第5話
「だから、遠まわしに貸しつけて縛ろうなんて搦め手しかできない。強引になれない。そりゃそうだ。死にたい人間がどの口で誰かに生きようなんて言えるんだ」
その通りだ。俺にはずっと後ろめたさがあった。同じ場所で、自分と同じことをしようとするのを、他人だから止めることへの後ろめたさが。センパイが異世界に旅立つのを止める権利がないように、飛び降りることを止めるそれもまた、俺は持ち合わせてないのだから。
それなのに、まるで身勝手だと知っていながら、俺は死にたい、けれどセンパイは生きているべきだと、そう思えて仕方がなかった。
だから俺は、センパイについていった。家まで送り届ければ、家族が、あるいは友人が、ひょっとしたら恋人が、しかるべき誰かが、センパイを救うのではないかと、期待を託して。
「電車でさ、幸せなひとを見たでしょう」
幸せ、という言葉があまりに唐突だったので、何のことを言っているのかすぐには分からなかった。
少し考え、思い当たる。奇声を上げながら笑う男。センパイはあれを幸せと形容するのか。
「あの時、君はどこまでも当たり前に動揺していた。言ったでしょう、規範的だって。正常だったんだよ」
俺の態度は、決しておかしなものではなかったはずだ。多かれ少なかれ、誰しもが似た反応をするだろう。
「それがさ」
やれやれといった様子で、センパイは首をゆるゆると振った。
「異世界から帰ってきたって話を真に受けて、行方不明の女を職員にも警察にも知らせず家まで送り届けるなんて、まともじゃない」
あの電車内でおかしかったのはキミとわたしの二人だけだ、と笑う。おかしくて仕方がないという風に。
「屋上で最初にあった時は、失礼な話だけど、どっかネジが抜けてるんじゃねえかこいつ、って思ったよ。でもそうじゃない。君はしごくまっとうな人間で、けれども自殺願望があって、だからこそ、同じ願望の持ち主をこれ以上なく適切に理解しえたんだって」
そしてどこかそっけなくセンパイは言った。
「どうして死にたいのかは、分からなかったけど」
思いあがりかもしれない。センパイは、俺の希死念慮は見抜いても、その理由までは言い当てられなかったことに拗ねているように見えた。こんな話の最中だというのに。どうもセンパイといると、話がしまらない。
俺は苦笑いしながら言った。
「そりゃあ、そうでしょう。俺だって分からない」
別につらいから、苦しいから死にたいわけじゃなかった。いじめられているわけでも、家庭環境が悪いわけでも、何かに失敗したわけでも、罪を犯したわけでも、なにがあったわけでもない。理由がないのだ。ただ、なんとなく、死んでしまった方がよいのではないかと思ってしまう。遠くからほのかに漂う芳しい香りに惹かれるように。
「唯ぼんやりとした不安、ってやつ」
「そんなようなものかもしれません」
あまりに有名な文句に乗っかるのも癪だったけれど、否定はできまい。
「キミの死にたさに、わたしが何を言っても、嫌味になるだろうね」
「それはきっと、俺がセンパイに言うのも、そうでしょう」
「こればっかりは、共有のしようがない」
「お互いに」
これ以上ばかばかしい話はない。二人して、笑った。
そしてセンパイは微笑みながら、囁くように言う。
「一緒に飛び降りようか?」
それはひどく蠱惑的な言い方で、どこまでも男心をくすぐったけれど、俺は自分自身の淡白さ加減に自分であきれることになった。
「それはヤだなあ」
「女性の誘いを袖にするなんていい度胸。それも、最上級の愛の告白を」
「ああ、悪い冗談だ。センパイ、そういうのはせめて、一回ぐらいホテルにいってから提案してほしかった」
手も繋いだことのないような相手とはじめてすることが心中というのは、どうだろう。
「別にここでしてもいいんじゃない?」
「コンクリの上って、フィクションならともかく、辛すぎるでしょ、実際」
「でもさ」
からかうような調子で、しかし大隣センパイは真剣に、言うのだ。
