第17話 帰還

 目が覚めたのは、その日の正午前だった。

 目を開けて、周りの様子を目だけで窺うと、傍らに男が椅子に座っていた。

 その男はわたしが目覚めたのを確認して口を開いた。

 「…お目覚めですか、朱雀隼人殿。お体の調子はいかがですか?」

 「特に問題はないが…、その前にあなたのお名前を伺っても?」

 そう尋ねると男は、そうでした、と微笑んだ。

 「私は百地丹波と申します。今は葉月さまの補佐として務めております」

 男の名を聞いたとき、一気に寒気が襲ってきた。

 百地丹波。その名を知らない者はいない。伊賀の忍で、一人で何十万もの兵を殺したといわれる、おそらくこの国の最強の暗殺者。

 突然警戒し始めた私を見て、彼はくすくすと笑った。

 「私の名、ご存知でしたか。大丈夫ですよ、あなたを殺したりしない」

 「…………」

 「ふふ。そんなに警戒しなくても。あなたはもう…こちら側の人間になったのですから、あなたと仲良くなりたいものです」

 こちら側の人間。私は彼のその言葉を、小さく繰り返して呟いた。

 「これから私は、あなたが目覚めたと葉月さまに報告をしに行きます。あなたはまだ混乱しているようですから、もう少しお休みください」

 私の元から離れようとする百地を私は引き留めた。

 「その、葉月…私を助けてくれた少女は今、どうして?」

 「葉月さまは、昨日の争いで少し怪我をされて、治療室で療養していますが…、あなた何を…⁉」

 ベッドから下りようとする私を百地は引き留める。葉月さまにはまた会えますからと私をたしなめてきたので、私も彼に大人しく従った。

 「…百地殿、あなたも昨日、私の屋敷に来られていたのですか?」

 「はい。葉月さまと共に戦いました。……葉月さまを傷つけてしまうとは、私もまだまだだな」

 「え? 今、何と…?」

 「いえ、こちらのことですから、お気になさらず。またあなたのもとに戻ってきますから、それまでお休みください」

 百地はそう言って、私の元から去った。

 静かな診療室。窓の外はうっそうと生い茂った竹林が広がっているようだ。ここはどこなのだろう。

 先ほど百地が言ったように、まだ自分の頭の中で事が整理できていない。

 ベッドに背中を預ける。大きく深呼吸をした。

 もう一寝入りしようとした矢先、私の診療室に来訪者が現れた。



 「…失礼します」

 「……、あぁ百地さんか。隼人の様子はどうでしたか?」

 私は葉月の傍にたたずんだ。

 「目を覚められたので、それを報告しに来ました。葉月さまこそ、お怪我のほうは…」

 すると彼女は自嘲するように笑いながら答えた。

 「ほんとっ情けないですよね…あの程度の攻撃に対抗できないなんて」

 私は、それは違うと反論した。

 「あのとき私が後ろからの攻撃に気づいていなかったから、貴女がそれをかばおうとして」

 葉月さまは左腕に怪我を負った。私が後ろを振り返ると、彼女は血が滴る腕をもう片方の腕で押さえていた。

 その姿は、私の脳裏にあのときの記憶を呼び起こした。

 ――逃げろ、早く…っ‼

 また私の目の前で。あのときと同じような状況下で神が私に対する判断力を試しているかのようで。

 「…百地さん? 大丈夫?」

 はっと目を上げると、葉月が心配そうに私の顔を見つめた。

 ――もう手放さない

 私は立ち上がって彼女の両肩を抱いた。

 「もう絶対に離しません…っ‼ もう過ちを繰り返したくない、もう絶対に…っ‼」

 「百地さん⁉」

 私を抱きしめる彼の腕の力が徐々に強くなっていく。突然、どうしたのでろうか。普段、冷静沈着な彼が。

 「落ち着いて、百地さん。わたしは大丈夫だから」

 彼の大きな背中を撫でる。優しく。すると、彼もそれが伝わったように、落ち着きを取り戻した。

 「……すみません。もう少し、このままで――」

 背中だけでなく、彼の大きな手の平が私の頭を優しく抱く。彼の吐息が私の耳に注いで、少しくすぐたかった。

 私は優しく彼の背を撫でた。そして、彼は告げた。

 「私が長から与えられた任務は終わりました。だから、私はもう貴女の補佐ではないのです。けれども、私はこれからも貴女をお慕い続けたい」

 彼が長から与えられた任務。それは、朱雀家しいては朱雀聖也からの依頼を請け負った私の補佐。その仕事も今朝終わった。

 「ありがとうございます、百地さん。私も貴方がいなかったら、何もできなかったです」

 「いえ、そんなことはありません。葉月さまの力は偉大なものですよ。以前から知っていましたが、昨夜改めて思いました」

 彼はいつものように柔らかい笑みを私に見せてくれた。

 「私、これからも頑張るよ、百地さん」

 「はい、応援しています。私は伊賀のほうへ戻りますが、お困りのときは文でも送ってください」

 そう言うと、百地は術を唱え、彼の右肩に一羽の鴉を顕現させた。

 「これは、私の使い魔みたいなものですが、貴女の使い魔でもあります。さあ、手を出して鴉と見つめ合ってください」

 自分の腕の上に乗った鴉の目をじっと見つめる。すると、鴉はカァと一声鳴いた。

 「これで認識が完了しました。この鴉は、私と貴女を繋ぐ使い魔になりました。これに文を括り付ければ、私のもとに送ってくれます」

 「すごい…っ」

 私は彼の術のレベルの高さに感嘆せざるを得なかった。さすが、次期長と噂される実力の持ち主だ。その驚くさまを見て百地は小さく笑った。

 「葉月さまなら本気を出せば、これよりも凄い術を扱えますよ」

 「本気…?」

 彼は、ええと頷くだけで、それ以上は言わなかった。

 「では、私はこの鴉の住まいを葉月さまのお部屋に用意しておきますので、一旦失礼します」

 「…あ、はい。お願いします」

 鴉を再び自分の肩へ移し、百地は私の部屋から去った。

 「私は昨日だって本気で戦った。けれど、それは、百地さんが言う本気じゃないってこと…?」

 私は自分の握りこぶしにぎゅっと力を入れた。もっと強くならなければ。

 悔しさを抱えた葉月のもとに賑やかな声が耳に届いた。この声は。

 「葉月ちゃん、大丈夫かい? 大変な仕事だったねぇ~」

 「神無姐……」

 療養室の扉を勢いよく開き入って来たのは、私が信頼を寄せている数少ない女忍の神無月。名の通り、彼女も幹部の一人である。

 「なんて顔してんだい! まだどこか痛いかえ?」

 「ううん。痛みはもうないけど……、ないから大丈夫だよ!」

 神無月は私の形相を見て疑ったが、それも一瞬のこと、この部屋に彼女の高らかな声が響く。

 「さっき部下のやつに頼んで、これを買ってきてもらったんだ。葉月ちゃんにプレゼント!」

 「えっ⁉ いいんですか。なんだろう……わあ!」

 私の手の平に渡されたのは、いろんな色が小包に入った金平糖だった。

 「可愛い…! ありがとうございます」

 「ふふ。やっと笑ったね」

 神無月は葉月の頭をそっと撫でる。優しく。

 「これからも大変な仕事があるかもしれないけれど、たくさん人に頼ってこなせばいいから、頑張るんだよ」

 「…はいっ!」

 葉月は先輩の言葉に笑顔で返事をした。神無月も微笑み返す。

 華の顔のように笑う二人は、まるで姉妹のような絆を深め合った。

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