第7話 名家という籠の中の鳥
「――私は、朱雀隼人。君は……?」
男は名乗り、そして、私の名を尋ねた。私の名は。
「…………」
男の隣に座っていた私は、膝の腕で握りこぶしに力を入れた。『葉月』と名乗っていいのだろうか。忍は秘密組織である。その存在を知っている人のほうが少ない。だから、一般人にその組織で使用される呼び名を、教えてもいいのだろうか。
「? どうした?」
男は心配そうに、忍の顔を窺う。
「私は…」
重く口を開けた私に男は言った。
「無理に言わなくていいよ。忍というのは、複雑なところみたいだし…。だから、お嬢さんって呼ぶね」
「…………」
部屋は明かりを灯さないまま暗い。しかし、お互いの顔は認識できる。それは、仄かに照らす月の光のせいか、それとも、二人の距離が近いからだろうか。私は目だけを、彼の顔に移した。
屋根裏から見たときよりも、端整な面立ちで、髪の毛も鴉の翼というより、黒曜石のような輝きがあった。
「…うん? 何?」
忍の視線に気づいた隼人は、すっと顔を隠す忍が可愛らしく見えて、くすくす笑った。彼女の顔をよく見ると、頬が少し赤くなっていた。
「ねえ、君はさ…」
自分の問いかけに、彼女は恐る恐る頷いた。
「君はさ、なぜ、私が殺されるか知ってる?」
「……、知らない。そこまでは、聞けない」
長が、「殺せ」と命じれば、そのことに深く追求せず、実行する。それが、今の忍のしきたりだった。
「そっか。じゃあ、私が教えてあげるよ」
彼は私に温かい笑みを顔に浮かべた。
「…教えてくれるのは有難いけれど、なぜ、あなたが理由を知ってるの?」
私の問いに、彼は丁寧に教えてくれた。
そして、もう一つ、私は尋ねた。
「……あなたは、殺されるって分かっているのに、なぜ、そんな顔をすることができるの?」
「え? どういうこと?」
彼は顔を、私のそれに近づけた。
「…今のその顔。そんな環境にいるなら、辛くて、悲しいはず。けど、あなたは笑ってる…」
目の前に彼の顔があり戸惑いながらも、言葉をぽつぽつ繋げて言った。
すると、彼は困った顔をした。
「……私が笑顔でいられるのは、今が楽しいからだよ」
「今……?」
私は首を傾げた。
「お嬢さんと話しているこのときが、楽しいから笑顔になれる」
彼は満面の笑みを浮かべて、私に笑いかけたが、私はそれを素直に受け取れなかった。
「…あなた、何か隠してる。私にばれないようにその笑顔で隠そうとしてる」
私は彼の顔を真っ直ぐ見た。それに、男は目を開けたが、私の目を見つめ返した。
「――君は、相当な忍だね。でも、君に関係のないことだよ。私は、お嬢さんと楽しく話したいんだ。ね?」
隼人はそう言うと、私の頬に手を添えようとした。しかし、私はそれを避け、彼の手首を掴む。
「――お前はこのまま生きたいか?」
自分の手を掴んだ忍の声音が突然変わり、そして彼女の顔を見ると、その瞳には冷酷で感情が宿っていなかった。
少しの間、沈黙が流れたあと、ゆっくりと自分は口を開いた。
「……生きたいけれど、それに制限がある。だから私はもう…」
目を下に逸らし、掴まれていない手を自分の胸に添える。この命が絶えるときは、いつだろう。自分は死ぬまでずっと、この部屋で過ごすのだ。
部屋中に積まれている書物に目線を移す。地域の地図から建築物の仕組みや測量についての本をたくさん読んだ。そこから得た知識が、どこで役立つのかも分からずに。暇がありすぎて、何回も同じ本を読んだ。そんな日々を送っていた。
「――私が、お前を生かしてやろう」
「………え?」
忍から紡がれた言葉に私はぼんやりと聞いた。
「――朱雀隼人。この檻から、私が逃がしてやろう」
彼女は自分の手を掴む手とは反対の手で、自分の頬に触れた。それに、自分のを上に重ねた。
その手は細くて小さかった。でも、その手の温もりに私は縋りたい気持ちにさせられた。
「はぁ⁉ 朱雀家の嫡男を殺さない⁉ どういうことだよ」
「言った通りだよ、如月。私は、あの人を殺さない。……殺せなくなった」
自分を迎えに来た忍は、深くため息をつくと、むすっとその場に座った。
「気にくわないの?」
自分の問いに、如月は目だけをこちらに移した。
