第5話:エムデン

 イシュタリア要塞空軍基地第二巡空艦格納庫、午前2時50分、2015年7月6日


 もし昼間に高空を飛ぶ飛行機からイシュタリア要塞を眺めれば、その巨大さにあらためて驚嘆することだろう。海に一部を乗り出した250メートルの高さと一辺が5キロある巨大な五芒星の城郭。更にその周囲をぐるりと、東西22キロ、南北16キロに渡って重厚な城壁が覆っている。5本の尖塔に囲まれた巨大神殿は五角形の城郭中央地区にあり、二つの角は港湾区を挟むように海に突き出している。総督府は南西側の角だ。南東側の角は陸海空軍の庁舎と観光客の海の玄関口である国営海運公社の施設がひしめいている。残る三つの角は神殿地区を代表する市街地だ。


 そして5つの角の突端は魔力砲が鎮座している。城郭建造時から設置されているというか、神殿を守護するためのその兵器の為の砲座として要塞は設計されているのだ。100メートル近い長大な砲身は金色に塗られ、普段は乾ドックの様な巨大な穴にはまり込むように格納されている。実はこの大砲は今でも使用可能であり、定期的に検査と発射テストも行われている。もっとも兵器としては欠点が多すぎ役立たずだ。それでも象徴的な存在であり、新年の祭りに午前0時と共に都市の機能に障害を及ぼさぬ最小出力で上空に向けて撃つのはこの街の名物だ。城郭の市街地の真下は、かつてはこの要塞の主要な機能を担う軍事施設を収めていたが、今では市街地の一部、一種の地下都市となっている。もはや軍事拠点としての真の機能は城郭の中ではなく、その地下と外にある。地下は城郭どころか外壁まで無数のトンネルが延び、地下の様々な施設を接続し巨大な要塞を形成している。


 城郭と外壁の間の地上の空間は、西部住宅地区と周囲を覆う森以外は全て空軍基地となっている。何かの地上絵の様な誘導路と滑走路の他に、巡空艦基地が見える。滑走路区域と同じ位に大きいそのエリアには広い間隔でビルの様な硬式飛行船用繋留塔が5本並び、そのうち一本に特徴的な航空迷彩を施した巨大な空中空母「ナグルファル」が繋留されている。飛行船でありながら小型の戦闘機や偵察機を何十機も積み、空軍の本隊に先駆けて戦線の維持を請ける空の要だ。パトロールから帰り補給と乗組員の休息中なのだろう。隣には随伴艦の重巡「ラピス」がいる。繋留塔は帝都とイシュタリアを結ぶ週一の定期便も使うが今は空の上だ。そして繋留塔地区から少し離れ、城郭ほどではないが大きな建物がある。それが巡空艦格納庫だ。長さにして700メートル、幅が200メートル、高さは120メートルになる巨大な直方体の箱。それが3つ並んでいる。入り口は細長い扉が幾つも並びカーテンの様になっている。ここは修理の為の施設で、ナグルファルのような巨艦、いや現在建造中の更に大きな後継艦ですら容易に収められるように出来ている。


 その真ん中の格納庫に現在、一隻の飛行船が入っている。マリア・レイミアスの巡空艦「エムデン」だ。その名は地球の第一次大戦において単艦でインド洋を暴れまわった殊勲艦の名を拝借している。細長い船首部と下に傾斜した一対の大きな横舵、縦舵はなく航空迷彩の無い銀色の複胴船体と単胴船体が合わさった様な特徴的な試作艦で全長220メートル、全幅52メートルと大きさこそ外に停まっている2隻より遥かに小さい初期の軽巡並だが、可変推力式ターボフロップエンジンを積み一般的な巡空艦を上回る300キロ以上の革命的な巡航速度を誇る試作艦だ。搭載火器の使用や艦載機の離着艦を無視すれば最大400キロは出せる。

 だが正規の巡空艦としては失敗作だった。この船が優れているのは速度性能のみで、強力な可変推力エンジンの操作性は癖が強くその上新型の魔法陣の動きとうまく合わなかった。その為乗艦した飛行船乗り達からは悉く嫌われた。高速域で無理に舵を切るとスピンしてしまい、さりとて低速域では曲がりすぎてしまう。自慢の8基の可変推力エンジンを使った操艦はそのエンジンポッドが機嫌を損ね易く極めて癖が強いため、操艦性能の悪さに起因する事故やニアミスを何度も起こし、死亡事故こそ起こってないが建造物や他の巡空艦が被害をこうむっている。テスト後廃艦される所をイシュタリアの総督になったばかりのマリアが私有船、自分の足として引き取ったのだ。その後艦は彼女の要求に応えるべく改造され、その際に何度か欠陥の克服も試みられたが操舵手がこの艦に慣れた方が早いと言う結論に落ち着いている。

