第2話
「デートが吉野家の牛鮭定食というのは、どうなのかしら」
大隣センパイはそういって味噌汁をすすった。
「牛鮭にお新香までつけた人が言っていいことじゃないですよ」
「だって香の物を食べたかったんだもの」
昼食をご馳走すると言った俺は、駅前にある全国チェーンの牛丼屋に入った。そのことに大隣センパイは露骨に不満を漏らし、ムードがないだのそんなんじゃ結婚できないだの好き勝手に言われてしまった。久々に日本に戻ってきた人はごはんとみそ汁が口にしたいだろうと俺なりに気をつかった上での選択だったので、その反応には思うところもあったが、定食を注文し、みそ汁を豚汁に変更し、サイドメニューまで頼んでいるのだから、あれは冗談だったのだと安堵する。
「こういうシャケってさ、やっぱり、ナントカサーモンとかそういうのなんだろうね」
数ヶ月ぶりになるだろう箸をよどみなく扱い、鮭の身を綺麗にほぐしていく。俺はそこで大隣センパイが左利きであることに気付いた。
「ローマの休日には程遠いね、これは」
「自分をヘップバーンに重ね合わせられるセンパイって偉大ですよね……」
「うるさいな。ヘップバーンは神様みたいなものだから、いいんだよ。元々比べるべくもないからこそ」
そういうものだろうか。俺は不信心なので、オードリー・ヘップバーンの顔を思い出すことができなかった。そもそも『ローマの休日』も『ティファニーで朝食を』も、ちゃんと観たことがなかった。
分かるのは、茶碗を持って白米を黙々と食べる少女という画は、少なくとも洋画のそれではあり得ないだろうということだけ。そういう独特な空気の演出は邦画が得意とするところだろう。
「スタバのフラペチーノのがよかったかなー、せっかくならなー」
センパイは甘ったるい声で拗ねる。
「食後のお茶にご馳走しましょうか?」
「いや、やめとく。ていうか嘘ついた。フラペチーノとかムリムリムリのカタツムリ」
「なんだそりゃ」
咄嗟につっこんだものだから、うっかりため口を聞いてしまった。しかしセンパイは気の害した様子もなく、
「女子高生しぐさ」
と、軽薄そうな笑みを浮かべる。
「ムードとは背伸びすることと同義なんだよ、高崎クン?」
ジャージ姿の大隣センパイは大きく伸びをする。袖や裾の丈がそんなに余っておらず、俺は悲しい思いになった。センパイが着ているのは俺のジャージだったからだ。
「しかし、鮮やかな脱出行だったね」
大脱走のマーチを一フレーズだけ鼻歌で諳んじるセンパイだが、そんな大それたものではなかった。
俺がやったのは主にセンパイの服装の手配ぐらいのものだ。制服とマントの代わりに、ジャージの上下を着てもらった。黒字に明るいオレンジ色のラインが入ったポリエステルのジャージで、俺が学校をサボってネットカフェに入るときのために用意してあった私物だった。そのことを説明してする間、大隣センパイの視線が痛かった。
靴についてはセンパイの下駄箱にスニーカーが元のまま入っていたので問題はなかった。上から下まで、運動部の高校生で通るだろう。髪の傷みが気になるのも、部活以外は無頓着です、といった風に見えなくもない。エナメルのスポーツバッグがあれば完璧だった。
屋上を出て、授業時間中で誰もいない階段を一階まで降り、そのまま並んで正門を出た。俺の高校では、三年生は四時限で授業が終わって昼休みには帰れる。午後に学校を出て行く分には不審には見られないのだ。だらだらと居残っている三年生と廊下で鉢合わせないことだけ気をつければそれで済んだ。
鮮やかというなら、大隣センパイが瞬間移動の魔法でも使えればそれに勝るものはなかったのだけれど、センパイは本人曰く破壊魔法一辺倒らしく、今回は膨大な魔力とやらの恩恵に与ることはできなかった。
「センパイの特技がイオナズンじゃなければもっとスマートでしたよ」
ドラゴンクエストの爆発魔法を挙げると、センパイは鼻で笑った。
「便利使いされるほどわたしは世界に優しくないぞ」
「ものはいいようですね。内に秘めた暴力性の発露なんじゃないですか」
「高崎くんも大概口が悪いよねえ」
「どうにかして余計なことを言おうと必死なんですよ、凡人なので」
「いつか刺されるよ、わたしみたいなのに」
「やっぱりキレる十七歳じゃないですか」
軽口の応酬のつもりだったが、センパイはその言葉に溜め息をついて、
「まあねえ。宗教に人攫い同然でつれてこられてお前は選ばれたから魔王を退ける盾になれって言われた日にはね、まずくらっときて、いらっときて、一発ぶん殴ったもんよ」
センパイはぐっと拳を握り、異世界での武勇伝を語った。
「個人個人でいい人はいたし、陰謀に加担していなかった人らは単純に英雄を求めていたんだけれど、納得はできないよね。徴兵じゃねえかって。人権の感覚がない」
「理不尽ではあるでしょうけれど、価値観が違いますからね」
「言葉の壁よりも高かった」
「あー。言葉、通じたんですか?」
