第4話

 夜の学校というだけで興奮はあった。まして施錠されて立ち入りできないはずの屋上にいるとなればなおさらだ。

 大量に設置されている白い室外機の群れは日中のようなうなりを上げることはなく、静かだった。県道を行き交う自動車の走行音と、さらにその向こうの私鉄がレールの継ぎ目を通り過ぎる音が聞こえてくる。校舎の周りには、住宅と道路と田んぼしかない。

 四階建ての校舎の屋上は、風が舞えばそれに吹きさらされることになる。十月の終わり、日中はエアコンの排熱で暑いくらいの屋上は、しかし午後七時を過ぎて、肌寒さで身を震わすほどになっていた。室外機は、恐らくは職員室のエアコンに対応しているであろうものを除いて機能を停止していた。座っているとコンクリートに体温が吸われていくので、立っている方がまだマシだった。何か羽織ろうにも、ジャージは大隣センパイに貸したままだ。彼女は洗って返してくれるだろうか。他所の家の、嗅ぎなれない洗剤の匂いがついたジャージが戻ってくることを思う。心が温まる気はするが、空気は冷たい。コンビニで買ったカイロを両手で揉む。

「まあ、俺は根本的にアホなんだろう」

 自然と、自嘲の言葉が口をついた。魂胆が浅く、思考が足りない。夜間になり、セキュリティが機能した校舎は出ることも入ることも難しい。残業を終えた教員が帰宅してしまえば、俺は屋上で、制服姿のまま夜明かしをする羽目になる。もともと快適とは言えない環境なのだから、もっと準備をしておくべきだった。そのぐらいの時間はあったはず。何か、タオルでもいいから羽織れるものがほしかった。急ぎすぎた。

 しかし、今更どうしようもない。全ての室外機が止まったら、屋上階段の踊り場に避難しようと決め、それまで辛抱することにした。

 防護フェンスに背中を預け、今日のデートを反芻する。そう、あれは俺にとってまぎれもなくデートだった。

 午後の授業をさぼり、センパイと学校を抜け出し、牛丼屋で昼食をとり、ガラガラの電車に揺られ、コンビニで買い食いし、銀杏並木を遠まわりして公営団地の中を歩いた。

 こういう時、男が出費を負担するのが筋なのだろうけれど、計算するとなかなかに痛手だった。細々と金がかかるものなのだと知る。果たして、それに見合うだけの元は取れただろうか。自分に問う。

「ちょー、たのしかった」

 素直にそう思う。

 だから、俺は屋上の扉がゆっくりと開かれたのに、めまいと、喜びと、絶望を覚えた。

「こんばんは、高崎くん」

 大隣センパイは紺色のブレザーと灰色のスカートを身にまとっていた。しかし、汚れやほつれはない。新品というわけではないが、クリーニングされたような雰囲気だ。手には大きめの紙袋が下げられていた。

「女子って制服複数持ってるもんなんですね。俺は今とても驚いています」

「高校三年間を着たきりスズメで過ごすのもわたしには驚きなんだけど」

 大隣センパイは怪訝な顔で俺を見る。いいのだ。どれだけ清潔を求めようと、男子高校生の制服は血と汗と涙とその他いろいろな液体で汚れているのだから。

「どうやってここまで来れたんですか。塀の上には人感センサーが張ってあるはずなんですが」

 俺がそう訊くと、大隣センパイは、

「走り高跳び」

とこともなげに言った。

「冗談でしょう」

「身体能力を向上させる魔法を使えば、あのくらいの高さなら、ね」

 破壊魔法しか使えないと嘯いていたのは誰だったのか。

「さっき別れたばかりなのに、同じ日にまた会うとは思ってなかったな」

「会えて嬉しいですよ」

「心にもないことを言うね」

 そんなことはない。俺はセンパイの笑顔を見られるだけで幸せな気持ちになるのだ。

「忘れ物でもしたんですか」

「まあ、そんなようなものだね」

 相変わらずヘラヘラと笑っている。忘れ物の心当たりがあったので、俺はそれを指差した。

「それでしょ」

 指の先には、起動していない魔法陣。センパイは何も言わなかった。

「魔王との決戦前にここに飛ばされた、センパイはそう言った。なら、猶予はないはずです。その時点で攻防ははじまってる。仲間は既に魔王との戦闘に突入しているかもしれない。半年で数日程度しか、こちらと向こうとで時間の流れはずれていないんだから」

