その6
「あ……」
思わず声を立てた僕の口を、奏野が横から塞いだ。
「何やってんだ遠田! 離れろ! 」
まだ新島の後ろ姿が見えていたけど、そんなこと構っている暇はなかった。
「あったんだよ、井原のノート! 」
「どこに? 」
聞きながらも、多賀の手は止まらない。
「ほら、ここ! 窓の下だよ! 」
指差した先は、見なくても分かったらしい。
「……体育倉庫か!」
多賀は納得したようだったが、それでも立ち上がることはない。奏野も、僕をパソコンに引き戻そうとする。
「それはいいから、こっち来い! 」
この揉みあい絡み合いに、多賀は徹底的に傍観を決め込んだ。
「声デカいぞ、静かにやれ」
いつの間にか、新島の姿は消えていた。でも、そんなこと気にしていられない。
「そこにあるんだよ、校舎際の屋根の上に! 」
泣き叫びそうなのをようやく抑えて主張する僕を、とりあえず黙らせようとでも思ったんだろう。多賀がようやく話に応じた。
「間違いないか?」
直ぐ真下には、校舎際に建てられたプレハブの体育倉庫が見える。その屋根の上に、見覚えのあるクリアケースが落ちていた。
「青い透明のアクリルケースだ。チェックの模様がある」
そこで更にツッコミが入った。
「俺はノートの話をしている。」
静かな口調でたしなめる多賀の眼を見据えて、僕はきっぱりと告げた。
「トリコロールのノートだよ! フランスの国旗みたいな! 」
多賀はそれを確かめもしない。ため息ひとつで、僕の言い分をようやく認めた。
「性格の割に派手な表紙だな……遠田が言うんなら間違いないだろ。実験中でも井原をこっそりガン見してた遠田が言うんなら」
皮肉たっぷりな物言いにはカチンと来たが、一刻も早くやることができた。
だが、奏野は僕の手を離さない。
「なに呑気な事言ってんだ、お前も止めろ多賀!
「そんな暇があっても、俺はその分、風間の分を捏造する。」
キーボードを叩きながら、半分は奏野に、半分は僕に言っている。
まとめると、「時間と労力のムダだ」ということだ。
でも、僕は確信を持って言い返した。
「ノートがあるんなら、それ出せば済む! 」
すると、多賀は根本的な問題を冷ややかに突きつけた。
「どうやって回収する気だ? 」
簡単なことだった。全てを解決する方法がある。
「ここから飛び降りる」
だが、奏野は僕を離さなかった。
「ここ何階だと思ってんだ!」
僕の口から、多賀みたいに抑揚のない言葉がこぼれる。
「建物の5階」
もっとも、多賀と比較してみると冷静さには著しく欠けていた。とにかく、井原のノートを回収して提出を間に合わせることしか考えられなかったのだ。
だが、奏野はそんなことなど忘れたかのように僕を引き戻しにかかっていた。
「屋根壊したらどうすんの!」
そんな理屈はもう、僕には通用しなかった。頭の中にあったのは、宿題の提出と冬休みのアルバイト、そして井原への告白のことだけだった。
「離せ……」
窓のロックにかけた手を、奏野は力任せに引き剥がした。
「やめとけ死ぬぞ!」
それでも窓を開ける僕の手を強引に掴んだとき、振りほどこうと暴れた僕の肘が、何か柔らかいものに触れた。
「きゃ!」
突然上がった甲高い悲鳴に、僕は我に返った。振り向くと、奏野が意外にある胸を抱えて僕を睨んでいる。
「あ……ごめん」
多賀がキーを叩きながら、ぼそっとつぶやいた。
「見なかったことにしてやるよ、今のセクハラ」
「いや、今のは……」
うろたえる俺など放っておいて、奏野がキレた。
「見てたんなら止めろ多賀!」
僕の危険のことを言っているのか、自分の恥ずかしさを言っているのか、それはよく分からないままで終わった。奏野が窓際に駆け寄ったからだ。
「新島……」
それを聞いて、僕も窓の下を確かめた。体育倉庫の辺りをうろうろしては、屋根を見上げている。腹の底から唸り声がこみ上げてくる。
「そこまでやるか……」
原稿を打ち続けている多賀が、僕たちを制した。
「やめろ」
だが、僕の怒りは治まらなかった。つい、窓から身を乗り出して叫びそうになる。
「新島お前……!」
「静かに!」
そう低く鋭く囁いて、僕を文字通り頭から押さえ込んだのは奏野だった。さっき触ってしまった胸が首筋辺りに当たる。
多賀が作業を続けながらつぶやいた。
「気づかれたな」
溜息をつく奏野に解放された僕は、墓穴を掘ったのを自覚した。
この自習室から体育倉庫の屋根にクリアケースを落としたのは新島だ。奏野の脅しはハッタリだったけど、新島にとっては充分な告発となったわけだ。自分で回収にきたが、屋根のどこらへんに落としたかは、下からでは見当がつかない。
さらにキーを叩くスピードを上げた多賀は、淡々と続ける。
「新島に打てる手が、俺たちには打てない」
その通りだった。新島はさっさと証拠を隠滅するだろう。井原のなくしたノートを見つけたとか何とか、誰か教師に頼んでクリアケースを回収させればいい。だが、僕たちがそれをやれば、情報処理部の機材持ち出しと、提出物の代返がバレてしまう。
方法は1つしか残っていなかった。
「僕、行くからね」
窓枠に足をかけると、奏野は僕の腕を掴んで引き戻した。今度は、もろに手が柔らかい膨らみに押し当てられている。僕はとっさに、セクハラまがいのトリックを使った。
「ちょっと、胸が、胸が……」
さっきの悲鳴とリアクションからして、絶対に慌てて手を離すと思ったのだ。だが、その読みは外れた。
「そんなん知るかああああ!」
引き戻された僕は、胸の谷間に顔を埋める形で床に転がった。それにも構わず、奏野は横たわったままで多賀に聞いた。
「あと何分?」
多賀は片手でキーを叩きながら、腕時計を眺めて答えた。だが、それはあと何分というレベルではなかった。
「あと5秒、4、3、2、1……」
もう、おしまいだった。僕の身体の中に、後悔の思いがこみ上げてくる。井原のノートを見つけたからといって、危険を冒すことはなかったのだ。その分、最初に分担した原稿を必死で打っていれば、たとえ不完全なレポートでも、何とか提出の目途は立ったかもしれない。
もしかして代返がバレるかもしれないが、そこはもう一蓮托生だ。井原のためだったら、どんな罰も平気で受けられる。椅子にもたれて天井を仰いでいる多賀も、すぐ目の前で苦笑いしている奏野も、同じことを考えているような気がしていた。
だが、そこでいきなり自習室のドアが開いた。
「やべっ!」
女の子らしからぬ声を上げて、奏野が僕を押しのける。当然だ。この姿勢は、不純異性交遊と間違われても仕方がない。
だが、やってきたのは巡回の教師じゃなかった。
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