第13話
儚げな女が赤ん坊を抱いている。愛おしむように子守唄を歌っていた。その肩を抱く男。彼女の額にキスを落とし、人差し指を赤ん坊に握らせた。
幸せな家族の団欒。
不意に男が私に笑いかけた。優しい、ほんとうに優しい笑顔。目を見開いてしまう。彼はニコニコと笑って、私に手招きをした。
思わず足を踏み出した。
その時である。
「「─────」」
私が発した声に被せて、同じ言葉が投げかけられた。驚いて振り返る。
少年が、私をすり抜けた。
そして気づいた。私は、透明。
男は少年を胸に抱きとめ、くしゃくしゃの笑顔で小さな体をくすぐっている。ひとしきり笑い終わった後、少年に赤ん坊を覗かせた。
男は少年に何事かを約束している。男同士の固い約束。何をおいても守るべきもの。
女は自分の鼻と少年の鼻を擦り合わせた。
少年は小さな指に、更に小さな赤ん坊の指を握らせる。
笑っている。
輝かしいほどの最上の幸福が、そこに在る。
私が、思わず手を伸ばしたときである。眩いばかりの四人がぐんと、遠のいていった。
「待って────」
光は遠く、ひとり闇の中を走る。
差し出した手は虚しく虚空を掠める。それでも分かる。あの光輝。
「私も─────!」
息が苦しい。やはり邪魔だ。この身体、すごく邪魔だ───。
「おい!」
は、は、はと荒い呼吸は整わない。ゆっくりと目を開ける。闇に慣れきった瞳には眩しく感じる白い病室。そこに
「おい、大丈夫か。どっか痛いか」
知らない男が顔を覗き込んでいた。天井に伸ばしたままの右腕を不安げに見た後、安堵の溜息をついた。少し、泣いていた。
「ちょっと待ってな。先生呼んでくるから」
男はスリッパを履いた足で駆け、病室を出る。その姿を呆然と見つめていた。
ただただ瞼が重かった。身体の節々が痛い。ツンと鼻をつくアルコールの匂い。
ここは、どこだろう。
琴は生きてる────。
嵐。血の匂い。白い髪飾り。
脳を猛烈なスピードで掻き回していく記憶。身体の痛みが消えた。跳ね起きる。
「琴ッ!」
そのまま被せただけのような緑の入院着の下に肌着は着ていない。それでも絃の身体は痩せっぽちで、胸の膨らみなんて分からない。
足に力を込めて走り出そうとした。ガチャン!と突っかかり、こける。腕に点滴が繋がっていた。
「こんなもの……」
どこにそんな力があるのか、ぶちりと引き抜いた。血が吹き出すも、瞳はギラついていた。勢いよく立ち上がる。病室を出ようしたときだった。
「こと、こと、ことぉおぉ!」
「うおあ!」
一心不乱に叫び、扉を開けようとしたところで誰かにぶつかる。
「落ち着け!今は安静にしてろ!」
顔を覗き込んだ男だ。がっしりとした体格で押さえつけられた。腕から流れる血に男は目を丸くしたが、それは痛々しいものを見る眼差しに変わる。宥めようとするも、存外強い力で抜け出そうとすることに驚いていた。
「くそったれ。馬鹿力かよ、おいッ!」
らちがあかない、そう呟いて男は耳元で叫んだ。
「いいか、お前の姉の行方はちゃんと警察が探してる!今のお前にどうこうできることはねえ!」
絃は喚くのを止め大人しくなった。それでも獣のようにぎりぎりと歯を食いしばっている。全身が逆立っているのがわかったが、男は言葉を続けた。
「それよりも今は、さっさと寝て、飯食って、さっさと元気になって、情報提供なりなんなりしてくれた方がよっぽどお前は役に立てるんだ。わかるな?」
絃の力が抜けていく。歯軋りを止めて、俯いた。色素の薄い短髪がさらと表情を隠す。泣いているのだろうか。「無理もない」と、男は思った。
「辛いな。でも今は休んでくれないか。望むなら、側にいる」
絃はコクリと頷いた。傷口を避け、優しく頭を撫でるとすぐに眠ってしまった。抱き抱えベッドに戻してやる。眉間の皺は深く苦しそうではあったが、涙はなかった。
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