第3話 英雄の棲む街

 新王国は、十五年前に誕生したばかりの新興国である。

 かつて、大陸を広範に渡って治め、栄華を極めた旧王国の遺産の多くを引き継いだことで、その基盤は旧王国となんら変わらないと言われているが、実際のところはどうであろう。国の成り立ちからして大きく違うのだ。一概に同じとは言えないだろう。

 そして新王国は、猫の国としても有名だった。

 首都ルーン・ルーンの至るところに猫の像や紋章があり、王宮は数多の猫が放し飼いにされていることで知られていた。無論、一般人の目に触れる機会はないものの、王宮を抜け出した猫を捕まえるために衛兵が総動員され、ついには懸賞金までかけられたという一件以来、周知の事実となっていた。

 国章もまた、一匹の白猫である。

 それはある伝説的な人物の象徴でもあったのだ。


「こんにちはーって……だれもいないの?」

《雷の星》亭の食堂に勢いよく飛び込んだキルシュだったが、店内のあまりの静けさに目が点になった。いつもならばパールかヘラ、あるいはサマリア辺りが脊椎反射で出迎えてくれるものなのだが。

 見回すと、常連客はひとりもいなかった。いつもミルクを飲んでは酔っ払ったふりをしているヘラ=キャトレットも、テーブルひとつを占領して歌を作っているパール=ジラフィンの姿もない。占い師であるサマリア=リヴィエールは、店にいないことのほうが多い。

 いつものような騒がしさは微塵もなく、彼女は、多少の期待外れを感じずにはいられなかった。これでは暇つぶしも出来そうにない。そして店内はいつになく冷ややかで、彼女の到来を快く迎え入れてはくれないようだった。

 もっとも、常連客はいないものの、客足は零ではないようだった。ひとり、バーカウンターの隅でグラスを傾けている人物がいる。

 その客は一見して奇異な格好をしていた。旅装の上に白い猫の仮面を被っている。しかもその猫の仮面たるや、極めて精巧に作られており、正面から見ると猫人間に見えるのではないかと思われた。

 しかし、冒険者など皆そのように奇異な格好をするものだという偏見を猛烈に抱く彼女にとって見れば、別段大した問題ではなかった。

 が、その客は別の意味での衝撃をキルシュ=ワーカードに与えた。

 店主のレイン=サンライズが、奇異な客人と親しげに談笑していたのだ。

 これにはキルシュも少なからずショックを受けた。まさか、レインがあのような素敵な笑顔をほかの客に見せるだなんて、想像もつかなかった。

「なんだ……おまえかよ」

 驚きながらも黙ったままバーカウンターに近づくと、冴えない青年店員が声をかけてきた。彼が店番でもするように突っ立っているのは、彼の定位置をレインが占領しているからだろう。

 キルシュは、ジョーイ=マドワーズを睨みながら、カウンター席に腰を下ろした。彼女は花屋で手伝いをしている時の格好のままだったが、特に気にする様子もない。胸元に大きく「LOVE」と刺繍されたエプロンは、父の手作りだった。

「なによその反応。お客様相手に失礼すぎない?」

「おまえを客だと思ったことはねえよ。だいたい、おまえが客として注文したことなんて数えるほどだろ」

「ぐぬぬ……言わせておけば……! わかったわよ。注文するわよ。注文すればいいんでしょ!」

「まあ、そういうことだ」

 キルシュを言い負かせたことに気を良くしたのだろう。ジョーイが、気を取り直すように言ってきた。

「――いらっしゃいませ、お客様。ご注文の方はいかがなされますか?」

「うわあ……」

「なんでそんな顔をするんだよ! 俺は普通に接客しただけだろうが!」

「いや、似合わないなーって思っただけじゃない。正直な感想でしょ。人間素直が一番よ。そうは思いません?」

「いっていいことと悪いことがある!」

「それじゃあ、なににしようかな」

「ひとの話を聞けよ、少しはさあ……」

 なぜか頭を抱える店員を黙殺して、キルシュは、テーブルのメニューに手を伸ばした。メニューはレインの手製らしいのだが、これがよくできていた。手先の器用さでは彼女の父と一、二を争うのではないか。そんなことを考えながら、彼女は注文を口にした。

「えーと……カフェラテ」

「ないだろ、メニューの何処にも」

「じゃあ、キャラメルマキアート」

「ねーよ、んなもん!」

「ええ!? じゃあなにがあるっていうのよここ!?」

「メニュー見ろよ!」

「もう、しょうがないわねえ……ミルクでいいわ」

「吟味の結果がそれかよ! メニュー意味ねー!」

「さっきからうるさいけどなに? 欲求不満なの?」

 キルシュは率直な疑問を投げかけただけだったのだが、どうやら彼にはそうとは受け取られなかったらしい。ジョーイが呪詛でも唱えるようにうめくのが聞こえてきた。

「だれかこの女に裁きの鉄槌を下してくれ……!」

 もちろん、キルシュは聞き流したが。


「ところで――レインさんの知り合い?」

 キルシュが訪ねたのは、グラス一杯のミルクが運ばれてきてからだ。彼女は、カウンターの隅でグラスを傾けながら、レインと親密そうに会話をしているらしい男が気になって仕方がなかった。見た目も気にはなるが、それはどうでもいいことだ。特注の猫の仮面程度で驚くほど子供ではない。

