、そう結論付ける。遠くに見える、肉塊を抱き締めている吉田優香や、損壊した東棟の前に立っている篠原和澄、それに目の前の相原が―眉根を寄せて、疑る様に、同じ方向に目を向けているから。

(何だ―?)

 僕もそちらを見る。手首から伸びている鎖に、指を滑らせる。そこにはジョンが居る。頭を千切られ、前足を片方失い、腹部に穴を開けられたジョンが、よろよろと危うく傾きながら、こちらを真直ぐに向いて立っている。

(ジョン…?)

                  「オ」

 上顎の無いジョンの喉の奥から、時折、風の音が鳴る様に、声がする。僕はそれを見ている。鎖を握り締めたまま。ジョンの声に倣う様に、足元のミニチュア骨格達も、“彼女”の足の隙間から、嘲笑う様に声を上げる。

               「オ」

  「お」               「オ」  「オ」

     「オ」

 「オ」 「お」                  「ろ」  「オロ」

                    「ロロ…」

(………?)

                「オ…」

              「オ―ロカ」

 ―僕はジョンを見る。

 真直ぐにジョンを見る。

 暗くて深い、ジョンの喉奥の中の暗闇を。

           「―愚    カ 者 に  ハ、毒 ト薬    ノ 区  別 モ   付カな イ」

 ―最初に異変が訪れたのは、あの少女だった。

 カミラの足を抱えていた少女。ジョンに最初に触れた、あの少女。

 少女が、突然腹部を抱えて、その場をのた打ち回る。“彼女”達はめきを上げて、少女から遠巻きに離れる。苦しげに呻き、手を伸ばす少女に、誰も近寄ろうとはしない。誰もが不安げな表情を浮かべて、互いに周囲を見回している。

 その内に―彼女の体からバラバラと、肉や毛が剥がれ落ち始める。あ、と思う間もなく、彼女の体から肉体は消え失せ、骨だけとなって地面に転がり落ちる。それが起こった、と思った次の瞬間には、その骨から液体が染み出す様に、ごぽごぽと肉が溢れ出して、剥がれ落ちる前とそっくりの肉体を形作る。それから、彼女の背中を突き破って、骨の鎖が姿を現す。あの、骨の鎖だ。ジョンの首筋から現れて、少女を貫いたと思った瞬間、あっさりと喰い千切られ、敢え無く地面に転がった、骨の鎖―あの鎖が、少女の背中を突き破って現れ、今やその本数を増やし、密やかに蠢いている。

 ―まるで寄生虫だ、と思う。

(ハリガネムシ…)

 そうして最後に、元通りになった少女の舌の先から、にょっきりと植物が芽を出す。それは、ひと呼吸の間にすくすくと成長し、瞬く間に開花して―。

 少女の舌の上に、花が咲く。彼女の血を吸い上げた様に、茎まで真っ赤な、燃える様な彼岸花が。

 ―変化の終了を知らせる様に。

 時間の経過と共に、他の者も、喉元を抑え、頭を抱えて、その場に倒れ始める。“ジョン”を喰った奴らだ、と思う。“ジョン”の一部を、その手で、その腕で、喰った奴ら。ジョンは地面に倒れた“彼女”達を、微動だにせずに睥睨している。“彼女”達の間に、静かに混乱が広がる。誰かの後退さる音が聞こえる。その音が、全体に波及する前に、少女の背中を突き破って、出て来た白い骨の鎖の先端が、隣の人間の腹部に、後頭部に、鎌首を擡げる様な軌道を描いて、突き刺さる。

 ―悲鳴も上がらない。

 ひとつの悲鳴も上がらずに、一人、又一人と、“彼女”達が倒れ伏していく。その様子を、離れた場所で、吉田優香が、篠原和澄が、園部美佳が、そして、相原が、青褪めた顔で見ている。

 ―声を失って。膝を震わせて。

 隣人が隣人に、自分の体から出た骨の鎖の先端を突き刺す。それが行われる度に、ジョンは満足そうにその身を震わせる。僕は麻痺した様にその光景を眺めている。恐怖する事も、歓喜する事も、嫌悪する事も忘れて。ただ、眺めている。カメラと何ら変わりない。罅割れた笑顔を浮かべて、ただ、それを眺めている。

 白い鎖の先端が突き刺さる。刺さった人間は、一度、体の肉が全て剥がれ落ちる。ジョンの顔の様に。けれども直ぐに骨は肉を纏って、その体からは新しい骨の鎖が二本、三本と生えて来る。鎖の生えた人間の体には、まるでそれを示すかの様に、体の何処かから植物が生えて来る。季節を問わず、場所を問わず。頭から、目から、口から、舌から。チューリップが、紫陽花が、蒲公英が、鈴蘭が、金木犀が。

 ジョンが笑う。

 僕を真直ぐに見て。頭の無い、足の無い、腹部の無い、その身体で。

      「は」 「ハ」      「ハ」 「ハ」  「は」                     「ハ」 「は―!」


 自分の左手首から伸びる、骨の鎖を、右手で何度も、繰り返し引っ張る。

 まるで、そうしていれば、いつかはポロっと引っこ抜ける、と信じているみたいに。鎖に繋がれた囚人が、頭の何処かでは分かっている癖に、ここから逃げられたりしないかと、無駄な努力を試しているみたいに。

 実際には、鎖は僕の力程度じゃビクともしない。多分、僕の左腕の骨に、直接絡んでいるんだろう、と思う。引っ張る度に、全身に痛みが走る。頬が引き攣る。血が吹き出る。

 …けれども、どうしても、そうせずには居られない。

 眼前の光景を、その場に縫い付けられたように、一歩も動けずに、ただ、眺める。

 最新の毒ガスか、新種の細菌兵器でも使えば、きっとこんな風景を作り出せるのだろう、と想像する。何十人もの男女が、声も、音も無く、静かに、一人、又一人と倒れていく。老いも若きも、背が高いのも低いのも。例外は無い。隣の人間から生える骨の鎖に突き刺され、その場に崩れ落ちる。身体の肉が剥がれ落ちては、又、新しい肉をその骨身に纏う。身体の何処かに、王の鎖を受け入れた証の様に、植物の花が一輪と、それから真新しい数本の、未だ花の無い隣人に突き刺す為の、骨の鎖が生えて来る。例外は無い。時間差はあれど、例外は何処にも無い。

 僕は鎖を引っ張る。鎖を引く度に、少しずつ血が吹き出る。痛くて歯の根が震える。涙が滲む。

 倒れている人間の体から生える幾重もの骨の鎖が、立っている“彼女”達の体を選んで、襲い掛かる様に、順繰りに、貫き、突き刺していく。“彼女”達は、誰一人として、悲鳴を上げたりはしない。まるで何処かに、遣り方を置き忘れて来たみたいに。

 無言の中心にジョンが居る。無言で地面に倒れ、崩れていく、“彼女”達の輪の中心に。

 上顎を失い、腹部を失い、右の前足を失い、尻尾の毛皮を少しばかり失ったジョンは、座りの悪い置物の様に、その場でカタカタと小刻みに揺れている。ジョンの足元辺りには、あの、頭部ばかりがやたらとデカい、犬の骨格のミニチュアが、“骨の王”の勝利を誇るかのように、胸を逸らして、生意気な足取りで周囲を凱旋する。ミニチュアが、数えきれない程の、骨格のミニチュア達が。20、30、40、まだまだ数は増える。一匹、又一匹と、地面から浮きだして来て、続々と行軍に加わって行く。ミニチュアの骨格の頭部が揺れる音が幾つも積み重なって、いつの間にかそれは地鳴りの様な反響音になっている。

 …じんわりと吐き気がする。僕はそれを、骨の鎖を引きながら、ゆっくりと飲み下す。

「未だだ―」

 不意に、視界の端で、肌色の波が急速に引いていくのを捉える。津波の直前の様な。不吉の前兆の様な。僕はそちらの方へ目を向ける。意志の宿った行動ではない。

 …ただ、動くものに反応しただけ。

 そこには、肌色の、不定形の―アメーバの様な、風に靡くカーテンの様な、平べったい雲の様な―ひと呼吸毎に形を変える、海月の様なものが地面を這っている。肌色の、海月の様な不定形は―地面の上をゆったりと揺蕩いながら、少しずつ僕達の方へと、滑る様に進んで来る。

「未だ勝負は着いていない―どうだ、これでもう、二度と《分離》は出来まい!?」

 不定形は叫ぶ。不定形の表面に、幾つもの、目や、腕や、口や―衣類や、靴や、装飾品が、浮かんでは流れていく。見憶えのある装飾品が不定形の体表を流れては、落ちる。色取りどりの、ジャラジャラと喧しい、リングやブレスレッド―それが、不定形の上を流れて、地面に吐き出される。

(見覚えのある、アクセサリ。見憶えの―)

                                   『脱色気味の茶髪に髪を染めて、多少濃い目の化粧をし、左耳に二つ、右耳に一つ―』

                        『―ピアスをぶら提げている。公園の薄くなった木製ベンチみたいな色の髪の毛にはふんわりとカールが掛かり―』

      『腕にはじゃらじゃらと色んなリングやブレスレッドを引っ掛けて…』

(…相原)

(あの―中に、居るのか?)

「終わりだ―」

「犬」

「嫌だ、この中は嫌だ―」

「苦しい、息が苦しい、助けて―」

「私の体はどこ?私は―何処?」

「―引き千切って、挽肉にして、飲み込んで、絞り粕にして―!」

「―あの人は?綺麗になった。私、綺麗になったの」

「あの人って誰?」

「―自我をミキサーにかけて、粉々に擦り潰してやる」

 ―“彼女”が吼える。

 肌色が身を翻して、ジョンへと襲い掛かる。海月の頭部は潰れ、津波のように、前のめりな姿で地面を疾走する。不定形の津波から、何本もの腕が突き出される。波から突き出た腕が、ジョンへと伸びる。ジョンを、ジョンの一部を、掴んで、喰い千切ろうとする。

 ―ジョンの首筋から生える、骨の鎖が躍動する。ジョンと、周りに転がる人間達から生える、全ての骨の鎖が、音を立てて。獲物に狙いを定める様に、不定形の“彼女”へ向けて、先端を構える。

              「―コ」

 ジョンの声に呼応して、引き絞った弓の弦を離す様に、骨の鎖が一斉に、不定形の“彼女”へと向けて放たれる。空を裂く音がする。弾丸の如く、鎖の先端が“彼女”を穿つ。肌色の表面に波紋が浮かぶ。次々に鎖が彼女を貫く。骨の鎖が。“彼女”を掻き消そうとする様に。

 が―。

「馬鹿め」

「馬鹿め、馬鹿め」

「馬鹿め馬鹿め馬鹿め―!!!」

“彼女”が嗤う。鎖は“彼女”の、不定形の体表を揺らしただけに過ぎない。肌色の波となった“彼女”は骨の鎖を擦り抜けて、ジョンの元へと到達する。波が渦を巻いてジョンの下半身を握り締め、その身体を締め挙げる。

「油断したな。こうしてひとつになれば、お前の攻撃など恐るるものでは無い―」

「死ね」

「私は誰?私は―」

「―安心しろ。お前が私から剥がした連中も、後で纏めて私の胃袋に入れてやる」

「お前のした事は無駄だ」

「何もかも」

「あっはははっはぁ、残念、全て無駄だったなァ―!!!!」

 肌色の波がジョンの下半身を握り締める。波から何本もの腕が生え、ジョンの下顎を、首を、残った左の前脚を掴み、波の中に引き摺りこもうとする。僕は自分の左手首から生える鎖を握ったまま、茫然とそれを見上げている。何かをするべきなのは分かり切っているのに、何をすればいいのかが、全く分からない。

(ジョン…)

(…何かをしなきゃいけない。このままじゃ、何もかも、失っちまう。何かを、何とかして、何かを。それは分かり切っているのに、それが何なのか、分からない)

(夢の続きに居る様な気がする)

(夢の―続きに)

 不定形の腕がジョンの咽へと伸びる。腕が蕩けて、ジョンの喉奥へと流れ込んでいく。ジョンが暴れる。肌色の波の中で、溺れて、犬掻きをする様に。

 ジョンの首筋から、新しく骨の鎖が吹き出る―まるで、最後の抵抗をする様に。鎖が鞭の様に撓って、宙を舞う。鎖は、“彼女”達を逸れて、見当違いの方向へ飛んで行く。“彼女”達の嘲笑う声が聞こえる。高く、甲高く、“彼女”達は、嗤う。

                                  ―くす。

                                ―くすくす。

                       ―は、はは、キャハハハハハ…。

“彼女”を外れた、ジョンの最後の鎖の先端が、僕の傍に着弾する。僕は首を竦めて―驚いて、そちらを見る。ジョンの鎖が振り下ろされた、その位置を。

 未だ微かに残り火の燃える、幹の罅割れて黒く煤けた、金木犀の燃え滓を。

 金木犀の、燃え滓の―その、根元を。

 僕は立ち上がる。

「オギノ?」

 カミュの不思議そうな声が遠くに聞こえる。息が詰まって、僕はそれに返事する事が出来ない。夢遊病の様に、金木犀の元へ、フラフラと歩み寄る。ジョンの鎖が焼け焦げた金木犀の幹を斜めに傾けて、根っこを持ち上げている。意外と、根っ子は焼け残ってるんだな、と思う。

(白い)

(夜の学校で―白く、光って見える)

 僕はその場に屈み込み―金木犀の根元を、両手で掘り返し始める。

 素手で。鎖の付いた腕で。半分欠けた、指先で。

(硬い…)

(土―手で掘るなんて、何時以来だろ。小学校の、低学年以来か…?)

(爪の間が痛い。小石が挟まって…)

『篠原和澄さんは2005年の9月28日に、校内でご学友と、『用事があるから』と一旦別れ、校門前での待ち合わせを約束したのを最後に、消息を絶ちました―』

『何時まで経っても姿を現さない篠原さんに、心配になったご学友のA子(仮名)さんが先生に相談、先生と二人で校内を捜索するも見つけられず―』

 ―掘る。一心不乱で、掘る。ジョンの鎖が、金木犀を突き刺し、引き倒す。土の中に、ずぶずぶと、その先端を埋めていく。僕はその鎖を追い掛けて、掻き分ける様に、その周りを、掘る。

                    『不安を拭えないA子さんが篠原さんの自宅に電話をし、漸く事件として発覚―』

                                『後日、警官が40人体制で校内を、地元の有志と猟友会が120人体勢で校外周辺を捜索するも―』

                                 『“彼女”達の行為には論理がある。“彼女”達のロジックだ。“彼女”達の間でしか通用しない―』

                      『友達にも内緒の、彼女の用事―』

                   『…あの体育館の傍の、大きな金木犀。学内の、有名な告白スポット。12年前から、あの噂があったとは考えられないか?』

                  『彼女の用事の場があの金木犀の下だった、と仮定しよう。呼び出したか、呼び出されたか。そこで12年前、何かが起きて―』

                              『彼女は消えた』

             『最初からそうだったのか、それとも長年の噂に依ってそうなってしまったのか―あれが彼女の思念を媒介にしている、幽霊のような何かなのか、それとももっと、彼女の噂を下敷きに存在しているだけの、別の何かなのか』

                                 『そうしてあの付近には、目出度く二つの噂が重なる事になった。有名な告白スポットと…』

                           『―神隠しとしての噂』

                       『篠原和澄―は、神隠しだった』

                        『12年前、何かが起きて―』

                             『―彼女は消えた』

 ―鎖が、何かに行き当たった様に、その動きを止める。僕は掘る手を止め、鎖を両手で掴んで、土から引き摺り出し始める。ジョンを、僕の影から引き摺り出した様に。言葉も忘れて。息をするのも忘れて。

                               『12年前―』

                          『“彼女”達のロジック…』

                             『―何かが起きて』

(…何かが)

(簡単な可能性を忘れていた―一番簡単な、可能性を)

(最近、不可思議な出来事に触れ過ぎて…勝手に、12年前の事件まで、人知の及ばないものの仕業だと思い込んでいた)

(神隠しの仕業だと)

(…あの刑事達の行動も、ある意味では、半分正解だったんだ)

(事件が起きたら、それは―)

 鎖を引き抜く。

                                 ―ごぼり。

 水中で気泡を吐く様な音が背後で聞こえる。僕はゆっくりと後ろを振り返る。そこには、首元までジョンを飲み込んだ、肌色の不定形が見える。不定形の表面に、幾つもの目玉が浮かんで、僕の方を見る。肌色が体内のジョンを吐き出して、地面に落とす。ごぼごぼと音を立てて、僕に向き直る―もし、正面というものが存在するのなら、だが。ごぼごぼと音を立てて蠢いて、僕を見る。5本、6本、7本と、次々に増える手で、僕を指差して、言う。

「―返せ」

 僕は、“彼女”から目を離して、手の内を見る。骨の鎖の先端に突き刺さっているそれを、引き抜く。

 目の高さに持ち上げて、まじまじとそれを見る。

 それを―黄色く黄ばんで、半分朽ちた、その、頭蓋骨を。

(―事件が起きたら、それは、大抵の場合は、人間の仕業だ)

“彼女”が叫び声を上げて僕に突進して来る。それが最後の引き金になったみたいに、僕の手の中で朽ちた頭蓋骨は自然にバラバラに砕けて、中から黒い、一匹の蝙蝠が、飛び立つ。“彼女”の半狂乱の声が、何処か遠くに聞こえる。僕は宙に浮く、それに触れる。

 ―途端に、変化が訪れる。

 さっきまで、肌色の不定形だった“彼女”は、一瞬で、蛹の様に縦長の楕円形の状態に丸まってしまう。そして次の瞬間、その背中の部分に亀裂が入ったかと思うと、中から羽化した蝶が姿を見せる代わりに、大量の、恐らく“彼女”が飲み込んだであろう、人が、動物が、道具が、噴出し始める。

 ―噴水の様に。花火の様に。

 園部、黒猫、標識、バスケットボール、鍵、スマホ、スナック菓子の袋、照明、電池、車―兎に角、ありとあらゆる、“彼女”が喰ったであろう、胃袋の内側のものが、引っ繰り返り、裏返り、繭の中から吐き出されて、飛び上がる。それは、奇妙で―幻想的な光景に見える。時折、何か判別の付かない、不完全なものも飛び出て来る―誰かさんの左腕、ヴァンパイアの伝統衣装を着こんだ、左腕と脇腹と、首から上が無い体、誰かの右足、ふさふさの毛皮の付いた―ぶよぶよと膨らんだ、お腹。

(…あれは、ジョンの頭か?)