 俺は暗算が苦手なので、具体的にどれだけの差があるのかは分からない。けれど、こちらの半日が向こうでの五分、なんて極端な差ではありえないはずなのだ。

「センパイはこの世界に戻ってきてすぐ、魔法陣に何か細工をしましたね」

 俺の前に突然現れた大隣センパイは、しゃがみこんで魔法陣に手をかざしていた。

「あれは魔法陣の保存か、あるいは再起動の仕込みか、そういうことだったんじゃないかと思いまして」

「……魔法陣を殺す処置だった、ってパターンもあるよね?」

 肯定も否定もせず、センパイは異なる例を挙げた。

「そうですね、そういうケースもあるでしょう。ですが、その場合はここに魔法陣が残っているのが問題になる。うっかり、センパイみたいな人間が触ったらまた動き出すかもしれない」

 嘘だ。勇者候補が同じ高校に二人もいるなんて、それこそご都合主義もはなはだしい。けれど、警察がセンパイの失踪を取り調べる過程で、鑑識が奇妙な紋様を学校の屋上で発見し、それは現代科学ではあり得ないものだったとニュースになる、ということならありうると思った。

「魔法陣を再び使うのか、あるいは破壊するのか。どちらにせよ、センパイがこれをほったらかしにしておくことはないと思ったんですよ。なにせ、これから色々な対応や後処理でおおわらわになる身です。チャンスは今日までですよ」

「それで、わたしがこの世界に留まるのか、向こうの世界に戻るのか、その二者択一を見届けに張り込んでた、と。寒いなか物好きなことだね、高崎くん」

 大隣センパイは両手で自分の身体を抱くようにして大げさに身震いしてみせた。

「何をおっしゃいますか。俺は借金の督促にきたんですよ」

「奢ってくれたんじゃなかったの?」

 いけしゃあしゃあとムシのいいことを言う。世の中そんなに甘くない。

「飯代、電車賃、コンビニの買い食い、そこまではいいです。でも、ジャージはね」

「そんなにすぐ返せるわけないじゃない。うちには乾燥機はないんだよ」

 言い合いながら、二人して笑う。俺もセンパイも、思ってもいないことを平気で言う性質なのだと知った。

 笑いながら、センパイはこう言った。

「見届けにきたんだね」

 その言葉に俺は肯く。

 俺はセンパイが向こうの世界に戻るのを引き留めようと思ってここにいるわけではなかった。彼女が行くというのなら、止める権利は俺にはない。

「野次馬ですって公言するか。いっそ潔いね」

「少女漫画みたいな強引な男には逆立ちしてもなれそうにないもので」

「ふうん」

センパイは俺の言葉を聞いて、つまらなそうな顔を一瞬見せ、後ろを向いた。

「その割には頑固な感じじゃない?」

「そうですか?」

「わたしが魔法陣の向こうに消えるか、屋上の階段を降りて帰るか、どちらかしないと君はここをどかないって顔をしてる」

 俺に背を向けたセンパイはそう言う。

「見えてないでしょ」

「ずっと同じ顔だった、って言ってんの」

 この場に鏡はないから、俺は自分が傍から見てどういう顔をしているのか知る術がなかった。

 大隣センパイはくるりと身を翻し、再び俺と相対した。

「目。その目。見透かしたような目」

 目は口ほどに物を言う。そんなに俺の目は雄弁だったのだろうか。

 俺は金網を後ろ足で軽く蹴った。

「音を立てない方がいいんじゃない」

「そうですね。残業している先生が気付いて屋上の見回りにくるかもしれない。でも、そしたら二人して怒られればいいじゃないですか。夜の学校に残ってるってだけなら、最悪でも停学で済むでしょう」

「見つかりたくはないんだけどなあ」

「何かやましいことでも」

「半年行方不明だっつうの」

「なるほど。でも、逃げるには絶好の場所ですよ。異世界にまで追ってくることはない」

 俺はあえて嫌味に聞こえるような言葉を選んだ。大隣センパイは、小さな溜め息をひとつついた。

「要するに、退く気はないわけだね」

「まあ」

「少しの間、目をつぶってくれもしない?」

「この目でしっかりと見届けないことには」

 なにせ、俺は既に一度見逃しているのだ。彼女の帰還の瞬間を。二度目もそれなら、俺はもう何かを見る資格がない。

「依怙地だね」

「センパイも」

 平行線だった。沈黙が降りる。しばらく互いに見つめ合う。

 ふと、センパイが横を向いた。魔法陣のある方だ。しかし、大隣センパイの視線は魔法陣ではなく、その後ろのフェンスに、もっと言うなら、その先の空間に注がれているように見えた。

