第5話 朱雀家の噂
颯爽と街中を走り続ける。
朱雀家は、このまま南下したところに屋敷を構えている。
不意に空を見上げた。
そこには美しい丸々の月が浮かび上がっていた。そのためか、町全体がいつもより明るい。
すると、前から何かがこちらに向かってくるのが見えた。一つ小さな明かりが見える。私はすぐに建物の屋根へ上った。そして屋根の上を走り抜ける。
徐々にこちらに向かってくるものとの距離が縮まっていく。
私はその正体を捉えた。
ぎぃこ、ぎぃこ、とゆっくりと牛車が夜道を歩いていた。もちろん、牛を操る家来も一緒だ。
先ほどの小さな明かりは、家来が持っている篝火の炎だった。ゆらゆらと炎は揺らめく。
牛車にはどこかの貴族が乗っているのだろう。
私は辺りを見渡した。すると、あちらこちらから牛車が現れた。彼らは、何かの集まりに行く途中かもしれない。牛を連れている家来同士お互いにに挨拶をしている。
視線を前に戻す。貴族の暮らしに興味などない。きっと彼らは宴の席に向かうのだろう。そこで優雅な宴会に参加する。殿上人の宴会だとしたら、吉忍の何人かが任務を任されているだろう。凶忍の私には関係のないことだ。
屋根と屋根の間が五メートルほど離れていた。私は左足に力を入れて跳躍する。屋根に着地すると同時に荷物の中の金属が、ガチャリと少し大きな音を立てた。
下見とはいえ、油断大敵である。慎重に行動しなければならない。
着地態勢から立ち上がった私は朱雀家がある方角を見つめた。
彼女が自分の前から消えて、一人残された如月はその場で少し虚しさを感じていた。
「……俺、あいつを傷つけちゃったかな」
あのとき、華を連れて街へ買い物に行った女が葉月とは思えず、また驚きを隠せなくて。
髪型と服装を変えただけで、別人のように変わるものかと困惑していた。
見た目無表情、無感情そうな人が、あんな見間違えるほどの美しさを持ち合わせていたなど、予想をはるかに超えた。
そして、そんな女性に見惚れてしまったことも事実だった。つまり、自分は葉月に惚れているということなのか。
いや、違う。
如月は自分の芽生えた感情が、胸が小さく鼓動したのは、何に対してなのか分からなかった。
華に対して向けられた笑顔を、自分は見ていた。惹かれた。自分にも、あの笑顔を向けて欲しいと思った。でも、どうだろう。彼女を侮辱するようなことを言った自分に、葉月は微笑んでくれるだろうか。
如月は振り返り、その場を後にした。
晩飯を終え、自分の部屋に戻る途中のことだった。時刻はもうすぐ次の日を迎えようとしていた。
「――なぁ、知ってるか?」
「は? 何のことだよ?」
反対側からやってきた男二人が話していた。二人とも、もちろん忍である。一人の男が言った。
「俺の頭が言ってたことなんだが、…『葉月』の今回の仕事内容のことで…」
「…『葉月』? …ああ、あの新入りの女のことか。で、続きは何だ?」
二人を通り過ぎようとした自分の耳が、ぴくりと動いた。
男たちは、今、『葉月』と言った。何の噂が立っているのだ。
気になった自分は方向転換して、男たちから少し離れたところから、その話を伺うことにした。
話を持ち出した男が言った。
「…その仕事、かなりヤバいらしいって聞いたんだ」
「ヤバい? どうヤバいんだよ?」
すると、男は連れの男を人気の少ない通路へ誘導したため、自分はその後ろに慎重に静かについて行った。
連れの男が言った。
「おいおい。そこまで、内密の話かよ。俺、そんなこと聞いちゃっていいの?」
男はため息をついて返事をした。
「あのなぁ、お前が聞いてくれたなら、その話を偶然聞いてしまった俺の負担が減るんだ」
連れの男は、そうか、と言うと、聞く態勢になった。
男は小さく息を吸った。
「…任務先のセキュリティが凄いらしんだ。それも、一人では片づけられない程の凄腕たちらしいんだ」
男は続けて言った。
「……そいつらに囲まれたら、もうおしまい。捕まったら……」
連れの男は、真剣な顔つきで男に尋ねた。
「なあ、任務先はどこなんだ?」
「朱雀家らしい。その嫡男を始末しろ、という命令が下ったんだってよ」
如月は壁に隠れて二人にばれないように聞いていた。手をぎゅっと握る。
連れの男が顎に指を当てて言った。
「…その話、あと誰に話した?」
「あ? まだ、お前にしか…」
そうか、と連れの男は呟いた。そして、男の顔を見て告げた。
「――あの朱雀家は、恐ろしいぞ」
連れの男の語調が変わったのを感じ取った俺は、なぜか背中がゾクリとした。
「……大丈夫かよ、あいつ…」
もうこの時間帯では、任務を実行するためにこの屋敷を出発しただろう。
「――くそっ…」
如月はもと来た道を全力で駆けた。
その後も、男二人はまだ話していた。
「何で、そんなこと知ってるんだよ?」
男は、連れの男に尋ねた。連れの男は、浮かない面持ちをしていた。そして、ゆっくりと彼は答えた。
「…以前にも、その命令は下されたことがあったんだよ。昔、俺の仲間の一人がその仕事を請け負ったことがあったんだよ」
その時は、何人か一緒に任務を引き受けたらしい。その中の一人が、この男の友だったということだ。
男はごくりと唾を呑んだ。
「…それって――」
「ああ、今、お前が思った通りだよ。そいつは、敵に捕まったんだ。俺は、それからそいつの顔を見ていない」
屋敷に帰って来たのは、一人、二人。かなり酷い状態で帰った。裂かれた身体から滴る血は止まらない。
任務に向かった者たちを迎えた自分たちに、彼らは言った。
――あそこは、地獄。人を躊躇なく殺して来た自分たちに、罰が下った、と。
あのことは、生涯忘れることなんてないだろう。時々、夢にも見る。
古き友のことを思い出した連れの男の頬には、涙が一つ伝っていた。
「……はぁっ…、はぁ…っ」
暗闇に包まれた街を疾走していた。向かう先は、朱雀家。
血相を変えた如月は葉月を追っていた。見渡しても、彼女の姿はない。
もう、既に到着してしまっているだろうか。そして、そこで。
如月は、頭を横にぶんぶんと振った。
あいつは強い。きっと強いはずだ。『葉月』の名を与えられた者なのだから。
『如月』の名を与えられる者との実力の差は桁違い。『葉月』それは。
如月は、仮の名が意味する力に賭けて願った。
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