お互いを埋め合う

草鳥

お互いを埋め合う


 残業は、つらい。

 私、有明恵ありあけめぐみの脳内にそんな言葉が踊っていた。


「いや、終業後の一、二時間くらいならそんなでもないんだけどね……」


 駅のホームのベンチにぐったりと体を預けて、しかも今にも死にそうな顔でぶつぶつと呟きだす女は結構な不審者に見えるんだろうな、と思う。

 しかし今は深夜、終電ギリギリの時間帯。ホームに人はほとんどいない。いても私と同じように疲れ切ってげっそりした顔を隠すことすら億劫だとでも言うような人たち。お疲れ様です、お互いに。

 ちらと電光掲示板を見る。まだしばらく電車は来そうにない。


「ほんと疲れる……」


 学生のときは『言うて疲れたからって自殺とかありえないでしょ(笑)』というようなスタンスでいた私だが、こうも仕事がキツイと考えも変わる。

 通勤の際に、ふと、思うときがあるのだ。


 ――ああ、今線路に飛び降りたら、解放されるのかな――


 などと。

 かなり限界っぽい。


「はは、ほんと死んじゃおっかな」


 思ってもいないこと――いや、本当にそうかはわからないが、そんな言葉が口から零れ落ちた。


「ダメだよ、おねーさん」


 飛び上がった。声も出なかった。


 慌てて隣を見ると、ベンチに女の子が座っていた。

 長めの黒髪に、整った目鼻立ち。制服と思われるセーラー服を着こんで、学生鞄を手に持っている。

 高校生と中学生の境目くらい、微妙な年ごろに見えるその少女は心配そうな顔でこちらを見つめている。


「死んじゃダメ」


 もう一度。

 こんな時間に制服の女の子がこんなところにいる理由を考えを巡らせてみようとしたが、無理だった。

 とにかく疲れていて、そんな気力は旅に出てしまっていた。だから、


「死なないよ、怖いからね……ちょっと言ってみただけ」


 話し相手になってもらうことにした。



「――なるほど、残業。こんな時間までお疲れ様です」


 ふかぶか、と頭を下げる少女。長い黒髪がベンチに少し垂れる。

 いえいえ、とこちらも倣う。

 なんだこれ。


「毎日毎日このくらいまでの時間まで、さすがに参っちゃう」


 あはは、と苦笑する。


「そういうのって、どうにかならないのかなあ」


 うーん、と首を傾げる少女。

 なんだか真剣に考えてくれてる風なその様子に、少し吹き出してしまう。


「私は下っ端だからねえ。上司に口出しすることも許されていないのだよ、お嬢ちゃん」


 そっかー、と残念そうにしている。かわいらしい子だな、と思う。

 そんなどうでもいいことを考えていると、少女はぱっと何かに思いついたようにこちらに顔を向けてきた。


「じゃあさじゃあさ、おねーさん!」


 ぺしぺしと自身の小さな膝を叩いている。


「……なに?」


 いきなり何を始めるのだろう、この子は。


「ひざまくら!」


 ぺしぺし。再び膝を叩く。

 うーん。


「いや、いきなりそんな、恥ずかしいし……」


「誰もいないよ?」


 そう言われて見回す。確かに。


 正直、とにかく疲れていた。

 抵抗する気力も残っておらず、同時に少女の膝枕がとても魅力的に見えたのも事実で。


「じゃあ……お願いするね……」


 口の端から漏らすように、その言葉を出しながら。

 私は少女の膝に頭を沈めた。


 あったかい。

 やわらかい。

 きもちいい。


 そんな感覚が頭の中を支配し、急速に意識が遠ざかっていく。

 ああ、ほんとに疲れていたんだなあ。

 普段の自分なら、見ず知らずの人は警戒していたと思う。財布とられるかも、とか。

 でもこの時は無理だった。あまりにも甘すぎる眠りに逆らえなかった。


「電車来たら起こしてあげるからねー……」


 私の髪を優しく撫でながら、赤ん坊をあやすような声色で。

 少女の声を聞きながら、私は眠りに落ちた。



 本当に起こしてくれた。

 慌てて時計を見ると、寝ていたのはほんの十分ほど。

 ホームに止まった電車に乗り込み、少女の方を見るとこちらに手を振っている。

 言えなかった『ありがとう』を込めるように手を振り返す。

 少女は、姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。


 後で確認したが、何も盗られていなかった。



 それからは残業のたび、つまりほぼ毎日少女に会うことになった。

 そのたびに膝枕をしてもらった。

 初対面の時のように、少し寝させてもらったり、時には話し相手になってもらったり。

 他愛ない時間、他愛ないやり取りだったが、すごく幸せだった。

 それこそ、あの子に会えるなら残業も悪くないかも、と思えるほどに。


「ねね、おねーさん。そんなに辛いならお仕事辞めちゃったら?」


 ある日、少女がそんなことを言った。


「そうだね……私もね、そうしたほうがいいんだろうなって思うよ」


「じゃあなんでそうしないの?」


 全く意味が分からない、とばかりに首を傾げる少女。

 私は人生の先輩として、とっても情けないことを言ってやる。


「辞めるにも気合がいるんだよね……えらい人になんて言おう、とかさ。それに辞めた後、次の仕事はどうしようとか、色々考えちゃって後回しにして……そうやってずるずると続けちゃうんだろうね。そんな人が、きっといっぱいいると思う」


