4
アーリアがリベルトの方に顔を向けた。
こちらに向けるまなざしの中に、逡巡が見てとれた。
アーリアの視線は結局迷ったようにリベルトを何度か眺めて、それから下へ向けられた。
「おまえは、テオドールに……好きな男がいると言ったんだってな。どんな……男なんだ?」
リベルトはつい、その先を促すようなことを言う。どうしてだか止めることができない。
アーリアはリベルトを見上げた。その眉が苦し気に歪んでいる。
「テオドール殿下のおしゃべり……」
ぽつりとつぶやかれたのはここにはいないテオドールへの苦情。
「あいつを責めるな。俺が全面的に悪い」
「わたし……、片思いのまま結婚なんてしたくない……。わたしだけが好きなのに、彼は……その人は、結婚は義務だって言うの。だから、わたし……だれも選びたくない。だって、わたしだけが結婚出来てうれしいのに、相手が、義務感だけでわたしを妻にしてくれるのなんて……そんなの、辛すぎる」
アーリアはゆっくりと言葉を紡いだ。
時折言葉が詰まるのは、そこに乗せている感情が苦いものだからだろうか。喘ぐように先を続けた。
「おまえの……想い人はひどい奴だな」
「……ほんとうよ。最初は怖い人だなって思ったのよ。でも、あとから優しい人だなってわかったの」
最後の柔らかな笑顔に、リベルトは嫉妬する。自分から聞き出しておいて、誰かもわからない、彼女の口にする好きな男に激しい怒りを燃やした。
「けど、おまえのことなんとも思っていないんだろう、その男は」
アーリアは寂し気に口元を緩めた。切な気なその表情にリベルトはぞくりとする。
リベルトは動揺を隠すように言葉を連ねる。
否、言葉が勝手に出てきた。
「だったら、……俺を選んでくれないか? 俺は……いつの間にか、おまえのことを好きになっていた。だから、トレビドーナの王子の中から伴侶を選ばないといけないのなら……俺を選んでほしい」
リベルトは真摯に伝えた。
結局、言わずにはいられなかった。
アーリアはリベルトの言葉に目を見開いた。大きな瞳が零れ落ちそうなほどだ。
「え……」
「おまえのことが好きなんだ、アーリア」
リベルトは今度は簡潔に伝えた。
アーリアは大きな瞳をさらに大きく見開いている。
「ばか……最初から……あなたのことよ……ひどい人ね」
やがて漏れ出たのはそんな言葉。
言葉と一緒にアーリアの瞳から大粒の涙が一筋頬を伝った。
その涙が、アーリアの頬を伝う瞬間丸い塊へと変化する。涙はカランと音を立てて床へ落ちる。何度も乾いた音があたりに響いた。
「半信半疑だった。おまえの好きなやつの言った言葉をテオから聞かされて。聞かずにはいられなかった」
「あなた……ひどいのよ。あんなこと言われたら、わたし……あなたを選ぶことなんてできないじゃない」
アーリアはまだしゃくりをあげている。
リベルトはアーリアの座る隣へ移動した。
馬車の速度がそこまで早くなくてよかった。
「弟に先を越されて、それで初めて自分の気持ちに気が付いた。本当、情けないな」
リベルトは床に落ちた白い玉を持ち上げた。
それは、暗がりの中でも不思議と光沢を放つ、真珠玉だった。
「おまえ、泣くと涙が真珠になるんだな。人魚姫らしいな」
「こ、こんなの……初めてよ」
アーリアは驚いたように、ひっく、としゃっくりをする。
「わ、わたし……おか、おかしくなっちゃったんだ」
アーリアがぽろぽろと涙を流す。
アーリアは自分の体の変化に驚いたようで、子供のように声を出して泣いた。
「俺のための涙だから真珠になったって、うぬぼれてもいいか?」
リベルトはアーリアの頭を引き寄せた。
彼女を宥めるために、自身の胸に彼女の顔を押しつける。髪の毛に指をうずめる。細くてやわらかなくせ毛の感触。
きっともうずっとリベルトはアーリアに触れたくてたまらなかった。
「……っく……あなた、意味わからないのよ」
「大丈夫。俺がちゃんと魔法を解いてやる。だから、もっとおまえも前向きになれ。魔法が解けるって信じろ」
「……解けるのかな?」
アーリアは顔を持ち上げた。
「ああ。言霊って案外大事なんだぞ」
リベルトはアーリアの目元をぬぐってやった。
アーリアはされるがまま、リベルトにゆだねている。
「だから、ちゃんとおまえから聞かせてくれ」
「なにを?」
「俺のこと、好きか?」
アーリアは無言になる。
暗がりで顔色が分からないのが残念だった。と思うのはリベルトが浮かれているからだろうか。
アーリアは眉根を寄せる。
「……好き」
小さな声は、馬車の音にかき消されることなくリベルトの耳に届いた。
◇◇◇
もう何年も会えることもないという心構えの元送り出した妹が数か月も経たないうちに帰国するという。
