第8話 子犬(仮)は空気を読まない
夜空に、琥珀糖のような星が瞬いている。
時刻はまもなく日付が変わるかというくらいだ。錆びれた町に灯っていた明かりも、すっかり落ちて、暗くなっている。
そんなオクトーバーフェストの町外れ、少し離れた丘の上に、一軒だけ明かりが灯った家があった。
マイエン・サジェの家である。
空き家であったこの家を、マイエンは土地ごと買い取って、そこへ引っ越して来たのだ。
さて、そんな家主はと言うと。
防塵マスクに作業着と、真夜中には相応しくない格好で工具を持ち、何かを作っていた。
換気の目的で開けられた窓からは、バチバチ、ガチャガチャ、ガンガンと、賑やかな音が響いている。
真夜中に立てる音ではないが、幸いなことに、ここは町から離れている。音を気にせずに作業が出来る環境だ。
だからこそ、マイエンは自分が立てる音を気にせずに、時間を忘れて作業に没頭する事が出来た。
発明家であるマイエンは、やはり物を作る事は好きなようで、防塵マスク越しではあるが楽しげな雰囲気を醸し出していた。
作業の音の中に、聞き取りにくいが、僅かに鼻歌も混ざっている。
鼻歌と作業の音では、合わさってもメロディーにはならないけれど、それでも不協和音にならないのは不思議なものである。
「――――よし」
しばらくして、マイエンは満足そうに頷き、防塵マスクを外した。
そうして作ったものを見下ろして、満足そうに口元を上げると、諸々の電源を落としてから、作業着を脱いだ。
ラフな格好になったマイエンは、そのまま近くのソファーに寝転がる。そうして欠伸がてらに大きく伸びをした。
疲れた。だが、良い仕事をした。
そんな表情である。
「さて、そろそろ寝るか」
そう呟いて直ぐに眠気はやってきた。作業を終えた満足感の中でマイエンは目を閉じると、すうっと眠りへと落ちる。
唯一、閉め忘れた窓からは、夜明けを告げるキラキラとした光が差し込み初めていた。
マイエンが眠りに落ちてから、数時間が経った頃。
マイエンはふと、腹の上に何やらずっしりとした重さを感じ、目を覚ました。
正確には目はまだ閉じたままで、意識が浮上したという所である。
「わん!」
そこへ、至近距離から鳴き声が聞こえてきた。
(この間はイギー達で、今日は何だ……)
マイエンはそんな事を思いながら、瞼を開けた。
裸眼のぼんやりとした視界のまま、マイエンは気だるい体を動かして、起こそうとする。
だが、腹の上の重さが邪魔をして、上手く動けない。
「何だこれ」
マイエンは眉間にシワを寄せながら、ソファーの近くにあるテーブルに手を伸ばす。その上に愛用の丸眼鏡が置いてあるのだ。
動かせない体で、どうにかこうにか手を伸ばすと、マイエンは丸眼鏡を手で掴む。
「わんわん!」
その間にも、腹の上の何かは「わんわん」と鳴いている。
マイエンは掴んだ眼鏡を顔にかけ、ようやくクリアになった視界で自分の腹の上を見た。
「わん!」
そこには、灰色の子犬、のような動物が、くりくりした目でマイエンを覗きこみ、尻尾を振っていた。
「……犬?」
ポカンとした顔でマイエンは呟く。
そうして、しばしその子犬を眺めたあと、
「……あー、窓を閉め忘れたか」
と、窓を見て納得した。恐らく、閉め忘れた窓から入って来たのだろう。
マイエンはその子犬を両手で持ち上げると、ようやく体を起こした。そのまま立ち上がると、窓へと近づく。窓枠を覗き込んでみれば、そこにはしっかりと動物の足跡がついていた。
さすがにマイエンも苦笑した。こういう事は中央でもたまにあったが、不用心過ぎるとよく注意を受けていたのだ。
なので気を付けてはいたのだが、どうやら辺境にやってきて、少しだけ気が緩んだらしい。
気を付けなければ、と思いながら、マイエンは子犬を見た。マイエンに両足の脇で抱えられた子犬は、相変わらず楽しそうに尻尾を振っている。
「しかし、えらく人懐っこいけど、首輪はないし。野良か?」
マイエンは「うーん」と首を傾げた。
野良ならばもっと警戒心が強いのでは、と思ったのだ。少なくとも、中央ではそんな野良犬や野良猫が多かった。
わんわん、と楽しそうに鳴く子犬を見て、マイエンは小さく笑うと、窓枠にそっと座らせた。
「ほら、自分の家へ帰りなさい」
そうして、そら行け、と手で合図をするが、子犬は首を傾げるばかりである。
どうやら伝わっていないらしい。
マイエンとて人の子だ。動物と会話するなんて特殊能力はない。
言いたい事が伝わらなかった子犬は、何やら遊んで貰っていると解釈したようで、そのままマイエンに飛びついた。
「うわ!?」
その勢いにマイエンはバランスを崩して座り込む。
子犬は再びマイエンの腹の上に乗っかって、楽しそうに「わんわん」と鳴いて尻尾を振っている。
よくよく見れば、子犬の尻尾はまるで絵筆のようで、黒色のグラデーションが掛かってふさふさとしていた。