「そうしたら、君にも生きがいとか、あるいは死の決意とか、何か道は開けるんじゃない?」
わたし脱いだら結構自信あるよ、なんて茶化しながら。言ってしまうのだ、この人は。
「俺にそんな資格はないです」
「資格って、童貞くさいな、おい。あれなの、死にたさは性欲も殺すの?」
あけっぴろげに言いながら、センパイは切実に問う。
「セックスっていう魔法を君にかけたら、君も嘘っぱちの王子様になって、わたしを救ってくれたりしないの?」
そう訊かれて、俺は、どんな劇的な状況にあっても、王子様にも勇者にもなれないと、思い知った。
きっと俺は、この人にどんなに愛され、あるいは尽くされたとしても、どこかで死にたいと思い続け、だから、俺はセンパイを救うことを選べない。
大隣センパイは眉根を寄せ、心底呆れた顔をした。
「クラクラするよ。この期に及んで、わたしはおとぎ話のお姫様じゃなく、勇者としてあらゆるものを救う戦いを強いられているんかい」
苦しみから逃れたくて、死にたくてどうしようもないはずのセンパイは、この期に及んで、俺を救おうとしている。
「なんだろうな、すごいムカついてきたんだけど。つらいから死にたいんだよ、わたしは。それがなんだ、君みたいなへなちょこの為に励ましの言葉を吐いているこの状況はなんだ。なんていうか、むしろ、キミへの当てつけに、痛恨の一撃を見舞わせてやるために、何としてでもここから飛び降りたい気分になってきた」
身振り手振りを交え、大仰に罵ってみせる。大根役者だと思った。
「でもどうかな、そこまでしたら、さすがにキミもわたしを救うために手を差し伸べてしまうんじゃないかな?」
「……そんなに、救われたいですか」
「当然だね」
ためらいもなく、言い切る。
「助かれそうもないから死ぬしかないんだ。救いがあるなら、その方がいい」
ああ、この人はなんとしても死なせちゃいけない。こんなに分かりやすく、生きたがっているのだから。
しかし、彼女が求めている言葉を、救うための魔法を、俺には使えなかった。
自分の命すら持て余しているのに、誰かの命を自明の形で助けることが、許されるのか? そんな無責任な救い方が、あっていいのか?
「センパイを助けて、俺が死んでも、いいのなら」
出てきたのは、なんとも間抜けな折衷案。双方の希望を立てた形。理屈にならない、俺なりの誠実な答えだった。
「君はアホか」
当然、一蹴される。
「真剣なんですよ」
「……あのさ、なんで君はそんなに死にたいの。今まで死ななかったくせに」
「分からない。分からないんです」
「なんで、そんなに命に遠慮がちなんだよう」
頭を抱えるセンパイ。困った後輩をどうしたらいいものかと苦悶するように。大隣センパイは、自分の身を滅ぼすほどに、おひとよしだ。
「なんだよ、抱えてる闇の深さ的に高崎くんのほうがアレじゃん。この後輩はやばいって、ちょっと心の底から思うよ……。わたしに対して、あくまで自発的に、自分の力で、一人で助かれって、言うんだもんなあ……」
そう見えるのだろうか。ただ、なんとなく死にたいだけの、薄っぺらい人間だと自分では思っていたのだが。
センパイは、処置なしと言わんばかりに首を横に振った。
「キミがいなければ、キミでさえなければ、こんなことにはならなかっただろうにね」
絶望的な言葉だった。それなのに、センパイはどこか晴れやかな顔をしていた。
「しゃあない、魔王やっつけてくるか」
そう言って大隣センパイは制服を脱ぎだした。
「え」
「女子高生の生着替え、ファンタジーでしょ」
「そういう客観的な物言いに終始してると友達なくしますよ」
突然目の前で脱ぎだされて、しかも死だと救いだのと延々問答をしていた中での出来事で、俺は覿面にうろたえてしまう。ブレザーを脱ぎ、ブラウスのボタンを手際よく外していく。その下には、なんということだ、ベージュ色の野暮ったい肌着を着ている。これでは、ブラジャーが見えない!
