六章 人魚姫、海の王と相対する

1


「なっ……んでっ」

 重たい瞼を持ち上げて覚醒をしたアーリアはいつもの癖であくびをする口の前に手を持って行こうとして、自身の体が自由にならないことに驚いた。


 状況についていけない。

 しかも寝かされているのはかろうじて薄い敷物が敷いてあるという冷たい床の上。

 縄で縛られていることにアーリアは瞠目する。


「あ、目が覚めました?」

 明るい声はマリアナのもの。

 アーリアは声のした方に顔を上げようとする。そうだ、確かマリアナはアーリアにこう言った。


『海の王の魔法を解く手がかりを、家族から仕入れました』


 アーリアはマリアナの言葉を信じて、彼女の手引きでコゼント城を抜け出した。幸いに城内の警備は手薄だった。

 マリアナはアーリアの元へとやってきて膝まづいた。

「すこし窮屈ですけどもう少しだけ我慢してください。お薬が少なくて案外早く目を覚ましちゃいましたね。姫様の寝顔もとってもきれいでマリアナ、久しぶりにうっとりしちゃいました」


 マリアナの声はその言葉通りどこか恍惚気だ。

 アーリアのこの格好に頓着もせずに普段通りに接してくる。アーリアはぞくりと背筋を凍らせた。なにか、おかしい。

 彼女の真意が見えなかった。

 連れてこられた場所はあいにくとアーリアでは判別がつかない。


 アーリアは何度かマリアナにどうして自分が縄で縛られているのか問いただしたが、彼女は「んん~、だって縄ほどいたら姫様逃げ出すじゃないですか」としか言わない。

 目的についてものんびりと躱すだけ。


 アーリアは疲れてきてしまい口を閉ざすことにした。

 マリアナは一度アーリアの側から離れて、それからどのくらいか時間が経った頃戻ってきた。

 今度はほかにも人を連れてきていた。マリアナよりも少し年上の女性と年老いた男性と若い男が数人。ずいぶんな大所帯だ。


「これはこれは人魚の姫君。お目覚めですね」

 一番年かさの男が声をかけてきた。

 アーリアはその男を睨みつける。いったいどういう了見でアーリアのことを拘束するのか。

「ここはどこなの? あなたたち、何者? わたしを誘拐して、一体何を要求したいのかしら」

 アーリアをかどわかす目的は一つしかない。コゼント王家に対する何らかの要求。


「気の強い姫君だ。さすがは、あの人魚姫の末裔なだけはありますな。あいにくとわたくしどもは王家へ言いたいことはありませんよ」

 老人はアーリアの威勢のよさに、片方の眉を持ち上げる。アーリアに遜ろうとしない、どこか尊大な響き。

「姫様はこれから供物として海の王へ捧げられるのです」

 明るい声をだしたのはマリアナだ。

 言っている内容と声の調子が一致しなくてアーリアは彼女の言ったことを理解するのにたっぷりと二十秒は時間を要した。


「……なんですって」

 供物とはいったいどういうことか。

 嫌な予感しかしないのはなぜだろう。


「姫君は、海神狂と呼ばれる人々をご存知ですか?」

 と、銀髪の青年が口を挟んだ。

 柔らかな声音がこの場にそぐわない。

 アーリアは男を睨みつける。長い髪を後ろで一つにまとめた青年は「ま、お城の奥で育てられた姫君が知らないのも無理はないですね」と言ってやおら口を開いた。


「海神狂とはですね、いってしまえば海の王至上主義の、偏愛思考のちょっとイカれた集団です」

「貴様、我らを愚弄する気か」

 老人が低い声を出し、そのほかの男二人が銀髪の青年を取り囲もうとする。


「いやだなあ、客観的に見た感想ですよ。自分たちだって外でどういわれているか、なんてわかりきっているでしょう」

 あはは~と緊張感のない笑い声を出した青年はおそらく見かけに反して腕っぷしは相当のものなのだろう。男たちは睨みつけるだけで手を出そうとしない。

「そして姫君。あなたの血筋は罪の象徴です。あなたの先祖である王子は、海の王の大事な姫を強引に連れ去り妻にした」

「失礼ね! わたしのご先祖様夫妻はお互いに愛しみ合う、とっても仲の良い夫婦だったわ。わたし、今日城の回廊で肖像画を見て来たもの」


「そんなもの王家の人間がつくったでたらめだ!」

 老人が一括した。

 想像よりも大きな声にアーリアは不覚にもびっくりしてしまった。王女の威厳を持ってして絶対に弱みを見せないと決めていたのに。


「……そんなことないわよ」

「水掛け論は結構です。過去のことなんて今を生きる人間にはわからないですよ」

 会話の主導権はその言葉で再び青年へと戻された。

「わたしはミーファ。隣国アゼミルダの人間です。縁あって今回姫君誘拐事件に加担しています」

 ミーファと名乗った銀髪の青年は左腕を胸の前に持ってきて、優雅に背中を曲げた。

 まるで踊りを一曲お相手していただけませんか、と請うように。


「姫君は彼らにとってようやく生まれた人魚返りの直系。海の王の姫君の血を持つ、人魚返りの姫を海へとお返ししたら寂しさで嘆き悲しむ王の心が慰められる……そう考えてしまうのも仕方のないこと。海の王はもう長いこと嘆いておられるのですよ。自分を裏切った、娘に対して」