「そっか……大人って大変だね」


「子どもみたいなこと言う」


「子どもだもん」


 それもそっか、と二人で笑い合う。

 ああ、こんな風に笑えるのはいつぶりだろう。


「でも自分を大事にしてね。私、お姉さんがいなくなったらすごく悲しいから」


「うん……考えとくよ」


 そう言った瞬間、電車がホームに滑り込んできた。


「逃げるのは、悪いことじゃないんだよ」


 別れ際に聞いた少女の声が、何故だか長く耳に残った。



 それからしばらく交流をつづけた、ある日のこと。


「私、退職が決まったの」


「ほんと? 良かったね!」


 私は、仕事を辞めることにした。このまま使いつぶされるのはごめんだったから。

 もう次の職場も決まっている。とても評判のいい、ホワイトカラー。

 でも。


「あのね、これから勤務地も勤務時間も変わるからもうたぶん会えなくなる」


 そう言った瞬間、少女から表情が消えた。

 少しすると、目の端から涙がつつ、と流れ出す。


「そ、っか……じゃあ、しかた、ないね」


 少ししゃくりあげながらそんな風に言う。

 罪悪感が胸を襲った。

 それを振り払うように、


「ねえ、今日が最後なんだしさ、いつも話し相手になってもらったお礼に今度は君の話を聞かせてよ」


 いつも私が聞いてもらってばかりだったから。疲れていることを理由にして、与えてもらうばかりだったから。埋めてもらうばかりだったから。

 最後くらいは、と。

 すると、


「えへへ、おねーさんは優しいね」


 涙を指で拭い、笑顔を見せてくれた。


「じゃあ、聞いてもらうね――」




 電車に乗り込む。

 ドアの窓越しに手を振り合う。

 ドラマや映画みたいに追いかけてきたりはしない。

 それでも、お互いに笑顔だった。

 あふれる涙は止めることができなかったけれど。




 ――私の家ね、いつも学校から帰るとね、お母さんがね。

 男の人を連れ込んでるの。

 奥の部屋から変な声が聞こえるの。

 私はそれが嫌で、嫌で嫌で仕方なくて、いつも遅くまで外で時間を潰してた。


 最初のうちはおまわりさんに捕まって、お母さんを呼ばれたりもしたけど――それで叱られちゃったりもしたけれど。

 みて、おねーさん。これその時の傷。結構ひどいでしょ。

 最近はおまわりさんに見つからないようにするのもうまくなってきて、でも時間を潰すのもすごくすごくつらくて。

 潰れちゃいそうだった。


 そんなときにね、あのホームでおねーさんに出会ったの。

 私ね、楽しかったよ。

 おねーさんといるのすごく楽しかったよ。

 今まで生きてきて一番楽しかったかも。なんて、えへへ。


 おねーさんといたのはとっても短い時間だったけど。

 私は幸せだったよ。それこそ、おねーさんと会うまでの時間つぶしが苦じゃなくなるくらいにはね。


 ――だから泣かないで、おねーさん。



 涙が止まらない。

 あの子に与えられるばかりではなかったんだという嬉しさと、これからのあの子に何もしてやれない悔しさで。


 こんな辛いことがあったのか。

 長い長い残業なんてこれに比べれば屁でもない。

 大好きなあの子に、これからの私は何もしてやれない。


 胸を抉るような痛みに苦しむ私を、電車は無情にも運んでいく。

 お前の苦しみなんてちっぽけなものだとでも言っているようで――


 そして。





 あれから、またしばらくの時が流れた。

 私は新しい職場に勤務している。

 辛い残業に悩まされることもなく、周りの人も善良でパワハラもセクハラもない。あの時とった選択は間違いではなかったんだと思える。


 私の背中を押してくれた少女には、あれから会えていない。

 今、私はとても充実しているのだと思う。

 しかし心には大きな穴が開いたままになっているようで、いつもあの子のことを考えている。

 でも、もうあの子の声をはっきり思い出せない。

 少しずつ忘れていってしまうのかな、と思うと少し寂しいけれど――はっきり嫌だと思うけれど。

 でも仕方ないのかな、と思う自分もいる。


 今日もこれから仕事。


「一日頑張りますか」


 そう言った声に。



「――おねーさん」



 懐かしい声がした。


 なんだ、忘れてないじゃん、と。

 少し泣きたい気分になった。



 


 


   

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