第15話
男は座ったまま、器用に爆睡している。
目を開けたとき既に陽は完全に落ちていて、室内に病的なまでの白さは感じられなかった。瞼も軽い。恐らく体力が回復してきたのだろう。
闇に慣れてくる。
絃は男の顔をじっと見つめた。
狼のような顔つきのおじさん。体つきはがっしりとしていて、熊のように見えなくもない。
『今のお前にできることは、ない……か』
全くその通りだと思う。思うが、胸を掻き毟るような焦燥感は消えない。心臓がばくばくと煩かった。絃はもぞもぞと布団にくるまり、男に背を向け強く目を瞑った。
「……よお。起きたかい?」
がばりと寝たまま振り返る。男は少し焦って、
「ああ、そのまま、そのままでいいよ」
と言った。少し間を置いて、点滴を気にしているのだと悟った。またひとつ身体が痛む箇所が追加されてしまったなと思った。
「あなたは……」
「俺の名か?俺は本田航一。昔の名前は望月航一ね。結婚して山を降りたんだ」
「下に住んでる、お爺さんお婆さんの、息子さん……」
「そうそう。知っててくれて嬉しいよ」
幼子をあやすような穏やかな声色だ。ワイルドな顔立ちと合わさって若干の違和感を感じたが、気遣われているのだろうとなんとなく思う。
「あの……!琴は今、どうして……ゲホ、ゲホッ!」
「あー……駄目だよ。一気に喋っちゃ。ずっと点滴だったんだから喉カラカラな筈だよ」
航一は絃の背中を優しくさすった。
「水、飲むかい?」
咳き込みながら頷くと、ゆっくりと体を起こしてくれる。枕を背もたれにして上半身を起こし座った。
「はい。これ医者から飲むように言われてるやつ。生理的食塩水だったかな」
「ゆっくり飲めよ」と渡した。透明な液体の入ったペットボトルに赤いストローが刺さっている。口をつけたのを確認して、航一はケトルで湯を沸かし茶を入れ始めた。
「……今日って、何日なんですか」
聡い子だ。発狂してもおかしくないこの状況で、現状の把握に努めている。航一はなんでもないことを言うように穏やかに告げた。
「10月15日。いや、もう12時越えたから16日だな。君達が発見されて、三日目だ」
「生存者は」
「君だけだ」
能面のような白い顔が、みるみるうちに歪む。泣きそうな表情に向かって、航一は冷静に付け足した。
「今のところは、だが」
「琴ですね」
無言で頷く。緑茶のパックを湯飲みに乱暴に入れて湯を注いだ。しばらくパックを出し入れした後、ずずと啜ってベッドに腰掛けた。
「そう。遺体の検分はあと少しで終了する。その……酷く損傷しているものもあってね、誰が誰だかわからないものもあったんだが、大方の見当はついている」
「私も、あの場で全員の顔を確認しました。琴の死体は、なかった、はず」
航一は絶句して少女を見つめた。目を泳がせて湯飲みに口をつける。唇に熱湯が当たり、「あちっ」と飛び上がった。
「お前……よくそんなことできたな。普通気絶してもおかしくないのに」
そんなことはどうでもいいとばかりに硬い動作で絃は首を振った。
「琴は死んで、ないんですよね?」
「恐らくとしか言いようがない」
「どうして?!」
早く安心したいのだろう。続きを目が促している。吸い込まれそうな瞳の奥に、薄っすらと夜空が見えた気がした。
「落ち着いて聞きなさい。君の精神状態を悪くすると判断したら俺はすぐに話すのを止めるからね」
掠れた声で「はい」と言った。航一は布団を整えてやって、淡々と続けた。
「遺体は四十三体あった。御山に住んでいるのは四十六人。全員死んだと仮定すると」
「三人分足りない……」
「そういうこと。一人は君。今ここで保護されているから生存確認はされている。明確な生存者だ。あと二名。遺体となって発見されてもいない上、生存も分からない安否不明の行方不明者がいる」
「琴と……、誰、なんですか」
「大丈夫かい?」
ひゅと喉を鳴らして絃は震えた。安否不明。行方不明。その言葉が脳を直撃するようだった。
「だいじょ、うぶです。つづけてください」