 吹き上がる。中身を吹き出しながら―肌色の繭が、少しずつ、僕の方へ、歩み寄って来る。中身を吐き出す度に、繭はその身を細く、小さく、変形していく。繭の下半分は割れて、次第に足になり、中心辺りは縊れ、上半分には突き出た二本の突起が現れて、やがてその先端が5本に枝分かれしていく。時間が経つに連れて、繭は、肌色の―人の、外皮の様に変形していく。僕はそれを、眺めている。

 最初は、の上で回る陶器みたいだった、繭の頂点も―徐々にその形を、ハッキリさせていく。段々と、見覚えのある形に。僕はその顔を、何処か懐かしいものを見る様な気持ちで眺める。写真で見た顔、今夜初めて見た顔、けれどずっとずっと、長い事探していた様な気がする、その顔を。

(髪はショートヘア。目元はとても凛々しい。切れ長の目…)

(ヅカ系―って、いうんかね?)

(パリッとして、重心の安定した感じ。スーツとか似合いそう…)

(―篠原、和澄)

 彼女は僕に向かって懸命に指を伸ばす。懇願する様に、涙を流す。

「…返して。それが無いと、私―」

 僕が何かを思う前に、蝙蝠は僕の人差し指の爪の間から、吸い込まれるように僕の内側に入って来る。掃除機に吸い込まれるみたいに。蝙蝠が僕の内側に入って来た瞬間、僕の右手の人差し指が、瞬きする間だけ、関節一つ分長くなる。けれども僕が次に目を開いて、慌てて関節の数を数え始める前に、その幻の関節は蜃気楼のように消えてしまう。

 …ついでに、篠原和澄も。

 まるで最初から居なかったみたいに、その姿はもう何処にも無い。

 …尾を引く様なか細い悲鳴と、夜の学校に横たわる、推定60名程の、意識不明の老若男女を残して。




「…母さんに、一体、なんて言や良いんだよ?」

 両手で頭を抱える。指の隙間から、周囲の光景を盗み見る。溜息が出る。際限無く、溜息が。

 …左手首からぶら下がる鎖が、僕を慰める様に、静かにしゃらしゃらと揺れる。

(―ホントにどうすんだ、これ?)

 夜の学校。

 夜の学校の、半分程消失した東校舎の傍らに―玩具箱を引っ繰り返したみたいに、様々なものが雑多にぶちまけられている。小雀から大型犬まで、大小バラバラな動物、バスケットボール、バレーボール、チョーク粉や、巨大コンパス、石灰粉のライン引きなんかの、色んな学校の備品、【通り抜け禁止】や、【通学路】等の、学校周辺の交通標識、ケーキや、おにぎり、飴玉やチョコ菓子、果ては電柱や電線、土砂や舗装道路の一部まで―様々なものが転がっている。様々なものが、雑多に、一緒くたに。

(警察―に、電話するべき?でも、警察に電話して、それで、なんて言おう?)

 それから―意識不明の、年齢も性別も、何から何まで違う、共通点の無い―大体二クラス分くらいの、総勢60名程の、男女。

(…タダでさえ、疑われてるってのに…)

 意識の無い彼らの体には、首筋から、片耳から、目から、舌の先から、植物が―背筋から、腹部から、喉元から、白い、複数の、骨の鎖が生えている。その骨の鎖が、植物が―僕が溜息を吐く程に、時間が流れる程に、朽ちて、風化して崩れ去り、枯れて、種子も散らさずに萎れていく。僕はその光景を、只、見守っている。言葉も無く―感慨を覚える暇も無く。

(…まぁ、これで心配毎の一つは、解決だな…)

(説明する事は少ない方が良い。ただでさえこんな嘘臭い状況なんだ―説明する事は、出来得る限り、少ない方が…)

(…あの植物、枯れてくれてよかったな。あの骨も。あんなのが残っちゃ、これからの生活、大変だ…)

(―てか、やっぱ僕が―説明しなきゃ、駄目、だよな?)

(…ところで、僕の手首のこれは、いつ外れるんスかね?)

(説明―説明、ね。一体何を、誰に対して?)

 地面に転がる男女の中には、植物の生えていない者も混じっている―植物と、骨の鎖の生えていない子。その代わり、植物と鎖の無い彼らは、その対価とでもいうように、全身に一糸の布も身に纏ってはいない。僕は薄眼でそちらを見る。瞼を強く擦る。今日、何度目かももう分からない、溜息が繰り返し、零れる。謎の罪悪感が胸の内に去来する。彼らは他の人間の隙間に埋もれるように、裸体で砂の上に横たわっている。

(…何で裸?)

(多分、篠原和澄の、最後の肌色の波に飲み込まれていた奴らなんだろう―あの肌色の波の表面を、制服やアクセサリーが滑って行くのを、見た)

                『見憶えのある装飾品が不定形の体表を流れては、落ちる。色取りどりの、ジャラジャラと喧しい、リングやブレスレッド―それが、不定形の上を流れて、地面に―』

(見覚えのある、アクセサリーが)

(…)

(―て事は、あの中に、相原が居るのか)

(…)

(―この件については、あまり考えないようにしよう)

(結構暗いし。あんま良く見えないし。ていうか、知り合いの裸ってのが、なんて言うかこう、見たくないというか、見たいようで見たくないというか、境界線的にギリギリな感じがするというか…)

 ―僕は努力して、意識的に、彼らの倒れている方から目を逸らす。視界の端で、肌色がチラチラと明滅して見える。僕は唇を固く結んで、その誘惑に耐える。左手首からぶら下がる鎖を見る。自分の左手首から、突き出てぶら下がっている、白い骨の鎖を。

(…これ、なんなんだろうな、結局)

(“彼女”達に撃ちこまれていたのとは、違うみたいだし)

(―まぁ、あれもなんなのか、分かんないんだけど―…)

(篠原は《分離》だと言っていた。撃ちこまれた者の実感だろうか?突き刺して、骨の周りを創り変えて、植物の根で隔離して、閉じ込める―理解は出来ないが、イメージは何となく分かる、気がする)

(ワクチン―みたいなもん、だったのかな?)

 僕は骨の鎖を無意識に指先で弾く。途端に、全身に痛みが走る。歯の根が震える。涙が浮かぶ。

(…馬鹿か、僕は…)

(―でも、助けに―)

(…助けに、来てくれた―のかな、一応?)

 僕は、骨の鎖の先を見る。鎖に繋がれたジョンを見る。手が触れそうな位に、傍に居るジョンを。即座に、溜息が漏れる。再び、溜息が。

 …咽の奥につっかえていたみたいな、重くて苦しい、長大な溜息が。

「―母さんに、何て言えば…?」

 同じ言葉が繰り返し口から零れる。途方に暮れて、目の前のジョンを見つめる。

 …上顎を失い、腹部を失い、右の前足を失い、尻尾の毛皮も、少しばかり、失ったジョンを。

(どうする?いっそ、正直に言うか?)

(『やあ母さん!こいつは何だって?薄情だな、家族の顔を見忘れたのかい?こいつがジョンさ!まぁ見ない内に、少しばかり様変わりしたみたいだけれど―?』)

(…駄目だな。絶っっっっ対、100%、殺される…)

 ジョンは僕を見上げて大人しくお座りし、骨になった尻尾をカラカラと震わせる。まるで、僕にご褒美を貰えることを期待しているみたいに。

(…そんな顔で見たって、何も持ってないぞ、僕)

(まぁ、顔―ないんだけど)

 途方に暮れる僕を尻目に、転がる“神隠し”の胃袋の中身だったものを掻き分けて、夜の学校を吸血鬼の兄妹達が闊歩する。カミラが、向こうで自分の右足を拾っているのが見える。アレックスの、首の無い胴体が、自分の生首を追い回しているのが見える。カミラが、自分の右足を、股関節にくっ付ける。すると、まな板の上で刻まれる野菜を逆再生するみたいに、カミラの足が音も無く、元通りに吸い付く。彼女は試す様にその場でくるくると足首を回している。僕はジョンの前に屈みこんで、ぼんやりとそれを眺めている。

(…取り敢えず、心配事のひとつは解決だな―)

(“彼女”に奪われた部位は、取り敢えずくっ付ければ、元通りに戻る―まぁ、アレが、吸血鬼特有の、再生能力の範疇じゃ無ければ、という話だが…)

(―両手に収まりきらないぐらい沢山の、心配事の内の一つだけど)

 自然に欠伸が出る。焦れた様に、ジョンが僕の手首から伸びる、骨の鎖を引っ張る。鈍い痛みが走る。血が零れる。僕は苦笑を浮かべてジョンを見る。ジョンの頭部の無い、剥き出しの暗い喉の奥の方から、何かを要求する様な唸り声が聞こえてくる。僕は鼻の頭を擦りながら、首を傾げる。

(…何だ?)

(腹でも減ってんのか?晩飯、あげ忘れたっけ?)

(…いや、そんな事、無いよなぁ。自分の分は、食べ損ねたけれど…)

 向こう側から、自分の両足を取り返したカミラが歩いて来る―どうやら左目は見つからなかったみたいだ、左目のあった場所には、落ち窪んだ眼窩だけが広がっている。

(まぁ、小さな探し物だしな。況してや夜、こんだけ散らかってる場所でなんて―)

(…吸血鬼って案外、夜目、効かないのかな?)

(あれ?でも、日の出までに見つけなきゃ、日光で焼けて、灰になっちゃうんじゃ―?)

(…あ、良いのか?そうなれば、また新しい目玉が再生するし…)

 カミラはふさふさの毛皮が付いた―ぶよぶよでだるだるの、贅肉でだらんとした胴体を腕に抱えている。こういうの、何かで見た事がある、と思う。何処かで見た様な懐かしさがある。牛や、鹿肉の腹部を切り出したものを、背筋に串を指して、焚火の上で盛大に焼き上げる―米も塩も無い、狩猟民族の原風景。ま、その肉の塊は、それらのものよりか、随分小振りだが。

(…やっぱあれ、ジョンの?)

 僕は立ち上がり、一歩下がって、彼女に場所を譲る。僕の鎖に連なるジョンも、一緒に立ち上がって、警戒する様に彼女の顔を見上げる。彼女は無言で前に進み出て、その肉の塊をジョンの欠けた腹部に押し当てる。腹部は音も無くジョンの元に戻る。まるで、片時も、離れた事等無いみたいに。

(…良かった。吸血鬼以外でも、元に戻るんだ、元に…)

 僕は安堵の溜息を吐く。首筋に軽く爪を立てる。

 ―感覚の無い首筋に。

(代わりの部品がある場合、どうなるんだろう?)

(…まぁ、それは今は、考えなくても良いか。そうでなくても、今日は考える事が、多過ぎる…)

 ジョンがカミラを値踏みする様に見上げて、ぐるぐると、彼女の足元を回遊する。骨の鎖が、カミラの膝に絡まる。彼女は困った様に、ジョンを見下ろす。助けを求める様に、僕を見る。

(…そんな顔されても…)

(どうしたらいいか分かんないのは、僕だって同じだ。いやホント、どうしたらいいんだ?誰か教えて…)

(頭―頭だな。先ずはジョンの、前足と頭を見つけて―)

「王―真祖様!我らが、骨の王よ―!」

 遠くの方から、跳ねる様な、元気一杯の声が聞こえてくる。見ると、アレックスが―未だに左腕と脇腹の無いアレックスが(どうやら、見つける事が出来なかったらしい―まぁ、その努力もしていなさそうだが)、右腕をブンブンと、千切れんばかりに振って、よっぽど今のジョンよりも犬らしく、転がる様に、こちらへ駆けて来る。その、激しく振る腕の先に、何かを握っているのが見える。白くて、平べったい、板の様な―何か。それを一振りする度に、ジョンが威嚇する様な唸り声を上げる。首筋からうぞうぞと、新しい骨の鎖を生やし始める。

 ―鎖の先端を、アレックスの方へと向ける。

「あ―アレックス?」

 アレックスは返事をしない。僕の方を見て、露骨に不快そうに顔を歪める。

「あの、多分それ、あんまり振らない方が―」

 僕達に近付くに連れて、アレックスの右手に握られているものが、次第に良く見えてくる。それを振る度に、ジョンの首筋から生える、骨の鎖が増えていく。カミラが膝に絡みつく鎖に躊躇う様に触れる。木の虚を吹き抜ける風の様な音がする。ジョンの喉の奥から、生温い風が吹き上がる。

 アレックスが、ジョンの目前に、嬉々として跪く。その手に握られているのは、白くて平べったい、板の様な形をした―。

 犬の上顎の、頭蓋骨。

(…そりゃ、ブンブン振られたく無いわな。自分の頭だもんな…)

(あ、でも、中身、無いけど。骨だし。骨…だけだし。それでも、気持ち悪いもんかね?)

(やっぱ、“骨の王”―ってくらいだから、骨の中にも、色々入ってるのかもな。記憶とか…意識とか、他にも、何かと)

 アレックスは、それを恭しく、ジョンの頂点に乗せる。まるで、王冠を被せる様に。頭蓋は音も無くジョンの頭部に戻る。それが、在るべき姿だと思い出したみたいに。

(…良かった、これで、後は…)

「アレックス、カミラ、悪いけど、もうひとつ―」

「―黙れ、下賤な人間め」

「―頼まれごとを―え?何だって?」

 …アレックスが、ジョンの前から立ち上がる。その牙と―憎しみを、剥き出しにして。僕は半笑いのまま、その場で固まる。半歩、アレックスから下がって、距離を開ける。戸惑いが胸の内を占拠する。理由が―意味が、分からなくて。横目でカミラを見る。カミラも同じく戸惑った様に、アレックスと―ジョンを見つめている。

(悩み事が…)

(―まるで石鹸を擦るみたいに、休む間もなく、どんどんと増えていく。ひとつ泡を洗い流しても、それを喜ぶ暇も無く、ひとつ、またひとつと、新しい悩みが―)

(…いまなんていった、アレックス?ゲセン…ゲーセン?源泉?)

「貴様とはもう語る口を持たぬ。おのれ、今まで良くも騙してくれたな、真祖を騙る、不届き者め―!」

「フトドキ…いや、僕は自分が真祖だなんて、一言も。それはそっちが、勝手に―?」

「不易な労働を強いてくれた礼だ、せめて高貴な吸血鬼の手に掛かって―」

「フエキって…んな、それがどういうもんかはちゃんと説明したし、別に無理矢理させた訳じゃ―」

「―死ぬことを光栄に思うが良い」

「そりゃ、手伝って貰ったのは、こっちの都合だったけど―え?」

(シ?)

(シぬ?今、もしかして、シぬって言った?)

(シぬって、誰が?)

 アレックスが右腕を振り上げるのがやけにスローモーションに見える。ちょっと兄さん、と言ったカミラが僕の前に出ようとして、鎖に足を止められるのが見える。アレックスの右手に血の剣が握られているのが、写真の様にハッキリと見える。実感の無い現実が緩やかに押し寄せて来る。僕はもう半歩、後ろに下がろうとする。緩んだ顔でアレックスを見上げる。アレックスがカミラの左胸に拳を突き立てた瞬間をぼんやりと思い出す。首が捻じれ、左手の上指が吹き飛んで、胸に拳が半分めり込んでいる。その事が酷く遠い昔に思える。

 夢の続きに居る様に感じる。

(死)

(死ぬって―僕が?)