 その船は今、1週間前からオーバーホールのために格納庫入りしている。手を下すのは艦長以下この艦に精通したクルーたちだ。共通する規格の部分の作業は空軍お抱えの職人達に任せたほうが早いがエムデンは独自の装備が多くて自分達でやらねばならない事が非常に多いのだ。2機の艦載機を降ろして空軍に回し、全ての保護魔法を解除し艤装を外し装甲と外皮を外し骨格を検査する。貴重なターボフロップエンジンも分解され僅かな不具合も見落とさず徹底的に直される。凄まじい火力を誇る大小12基のガトリングガンも同様だ。乗員用の小火器類も手入れし直す。そして分解したのと同じ手順で船体に全てのものが戻され、神殿と歓楽街で鋭気を養ったクルー達と共に2ヵ月後には空へと戻る、そのはずだった。


 艦長ヴォル・アル・サラビックは調子の悪い3基の可変推力ポッドと格闘していた。艦の横腹付近のエンジンポッドから延びるコードはモニター用の各種センサーに繋がっていた。彼のクルー達も整備工代わりに残ったエンジンその最終仕上げをしている。今彼は3つのエンジンの推力操作装置から送られる信号を眺めながら、問題は何一つ解決してないことを悟った。

 3日前、遅れていた必要な予備のパーツが地球から届き、やっと職人の手配をしてオーバーホールが出来る、と思っていた矢先に不吉な知らせを抱えたマリアが格納庫に飛び込んできたのだ。


 ―今すぐエムデンを出す。オーバーホールは中止して即航行可能状態に戻せ、エンジンが不調なのは知ってるが動かないエンジンは置いて行け、飛べれば構わない―


 のっぴきならない事態が起きた事、それ故の命令であることを理解したが艦長であるヴォルが試みたのは、そんな命令は無茶だとマリアに現実を認識させることだった。艦載機や武装類はまだ降ろしていない、状態は良好だからこのままでもいいとして不調なエンジンはもう真っ先に降ろしている、他の艦ならまだしもこいつは元々実戦を無視した実験艦だ、縦舵が無く推力と横舵と魔術で操縦するこの艦を残りのエンジンだけで飛ばすなど問題が多すぎる、それでなくても防護魔法は解除され再起動に時間がかかる、艦とクルーの責任を負うのは持ち主だけでなく自分も同じだ。理由を説明しろ、どうしても急ぐなら空軍に掛け合え、と。

 彼もまた古参兵で第二次オフィル戦争以来のマリアの戦友でもある。生粋の巡空艦乗りで卓越した巡空艦の操縦技術から軍を退役後に彼女に誘われ、身請けしたはいいもののどうやって扱えばいいか悩ましいこのじゃじゃ馬の御者になったのだ。そして飛行船の操縦の師でもある。獣人族出身で特注の野戦服を着た2メートルを越す、いつも寝ているような細目の太った雉猫のぬいぐるみそのものといった見てくれの彼と並ぶとマリアが子供に見えてしまう。

 マリアは譲らなかった。軍には頼めない、私もこの艦の動向も情報も出来れば出したくない、だからすぐに出航したいんだと言い、ヴォルを納得させる為に急いで艦を出さねばならない理由を密かに告げたのだ、その眼は涙を堪えていた。

 彼自身が事情を理解した事もあるが戦争以来久々に見せる彼女の涙にヴォルは折れた。

 女の涙に男が弱いのは地球でもアルカディアでも一緒だ。

 完全停止した防護魔法の再起動には3日かかる、それなしで飛ばすことは絶対にできない、それは譲らない。エンジンはそれまでの時間に戻しておくから飛ばせるようにはするが、故障はそのままになる可能性が高い、お前の言ってる通りなら荒事になるかもしれないがそれ故の不利は覚悟してくれ、とヴォルは告げ、仲間に新たな予定を告げた。

 3日でも長いと思ったが、気持ちを切り替えろ、お前は戦士だろ、泣くのは全部終わってからだ、助かるものも助からなくなるぞと言うヴォルの声で高ぶった感情を一応は抑え、待つことを受け入れた。

