五章 人魚姫、海の王の魔法と向き合う

1

 潮の香りが鼻腔をくすぐり、強い風が黒い髪を掬う。湿り気を帯びた風はトレビドーナではまず吹かない種類のもの。

「うわあ……」

 テオドールは感嘆のため息をもらした。

 湖よりも大きな、水の塊。視界の先までずっと水で覆われている、などと知識で知ってはいたが実際に目の当たりにするとなんて表現していいのか分からない。


 テオドールは呆然とつぶやく。

「兄上……、僕ここにこれてよかったです」


 その言葉を横で聞いていたリベルトは小さく頷いた。

 テオドールはずっと宮殿に籠りがちだった。狭い世界で生きてきたことを今日改めて実感する。

 父に言われたままにやってきたコゼントだが、自分の目で異国の地を見ることはテオドールに新しい発見と刺激を与えた。


「俺も始めてきたときはおまえと同じように感動した」

「兄上もですか?」

「ああ。海って広いんだなって思った」

「兄上も僕と同じなんですね」


 リベルトの子供のような感想を聞いたテオドールはくすっと笑みを漏らした。

 兄の人間らしい一面に親近感を覚える。

 今日はあいにく雲が多い天気だったが、雲の間から日がのぞくと、海面がきらりと輝く。


「海の水はしょっぱいって書いてありましたが、どのくらいなんでしょうか」

 テオドールは整備された港にしゃがみ込み、波打ち際を覗き込む。

「あんまり覗き込むと落ちるぞ」


 リベルトの言葉にテオドールは従うようにして立ち上がる。

 それでもやはり海の水のしょっぱさについては気になるためあとでこっそり試してみることにする。

 テオドールとリベルトはトレビドーナ海軍を引き連れて視察の真っ最中だ。

 アーリアを挟んで兄と対立してしまったテオドールだったが、リベルトはちゃんとアーリアに想いを伝えた。

 やはり失恋してしまったな、と正直に言えば悲しかったけれど、ちゃんと彼と会話ができていることに安心する。


「今度はアーリア姫も一緒に来られるといいですね」

 テオドールは勇気を振り絞ってアーリアの名前を口にした。

 リベルトからは報告は受けていたが、簡潔すぎてなんというか、逆にテオドールの方が『う、うん……』としか言えなかった。


 こういうときは自分の方からなんてことない風に言わないと、たぶんこの兄はこの先も自分に気をつかうんだろうなとか思うとそれはそれで何か違う気もすると思ったからこそ、あえて自分から話題に乗せた。


「え、ああそうだな。色々と懸念事項が解決したらな」

 一方のリベルトの方がいまだに素っ気ない。

「兄上、僕に妙な気は使わないでくださいね」

「え、ああ……そうだな……」

 テオドールの念押しにリベルトは拍子抜けしたような顔をして、それからぼそりとつぶやいた。

 兄の意外な一面を垣間見たテオドールの方も少しだけ驚いた。

 普段は泰然と構えているのに、ことに恋愛が絡んだ人間関係に免疫がないのか普段の余裕が消えている。


「……僕、これからもアーリア姫の……よき友人でありたいと思っています。だから、兄上も、普通にしていてください」

「……あ、ああ」


 兄弟はそれから二人で海を眺めた。

 テオドールは後悔はしていない。

 自分の気持ちをちゃんと伝えることができたから。

 生まれて初めて自分の好意を伝えた。

 精一杯伝えて、彼女は自分を選んではくれなかったけれど、悔いはない。

 だからよかったと思う。

 悔いが無いから前に進める。

 それに雄大な自然を目の前にしていると、次もきっといい出会いがあるに違いない、なんていう気になってくる。


 ああ海っていいなあなんて感動していると、後ろから野太い声が聞こえてきた。

「テオドール殿下、初めての海はいかがでしょうか。こちらに長くいるとついありがたみも薄れてしまいます」

 テオドールは慌てて振り返った。


 王子二人の案内役の年かさの男が目の前に立っている。

「スタルトン総督か。変わりはないか」

 リベルトが口を開いた。

 トレビドーナ海軍の責任者スタルトン。

 上背はリベルトと変わらないくらいだが、彼の横幅はリベルトよりも広く、しっかりと筋肉もついている。

 テオドールの苦手ないかつい軍人なのだ。


「込み入った話は後程。それよりもリベルト殿下におかれましては婚約おめでとうございます。聞きましたぞ、コゼントの真珠アウレリア王女殿下と婚約が調ったと。私は数年前に一度だけ遠目からお姿を拝見しましたが、当時まだ十歳をいくつか超えたばかりの姫君だというのに、そのお姿はまるでおとぎ話に出てくる人魚姫そのものでたいそう驚いた記憶がございます」

