3
「さあ、参りましょう」
にこりと笑ったその声が合図だった。
「アーリア!」
リベルトの叫び声が聞こえた。
次の瞬間。
アーリアは冷たい海へと沈んでいた。
水しぶきの音がどこか遠くのことのように感じられた。水面に打ち付けられた衝撃でたくさんの海水を飲んでしまう。
体に巻かれた縄のせいで身動きができない。
重石がゆっくりとアーリアを海底へと誘う。
苦しい。
息ができない。
わたし、本当に海の王のところへ返されちゃうのかな。
アーリアは薄眼を開いた。
なにか、ぼんやりと光が見えたような気がした。
ほのかな光が頼りなく揺らぐ。
灯りと一緒に何かの影がアーリアを追いかけてくる。
なんだろうと思ったら、強く抱きかかえられた。
(う、うそ……)
目の前にリベルトがいた。
ぼんやり光っているのは彼が首からかけている真珠玉だった。
(どう、して……こんなところに……あなたも死んじゃう)
アーリアは目で訴えた。
リベルトはアーリアを海の上へ連れて泳ごうとする。
「だ、め……」
ごほっと空気が口から吐かれた。
アーリアの足には重石がつけられている。そんな状態でリベルト一人の力だけでアーリアを連れて泳ぐことなんてできない。暗い海で彼がアーリアを探し出すことができたのが奇跡。
それなのに、彼はまだあきらめていない。
彼はこの絶望的な状況でもアーリアを手放そうとはしていない。
リベルトはアーリアと共にある未来を選んでくれている。
ふと、テオドールとの会話を思い出した。
リベルトと同じ方向を向きたいと、あのとき確かに思った。
リベルトがあきらめないなら、わたしもあきらめない。
海の王の魔法だって、わたしが自分の力で解いてみせる。ずっとリベルトの隣にいたい。それを願うことは悪いことだろうか。
アーリアは、ただリベルトを選んだだけだ。彼はアーリアの事情に巻き込まれただけなのに。彼はまだあきらめていない。
(わたしも……あきらめたくない。リベルト殿下との未来をつかみ取りたい。魔法もなにもかも、全部……打ち破って。違う、魔法に負けたくない。リベルト殿下と一緒に幸せになりたいっ!)
アーリアは強く願った。
リベルトと一緒にいたい、と。この状況下でも絶望をしたくないと。
あなたと一緒に未来を望みたい。
そのためなら、海の王の魔法だって打ち負かせてみせる。
アーリアが強く願ったとき。
二人は淡い光に包まれた。
アーリアはあたりをながめる余裕もないまま気を失った。
◇◇◇
リベルトが気が付いたとき、あたりの景色は一変していた。
あのとき。
海へ投げ出されたアーリアを追いかけて自身も飛び込んだ。闇のような海中で、自分がどこにいるのかもわからないような絶望感を覚えたのは一瞬のこと。そのあと、不思議なことが起きた。
リベルトが肌身離さず身に着けていた真珠玉。鎖の通したそれはアーリアの涙が変化したもの。あのとき、偶然上着のポケットに入ったようで、リベルトは少女趣味だな、という自覚を十分に持ったうえで鎖に通して首からかけていた。
その真珠がぼんやりと光った。
そのうえ、まるで真珠自体が意思を持っているかのように、ある方向へリベルトを連れて行こうと揺れ動く。
真珠に導かれるようにリベルトは深く海を潜っていった。
すると、先の方にぼんやりと何かが浮かび上がる。
それが銀色の髪の毛だと理解したリベルトは水を掻く手に力を込めた。
「アーリア?」
リベルトは起き上がって辺りを見渡した。
固い石の上に寝かされていたらしい。彼のすぐ隣には気を失ったままのアーリアの姿があった。
美しい青銀の髪が石畳の上に広がっている。リベルトは慌ててアーリアの口元に顔を近づけた。
わずかだが呼吸をしている。
胸が上下しているのを確認してリベルトはホッとした。アーリアを縛っていた縄はいつの間にか外されていた。
