04 これはおとぎ話なんだろうか(1)
「どうしたと、米ちゃん?」
なんともなつかしく愛おしい声だろうか。米美はどんどん溜まっていく涙を零しながらじっと繁雄の顔を見つめた。40年以上ずっと1人ぽっちで寂しかった、ずっとずっと会いたかった、そんな米美の思いがようやく通じたのだと感極まった。
「シゲさん、シゲさんっ!」
「しかもなんね、その年寄り臭い呼び方」
「会いたかったとよ、ずっとずっと!」
「えぇ? 昨日も一昨日も一緒におったやんか」
そんな米美に比べ、米美の発言や行動がまったく理解できない様子の繁雄。おろおろしながらも、とりあえずパニックを起こしている米美をなだめるために、よしよしと頭を撫でてあげた。子供のようにわんわん泣いて、繁雄から離れようとしない米美を畳の上に座らせて、面倒臭がることなく受け入れた。背中を優しくさすったり、泣き続ける米美をあやし続ける繁雄。
「ちっとは落ち着いたね?」
「ゔん……」
繁雄はティッシュを持ってくると米美の鼻にあてた。「ほら、ちーん」という声掛けとともに米美は鼻をかむ。繁雄は安堵の表情を浮かべ「よしよし」と言うと、ティッシュを丸め、ゴミ箱に投げ入れる。
「どしたん? どんな怖い夢見とったん?」
「夢? 夢、やったんかのぅ……」
「なぁんか喋り方も年寄り臭くなったなぁ、米ちゃん」
「うっ……米ちゃんって、名前、呼んでぐれだぁ……」
繁雄が「米ちゃん」と呼んでくれる嬉しさに、再び米美の大きな目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。「うわっ!」と繁雄は声を上げると、いそいそとティッシュを取りに走った。もはや数枚では足りぬと思ったのか、箱ごと米美の側に持ってくる。
「なんか今日の米ちゃんは変やねぇ。ずっと一緒におったんに、会いたかったとか言うし。いつも名前呼びよるのに、今日は泣いて喜んでくれるしな」
米美の方を見てにこりと微笑む繁雄。
毎日一緒に過ごすこと、名前を呼び合うこと、それらは夫婦である以上、そして家族である以上、一般的で当たり前のこと。ただ、そういったことが突然できなくなった米美にとって、これほどまでに嬉しいことはなかった。
「もっともっと……感謝せにゃいかん」
「ん?」
「当たり前と、思ったらいかん」
「うん、そうね。俺はいつも、米ちゃんには感謝しとるとよ」
そう言って繁雄は、米美の頭を撫でる。米美の中で、当たり前という見えない日常こそ大事にしようという思いは、繁雄を亡くして以来、一層強くなっていたのだ。
そんな米美の思いを感じ取ったのか、繁雄は米美にきちんと日々の感謝の気持ちを言葉にして伝える。
「ところで、なんでシゲさんやと? 米ちゃん、いつも俺んことシゲくんやったやろ?」
そう。米美が呼んでいた繁雄の愛称は『シゲくん』だった。繁雄が亡くなり数十年経つと、だんだん仏壇の写真に向けて『シゲくん』と言うことが恥ずかしくなっていた米美は、『シゲさん』に変えていたのだ。
「なんか、恥ずかしくなって」
「なーん言いよるとね、今更やんか」
「年をとると、そう思うとよ」
「何が年をとると、や。米ちゃん、今まだ32歳やろ?」
『32歳やろ?』という言葉に米美は思わず立ち上がった。
「米ちゃん?」
「さ、32歳!?」
32歳――それは、繁雄が亡くなった年。米美の実際の年齢は、現在78歳である。何かがおかしい、何かが自分の身に起きていると感じた米美は、立ち上がり辺りをきょろきょろとし始めた。
さっきまでかなり取り乱していたが、少し冷静になって辺りを見渡すと、ここは高千穂町の米美の自宅のようだった。薄れていた記憶を必死に思い起こしながら、約40年以上前の自分の記憶を頼りに当時の記憶とすり合わせをする。
今米美と繁雄がいる畳部屋、ここは現在、繁雄の仏壇が置いてある
米美は自分でほっぺたを抓りながら台所へ向かう。そこは数十年ここで料理を作り続けていた台所ではなく、まだまだそんなに使用していないと思わせるほど物も少なく、きちんに片付いている状態だった。米美が漬けていた漬物も、本来ある場所にはない。
米美は片手では足りないと思ったのか、両手で自分の頬をつまんで上下左右でこねくり回す。頬は真っ赤に腫れあがった。米美の目には涙が滲む。
「よ、米ちゃん?」
繁雄も、ひりひり腫れた米美の頬を痛そうな表情で見ている。そして米美の涙目に飛び込んできた卓上カレンダー。それは、8月の暦になっている。
「シゲさん、今日、何日?」
「米ちゃん、さっきからどうしたと? 大丈夫?」
「ううん、そのあたしがちゃんと大丈夫か……確認したいと」
「そかそか。今日はね、8月2日よ」
米美はそれを聞いて、驚愕した。
米美が32歳の8月2日――その7日後の米美の誕生日が、繁雄が事故に遭い、この世を去ってしまう日である。米美はますます、自分の状況が分からなくなり、頭を抱えた。
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