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◇◇◇ 


 アーリアは十六年間ずっとお世話になっていた実家の人工池の底でぶくぶくと泡をだしながらふてくされていた。

 理由は簡単。

 今日再び人魚へと変化したからだ。

 尾を両腕で抱えるようにして人工池の底に沈んでいる。


(もうもうもう! なんで人魚になっちゃうのよ。魔法って愛の力で解けるのじゃないの?)

 かなり真実に近いところまで行きついているのだが、今のアーリアには知る由もない。


 リベルトに口づけをしてもらって魔法は解けたと思っていたのに。何がいけなかったのだろう。

 アーリアはそっと自分の唇を指先で触った。

 彼から与えられた口づけは、小さいころ読んだおとぎ話の王子様がするような優しいものではなくもっと情熱的なものだった。それこそ食べられてしまうかと思った。


 初めてのことに頭が真っ白になって泣いたら彼は今度は優しくアーリアに一から口づけを教えてくれた。

 リベルトのことが知らない男性に感じてびくりとしたのに、次の瞬間には彼のやさしさに触れてこのまま彼に何もかもゆだねてもいい、なんて考えてしまう自分がいた。


(恋ってへんなの)

 次に彼に会ったらどんな顔をすればいいのだろう。


 リベルトのことを考えていると、時間があっという間に過ぎてしまう。アーリアはそろそろ水面に顔を出そうかな、なんて考えて泳いだ。

 バシャンと水音とを立てて水面から顔をのぞかせたら、恋人と目が合った。


「ひゃっ」

 アーリアは慌てて潜った。

 来るなら来るって前もって知らせておいてほしい。じゃないと、心臓に悪い。

「なに隠れているんだ」

 リベルトの声が聞こえる。

 少しだけ非難めいた声音。

 アーリアはそろりと頭を出した。彼の顔は怒ってはおらず、むしろどこか楽しげだ。


 再び視線が絡み合う。じっと彼を伺うと、リベルトは目を細めた。

「こっちへ来い」

 人工池のほとりに腰を下ろしたリベルトの側へアーリアは近寄った。

 淵に上がったアーリアの肩にリベルトが厚手の肩掛けを羽織らせる。寒くないのに、と思ったが、そういえば今日は朝から薄着だったな、と思い至ってありがたく頂戴することにする。