白い大きな長方形の石が整然と並べられ、遠くの方には崩れかけた壁や石柱も確認できる。
ゆらゆらと不思議な色に煌めく空気、と考えてリベルトは自分たちがいる場所がまだ海の中だと理解した。
空は藍色に染まっており、何かの影が時折揺らめく。しかし、空ではない。
なにしろリベルトのはるか上空を時折魚の群れが泳いでいくのだ。
魚が空を泳ぐはずはない。
空気が光に反射しているようなきらめきは、海の中で水が光に反射をしているときと同じ現象のような気がする。
リベルトは自分たちの身に常識では考えられないことが起こったことを悟った。
「アーリア、おい、アーリア。目を覚ませ」
リベルトはアーリアの首の後ろに腕を入れて、彼女の上半身を抱き起す。自身の胸の中にアーリアを抱え込んで、彼女の中を呼び続ける。
アーリアはぐっすり眠っているのか起きる気配もない。
(そういえば、前に寝つきだけはいいとか自慢されたことがあったな……)
この状況下でそれを発揮するか? とリベルトは恨みがましい視線を彼女に送るがアーリアは相変わらず意識不明のまま。
リベルトはもう少し強くアーリアを起こすことにした。
「アーリア、起きるんだ」
もう一度彼女の名前を呼び、やはり反応が無いことを確認する。今度は鼻をつまんで唇を自身のそれでふさいだ。
数十秒後。
アーリアが身じろぎをしたためリベルトは唇を離した。
「っはあ……苦しかった。呼吸できないって辛いっ」
アーリアはぜえぜえと呼吸を整えた。
リベルトは彼女の元気な声に心底安堵した。
肩で息をしていた彼女は、少しして落ち着いたのか辺りを見渡した。
「リベルト殿下! あなたったらこんなところまでついてきちゃって。あなたまで死んじゃったらトレビドーナはどうなるのよっ!」
「おまえ、死んだことになったのか」
「海に落とされたのよ。呼吸できなかったもの。人間水の中だと息できなくて死んじゃうのよ」
アーリアは何を当たり前のことをとばかりに胸を張る。
「俺たち今、息しているだろう」
「死んで黄泉の国に来たのだから息くらいできるでしょう」
アーリアは首をかしげる。
どうやら彼女の思考はそこから動かないらしい。自分たちは死んだ、と聞かされてもリベルトはまるで実感がない。黄泉の国がこんな暗い訳があるか、と思う。
「どうやらここはまだ海の底のようだ」
「へっ? だって、わたしたち息……」
アーリアはリベルトの腕の中で驚いてみせた。言いたいことは十分に理解できる。
「二人とも無事に起きたようだな」
突然女の声が聞こえてリベルトはアーリアを守る様に抱きしめる。
気配などまるでしなかった。
リベルトとアーリアの正面に、いつの間にか女が立っていた。
いや、泳いでいると言った方がいいのかもしれない。女の体半分は魚の尾ひれ。
アーリアと同じ青銀色の髪に、腰から下に巻き付けられた布からはみ出しているのは同じく青く光る尾ひれだった。
妙齢な年頃の女は片腕を持ち上げた。
すると、何もないところから人間の少女が姿を現した。気を失っており、少女の体からは力が抜けており、だらりと首が前に垂れ下がっている。
「マリアナだわ」
「連れの者も海の中をさまよっていた。今回人間をこちら側へ招いたのは、海の王の最後の気まぐれ。いや、温情だ。ありがたく思え」
女の声は堅かった。
親しみを一切感じさせない怜悧な声。
「海の王ですって」
アーリアがつぶやいた。
「ところで、ここはどこなんだ。こちら側というのは?」
リベルトも今の言葉の中で気になった部分を尋ねた。
「人間らが、あちら側の世界という、人魚の住まう世界だ」
女が無表情に答えた。
彼女はずっと同じ表情を保ったまま必要事項に淡々と答える。
「ついてくるがよい」