 痺れを切らして、俺は言った。

「空飛ぶ魔法も使えないような人にこのフェンスの向こうに行かせるわけにはいかない」

「空が飛べないからこそ行くんじゃないか」

 センパイは一切の否定をしなかった。俺は苦々しく口の端を吊り上げた。

「落ちるだけです」

「そうだよ、それだけだ」

「死んじゃうじゃないですか」

「ダメなの」

「ダメですよ」

「分かってるくせに」

 大隣センパイは薄く笑う。

 その通りだ。

 俺は大隣センパイに出会った時から気付いていた。爛々とした眼、その下にこびりついたように浮かぶ隈。どこか削げたような、柔らかさを感じさせない頬。

 大隣センパイの雰囲気は明らかに異様だった。それでいて、態度は飄々としてなんでもないような風を装っている。軽口を叩く様は痛々しくなるほどだった。

 彼女が戦いに赴くのであれば、俺は安心して見送ることができる。彼女は勇者で、当然魔王、諸悪の根源を打ち滅ぼし、勝利する。ハッピーエンド。そうに決まっている。

 あるいは、彼女がこの世界に帰還するのであれば、それはトゥルールートではなくとも一つのエンディングだ。物語は終わり、彼女はもとあった日常に戻る。そして生活は続く。

 ――それが、物語であったのならば。しかし、俺はそこまで物語におもねる人間ではなかった。

 異世界から呼ばれた勇者が魔王を倒す物語とは、一体何か?

 今日、新聞やニュースの類を見ない俺にまで届くような、世界を揺るがすような大事件はなかった。海の向こうでは紛争が続き、災害で何人もの人が死に、政権批判のデモが繰り広げられている。今日もおおむね日本は平和だ。それは半年前から変わらない。

 そんな世界から、剣と魔法の世界に突然飛ばされて、異形の怪物や、あるいは悪意ある人間を相手に、現代の物理法則では説明できない強力な超能力を振るうことを半ば強制されたとすれば、どうか。

 それは地獄そのものだろう。

 モンスターを倒す。それは闘争であり、殺戮だ。痛みはある。苦しみもある。吐き気を催す死臭、身の毛もよだつような屍、血、体液、傷。命を奪い、奪われるということ。正気でいられるとしたら、それは元から狂っている。そして、センパイが異常者であったなら、あんな追いつめられた顔をしてはいない。

 そんな異世界からの帰還。物語ならば結末の部分。けれど、語られないだけで続きはある。センパイは言った。留年決定だと。それはそうだ、出席日数が足りていない。特例措置でもない限り、もう一度三年生をやり直すしかない。その間、行方不明の経緯を、親に、友人に、警察に、報道に、社会に、世界に、幾度となく訊かれるだろう。とてもまともに説明できるようなことではない。下手をすれば病院に入って、出てこれない。そうでなくとも、好奇の視線を向けられ、噂を立てられる。めでたしめでたしとはとても言えない。

 劇的な物語は日常を喪失させる。

 センパイは向こうの世界で規格外の魔力を持っていたというだけの、ただの女の子だった。

 ならばその物語は、悲劇でしかありえない。

 だから俺は彼女を家まで送り届けた。箸を喉元に付き立てて血しぶきを出さないように。プラットホームから飛び込まないように。赤信号の交差点にふらふらと進入しないように。手を伸ばせば届く距離で彼女を見ていた。

 センパイは笑いながら家路についた。一瞬でも気の迷いを見せた様子はなかった。だからこそ、俺はこの人はどこで死ぬかを決めているのだと、半ば確信していた。

 思いついたのはここ、高校の屋上だった。他に当てがなかったというのもあった。魔法陣に乗って戦いに戻る、あるいは残された魔法陣の痕跡を消し苦難を伴っても日常へ帰ろうとする、そんな選択をしてくれることへの期待もあった。

 そしてなにより、悲劇のはじまりがここなら、終わりもここにするのではないかと俺は思った。異世界へ踏み出した一歩、そのもう一歩先は、墜落死。そういうつもりなのではないのかと。