「人魚になったみたいだな」

「うん……」

 確認するような口調に、アーリアは頷いた。

「でも、今回はもう半月以上もずっと人間のままだったのよ。こんなこと初めてよ。もしかしたら魔法の力が弱まったのかも」

 アーリアは努めて明るい声を出した。

 リベルトはアーリアの肩を抱いて、彼の方に体を傾けさせた。


「……けど、あと一つ足りない」

 彼は口の中で小さくつぶやいた。

 アーリアはよく聞き取れなくてきょとんとした。


「何か、言った?」

「いや。……視察も終わったしそろそろ帰り支度をすることにする」

「魔法の解き方は? もしかしてあなた突き止めたの?」

 アーリアの声は弾んだ。

 アーリアの声とは裏腹にリベルトの顔は真剣味を帯びていた。じっとアーリアを見据える。


「おまえは、海の王の魔法とどう向き合う?」


「どうしたの、急に」

 話の方向転換にアーリアはきょとんとする。

「おまえは、どうしても魔法を解きたいと思うか?」

 リベルトの声は真面目そのもの。


 アーリアは何を今さら、と言おうとして、けれど口から出かかった言葉は結局紡がれることはなかった。

 リベルトはまっすぐにアーリアの瞳を射抜いていた。

 茶と緑が混じった瞳は真剣にアーリアのことを見つめる。アーリアは無意識に彼の視線から逃れようとした。


「魔法は……いつか解けるかもってお父様が」

「いつかっていつだ?」

「そ、それは……大人になったら? だ、大丈夫よ。きっと解けるわ」

「おまえは、もうずっとあきらめていたんじゃないのか。父親から優しい言葉を聞かされて、それに縋って生きてきた。けどな、自分から行動を起こさないと何も変わらない」


 リベルトの言葉はまっすぐにアーリアの胸を貫いた。

 アーリアがこれまでずっと閉じてきた蓋。

 彼はそれをこじ開けようとする。


「だって、お父様がおっしゃっていたもの昔。もしかしたら、大きくなったら魔法が解けることもあるかもしれないって」

 それだけがアーリアの希望だった。

 もし成長したら。何かのきっかけで魔法が解けることがあるかもしれない。

「それが甘えだと言っている」

「あなた、魔法の解き方を知ったの?」

「このままだと俺とおまえは結婚できないかもしれない」

 リベルトはアーリアの質問に答えるではなく、別の言葉を口にした。

 衝撃的な内容に、アーリアは呼吸することを一瞬忘れる。


「嘘……。だって、この婚姻はもとはあなたのお父様が言い出したこと」

「一つ条件がある。この婚姻によってトレビドーナとコゼントの王家の血を持つ子供が生まれること。だが、人魚返りの魔法が解けない限り、おまえは子供を身籠ることはできない」

「嘘……」

 思いもよらない事実を聞かされアーリアは喉を引きつらせた。

 そんなこと、いままで一度だって聞いたことがない。


「本当だ。ビアージョルト王も知っている」

「お父様が?」

 アーリアは驚きを隠せなかった。どうして父王は、一番大事なことをアーリアに教えてくれなかったのだろう。


「もちろん子供は授かりものだ。結婚して、夫婦で過ごしていても授からないこともあるだろう。けどな、最初から身籠ることができないと知っているのとでは違う。父上がこの事実を知れば俺たちの婚姻は無かったことになるだろう。コゼントとの縁組は次代に持ち越せばいいからな」

 リベルトは淡々とアーリアにこれから起こりえる未来を伝える。

 リベルトはトレビドーナの王太子だ。将来の国王である彼の婚姻は、彼にとって利があるものでなければ認められない。

 理性ではわかっている。

 それなのに、やっと叶った恋が指の間からすり抜けて行ってしまうような感覚にアーリアは怖くなる。


「だったら知られないようにすれば」

「もうすでに知っている可能性もある。それに、それじゃあ何の解決にもならない。俺は、おまえのすべてが欲しい。海の王なんかにおまえを渡したくない。海の王の魔法なんかにおまえを縛られたくない」

 全部俺のものになれ、彼はそう言った。


 彼の言葉はアーリアの胸の奥にまっすぐに入ってくる。リベルトの渾身の想いがアーリアを突き刺す。

 彼はこんなにもアーリアのことを想ってくれている。

「わ、わたし……」

「俺は、おまえへの気持ちを自覚して正直びっくりした。こんなにもおまえのこと好きになっていたことに。だったらアーリア、おまえはどうなんだ?」

「え……?」

「おまえは、俺と同じくらいの気持ちを宿しているのか?」

 彼の疑うような声音にアーリアは反射的に反論する。


「当たり前だわっ! わたし、あなたのこと大好きよ。じゃなきゃ、あんなことしない!」


 口づけをしてほしいと願ったのもリベルトだから。リベルトだから人魚の姿で運ばれるときドキドキした。緊張で体がかちこちになるのに、それなのにこの時間がずっと続いてほしいだなんて矛盾した想いが胸に生まれて戸惑った。

 全部相手がリベルトだから。

 アーリアは気持ちをすべて乗せて声を出す。


「俺には、おまえと俺との気持ちに距離がある様に思えてならない」

 アーリアの今一番の叫びに帰ってきたのはリベルトのそんな厳しい声だった。


 アーリアは何かを言おうとした。そんなことないって言おうとするのにリベルトの冷たい声にびっくりしているのか口が回ってくれない。

 アーリアの反論を待っていたのか、それとも単に彼が忙しかったのか。

 リベルトは立ち上がった。


「悪い。俺も、少し感情的になりすぎた」

 リベルトはそれだけ言い残して立ち去った。



◇◇◇ 


 二日間人魚の姿で過ごしたのち。

 人間の足へと戻ったアーリアはお城の長廊下へと足を向けていた。

 歴代のコゼント王家の人間の肖像画が飾られた回廊は直射日光に当たらないよう、重厚なカーテンで窓が覆われているため、昼間でも薄暗い。


 アーリアはお供にナッさんを連れて一人ゆっくりと歴代の王族の絵画を眺める。

 お目当ての夫婦は大きな額に飾られていた。

 アーリアと同じ青銀髪に深い海色の瞳を持った美しい女性と、金色の髪をした青年の絵画だ。青年は妻とした女性の腰に腕をまわしている。二人とも互いに寄り添った仲睦まじい様子で描かれた絵画。


