その7
「ありがと……遠田君?」
引き戸に手をかけたまま、呆然と僕を見つめているのは井原だった。
危なかった……もう一瞬早かったら、いちばんヤバい現場を見られるところだった。
いや……見られたか?
床にぺたんと座った奏野が、白々しく言い訳する。
「あ、あの、床にコンタクト落としちゃって……悪いな勝昭。 」
「弓ちゃん、いつもメガネでしょ?」
井原が不審そうに顔を首を傾げる。奏野に、これ以上の言い訳は不可能だった。
「あ、そうね、は、はは、はははは……」
何気なく、しかし的確に矛盾を突いてくるのは、いかにも井原らしい。ここでごまかすのは、かえって不誠実だという気がした。
僕はまっすぐに立ち上がって、井原をまっすぐに見つめた。
「ごめん、井原……これは、その……間に合わなくて、それで……事故なんだけど、信じてくれないんなら、それでいい。 」
許してもらえなくても仕方がないと腹をくくっていたが、井原の口から出たのは、意外な一言だった。
「間に合った」
あまりのことに、返す言葉がなかった。僕たちは、レポートの代返に失敗したのだ。
レポートは時間切れ、目の前……というか眼下にあったノートは回収できなかった。どっちの提出も、間に合うわけがない。
奏野も眼鏡の奥の目を丸くして、疑問を代弁してくれた。
「どうして?」
井原が答える前に、後ろからのそりと現れた影があった。
巡回の教師かと思って、隠せるはずもないパソコンの前に立ちはだかる。両脇を見れば、多賀も奏野も同じ大の字のポーズをしていた。
異様な沈黙が、辺りを支配する。何が起こったのかよく分からないまま、僕だけが咄嗟に言い訳した。
「あ、先生、いや、これはその……お前ら死んだふりかよ! 」
いつの間にか床にうつ伏せに倒れていた奏野と、キーボードに突っ伏した多賀を眺めて、井田がきょとんと小首を傾げている。
そこへ、聞き覚えのある、のそっとした感じの声がかかった。
「何やってんだ、お前ら?」
間延びしたその声は、タイムリミットが来ても姿を現さなかった風間のものだった。
真っ先に跳ね起きたのは、奏野だった。
「何で今ごろ……」
詰め寄ったところで急に立ち止まったが、その理由は僕にもすぐ分かった。
ムダにデカいその手の中にあるのは、空になった井原のクリアケースだったのだ。
僕は窓際に駆け寄った。見下ろしてみると、それがあった辺りの屋根には、教師が1人立っている。そこから怒鳴り散らされてうろたえているのは、新島だった。
それはそれで見ものだとは思ったが、何が起こってるのかさっぱり分からない。
「何で……?」
気が付くと、多賀も僕の隣にいた。
「俺にも、さっぱり」
聞かれもしないのに答えた多賀も、まずは混乱した頭の中を収めたいのだろう。どれだけ冷静でも、説明のつかないことにはさすがに動揺するらしい。
奏野はといえば、僕と多賀、風間と井原の顔をかわるがわる眺めながら、眼鏡の向こうの目をしぱしぱさせている。
風間はいつもの通り、のそっと答えた。
「ずっと外のトイレに閉じ込められてた、ごめん」
こいつの言うことには、しばしば主語がない。僕は待たされた怒りもあって、少しイラつきながら尋ねた。
「誰に?」
「たぶん、新島……尾行されてさ」
僕と風間の話が、昨日の人混みの中で聞かれていたのだろう。新島は俺たちの作業場所を確かめようとして、いちばんトロい風間を追っていたのだ。
やっと話についていけるようになった奏野が、呆れたように確かめる。
「で、外のトイレに隠れたんだな?」
その一言で、僕の頭に稲妻の光が走った。
あのロッカーをバリケードにしたのは、新島だったのだ。
首を傾げながら、間を空けずに奏野が聞いた。
「新島と、他に誰?」
ちょっと考えて、風間は答えた。
「……新島だけ」
大きなロッカーを、えっちらおっちら1人で引きずって歩いている性悪美少女の姿を想像すると、可笑しくもあり、バカバカしくもあった。
僕は思わずつぶやいた。
「そこまでやるか……」
「新島真由って、そういう女」
皮肉たっぷりに奏野が答えた。
「だから言ったろ、肝心なことは自分だけでやるって」
井原が哀し気に微笑んだ。風間はどう思っているのか気になって、その表情をうかがう。だが、わずかに早く、多賀が興味深そうに尋ねていた。
「何で分かったんだ?」
外のトイレにいたのに、なぜ分かったのか。それは、僕も疑問だった。
だが、それには井原が答えてくれた。
「私が……先生に相談したの。ノートを隠されました、って」
これも意外だった。今まで逃げるしかなかった井原が、どんな形であれ、行動を起こしたのだから。その先を聞かないではいられなかったが、その一方で、心のどこかに一抹の不安が引っかかっていた。
「それと……風間とどういう関係が?」
「先生がしゃべってるの聞いた」
ぼそっと返ってきた言葉を、奏野が継いだ。
「新島が自習室から体育倉庫の上に、クリアケースを落とした、と」
窓際でのゴタゴタとのつながりがやっと分かったのか、多賀がグラウンドの彼方を眺めながら鼻で笑った。
「奏野に追い払われて予防線を張ったんだろう。自分の持ち物だってことにするために」
英雄扱いを避けるかのように、奏野が風間を労った。
「で、そこで先生に出してもらったわけか」
「事情はよくわかんなかったけど、それが井原さんのだって知ってたから、自分で拾いに」
確かに、風間の図体だったら体育倉庫の上にも軽く登れるだろう。僕は再び、窓の下を眺めた。
「その結果が、これか」
体育倉庫の屋根から下りた教師に、新島が問い詰められている。落としたと断言したものがないことについて、追及を受けているのだ。
それを知らない井原は、ただ申し訳なさそうに微笑んだ。
「ありがと、奏野さん……ノートは出してきたから」
さかのぼれば、新島との対決がハッピーエンドに流れを変えたのだ。
奏野は肩をすくめて、流し目を僕に送った。
「それなら遠田に」
井原には悪いけど、結構、色っぽいと思った……意外にも。もちろん、そんなことが他人に分かるはずもない。井原の微笑は、満面の笑顔に変わった。
「ありがと。バイトがんばろ!」
「ああ!」
ちょっと照れ臭かったけど、それは押し隠して、僕もガッツポーズなんかしてみせる。
冬は、これから始まるのだ。
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