03 米美と繁雄(3)

 日が落ちるのが早くなってきた。まだ夕方だというのに、夏に比べると辺りは少し薄暗くなってきている。米美はラジオを聴きながら、ご近所さんにただで貰った野菜に包丁を通しているところだった。とんとんっと軽快な音が台所に響く。なんとも慣れた手つきで野菜を切り終えると、まな板を傾け、温めておいた出汁の中に野菜たちを転がし入れる。まな板を流し台に置きながら、腰を手の甲で叩くと、続いてフライパンで炒めた肉を鍋に入れる。


「ちと涼しくなってきたかいね」


 ことことと音を立て始めた鍋。アクを取り、味噌と生姜、そして醤油やごま油で味を整える。米美は豚汁を作っていた。この豚汁は、繁雄に初めて作ってあげて、繁雄が『おいしい!』と褒めてくれた米美の初めての料理だった。コンビニなどで売られている市販の豚汁とはわけが違う。米美が愛情込めて作った豚汁は絶品だった。

 米美は繁雄に強く会いたくなると、こうやって豚汁を作る。少し多めに作り、仏壇にお供えする。米美は毎回豚汁をお供えすると、何だか写真の中の繁雄が笑ってくれているような気がしていた。それをとても嬉しく思っていた。

 そして食卓に米美の分の豚汁とほかほかの白ご飯、冷蔵庫から取り出した自家製の漬物を並べた。ししゃもでも焼けば良かったかな、と思いながらも米美はテーブルにつく。


「シゲさん、いただきます」


 そう言って合掌する。


「こんなに月日が経ったのに、まだ会いてぇなぁって、思ってしまうんやね、あたしは」


 そんな思いの米美の目の前で、米美特製の豚汁は、美味しそうな湯気をのぼらせていた。

 今日も1人で、食事を摂る。寂しがり屋の米美にとって、この時間は未だ慣れない時間であった。


 食事を終えた米美は、かちゃかちゃと食器を重ね、流し台に置く。いつもはそのまま食器を洗うのだが、今日に限っては『明日やろう』と思った。明日のことを考え、お湯を張ってそこに食器を浸けておいた。少し余った豚汁は、蓋をして冷蔵庫に入れた。

 そのまま居間に向かい、小さな椅子に座りテレビをつける。去年テレビが壊れ、美緒と一緒に家電量販店で選んでもらった割と最新型のテレビ。とても画質が良くて見やすいが、録画機能のどうすればリモコンで操作すればいいのか、米美には良く分からなかった。説明書を読んでもいまいちうまく録画ができないため、いつか美緒に時間があるときに教えてもらおうと思っているが、それからもう1年以上経っている。

 他の家電や携帯も同様だった。便利な機能が増えれば増えるほど、米美は戸惑うことが多くなった。使い方が分からないものが多いので、新しいものはあまり好まない。スマートフォンにしてよ、と数年前に美緒に言われたこともあったが、使い方が分からず結局昔ながらのガラケーを使っている。せっかく愛する娘に言われたのでそうしてあげたかった米美は、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。本屋に立ち寄り『簡単で分かりやすい スマートフォンの使い方』という本まで購入して一生懸命勉強をしたこともある。美緒があまり帰ってこないのは、自分のそういったところが原因ではないかと思うこともあったからだ。


「ふあぁ……」


 なんだか今日はやけに眠い、米美はそう思っていた。時計を見るとまだ19時半だというのにあくびが止まらない。いつも米美が床につくのは21時を回る頃。少し早いが、今日はもう寝ようと、米美はテレビを消して立ち上がる。

 寝間着に着替え、布団を敷く。米美が布団を敷く場所は、繁雄の仏壇の前。米美は何だか今日は、夢の中で繁雄に会えるかもしれない、という感覚がしていた。早く眠りにつきたい、そう思っていた。

 布団に入り、目を瞑る。

 シゲさんに会えたら、何て言おう、どうしよう、と米美の頭の中は妄想が広がる。遊園地に着く前の子供になった気分だった。ワクワクしていた。

 瞼が重いのか、ゆっくりと目を閉じていく米美。そんな中、強く願った。もしも繁雄に会えたら、ちゃんと謝りたい、そして伝えたい事をたくさん伝えたい、それからそれから――いやもう、とにかく『シゲさんに会いたい』と。


「おやすみ、シゲさん」


 そして米美は眠りについた。


 気付くと、米美は高千穂町を見下ろしていた。家の明かりがぽつぽつ見える、田舎の町。とても美しかった。空と足元に広がる星空のような世界に、米美は感動した。

 重力のない世界にいるようにゆっくりとくるくる回り、ふよふよと浮いている米美の小さな体。空を飛んでいるみたいだが、空を飛んでいるという実感はない。夢か現実かよく分からないが、やけにリアルな感覚。

 そして更に不思議なことが起こり始めた。米美の姿が徐々に若返っていく。これにはさすがの米美も驚き、しわのなくなっていく手で、同じく若々しさを取り戻していく顔をぺたぺた触っている。


「え、どういうこと?」


 声が反響する。その声も、すでに78歳の米美のものではない。


「え? あれ? え?」


 白髪頭ではなく艶やかな茶色で、まるでパーマをかけているかのようなふわふわのロングヘア、少し太めであるが可愛らしい毛に、くりくりとした瞳に上向きの睫。グロスを塗っているかのようなぽてっとした唇に小さな顔。すっと伸びた背筋に、細く華奢な女性らしい体。それは、若返った米美であった。寝付いたときの寝間着姿で自分の体をじろじろ見ている米美。

 すると巨大なスクリーンのようなものがいくつも現れる。そこに映し出されたのは、生きている頃の繁雄と米美の若い頃の思い出だった。


「シゲさん!!」


 米美は繁雄の姿を見て、目頭を熱くさせた。こみ上げる涙を拭うことなく、繁雄の名前を叫び、何とか掴もうと手を伸ばす。すると思い出たちは早送りで流れ始めた。その後結婚し、美緒が生まれ、幸せな家庭を築こうと強く誓い合った瞬間を映し出した。


「やめて、ダメ! その先は――」


 言い合いをしている2人の姿。まさにこれは、繁雄が事故に遭う前日の2人の姿。


「行かないで、シゲさん……お願い、行かないで!!」


 届かない声を絞り出す米美。なんだろうこの夢は、せっかく繁雄に会える気がしていたのに、まさかこのような形で繁雄に会うなんて、と米美は苦しんだ。


(自分が悪いのは十分に分かっている、でももっと、違う形でシゲさんに会いたかった――)


 米美の意識はここで途切れた。意識がある世界なのかもはや分からない状態ではあったが、それ以降のでの記憶は、もうない。


 ●●●


「――ん」


 微かに米美の耳に聴こえる声。


「――よ――ゃん」


 米美はその声に気付いた。何となく、なつかしく、ずっと聞いていたい、そんな優しい声だと思った。


「――ねて、る――か、米ちゃん?」


 米美は自分の名を呼ばれ、はっきりと分かった。

 これはずっと聞きたかった、懐かしい声だと。

 長い間、叶うならもう一度会いたいと思っていた、あの人の声だと。


「米ちゃん?」

「シゲさん!」


 米美は飛び起きた。「びっくりしたぁ」という男の声。


「え? 米ちゃん、どうしたと? 泣いてると?」


 米美は自分の大きな瞳にはっきりと映る光景に2度3度瞬きをした後、感動の余り、その人の胸に泣きながら飛び込んだ。

 それもそのはず。

 今米美の前にいるのは紛れもなく、生きている頃の繁雄だったのだから。

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