 裏切った、というミーファの声は昏かった。

 アーリアは身の毛がよだつのを感じた。

 自分がこれからどうされるのか予想できてしまったからだ。できれば当たってほしくない。


「アゼミルダ人のあなたがどうして海神狂に加担するのよ」

 コゼントの東の国境を接するアゼミルダはトレビドーナと同じくらいの大国だ。

「アゼミルダとしては、コゼントとトレビドーナに仲良くされても困るんです。だから、姫には本当はうちにお嫁に来てほしかったんですけどね」

 そうしたら大見得きってトレビドーナの対コゼント政策に横やりを入れられる。


「けれどコゼント王はトレビドーナを選んだ。だから、姫君は邪魔なんです。トレビドーナに嫁がれたら余計に結束が強固になるでしょう。あの国に海軍を与える? ふざけるなと言いたいですね」


 ミーファは冷淡な顔つきでアーリアのことを見下ろした。先ほどまでの歌うような声音とはまるで違う。おそらくこちらが彼の本性。

「では移動しましょうか。そろそろよいお時間です」

 再びにっこりと笑ったミーファの締めに、老人は面白くなさそうに彼を睨みつけた。



◇◇◇ 


 事件の後処理にあらかたのめどがついて城に帰ってきたのは夕暮れに近い時間だった。

 部屋へと戻ってきたリベルトは事件の収束についてもそうだが、アーリアとどう仲直りをしようかと思い悩んでいた。

 まさか自分がこんなことに煩わされるとは思ってもみなかった。自分の妻となる女性と心を通わせる予定など、今までのリベルトにはなかったからだ。

 けれどリベルトはアーリアを愛してしまった。王家同士の繋がりも大事だが、それ以上に彼女の心が欲しい。


「それで、リベルト殿下はこのあとどうするんだ?」

「兵士は偽物だった。トレビドーナの兵士は品行方正に努めている。またどこかの誰かが我が国の兵士に成りすますかもしれない。だから兵士たちには身分証を常に持ち歩くよう徹底する」

「いや、そっちじゃなくて。俺が言いたいのはアーリア姫とのこと」

「ああそれか」

 リベルトはそこで言葉を区切った。


 正直、謝るのは何か違うと感じている。リベルトは彼女に対して酷いことをしたわけではない。ただ、事実を指摘しただけだ。

 アーリアの、魔法に対する姿勢があまりにふざけていたから怒った。

 というようなことを言い訳すればフィルミオはお手上げとばかりに本当に両手を上にあげた。

「いやあ、お堅いねえ殿下は」

「なんだと」


「こういうときは男から謝っておくものだって」

「俺は悪くない」

「これだから恋愛経験なしの堅物軍人は嫌だね」

「不敬罪で牢屋に入れてやろうか」

 フィルミオの恋愛経験なしというリベルトへの評価に対して目をすがめた。


「うわ、怖っ。図星を指されたからって幼稚だぞ。わかった。降参。これ以降恋愛経験なしって言いません」

「いま言っただろうが」

「とにかく、だ。心にしこりを抱えているってことは殿下だって少しは言い過ぎたって自覚があるんだろう。そういうときは優しく謝り倒して、ついでに濃厚な接吻の一つでもしておくのが吉だって」