「……そうか」

 リベルトが黙り込んでしまうと、スタルトンは目をきょろきょろとさせた。

 自分の口が彼の不興を買ったと思い込んだのだろう。

 おそらくリベルトはつまらないやきもちを焼いたのだ。


(兄上も、なんていうか一人の人間なんだなあ……)

 自分に対しても嫉妬心を露にしていたリベルトを知っているからこその感想だ。


「えっと。せっかくだから市場で食べ歩きをしながら話をしませんか。新鮮な海の幸やこちらの一般の方々がどんなものを食しているのか……興味が……あるんです」


 場を繋ぐ会話、会話ってなにかあるかな、と口を開いたはいいけれど、飛び出してきたのはどう考えても能天気なお坊ちゃんが言いそうなセリフで我ながらもっとましなことは言えないのか、と頭を抱えたくなった。


「ええと、テオドール殿下はお腹を空かせておいでなんですね」

 しかしリベルトのだんまりに耐えかねたスタルトンはテオドールの提案に乗ることに決めたようだ。

 やっぱりまだまだ色々と未熟者だなあと猛省を始めたが、リベルトの「ま、そういうのも悪くないか」という言葉に少しだけ救われた。


 ちなみに市場では蛸の足を串にさして焼いたものをリベルトに薦めたスタルトンが、リベルトの絶対零度の冷気に当てられ凍り付いていた。

 リベルトが蛸嫌いなのを知らなかったせいなのだが、テオドールはやっぱり変な提案をした自分がいけなかったんだ、と落ち込む羽目になった。


◇◇◇ 


 

 アーリアの膝の上でくつろいでいたナッさんがぴくりと鼻を動かして上を見上げた。

 アーリアがふうっとため息をついたからだ。

「なんでもないのよ」

 アーリアはナッさんに言い訳をする。


 のんびりとしたコゼント城での午後。

 ここ数日彼女はずっと人間の姿をしたままだった。

 アーリアは中庭でのんびり日光浴をしている。といっても東屋にいるので日の光からは遮られているが。


(マリアナのこと、庇ってあげられなかったな)


 アーリアの心に引っかかるのは、気心の知れた侍女のこと。

 彼女はアーリアに男性が近寄るのを良しと思っていない節があったが、さすがに今回のはまずかった。リベルト相手に不敬極まりない言葉を吐いたのだ。


 アーリアとしても庇うことはできなかったし、正直に言うと悲しかった。

 リベルトは厳しいところもあるけれど、ちゃんと人と向き合うこともできるし、理不尽なことは言わない。

 アーリアが初めて好きになった人のことをちゃんと見てほしかった。

 彼女はあの一件以来アーリア付きの侍女の任を解かれてしまった。フェドナの判断は正しい。

 今度アーリアがトレビドーナへ戻るとき、マリアナが付き従うことは無いだろう。


 アーリアはナッさんの背中を撫でながら考え事に没頭する。

 ふと、ナッさんが顔をあげた。

 アーリアも同じように顔を上げると、リベルトの姿が見てとれた。


「リベルト殿下、お仕事はもういいの?」

「ああ。少し時間ができた」

 アーリアは立ち上がって抱えていたナッさんを地面に下した。


「ナァァァ」

 ナッさんが不服とばかりに鳴く。

 リベルトがこちらに近づいてきたからだ。なぜだかナッさんとリベルトは仲が悪い。

 きっとナッさんの飼い主であるビルヒニアがリベルトのことを毛嫌いしているからだ。彼女のリベルト嫌いも筋金入りだ。彼女のリベルトへの評価も今後のアーリアの課題だ。


「ごめんね、ナッさん。あとで遊んであげるから。ちょっと二人きりにしてね」

「ナアン」

「ごめん! お願い」

 アーリアは猫相手にがばっと拝み倒した。

 ナッさんはのったりとした動作で歩いて行った。まるで、仕方ねえな、と言わんばかりの大きな態度だ。

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