その3

「あ……」

 大きなトラブルに気付いて、僕の手が止まった。奏野が目ざとく見つけて叱咤を飛ばす。

「勝昭、口より手!」

 ウルフカットの髪の女子にどれだけ鋭い目で睨みつけられても、これだけは無理だ。無い袖は振れない。

「文がつながらない」

「佐紀の下書き、昨日みんなで分けたろ! 何で!」

 奏野の怒りに、多賀が淡々と応じた。

風間かざまの分だ」

 風間邦衛くにえ。図体がデカい割にいつもボーっとしていて、実験でもやることなすことがいちいちノロい、というか何もしない。それでもなぜか時間通りには教科書通りの結果が出るのは、実に器用にフォローする井原のおかげだ。

 だが、この件については、それも期待できない。さらに、タイムリミットが迫っている。

「久平、あと何分?」

「50分くらい」

 微妙な時間だった。教師の巡回は1時間後で、そのときには情報処理部員が機材を回収にやってくる。化学の担当が戻ってくるのも1時間後だ。3人いれば、その全てに1人ずつの分担で対応できる。

「バレたら一巻の終わりだよ、このパソコン。巡回のセンセイに見られたら。」

 どんな絶対の危機でも淡々と告げるのが多賀というヤツだ。

 一方で奏野は、声を抑えて尋ねる。

「先生は? 」

「ここのカギ借りたとき、成績処理の会議行くとこだった」

 多賀は事実だけを告げた。

 いつになく小さくなっていた奏野はというと、そこでやっと安堵のため息をついた。

 それが妙に色っぽくて、僕は慌ててパソコンのキーを叩いた。

 もちろん、誰も気づいてはいないけど。

 奏野の指もまた、作業を止めることはない。

「しばらく来ないか……ここ5階の端っこだし」

 ペースを取り戻した奏野が必要とする回答を、多賀は一言で返した。

「あと1時間って言ってた。」

 タイムリミットを確認した奏野は、俄然やる気を出した。タイピングの勢いは、その武者震いにも衰えることがない。

「さっさと片付けるぞ」

 むしろ、僕のほうが背を曲げてキーボードにかじりつき、作業の手を遅らせる羽目になった。

 奏野が身体を揺すった勢いで、意外にある胸が揺れたのだ。それに気付いたうしろめたさで、そっちがまともに見られなくなった。

 多賀のほうはというと、同じものを見ていたはずだけど、こっちは平然としたものだ。

「言われなくたって」

「バレたらウチの部、活動停止だ」

 呻くような奏野の声に、多賀は冷ややかにツッコんだ。

「そっちかよ」

 多賀がひたすら締切を気にしているのに対して、奏野はあくまでも部の存廃を基準にものを考える。どっちもどっちだ。持って生まれた性分は、そうそうどうにかなるもんじゃない。

 苛立つ奏野は、僕に矛先を向けてきた。

「ちゃんと連絡したのかよ」

 風間が今すぐやって来れば充分な余裕はあるが、来なければ井原はおしまいだ。それに焦っているのは、僕ばかりではない。奏野の声も怒りに震えていた。

「来るって言った」

 昨日、帰りに校舎を出るところを人混みのなかで捕まえて、直に言った。こいつは、グループチャットはおろかメールもやらないからだ。

 普通なら放っといても差し支えないヤツだけど、この件ばっかりはそうは行かない。何の罪もない井原佐紀の冬休み……それから、僕の幸せがかかっている。

 それを、なぜか多賀は知っていた。

「井原と一緒に郵便局のバイトするんだろ」

「何でそこで出てくるんだよ、その名前が」

 図星を突かれて慌てたところで、奏野が口を挟んでくる。

「みんな知ってるよ、お前が佐紀ちゃんのこと好きだって」

 僕と井原は、冬休みの年賀状配達アルバイトに応募している。郵便局に行く方向が同じだから、帰りも一緒になろうと思えばできる。僕はそのチャンスを捉えて、この冬に告白するつもりだった。

 多賀がキーボードを打ちながら、ぼそっと言った。

「協力してやるよ」

「……ありがとう」

 奏野がにやっと笑った。

「上手く行ったら何かおごれ」

 でも、このままでは僕の告白も、奏野と多賀の無銭飲食もなくなる。そもそも、提出物の代返がバレれば冬休み中の謹慎では済まない。

「逃げたんじゃないのか」

 多賀が冷ややかに言ったが、それならかえってチャンスだ。

 実をいうと、井原は風間と妙に仲がいいのだ。風間のミスをフォローするときのさりげない仕草と笑顔は、たまらなく可愛かった。何で僕の実験のほうは調子よく行くんだろうと思ったくらいだ。

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