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@heynetsu
第1話
集中と無関心とが重なり合えば、人は決定的瞬間を目の前にしていても、あっけなく見逃すのだと知った。
イヤホンで耳を塞ぎ、視線をスマートフォンの小さな画面に注いでいた俺は、ゲームに没入している間、まるで何も見えていなかった。聞こえていなかった。
モンスターを倒し、経験値を獲得し、戦闘画面からフィールド画面に切り替わり、集中が途切れる。一点に集中していた五感が全身に分散し、ようやく背中に気配を感じた。振り返り、俺はそのままぴたりと固まってしまった。
人が立っている。それと、光。
コンクリートの床面に、淡く青い光が円状の文様を描いていく。その中心には一人の女性が立っていた。いや、この表現はあまりに乱暴で、しかも不正確だ。女の子。女の子が立っている。
彼女はマントともローブとも付かぬ国籍不明の長布を羽織っていた。薄汚れた白とも灰とも言えない布地に、赤い刺繍が複雑なパターンを刻んでいる。学校の屋上にはあまりにも不釣合いなその出で立ちの下に、くたびれてはいるものの、紺のブレザーと灰色のスカートを着ているのが見えた。この高校の女子生徒の指定制服だった。
立ち入りが禁止されているはずの高校の屋上に自分以外の闖入者が現れたことへの動揺も少なからずあった。しかし、俺が身動き一つ取れなかったのは、ほとんど直感的に、俺の裁量の外側にある出来事が目の前で起きているのだという認識からだった。
呪術の儀式のような衣装をまとった彼女も、平静というわけではないようだった。呆気にとられた様子で、光芒の真ん中でしばし立ち尽くし周囲をきょろきょろと見回していた。そして、ふと我に返ったように俺に何事かを言いかけ、しかし言葉を発することなくしゃがみこんで光の輪に両手をかざす。すると、円はじょじょに輝きを失っていき、やがてコンクリートに焼けたような跡を残して光を失った。
「何なんです?」
床に膝をつき、らくがきでもするかのように手をさまよわせていた彼女に俺はそう問い、それが彼女への問いではなく、むしろ自問に近いことに気付く。何なんだろう、これは。
俺の声に振り返った彼女の顔を見て、息を呑んだ。
十月も終わりに近く、けれど屋上には熱気がこもっていた。大量に設置されたエアコンの室外機の廃熱が逃げ切らずに屋上に留まってしまうのだ。何もしていなくてもうっすらと汗をかく。しかし、彼女の額に浮き出た汗は暑さでかくそれとは別種の、明らかに身体の内側の熱から生じたと思わせるような大粒のものだった。俺の存在を捉えたその目の下には隈が浮かんでいて、しかし目は爛々と輝いている。やつれていると感じさせるくらい顔のつくりが小さい。健康とは程遠い様相なのに、俺は彼女を美しい人だと思った。
「な、ん、んん」
彼女は口を開いたが、その声は掠れ、言葉というより単なる音のように聞こえた。何度か喉を小さく唸らせ、再び口を開いた。
「何年何月何日何時何分何秒、地球が何回回った日?」
ひどく間の抜けた問いだった。どういうつもりだと思ったけれど、先ほど俺がした質問も似たようなものだった。少なくとも、あまりに漠然とした俺のそれよりははるかに具体的だ。
俺はスマートフォンのロック画面を表示し、時刻を確認した。
「二〇一五年十月二十六日十三時四十七分三十一秒、それでも地球は回っている」
くだらないジョークなんてまったく意に介さないような素振りで、彼女は何かを納得したように小さく頷いた。
「なるほどね」
彼女が大きく息を吐く。溜め息のようであり、深呼吸のようでもあった。
俺を見て、彼女ははじめて笑った。へらへらとした、軽薄な笑みだった。
「あーあ。留年決定だ」
「宗教都市<ルミナータ>の<神託教会>によって選抜された<抜き出された者>、あるいは<ラングミュアの魔女>。異世界より召喚された少女は、その世界の人間ではあり得ないような膨大な魔力をその身に宿しており、魔族に脅かされる<ルミナータ>の守護者として選ばれた。しかしそれは表向きの理由であり、実は特異な魔力回路を備えた人間を組み込むことにより稼動する<魔導障壁>のパーツとして求められていたのだった。<ルミナータ>の幹部であるマクトゥの暗躍を見抜いた勇者マルカーノによってその陰謀は露見し、<魔導障壁>は破壊される。<神託教会>には王国騎士団による査察が入り、混迷する<ルミナータ>で居場所を失った少女は、マルカーノ一行に同行し、モッサ、チャト、サブリナに次ぐ五人目の仲間として、魔王ネモを倒すため魔城リグレーを目指す旅に出発する」
