粉微塵の指の先

泉宮糾一

粉微塵の指の先

 君に壊してくれと頼まれたとき、怖じ気づいた僕は君の小指を折っただけで心臓が口から飛び出そうなほどだった。裂けた小指の付け根からは君の欠片がハラハラと舞い上がり、君の溜息がそれらを吹き落としていった。

「次は外さないで」

 君はそう言ったけれど、僕が頷けるはずもなかった。君を壊すことが僕の中でどんな意味を持っているというのか。君は満足かもしれない。生きることに苦しんでいた君はいつでも誰かに破壊されることを望んでいた。その奇特な望みを叶えてやろうと実行に移したのは多分僕だけで、だからこそ君は追いすがるように僕の腕を強く握った。

 冗談みたいな木槌で君の頭を叩いたら、髪や皮膚が輝きを放ったまま崩れ落ちていった。欠けた顔の下側で真っ赤な唇が弧を描いていた。踊る下は上顎からせり上がり、抜け出すように暴れ狂うと君の身体は地に伏した。

 君が人の身体をしていたこと、他の人にとってみれば君はただの人でしかないこと。諸々の事情を踏まえればやむないことで、僕は君の身体を首の側から砕いていった。弾ける輝きもいつしか夜闇に紛れていき、月明かりが雲に霞んで見えづらくなる頃には君の身体は文字通り粉微塵になっていた。ふくよかな頬も、たおやかな腕も、凍えきった指先も全て僕の手で壊したものだった。


 何日間か放心していた。

 君を粉々にした部屋の片隅で縮こまって、窓の外のヒバリたちが踊り狂う様を散々に見続けて、太陽の光が西側へと落ちていき、やがて夜になりさんざめく雨音を聞きながら迫り来る暗闇に鳥肌を立たせた。壁のシミやカーペットにこびりついたガムの痕が気になりつつも動けずにいた。冷えていく足下や指先からは感覚が薄れていき、蛆虫のような物体が這いのぼってきやしないかと待ち望んでいた。だけど何もなかった僕は一人でいた。その均衡が破れたのは、突然部屋のドアが蹴破られたときで、僕の友人のAが僕を見つけるなり手招きをした。

「お前を助けにきた」

 Aは今にも僕を殺しそうな顔で言った。助けてなんて一言も言っていないと怒鳴りつけたかったのに、僕は喉を震わせられず、何故か目頭が熱くなった。まるで意味が分からなかった。悪い冗談だと思った。


 日常に戻った僕には前までと同じような仕事が降りかかってきた。あちらこちらのお客様に頭を下げて商品のご説明とあわよくば契約をもぎ取る素敵な仕事だ。僕はその仕事を真っ当にこなし上司からの評判も上々だったと記憶している。とはいえそれはとても遠い過去の出来事のように感じられて、君を壊してしまった今となっては誠に矮小かつくだらないことのように思えてしまって、毒を食らわば皿までとでもいうのだろうか、僕はあっという間に会社から出ていった。僕は自分から辞めたつもりでいるけれど、上司も同僚もみな一様に僕を蹴飛ばしていたかもわからない。

「まったくしかたないやろうだな」

 出口で待ち構えていた友人Aは僕の肩を掴むなり車に乗せた。もがいている僕にさるぐつわを噛ませ手首にロープを巻いて首都高をすぐに上りすぐに降りた。たどりついたビルにはでかでかと精神病棟とかかれていた。あからさますぎて呆気にとられ、抵抗する間もなく僕は医者の前に立たされた。

 丸々と太ったお医者さんは漢数字の四の中にあるハライのような眉をしたまましげしげと僕を眺めてくれたのち鼻を鳴らした。つまらない役者のような鳴らし方だった。

「君、忘れようとしていないだろう」

 よくいるんだよね、と顔に書いてある。作用ですかと払いのけるには僕の気持ちは穏やかでなくて、有り体に言えば医者の頭を拳で殴った。さすがにこれは予想外だったらしく、医者は生まれたての子象のようなうめき声でスツールからこぼれ落ちた。

「おいやべえぞ逃げようぜ」

 僕はてっきりAに怒られると思っていたのだが、Aはまんざらでもないどころかむしろ嬉しそうに歯をむき出しにして僕の背中を出口へ押した。おかげさまで看護婦や警備員を掻き分けって、僕はとっとと外に出て明るいお天道様の下に出た。