 アレックスが右手を振り下ろす。

 目を瞑る暇もない。

 今にも振りおろそうとされていたアレックスの右腕は、瞬きする前に四本の骨の鎖に絡め取られ、貫かれて、肉を奪われ、剣を取り落とし、指先からぽろぽろと、砂状に崩壊していく。まるで肉体が壊死するまでの時間を、たっぷりと右腕の中に注ぎこまれた様に。アレックスが悲鳴を上げる。僕は驚く余裕も無く、ただただその様子を見つめている。アレックスが悲鳴を上げて、地面をのた打ち回る。指先から始まった崩壊は、手首に、そして肘に、到達しようとしている。砂状の崩壊は止まらない。アレックスの右腕を、確実に這い上がって行く。

「―何故!?何故です、我が王―!?」

 アレックスの背後から、ジョンが顔を覗かせる。息も荒く、僕の顔色を窺う様に、期待する様に。

 僕はその時、漸く―それが何を望んでいるのか、理解した様な気がする。

 体内を巡る、王の欠片が教えてくれたのか―或いは、何もかも気の所為で、そんな気がしただけか。

 でも、僕はその時確かに、剥き出しの骨だけになった、ジョンの目の奥を見た。

 目の奥に、懐かしい光を見た。

「オギノ、気を付けて、王は正気じゃ無い、ここは一旦離れて―!」

 ―僕は、ジョンの傍へ歩み寄って、屈んで、右手を上げて。

「…オギノ?」

 ―その頭を撫でる。すべすべとして、所々角張っていて、そして、少しざらついた、その骨の頭の表面を。時間を掛けて。親愛を込めて。

「ありがとう、ジョン」

 それから、言う。心の底からの、感謝の意を。

「…でも、もう良い。もう良いんだ。少し遣り過ぎだよ。この人は敵じゃない。まぁ、たった今、僕を殺そうとしてた訳だけど―でも、悪い人じゃないんだ、本当だよ」

 ―瞬きを繰り返す度に、いつの間にか指先に覚える質感が変化していっている事に気付く。すべすべとして、少しざらついた骨の感触から、ふさふさとして、そして少し擽ったい毛先の感覚と、分厚い肉の厚みに。変化は止める間もなく、あっという間に訪れる。目の前に、何年もの間、一緒に過ごして来た、いつものジョンの姿が戻って来る。傍でのた打ち回っていたアレックスも、狐につままれたみたいな顔をして、僕と―ジョンを、戸惑った様に見上げている。その右腕には肉が戻って来ている。崩壊の兆しは何処にも無い。

 ―気の抜けた笑みが口元に浮かぶ。

 疲労感だけが体の芯にある。僕はジョンの耳の先を撫でながら、笑い声とも嘆息とも付かない溜息を漏らす。全ての出来事が夢だったんじゃないかすらと思える。

 周囲に転がる、“彼女”の胃袋の残骸と―僕とジョンを繋ぐ、白くて長い、骨の鎖さえ無ければ。

「…助かったよ、ありがとう、本当に」

 ジョンの頬の毛を掻き混ぜながら、誰にともなく、言う。ジョンは僕を見上げて、一声、鳴く。呆れた様に。仕方ないなと、笑うみたいに。いつもの様に、何処か気怠げに。世話の焼ける兄弟分を慰める様に。

                                  ―わん。




「礼は言わんぞ」

 僕を睨みつけながら、アレックスは今日何度目かももう分からない、先程と同じ言葉を繰り返す。

 …僕は辟易して、乾いた笑い声を上げる。

 ―僕達は、夜の校舎の中を、校門へと向かって歩く。

 何をするにも、取り敢えずは連絡だ―東棟の傍にゴロゴロと転がる“彼女”の胃袋の中身を、当然あのままにはしておけない。この後、どうするにしても―どうすればいいのかは、未だに分からない―あのまま放って置く訳にはいかない。先ずは、連絡だ―これも、何処に連絡すればいいのかは、僕には良く分からない―が、警察に連絡するにしても、消防に連絡するにしたって、このまま校舎の中に居続けるのはちと不味いんじゃないか、と思う。東校舎の件や、プールの件や、その他諸々の学園内の被害の惨状があるからだ―これは、個人で賄える額を優に超えている。自分でやらかした部分も、そりゃ、ちぃとはあるにしたって…公共機関に連絡を取り付けて、この学内の惨状と、僕個人を紐付けて考えられた場合、かなりの不味い状況になる事請け合いだ…最近の僕の事情と合わせて鑑みて、これから先の僕の人生が、煮干しのダシガラよりも吝いものになる事が確定してしまう。

 以上の事から、僕が考えた、今後のプランはこうだ。

 Ⓐ何れかの公的機関に、学外へ出てから、電話をして…、Ⓑその受話器を受け取った奴に、後の事を、丸投げする。

(…最低だな。我ながら、最低のプラン…)

 ―だが、もう他にどうしようもない。手に負える範疇は、とっくの昔に食み出し切ってしまっている。電話を取った奴がどう思おうと、関係ない―例え、そいつが通報して来た僕を怪しいと感じても、東校舎の現状を、個人の仕業と断定するには、流石に無理があるし―(爆弾でもなきゃ、あんな大規模には壊れないし…そもそも、破損の断面が、あんな風に綺麗に、丸く削った様にはならない。まぁ、実際、吸血鬼だって、二人は必要だった訳だし)―そいつがどういう風に考えても、ここで今日あったことの責任を、全て僕の背中に乗せるのは難しいだろう。それに、もう目的は果たした。もう、“神隠し”は起こらない。

 ざまぁみろ。

 後は野となれ、山となれ―だ。

「礼は言わんぞ」

「…」

「礼は言わん」

「はっは」

「…何が可笑しい?」

「ちょっと、兄さん、煩い」

「―煩い、煩いだと?カミュ、お前は何とも思わんのか?元はと言えば、人間風情の、こいつが―!」

「―その人間風情に、王様から取り成して貰っといて、良く言うわ」

「…うぐ」

「それに、オギノを真祖様だって、勝手に勘違いしてたの、兄さんだから」

「…そ、それはだなぁ。その…カミュ、確かに早とちりだったかもしれないが、でも、お前だって―!?」

「―私の所為にしないで。私は可能性があると言っただけ。私だって、こんな風になるとは思わなかったわよ。でも、オギノが嘘を吐いていた訳じゃないわ。少なくとも、私達には、誠実だった」

「それは―その。そうかも知らんが。でも、こいつは、王の―」

「ゴチャゴチャ言い訳しないで。女々しいわよ」

「め―めめ、メメメ―?」

「それにしても―一体、どういう理屈なのかしら。人間が、王の欠片を吸い込めるだなんて。ひょっとして、王様の傍に長期間、身を置く事で、体組織の組成が変異したの?」

「…さらっと怖いこと言わないで貰えます?」

 半壊した東校舎の残骸を潜り抜けて、夜の校庭を突っ切る。そのまま、西棟の昇降口前を横切って、守衛室前を横切って、学外へ。

 歩く、ただ歩く。無言で夜の校庭を、浮ついた気持ちで歩く。靴底が校庭の土を踏み拉く音が、小気味良く響く。僕とジョンを繋ぐ骨の鎖がしゃらしゃらと錫の様に鳴る。先行するジョンが、何度も僕が付いて来ているかを確認する様に、後ろを振り返る。僕は苦笑を浮かべてジョンに小さく手を振る。ジョンが鼻を鳴らして足を踏み出す度に、鎖の付け根、僕の左手首から、小さく血が滴り落ちる。吹き出る血液量が、どんどん少なくなっていく事に気付く。他の鎖は全て朽ちてしまったのに、どうして僕とジョンを繋ぐこの鎖だけは消えてしまわないんだろう、と僕は漠然と不思議に思う。これから、ずっとこのままだったらどうしよう、と小さな不安が芽生えては、消える。今日は、色んな不安や恐怖を、手に余る程、一遍に抱え過ぎた。だから、今だけ、この瞬間だけは、何も考えずに、ただ、歩いていたい。

(ジョン…)

(痛いよ、ジョン―そんなに、急がないで…)

 いつもと違う散歩コースにはしゃぐジョンに、引き摺られる様に、僕はふらふらと、彼の後に続く。足痕の様に、点々と、血の跡を残して。心配気なカミュの声が少し遠くに聞こえる。訝し気なアレックスの声が、遥か遠くに聞こえる。

「…オギノ?」

「オギノ―?」

 西棟の、昇降口前を過ぎる。守衛室前を横切る。校門のシルエットが見えてくる。夢にまで見た出口だ、と思う。悪夢の出口。溜息と共に、全身の力が抜けていく。思わずその場に、へたり込んでしまいそうになる。ジョンに引っ張られるままに、僕は門へと向かう。

 校門はあまりにも見慣れた姿をしている。

 見慣れた姿をしている事に―ふと、違和感を覚える。

(…?)

 足を止める。僕の疑念を感じ取った様に、ジョンも足を止めて、振り返って、僕を見上げる。僕はジョンの元まで歩み寄って、その首筋を指先で梳きながら、少しの間、考える。ジョンが舌を出して、ハァハァと荒い息継ぎをする。僕はそれを見て、笑う。こうしているのを見ると、何処からどう見ても、犬なのに。

(…さて、何がおかしい?)

(普通に見える。普通に見えるのが、おかしい―ってことか?)

(なんかのナゾナゾみたいだな。『パンはパンでも…?』)

「オギノ?どうしたの―?」

「―人間?一体、何をしている?出口は、直ぐそこだぞ―?」

(―あ)

 違和感に気付く。

 違和感の、正体に。

 校門はあまりにも見慣れた姿をしている。

 見慣れた姿に―変化している事に気付く。

(…開いてる)

 校門が開いている。

 僕は瞬きをする。

 門の向こうに、二人分のシルエットが見える。


 ジョンの背中を、手の甲で撫でる。

 左手首から伸びる骨の鎖を、確かめる様に掌の上に乗せる。硬い鎖の重さと冷たさが、これが現実だという事を僕に教えてくれる。カミラがさり気無く歩み出て、僕を庇う様に、半身を前に出す。アレックスがジョンの傍に立って、疑う様に後方に目を配る。

(…何?)

(何もかも終わった。何もかも終わった…筈じゃ、ないのか?)

(何かが立っている。校門の辺りに。誰かが…)

 校門の辺りに、誰かが居る。その黒い輪郭だけが、はっきりと見える。ひとりは、門柱に寄り掛かって、こちらの様子を窺っているみたいだ。もうひとりは―校外へ続く門の中心に立って、まるで出迎える様に、僕達の事を待ち受けて、立っている。口元には、蛍の様に小さな、赤い光が浮いている。鼻を突き刺すような香りが、そちらの方から漂って来る。僕はジョンの背を撫でる手を止め、口を押さえて思わず咳き込む。

 カミラが僕の様子を見て、迷う様に右の掌を持ち上げる。時間を置いて、彼女の掌の上に、水分が吸い寄せられるように集まり始める。彼女の掌の上に、水塊が出来る―先刻、プールから抜き出して、作り上げてみせたものとは比べ物にならないくらい、小さくて頼りない、グリーンピース二つ分程度の水塊を。

(マズい…)

 カミラは舌打ちして、掌の上のものを、手首を軽く振って霧散させる。僕は思わず、唾を飲み込む。縋る様に、アレックスの方を見る。アレックスはしかめっ面を浮かべて、唸る様に喉を鳴らし、右手の親指に爪を立てて、そこから流れ出す血を剣状に生成する。警戒する様に何度も辺りを見回す。獣の様に空を見上げては、鼻をひくひくと動かして、周囲の臭いを確かめる。

(二人とも、もう限界だ。あれだけ戦ったんだ。あれだけ戦った、後なんだ…)

(―僕の勝手に付き合わせて)

(もう少しで出口なのに)

(…クソ、どうすればいい?どうしたらいいんだ!?どうしたら―)

「―オギノ、退がって」

「でも―」

「良いから」

 カミラが、自分の、眼球を無くしたままの、空洞の左目の眼窩に、躊躇わずに左手の指先を突っ込む。僕は慌てて悲鳴を飲み込む。反射的に、目を閉じて、彼女から顔を逸らしてしまう。ぐちゅぐちゅと、肉を穿る様な、嫌な音が聞こえる。ぴちゃぴちゃ、ぽたぽたと、効き慣れた音が僕の手首から垂れる雫の音と混ざり合って、耳元に響く。

「…ルナルーダの連中か?」

 ―アレックスの声。

「分からない。吸血鬼では無い様だけど―?」

「―なら、決まりだな。俺が斬り込む。お前はフォローだ。ただの人間など、例え消耗していたとしても、俺達の敵では無い」

「…油断しないで。確かに吸血鬼じゃないみたいだけど―でも、普通の人間とも思えない」

「分かっているさ。俺を誰だと思っている?」

「…だから心配なのよ。良い?突っ立ってる方を狙って。柱に凭れてるのは―手負いみたいね。呼吸が荒い」

「任せろ」

 ―兄妹の、短い会話が終わる。目を開ける。咽が潰れた様に逼塞して、呼吸が上手くいかない。涙が浮かぶ。どうしてこうなるんだろう、と思う。どうしていつもこうなんだろう。何とかなるかもと少しでも期待を抱いた途端に、何もかも上手くいかなくなる。

 僕を含めると。

 僕が何かをしようと―藻掻けば藻掻くだけ。

 カミラは左の掌に、血溜りを乗せている。彼女がそれを軽く握り締めると、それはいつの間にか、血液で出来たナイフに変わっている。彼女は指の間に挟んだ複数のナイフの内の一本を抜き取ると、それを無造作に校門の向こうに立つ人影に向かって投げる。それを合図に、アレックスが音も無く、門の方へ駆け出す―。

                                  ―カン。

 乾いた音を立てて、空中で血液が解けて、飛び散る。アレックスの足が止まる。カミラが声を出さずに、静かに目を瞠る。血液は人影を避けて、ぱたぱたとその両脇に飛び散る―まるで、見えない盾に衝突した様に。

 人影の口元で、赤い光が揺れ動く。吸血鬼の兄妹達を、からかう様な仕草で。

(僕―僕はどうすれば良い?僕に何か、出来る事は―)

(ジョン)

(…“骨の王”に、戦って貰う?いや、そんなこと言ったって、どうやって言う事聞いて貰うんだ?そもそも、どうやって、ジョンをあの状態にすれば良い?ていうか―あれを、本当に味方だと考えても良いのか?次、ああなった場合に、元に戻せるっていう保証もない。それにもし、またアレックスを狙ったら―?)

 ―影が一歩、門のこちら側へと足を踏み出す。僕が考える暇も無く。アレックスが剣を構え直す。カミラが新しいナイフを抓み上げる。タイミングを合わせる様に、呼吸を整える。

 それを邪魔する様に―。

 人影が手を挙げる。

(?)

 ―掌を一杯に広げて、手を高く、自分の耳辺りに―何も持っていないことをアピールする様に大袈裟に両手を振って、影は無遠慮にこちらへ歩いて来る。カミラがもどかしそうに、抓んだナイフを振り上げた手を止める。アレックスが戸惑った様に、剣先をフラフラと左右へ彷徨わせる。ジョンが居心地悪そうに、コンクリート造りの地面を前足で描く動作をする。

(あ…あれは?)

(もし、勘違いじゃ無ければ―あれは、敵意が無い、事を示すジェスチャーに見える…もし、僕の勘違いじゃ無かったら、だけど)

(…何かの魔術の予備動作じゃなきゃ)

(ていうか、そのジェスチャー…吸血鬼にも通じるの?)

 横目でちらりとカミラを見る。カミラは、警戒する様に、ナイフを振り上げた手を構えたままだが―今は取り敢えず、それを直ぐに放り投げる気は無いらしい。僕は訳も無くホッとする―今日はもう、痛かったり、怖かったり、そういうのはいい加減うんざりだ。今日一日だけで、色んな事があった。最悪だったここ最近の中でも、全部ひっくるめてもお釣りがくるくらい、限界まで最悪を煮詰めて出来た様な日だった。もう、今日はこれ以上、何かを感じたりしたくない―あとひとつでも何かを喰わされたなら、便所に駆け込んで、胃袋の中身を全部吐き出してしまいたくなるような心境だ。もう限界なんだ、相手がなにもしてこないっていうんなら―こっちから、何かを仕掛けなきゃいけない道理も無い。

(…お願い…)

(お願いだ―もうこれ以上、何もしないで。何も起こらないで…)

 ―骨の鎖がカラカラとなる。人影が散策に赴くような足取りで、気軽に距離を詰めて来る。赤い光が、空中を滑る様に移動する。人影の方向から、白い煙が漂って来る。鼻腔を突き刺すような刺激臭が強くなる。

「―動かないで」

 人影が残り5m程まで接近した時、カミラが無愛想な声で、そう短く警告を発する。人影は―男は、警告に従って、素直にそこで足を止める。男だ―と思う。中々にがっちりとした、大人の男の体格をしている。当然、僕よりも遥かに大きい―アレックスと、大体同じ位だろうか。男は両腕を上げたまま、口元の赤い光を動かして、言う。

「やぁ、今晩は。良い夜だねぇ。特に吸血鬼には。なんたって、月の光が薄い」

(この声…?)

(何処かで―聞いたような…?)

【吸血鬼】という単語に過敏に反応する様に、アレックスが剣の切っ先を持ち上げ、カミラが振り上げた手に力を込める。男は慌てた風も無く、両手を上げたまま、のんびりと言葉の先を続ける。

「―そう怖い顔しないでくれよ、な?俺ァ根が臆病者なんだ。お譲ちゃん、そんなに睨むなよ。別嬪さんが台無しだぞ?そんな顔されたら、震えて話も出来無くなっちまう」

「…」

「こっちに敵意は無い。本当さ…ここには、話し合いをしに来ただけでね」

「…話し合い?何について?」

「ああ、好意的で、とても助かるよ―実を言うと、俺ァここに調査に来ていてね。12年前の事件が生んだ小さな厄種が、ここ最近になって、大きく力を付けて来ていると。我が部は万年、人手不足でね…報告自体は2年前くらいからあったんだが、如何せん手が足りなくて―最近になって漸く、暇だった俺がここの調査を命ぜられた、って訳さ」

「…答えになって無い。簡潔に話せ。何についての話し合いだ?」

「そうだな、事後処理に付いて。事の顛末を、どんな風に収めるか、だな。それと―」

 男は少し間を置いて―微かに忍び笑いを漏らして、言う。

「―“骨の王”について」

 ―間髪入れずに、カミラとアレックス兄妹が、動く。カミラが一呼吸の内に一投、二投、三投、と投げる。アレックスが即座に間合いを詰める。カミラのナイフは男に触れる前に、あの乾いた音を立てて血液に戻される。アレックスがカミラのナイフに合わせる様に別の角度から斬り込む。アレックスの血の剣も、男の首を跳ね飛ばす前に乾いた音と共に固形から液体の状態に瞬時に巻き戻される。

                                  ―カン。

 剣を失ったのも意に介さずに、アレックスはそのまま突進する。視界の端で、カミラが右の指先で何かを持ち上げる様な仕草をする。途端に、男の足元に飛び散った、兄妹のナイフや剣を形作っていた液体が、棘の様に固形化して男に襲いかかる。アレックスは牙を剥き出し、目を黒く滾らせて、男の喉笛を掴み、圧し折ろうとする。

(あ―)

 アレックスの右手が首元へと伸びた瞬間、男の背後から肩越しに、赤黒い、電柱程の太さはあるだろう筋骨隆々の巨大な二本の腕が現れて、一撃の元にアレックスを地面へと叩き伏せる。

 …鈍い音が聞こえる。

 僕は悲鳴と吐き気を飲み込んで、震える歯の根でその光景を眺めている。骨の鎖が、僕の揺れに合わせてカチャカチャと震える。ジョンの背中の毛に掌を埋める。ジョンが僕の方を見上げて不思議そうに鳴く。アレックスが口の中から、色の付いた液体を吐き出すのが見える。僕は足の裏に根が生えた様な気分になる。この期に及んでも、どうしようもなく下らない事を祈っている自分が、心底情けなくなる。

(お願いだ。お願い…)

(僕が藻掻けば藻掻くだけ…)

(これ以上、何も起こらないで。これ以上…)

                                  ―カン。

 男の足元で固形化した兄妹達の血液は、男がもう一度踏み付ける事で、再び呆気無く、液体に戻る。カミラは苦し気な呻き声を上げて、男の方へ前進しようとする。その気配を察して、男の背から伸びる、電柱程の巨大な腕の内の左腕が、彼女を牽制する様に掌をこちら側へと向ける。右腕が、アレックスを抑える手に力を込める。赤黒い掌の下でアレックスが苦悶の表情を浮かべる。

(嫌だ…)

(止めてくれ、止めてくれ、もう…)

(助けて、誰か。ジョン―)

 骨の鎖が鳴る。

「止めろ」

 ―静かな声が響く。

 僕は顔を上げる。男は相変わらず両手を上げている。その口元で赤い光が上下する。男は手を上げたまま、自分の背後から伸びている電柱程の太さの巨大な腕を、その指先でトントン、と小突く。

「止めろ」

 ―再度、男は言う。腕は、その命令に、困った様に、戸惑った様にしながらも―するすると、男の背後に、暗闇の中に引いていく。

「…それで良い」

 男は上機嫌にそう呟く。

 カミラは混乱した表情で、地面に押さえつけられていた兄を、先ずは取り敢えず、助け起こす。嫌悪と困惑の入り混じった顔で、彼女は男を見る。男はカミラの表情を見て、愉快そうに、肩と赤い光を揺らし―吸血鬼兄妹を意に介する事無く、又、歩き始める。

 僕の方へ向かって。

(え?)