「ん? ああ、どうも昔馴染みらしい。詳しくは知らないけどな」

「なんで知らないのよ」

「俺が知るわけないだろ」

「店員でしょ!」

「あのな。レインさんとの付き合いなら俺よりおまえの方が長いだろ」

 あきれたような表情で、しかし事実を突きつけてきたジョーイに対して、キルシュははっとなった。顔が熱い。火が吹き出すのではないかというほどの熱量が、彼女の思考をかき乱した。胸が高鳴る。激しく動揺する。なぜだろう。レイン=サンライズのことを考えるだけで頭の中がぼうっとした。

「そ、そうだけど……」

「なんでそこでそんな反応をするんだ……」

 呆れ果ててものも言えないといった風な店員のまなざしに、さすがのキルシュも気まずさを感じた。強引にでも話を戻さなければならない。

 彼女は、再び白猫仮面を見遣った。座っているからよくわからないが、体格はよさそうだ。見るからに冒険者なのだから当然といえば当然だろう。長い棒状のものを布にくるんで持ち歩いているのか、横の壁に立てかけていた。恐らくは槍などの長柄武器だ。

 そんな彼を見つめる店主の横顔は、惚れ惚れするくらいに素敵だった。

「ず、随分親しげよね」

「あんなレインさん、初めて見たな」

 確かにジョーイの言う通りだった。レインが客相手にあそこまで親しそうに、懐かしそうに話している姿など、キルシュの記憶にはなかった。レインの言動は一言一句、一挙手一投足余すところなく思い出せるのだが。

 そしてさらに話題を変える。それは、レインのことを考えていると意識が溶けてしまいそうだったからにほかならない。

「うぐぐ……ところで、怪人・嫁請いの話って最近聞かないわね」

「なんだそれ」

「知らないの? 道行く女性に声をかけては「嫁に来ないか?」って口説きまくる怪人のことよ。一時期大騒ぎになったんだから……?」

 白猫の仮面がこちらを見たような気がしたが、どうやら気のせいだったらしい。奇異な客人は、こちらのことなど知らん顔でレインとの談笑を続けていた。それがまた憎たらしいのだが、キルシュにはどうすることもできない。馬鹿なことをしでかしてレインに嫌われるなど、まっぴらごめんだ。

「そりゃ騒ぎになるだろ……」

 ジョーイが肩をすくめて嘆息した。彼の手は、グラスを磨いている。めずらしく仕事をしていることに驚いたものの、手持ち無沙汰だからではないかという結論に達したとき、キルシュの中でジョーイの評価が下がった。

「それで、応じた女声は手当り次第後宮に住まわせるもんだから経費も馬鹿にならないって――」

「ちょっと待て」

「なによ?」

「後宮? 経費? どういうことだ?」

「言葉のまんまの意味だけど」

「ってことは、だ、それってもしかして……」

「そうよ? 怪人・嫁請いっていうのは、新王国の国王にしてかの英雄、バッシュ=フォルトゥーナそのひとのことよ。知らなかった?」

「知るかよ! ってか、なんだそれは! 規格外にも程があるだろおい!」

 ジョーイの驚き方は大袈裟にも程があるかと思われたが、このルーン・ルーンに来て日が浅いものにとってはそれくらいの反応をして当然だったのかもしれない。英雄王が常軌を逸した言動やその凄まじいまでの行動力は、首都に住む人々にとっては日常茶飯事であり、日常会話で語られる程度の話題性しかないのだが。

「英雄、色を好むってことでしょ」

「いやいやいやいや!」

「やりすぎて怒られたらしいけどね。英雄王の後宮を増改築するのにどれだけの国費が投じられたのかしらねー」

 どれだけの国費を投じられようと、平穏な日常が脅かされない限り国民は彼を弾劾したりはしないだろう。彼は英雄である。この大陸を存亡の危機から救い、人々に未来をもたらした救世主といっても過言ではないのだ。それくらいでは彼の威信は揺るがないし、人々が偉業を忘れることもない。

 バッシュ=フォルトゥーナ。彼が魔王を滅ばさなければ、この世は屍山血河で埋め尽くされていたのだから。

「……なんていうか、聞いている以上に大物だな」

「俺の嫁総選挙なんて開催してしまうくらいにはね」

「この国、だいじょうぶなのか?」

 キルシュがジョーイの問いかけに答えなかったのは、その不安への確固たる解答が用意できなかったからでは断じてない。猫仮面の冒険者が立ち上がったからだ。無意識の内に耳を澄ませる。

「それじゃあ、また来るよ。しばらく忙しくなりそうだ」

 低く、渋い声ではあったが、まだ若いように感じられた。声音には、深い感慨と、これからのことへの不安とも心配とも取れぬ感情が現れていた。

 それを受けたレインもまた、同様の表情を浮かべていた。ただし、不安は見えない。穏やかに微笑を湛えている。

「ええ、いつでもお待ちしておりますよ。くれぐれも、お体には気をつけてください」

 そして飲食代を精算し終えた猫仮面は、壁に立てかけていた布袋を手に取ると、キルシュたちには目もくれず、店を出ていこうとした。歩く姿さえ風格が漂い、なにやら近寄りがたい空気さえ纏っていた。まるで歴戦の猛者のような立ち居振る舞いである。名の知れた冒険者なのかもしれない。

 が、無論、キルシュは彼に興味などはなく、見届けるつもりもなかった。定位置に戻ってくるレインに最高の笑顔を捧げようとしたそのとき、後方で冒険者の靴音が止まった。

「ところでお嬢さん」

 低くも聞き取り易い声は、明らかにキルシュに向けられたものだったが。

 彼女が振り返ると、白猫の仮面は思いもよらぬ言葉を投げかけてきたのだった。

「嫁に来ないか?」

 

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雷の星より愛を込めて 雷星 @rayxin

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