女は二人へ一方的に宣言して泳ぎ出す。
完全に主導権を握られている。面白くはないが、自分たちに不利な状況下であることは十分に理解している。
リベルトとアーリアは立ち上がり女の後を追った。
平な石畳を歩く。海の中だというのに水の抵抗感は全くない。陸地にいるのと同じように歩くことができる。前を進む女はリベルトたちと同じように立つ姿勢だが、尾を揺らして泳いでいく。
なんとも不思議な光景だった。
思うことは同じなのか隣を歩くアーリアは時折あたりをちらりと眺めては物言いたそうにリベルトを見上げる。場を支配する人魚の女に遠慮をしているのか彼女は黙ったままだ。
やがて二人は女に導かれ神殿のような、四方を石壁に囲まれた場所へとたどりついた。しかし年月の経った遺跡のように屋根はなく、どこかさびれている。
「人間を案内できるのは入口までだ。海の王を招くにはいささか不格好だが、仕方ない」
女は言い訳じみた言葉を口にした。
女はそれからぱちんと指を鳴らした。すると、マリアナの口から「う……うん」とうめき声が聞こえた。
マリアナは宙に浮いたままの状態で意識を覚醒させ、アーリアの顔を見てほっとして、それからすぐ真下にいる女をみて、周囲を見て目を白黒させた。
マリアナの驚いている表情など構いもせずに小さな光の粒が虚空に生まれる。
リベルトは光を注視した。
光は徐々に大きくなり、それから閃光を放つ。まぶしてリベルトは目をつむった。
そろりと目を開くと、目の前には光を寄せ集めた人魚の形が出来上がっていた。光に浮かぶ陰影で、それが髪の長い男だと理解する。
おそらく、これが……。
「海の王」
リベルトの思考をなぞるように横に佇んでいるアーリアがつぶやいた。
◇◇◇
光を模した海の王はしばらくの間沈黙を保っていた。
目の前の光は海の王なのだ、とアーリアは本能で理解をする。圧倒する大きな力が目の前にあることを肌で感じた。
「王よ。お望みのままに娘を連れてまいりました」
女がその場に膝まずく。
王と呼ばれた光は頷いた。
光の印影だけだが、たしかにそうしたのだとアーリアは理解する。
王はアーリアは向き直る。
「私の寿命が尽きる前に、まさか我が娘の子に会うことができようとは。運命とは奇妙なものだな」
アーリアはなんて返事をしていいか分からない。本当は言ってやりたいことがたくさんあった。
はた迷惑な魔法をかけてくれてどうしてくれるの、とか今すぐ魔法を解いて頂戴とかそういうのだ。
けれど、王の声に寂しさを感じてしまったアーリアは文句を言うために開きかけた口を閉ざした。
「私にはかつて七人の娘がいた。一番末の娘は、可憐な顔に似合わず大層な跳ねっ帰りのお転婆だった。いつも心配していたが、それゆえか一番かわいくもあった」
海の王は遠くにいる娘に語り掛けるような声を出した。昔を懐かしむその声。
「懐かしい気配がした。娘の血を持つ者の強い想いが水を伝って私の元へ届いた。だから、私は最後に娘の血を持つ者と会ってみることにした」
光の粒が収縮する。ふと、王が笑ったように形どる。
「会ってどうするつもりだったの?」
「昔を懐かしんだのかもしれぬ。昔、娘は私のかけた魔法を跳ねのけた。おぬしも同じように私の寂しさから生まれた魔法を打ち破った。それで、思い出した……。おぬしも、跳ねっ帰りの我が娘にそっくりだ」
アーリアは海の王の言葉を聞いて、それから徐々に目をまんまるとさせた。
今、彼は確かに言った。
魔法を打ち破った、と。
「じゃあ、じゃあ……わたしの魔法は解けた……の?」
アーリアはかすれた声を出した。
王を模した光が頷いた。
「そうだ。娘は己の伴侶を自分でみつけた。わかっていた。娘は小さな子供ではなく、大人になったのだと。それでも、私は寂しかったのだ。……おまえたち人魚の血を持つ者たちには悪いことをした。私の魔力が海へと溶け出し影響を与えてしまった」