 僕は身を竦めて男を見る。意味も無く左右を見る―見えるのは校舎ばかりだ。僕を助けてくれる様な何かを見つけられる筈も無く、男はあっという間に僕の目の前に到達する。

「…全く、君からも何とか言ってやってくれないか?あの石頭の吸血鬼共に、俺が悪い奴じゃないってさ、少年?」

(え?)

「ここには、話し合いに来ただけなんだ―調査と、それに付随する事後処理だよ。敵意は無い。君からも、それを彼らに証言してくれない?このお兄さんが、正真正銘、ここに調査に来ただけだ、って」

(え?)

 男の顔を見る。間近で見る。

 僕は目を瞠る。

 ―驚愕する。

(え?)

 男は、無精髭だらけ、ハンチング帽を被って、酷い匂いのする煙草を吸っている。男が喋る度に、火の点いた先端がグラグラと上下に揺れる。怪しい人間を雛型に取って作られた様な男だ、と思う。

 ―あの日のこの人の声が、頭の中で、遠い記憶の呼び声の様に木霊する。

                    『だからさぁ、神隠しだよ、神隠し―』

「…小林、縣?」

 男は、上げていた両手を合わせ、煙草の煙を燻らせながら、胡散臭い顔を綻ばせて、僕を見る。

「―御明察」


 ―脳味噌の奥が、ぎゅうっと、雑巾の様に強く引き絞られるのを感じる。

 呼吸の平静を保てない。心臓の鼓動が酷く不安定になる。説明を求めて、男―小林の顔を見る。小林はニタニタと笑って、僕の顔を楽しそうに見返すだけだ。混乱の波が僕の内側で渦を巻く。口を開いても、果たして何を質問すれば良いのか、分からない。分からない、分からない事だらけだ。僕だけが川の真ん中の浮島に取り残された様な気分になる。

 骨の鎖を握り締める。ジョンが僕の右手の甲を慰める様に舐める。その温かさに、涙が出そうになる。

 僕が言葉に窮していると、校門の門柱に寄り掛かっていた、もう一人の人影が―門を離れて、フラフラと、こちらの方に歩み寄って来る。僕は漠然と、そちらを見る。どうすればいいのか、分からない―接近されても、大丈夫だろうか?足を止めろ、と言うべきだろうか?でも、そこで足を止めさせて―それから、一体僕は、どうしたらいい?

 人影が吸血鬼兄妹の近くを、迂回する様に弧を描いて、通り過ぎる。アレックスは未だ、不機嫌そうに呻いている―その背中を支えるカミラが、人影が通り過ぎる瞬間、目を上げて、そして僅かに驚いた顔をする。

(え?)

(し―知り合い?)

(て―ことは、き…吸血鬼―?)

 人影が、背中を丸め、ぜぃぜぃ、はぁはぁと荒い呼吸を繰り返して―小林縣の隣に並ぶ。僕はその人影の輪郭が、幾らか欠けている事に気付く。右腕は肘から先が無く、咽の表面は鑿で削られたみたいに粗く、凸凹で―腹部の中心からやや左側には、大口径の銃弾で打ち抜かれた跡のような、大きな丸い空洞がある。

 ―まるで、誰かが腕をそこに、直接突っ込んだみたいな。

 僕は人影の顔を見る。膝から下が、消えてしまった様に力が抜けていく。見間違いだろうか、と思う。

 影はカミラの知り合いではない。

 僕の知り合いだ。

(…?)

 吸血鬼であるかどうかは、分からない―それほど深い知り合いじゃないし、もしかしたら、自分の出自を隠して、定職に付く、なんてのは吸血鬼には別に珍しい事では無いのかもしれない。魔術の使い方に依っては、日光の中でも生きていけるみたいだし。それに、彼が僕の前で、奥歯を剥き出しにする程、笑ったのを見た訳でも無い―記憶の中では、彼は終始笑ってはいたが、それは大体僕を嘲笑うかの様な冷笑だった。だから、僕が知っているのは、彼が俗世の職業に付いているという事と、人間の社会でそれなりに上手くやっているという事くらいだ。

 人影は見覚えのある顔をしている。大体、僕の記憶の中にある通りだ―そう古い記憶でも無いんだ、先ず間違いないだろう、と思う。それでも、疑いたくなるような気持ちが、心の何処かにある。それは、僕にとって、彼が現実そのものだったからかもしれない―確かに、僕にとって、彼は悪夢だったけれど、悪夢のような存在だったけれども、それでも、入口は現実だった。まごう事無き、不可思議の入る余地の無い、現実だった。

 僕は、おずおずと、彼の顔を見上げる。

 どういう表情をしていいか、分からなくて。

 …正しく、夢にまで見た顔だ。

「苅部、刑事―さん?」

 狐目の男は、苦り切った表情でこちらを見下ろしている。あの日の飄々とした態度や、あの日感じた、忍び寄る様な威圧感は、何処にも感じない。狐目は、草臥れて、疲れ切って、やつれ切って―憔悴して見える。同情する気持ちと共に、少し、ざまぁみろという溜飲の下がる気持ちも確かに、ある。

(少しだけ)

(ほんの―少しだけ)

 狐目は何も言わない。狐目の苦々しさの滲んだ、弱々しい表情を暫く無言で眺める―不意に、頭の中で、説明出来なかった事が、繋がる様な感覚を覚える。最初に思い浮かんだ事を、小林へ向かって口にする。

「そうか―あんたら」

「うん?」

「―最初からグルだったな?」

「違うよ?」

「道理で、何もして無い筈なのに、僕を巻き込んで、話が進むと―え?」

「彼とは、そこで偶然会っただけさ」

 …あっさりと否定される。

 僕は、小林と、刑事さんを見比べて、何も無い明後日の空間へ目を向けて、暫くの時を過ごす。望んでも居ないのに、頬が段々と、熱くなっていくのが分かる。ジョンが手の甲を慰める様に舐める。僕はその頭を上から抑え付ける。

(止めろ)

(余計…恥ずかしいだろうが)

「ん、まぁ…全くの偶然と言う訳では無いんだけどね。実は、俺ァ彼を探していてさ」

(大人のフォローが胸に沁みる。でも、お願い、止めて。更に恥ずかしい…)

(お願い、もう…家に帰して)

「言ったろ?俺ァ調査と、出来るなら、それらの事後処理を任されてたんだよ。で、調査を終えて、それの事後処理を、まぁ、そちらの刑事さんとだな―事件の細部を話合って、何とか片を付けようとした訳だよ。上とは穏便に話し終わって―で、こちらの現場責任者に話を付けて貰おうと思ったら、こちらさんの電話が繋がらんだの何だのって話になって―こちらの刑事さん、今回の事件にえらく精力的だって話も聞いたもんでね、こりゃ大変な事になる前に、と」

「…もう十分、大変な事になってる気がしますがね」

「おいおい、良い若いもんがそう将来を悲観するなよ。まだ逮捕はされて無かったろ?」

「ていうか―あなた、何なんです?ジャーナリストだなんだ言ってましたけど、会社に電話したら、そんな人間居ないって言われましたし。一体何者なんです?」

「ん、そういや―そいつを話してなかったか」

(?)

 小林は、一人納得した様に頷き―狐目の刑事さんは何やら酷く、落胆した様な、恨めし気な目で、小林を眺めている―置いてけぼりの僕に構わずに、にやにやと相変わらず癪に障る笑みを浮かべて、僕にこう尋ねる。

「名刺、持ってる?」

「は?」

「―あの時、あげたでしょ、俺の名刺。未だ持ってる?」

「そりゃ、持ってる―持ってますけど」

「じゃ、それ、出して」

「はぁ?」

「持ってるんでしょ?じゃあ、それを出してよ、今」

「今、ですか?今―は、無理ですよ、多分、家ですから」

「ああ、そう意味の『持ってる』かぁ…」

 小林は溜息を吐いて、ガッカリした様に頷き―(溜息を吐きたいのはこちらの方だって)―それから、気を改めた様に胸を膨らませて、ポケットから名刺入れを取り出し、新しいものを僕に差し出す。

「はい、じゃあ、これ。今度は失くさないで」

「いや、別に、失くした訳じゃ―」

「しっかりそいつを持ってるんだ。良い?」

 訳も分からずに、新しい名刺を手の中に押し込められて、僕は頷く。名刺の中身を見る。名刺の中身は、前に貰ったものと、一切同じだ。流石に、市街地や電話番号までは、憶えていないが―でも、それらも特に、変わりは無い様に見える。電話番号も3-3-4、何処かの固定電話へと繋がるものだ。

【月刊 境界を歩く/在籍記者/小林 縣】

                 『…この部署には小林某なんて輩は居ないわ』

 僕は首を振る。小林が微笑みを浮かべて、口元から煙草を放す。それを指で抓んで、線香花火の様に、火を点いた方を下にして、ぶら提げる。

「…いいね、しっかりそいつを持ってるんだぞ?」

「はぁ」

「絶対、離すなよ―」

 小林は煙草の火をゆっくりと下ろして―。

 ―それを、自分の名刺に押し当てる。

(?)

 小林を見る。名刺を見る。小林は相変わらずにやにやと笑っている。名刺に火が燃え移る。背筋にじんわりと、薄ら寒いものが走る。もしかしてこの人は、信用してはいけない人だったんじゃないか。どうして僕はこの人の言う事を聞いてしまったんだろうか。何で刑事さんは黙っているんだろうか。僕は、大人が皆、良識のある存在で、決して自分を傷つける事は無いと決めつけてしまっていたんだろうか。本当は、“神隠し”の凶行に紛れて、人間の犯罪が行われていたって、なんにもおかしくは無いのに。僕は、さっき自分で考えていた事も、もう忘れてしまったんだろうか?

                 『―事件が起きたら、それは、大抵の場合は』

                            『…人間の仕業だ…』

 名刺が、煙草を押し当てられた場所から、野火の様に燃え広がる。小林がケタケタと、楽しそうに声を上げて笑う。僕はそれを見る。炎は僕が手を放す暇も無く、真っ青に、真っ白に燃え上がって、瞬きを終える前に鎮火する。眩しさに目を瞑る直前、親指程の小さな狐のような存在が、僕の指の上を走って行くのを、確かに見る。

(な―?)

 目を開ける。悲鳴が咽の先まで出掛かる。炎は無い。狐も居ない。指の先に、熱も痛みも感じない。

 ―手の中には、先程と変わらずに、真新しい名刺が握られている。

「―いやぁ、合コンでこれやるとモテるんだ、これが」

「…馬鹿じゃないのか?」

 ―但し、名刺の文面には、先程までとは違う、新しい文字が刻まれている。

「人呼んで、『合コン荒らしのコバさん』―」

「馬鹿じゃないのか?」

 ―そこにはこう書かれている。

「いや、ホント、ホント。嘘じゃないのよ。君も、合コン行く機会あったら、使ってみ?」

「馬鹿じゃないのか、馬鹿じゃないのか、馬鹿じゃないのか、アンタ―!!!!」

 ―【内閣情報調査室/超常現象対策部門/在籍一級調査員/小林縣】

「お、意外と元気だな。急いで来なきゃ結構不味いかもと思ってたけれど、こりゃ、その心配も無かったかな?」

「―馬鹿じゃないのか、馬鹿じゃないのか、馬鹿じゃないのか、馬鹿じゃ―…!」


「ジェミニ出版ってのは、ウチのフロント企業さ。いや、フロント部署かな」

「…」

「最初こそ、ウチが出資して、企業の体を装っていたけれど―二代目の経営者が意外と優秀でね。ウチが内部のごたごたに手一杯になって、ちょっと手を放している隙に、いつの間にか上場企業の仲間入りしててさ」

「…」

「や、ホント。嘘の様な、本当の話さ。ああ、あれには吃驚したね―それでも、昔の事情を知ってる社員さんも、未だ幾らか残ってくれてるんだよ―でも、まぁ、この『境界を歩く』部署にも、新しい風を入れない訳には行かなくてさ。ほら、人の流れが一切無い部署なんて、如何にも怪しいだろ?」

「…現在3人しか居ないって言ってましたけど?」

「1/3も入れ変えたら充分だろ?」

 ―煙草の煙を遠慮無く吹き上げながら、何処か他人の事情を話すみたいに、愉快そうに、小林は喋り続ける。僕は、貰った新しい名刺を皺になるぐらい握り締めて、朦朧とする頭で小林の話を聞いている。ジョンが僕の太腿に、横腹を擦りつける。その温もりを、有難く思う。僕はジョンの耳の後ろを指の甲で撫でながら、骨の鎖を左手の中に軽く握って、揺らす。鎖が手の中でしゃらしゃらと流れる砂の様な音を立てる。家に帰ったら、ズボンにコロコロを掛けないと、とぼんやり考える。多分、犬の毛でべたべたになってるだろうから。

 新しい名刺を、チラリと見下ろす。名刺に書かれた文面は、既に火を点ける前のものに戻っている。

【月刊 境界を歩く/在籍記者/小林 縣】

(…何が、境界だ。馬鹿じゃないのか…?)

「調査と―事後処理」

「うん?」

「調査と、事後処理に来た―って、言ってましたよね」

「…ああ。それが、どうかしたかい?」

「この件は、結局、何だったんです?これを…どう、収める積りです?」

 小林は、微笑みを浮かべて僕を見る―それを、何となく気に喰わない、と思う。大人の笑みだ、優しくて、何処となく包容力のあって、そして、僕には良く分からない、何かを懐かしむ様な。それがどうしてだか、無性に腹が立つ、どうしても。何がどうして腹立つのか、自分でも説明出来ないが。

(…その顔、止めろ)

(煙臭い…)

「心配しないで、悪い様にはしないよ」

「…信用出来ると思ってます?」

 ―中々手厳しいなと、小林は苦笑を浮かべ、肩を揺らして笑う。僕は指針を求めて、吸血鬼の兄妹と、ジョンの様子を盗み見る―アレックスとカミュは、動ける程度には回復した様だ。カミラがアレックスの背から手を離して、立ち上がる。アレックスがバランスを崩して、コンクリートの床にすっ転ぶ。二人とも、どうしたものかと決めあぐねるように、互いに顔を見合わせている。ジョンの表情に変化は無い。少なくとも、毛が抜けて、顔の肉が溶け落ちたりする、そういう兆候は無い―ジョンは普段と変わらない、眠た気で、気怠げな眼をして、僕を見上げている。

(…どうしたら、良いんだろう…)

(信用―して、良いのか?)

(こんな名刺一枚で。簡単に信じて良いのか?身分確認も出来やしない。特に最近は、色々なものに裏切られて来た…)

(見た目だけなら、胡散臭さ満点なんだけど…)

「…確かに、出会った時には、嘘を吐いた。第一印象は最悪だったかな―」

「…」

「―でも、これだけは信じて欲しい。君がこの件に関わったのは、全くの偶然だ。決して俺が、そういう風に仕向けたって訳じゃない―」

(―は、偶然、偶然ね?)

(嫌な響きだ…)

(言い訳されると、余計胡散臭く感じるな―それで、一体何処の誰が、あんたのその『偶然』が本物だと、証明してくれる?)

        『ほォ、偶然、偶然!また偶然ですか、やっぱり偶然ってのは―』

「…あの女は、12年前の事件の被害者だ。当時は存在すら確認されない、弱い自縛霊だったが―それが、別のエッセンスを外部から得る事で、瞬く間に無視できない状態へと変容した―」

「…」

「分かるだろ?王の欠片さ」

 小林は微笑みを緩めて、言う。僕は不承不承、頷く。ジョンが小さく欠伸をする。少しずつ、張り詰めていたものが、解きほぐされていく様な感覚がする。

「―恐らく、君が渦中に巻き込まれたのは、あの大飯喰らいの幽霊の仕業だ―あそこまで自分を強めてくれたものが何なのか、本能的に気付いていたのさ、あの女は。だから、あれだけ正気を失っても、君に関わり続けていたんだ、あいつは」

              『荻野くん、あなた良い香りね。とても良い香り―』

                     『―やっぱりキミ、良い匂いするね』

                    『犬を飼ってるの?今度連れて来てよ』

                      『…返して。それが無いと、私―』

「…あの女は、君の中にあるものを欲しがっていたんだよ」

「―知りませんよ、そんなこと言われても。あの子は消えた。もう、終わったんだ。これ以上、誰も居なくならない」

 僕の言葉に、鼻面を弾かれた様に顔を上げて、小林は僕を見る。それから、うん、そうだ、そうだねと、苦笑を浮かべて何度も頷きながら、柔らかい声音で小林は相槌を繰り返す。

(―何だ?)