「…気にくわないわけではないが、ややこしくなりそうだな、と」
「……まあ、そうね。長の命に背くことになるわけだし。それも、初任の仕事なのにね」
私も、如月の隣に座った。夜の冷たい風が、頬に触れる。
「笑ってる場合じゃねぇよ。…長にはなんて言うんだ?」
私は真っ直ぐ遥か遠くを見ながら、如月に応えた。
「…朱雀家の嫡男は身体が弱い。だから、医療班の病室で面倒を診てもらえないか、聞いてみる」
「医療班、にか。でも、一般人も普通に利用できるから、財閥家のそれも嫡男が来ちゃって大丈夫なのか?」
「……そこは、私が責任持って、医療班の人たちと話すよ。問題は、この朱雀家が許すか、だ」
葉月は、ため息をついた。彼女なりに、色々と考えているらしい。
「俺は反対すると思う。なんだって、大事に大事に育てられたお坊ちゃまだからな」
「…嫡男の話によると、ここの当主、つまり、彼の父が頑固らしい。どうしたらいいの……」
葉月の頭を抱えて悩む姿に、如月は驚いた。普段、クールそうな葉月が、必死に策を考えているのだ。如月は、ふと空を眺めた。
「なあ、葉月。もう帰ろうぜ。…もう少しで陽が昇る」
言われた通り、空が藍色から橙色へ変わり始めようとしていた。
忍の仕事は、太陽が昇る直前に終えなければならない。それは、一般人に姿を見られてはいけないからだ。
「ああ、そうだな。帰るか」
二人は、よいしょっと立ち上がり、屋敷のほうに身体を向け、膝に力を入れて跳躍した。
目を開くと、見慣れた天井が見えた。障子があるとはいえ、太陽の光で部屋は明るい。
周りを見渡す。いつも通りの朝だった。身体に力を入れて、起き上がった。ため息をつく。身体が重い。
もう、この体は持たないかもしれない。命の灯が消えるのは、そう遠くないかもしれない。
突然現れた忍は、こんな身体の自分を生かすと言った。そこに、どんな意味があるのだろうか。
隼人は、手の平を見た。一方は、忍に握られた手。もう一方は、自分の頬に触れた彼女の手に触れた手。
ぎゅっと握る。生きる意味を失っていた自分に、彼女は「生きろ」と言葉を告げた。そのとき、なぜか、身体が一瞬だけ軽くなった。
彼女は、この部屋を出る前、もう一度ここへ来ると言い残して、風のように去って行った。
会いたい。また、彼女と話したいし、自分を必要としてくれた忍と親しくなりたい。
――お前の知識を、私にくれ。そして、私にお前の人生を預けろ
身体はとても華奢なのに、とても頼もしく見えた。彼女の言葉に救われたのだろう。
隼人が昨晩のことを思い出している最中に、部屋の外から足音が近づいてきた。それに、隼人は気づく。
それと同時に、部屋の障子が開かれた。
「…おはようございます。父上」
「ああ、おはよう。隼人」
父は毎朝、自分のところへ来て挨拶をしてくれる。けれど、父に会えるのはこのときだけだった。それからは、仕事のためなかなか会えないのだ。
父はもうすぐ還暦を迎えるというのに、身体の丈夫な人だった。
「隼人。お前は、何が欲しい?」
満面の笑みで、自分に尋ねた。私が、あれこれ欲しいと言うと、自分のことのように嬉しそうな顔をした。
自分の頼みなら、なんでも聞いてくれるだろうか。
「…それならば、父上。…私に、生きる価値を下さいませんか?」
「………は?」
「私を必要と下さる方に、ついて行きたいのです」
すると、父は厳しい顔持ちになり、隼人に告げた。
「だめだ。お前は、身体が弱い。だから、ここから離れてはいけない」
「しかし、父上…!」
「だめだ。ここで、安全に暮らしていたほうが、お前は長生きする」
そう最後に言い放つと、自分の部屋を後にした。
「……あ……」
伸ばしかけた手を下ろした。やはり、だめだった。ここから出ることなど、できやしない。
――この檻から、逃がしてやろう
彼女の言葉が、頭の中で繰り返される。彼女のような忍なら、父を伏せることができるのか。
そして、隼人はそのあとも、いつも通り過ごしていた。部屋に積まれたたくさんの書物を読んだ。
以前、それが当たり前だと思っていたのにも関わらず、今、この生活に呆れを感じ始めていた。
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