 俺の推測が的外れであればよかった。屋上で来るはずもないセンパイを待ちぼうけ、寒空の下震えながら、巡視に来た教員に見つかって大目玉を食らい、風邪を引いて、馬鹿を見たと布団の中で嘆く結末。

 しかし、大隣由宇は飛び降り自殺のためにここへやってきた。

 ローマの休日とは程遠い。そうセンパイは言った。物語であるなら、悲しくも美しい余韻のある物語であるならばどんなにかよかったか。敗残兵が抱える苦悩。これではランボーだ。

 そしてもっと悲しいことに、これはフィクションではなく現実だった。

 俺と正対する大隣センパイは、この期に及んでへらへらと笑っている。

「見透かされたんじゃなくて、見え透いていたのかな」

 くだらない言葉遊びだったが、しかしそれは事実だった。俺が慧眼であったわけではない。当然、誰でも分かることだったはずだ。

「女子高生ってこんなんじゃなかったっけ? 久しぶりな割にはうまいことやれてたと思うのに」

「やりすぎたんです。なんで死地から抜け出してきて、淡々と飯が食べられるんですか」

「泣いたりするのはガラじゃないから。メイク落ちるし」

そこで俺は、センパイが薄くではあれ化粧をしているらしいことに気付いた。

「飛び降りたらそのメイクも台無しです」

「死に化粧のつもりだったんだよね」

「そういうものじゃないでしょ」

 剣呑な話をしていたはずなのに、気付けばひどく間の抜けたやり取りになっている。生と死、切実な話のはずなのに。

「うーむ」

 冗談めかした調子のまま、変わらぬ笑顔で、センパイは言った。

「おとぎの国から帰ってきたんだよ。夢と魔法と剣と血と闘争と殺戮の、甘く霞むような地獄の世界から。魔法がかかっているうちに、夢からさめてしまう前に、どこまでも現実だって思い知る前に、死なせてよ」

 そんな言葉を、笑いながら言わないでくれ、大隣センパイ。

「それで終わりになるんでしょうか」

「死んだら終わり。それがルールでしょ」

「わからないですよ。この宇宙とは違う別の世界があったんです。物理法則なんてまるで無視の力があるんです。それなら、死後の世界がないとも言い切れなくなってくる」

「死んでも続きがあるかも?」

「<ラングミュアの魔女>、煉獄編」

「地獄に堕ちるのは確定なのね」

「進むも地獄、退くも地獄」

「君が提供するのも地獄かい」

「地獄への道は善意で舗装されているんです。俺のなけなしの善意の行く先もまた、地獄でしょう」

「道理だね」

「道だけに」

「ちょっと眼を覆いたくなるぐらい君のユーモアはおっさんだよね……」

「センパイに言われたくないんですけどね、それ」

「そして高崎くんは、ユーモアでしかわたしに訴えかけない」

 突き刺すような一言だった。

「決定打がないよ。どうしたんだ。命に代えても食い止めるとか、そういう熱い言葉はないの?」

「熱血漢じゃないもので」

 指摘されながら、俺はまたしてもジョークでかわそうとしている。なんて滑稽なのだろうと自分で思う。

「その割には、えらくわたしのことを気にしてたんじゃないのかな。ジャージを貸して、ランチを奢って、送ってくれて。いたれりつくせりだったよ」

 俺の目が見透かしたようだとセンパイは言った。俺は思う。センパイは言葉でこそ核心を突く。

「ところでさ、立ち入り禁止のはずの屋上に、なんでキミはいたんだろうね」

 それは一見、唐突な問いだった。しかし、俺は大隣センパイが確信を抱いていることを知った。

「確かに、わたしは見え透いていたのかも知れない。けれど、どうだろうね? そういう見方をしなければ、見えなかったんじゃないかな? わたしがここから飛び降りるという確信にしては、弱いような気がするんだよね」

 センパイの問いかけは、しかし俺の答えを求めているのではなかった。あくまで前振り、本題に入る前の導入部に過ぎない。

「ひとつ訊こう」

 ほら、と俺は笑う。ここでセンパイがする質問は一つに決まっている。

「ここから飛び降りたかったのはキミが先なんじゃないの?」

 俺は肯いた。

 お見事です、大隣センパイ。

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