 そしてその翌日、マリアの気持ちなど微塵も知らぬ者の起こした微笑ましくも馬鹿馬鹿しい事件で期せずして彼女は心の平静を取り戻せたのだ。


 ヴォルの眼が格納庫の扉の右端が僅かに動き―とは言え3メートルは開いてるのだが―その隙間を抜けて入ってくる車を捉えた。特徴的なシルエット、真っ黒のシトロエンDS21、自動車と言うとジープの様な軍用車かいかついデザインばっかりのこの街では何台もない車だがここに用のある持ち主は一人しかいなかった。乗り手はヴォルの姿を認め、彼のいる右舷のエンジンポッドの真下まで滑り込んできた。磨かれた様なコンクリートの床の上でタイヤが音を上げて止まる。出し抜けにドアが開く、降りてきたのはこの艦の持ち主だ。巨大な猫が呼びかける。彼女を呼び捨てにする数少ない人物の一人だ。


「マリア、いい知らせと悪い知らせがある、どっちから先に聞きたい?」

「いい知らせから頼む」

「とりあえず動力系統は3時半には終わる、辛うじて徹夜は阻止した。防護魔法の再起動の進行も順調だ、出航は21時と言ったが19時にはいける」

「ありがとう、悪いほうは?」

「エンジンと言うか可変装置がやはり言う事を聞かない、アクチュエーター周りいじればマシかと思ったが駄目だ、もうあきらめた。マウントから全部交換しない限り解決しない。スピードには支障はないし力技で動かせば機動性も何とかなるが揺れるぞ、にはをかけておいたほうがいい」

「そいつは思ったほど悪いニュースじゃないよヴォル、寧ろ好都合だ。手間が省ける。」

「ははは、まぁ寝坊さえしなきゃいいだろ。こんな時にお前にイタズラ付きで恋の話なんて面倒持ち込んだんだからペラギア嬢も運が無いな」

「いや…あの子は運がいいと思うよ。私が捕まえていなければもっと面倒なことになった。まして陛下のお忍びに居合わせたんだ、直にお許しを頂いた以上私が言うべきことはなくなったよ。そういう私も余り人の事は言えそうにない。それはそうと仕事をくれ、私も手伝う。」


 彼女はだぶだぶの作業用のカーキ色のツナギを着込み、靴はいつもの黒いロングブーツを脱ぎ、作業靴代わりの短かくごついブーツにに履き替えていた。ドレスグローブも外し代わりに薄手の白い手袋をはめている。腰のポケットには皮手袋が無造作に突っ込まれてる。ツナギのチャックは臍の辺りまで開いており、いつもの服の上からそのまま着込んだことが分かる。


「助かるが暑いだろ?船室行って着替えて来たらどうだ?」

「下に着るものを忘れた、裸でこのツナギはかゆくなる、肌に合わん。」

「…また上だけ持ってきたのか。」

「うるさい。」


 彼女の服は素肌にそのまま着る事が前提だ。それ以外は上にローブを羽織るのが普通だ。それは透ける服で下着を着るのが見栄えがどうとか言うファッション上の問題ではない、この服を作った人物はそれが最も重要な問題だ、聖なる官能の街イシュタリアの総督たる彼女にはそれに相応しい色気が必要なのだと主張したが実際は二の次だ。血を吸う事を好まぬ吸血鬼であるマリアが、夜の間に大気中の魔力を効率よく補充し、昼の間に放出してしまう魔力を自身の内に留めなおかつ日光と日中の魔力から身を守るための防護服としての役割を持っている。服に仕掛けられた数多の術式はきちんと肉体に接続すること、つまり素肌で着なければ効果が薄い。他の服を着る機会もないことはないがパーティなどでいつもより飾りたくなったらこの服の上にヒマティオンの様な専用の布を巻けば全く意匠の異なる服が出来上がってしまう。

 整備やら雑事で皆に混じって仕事をするのも彼女は好きだが、作業服姿になる場合は普通は長袖のシャツやタイツを下に着る。頑丈さ一辺倒の作業着は下に何か着ていないと着心地が致命的に悪い。だが彼女のいつもの服がそんな状態なので下着を忘れるのも珍しくない。面倒だと男達の様に素肌に着た事もあるが敏感肌の彼女には無理だった。あちこちかゆくて仕事にならず一度で懲りた。