「はあ」
「はあ出ました」
彼女の長口上に俺は曖昧な相鎚を打ち、彼女もまた淡白な反応をした。
「これまでのあらすじですか」
「克明に話せば大長編になるからね。<テオ・ワネェイン>編なんて、上中下巻で収まるかどうか」
ボロ布をまとった彼女が話すその内容にはまったく知らない固有名詞がいくつも並んでいたが、俺はおおむね話の筋が理解できていた。テレビゲーム世代にはもっともポピュラーな物語の類型。剣と魔法のハイファンタジーだ。
「その後はどうしたんです。魔王ネモとの決着は」
俺の問いに大隣センパイはゆるゆると首を振り、床の一点を指差した。魔法陣が焼印のように残された箇所だった。
「……魔城リグレーに辿り着いたわたしたちは、敵に不意をつかれ、転移魔法によっていずこかへ飛ばされた。わたしは、ここ」
「それは」
それは、あまりに尻切れとんぼな結末ではないか。そう言いかけて、俺はぐっと飲み込む。
「それは、してやられましたね」
「してやられたよ。<ラングミュアの魔女>の名が泣くね」
「そんなに有名だったんですか、センパイ」
「まあね。通り名を名乗ったらどこ行ってもびびられたもんなんだけど」
「どうも世事には疎くて。新聞もテレビもネットのニュースサイトも見ないんですよ」
「まったく、モグリだなあ。昼間の高校の屋上でスマホゲーに夢中なだけのことはある」
寸鉄が鋭い。確かに俺がここにいるのは五限の数学に出席していないからなのだけれど。見透かされたようで、俺は少しむきになった。
「久々に登校した大隣センパイに言われたくないです」
「あらま」
俺はこの人を知っていた。今年の四月、突如行方不明になった高校の三年生。大隣由宇。
職員室前の掲示板に捜索の張り紙があって、そこに写っていたのが確かこういう顔だった、はずだ。なんとなく見覚えがある。学生証用の写真を引き伸ばしたと思しきものだったが、この学校にも綺麗な人がいるものだと思ったのを覚えている。
実物は、疲れを滲ませ、へらへらと笑いながらファンタジー世界の話を喋り続けている。無表情な写真の顔からは想像もつかない態度だったが、美人であることには違いなかった。
「真名を知られてしまったか。そんで、キミのお名前はなんて言うの、コウハイくん?」
大隣センパイは俺の名前を知らなかった。当たり前のことだった。知っていたら怖い。
「高崎です。見ての通り二年です」
この高校では上履きに入っているラインの色で学年が分かるようになっている。青、緑、赤の三色が順番に振り分けられていて、俺の世代は青、一つ上の大隣センパイの世代は赤だった。もっとも、大隣センパイは上履きではなく何かの革で出来たブーツを履いているのだけれど。
「高崎、何くん?」
続けざまに下の名前を訊かれたことに俺は虚をつかれた。フルネームを訊ねられるとは思わなかった。センパイが冗談めかして言った「真名」という言葉を思い出し、俺は名乗ることに少しだけためらいを感じ、しかし思い直して、小さく笑った。状況に呑まれかけている。
「高崎昭光」
「ふーん。マジメでオールドな響きだね」
大隣センパイは俺の姓名をそう評した。安易に、いい名前だね、と言われなかったことに俺はなんとなくほっとする。俺はあまり自分の名前が好きというわけではなかったからだ。
名乗ったところで、極めて現代的な名前である大隣由宇センパイに俺はこう訊ねた。
「で、設定的には異世界に行ってたから行方不明、って感じですか」
設定という言葉にすこしむっとした顔をする大隣センパイ。とすると、自分の言っていることの荒唐無稽さをちゃんと理解しているようだ。
「設定言うな。<ルミナータ>では本当に大変だったんだから。パルスのファルシのルシがパージでコクーン」
センパイが口したのは、とあるゲームを揶揄するネットスラングだった。そのゲームを俺は遊んだことがないのだけれど、世界観の設定が用語に凝り過ぎて常人には理解しがたいことを表現した言葉だった。これは話が早い。センパイの人物像が、一面だけとは言え、見えてきた気がする。
「センパイ、普通にゲームやる人ですね?」
「やる人やる人。っていうか、あれ、ひょっとしてもうファントムペイン出てない?」
「出ましたけど、そこまで話題を聞かないですよ。今年はスプラトゥーンの一人勝ちですね」
「なんだっけ、それ?」
「今年の春に出た任天堂のTPSです。イカが色を塗りあうゲーム」
「知らないなー。いや、聞いたことはあるのかも。ちょっと分からない。イカねえ。どんなゲームだ、想像もつかない」
