05 これはおとぎ話なんだろうか(2)

 米美はりんごのように真っ赤になったほっぺたのまま、繁雄の方を思いっきり振り向いた。「うわ、びっくりした」と2回目の驚きの声をあげる繁雄。


「シゲさん、仕事辞めて」

「は?」

「お願いシゲさん、今すぐ仕事辞めて! 退職して!」

「ちょ、米ちゃん、落ち着けって」


 突然繁雄のシャツを掴み、泣きそうな顔で仕事を退職しろと懇願する米美。


「シゲさん死んでしまうとよ、事故で! だから仕事辞めて家にいよ!」

「いや、死ぬって、ちょ、そんな引っ張んなって」


 あまりに理解に苦しむ状況に、ただ繁雄は「ちょっと待ちない」「どういうことやと?」と聞くことしかできずにいた。自分が事故で死ぬ? 繁雄の頭ははてなマークで埋め尽くされた。米美自身も混乱しているのか、ただ「今すぐ辞めて」の一点張りで、ゆっくり話が出来る状況ではなかった。米美が力一杯繁雄のシャツを揺さぶるので、先日買ったばかりの服が伸びてしまっている。


「分かった、分かったから米ちゃん。ごめんけど、ちょっといったん落ち着こ。ほら、ゆっくり、深呼吸してみ。……そうそう、吸って……はいて」

「すぅ……はぁぁぁ」


 ちゃんと繁雄の言うとおりに息を深く吸い、全部吐き出す。体の中を循環させるように、ゆっくり呼吸するように意識をした。更に米美はもう一回、繁雄に言われずとも、自ら深呼吸を行う。


「どうしたんね、本当。今日の米ちゃん、なんか様子がおかしいよ?」

「……何なんやろ。あたし、頭おかしいんかねぇ……」

「疲れてるっちゃないと? 最近美緒の世話で疲れたぁって言いよったしね」

「そう、なんやろうかね……」


 繁雄は米美の手をとった。


「え? シゲ、さん?」

「大丈夫。なぁんも心配せんでいい。死ぬわけないやん、こんな大切な家族を残して。俺はずっと、米美の隣におるかい」


 暖かい、なんて暖かくて大きな手だろうと、米美は強く繁雄を感じた。繁雄が亡くなってから、手を繋ぐのは美緒か、孫娘である明美の手だけであった。米美はその手を一度強く握り、少し緩めると、指を絡め、もう一度繋ぎなおした。

 ちゃんと暖かい、死んだ者の手は冷たいはずだ、と米美は思っていた。さっきも自分の頬をつねったら、ちゃんと痛みもあったのだ。今こうして、繁雄と会話をし、手を繋いでいる。米美は、これまで長い夢でも見ていたのではないかと思うようになっていった。


「シゲさん。あたし、夢、見とったのかもしれん」

「なんか嫌な夢やったんかな? 俺が事故で死ぬ、とか言いよったもんな」


 でもたしかに残る、当時の記憶。忘れたくても忘れられない繁雄の最期。感情的になったことを強く後悔し、自責した32歳の自分。逆にこちらが現実であれば、78歳までの人生は何だったんだろう、と頭を抱える。米美は、考えれば考えるほどよく分からなくなっていた。


「あ、そうそう米ちゃん。ちょっとこっち来て」

「え? どこ行くと?」

「いいから、ほら、こっち来て」


 繁雄は米美の手を引っ張った。台所から廊下へ出て畳部屋の応接間に向かう。さっきは泣いていたので気付かなかったが、新品の畳の良い香りが鼻孔をつく。応接間で立ち止まらないということは、どうやら向かう先は庭のようだった。

 この頃、何かあったっけ? と米美が記憶を呼び起そうとする前に、その光景は飛び込んできた。


おがたまの木……」


 そこには78歳の米美の自宅庭にもあったものと同じ、招霊おがたまの木があった。風が吹いているわけではないのに轟々と葉同士が擦れ、音を鳴らし、米美の鼓膜を震わせる。青々と茂るその神秘的な存在に、思わず身震いしてしまうほどの凄みを感じた。この木は、これほどまでの迫力があっただろうか、と米美はその場に立ちすくんだ。


「あれ、俺米ちゃんに招霊おがたまの木が来るって言ってたっけ?」

「あ、えと……」

「役場の上司にお願いしてさっき植え替え作業が終わったとよね。えぇ~、誰かに聞いたん? 米ちゃんのためにって、サプライズのつもりやったんになぁ」


 記憶と、少し重なる。

 本来であれば、確かにこの招霊おがたまの木は繁雄からのサプライズで、米美は泣いて喜んだ記憶があったのだ。間違いなく米美が32歳の、この時期だった。


「なぁ米ちゃん。なんか思い出残しとかん?」

『なぁ米ちゃん。なんか思い出残しとかん?』


 米美の記憶と、全く一緒である。米美の記憶によると、この後この招霊の木に2人の名前を彫るのだ。

 繁雄が米美の手を引く。記憶通り。

 繁雄が庭にある手入れ用の植木鋏を手に取る。これも、記憶通り。

 そして、がりがりと音を立てて繁雄が自分の名前を彫る。米美自身がもつ記憶と、まったく同じ流れ。今米美の目の前で掘られて行く〈しげお〉という名前も、美緒が明美を連れて帰った後に見て、触れた名とぴったり重なる。


「はい、次は米美の番」

『はい、次は米美の番』


(まだ確信は持てんけど、ただ、少しずつ分かってきたことがある――)


 繁雄が生きているこちらが現実で、これまで生きてきた78歳の米美の方が夢だったのかもしれない。だが今のこの短時間で、偶然にも米美の持つ過去の記憶と同じ時が流れているのを感じ取った。

 つまり今米美がいる高千穂町が、これまで米美が1人で生活していた高千穂町と異なる、というように思うようになっていたのである。


(もしかして)


 米美は期待する。

 もし、これが神様からのご褒美で、のだとすれば。


(もしかして……未来も、変えられるかもしれん)


 未来を変えることができるかもしれないと。


(もうあんなつらい思いは、二度としたくない……っ)


 米美は植木鋏を招霊おがたまの木の幹にあてがい、力を込めて自分の名を刻む。


(今度は絶対に、あたしがシゲさんを守ってみせる――)


 招霊おだかまの木の下で、米美はそう強く誓った。

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