「ほんじゃお言葉に甘えよう、色々頼む。力が余ってるところでそこのエンジンの予備パーツと食料コンテナを頼む。それが終わったらヘリウムの残量と操舵室の計器見ておいてくれ、俺もサビーナも見てるが念のためだ。」

「心得た。」


 貨物用のリフトは地味な道具だが非常に便利だ。堅牢な造りであっても酷使されるため修理工場と現場を往復するが最優先で軍と海運公社が持っていく。この街の総督とはいえ個人の船である以上、順番は後回しにされる。公務として書類を出して無理やり確保するのは今回の目的に合わない。入庫時に艦長が整備場の責任者に酒を持って行って確保した2基のリフトは今、エンジンの取り付けに使ってしまっている。

 ヴォルも見かけ相応に力持ちでクルー達も皆重労働すら屁とも思わぬ体力自慢が揃ってる上に保護魔法もあるので地球なら機械がなければ運べないようなものでも手で運べるが限度はある。ヴァンパイアの腕力は人間達よりも魔獣などが比較対象となる。人間だった頃は王侯貴族とは遠い一般人に過ぎなかったマリアはこう言う単純な仕事を決して厭わなかった。数百キロもある重たいコンテナを空の箱の様に抱え次々と貨物室に運んでいく。

 それが終わると彼女はヴォルから小さな工具箱を借りてヘリウム保管庫へ向かう。

 アルカディアの硬式飛行船は昔からヘリウムを使う。帝国のガス田はアメリカのそれ同様に天然ガス中に含有するヘリウムの量が多く、それが飛行船を発達させる原動力にもなった。地球でも危険と指摘されていた水素を敢えて使う必要がなかった。

 彼女はボンベに取り付けられた計器を一個ずつチェックする。ガスの残量は充分、ボンベの劣化などはない。次に操舵室へ向かう。広くて長い通路だ。ガスタービンエンジンの様な鋭い金属音を漏らしながら起動シーケンスを続行している保護魔法陣は通路より上の船体中央に位置している。補機室、艦載機用格納庫、第二貨物室、弾薬庫、治療室、厨房兼小食堂を抜けて乗員用の船室へ。建造当初は60名以上の乗組員や戦闘員に対応するため手狭だった。それは今や区画を一新し、マリアやヴォルを含め10名程の乗員と最大5名の客人を招く為のシャワーやトイレを完備した地上のホテルのような船室が全員に用意されている。艦体の各所に設けられた武装をコントロールするための機器は操舵室に配置されている。

 操舵室は見た目ジェット旅客機の操縦室の様に見えるが違うのは広さだ。様々な機器に囲まれた席と操縦桿は左右に配置されている。そして後方に機関士用の席が2つに火器操作用の席が3つ、通信士席は1つ、保護魔法管制用の席が1つ、左右の壁に沿って並んでいる。それぞれの席の間には折りたたみ式の予備の席があり、乗員全員が主要なやり取りをここで行えるのだが、巡空艦にはつきものの大食堂を兼ねた会議室はなくなっている。この艦を改造したときに全員に豪華な部屋を、会議室などいらんというオーナーとクルー達の総意だった。軍用の航空機や船舶を払い下げる際には有事に備えて不要な改造を慎む様契約には制限条項があるがそれは完璧に無視されたのだ。


 夜間用の赤い照明の灯る操舵室内は静かだった。操舵席は2つ、一つは空軍在籍時に艦長でありながら操舵もこなしたが狭いスペースに常に難儀した大柄なヴォルの為に座席やスイッチの配置などを調整し直したものでもうひとつは副長やマリアのための座席だ。マリアはそちらに座る。保護魔法が再起動していない以上それに関わるシステムのチェックは離陸直前にやらねばいけない。だが主要な航空計器やエンジンの操作系は別だ。

 予備電源を入れる、目を覚ました各機器類を点検―エンジンを示す8つの警告灯の内3つが黄色い、可変推力装置の故障を示している。あとは皆緑色だ。航空計器―全てクリア。対地、対空レーダーは異常なし。気嚢圧、浮揚ガス注入排出系統、その他計器類も異常なし。次に馬鹿でかいヴォルの座席に腰掛け、先ほどの手順を繰り返す―クリア。その後機関士席から順に操舵席の内容を裏付ける、オールクリア。最後に通信士席のスイッチを入れ、外にいるヴォルを呼び出す。