実のところ、俺もそのゲームを持っているわけではないので、詳しいことは知らない。半年間、日本どころかこの世界にいなかったらしい人よりは世間知らずではないというわけの話だった。
「浦島太郎だねえ、わたし」
センパイは自分の置かれた状況をそうたとえた。
「ちなみにセリーグの優勝はヤクルトですよ」
「は? マジ? 去年最下位だったのに? 成瀬が大活躍したのか、ひええ」
センパイはプロ野球も詳しいらしかった。俺と趣味が被っている。ちょっとできすぎな話だった。
けれど、かついでいないですか、という質問はするまいと決めた。
どういった事情があるにせよ、半年以上も行方不明になっていたのは紛れもない事実で、その人が平日昼間の高校の屋上に珍妙な恰好をして現れるには、大なり小なり信じがたい出来事が存在しなければならない。
家出をして半年間も転々と生活していた場合と、異世界で勇者一行に加わっていた場合とで、大差はないのだ。
ならば、そういうことにしておけばいいだろう。詮索は無用だ。藪を突いて蛇を出しかねない。
だから、俺はこう言ってからかう。
「何言ってるんですか、成瀬はフリーエージェントで西武に行ったんですよ」
「えっ、嘘、わたしパラレルワールドに来ちゃったのかな」
「嘘です」
「……文芸部? 演劇部?」
センパイは俺のことをまじまじと見つめて、そう訊いてきた。
「なんで。どっちでもないですけど」
「平然と嘘をついたなあ、と」
「ハズレです。ジョークにしてはセンスがないし、役者としても見映えがしないでしょ」
「自己評価低いねえ。自虐的だ」
「客観的って言ってほしいです」
「その目はピントがずれてるんじゃない?」
「いや、結構自信ありますよ。たとえばそうですね。センパイが文化祭でそのコスチューム着て演劇やったらウケそう、とか」
「コスチューム言うな。アブソーブワームの繭糸で織られたローブで、これ着てるだけでマナを溜められるんだよ」
「ディティール細かいですね。いや、本当なんでしょうけど」
「ファンタジー嫌い?」
「いえ、そういうわけではなく。そうですね、旅行のお土産話を聞いても、知らない食べ物の名前と味を言われても想像もつかないし、どれだけ風光明媚だったことを力説されても、見ていないものに感動はできないんですよね」
「淡白だこと」
「それに、外国ならまだしも、異世界は遠すぎます。興味を持っても観光には行けない」
「そりゃそーだ。嫌味に聞こえたかね」
「とんでもない」
大変な誤解だった。俺は外国に旅行に出かけたいと思ったことすらない。
「常識人だね、キミ」
「そうでしょうか?」
常識人だったら、異世界がどうだなんて話にはまともに取り合わない、とは言わない。
「ちゅうか、文化祭? ああ、そうだよね、もうじき十一月なんだよね。来週だっけ? うわあ、マジか……」
大隣センパイは指を数えて過ぎた月日を確認している。俺は具体的な日数を計算しようとして、すぐにやめた。暗算は苦手だった。
「今から、後夜祭のミスコンエントリー、間に合わんかな? ていうか、しておいてくれてないかな」
「行方不明者を入れたら不謹慎すぎて袋叩きにされるでしょ」
「いや、でも、話題性はあるし。同情票稼げると思うんだけど。ミスコン一位取ったら図書券もらえるんだよ?」
なんてふてぶてしい態度なんだろう。自分の容姿や立場を分かってそういう悪辣な発想をするとは。笑えない冗談をあけっぴろげに言うところまで含めて、計算の内なんじゃないかと思う。
「心根が俗悪ですね、センパイ」
「何を言うか。選ばれし聖なる魂の持ち主だぞ」
俺は俗人であるので、大隣センパイから聖なるオーラを感じ取ることはできない。少し、汗の臭いがした。
「あ、大聖人の大隣センパイに一つ聞いていいですか」
「なんだね、高崎くん」
「向こうの世界ってお昼でした? 昼夜の概念がある世界かどうか知りませんけど」
「んー、夜明け前だった。最終決戦だったんだよ」
センパイはおなかをてのひらでポンポンと叩いた。
「じゃあ朝ごはんはまだと」
「そこそこおなかはすいてるね」
「それならご飯食べにいきませんか。おごりますよ」
「……行方不明の女性を見つけてまずすることがそれなんだ?」
俺の言葉に、センパイは間の抜けた顔をした。想定外の提案だったようだ。
「異世界から戻ってきてはじめて食べるのが警察署のカツ丼でいいって言うんなら、構わないんですけどね」
「なんでわたしは取り調べを受けなきゃならんのだ。…………受けなきゃダメなのかな?」
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