第16話 時代を超える月見(小倉百人一首 藤原顕輔)
秋風にたなびく雲の絶え間より もれいづる月の影のさやけさ
百人一首79番、左京大夫顕輔の歌です。
中秋の名月は終わりましたが、まだもう少し秋の月を見ることは出来ますね。
ここでいう「影」は「光」という意味で、「秋風に流れていく雲の隙間から、漏れ出てくる月の光の明るさよ」といった意味になります。
小倉百人一首の中には『うた恋い。』で紹介されているようなドラマチックな恋の歌が多いです。
そんな中、この歌は、秋の情景をそのまま詠んだ素直な歌ですね。私は和歌が専門ではないので、この歌の深く意味するところは詳しくは知りません。もしかすると、裏の意味なんかがあるのかもしれないけれど、そういうことがなくても、この歌は美しいと思います。
とくに素晴らしいのは。
たった三十一字。当時は「みそひともじ」と言いましたが、この三十一字で、黒い雲の隙間から顔を覗かせる月(おそらく満月)、そしてその明るさが、現代人の私たちにもありありと浮かんでくるところでしょう。
「たなびく」は現代でも聞く言葉だし、古文特有の言葉は、「影」と「さやけさ」くらいで、そこさえクリアすれば意味はストンと入って来るのではないでしょうか。
「さやけさ」を訳すと「明るさ」特に、「澄んだ明るさ」というニュアンスの意味になりますが、「さやけさ」という言葉の語感が、冴えて澄んだ明るさを表す言葉として最上だと思います。こういうところに、古文を原文で味わう意味があるのだと実感しました。
この歌は、まだ古文をろくろく知らない中学一年のときから、心に残っている歌です。私は、百人一首で一番好きな歌は何か、と言われたらこの歌を挙げます。
作者の
政治的な立ち位置としては色々あったと察せられますが、秋を愛したと言われる定家は、この歌を百人一首に選びました。定家が歌を公平に選ぶ人であったという前提にあっても、特に、自分が好きな秋の歌で、ライバルの家の者が詠んだ歌を選ぶ。それは、本当に文句のない秀歌だったからと言えるのではないでしょうか。
和歌は、あまりそのまますぎるものは評価を得ることは難しいようです。修辞や比喩、その場の状況に応じてすぐに詠む即興性が求められます。(百人一首の中でいえば、小式部内侍の「大江山」の歌などがそうです。)
その点、この歌はストレートです。ただ目の前にある情景を詠んだ歌です。しかし、いつの時代の人がそこにいても感じることを、いつの時代の人が読んでも理解出来る三十一字で詠んでいるのです。平安時代から未来だけではありません。たとえば、奈良時代の人も、もしこの歌を詠んでいたら同じ月を思い浮かべたでしょう。
それは、どんな凝った修辞を駆使して作る歌よりも、むずかしく、価値があることです。
この歌を読んだとき、読んだ人はみな、同じ月の下に立ちます。
平安時代の人も、鎌倉時代の人も、江戸時代の人も、そして現代の私たちも。同じ月を見ている。
この「秋風に」の歌一つ、たった三十一字の言葉が、時代を超えて、私たちに同じ月を見せてくれるのです。
これから、ふと空を見上げたとき、雲の隙間から月の光が見えた夜は、この歌のことを思い出してください。そのとき、あなたの周りに、この歌を読んだ色んな時代の人と、この歌を詠んだ藤原顕輔が立っているような気持ちになるかもしれません。
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