それも、トレビドーナの王子二人も一緒に、だ。ついでに、トレビドーナの王子二人の内どちらかがアーリアの夫になると書簡には書いてあった。
現状コゼントを取り巻く環境と、王の娘であるアーリア。この二つは切っても切り離せないもので、トレビドーナがそんなことを提案してくるのは至極理にかなっていることだった。
そんなわけでアーリアの兄であるイルファーカスはアーリアの政略結婚に驚くことはなかった。
心の中では人魚返りはどうするんだろう、魔法解けるかな、とは思っていたけれど。
トレビドーナの王太子とは今回の訪れに伴い文のやり取りをしていた。彼はアーリアの人魚返りを存じており、(やはりというか、ばれたのだ)コゼント国内でのアーリアの安全について思うところがあったようで本隊とは別行動をする旨連絡を寄越してきた。
イルファーカスの目の前に佇む妹姫は記憶にある笑顔を彼に見せている。
「お兄様、久しぶりね」
王子二人とアーリアは数日前にはコゼント城に到着していたけれど、本隊が到着を待ってイルファーカスと対面をすることになった。対外的には昨日トレビドーナから王太子一行が到着をしたことになっているからだ。
「久しぶりだね、アーリア。少し見ないうちに大人っぽくなったね」
「きれいになった?」
「うん。見違えたよ」
イルファーカスの回答に満足をしたアーリアはそのまま彼に抱きついた。
昔から妹は臆面もなく兄に対して愛情表現をする。仲の良い兄妹だった。
まるで甘えん坊の犬のように兄に抱き着いて頬を摺り寄せるアーリアに、イルファーカスもつい昔のようにふわふわとした頭を撫でてやる。
と、そこに妙な冷気を感じた。
棒立ちをしているトレビドーナの王子二人だ。彼らはどちらも、突然始まった兄妹の感動の再会を見物し、一人は視線をさまよわせ、もう一人は目をすがめた。
背後から冷気を出しているリベルトは今にも二人を引き離すために動き出そうとしている。
(そういえば、アーリアの婚約者はリベルト殿下に決まったのだった)
イルファーカスは妹から離れた。
アーリアは名残惜しそうに、兄を見上げた。
「ほら、アーリア。いつまでもこどものようなことをしていてはいけないよ」
妹に向かって人差し指を掲げて見せると、アーリアはようやくトレビドーナの王子二人の存在に気が付いたらしい。「あ……」と声を漏らしばつが悪そうに居住まいを正した。
「ずいぶんと仲がいいんだな」
低い声を出したのはリベルトだ。
これは相当に怒っているな、とイルファーカスは心の中で呟いた。
「ええそうなの。お兄様はとっても優しいのよ。わたしが小さいころからいつも遊んでくれたし、お勉強も教えてくれたし、抱っこもしてくれたのよ」
アーリアはリベルトの微妙な男心にまるで気が付かないように嬉々として説明する。
アーリアの声音に反応するようにリベルトの背後から漂う冷気の温度が下がった。
政略結婚だと思っていたが、どうやら二人の仲は良好らしい。
「こらこら、アーリア。そういうのって普通婚約者の前でばらさないでって、女の子の方が恥ずかしがることだろう」
「え、そうなの? でも、お兄様が優しいのは本当のところだし」
アーリアは驚く声を出す。
純粋に育ちすぎた妹が果たして大国の王妃を務めることができるのか、一抹の不安を覚えるイルファーカスだ。
「これからは兄ではなく婚約者であるリベルト殿下に甘えなさい」
でないとこっちの身が持たない、と心中で付け加えておく。どうやらリベルトの方はアーリアにべた惚れのようだから。
「!」
兄の言葉に妹は顔を真っ赤にした。
もじもじと胸の前で両手をもてあそび、ちらりと後ろを振り返る。
「わ、わたし! お母様のところに行ってくるわ」
急いだように早口で言い、アーリアは勢いよく部屋を飛び出した。
ばたんと扉が閉まる音が聞こえる。
イルファーカスは小さく肩をすくめた。
一応淑女教育は済ませたのに、今日のアーリアはいつにも増して落ち着きがない。
「すみません。妹は普段はきちんとしつけられた娘なのですが……」
「いや、久しぶりの実家で嬉しいのだろう。兄妹仲が良くて結構だ」
本当に結構だと思っている顔ですか、と突っ込まずにはいられない、険しい顔つきだったがイルファーカスは曖昧に頷いた。
三人はそれぞれ椅子に座る。
今回の歓待役は王よりイルファーカスに任されている。年齢も近く、互いに将来国を背負う者同士今の内から親しくしておけ、とのことだ。
「それにしても、ずいぶんと面白い旅装束で現れたので驚きました」
「事前に伝令で知らせておいた」
「ええ、まあ」
リベルトは普段から軍で指揮も取っていると伝わっている。少ない部下たちは皆、場慣れしており、王太子自ら市井の者に扮装し極秘に国を越えた。なかなかできることではない。大国の機動力を見せつけられたかのようだ。