(良く分からない。何なんだ、この人?何を考えてる―?)

「それで―事態がこれ以上大きくなる前に、早急に決着をと思ってね―根回しを終え、奴の住処の周囲に結界を張り終えて―それから、さああの大食い霊との勝負だという道中で、この刑事さんに出会ってね」

「…」

「多分、君を尾けてたんだろうな―張り込みしてたのか、偶々、君を見掛けて後を尾けたのか、それは分からないがね。見つけた時は一人だった。そりゃひどいもんだったよ―効き腕を盗られて、腹に穴を開けられ、咽も削られて―所々、空気の漏れる音が聞こえて来るんだ。だから、取り敢えずガムテープで応急処置をして―」

「―そんな事はどうでも良いんです」

「え?」

 小林は口を噤む。僕の目を見て、隣の刑事さんを尋ねる様に見て、それから、未だ話していない何かがあっただろうかと頭の中を探る様に、煙草を咥えて、天井を見上げる。僕は自分の咽を擦る。乾いて張り付いた喉を、声が通る様にする為に、懸命に、外側から擦る。必死に言葉を絞り出す。

「終わった事は、もう、良いんです。聞きたいのは、その後の事だ」

「あ―ああ。安心して、悪い様にはしない。言っただろ?自慢じゃないが、俺ァ約束は守る男さ。君一人に、責任を背負わせる様な事はしない。学校の敷地内に倒れてる、他の連中の事も纏めて面倒見るよ。校舎の修繕費を、何処から捻出するかが一番の問題だけど―君がこれまでと変わらない生活を送って行ける様に、最大限努力する―」

「―そうじゃない、いや、それも気になるけど―」

 小林が不思議そうな顔をして、僕を見る。僕は骨の鎖を握り締め、ジョンを見下ろして、その頭を撫でる。小林が、視界の端で、察した様に頷いた気がする。

 ―それとも、それは僕の願望だろうか。

 ジョンの柔らかい毛に指を絡ませながら、顔を上げずに僕は尋ねる。

「ジョンは―どうなりますか?」

「ああ…」

 小林が嘆息する。僕はギュッと目を瞑る。小林がこれから吐くであろう言葉に対し、ショックを受けない様にとあやふやに覚悟を固める。保健所や、処分と言った単語が漠然と脳内をチラつく。骨の鎖を強く握り締める。鎖が手の中で軋んで、嫌な音の悲鳴を上げる。

 だから―小林が次に言った事は、酷く意外だった。そうなる事を望んでは居ても、そうなる筈が無い、と諦めてしまっていたから。

 …特に最近は、嫌な予感だけが、選んだみたいに的中していたし。

「君と一緒に帰って貰う」

「え?」

「君が今まで通り生きていける様に、最大限努力する―約束したろう?」

 目を開ける。信じられない想いで、小林を見る。小林は煙草を口から放して、優し気に微笑んでいる。初めてその微笑みを、信じて良いのかもしれない、という気分になる。信じたいという思いと、猜疑心が胸に同居する。

 信じても良いのだろうか。

 望む度、裏切られて来た。

 でも、今度こそ、本当に、本当の本当に、信じても―。

 悪夢は終わりだと。

 夢から―覚める、時が来たんだ、と。

(僕が藻掻けば藻掻くだけ…)

 小林は笑っている。その表情が豹変したり、背後から赤黒い腕が伸びて来て僕を押し潰したり、懐から『ドッキリ大成功!』の看板を突然取り出して、僕の鼻先で、それをチラつかせる様子は無い。ジョンは落ち着いている。吸血鬼兄妹は、事の推移を見守っている。終わりが来たんだ、と思う。終わりが来た、んだろうか?半信半疑のまま、体の力が抜けていく。

(あ、これ―)

(クソ―)

(ヤバい―頭が)

 ―突然、標高の高い所へ放り出されたみたいな感覚を覚える。酸素が足りなくなる。意識が朦朧とする。目の奥がチカチカする。頭の中から血液の流れが消え失せてしまった様な気がする。掌がジョンの毛の上を滑る。そんな積りも無いのに、膝がくの字に折れる。地面に崩れそうになったところを、目の前に立っていた狐目の刑事が慌てて駆け寄って来て、残っていた左腕を僕の脇の下に差し込んで、助けてくれる。目の奥がチカチカすると共に、視界が段々と暗く染まって行く。息が出来ない。肺の底に、穴が開いてしまった様だ、と思う。

 声が聞こえる。

 真っ暗闇の中で―声だけが。

「…そろそろ、放してあげてくれるかい?」

「…?」

「…ああ、あなたの事じゃないよ、刑事さん―こっちの話さ」

「…」

「…見なよ。この子、血が出てる―あんたが繋いでいる所為だ。そろそろ、この子を放してあげないと…この子、死んじまうよ」

「…」

「もう大丈夫だよ」

「…」

「約束したろ?」

「…」

「この子が今まで通り生きていける様に、最大限努力する」

                                 ―じゃら。

                            ―から、からから…。

 何かが砕けて、引き摺られていく様な音がする。手首が軽くなる。少しだけ、呼吸が楽になった様な気がする。沈んでしまいそうな意識を何とか繋ぎ止めて、必死に瞼を開ける。

                                  ―から。

 ―僕はそれを見る。

 僕は刑事さんの腕の中に居る。狐目の刑事はその細い瞳を、嫌悪と畏怖に染めて、見開いている。僕は自分の左手首を見下ろす。手首には血がべっとりと付いているが、何処にも傷跡は見当たらない。まるで最初から、何も無かったかのように。カラカラと音がして、そちらを見る。骨の鎖が、逃げていく蛇のように、その尻尾を少しずつ崩壊させながら、からから、じゃらじゃらと、ジョンの方へ這い進んでいく。僕はジョンを見る。

 ジョンは小林と向かい合っている。ジョンの頭はあの時のように、毛と肉が崩れて、頭蓋骨が剥き出しになっている。僕とジョンを繋いでいた骨の鎖が、掃除機のコンセントを巻き戻すみたいにからからと、ジョンの首筋に吸い込まれていく。小林はジョンの前に跪き、その骨の頬を優しく撫で、笑って、言う。

「―おかえり、骨の王」

 そこで僕の意識は途切れる。スイッチを切る様に。







 後日譚。

「―ああ、あんた、良かった、無事だったかい?」

 見知らぬ病室で眼が覚める。どうやら、個室みたいだ、と思う。左手奥に、L字型に通路の伸びている病室で、そちら側が多分出入り口なのだろう、かちゃかちゃ、がちゃがちゃと、遠くで忙しく何かが行き交う音だけが聞こえる。頭の中で脳味噌が柔らかく突っ張って、暫くの間何も考える事が出来ず、ただボーっとしている。個室の右手には、窓がある。窓は開いている様で、そこから夏の匂いのする、暖かく湿った風が吹き込んで来て、優しくカーテンを揺らす。僕は窓の外へ目を向ける。窓の外には見知らぬ風景が広がっている。川と、観覧者と、遥か遠方で山彦のように響く、車のクラクションの音。僕は少しだけ、目を閉じてその音に耳を傾ける。その平和な日常の雑音に、もう安心しても良いんだと、ぼやりと実感する。

 ―漸く悪夢は、終わったんだと。

「ドジだねぇ、あんたは。ああ、ホント、ドジだ。全く、一体誰に似たんだか。トラックの前に飛び出したんだって?今度からは自分の足の速さと相談して、そういう事をするんだね。あんたの足は父さんに似て、のんびり屋なんだから―」

 ベッドの両サイドには、右手に小さな飾り棚と、移動用の点滴棒、左手側には冷蔵庫が置かれていて、その冷蔵庫のある側に、母さんがこちらに身を乗り出す様にして座っている。僕は、状況が呑み込めずに何度も瞬きをする。自分の様子を見下ろす。右腕には、血管に点滴針が突き刺さっていて、左腕は丸太の様に、ギプスで何重にも、グルグルに固められている。

 …まるで重病人みたいだな、と思う。

(―どういうことだろ。何だ、このギプス。トラック…?)

 僕は、右手を持ち上げて、自分の頬に触れる―指先に、乾いた硬い、包帯の感触を感じる。どうやら、顔の周りにも、ガチガチにギプスが巻かれているらしい。苦笑しようとして、頬の筋肉が動かない事に気付く。相当厳重に、封をされているみたいだ。不自由さに、僅かに苛立ちを覚える。入院?冗談じゃない。点滴だって、必要無い。僕はこんなに、元気なのに―。

「―安静にしときなよ。あんた、二日も寝てたんだからさ」

 僕は驚いて、母さんを見る。僕の目を見た母さんが、疲れた様な表情のまま、思わず、といった感じに吹き出す。身体を震わせて、くつくつと笑う。僕はそれを、茫然と眺めている。何だかそれを、懐かしいと思う。

「ま、その様子なら、大丈夫そうだけど―なんたって、あんたはあたしの子だからね。あんたのしぶとさはあたし譲りさ」

 ―笑う。母さんは、笑う。僕は不満を示す様に、ギプスの間から勢いよく空気を押し出す。ぴぃぴぃと、空気がギプスの合間から、口笛の様な音を立てる。母さんは、笑いながら目元を拭う。

 …そして不意に、真面目な顔になって、母さんは顔を上げる。

 僕は、その眼に向かい合う事が出来なくて―僅かに視線を、下に逸らす。

「…あんま、心配掛けるんじゃないよ」

                                  ―ぴー。

「無茶するな、とは言わないけど…もう、あたしにゃ家族は、あんたしか居ないんだからさ。危ない事は止めておくれ。少しでも怖いと思ったら、逃げ帰って来ておくれ」

                                 ―…ぴー。

「分かってんなら良いさ。じゃあな、また来るよ」

 そう言うと、母さんは僕のギプスで守られた頬を小突いて、鷹揚に手を振って、行ってしまう。

 僕はベッドに寝転がって、また目を閉じる。頭の中で、母さんの言葉を反芻する。

                    『…あんま、心配掛けるんじゃないよ』

                                 『無茶するな、とは言わないけど…もう、あたしにゃ家族は、あんたしか居ないんだからさ』

            『危ない事は止めておくれ。少しでも怖いと思ったら―』

(…ごめん、母さん)

(やっぱり、相談するべきだったのかな。例え、手に負えないと、分かっていたとしても―)

(―でも、もう終わったよ。何もかも、もう終わったんだ―)


「―ハッハッハ、やあ、目が覚めたかい、寝ぼすけ君?それじゃ、定期診療を始めようか」

 母さんが出ていって、1時間か、2時間後。病室に、一人の男が入って来る。真っ白な白衣を羽織っている以外は、何処と無く、だらしない感じのする男だ。天然パーマに、頑固な寝癖まで組み合わさったロングヘア、首周りに乱雑に掛けられた聴診器具、胸ポケットには3色ボールペンが4本、5本、足元は何故か便所サンダル。胡散臭さでは小林某といい勝負だ、と思う。男は片手に銀色のトレイを掲げて立っている。

「意識ははっきりしてるかい?身体に、何処か痛みは?自分の名前は思い出せる―?」

 男は、そう言いながら、銀色のトレイを冷蔵庫の上に乗せる。トレイの中には、ピンセットと、何か、肌色の、薄い生ハムの様なものや、細切れのソーセージみたいなものが沢山入っている。僕は男と、銀色の、トレイの中身を見比べる。少し、気味が悪くなる。どう見ても、トレイは食器用の皿には見えないし、ピンセットは食事用の道具には見えない。それに、トレイの中身は到底調理されている様には見えない。ランチにしては酷く重たい内容だ。肉類一色、白米も副菜も見当たらない。

 ―一体、この男は、何しにここに来たんだろう、と思う。

「いや、一応精密検査は終えたんだけどね。でも、こういうのはやっぱり、本人に聞くのが一番だというか。自分の体の事が一番良く分かっているのは、いつだって自分だからね。だから、何かしら自覚症状があるんなら、どうか遠慮無く―」

 男は喋り続ける。途切れることなく、喋り続けながら―腰のベルトから、工作用の鑿と、ハンマーを取り出す。

 僕はそれを見る。

 ギプスの内側で―顔が恐怖に歪むのを、自覚する。

(ああ…)

 男が、鑿とハンマーを構えながら、僕の方ににじり寄って来る。

「―ああ、動かないで。こういうのは初めてなんだ。どうも、加減が良く分からない―」

 ―僕は歯を食い縛って目を瞑る。遠くの方で、車のクラクションが遠雷の様に重なって鳴り響いている。

(まただ。今度こそ終わりだと思ったのに。夢から覚めたと思ったのに―)

(夢から覚めても―又、夢の中だ)

 自分が情けなくなって、涙と笑いが同時に込み上げて来る。悪夢は終わったと思ったのに。夢の中で目を覚ましたと思ったら、又新しい夢の続きに放り込まれた気分だ―今度は病院の中に潜り込んで来た、白衣を纏った殺人鬼の出て来るサイコ・スプラッタ・ホラー。どうして僕はこんな風なんだろう、と惨めな気分で僕は考える。どうして僕はこんな風になるんだろう。やっぱり何もかも、僕が悪いんだろうか。

                             『…違和感の塊―』

                                  ―かん。

                            ―かん、がん、がん。

(…?)

                                 ―ばかん。

 何かが景気良く割れる様な音が直ぐ側で聞こえる。僕は目を開ける。左手が不意に自由になった様な感覚を覚えて、そちらへ目を向けると、そこには綺麗に、真っ二つに割れたギプスと、指先や掌の上部がボロボロに欠けた、懐かしの僕の左手が露わになって居るのが見える。明るい所で改めてみると、如何にも痛々しい。

(?)

(これ―?)

 男へ目を向ける。

 男はハンマーと鑿を、銀色のトレイの隣へ置き―如何にも一仕事終えたという様に、草臥れた様に手首を振りながら、大袈裟な溜息を吐いている。(「おお、痛ぇ…」「指先が痺れる…」「こういう、大雑把な仕事は、僕の繊細な指先には向いてないんだよな…」)散々独り言を一通り呻いた後、男は、僕の視線に気付いたみたいで、へにゃりとした笑顔を唇に乗せ、気を取り直した様に僕に笑い掛ける。

「ご免―その、随分、待たせたね。さて、それじゃ、そろそろ修復作業を始めようか」

 僕は上手く事態を飲み込めずに、男の顔を無言で見つめ返す。

 すると、男は忘れ物を思い出した様に、明後日の方向へ視線を持ち上げて―何処か言い訳する様に、困った様に、僕に尋ねる。

「あー…もしかして、アガタから、何も聞いてない?」

(アガタ…)

(…小林、縣?)

「―だよね。そりゃそうか。忘れてたよ、そういや今朝まで気絶してたんだもんな―」

 男はモタモタと首周りを手探り、赤い首紐の付いた名札を、胸ポケットから苦労して引っ張り出す。男がそれを、僕の方へ向ける。差し出されるままに、僕は僅かに身を傾けて、その名札を覗き込む。名札の中身を見る直前、あの小林の、意味の無い悪戯を思い出して顔を顰める。

       『…いいね、しっかりそいつを持ってるんだぞ?絶対、離すなよ―』

【医療法人 千境会/所属医療スタッフ/外科・総合内科/柊辰巳】

「…ドクター柊と呼んでくれたまえ。あ、因みに千境会というのは、超対部ウチのフロント部署の事さ。いや、フロント医局ってとこかな―?」

 僕は戸惑ったまま、男の―ドクター柊の話を聞いている。柊さんは僕の戸惑いを察したみたいに、再びハンマーと鑿を持ち上げて、苦笑する。

「ま、話は追々ね。先ずは、そのギプスをさっさと剥がして、君の素顔を曝け出すとしよう。そのままじゃ、碌に話も出来ないだろう?」

「…」

「安心して。時間はたっぷりある。僕が君の疑問に、全て答えられるとは限らないけれど―」

「…」

「話せる事は話すさ。約束するよ」


「―これはあの日分かたれた、君の一部だ」

 男は―ドクターは銀色のトレイを膝の上に寄せ、一部をピンセットで抓み上げながら、言う。僕はギプスから解放された口元で大きく息を吸いながら、ドクターの話を無言で否定する。ドクターはピンセットで持ち上げた肌色の肉片を、何処か恍惚とした視線で眺めながら、楽しそうに唇を綻ばせる。

「“彼女”に喰われた、君の一部だよ」

「…そうですか」

「素晴らしいとは思わない?嘗ては只の幽霊に過ぎなかった“彼女”が、たった一欠片の“王”に依って、こうも変貌してしまうなんて」

「…」

「いや全く、素晴らしい出来栄えだ―“彼女”は、欠片を吸収する事で、自分の周囲を取り巻く環境との境界を失ったんだ」

「…境界…?」

「そうさ。物理的にしろ、精神的にしろ、我々の周りには、それを取り巻く膨大な『線』がある―境界線だ。他人の手足は自分の思う通りには動かないものだし、どれだけ近しい人でも、頭の中で考えている事が、何もかも分かる訳じゃない。岩やコンクリートは固くて通り抜けられないし、刃物に触れれば、こちらの皮膚が容易く切り裂かれるだろう」

「…」

「あらゆるものには、線がある―それはある意味、必要な線だ。何もかもが体を擦り抜けるなら、道路や屋根、もしかしたら、食事すらも必要無いかもしれない。障害物が無いのなら、道を整備する必要は無いし、風雨が体を擦り抜けるなら、それを凌ぐ場所を作る必要もない。それに、他者の考えている事が、もしも余すところなく分かるのなら―それはもう、同じ個体と言っても差支えないかもね。そうなりゃ、他者との交流さえ、その種には必要無い。子孫を残す必要すらも」