「ヴォル、終わったぞ。後は再起動が終わってからだな。」

「わかった、こっちもエンジンのチェックは終わった。んじゃもうみんな寝かすよ。」

「そうか、では私も戻るかな。」

「こっちで泊まってかないか―いちいち面倒だろう?着替えとか明日家の者に持って来させればいい。お前の車を持って帰る奴がどのみち必要なんだからそのついでだ。夜食と酒もあるぞ。」

「ではお言葉に甘えよう。」


 マリアはそのまま自分の部屋に向かう、途中工具箱をヴォルの部屋に置く。寝に戻ってきたクルー達が談笑している、彼らはマリアに気付くと軽く敬礼する。軍でやったら確実に鉄拳が飛んできそうなへろへろとした敬礼だ。彼女は気にせずフランクな答礼を返し部屋に入る。個室備え付けの通信術を起動させ待機中のメイドを呼び出すと、今エムデンにいるが整備を手伝うので公邸には戻らずそのまま出発すること、自分の車を持って帰る者も連れて着替えなど見繕って昼には格納庫に来るようにと伝えた。それが終わるや否や大きな船室の窓のカーテンを閉めると着ているものを無造作に全部脱ぎ、ほぼ一日休まず動き回った疲れを癒すべくシャワー室に入った。熱いお湯で体と頭を流し全身をざっくりと洗い、再び湯を筋肉の線に沿うように身体の隅々に当てる。大事な習慣だ、これをするとしないとで寝起きの良さが違う。お湯のマッサージが終わると頭を拭きバスローブを羽織り、ベッドに腰掛ける。通信術式を公共放送モードに合わせる、目当ては睡眠薬代わりの夜の音楽番組だ。


 エムデンの艦内の居住エリアは、それそのものが彼女の休息所として機能する術式を備えており、彼女の邸宅や公邸の私室に施されたようなヴァンパイアの為の伝統的な魔術装備―早い話が棺桶の事だが―には及ばないが、無補給では10日程度の滞空時間しかなく、補給を伴う長距離飛行でも3週間が限界のこの艦での彼女の快適な生活に貢献している。例の服を着ていなくても艦内のベッドで寝ていれば普通に回復できる。もっとも昼夜を問わず叩き起こされ緊急発進を余儀なくされる戦場のパイロットとしての習慣から彼女は飛んでる時には就寝中もいつもの姿だ。自宅の中や格納庫での整備以外で寝間着や作業着を着る事はない、だが正念場はこの艦が空に浮いてイシュタリアを離れた後だ。少しでも身体の緊張を抜くために今晩は寝巻き代わりのバスローブでいいと思った。

 ふとドアをノックする音。


「マリア様、寝酒をお持ちしましたよ、あとおつまみも。」

「ありがとうサビーナ、今開けるよ。」


 入ってきた人物は空軍時代のヴォルの部下で恋人でもある人物だ。先程マリアが着ていたのと同じ作業服の袖を腰で結び上はタンクトップ1枚だ。サビーナ・アウグスタ、この艦の副長をしている。猫の獣人族の出身ではあるがヴォルとは違い、黒い耳と尻尾だけが種族的な特徴を表している。背はマリアよりも頭一つ低く、イシュタリア神殿の女神像の様な豊満な身体に紫色のショートボブと白い肌、緑色と青の左右で違う色の瞳。結婚こそしていないがヴォルの妻同然の存在だとマリアも周りも認識している。右手には蓋を開けた二本のビールの小瓶と左手には松の実を詰めた器を持ち、脇には太腿まで丈があるような黒く長いブーツと長手袋を挟んでいる。

 彼女はマリアの姿を認め顔を赤らめる。ローブの前が開きっぱなしだったからだ。ダイナマイトボディと言う言葉が適切なサビーナとは対照的なスレンダー体型。サビーナも神殿地区にいればサインやツーショット写真を求められる程男達に人気があるのだが、それとは裏腹に彼女はマリアの様な身体に憧れていた。それが無防備な姿で目の前に立っていると同性でも心臓がバクバクするのを感じてしまう。普段あのような服を着ていても何も着ていないのとでは全然違う。目のやり場に困る。