「わかった。一人目は望月琴。本家の娘さんで君の双子の姉さん。そして二人目が望月翔だ。この二名が、忽然と姿を消している」
「
「彼も君と同級生だよね。なにか、心当たりはあるかい?」
険しい顔で首を振った。俯いて、傷だらけの指だけに焦点を合わせていた。
「君が目覚めたことを知って、明日朝イチで警察が来る。君から有用な情報を引き出し捜査を進めるためだ。目覚めたばかりで辛いだろうが事が事なのでね、早い方が良いのは君もそうだろう?」
はっとするほど美しい瞳が男を見据えていた。星が瞬く冬の空。そこに恐怖の色は感じられない。どんな感情を持つとその瞳になるのだろうか。航一には察せられなかった。
息を深く吸って吐き、温くなった茶を飲み干す。
「遠慮のない連中だ。あることないことほじくり返してくるかもしれない。だが、君の答え以上に、その反応を見にくると言っても過言じゃないんだ。そこの所はよぉく肝に命じておいてくれ」
「私、容疑者のひとりなんですね」
自嘲気味に吐き捨てた少女に航一は苦笑してしまう。「そんなことはないさ、と言いたいところだが」と続ける。
「まあ一理あるだろう。ただ発見当時の状況からして、君にとっても予想外な出来事だったってことも警察は承知だ。その線は薄いと思っていい」
目元の皺を深くして笑う。一見すると近寄りがたい風貌だが、笑うと柔らかい印象になる。歳を取るのも悪くない───。見た者に、そういう感想を抱かせるような、そんな表情だった。
空になった湯飲みに熱湯を追加する。薄緑の液体に白い湯気が立っていた。
「言いにくいことがあれば今言ってくれても構わない。俺が取り次ごう。警察が去るまで俺はここにいるから。その、これから更に苦しいことが沢山待ってるとは思う。でも君はひとりじゃない。俺たちは全力で君を支えるつもりだ。それを忘れないで欲しい」
「どうして……」
「ん?」
絃は声を絞り出すようにして言葉を紡いだ。本当に小さく儚い声。航一は、遠い日の彼女の母親を思い出す。彼女によくそうしていたように、耳を口に近づけた。
「……どうしてこんなに気にかけてくださるんですか……もう、望月とは関係ないのに……私に関わっても世間の見世物にされるだけよ……」
「絃ちゃん、だっけ。……それは違う。俺だって両親を殺されてる。勘当されてたとはいえ、俺は親父やお袋からいつだって想われてたさ。御山だって生まれ育った場所だ。あんな風に滅茶苦茶にされて憤らない訳がないだろ?君を保護することが、もう死んだ奴らにとって何よりの供養になるはずだ」
絃は俯いた。全力で何かに抗っているようだった。それが今直面している現実なのか、襲いかかる幻想なのか、航一には分からなかった。
「それは有り得ない」と絃は呟いたが、その言葉は音になることなく空気に掻き消えた。
「……すみません、弱気なこと言って。航一、さん。本当にありがとう……」
「おじさんでいいよ」
「じゃあ……航一、おじさん……。私も同じそれ、貰えますか」
絃は湯飲みを指差した。一瞬間を置いたあと航一は破顔し、もう一つの湯飲みに用意する。
「熱いぞ。気ぃつけな」
受け取って飲んだ。熱いものが食道を通り、胃に到達するのを感じて、深い溜息をついた。
「……苦しいことは、全く構わないんです。辛いことも悲しいことも」
深夜。
少女の語りに男は耳を澄ます。
「だけど、ひとりは、嫌だ……」
「ひとりじゃないさ。頼りないかもしれんが、俺も、俺の女房も、お医者さまも、沢山の人がお前の味方だ」
白い湯気は狼煙のように立ち昇る。ゆらゆらと、妖しく揺れている。
「ううん、ひとり。琴がいなくなればわたしはもう、この世界にひとりきり」
否定しようと思った。だが慰めの言葉は発せられることなく、彼の胸中に沈殿していく。
少女の淡白な告白。その意味を噛み締めながら、男は長い長い夜を耐えた。
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