 フィルミオはしたり顔でリベルトに持論を展開する。


「それはおまえの経験談か。妹相手に接吻だと?」

「いや、俺だって恋人くらいいるからね。グアヴァーレの娼館に三人くらいは!」

 そっちか。それは恋人に入るのか。


「うわ、傷つくわ~、その目つき」

 娼婦など恋人の内には入らないだろうという視線を向ければフィルミオは大げさに床に両ひざをつき両手で顔を覆った。

 なんだか面倒になってきた。この愉快な幼馴染みの相手をすることが。

「あいつにも、もっと必死になってほしかった。俺と同じくらいに」

「じゃないと呪いが解けないもんな」

 フィルミオにはコゼント王ビアージョルトからもたらされた海の王の魔法を解く鍵を伝えてある。


「それをそのままアーリア姫に伝えるのは駄目なのか?」

 フィルミオは立ち上がる。

「この前も言っただろう。こういう気持ちは誰かに強制されたのでは意味がない、と」

「そうでした」

 だからアーリアにも魔法についての本質は告げなかった。そのため、言葉を選んで話したらついきつい言い回しになってしまった。


 リベルトはビアージョルトに言われた。

 アーリアには告げないでほしいと。彼女に中途半端に期待を持たせたのは自分の至らなさのせいだと。確かに彼の言葉のせいでアーリアは魔法について楽観的だ。

 その彼女が心から魔法に打ち勝つ、魔法なんかに負けないと強い意思を持つことができるようになるにはまだ時間を要するのかもしれない。


「とにかく、魔法を解くにも二人は同じ方向を向いてないといけないんだろう。だったら殿下の方から折れた方が俺はいいと思う」

 とにかく女って生き物は怒らせると怖いんだ、根に持つし、どうでもいいことをずっと覚えているんだぞ、とフィルミオは親切に忠告する。

 それはおまえの妹の話か、とリベルトは突っ込みたい衝動に駆られたが、勢いよく扉が開かれるのが先だった。


「リベルト殿下! 妹はこちらにいますか?」

 前置きもなく入ってきたのはイルファーカスだ。彼にしては珍しくあわただしい。

「アーリア? いや、今日は一度も顔を会わせていない」

 リベルトは事態が飲み込めないが、とりあえず事実を述べる。


「そ、……うですか」

 イルファーカスはざっと室内を見渡し、それだけ言って踵を返した。

 用件だけ言ってそのまま退室したイルファーカスをリベルトはすぐに追いかけて並走する。

「アーリアに何かあったのか?」

 嫌な予感がする。


「誰も彼女を見ていないというのです。最後にアーリアと会話をしたのはテオドール殿下。殿下曰く、別れた後妹は書物庫に行くと。しかし……」

 会話の続きを聞くまでもない。

 アーリアは忽然と姿を消したのだ。


「今の今まで誰も気が付かなかったのか」

「妹は元気な時は割と自由に城の奥については歩き回っていたんです。外出禁止のせめてもの償いですよ」

「しかし!」

 アーリアを狙う集団がいると知っている身としてはそれは暢気すぎるのではないか。

 リベルトの言いたいことを正確に察したイルファーカスはちらりとこちらに目を剥けた。


「それでも、なんでも駄目だといえばあの子は反発します。家出でもされたらかなわないですからね。だからそれとなく見張りはつけているんですよ。けれど……」

「今日はごたごたしていた……そういうことか」

 もしかしたら城下での揉め事は初めからアーリアを連れ出すための陽動だったのかもしれない。

「殿下!」

 イルファーカスの部下が正面からやってきて、彼に何かを耳打ちする。


「最悪だ」

 イルファーカスはぼそりとつぶやいた。


「何がだ」

「マリアナの姿も見えません」

 彼の言葉にリベルトの背中に嫌な汗が伝う。

「彼女の身元は確か、なのだろう?」

「ええそうです。けれど、殿下に指摘を受けて今アーリア付きの侍女たちの身元を再度洗いなおしていたところなんですよ。その結果を待つまでもない」

 イルファーカスの部下からもたらされたのはマリアナの姿が見えないこと、そして城下へ向かう荷馬車にマリアナと同じ背丈の少女が一緒に同乗していたということだった。


「今すぐに追いかけるぞ」

「けれど、どこを探すのですか?」

 やみくもに探しても仕方ない。戦力が分散される、イルファーカスの主張することも十分わかる。

 けれどリベルトは焦りを募らせる。


 もしも、マリアナが海神狂とつながっているのなら。彼らに人の法律や理屈は通じない。

 リベルトは自分だけでも城下に向かおうと厩へ足を急がせる。こんなところで報告を待つ気になどなれない。

 王太子失格だな、と心の中で自嘲していると黒い物体が目の前に現れた。


「ナァァアン」

 アーリアにやたらと懐いている猫のナッさんだ。


「おまえは一緒じゃなかったのか」

 そう言うと黒猫は項垂れたように頭を下げた。

「ナア」

 まるで言い訳できません、と言いたげだ。


 この猫は時々人間の言葉が分かるような態度を取る。いよいよ自分も魔女や魔法と言う存在に毒されてきたらしい。

「邪魔だ、どけ」

 猫の相手をする暇などなく、リベルトは走り出す。

 驚いたことにナッさんはリベルトの横を同じように走る。


「ナアン」

 ナッさんがリベルトを先導するように前に躍り出る。まるでついてこいと言いたげだ。

 まさか、な。

 しかしこいつは自称魔女のビルヒニアの使い魔だ。あくまで本人談だが。


「おまえ、アーリアの居場所がわかるのか?」

 思わずそんなことを口走っていた。

「ナーン」

 そうだといいたげな猫の瞳にリベルトは決意を固めた。


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