「だらしがないですよ、もう。私達しかいないからって前ぐらい閉めてください。」

「ああ、ごめん。」


 風呂上りで緊張が完全に抜け切ってるマリアはそんなサビーナの気持ちなど意に介さない。申し訳程度に襟を持って前を隠しビールと松の実を受け取り、ベッドに戻る。サビーナは靴と手袋をソファの上に置きマリアの隣に座る。

 サビーナは非常に聡明かつ穏やかな女性で、大雑把な武人肌のヴォルの前では部下らしく一歩引いた態度を取り、無頼を持ってなるこの艦のクルー達の中で荒っぽい言葉を使わず丁寧さを決して忘れない。大人しい淑女に見えるが、マリアは第三次オフィル戦争で見せたこの女性の恐ろしさを知っている。彼女はかつてヴォルの艦の偵察機パイロットだったのだが、軍に黙って戦闘機用の機関砲と対地攻撃用のロケット弾を愛機に積み込みオフィルの地上部隊を機会を見つけては奇襲をしかけていたのだ。当時の記録は抹消されているが少なくとも200名以上の敵兵と40台近い車両を屠っているはずだ。それは戦争で両親と兄姉を殺された事への復讐なのだが、ある日降伏の意を示した敵小隊―それこそが彼女の家族の真の仇で彼女はそれを狙っていた―を上空から射撃して一兵残らず殺し、彼女の行為を黙認し擁護したヴォル共々査問会にかけられた。彼女は一切の許しを請わず復讐が叶った今どんな罰を受けても本望だと言い放ち、ヴォルも罰するなら俺一人にしろと啖呵を切った。将兵の多くが彼女や彼に同情し情状酌量を求めたが法務官や軍事委員会の元老達にとってこの種の規律違反は大目に見るわけにはいかなかった。二人は結局、この件に関する一切の口外を禁じられ軍を追われた。正式な軍法会議を免れ、恩給付きの退役が許可されたことが唯一の情けだった。


「あの…ペラギア様はうまくいきましたか?」

「ああ、二人きりにさせたのならすれ違うかもだがそのために私が立ち会ったんだ。あの無神経な朴念仁の逃げ場は封じた。思った通り何も考えてなかったようだが好きって言われて嫌な訳がない。」

「ふふ、あの子はああ見えて一途ですからマーティンさんもきっと幸せになりますよ」

「まだまだその話は当分先だ。表向きとはいえ決め事、彼女の実家はもう大人になるんだから口を出さないと決めてる。だから使用人の仕事はちゃんと覚えてもらわないといかんし、マーティンには一生街は出れないと脅しておいたがペラギア共々一人前になれば状況は変わる…いやあいつら次第だが、そうなってもらなわいといかん。」


 マリアはビールを喉に流して笑みを浮かべて見せる。

 サビーナはペラギアを可愛がっており地上での休暇ではよく一緒に遊んでおり、ペラギアも彼女の前ではイタズラなどせず素直だった。昼間の件はサビーナも聞いており気にしていたのだ。何を言われるか分からなかったので最後の大失態は伏せた。

 サビーナはその後他愛もない話題を持ち出した。新たに就任した若い少年神官達の性的趣向やら神殿にやってきた有名人の酒場での痴態や帝都での決闘騒ぎなどの話題だった。だが彼女がここに来たのはそう言う事ではない。ヴォルからは一応聞かされたが、彼女はマリアの口からも聞いておきたかったのだ。


「それで…あの後何か分かりましたか?」


 マリアが首を振った。彼女の中で再び焦燥感が鎌首をもたげ始めたが深呼吸して抑える。


「全然駄目だ、通信が再開して対応部隊が横浜の支部に急行したが4名の駐在員は死んでいた。ホームでは3人が死んでいた。敵の総数は不明だが5人死んでいるとの事らしい。見つかったクルガン公のご遺体を調べたが、ご自身の負傷を無視して亡くなられるまでジンとリカへの術式を使用していたであろうとのことだ…だが二人は行方不明だ。」

「そう…ですか。」

「扉が開いたのは確かだ。向こうにはもういない、後は類推に過ぎんが二人が生きているなら他に手がかりがない。現に向こうで臭い動きも始まってる。」

「わかりました、捜索には万全を期しましょう」

「うん……そうだな、もう寝ようか。」

「ええ、ではまた後で。」


 サビーナが退出した後、マリアはベッドに突っ伏した。枕を抱き顔を埋める。


「ジン…どこにいるの…?」


 涙が出そうだったが堪えた。お前は戦士だろ、というヴォルの言葉を思い出した。



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