「体験版はここまで」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、センパイは紙袋からジャージを取り出す。俺の貸したものだった。
「虚構が崩れた気分はどうかね」
「現実を思い知らされましたよ……」
俺の落胆する様にセンパイは大いに満足したようだ。スカートも、ズボンを履いてから下に落とした。
「このジャージ、貸しといて」
そう言って、センパイはジャージの上にボロボロのローブを羽織った。
「その恰好で戦いに行くんですか」
「けしかけたのは君だ」
咎めるように俺に言い放つ。
「苦しみなく死にたかったのに、君があんまりヘタレなもんだから。わたしが死んだらキミは一生引きずっちゃいそうだ。なんの責任もないっていうのにさ。こんなんじゃ、今からどんな死に方をしても人生最後に味わうのは胸糞の悪さだもの。狙ってやったならしてやられたね」
あくまでわたしは楽になりたいんだ、と。
「魔王に死力を尽くし、しかし及ばず打ち滅ぼされる、それが一番気分がよさそうだ。仕方ない」
ふわふわとした気持ちで空から落ちる死に方より、何十倍も長く、痛みと苦しみを伴い、ひょっとしたら死にきれないかもしれないやり方をセンパイは選んだ。
死にたい気持ちは本物で、それでもセンパイは、戦う選択肢を持ってこの場に現れたのだ。ジャージにローブの最強装備を携えて。
「すみません」
俺は頭を下げる。すみません。助けることができなくて。立ち向かうことを選ばせてしまって。
「何に謝ってんだか」
と、センパイは頭をかく。
「もし、わたしが帰ってきてしまったら」
センパイはゆっくりと歩き出した。フェンスではなくその手前、魔法陣に向かって。
「その時は君の能力の全てを尽くしてわたしをミスコンにねじこみなさい」
「何を無茶な」
「魔王倒したら、わたしもレベルアップしちゃうからね。一味違うよ。人生観変わる予定。その時は小さいことにも大きなことにもくよくよしないで前向きに生きるんだ。副賞はキミへのお礼に上げよう。人間、本を読んでる間は死なないよ」
「俺は実行委員でもなんでもないんですけど」
乱暴な要求だ。実現しようがない。しかし俺がなんと言おうと、彼女は静かに笑うだけだった。センパイには本当に笑い顔が似合う。
強い。勝てない。俺は負けた。
「……分かりました。ただ、約束はできないですよ」
「そりゃ、わたしもこれをちゃんと返せるかどうかは怪しいから、あおいこだ」
センパイは魔法陣の上に立つと、ジャージの胸元をつまんで言った。買った時にはそれなりに思い切りを要する値段だったので、出来ることなら返してほしい。
「さて、明るく健全な魔王退治のクエストを受けようじゃないか。ちょっくら行ってくるよ。プラズマで全部焼き尽くしてやる」
男物のジャージにくたびれたローブという珍妙な出で立ちで大見得を切り、魔法陣を蹴った。それだけで、青い光があふれ出していく。なんていい加減な起動の仕方だろう。壊れかけのテレビじゃないんだぞ、と場違いにも思う。
大隣センパイと目が合った。仁王立ちで腕を組み、口を結び凜とした表情だ。と思いきや、やはりにへらと、耐え切れずにセンパイは笑ってしまうのだった。
「魔王をやっつけてしまったら、その時はまた会おう。さよならだ、高崎クン」
今度こそ、俺は見逃さなかった。
軽薄そうな笑みを浮かべながら、青白く光る光芒の渦の中に消えていく少女の姿を。最後の戦いに赴く<ラングミュアの魔女>、あるいは<抜き出されし者>、その真名を大隣由宇。
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