第5話

「ごめんなさい!遅くなりました!」


 琴がすり足で、廊下を滑るように玄関へ向かった。私は彼女が走りやすいよう裾を持ち上げてやる。

 琴が現れると、人々はほうと、感嘆の溜息をついた。


「こと、すっごく、きれい……!」

「ああ本当に。更に綺麗になっちゃって、まあ……!」


 悟をぐいと脇に押しのけ、うっとりと賛辞するのは上位四位、望月沙耶華もちづきさやかである。大学を卒業した後山を降り、出産。程なく数年で子ども二人を連れ、山へ戻っている。現在は両親と歳の離れた弟、彼女の子どもの六人で暮らしている。

 彼女は両親のホテル経営を継がず、若くしてひとり小さな建築事務所を始めた。両親の意に反した行動だった。半ば勘当に近い形で山を降りた、彼女の数年間を知る者は少ない。ただ、事業は相当軌道に乗っていること、彼女の結婚生活は失敗に終わったらしいということは、なんとなく察せられた。

 三十代半ばながら、頬を赤らめはしゃぐ姿はまるで少女の様だった。小柄で折れてしまいそうなくらい華奢な身体つきだが、胸は大層豊満である。ぶるんぶるんと胸を揺らし飛び上がる姿に、女の私でも男の劣情が理解できる気がした。琴もそうなのだろう。なんとも言えない表情で沙耶華に笑いかけた。


「悟くん、おば様、ありがとう」

「ほんっとう眼福。また家に遊びにいらして、ね。琴さん」

「ちょっとお、おばちゃ、おすな、よな」

「誰がおばさんよ。お姉さんとお呼び!」


 沙耶華は悟に向けてカッと目を見開いた。側で弟の楚海真そうまが眠たそうな女の子を抱き上げ、姉を宥めている。私と目を合わせると無表情で頭をさげた。


「ごめん、沙耶華姉さん。今度は絃と伺わせてくださいな。楚海真くん、先週成人したんだってね。おめでとう」

「いいのよ、私は琴さんならおば様って言われても全然、全く、これっぽっちも腹は立たないのよ。ほんとうよ」

「姉さん、もういいから。琴さん、ありがとう。御当主もお久しぶりです。皆さんお変わりない様で」


 お爺さんは鷹揚に頷いた。沙耶華も少しハッとして、丁寧に心を込めてお辞儀をする。


「絃さんも」「ええ」


 楚海真は少し笑んで、ぐずる姪を宥めるために去っていった。底知れない光が瞳に燻っている。彼は沙耶華以上の秀才だと聞く。彼等の家は盤石だった。

 沙耶華は私にもにこりと笑った。


「絃さんも綺麗になったわ。貴女も、琴さんといつでも家にいらしてね」

「ありがとう、沙耶華さん」


 しなやかに髪をなびかせ、沙耶華は娘たちの元へ向かった。その隙を縫うように、悟が顔を輝かせて言う。


「じいちゃ、はやく、いこ。お、おれ、おなかすいた」

「はいはい、それもそうだね」

「悟……おまえは下がってろって、あれほど……」

「だって、おれ、ことの、守り人!こと守る!だいじな、しごと!」

「悟」


 凛と響く。既に琴はかなりようだった。


「では、私の側を絶対に離れぬよう」


 声は朗々と響く。「あとーー」気圧されるように悟はコクコクと頷いた。琴は神々しく微笑んで、それから


「絃に優しくしない子は嫌いよ?」


 ドスの効いた声でボソリと呟いた。


「いや演技かよ」


 裾を引っ張る。琴がよろけ、アハハと笑った。悟は身体を縮こませ「う〜」と唸っている。


「そんじゃ、皆さん。ぼちぼちお願いしますよ」


 お爺さんが琴の頭を手の甲で叩いた。


「普通に痛い」

「では、絃。留守を頼む」


 私は屋敷を出て行く二人を見送る。

 そう、主役はこの屋敷の住人だが、私はそうではない。私はこれまで一度も、一族の宴に参加できたことはなかった。

 誰よりも側で琴の舞を見てきたけれど、本番を見れたことはない。

 黒ずくめの一族の中に純白の鶴のような舞姫。私はいつも、この光景を見つめる傍観者だった。

 屋敷の外で行列を作っている。提灯の淀んだ朱が妖しく舞姫を照らしていた。

 お爺さんが手招きをしている。笛の奏者を呼んでいるようだった。彼は第二位の家人である。よくその名を見かける、誰もが知る大企業の会長だった。どんな社会的立場を得ている人でも、この山の中ではお爺さんが頂点で、次点が琴だった。

 その何処にもいないのが私。あの屋敷に住んでいながら、この山をふわふわ漂う浮遊霊のようだと思う。

 彼等はどこに居て、何をしているんだろうか。

 何故私だけが宴に参加できないのか。私は望月の家の子ではないのか。ならばどうして私は屋敷に住めるのか。どうしてこのかんばせは、姉にこうも似てるのか。考えても胸が苦しいだけなので、今日も考えないようにする。

 私は昨日の残りのカレーを温めなおし、テレビを点けた。笛の音は高らかに鳴り響く。


『可笑しいね』


 が為の笛か。胸が騒つく。


『可笑しいね』


 広い食卓の向こうで、白鶴が舞っているのが見えた気がした。私は呆然として、カレーを掬うスプーンを落とす。

 目の醒める様な笛の音に合わせ、鶴姫は舞う。


『可笑しいね』


 私はテレビを点けた。画面の中のお笑い芸人の下品な笑い声がその音を搔き消すまで、私は音量を上げ続けた。

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