「…何故です?」

「完璧だからさ」

 ドクターはにやりと笑い、ピンセットの先に抓んだ肉片を、僕の左手の小指の先にちょこんと乗せる。僕は掌を開いたまま、どうして良いか分からずに困惑する。指の先に確かに乗っているのに、そのピンクの肉片が僕に触れている感覚は全く無い。ドクターはピンセットの先で肉片を突いて、僕の小指の上でそれをのそのそと回転させる。思わず、こそばゆくて、笑い出しそうになる。ティッシュで鼻先を擽られるみたいな感覚だ。ドクターのピンセットを思いっ切り跳ね飛ばしたい衝動を抑えて、僕は必死に、込み上げる笑いを我慢する。

「一個体で完璧なら―種族を後世に保存する必要もない。何故なら、ある意味それが、全ての生物の究極目標だからね。それ一体だけで、共同体コミュニティであり、社会ソサエティであり、そして個人である事が出来るなら―他の何を必要とする事も無い。もしその種が、危機感を覚えて子孫繁栄の努力をしたとしても、やがて生まれて来るものは、また次の己というだけだ。同じ個体は、何も新しいものを齎さない。繁殖行動は業務的になり、ゆくゆくは必要数を維持するだけの行為に留まるだろう。つまりは、絶対数の衰退だね―一個体で完璧なのに、完璧が故に、種族としては、何も発展せずに、衰退していく。あのまま“彼女”が成長していれば、中々面白い事例になっただろうに―」

「あー…何が言いたいか、良く分かんねぇです。つまり―?」

「ああ、ご免、話が逸れたね―」

 ドクターは苦笑しながら、ピンセットで僕の小指をギュッと上から抑え付ける。小指の先に圧迫感を覚え、僕は顔を顰める。ドクターはそんな僕の表情を見て満足そうに頷くと、ピンセットの先を指から放して、ほら、動かしてごらん、と言う。

(…楽しそうな顔、してんなぁ…)

(所詮、人事だもんな。僕も、これが自分の欠片じゃ無かったら、もっと気楽に構えて居られるんだろうけど…)

 言われるままに、指を動かす。束の間、嫌な予感が胸の内を過ぎるが、ドクターが乗せたピンクの肉片は、あの日見たジョンのお腹やカミラの両足の様に、問題無く僕の小指の先にくっ付いてくれる。途端に、思っていたよりも盛大に、安堵の波が自分の内側にどっと押し寄せて来る。どうやら自分で考えていたよりずっと、もっと深刻に考えていたみたいだ。自分の指先に戻った小指の指紋を見て、不覚にも、僕は泣き出しそうになる。

(…良かった…)

(くっ付いた)

(良かった。くっ付いた。元通りだ…)

 僕は右手で目元を覆う。ドクターは僕の様子にお構いなしに、新しい肉片を抓んで、鼻歌交じりにそれを僕の指先に乗せる。

「“彼女”は境界を失った」

「…」

「“彼女”は触れた物を自分の一部にする事にしたんだ。“彼女”に触れられたものは、境界を奪われる。つまり、“彼女”は入り口になった訳だ」

「い―りぐち、ですか…?」

「そうだよ。“彼女”は喰ったものを、異相空間に溜め込んでいた。胃袋の様なものさ。その中に、沢山の“彼女”達をね―。“彼女”は最早、入り口であり、門であり、境界の外の物を食す、取捨選択の為の口に過ぎなかった。“彼女”がそう望んだのか―それとも、胃袋の中の沢山の“彼女”達がそれを望んだのか、今となってはもう分からないがね。けれども“彼女”がそうやって、食事を行い続けた結果―次第に“彼女”は、その純度を失い始めていった」

「…純度?」

「“彼女”としての純度さ。つまりは、意志だよ」

「イシ―?」

 ドクターが、僕の薬指に乗せていた肉片を、中指へと移し替えながら、言う。

(…どうやら場所を間違えていたらしい)

(まぁ、殆ど形、違わないからなぁ。どう見ても、細切れにしたソーセージって感じだし…)

「言うなれば、“篠原和澄”としての意志だね。彼女が核だったんだ、最初は彼女としての意志があった筈だよ―」

「…」

「―でも、それが、人を喰う毎に、他人を喰う毎に。まぁ、ある意味当然だけどね。他人の意識が自分にくっ付いて、自分と混ざり合うんだ。二種類のジュースを混ぜる様なもんさ。どう考えたって、元の形を保てるわけが無い」

(…)

(…何処かで聞いた様な話だ)

(―王の欠片。あの日、“彼女”のものを、僕が呑み込んだ。僕もおかしくなってしまうんだろうか?それとももう、とっくにおかしくなってしまってる…?)

(…“彼女”…)

(最初にあった時は、“彼女”は別に普通に見えた。少なくとも、受け答えは普通だったと思う)

(最後の時も)

(…)

(あれが本当の彼女だったんだろうか?返して、と言っていた。王の欠片を。あんなに正気を失ってまで、彼女は何を欲していたんだろうか?)

              『―ああ、なのに、どうしてあの人がみえないの?』

「―ま、何はともあれ、“彼女”は消えたんだ。“彼女”はもう、それ程重要な存在と言う訳ではない。重要なのは、どちらかというと、その能力の方だね。いや、実を言うと、僕は最初、その話をしに来たんだよ」

「…?」

「“彼女”は境界を失わせる」

「はぁ…」

「―ところが、胃袋の中身を吐き出して、“彼女”は消滅した」

「はぁ」

「正直、回収要請を受けて、頭を抱えたよ―こんなもの、一体どうしたら良いんだ、とね。こんな相手は初めてだった。境界を失わせて、切断面から出血も無しに、相手の一部を奪う。もし体のパーツを何かしら奪われたとしても、別に死ぬわけじゃない。身体とパーツが別々の場所で生きている事になる訳だ。聞いた事も無い事例だよ―身体からパーツが失われても、そのパーツは、別の場所で、別個体として生きているんだ。“彼女”としてね。結果、体の方からパーツは失われるが、特に体の方が傷付いたり、死んだりするわけじゃない―ある意味、繋がった状態のままなんだよ。奪われたのに、途切れた訳じゃない。失ったのに、身体的にフィードバックがある訳でも無い」

「はい…」

 僕は気のない相槌を打ちながら、ドクターの手元をぼんやり見守る。ドクターは僕の中指に乗せていた肉片を、今度は左手の人差し指に移す。どうやら漸くしっくり来たようで、僕の指紋をくるくる回しながら、ドクターは嬉しそうに小さく声を上げる。

「ああ、そういえば―“彼女”に喰われていた他の人達は無事だよ」

「え?」

「皆、無事だ―今朝がた、最後の一人が退院したよ。安心したかい?倒れていた人達の中には、君の知り合いも居たかもしれないね―や、もしかしたら、君があの夜、あの場所に行ったのは、それが動機だったかな?」

「あ…ああ、いえ、別に、そんな事―」

「―彼らを検査していて、面白い事が分かったよ」

 ドクターは新しい肉片を抓み上げながら、口元を緩ませて、言う。

「…彼らは、ああ、正確には、“彼女”の死亡時、胃袋の中に居た一団だな―吐き出されてから暫くの間、“彼女”の因子を持っていたんだ」

「へ?」

「彼らは、自分の境界を取り戻し、個人としての形を取り戻すと同時に―少しの間だけ“彼女”の性質を保っていたんだ、驚くべき事にね」

 ドクターは肉片を僕の中指に乗せる。僕は話の行き先が分からず、数学の授業を聞き流す様な気分でドクターの言葉の先を待つ。ドクターは相変わらず楽しそうに笑っている。中指に空いた窪みに肉片がピタリと収まる。ドクターが控えめな口笛を吹く。

「…凄いと思わないかい?いや、生命の神秘かもしれないね。核に危険が訪れた時、他の部分にまで危険が分散しない様に、最後に核が因子を全個体に残して消失する。所謂セーフティネットと言う訳だ。もしそれで、その個体の内の一つが、首尾良く王の欠片を、再び手に入れられたなら―」

「…あの、すいません。結局、何が言いたいんです?」

「―最も恐れていた、最悪の事態だけは回避できた、と言う事だよ」

「はい…?」

「君は考えなかったかい?もし、“彼女”が死んで―」

「はぁ…」

「―その瞬間、“彼女”との繋がりが、“彼女”の胃袋の内側の、全個体と断たれたら」

「は―」

 ―僕はドクターを見る。

 まじまじと見る。

 ドクターは新しい肉片をピンセットで抓み―顔を上げて、僕の目を見る。

 目が合うと―ドクターは微笑みを浮かべたまま、遠慮がちに、少し顎を引く。

 僕は覆い被さる様に、ドクターの持つ銀色のトレイの中身を見る。

 トレイの中には、肌色の薄い生ハムの様なものや、細切れのソーセージみたいなものが、沢山入っていて―。

「―その瞬間、千切れた個体はどうなるか?“彼女”に一部分を奪われた人や、バラバラに分けられて喰われた人間が、境界線を取り戻して―」

「…首は?」

「―その瞬間、現実を取り戻した境界面から、一斉に出血し始めたりしたら―え?今、何て?」

「首ですよ。僕の首。今、何処にあるんです?」

 ―銀色のトレイの中にあるのは、生ハムや、細切れにした様なソーセージサイズの物だけだ。“彼女”に押し潰されて、抉り出された様な、僕の首を塞ぐ事が出来る様な大きさの肉片は、何処にも無い。

                                 『彼女の掌が僕の首を撫でる。途端に巨大なハンマーで喉元を押し潰される様な感覚がして―』

「あ―ああ、大丈夫、大丈夫。うん、ちゃんと見つけたから」

「…何が大丈夫なんです?」

「今、君の首を補填している、王の欠片と拒否反応を起こさない方法を模索中で―」

「…喰われた人達が、“彼女”の因子を持っていたのは暫くの間だって言ってましたね。暫くって、どれ位です?」

「あ?うん、暫くは、暫くさ―その、早い人だと、4時間位かな。全身を保持している人だと、それぐらい。大きい個体ほど、因子の消失が早かったんだ。でも大丈夫、君の指、未だくっ付くだろ?」

「首は?」

「大丈夫、因子の消失を最初に確認してから、直ぐに冷蔵庫で冷やしたから。因子が消えていないのも確認済みで―」

「首」

「まぁ、少し、状態は悪くなっちゃったかもだけど―」

「いいから、首を」

「…怒らないで、聞いてくれる?」

「子供かアンタは…」

 僕は溜息と共に、深々とベッドに沈み込む。ドクターは疲労交じりの苦笑を浮かべ(どうやら、この人はこの人なりに、色々な苦労があったみたいだ)、ポケットから白い手袋を取り出して、それを身に着ける。それから、冷蔵庫から―僕の左手にある、ベッドサイドの冷蔵庫から、氷と水が沢山入った透明の硝子のケースを取り出す。ドクターは冷蔵庫の上にそれを置き、白い手袋を嵌めたまま、そのケースの蓋を開け―中から、ビニール袋に入った、蒲鉾の成り損ないみたいな形の、肌色と筋繊維のグロテスクな塊を掴み出す。

(わ…)

「―ご免ね、こうして保管しておかないと、少し危険でね。大きい固体ほど、周囲のものを無差別に良く喰うんだ。しかも“彼女”の因子は受け継いでいても、“彼女”から力のコントロールを学んだ訳じゃないから、余計性質が悪い。何を食べるのかも、完全にランダムでね。“彼女”の被害者達も、因子の消失が確認されるまでは、隔離処置を行うしか無かったよ。最初の因子消失が確認されてからも、それから10時間以上、完全に軟禁状態で。可哀想に、彼らは酷く怯えていて―」

「…ちゃんとくっ付くんです、それ?」

「多分。ま、少しは、痕が残るかもしれないけど―」

「…端っこのとこ、完全に青紫になってるんですけど」

「まぁまぁ、気にしない、細かい所は。内出血の色と、大体同じじゃないか。これでも一応、最善は尽くしたんだよ?検体として欲しがる上と格闘し、因子の消失を疑う現場を、緩やかな監視という条件で説得し―」

「…それは、まぁ、ありがとうございます。お手数をお掛けしまして…」

「―これを今直ぐ標本にしてしまいたい、という自分の良心とも闘って―」

「おい」

「―この場所に運び込んだのは、数時間前さ。さぁそれを装着、という段階になって、君の母上の再度の来訪なんかもあったりもしてね。因子の消失まで猶予も未だありそうだったし、そう何度も、意識不明の息子さんへの、面会を断るわけにもいかず―」

「…まぁ、それは…」

「―幸い、ビニール製品は食べない、と言う事は判明していたからね。取り敢えずビニールで君の首を覆って、冷蔵保存、という形に落ち着いたよ。まぁ因子が完全に残っているなら冷やす必要も無かったかもしれないがね、一応、念の為。まぁ、保険行動が役に立って良かったよ。因子、消えかけてるもんねこれ、どう見ても」

「…本人を目の前にして言います、それ…?」

「さ、それじゃ早速、取り付けようか?」

「え?い、今からですか?心の準備が―」

「ところで、君が無くしたのって、首のどの部分?」

「…アンタ、ホントにドクターなんですか?」

「まぁ、ドクターはドクターだけどね。どっちかと言うと、博士の方さ。僕ァ研究畑なんだ―」

「…急に不安になって来たな。本当に大丈夫なんですよね、それ。あ、冷たい、それ、凄い冷たい―」

「大丈夫、大丈夫。一応、医師免許も持ってるからさ。ところで君の首、噛みついたりしないよね?」

「…僕を何だと思ってるんです?」

「いや、君じゃなくて、王の欠片がさ―」







(…行きたくねぇ…)

 6月21日、金曜日。7時40分。天気は晴れ。

(頭が痛い気がする。お腹が痛い気がする。吐き気がする気がする)

 ―あれから、身体を修復して貰って(『なんか、プラモを組み上げてるみたいだな』―とは、ドクター柊の談だ)、病院を追い出される様に後にして、タクシーで家まで送って貰って。

 母さんの手料理を食べて。何時の間にか眠りについて。

 目が覚めたのは、7時過ぎだ。母さんに追い立てられるように飛び起きて、慌ただしく準備を済ませて―。

 鏡の前で歯磨きをしている今の段階になって、何も事情が好転していない事に、漸く気付く。

(…足が痛い気がする。腕がダルい気がする。熱がある気がする…)

 事情。世間での事情だ―学校での事情、と言い変えても良いかもしれない。あの狐目の刑事はもう、僕が犯人じゃ無いという事ぐらい分かっては居るだろう。あの日、あの人だって、僕と同じものを見た筈だ。特に喋ったりはしなかったが、“彼女”に右腕を奪られていたみたいだし、腹部に大穴だって開けられていたんだから。あの人はもう、僕を犯人扱いしたりはしないだろう―けれども、それはあの人の中だけの変化だ。あの人が僕を犯人扱いという部分は変わらない。そしてそれが警察の方針だったなら、つまりは、世間での僕に対する評価は何も変わらない、と言う事だ。

(嫌な夢を見た気がする。今日は良く無い事が起きる気がする。寿命が残り少ない気がする…)

    『―君がこれまでと変わらない生活を送って行ける様に、最大限努力する』

 考えれば考える程、そんな魔法はありえない、と思う。それこそ、魔法でも使わなければ。一体どんな魔法だよ、と鏡の前で冷笑する。僕が顔を歪めるのに合わせて、首の真ん中を引き裂く様に走る、青紫の痣が綱引きの縄みたいにピン、と伸びる。僕はそれを指先で軽く撫でる。皮が少し薄くなっているみたいで、微かに触れるだけでも、猛烈にむず痒く感じる。

(…ま、それでも、感覚が全く無いよりマシか…)

「ユースケ、あんた、何時まで歯ぁ磨いてんの―!」

「もう終わるよ」

「さっさとしな!そろそろ、出る時間だよ―!」

 苦笑する。母さんの怒号を、呆れるほど懐かしい、と感じる。帰って来たんだ、と実感する。

 …数日前の、“彼女”を探して奔走していた頃の、無茶苦茶になった、僕の学園生活に。

「…母さん、今日休んじゃ駄目?」

「駄目だね」

「どうして?」

「何故かって?今日が平日で、あんたが健康で、あたしが休みじゃないからさ。ほら、もう準備しな」




『皆さん、静かに、静かにして―』

「なあ、オギやん、オギやんやん」

『―静かに、はい、静かに、静粛に―この前も注意したばかりですよ、恥ずかしくないんですか?今年受験だという人も居る筈でしょう、皆さん、もう少し、高校生という自覚を持って―では、これより、6月21日の全校朝礼を―』

「…人の名前を無尽蔵に改編するなよ。何?何だよ、どうした?」

「今日、どうして全校朝礼なんだろうな?先週位にもうやったのに。大体いつも月一なのに、なんで今月だけ、2回目?」

「…知らないよ。やったかやってないか、忘れちゃったんじゃないか?ほら、良く在るだろ、そういう事。晩飯何喰ったか忘れるみたいなもんだよ」

「成程。因みに、オギやんは何喰ったの?」

「…そりゃアレだよ、アレ。あの、白い、炊いた穀類を、茶碗にアレしたものを…」

「―カシ、煩い」

 校庭。

 僕はこういう集会がある度の常通りに、後ろから話しかけて来る柏木の言葉を聞き流して、前を向いている。今日の最高気温は32度だと、冷房の効いた室内で天気予報士がうんざりした様に言っていたのを思い出す。真夏並みの陽光が僕の首筋を容赦なくジリジリと焼く。治り切っていない薄皮の部位が、他の部分よりも先に、音を上げる様に、傷む。

「―しかし、オギやん、ここ、首のこの辺り、どしたん?」

「…え?そりゃ、アレだよ、アレ…触るな」

「カシ」

「あ?何だよ、親友の様子を心配しちゃ、いけねぇのかよ?」

「いや、そうじゃなくて―アンタ、知らないの?」

「は?知らないって、何を?」

「何?」

「…何で荻まで知らないのよ?」

『―分かりますか?要は、自覚です。あなた方には、きちんと自覚をして頂きたい。漫然と歳を重ねるのではなく、一歩一歩、大人に近付いていっているのだという事を、きちんと自覚をし、受け止めて…』

「だからぁ、何をだよ?」

「…別に、只の噂よ。ここ最近、荻、入院してたでしょ?それが、あの東棟がブッ壊れた件に関わってるって噂が…」

「―待って。オレ、噂になってんの?」

「…だから、何でそれ荻が聞くのよ…」

「良い噂、悪い噂?」

「良い噂だね」

「…何でそんなに自信満々なの、カシ?」

「俺が知らないから」

「…なんか、不覚にもちょっと納得してしまった」

「腹立つわね…」

『…しかし、再三の注意にも拘らず、未だ東棟の跡地に出入りしている生徒がいる様です。嘆かわしい事です。あなた達は、もう子供ではありません。危険な事は危険、駄目な事は駄目だと判断し、自分で取捨選択が出来る年齢だ、と先生は信じています。良いですか?東棟跡地は立ち入り禁止です。注意するのはこれが最後です。次、跡地に侵入している者を発見した場合、警告無しに一週間の停学処分に処します。大丈夫ですね?後10日程で工事の業者が敷地内に入ります。テスト期間が終わり次第です。それまでどうか、あのロープを越えない様に。分別ある行動を―』

「…てか、荻、あの日、校舎に居たんでしょ?」

「うん?あー…、まぁ…、うん…」

「何その歯切れの悪い返事…」

「ウチの叔父さんの尿切れみたいだな」

「品の無い例えは止めて」

(実際…どういうことになってるんだろう?)