マイエンは半眼になって子犬を見ていたが、やがて噴き出して笑った。
そうした後で、ふと、自分の体を見て「げっ」と目を張る。シャツにもズボンにも子犬の足跡がついている事に気が付いたのだ。
嫌な予感がしてばっと部屋の中を見渡すと、カーペットやテーブル、ソファーにもべったりである。
マイエンが眠っている間に、部屋の中を駆け回ったのだろう。
「掃除……」
マイエンは右手を顔に当てて天を仰いだ。
子犬だけは「わん!」と楽しげに鳴いていた。
それから数十分後のこと。
マイエンは家の前で、子犬をわっしゃわっしゃと洗っていた。
シャボン玉がふわり、ふわりと風に乗り、辺りに漂っている。
「ええい、こら、暴れるんじゃない! ぶっ、ぐっおい、こら、犬! おとなしくせんと、目に泡が入るぞ、ええい!」
「わんわん!」
子犬は、最初は少し嫌がっていたのだが、洗い始めると直ぐに慣れた。むしろ楽しくなっているようだ。特に、ふわふわと浮かぶ泡に興味を持ったようで、タライの中でバシャバシャとはしゃいでる。
そんな楽しげな子犬とは正反対に、マイエンは髪やら眼鏡やらを泡まみれにしながら、必死の形相で子犬を洗っていた。
子犬がはしゃげばはしゃぐほど、マイエンの大変さが増えるのだ。その様子は四苦八苦、という言葉がよく似合っていた。
さて、マイエンがそんな事をしていると、
「おはようございます、マイエンさん。お洗濯中すみませんー」
と、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
声の方を見れば、そこには帽子に手を当てた男の姿があった。
誰だっけ、とマイエンは考えて、直ぐに思い当たる。先日、空気清浄施設で出会った警備員だ。
マイエンは後で知ったが、彼の名前はミスト・ブルーと言い、歳は二十代後半。ゆるくウェーブの掛かった茶色のショートヘアと、緑色の目をした青年である。
そしてイギー達に町を案内して貰った時に紹介を受けた、自警団員の一人でもあった。
見れば、ミストの後ろには、他にも二人の自警団員が立っている。
「ああ、これは、どうも」
「こんにちは、何だか楽しそうですね」
「いや、楽しいというか……」
手放しに楽しいとは言えない現状に、マイエンは言葉を濁す。
改めて考えてみれば、別にマイエンは動物は嫌いではない。なので現状は楽しいとは言い難いが、楽しくないとも言い切れなかった。
どっちだろうな、なんて思いながら、とりあえずとマイエンは話題を変える事にした。
「ところで、どうかしましたか?」
「あ、はい。それがですね、町にツヅリオオカミが現れたとの目撃情報がありまして。それで皆さんに注意喚起している所なんです」
「ツヅリオオカミ?」
「ヴァイツェンに生息する動物です。灰色の毛並に、黒色のグラデーションが掛かった尻尾が特徴の。大人しい動物なんですけど、それでも野生動物ですからね。何かあると危険ですので
「へぇ、それは大変です……ね?」
黒色の。
グラデーション。
つい最近、どこかで見た様な特徴である。マイエンはミストの言葉に『あれ?』と思って、タライの中に視線を落とした。
タライの中では子犬が、泡にまみれて気持ち良さそうにしている。
その尻尾は水を含んで細くはなったが、しっかりと黒色のグラデーションをしていた。
「町の周りには獣避けの道具が設置されていますから、滅多な事では入ってこないんですけどねー。ここだけの話、ツヅリオオカミの尻尾って高値で取引されているんですよ。だから、密猟のセンもあるかもしれないって事で、自警団総出で探しているんです」
「へぇ……もしかして、それって、こ――――」
「ツヅリオオカミを密猟した奴がいたら、俺達が問答無用でギッタンギッタンにしてやりますから、どうかご安心を!」
マイエンが何か言うよりも早く、ミストはぐっと力こぶを作って言った。
それを見てマイエンは、密猟はしていないけれど、今見せたら問答無用でギッタンギッタンにされるのだろうかと、一瞬考えた。
――――その一瞬が、命とりだった。
「わん!」
「うわっ」
突然、マイエンが洗っていた子犬が、タライの中から飛び出した。
タライの中にいる事が飽きたのだろうか。子犬はぶるぶると勢いよく体を振って泡を飛ばし、そのままマイエンの頭へとよじ登る。
その最中に、揺れる黒色のグラデーションがミスト達の目の前に現れた。
「あ、いや、違う! 違いますよ、これは――――」
マイエンは慌てて手と首を振って否定する。
だが、そんなマイエンの言い訳は、ミスト達の耳には入らない。
ミストは小刻みに震えた後、びしっとマイエンを指さし、
「確保――――ッ!」
と、鶴の一声。
掛け声と同時に、自警団員がマイエンに飛び掛かった。
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