「価値観が違うことを理解していなくても、言葉が違うことはちゃんと踏まえてたんだよね。ご丁寧に翻訳魔法みたいなのがあってさ」
センパイは豚汁の具のこんにゃくをつまんで口に運んだ。
「自力で意思疎通ができないとやばいと思って、術者に翻訳魔法をかけさせながら文献やら講釈やらを漁って、とにかくその魔法の習得を最優先にした。一週間かかった」
一週間と言ってもわたしの日付感覚でね、とセンパイは言う。屋上でセンパイが計算した異世界で過ごした日数と、行方不明になってからこちらで経過した日数とでは数日のズレがあった。
「わたしの置かれた立場は非常に危うく、英雄扱いでも結局は拉致されたんだって理解はあったのよ。いつ見切りをつけられて、宿なし文なしに陥るかは分からなかった。仕方ないから魔法を覚えて、折りよく勇者ご一行がやってきたから半ば強引にパーティ入り。生存のための適応」
まるで他人事のように、あるいは昔のことのようにセンパイは語る。けれど、つい数時間前まで、それは彼女にとっての現実だったはずなのだ。
それが、平日の午後、ありふれた牛丼屋で定食メニューの牛皿を食んでいる。あまりに当然の光景で、その姿から死線を見出すことは、俺には出来なかった。
俺はなんとなく、米粒を残さないように意識してできるだけ綺麗に牛丼を食べた。
俺はIC乗車券で、大隣センパイは俺が買った一六〇円の切符でそれぞれ改札を通り、上り線のホームで快速電車を一本やり過ごした。ほどなくしてやって来た各駅停車に乗り込んでから、会話の接ぎ穂が見つからなくなっていた。時々思い出したようにどうでもいい話をして、また黙り込む。微妙な沈黙。五分も経っていないのに、長く感じる。
大隣センパイの家は高校の最寄り駅から五駅、隣の市にあった。特に名所があるわけでも大きな商業施設があるわけでもない、大多数の人にとって通過駅の一つでしかない駅。
こういうことでもなければ、大げさな表現ではなく、一生降りなかったかも知れない駅だ。
昼過ぎの各駅停車は乗客が少なかった。九人掛けのロングシートには俺と大隣センパイしか座っていない。他のシートも多くて三人座っているといった具合だ。
俺の右隣、シートに置いたカバンを挟んでセンパイは座っていた。席が空いている中、ぴったり真横にくっついて座るのは、はっきり言おう、気が引けた。
レールの継ぎ目を越える特有の音は眠気を誘うと俺は思う。センパイは眠ってこそいなかったけれど、ぼんやりとした様子で、窓の向こうを流れる景色を見つめていた。俺はそんなセンパイの横顔を見ていた。喋らないでいると、この人がいかに疲れているかが分かった。恐らくは居眠りもできないくらいに。
目的地まであと一駅のところで、何人かの乗客が降り、また同じくらいの人が乗った。各駅停車しか止まらない駅だったが、優等列車が止まらないゆえか、ホームで待っていた人は少なくなく、そこそこの乗り降りがあった。ドアが閉まる。
「どりーん、どりーん」
ぎょっとした。見ると、車両の端の乗降口から乗り込んできた一人の男性が、甲高い声で奇声を上げていた。蛍光色のジャンバーを着込み、首からはパスケースを吊り下げている。ふらふらと足取りがどこかおぼつかない。
世界が面白くて仕方がないというような、邪気のない笑顔をたたえ、彼は車内をうろうろしている。
車内の空気が張り詰めた。他の乗客も大なり小なり身構え、緊張し、冷ややかな視線を向け、あるいは無関心を決め込む。心情的には闖入者以外の何者でもない彼だったが、れっきとした乗客の一人であり、声を上げていること以外に何かをするわけではない。彼に何かを言える者はいなかった。もちろん、俺も。
男性はきょろきょろと辺りを見渡しながら車内を縦断し、喃語のような意味のない声を上げ、屈託のない笑みをふりまきながら、隣の車両へ移っていった。
それだけで、空気が弛緩したのを感じる。別に脅威を感じていたわけではない。ただ、いたたまれなさがあった。
気付くと、大隣センパイが俺をじっと見ていた。
何も言葉を発さず、何かを言わんとするわけでもない。
その目に覗き込まれると、俺は自分の存在がどこまでも小さくしぼんで行く様な感覚に囚われる。
一体彼女は何を見ているのか。俺の中に何が見えるのか。あるいは、何も見つからないのか。
「規範的だね」
その一言で、まさに魔法が解けたように、俺は自分の存在の回復を感じた。まだ俺はここにいる。
「どういう意味ですか」
「ロウってこと」
屋上で常識人だねと言われたのを思い出す。規範と常識。似ているようで、大隣センパイは違う意味合いで使っているように思えた。
とあるRPGのことを思い出す。プレイヤーの選択で、ロウルートかカオスルートに分岐するゲームだ。こどもの頃、まだ正義というものを信じていたころ、ロウルートが必ずしも正道ではないことに俺は納得がいかなかった。
列車は減速をはじめ、車内アナウンスが、駅への到着を告げた。
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