(朝のニュースでは特に、何も言ってなかった。続報が途切れて、世間の興味が移り変わってしまったって所だろうか?学校では、下駄箱に、新しい上履きが入っていたけれど―これは、小林さんが入れてくれたんだろうか?教室では、何を考える暇も無く、全校集会に駆りだされたし―)

           『―君がこれまでと変わらない生活を送って行ける様に…』

(…何かしたんだろうか、あの人?何かしてくれたんだろうか?僕の立ち位置はどうなっている?希望を持っても良いんだろうか?何もかも…もしかして、何もかも、元通りに)

(…)

『―はい、それでは、校長先生、ありがとうございました。では、連絡事項です。校長が先程仰った通り、崩れた東棟、並びにプールは以後も立ち入り禁止です。皆さん、必ずそれを守って下さい。今後、あのロープを生徒が越える所を教師が目撃した場合、警告無しに一週間の停学処分にします。これがどれだけ重い処罰か、皆さんちゃんと分かっていますね?こちらとしても、この処置は本意ではありません。最後まで反対していた先生も居た位です。しかし、それほどまでに、皆さんが決してそうだという訳ではありませんが、一部の生徒たちの行動が、目に余る状態だったという事です。良いでしょうか?工事の業者の入りは、テスト期間の終わり、7月4日の午後を予定して―』

(なんて…有り得ないか)

(何もかも変わってしまった)

(僕はこれから、どうするべきだろう?僕は、これから―何をすべき?)

(約束…)

『―では、続いて、表彰に移りたいと思います―』

(…少なくとも、果たすべき約束が、未だふたつ残ってる)

(そういや、相原は、どうしてるんだろうか?)

(一応、みんな無事だった、とは聞いているけれど―)

『―県警から感謝状が届いています。では、2年3組、荻野祐輔くん、前へ』

 僕は首を伸ばして、自分のクラスの列の、前の方を覗き込む。クラスの列の先頭に、相原の、傷んだ木の床みたいな、薄い茶髪が目に留まる。相原が、僕の視線に気が付いた様に、ゆっくりとこっちを振り返る。僕はほっ、と溜息を吐く。どうやら、ドクターの言っていた事に嘘は無かったらしい。僕は相原に見つかる前に首を引っ込めて、炎天下から首の薄皮を守る様に、首の後ろを両手で覆う。

(―良かった、元気そうだ)

(後は、約束、約束だな―)

(王の欠片探しと―柏木とのデートのセッティング)

(どっちも嫌だけど…精神的には後者の方がキツいかな。デートって何だろう。哲学かな…?)

 ―柏木に肩を突かれる。僕は驚いて柏木を振り返る。周囲はいつの間にか、しんと静まり返っている。訳が分からなさに、居心地が悪くなる。周りの静けさに、少しの間だけ、あの日の事を思い出す。“彼女”と、夜の校舎と、あの日の静かさを。降る様な蒸し暑さなのに、身体の内側に底冷えする様な冷たさを感じる。周囲の視線が自分に集まっている様な気がする。自意識過剰だ、と自分に言い聞かせる。気にしない振りをして、柏木に言う。

「…何だよ?朝礼中だぞ、ちゃんと先生の話、聞いてろよ」

「呼んでるよ」

「は?」

「―呼んでんぞ、荻」

「い?」

 ―背中を押される。よろける様に、僕は列から食み出る。周囲の目が、自分に集まっている。今度は気の所為じゃない、と思う。僕は震える指先で、頬を掻く。朝礼台の上に立った先生が、僕を見て、呆れた様に、もう一度名前を呼ぶ。

 他人の名前の様に―僕の名を。

『―2年3組、荻野祐輔。前へ』

 ―僕は覚束無い足取りで、前へ踏み出す。嫌々、綱で繋がれ、引き摺られているみたいに。顔が、赤くなったり、青くなったりしている様な感じがする。呼吸が儘ならない。咽が乾く。目の前がチカチカする。壇上で先生が催促する様に、再度僕の名前を呼ぶ。

『荻野』

「はぃ」

 蚊の鳴く様な返事をして、全校の列からやっとの思いで抜け出す。途中、相原の隣を擦れ違う時、相原が何とも言えない気不味そうな笑みで僕の背中を押す。僕は転びそうになりながら、朝礼台の下へと歩み出る。先生が、壇上へ上がって来い、と僕に無言で催促する。僕は半ば自棄糞で、朝礼台の上へと駆け上がる。

(…何だ?僕が一体、何をしたって言うんだ?)

(どうなってる?一体何が、どうなって―?)

(…曝し首になるって、こんな気分だろうか)

 先生は、壇上に上がって来た僕を見て満足そうに頷くと、生徒達に向き直って、表彰状を読み上げる。生徒の皆も、嘗てなく真面目に、先生の話を静かに聞いている。勤勉さから来るものでは無く―興味津々、といった顔付きで。

『感謝状。私立千歳学園、2年3組、荻野祐輔殿。あなたは同年6月18日、同校で発生した連続誘拐事件、及び殺人未遂事件に於いて、いち早くそれを察知、通報し、被害の発生を未然に防止されました。そのご協力に深く感謝の意を表し―』

 …吐き気がする。

 僕は引き攣った笑みを浮かべて、出来そこないのマネキンの様に、そこに突っ立っている。ひそひそ、ざわざわという声が大きくなっていく度に、自分の顔が赤くなっていく様に思う。何が起こっているのか、良く分からない。混乱と緊張で、膝がかくかくと震える。自分がつくづく、情けなく感じる。

(誰か助けて)

(何がどうなってる?一体何が、どうなって…?)

(―感謝状?)

(僕が何をしたって言うんだ?僕のした事と言えば…)

 事実を一切合財、スプリンクラーのように壇上でぶちまけたくなる。深呼吸して、僕は唇を噛む。多分、この感謝状は、あの小林某の差し金なんだろう。宣言通り、僕の生活を守る為に、動いてくれたみたいだ。もしかしたら、あの狐目の刑事も一枚噛んでいるのかもしれない。悪評を無かった事には出来ないけれど、せめてあの悪評が嘘だったという公的な発表があれば、評価の帳尻を合わす事くらい出来る筈だから。

    『―君がこれまでと変わらない生活を送って行ける様に、最大限努力する』

                                『最大限…』

 事実をここで叫んでも意味は無い。僕だって、それくらい分かってる。そもそもこれは、僕の我儘が発端になった結果だ。元の、平穏な生活を取り戻したくて―他人を巻き込んで、巻き込んで、巻き込んで―滅茶苦茶にしてしまった。小林さんは、僕と交わらない所で、水面下に動いていた―僕が何もしなくても、小林さんは事態を丸く収めていたかもしれない。もしかすると、僕が何もしなかった方が。

                        『僕が藻掻けば藻掻くだけ…』

 ―これは好意だ、と理解している。

 けれどもどうして、こんな気持ちになるのだろう。

 それは、僕が何もしてこなかったから。何も出来なかった―と、自覚しているから。

 それが、情けなく思える。あの賞状に触れるのを、恥ずかしい、と思う。

(…助けて貰っただけだ)

(助けて貰っただけだ。僕は助けて貰っただけ。助けて貰っただけなんだ…)

『―報道されている通り、犯行は“神の杖”を名乗る宗教団体の仕業だったそうです。彼らはその、この現代に俄かには信じがたい話ですが、生贄―による、忌まわしい儀式に、我が校の生徒が相応しいと考えていたようです。その4件目の犯行に、偶然、ここに居る荻野が遭遇―』

(…二人の吸血鬼の友人と、それから年老いた、我が家の愛犬に)

『―その後、無謀にも彼らの後を尾け―それを見咎められ、トラックに撥ねられて』

(あ、そういう事になってるのか…)

 生徒たちの間に、控えめな笑い声が、細波の様に広がる。『笑い事じゃない、笑い事じゃ』マイクの前で先生が賞状を振って、生徒達を諌める。けれども、こちらを振り返った先生も、口元に柔らかい笑みを浮かべている。

(…アンタも笑ってんじゃん)

『―荻野くん。無事で良かったですがね。感謝状を持って来た人も言っていましたよ?今後、こう言う事をする場合―』

「はい」

『―もう少し慎重に、良く考えて行動して欲しい、と言っていましたよ』

「…次が無い様に祈りたいですけどね」

『全くです』

 先生が賞状を差し出す。束の間、それを真っ二つに引き裂きたい衝動に駆られる。

 …けれども、結局僕は、大人しくそれを受け取る。俯いて、無言でそれを手の中でくるくると丸める。







(疲れた…)

 ―7月7日。日曜日。天気は、晴れ。

 僕は昼下がりの古ぼけたベンチに、へばり付く様にして一人、座っている。

(兎に角疲れた。温泉にでも行きたい。一週間くらい、何もしないで過ごしたい…)

 あれから半月ぐらいたった。あの忌まわしい日々から、僕の根幹を揺るがす様な恐るべき事件から、半月と少し。

 その間にも、色々な出来事があった。

(期末テストに、期末テスト、あと、期末テスト…)

 ―テストの結果は散々だった。一応、休んでいる間の授業内容を、柏木や相原にノートを見せて貰ったり、先生に尋ねに行ったりしたのだが…言わずもがな、柏木は碌なノートを取っておらず(妙に上手い担任・澤のゴリラ風落書きや、窓辺に留まっていた鳩の形態模写が書かれているだけ)、一縷の望みを託して相原に頼み込むも、結果は予想の範疇と言った感じで(妙に色取り取りのペンでカラフルに描かれた駅前の人気クレープ店の名に、箇条書きで書かれたバイト先の候補地、こちらは黒一色)…先生に聞きに行っても―全く、先生ってのは、どうして一枚のプリントに、色んな問題を幾つも詰め込むのがあんなに好きなんだろう?数枚のプリントに濃縮された入院期間中の授業内容はまるで理解出来ず、お陰でテストの答案は、返却を待つまでも無く、ズタボロなのが分かってしまう様な、悲しい出来栄えとなった。テストの残り時間で、絹ごし豆腐並みに真っ白な答案を眺めるのは、正に悪夢と呼んでも差し支えない瞬間だった。まぁ、それでも正真正銘悪夢だったあの件に比べれば、まるで出涸らしみたいな、ささやかな悪夢だったが。

(…でも正直、名前以外埋める所無かった英語と数学は、本気で泣きたくなったけど)

(自分では、も少し出来る子だと思ってたんだけどな…)

(―ああ、もうヤメヤメ。もう何もかも終わった、終わったんだ…)

「オギノ」

 ―声を掛けられて、顔を上げる。そこには、ここ暫くですっかり御馴染になった、カミュの姿がある。今日はフード付きのロングパーカーにショーパン、黒のストッキングと言う出で立ちだ。

(…また長袖。暑く無いのかな?)

(見てるこっちが、汗が出る…)

(まぁ、吸血鬼は、水分操るのが得意だ、っていうし。実際、汗一つ掻いてない…)

「―どうしたの?この世の終わりみたいな顔して」

「…はは。大体、同じ様なもんかな。この世の終わりと言うか、これから終わりが訪れるというか」

「…どういう意味?確か、人間の預言者の、終末予想は外れたんじゃなかったっけ?」

「―ああ、そうじゃなくてね、こっちの話。我が家の家庭内の話さ。あぁ、殆ど赤点のアレが返ってきたら、我が家の女帝がどんな審判を下すか…」

 …おおーい、と遠くから呼び声がして、僕はそちらへ顔を傾ける。そこには、ものすごい速度で回転するコーヒーカップに乗って、はしゃぐ吸血鬼兄妹の兄、アレックスと―。

 柏木と。

 ―若干引き攣った笑顔を浮かべる、相原が居る。

 アレックスと柏木は、まるで旧来の友人の様に、呼吸の合った様子で、僕に向かって合わせてブンブンと手を振る。僕は苦笑を浮かべて、ベンチから弱々しく手を振り返す。相原がこちらに恨みがましい目を向けているような気がする。僕はそれに気付かない振りをして、ベンチに深々と座って、ぼんやり空を見上げる。

(疲れた、本当に…)

 ―7月7日。日曜日。天気は、晴れ。

 僕は遊園地に来ている。

(家に帰りたい。何で休日にわざわざ、暑苦しい外に出なきゃいかんのだ?クーラーの効いた居間で寝転んで、只管惰眠を貪りたい。月曜日の事を忘れて、体が溶けるくらいピッタリと、床に張り付いて眠りこけて居たい…)

 ―勿論、約束を果たす為だ。相原との約束を果たす為。気の効いた計画や、デートの口実なんてものを一切考え付く事が出来なかったので、半ば自棄気味に自腹を切って遊園地のチケットを買い、それを貰ったタダ券という事にして、柏木と相原をそれぞれテスト終わりの日曜に遊びに行こうと誘った。3人だとお邪魔虫としての立場が辛いので、吸血鬼兄妹にも声を掛けた(藁にも縋る思いだったけど…来てくれたのは意外だった)―遊園地の場所決めも、正直、テキトーだ。近場のそういう場所にあまり詳しく無かったので、最初に思い付いた場所にした。入院中、病室の窓から見えた、あの観覧車のある遊園地だ。

   『川と、観覧者と、遥か遠方で山彦のように響く、車のクラクションの音…』

(…しかし、今更だけど、これ完全に来る必要無いな、僕…)

(急用が出来て、僕は来られない、って事にして―後は若い二人に任せて、うんたらかんたら)

(てか、それだったら、こんな寂れた遊園地である必要もなかったなぁ。僕と、吸血鬼兄妹の分のチケ代が浮くんだから。そしたら、もう少し遠くの、有名な某テーマパークへ、相原にチケットだけ渡して…)

(…どうやら、僕はデートプランナーには向いてないらしい)

「…誘ってくれて、ありがとうね」

「うん?」

「―兄さん、最近、塞ぎこんでたから。お陰で、ちょっと調子、戻ったみたいだし」

「うん…」

 お礼を言われて、居心地が悪くなる。考えていた事を頭の中から、直ぐ様振り払う。カミュを見る。カミュがベンチの傍に立ちっ放しな事に、遅まきながら、気付く。慌てて僕は、ベンチの右端へと身を寄せる。

 ―けれども、カミュがそれに気が付く様子は無い。

 僕はベンチの端っこで、所在無く尻をもぞもぞと動かす。

「―でも、アンタは行かなくて良いの?オギノ」

「え?」

「遊園地。アンタが誘って来たのに。こんなとこに、ひとりでぼんやり座って。遊びに来たんでしょ?」

「ああ…いや、僕は」

「ほら、あの皆が乗ってるやつは?巨大なコップに乗って、グルグルと回る」

「回る奴は駄目だ。三半規管が弱くて、直ぐに気持ち悪くなる」

「じゃあ、あれは?あの、レールに沿った乗り物で、高い所から急降下するやつ」

「…絶叫マシンも苦手だな。昔あれに乗ってる時に、前の人がゲロ吐いた事あって―」

「…なら、あれは?ええと、『おばけ屋敷』―」

「―わざわざ金払ってまで、怖い思いしたくないよ」

「…アンタ、ここに何しに来たのよ?」

「うん…。散財?」

「何それ。バカじゃないの?」

 ―僕は彼女の方を向く。何かを取り繕おうとして、腰を浮かして、口を開く。

 彼女は―。

 笑う。

 僕は目を丸くする。彼女は肩を揺らし、腹を抱え、眼の端に涙を浮かべて、くつくつと笑っている。僕は言葉を失う。ベンチの隅っこに身を沈めて、口をぽっかりと開けて、まるで幽霊でも見るような気分で、笑う彼女を暫くの間眺める。

「―はぁ。あぁ、可笑し。アンタほんとに、そんな理由でこんなとこまで来たの?」

「うん。え?あ、いや、その、ホントは―」

「まぁ良いや。好みは人それぞれだもんね。私も騒がしいのはあんまり得意じゃないけど、兄さんには、ここが性に合ったみたいだし」

 ―彼女はそれきり無言になる。僕はその間が気不味くて、それを何とか埋めようと、ベンチの端で必死に話題を探す。共通の話題が驚くほど少ない事に、今更ながら、気付く。(テスト?は、吸血鬼にゃ関係無いし―)(天気?本日は、お日柄も良く―いや、吸血鬼的には、悪いのか?)(ゲーム?吸血鬼って、ゲームとかやるんだろうか?)