「こちらの国でのアーリアの置かれた状況を知りたくもあった。多少強引ではあったが」
そして彼はさらりと本題を口にした。
その瞳はじっとイルファーカスを見据える。
「アーリアがトレビドーナへ渡ってくるとき。コゼントは条件を付けた。トレビドーナ王家の人間の直接の出迎え。そして貴殿の国境まで付き添い。ずいぶんと過保護だと思ったが……あれは、海神狂の人間を警戒してのことか?」
リベルトの口から発せられた海神狂と言う言葉。
「殿下のおっしゃる通りです」
イルファーカスは背後の背もたれに体を少し預けた。
「妹は随分とそちらの国でよくしてもらっているようですね。兄としてお礼を申し上げます」
イルファーカスはまずは家族として礼を言い、それからリベルトに先を促した。
彼は随分と人魚と、コゼントに伝わる人魚伝説について調べてきていた。
海神狂についても同様だった。
「彼女はいつから狙われている?」
「彼らにとって王家の人間は憎き仇であり、守るべき人魚の姫の血筋。中でも、初めて生まれた人魚返りの王女のことは、どこで聞きつけたのか、彼女がまだ幼いころからねらっていましてね」
「ええと……。それはどういう?」
ここで質問をしたのは第二王子のテオドールだ。リベルトと違い穏やかそうな彼は、話についていけずに目を白黒させている。
「ああおまえには話していなかったな。アーリアをトレビドーナに預けたのは、コゼント国内の厄介な団体から逃がすためでもあったということだ」
そうだろう、という視線を投げかけられればイルファーカスは、結局は頷く羽目になる。
大陸の中でも強国であるトレビドーナの宮殿が安全なことはまず間違いない。
リベルトは隣に座るテオドールに対して簡潔に海の王を狂信的に信仰する集団について話した。
「ですから、今回は少し苦言を呈したいのですよ。……時期が悪すぎました」
「時期?」
イルファーカスは長い息を吐いた。
結局逃がしたつもりのアーリアは戻ってきてしまった。
「ええ。海の王の代替わりが近いようです」
「代替わり?」
イルファーカスの言葉を復唱したのはテオドールだ。
イルファーカスは無言で頷いた。
「海の王は何百年かに一度代替わりをします。彼らとて不死身ではないのです。だから、王をあがめる一部の熱心な信者たちは、現王の娘の血を引くアーリアを、彼の元に返そうと躍起になっているのです」
イルファーカスは柔らかな布に包んだ言い方をした。リベルトはきちんと意味を理解したようだ。
「後を引き継いだ本隊からの報告だ。特に異常はなかった、とのことだ」
「さすがに彼らも軍事強国とうたわれているトレビドーナの王太子一行を襲うような真似はしないでしょう」
「俺たちは、アーリアの魔法を解くまでは国に帰れない。いや、帰る気がない」
リベルトはきっぱりとした口調で断言した。
「魔法を……」
「ああそうだ。イルファーカス殿下は何かご存じないか」
「残念ながら。王に直接伝わっている言葉は、私にはまだ降りてきていません」
イルファーカスは首を横に振った。
おそらく父は何かを知っているのだろう。アーリアの一時帰国の知らせにも彼はいつも難しい顔をしていた。
「では王に直接会うことはできるだろうか」
「王からの伝言です。少し、見極めさせてほしい、と」
この言葉を伝えるとリベルトはかすかに眉間にしわを寄せた。
「何を見極める?」
「申し訳ございません。そこまではわかりません。ただ、父も今はおそらく……迷っておられるのでしょう。アーリアと婚約をした殿下に、彼女を本当の意味で託してよいものか。これは、王とは違った、親としての心でしょう」
そこまで言えばリベルトは不承不承押し黙った。
その場にしばしの沈黙が訪れる。
「彼女の警護は万全なのか?」
やがて口を開いたリベルトは別のことを訪ねてきた。
「もちろんです」
そこだけは昔から抜かりがない。
自信たっぷりに頷くイルファーカスにリベルトはさらに言い募る。
「侍女の身元はどうなっている?」
「え、ええ。しかるべき身元調査はきちんとしていますよ。なにか、気になる点でも?」
「……少し。マリアナという少女について知りたい」
リベルトが口にした侍女の名前をイルファーカスは口の中で転がした。
アーリアにつけられた侍女は全部で五人。身元調査は万全を期している。
「たしか、彼女はしかるべき身分の者の演者ですよ」
「そうか……」
リベルトとはそれから港に駐屯する海軍の視察日程や会合の予定などを打ち合わせた。
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