最後に会えてよかった。
そう王は締めくくって光はその場から消えた。
―私が隠れれば私の魔法の力は徐々に弱まるだろう。さすれば、人魚返りを起こすものが生まれることは無くなる―
最後、王の言葉が直接頭の中に届いた。
アーリアは頷いた。
「あのね、あなたの娘はとっても幸せだったのよ! だって、お城にたくさんの絵画が残されているもの。夫婦仲睦まじく、笑顔なの。わたし、あの絵が大好きよ」
アーリアは叫んだ。
届いていないかもしれない。けれどアーリアは彼に届けたかった。
―ありがとう、遠い娘よ―
頭の中に暖かな声が響いた。
アーリアは瞳を細めた。
「そんなの許せないっ! 海の王は姫様が必要ないって言うの?」
すべてを見届けていたマリアナが低い声を出した。彼女はさすがに王とのやりとりには口を挟まなかったが、やりとりは見聞きしていたのだ。
「マリアナ」
まだこちらの問題が残っていた。
彼女はアーリアと共に海に落ちたのだ。
人魚の女はマリアナを見上げる。
怜悧な瞳に射抜かれたマリアナは口ごもる。
「おまえが許す許さないの問題ではない。王がおまえたちをこちら側に招いたのは姫の子の帯同者という温情だけだ。おまえたちは何か勘違いをしているな」
「で、でも! 王はずっとさみしかったんでしょう。だからわたしたちが王の手足になって姫様を海へと返してあげたのよ!」
そこまで言ったとき。
とつじょマリアナが喉に両手をやって苦しみだす。
「おまえたち人間が王に対してしてやる、だと。傲慢な者たちだ」
「うっ……。くる、し……」
女はマリアナに向かって腕を伸ばしている。彼女がマリアナから呼吸を奪っているのだ。
「やめて頂戴!」
アーリアは思わず口を挟んだ。
女はアーリアの言う通りにした。マリアナに空気が戻る。彼女は苦しそうに肩で息をする。まだ宙に浮いたままだ。
「われらは気まぐれに人に加護を与えてきた。しかし、おまえたちの存在は異質だ。王は慰めなど必要ない。慰めてやろうなどとは、ずいぶんと傲慢な考え方をする」
マリアナは何か反論しようと口を開いた。
その前に女が言葉を重ねる。
「おまえを通して陸の上のおまえの仲間にもわたしの声は届いている。ずいぶんと傲慢な者たちだ。王を慰めるなどと」
「だったら、どうして今まで黙っていたの? 海神狂の人たちはわたしの前にも同じような人たちを海へ落としていたのでしょう?」
アーリアは女に訴えた。
女はアーリアに顔を向ける。
「おまえの前に海へ落ちた子らはわたしたちの同胞がこちら側へと引き入れていた。しかし、こちら側に適応しない者はすぐに命を失う。血は薄まっているから不自由な生活を強いられている者が大半だ」
「だったら……」
海の上の世界へ返せばいいのに、と言おうとしたけれど女に目で制された。
「こちら側へ招いただけでも温情だ。わたしたちは必要以上に交わらない。個体差はあるがな」
その例外としてアーリアは生まれたということなのだろう。
アーリアは目の前の女を通して人魚の本質を垣間見た。彼女らは本来人と積極的に交わらない。それこそ海のように気まぐれに人に何かを与えたり、逆に奪ったりしているのだ。人魚伝説には、海へ出た人間を気に入った人魚が、気に入った人間を海の国へ連れて帰ってしまうというものもいくつかある。
「言いたいことはそれだけだ。おまえたちはもう帰るがよい」
女は手を高くあげた。
アーリアの視界がぼやける。すぐ近くに水の気配を感じた。
リベルトがアーリアの肩を抱く。
水の泡が二人を取り囲んだ。
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