 共通の話題をするならば―覚悟をしなければならない、と言う事にも、思い至る。

 あの、不安や恐怖を思い出す事や―。

(事件について)

(王の欠片について)

(…“彼女”について)

 ―あやふやにしていた事態に、形を持たせる事になるかもしれない、と言う事に。

(“僕”の処遇について)

(―結局、僕は王様じゃ無かった。彼女達は当初、そうは思ってなかったみたいだったけど。協定はどうなる?僕と彼らの、約束は。僕の身柄は―どうなる?)

(…彼らは、僕を開いて、中身の欠片を回収するだろうか?)

 色々と考えてはみたけれど、どうやっても、他の話題を捻り出したり、共通の話題をして、問題を明確化する事も出来なくて―僕は逃げる様に、明後日の方向の話題を口にする。

「あの―ありがとう」

「え?」

 ―驚いた様に、カミラが僕を振り返る。僕は思わず苦笑する。

「ああ、いや、その―そう言えば、ちゃんとお礼を言ってなかったな、と思って」

「礼…?」

「助けに来てくれただろ?」

 訝しげな顔をしていたカミュが―その瞬間、合点が入った、というように、ひとつ、ふたつと頷く。僕は、何度も落ち着きなく足を踏み変えながら、彼女の目を見て、言う。

「…賞状を貰ったんだ」

「?」

「―感謝状だよ。警察から。事件解決に尽力~とか、ご協力に感謝~とか、色々当たり障りの無い事が書かれてるやつ」

「…」

「―まぁ、何にもして無いんだけどさ、僕」

 半ば自嘲気味に、そうぼやく。言い訳がましく、何処か弁明する様に。彼女が何も言わなくても、そんな風な口調になってしまうのは、やっぱり心の何処かに、彼女達に対する負い目があるからだろうか。

(―彼女達が受け取るべきだったんだ、本当は)

(そう出来ない事は分かってるし、あの賞状は、僕の生活を守る為の、免罪符だってことも分かってる、でも―)

(…だったら、僕は何が気に入らないんだ?一体、何がしたいんだろ、僕…?)

「…ありがとう。本当に何度も、助けてくれた」

「…良いって。それ、さっき聞いたよ」

「約束を守ってくれた」

「約束―?」

「忘れた訳じゃないだろ?僕が、あんたらの倉庫番になる代わりに、あんたらは、僕の生活の、平穏を守る」

 ―首の皮の、薄くなった部分を擦る。自然に、弱々しい笑みを浮かぶ。こういうのはやっぱり苦手だ、と思う。どれだけ言葉を尽くしても、真意が空中に抜け出していってしまう気がするから。どれだけ心からそう思って居ても、形にすると、途端に薄っぺらになってしまう気がするから。

 だから、僕はそれを、吐き出す様に、一気に言う。

「―あんた達は完璧に約束を果たしてくれた」

「…」

「僕を助けてくれた。助けに来てくれた。僕の命を守って、僕の生活も守ってくれた。本当に、心から礼を言うよ。あの日、あんた達が来てくれなかったら、僕は今頃、多分死んでいた。あの時、あんた達に出会わなかったら、僕は今頃、檻の中だっただろう―」

「…」

「―ああ、後、折角手伝ってくれたのに、的外れなことばっかりして、あんた達を危険な目に合わせた。足を引っ張って、余計な事して、問題を増やして。その、ご免、悪かった、謝るよ―」

 …気の所為だろうか。僕が喋れば喋るだけ、謝辞を尽くせば尽くすだけ、彼女の表情が、どんどんと不機嫌に変化していっている気がする。理由が分からずに、僕は困惑する。それでも、口から出したものを引っ込める事も出来ずに―僕はぺらぺらと、舌の赴くままに、慌ただしく捲し立て続ける。

「―ありがとう。アレックスにも、後でちゃんとお礼を言うよ。本当に助かった。感謝してる―」

「そうしてやって。あなたの事、どういう風に扱ったらいいか、未だ分からないみたいだし―少なくとも、敵意は無いんだ、って事、教えてあげて」

「うん…そうするよ。必ず、そうする」

「それと」

「?」

「何もしてない、なんて事、無いと思うわ」

「へ…?」

 彼女は―うんざりしたように、大きな溜息を吐いた後―僕を見て、呆れた様に笑って、言う。

「―あなたはね、行動したの」

「そ―」

「結果はどうあれね。その決意が、あの場所に、骨の王を呼んだのよ」

「―れは、どういう―良く、意味が―?」

「…王様は、昔から、人の決意が好きだったわ。決意と言うか、覚悟を固める瞬間がね。王様はそれを、“魂の色が変わる時”と呼んでいたわ―」

「…はぁ。タマシイの―?」

「そう。“魂の色が変わる時”―」

 彼女は懐かしむ様に、呟く。

「―“人間は、極上の味に変化する”って」

 懐かしむ様に、しみじみと―ノスタルジーが吹き飛ぶ様な、物騒な単語を。

 …僕は無意識に、自分の中心を抱き寄せる。

 彼女は僕の様子に気付くと、手を振って、慌てた様に弁解する。

「…ああ、いや。その。違うわ、王様は―その、大丈夫、人間は、あまり食べなかったから」

「…ちょっとは嗜んでいらっしゃったんですか?」

「いや、その、違くて―そう、王様は―大抵の場合、ちろっと舐めて、味見するだけで―」

「飴ちゃんか何かかよ…」

「大丈夫、魂齧られてたら、結構重度な自覚症状あるから―」

「…大丈夫な要素が何一つ無いんですが…」

「―はい、終了、この話は、もう終わり」

 彼女は、パンパン、と両手をリズミカルに叩いて、強引に話を終了しようとする。僕は、疑う様に彼女の顔を覗き込む。彼女は面倒臭そうに、視線を振り払う様に手を振って、急かす様に、僕の太腿を爪先で突っつく。

「―ほら、立って。丁度あいつらもあのコップ、降りるみたいだしさ。ほら、今度はアンタも乗れる乗り物に行こ?」

「いや、苦手なだけで、別に乗れなくは―」

「そうね―アレなんて、どう?」

 彼女は真直ぐに指を指す―遊園地の中心に鎮座する、見上げる程に、巨大な観覧車を。

「…まさか、あんなにゆっくり回ってるのまで、苦手だなんて言わないわよね?」

 彼女はそう言って、人を小馬鹿にするみたいに、にやにやと笑う。その笑顔を見て、僕は何だか素直に答えるのが癪になる。

「―いいや、苦手だね。高い所は苦手なんだ、つい最近、女吸血鬼に、尻から軟着陸させられてからは、特に」

「ちょっと、蒸し返さないでよ。あの時は仕方なかったでしょ?相手は二人、しかも“王の欠片”入りよ?」

「―にしても、もうちょっとやり方があったと思うけどな。ああ、尻の面積が減った気がする。体重も少し、減ってるかも知れないな―」

「…何よ、さっきまでありがとうありがとう言ってた癖に」

「それとこれとは、話が別です」

「そんなに体重が気になるんなら、もう少し削ってあげようか?いっそバサッと、縦に半分ぐらいに―」

「―スミマセンデシタ」

「分かれば良いのよ」




「おー、オギやん、大丈夫?もう復活した?」

「―さ、オギノ、皆、それでは次はこの、キュー…リュー…スベリ?―とやらに、行ってみないか?」

「えー?私、濡れるのヤダー…」

「あー…、その、君達―兄妹は、その、そういったアトラクションは…?」

「私は、下で見てるわ。オギノ」

「はい?」

「―機を見て、兄にそれが、どういうアトラクションなのか教えてやって」

「…え?僕が?」

「そ。あなたが」

 柏木達と合流し、別のアトラクションへと移動する―途中。

 僕は木に引っ掛かっている赤い風船と、それを見上げている一人の女の子を目撃してしまう。どうしたもんかと周囲を見回している間に、柏木達は会話しながら、ずんずんと先へ行ってしまう。周りに、他に助けてくれそうな大人も見当たらない。仕方ないなと溜息を吐いて、柄にも無い事をしようとしていると自覚しながら、僕は風船と女の子の方へ足を向ける。

(…しかし、ホント碌に人が見当たらないな。この遊園地、経営大丈夫なんかね?)

(この子の親らしき人も見当たらない。重ねて迷子、って訳じゃないよな?そこまで面倒見切れないぞ…?)

(しかし―勇んで来たのは良いけど、身長、足りるかな?背の順、前から数えた方が早いし…)

「あの」

 女の子に、背中から声を掛ける。女の子は、飛び跳ねる様に、全身で僕へ振り向くと、涙で濡れた顔で僕を見上げ、必死に自分のポケットや、首に掛けた小さなポーチの中身を両手で弄り始める。どうやら防犯ブザーを探している様だ―と勘付いて、僕は少し慌てる。

「あ、ちょっと、大丈夫、大丈夫だから―!」

(…この言い方、自分で言ってて、大丈夫じゃない感じするな…)

(最近の子は、防犯意識、しっかりしてるなぁ。子供の頃の自分にも、見習って欲しいもんだ…)

(こういう時、何故か両手を上げてしまう。プリーズ、ホールドアップ、手を上げろ…)

「その、僕は、怪しいものじゃ無くて―ええと、キミ、あの風船、取って欲しいんだよね?」

 女の子はピタリと動きを止め、僕を見る―涙で潤んだ目で、疑う様に、じろじろと。逞しい子だ、と両手を上げて、僕は苦笑する。例えさっきまで泣いていたとしても、他人への警戒心は、キッチリと外さない―正直、自分よりもしっかりしている位だ。僕の助けなんて、要らないんじゃないかとさえ、思う。

(放っておいても、問題を解決しそうな感じあるな、この子。大物感ある…)

(ていうか―この子、何処かで見た事が、ある様な…?)

(小さい子供の知り合いは、居ない筈だけど。親戚の誰かに似てるのかな…?)

「お兄さんが、あの風船…取ってあげようか?」

「―ホント!?」

 その言葉を聞くや否や、女の子は鼻水を思いっ切り啜り、涙に濡れた目を、キラキラと輝かせる。僕はその目に気圧される様に、半ば強制的に、頷く。しまったなぁ、と思う。あの子が返事をした瞬間、他の選択肢が全て、消えてしまったような気がする。身長が足りなかったらどうしよう、と急に、不安になる。ジャンプで届かなかったら…木登りする事になるんだろうか。木登りなんて、何時以来だろう―?

(…少なくとも、小学校高学年からは、記憶に無い)

(しかもあの木、枝が無いよ、つるつるだよ、上級者向けだよ―)

(…ここで、『この風船は僕には取れないので、風船を取る事の出来る別の大人のひとを呼んできます』とか言ったら、どうなるだろうか?この子の情操教育過程に、罅を入れる事にならないだろうか…?)

「ちょっと待ってね―」

 妙に既視感のある女の子にそう声を掛け、僕は入念に足周りを解して、準備する。

(…さっさとやれよ、と言う視線を、背中に感じる)

(さぁ、勝負は一瞬。一回で成功しなかったら、後はジャンプ力が、どんどん下がっていくだけ…)

(そうなったら―後は木登り?出来るかなぁ、指の先、剥がれたり、しない?この前くっ付けたばっかりなんだけど―)

 …呼吸を整え、助走の距離を取って、走り出す。1、2の、3で―思い切り、ジャンプする。

(うお、これ―)

(思ったより、勢いが―)

 空中で慌てて、風船の方に、腕を伸ばす。無茶苦茶に振り回した指先が、偶然風船の紐に引っ掛かる。ホッとしたのも束の間―。

「ぐ」

 ―勢いもそのままに、木の幹に体ごと、ブチ当たる。

(ああ、クソ―)

(痛ぇ。ヒィ、痛ぇ―)

(―風船は?当たった拍子に、手放したりしてたら―)

 …立ち上がり、慌てて辺りの様子を見回す。飛んで行く風船が無いかどうか。倒れた拍子に、風船を下敷きにして、割ってしまったりしてないだろうか。自分の手の中にある、風船の紐の感覚を自覚する前に、あの子が駆け寄って来て、僕の手から力強く風船を捥ぎ取る。

(…ああ、無事か。良かった…)

(ほんと、逞しい子だな。無事じゃないのは、僕だけか…)

(おお、痛ぇ。まだちょっと、息がし難い…)

 女の子は嬉しそうに、風船を空に浮かべて、その周りをグルグルと回る。僕は苦笑いを浮かべて、その光景を眺める。まぁ、風船がちゃんと取れただけでも重畳だ、と思う事にする。それに、見方を変えれば、中々微笑ましい姿だ、と言えなくもない。

(…幹に衝突して、脇腹がクソほど痛くて…)

(未だ立ち上がれずに、しゃがんでいるのが自分じゃ無ければ―な)

(…あ、待って、これ、更に、じわじわ痛く…)

「―アスカ」

「アスカちゃん―?」

 ―向こうの方から、ボーダーの半袖シャツを着た大柄な男性と、向日葵色のゆったりとしたワンピースを着た若い女性が、慌てた様子でこちらに駆け寄って来る。アスカ、と呼ばれた女の子は、くるりと回転椅子の様に勢い良く振り返って、パパ、ママ、と脳に直接突き刺さる様な、キンキン声でそう叫ぶ。

(ぐお―)

「一体何処行ってたんだ?探したぞ―」

「あのね、フーセンがとんでね、それで―」

「―そちらのお兄さんは?」

「―それで、あのおにーちゃんに、フーセンとってもらったの―!」

「まぁ―」

 母親らしき若い女性が、上品に口元を押さえて、僕を見る。僕は脇腹を擦りながら、彼女に向かって、弱々しく頷く。

「―あのね、すごかったの、あのね、おにーちゃんね、こっからバーンととんで、フーセンとってね、木にズーンて―!!」

「あら、そうなの、へえぇー…」

「…さっぱり分からんな」

「―ま、助けて貰ったみたいね。どうもありがとうございます、お兄さん。ほら、アスカちゃんも。ちゃんとお礼は言った?」

「まだ!!!」

「未だなら、さぁ、ちゃんとお礼を言わないと」

「わかってますって、ちゃんとやりますって。ノーキはちゃんとまもりますからぁ―」

「―おい、それ、誰の真似だ?」

「あなた、」

 ―女の子が僕の方を向く。風船が揺れる。女の子は後ろ手に母親と手を繋ぎ、父親の足に凭れ掛かりながら、泣いていた事なんて遥か昔の様に、満面の笑顔で口を開く。

「ありがとう、お―」

「ああ、いいえ、どう―」

          「オ―」

「―いたしまし―」

                「オウサマ」

 …言葉が途中で途切れる。

 僕は彼らを見る。

 何度も瞬きをして―その一家を。

 風船が風に揺れる。女の子の頭上に、ぷかぷかと浮かび上がる。一家の様子は、先程までと大きくは変わらない。彼らは一様に、満面の笑みを浮かべて、こちらを見ている。まるでこれから、記念写真でも撮るみたいに。

 違うのは、一部だけだ。

 父親は、右肩から。母親は、左耳の隙間から。それから女の子は、その短い舌の先から―。

 瞬き毎に、成長する様に―それぞれ植物の芽が、生えて来る。

(あ…)

 ―心臓を抑える。これは、木にブチ当たったのとは無関係の痛みだ、と思う。心臓が突き刺す様に痛む。呼吸をする度に、身体の何処かに穴が開いた様に、傷む。苦痛で視界が歪む。立ち上がる事も出来ずに、僕は、その場に根が生えた様に、彼ら家族を茫然と見上げている。

 父親の右肩からは、向日葵が。

 母親の左耳からは、菫草が。

 そして、女の子の舌の先からは―。

(ああ…)

 僕は、その子への既視感が、何処から来ているのものなのか、漸く理解する。

(あの子だ…)

  『少女の舌の上に、花が咲く。彼女の血を吸い上げた様に、茎まで真っ赤な―』

 ―舌の先からは、血を吸い上げた様に、茎まで真っ赤な、燃える様な彼岸花が咲いている。

 あの子だ、と気付く。あの子だ、と理解する。あの日、あの夜最初に、ジョンの鎖に貫かれた、あの子。カミラの左足を、傘の様に抱えていた、あの子。最初にジョンによって、《分離》された女の子―。

(《分離》…)

                     『―愚    カ 者 に  ハ…』

           『―どうだ、これでもう、二度と《分離》は出来まい!?』

              『―彼らを検査していて、面白い事が分かったよ…』

              『―吐き出されてから暫くの間、“彼女”の因子を…』

   『…彼らは、ああ、正確には、“彼女”の死亡時、胃袋の中に居た一団だな―』

                   『―愚    カ 者 に  ハ、毒 ト薬    ノ 区  別 モ   付カな イ』

(…一体、何からの《分離》だった?)

(彼らは…何になったんだ?)

 僕は声も無く、そこに竦んで座っている。どうしようもなく、どうすればいいかも分からずに。彼らは満面の笑みのまま、身を寄せ合って、回れ右して、行ってしまう。何もおかしな事など、起こらなかった様に。父親の右肩の向日葵が、音も無く萎れる。母親の左耳の菫草が、風に揺られて千切れる。きっと、あの子の舌の上の彼岸花も、次に振り返った時には消えて居るだろう。

 僕は、耳を塞いで、その場に蹲っている。

 自分が、何をして―何を変えてしまったのか、上手く受け入れられないままに。

(…あれは、何?)

(僕は―どうなった?)

(…僕が、何もかも悪いのか?僕が、何もかもを変えてしまったのか?彼らの、何もかもを。僕はただ、自分の、ささやかな生活を―)

           『―何もかもあんたが悪いのさ。きっとどんどん悪くなる』

(違う―)

                    『

(違―)

                    『…人間の中に紛れようとするからさ』

 振り絞る様な悲鳴が漏れる。僕はその場で、固くかたく、目を閉じる。







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