02 米美と繁雄(2)

 米美はもと来た廊下を再び歩きだした。廊下に取り付けられた手すりに手を添わせながら前へ進む。少し前に階段を踏み外して転倒してから、どうも痛みが取れず、今も整形外科に通ってリハビリをしているのだ。

 少し進んだ先にある、明美とお喋りしていた部屋に戻ってきた。この部屋は昔応接間おうせつまとして使っていた部屋だが、今はそこまで誰かが来ることもなくなったので、その機能はほとんど果たしていない。そしてその応接間には、扉の閉じられたひとつの仏壇があった。米美は仏壇の前にゆっくりと正座し、その扉を開ける。


「もう少し明美が大きくなったら、改めて挨拶せんとね」


 そこに置かれている数枚の白黒写真。その写真の主は、米美の手に握られている写真と同一人物だった。


「ね、シゲさん」


 黒木くろき 繁雄しげお。そこに写っている写真の男性は、米美の亡くなった夫であった。


「あれからもう、40年以上経つんやね」


 あれは米美が32歳の頃。美緒はまだ生まれたばかりであった。きっかけは些細なことだった。それは米美の誕生日。早めに帰れると繁雄に言われ楽しみにしていた当日だったが、前日の夜に急遽対応しなければならない仕事が入り、繁雄から帰りが遅くなると告げられたのだ。米美はそう言われ、カッとなった。楽しみにしていたのに、と繁雄を責めた。その日の夜は口も利かず、互いに就寝。翌朝繁雄が米美に『おはよう』と言ったが、米美はそれに応えることはなかった。そして家を出ていった繁雄は、その日現場に向かう途中で交通事故に遭った。居眠り運転によるトラックと国道10号線で正面衝突した。非常に激しい事故で、繁雄は即死だった。

 米美がその知らせを受けたのは美緒の世話をしていたときだった。声が出なくなるほどの衝撃を受け、病院へ駆けつけた時には原形をとどめていない無残な姿の繁雄と会った。米美はその動かぬ繁雄に覆い被さり、泣いた。せめて快く『頑張ってね』と送り出してあげることはできなかったのだろうか、と後悔した。実はすでに怒りも冷めており、素直に『おはよう』と言うことができなかった自分を責めた。米美は自分の誕生日だったとはいえ、あそこまで感情的に怒鳴ることだっただろうかと、毎晩悔やみ、泣いた。

 もっと一緒にいたかった。

 もっと楽しく笑い合っていたかった。

 美緒の成長を、一緒に見守ってほしかった。

 米美は、たった一度の人生を、繁雄――最愛の夫と一緒に生涯過ごすことができなくなってしまった。


 それから米美は、明日会えなくなるかもしれない人々を大事にした。美緒だけではない、自分の親兄弟、この町の人々。たとえ冷たくあしらわれようとも、米美は嫌な顔ひとつしなかった。またあの時と同じような後悔を味わいたくはない、その思いが強かった。

 しかし若者がどんどん出ていき、高齢化の進むこの広い高千穂町で、米美は次第にひとりぼっちになってしまった。『田舎暮らしは嫌だ』と高校を卒業後に家を飛び出した美緒は、延岡市で保育士の資格を取得し、延岡市の保育園で勤務をしている。今では1年に1度帰ってくればいい方だ。せっかく近くにいるのだから帰っておいで、という米美の声は、仕事と子育てに忙しい美緒にはほとんど届いていない。


「シゲさん、季節はすっかり秋やわ」


 仏壇のある応接間には窓があり、庭へ通じる縁側がある。米美は立ち上がりゆっくりそこまで進むと、柱を頼りに縁側に再び腰を据えた。


「綺麗な夕陽ん色じゃが」


 米美の見る先には、秋色に染まりつつある山々が一面に広がっていた。手前の田舎景色が映えるように創られた美しい背景のようだった。その周りを赤とんぼたちが飛び回り、秋の素晴らしい景色を映し出す。田舎でしか味わえない、幻想的な世界。米美はこの縁側に座り、そんな高千穂町の景色をじっくり堪能するのが好きだった。本当は、繁雄と一緒に見たかった世界。今は亡き繁雄の分まで、米美が味わい感動すると決めた。

 そんな米美の自宅庭に蒼々と茂る1本の木があった。空に目掛けて、まっすぐそびえ立つ木。米美は縁側に置かれたスリッパに履き替え、その木に向かい歩き出す。


「あんたはずっと、変わらんね」


 招霊おがたまの木。日本神話において、天照大神あまてらすおおみかみ天岩戸あまのいわと隠れにおいて天岩戸の前で舞った天鈿女命あめのうずめのみことが手にしていたとされている。この町、高千穂町のシンボルとしても有名。繁雄と結婚し、この家を立てる際に、知り合いに頼んで庭に植えてもらったものであった。ずっと米美と繁雄の生活を見守り、米美1人となった今も、米美を近くで支え続けている。

 米美は招霊おがたまの木の幹に、しわだらけの手を添える。その木の幹には〈しげお よねみ〉と掘られた跡があった。


「ここに立つと、いっつもシゲさんに会いたいって思ってしまうのぉ」


 そう言いながら招霊おがたまの木に向かい笑いかける。曲がった腰を伸ばし、米美は木を見上げる。自分は年を取るにつれてこんなにも小さくなったのかと、ここに立つたびいつも思う。普段から寂しいと思わないようにしていた米美であったが、そんなヨネミも招霊おがたまの木の下に立つとどうも感情を揺さぶられてしまうようだった。


「この2人で掘った名前のせいなんかね、それともが何かあたしにしよるんかね?」


 くすっと笑った米美は幹に掘られた名前に指を這わす。ヨネミは小さく鼻をすすると、再び縁側に向けて、足腰痛そうにゆっくりと歩き始めた。

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