 世界は果てしなく明るいのだが、空間は広すぎて目に余り、木づちで振るうには実態が無さすぎる。だから僕は外が嫌いで、君も同じくらいに嫌っていたと思う。

 君が破壊を望んでいたことは明白で、だからこそ僕は承諾していた。君が良い気分になるのなら率先して破壊者になってやりたかった。そうすることが君にとって一番幸せなことだと信じていた。

 揺らいだのはいつからか。あるいは初めから揺らいでいたのか。揺らいでいた気持ちを何か別のもので塞いでいたのか。例えば君の唇だとかで。

 医者の言葉は本当だ。僕は君を忘れられないままでいる。寝ても覚めても君のことが忘れらない。困ったことに壊してしまう前は君のことをそれほど深く考えていなかった気がする。僕が覚えている君の声は最期に言った「外さないで」というものだけだ。他の、普段の喋り方がどうだったのかはあまり覚えていない。君がどんな風に生活をしどんな形で僕と巡り合いなぜ僕に破壊されることを望みどうしてあんなに満足げな笑みを浮かべていたのか、僕は次第に忘れつつある。大した温もりを感じたわけでもない君を壊した瞬間に放たれた粉微塵の残光ばかりが瞼の裏に焼き付いて離れない。


「大切っていう字は大きく切るって書くんだよな」

「うるせえよぼけ」

 場を和ませるためなのか、どう考えてもどうでもいいことをしたり顔で呟いたAに僕が反射的にひどい言葉を放ったら、Aは心底悲しそうに溜息をつき歩く速度を遅くした。

 職場からの帰り道、僕はAを追い抜いてしばらく歩いていたが、気になったので振り向いた。

 Aはすでに歩いておらず、足元をじっと見つめていた。夕焼けに輝くものがあった。

「おいこれ」

 Aはそれを拾い上げる。長い棒のようなそれは細くたおやかで、先にはネイルがきらめいていた。

「あの子のじゃないか」

 Aは僕に尋ねたが、僕は即答できなかった。

 僕は君を頭から順に壊していった。指の先までは気が回っていなかった。いやそれ以前に、最初は小指から切り落としたはずだ。そのときの小指はいったいどうしただろう。考えてみると、どうにもAの指先にあるそれが小指だった気がしてくる。

「貸してくれ」

 Aから小指を受け取った僕は上からのぞいてみたりしたから見上げてみたりした。小指は確かに小指だが、それは抜け殻で、切断面から中は空洞になっていた。血の通っていない指は堅い皮のようなもので、ネイルは不安定ですぐにすっぽ抜けそうだった。

 生唾を飲み込む音が耳の奥で響いた。つまりは僕の喉でその音は鳴っていた。

 それをつまんでいた僕の指がゆっくりと動き、僕の小指の先にそれを持っていった。軽くゆすると案外簡単に小指ははまった。僕の手の中の一つが急に色白になり、細くなり、長さも縮んだようだった。

「ほかにもいるのかもな」

 Aは何気ない声で言うが、僕はむやみに心が揺れた。

 いたとしたらどうだろう。また組み立てることができるか。それを彼女は望んでいない。それを僕はわかっている。でも僕には僕のことがわからない。

 たとえば少しだけ、君の欠片を集めるとしたら、僕は許されるだろうか。

 考えているうちに頭が痛くなってくる。許すってなんだ。僕は誰に何を禁じられているというのだ。

 即答は思い浮かばない。思考には重たい靄が垂れこめる。唯一僕の指先に残る君の指だけが強烈な白を見せていた。

 僕にはいったい何ができるだろう。

 考えているうちに思考に靄が掛かっている。そのたびに指先を見つめた。僕が壊したつもりだったはずの君がそこにいて、おそらくこの世のどこかにまた別の君がいる。空中を漂う奴も地面を這いずり回る奴もいて、君を形作るための準備を粛々と進めている。

 だとしたら、たとえ一度壊したとしても、いないと扱うわけにはいかない。

 小指にはまった君の指を見つめながら、僕はそれを身長に撫でたのち、コートのポケットの中に入れた。

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粉微塵の指の先 泉宮糾一 @yunomiss

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