 アーリアのご先祖様で人魚姫。

 アーリアは立ち止まって大昔を生きた人魚姫と王子を見つめる。

 人間の足を手に入れた人魚姫。

 人魚は魔法を使うという。人魚から人間に変化をし、恋しい人の王子の元へと身を寄せた。激怒した父である海の王は娘に魔法をかけた。強制的に人魚へと変化させる魔法。


 彼女はそれを打ち破った。

 いま、彼女が生きていたら。

 アーリアはあり得ないことを考えずにはいられない。

 どうやって魔法を打ち破ったの。

 あなたは何を思ったの。

 聞きたいことはたくさんある。


 違う種族の、それも王子の元へ降嫁した海の王の娘。

 リベルトから突き付けられた現実。

 まさか、彼から言われるとは思ってもみなかった。アーリアの王子様はなかなかに厳しい人のようだ。まあ、出会いの頃からなんとなくわかってはいたけれど。


 けれど、見ないふりをしていたのは自分自身。

 ずっと怖かった。

 人魚返りの魔法と向き合うのが。

 だって、向き合って魔法を解こうと頑張って。それでも方法が見つからなかったらどうすればいいのか。絶望の未来なんて見たくない。

 王女としての責務を果たせない罪悪感と悔しさ。それを差し引いても、最後に待ち受ける絶望を受け止めるのが怖かった。


 けれど。それでは駄目だとリベルトは言った。


「ナァン」

 ナッさんが小さく鳴いた。

「ごめんねナッさん。飽きちゃったかな」

「ナア」

 腕の中の猫はふわりとあくびをした。


 腕の中の体温が心地よい。ナッさんは賢いと思う。ここは本当は動物禁止なのよ、あなたがわたしについてきたいのならわたしの腕の中から抜け出したらだめよと言ったら小さく鳴いて今までずっとアーリアの腕の中でおとなしくしている。

 アーリアは隣の絵に視線を移す。

 全身の絵画よりももう少し年を重ねた人魚姫と王子の上半身の絵。二人は年をとっても、ずっとずっと仲が良かったと伝えられている。


 子宝にめぐまれ、アーリアの代までその血は続いている。海の王の心配など吹き飛ばすかのように幸せな家庭を築いたのだ。

 アーリアはそのあと少しぼんやりと夫婦の絵姿を眺めて、外へと出た。

 太陽の光に目を細める。ずっと光の届かない場所にいたからいつもよりもまぶしく感じる。

 大陸の南に位置するコゼントは秋と言ってもまだ火の光は強さを保っている。とはいえ、冬になると海からの風が強くなり、それなりに気温は下がるのだ。


 アーリアはそのまま図書室へと向かうことにした。まずは自分のできる範囲で人魚返りについて調べてみることにした。

 本で足りないことがあるなら、城下へと降りて人に聞くという手段もある。人魚返りの人間はアーリアだけではないはずだ。魔法が解けた人がいるはず。

 今まで外に出してくれなかった両親と兄だが、リベルトに頼めばなんとかしてくれるかもしれない。

 その前に仲直りか。と考えて心の中が重たくなる。


「あれ、アーリア姫?」

 図書室への近道を歩いていると声をかけられた。

 四角い中庭を取り囲むように設えられた外回廊の反対側に立っていたのはテオドールだ。

「テオドール殿下」

 二人は中庭を挟んで対峙する。


 そういえば、コゼントについてからは彼も多忙でゆっくりと会っている暇がなかった。ただでさえ彼からの告白を蹴ってリベルトを選んだ形となるアーリアは、彼と面と向かって話すのは決まずい。

 そんなこともあり、会食の席などで同席することがあってもつい彼の視線から逃れるように誰かの陰に隠れていた。


「こんにちは。なんだか、ずいぶんとひさしぶりな……気がするね」

 テオドールの方からほがらかに話しかけてきた。

 アーリアは目を瞬いた。

 彼はいつもよりも流暢に言葉を話している。


 立ち止まったままでいるとテオドールがえいっと中庭に降りて、アーリアのいるほうへ向かってきた。アーリアはそのまま待つ形となる。

 テオドールは中庭から外回廊に足を踏み入れ、二人は向かい合う。


「あ……、その。えっと」

 今度はアーリアの方が言葉に詰まった。

「今日は一人でお散歩?」


「ナアン」

 ナッさんが抗議するように鳴いた。

「ごめん。ナッさんも一緒だね」

 テオドールは困ったように笑い、アーリアに少し話がしたいんだけどいいかな、と問うてきた。


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