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◇◇◇ 


「……今日はここまでにしようか」

 おなじみの勉強会の終わりを告げると同時にビルヒニアはぱたんと教本を閉じた。

 テオドールが現在少女たちに教えているのはトレビドーナの古典だ。古トレビドーナ語の勉強も兼ねている。


「アーリア姫、その……今日の、授業は難しかったかな?」

 テオドールは緊張しながら切り出した。

 対するアーリアも、どこか上の空でテオドールの言葉の数秒後、「えっ。ええと。ちょっと難しかったかもしれません」と答えた。彼女の瞳が少しだけ落ち着かな気に揺れ動く。


 つい最近まではちゃんと目を合わせて話をしてくれていたのに、晩餐会の後からお互いに決まづい。

「えっと……今日出てきた単語は……、その結構頻出するから、だから……復習はしておいたほうがいい、と思う」

「あ、はい……」

 お互い下を向いてしまい最後に残ったのは沈黙だった。


 もともと口下手なのに、突如沸いた婚約騒動にテオドールの心はいっぱいいっぱいだ。

 アーリアに対するほんわかした想いにきちんとした名前が付いたのは晩餐会での父王の爆弾発言がきっかけだった。


 テオドールは女性が苦手だった。

 気の強い姉にいいようにおもちゃにされていたという子供時代のせいか、それとも元来持って生まれた性格なのか。

 昔から同世代の女の子を前にすると意味もなく体が硬直した。

 頭が真っ白になって話したいことを忘れてしまったり、踊りの練習で女性の手を握るとそれだけで大量の汗をかいてしまいひどいと気を失う。


 アーリアとの婚姻話が上がってから、テオドールの周囲もにわかに騒がしくなった。

 あの一件はすぐにトレビドーナの貴族に知れ渡ることとなり、最近はどこへ行ってもアーリアがどちらの王子を選ぶかという話題で持ちきりだ。


「な、なんだか……大変なことになっちゃったね……大丈夫?」

「ええ。わたしの周りはそれほどでもないので」

 アーリアがぎこちなく微笑んだ。

 アーリアをちらりと見れば、彼女はどこかぎこちなく口を持ち上げた。


「ぼぼ、僕のことは気にしないで」

「じゃあ気にしないから。アーリアはわたしが連れて行く」

 アーリアに気を遣わせたくなくて言ったのに、いつのまにか立ち上がったビルヒニアがすぐ近くまでやってきていて、アーリアの腕を取る。

 立ち上がったアーリアをビルヒニアが連れて行こうとする。


「え、ちょっと待って。ど、どこへ行くの?」

「差し入れをもらったから二人で食べる」

「え、ビルヒニア」

 アーリアが困ったような声を出す。

 彼女はいつもテオドールに気を使ってくれて、そんな彼女の態度にもテオドールはほだされる。


「王子は忙しい。さっき使いの者が呼びに来ていた。さっさと帰った方がいい」


 ビルヒニアはいつものように低い声で淡々と告げて、テオドールだけを残して部屋から出て行ってしまった。

 せっかくアーリアと話ができたのに。

 たったあれだけだったとは。

 テオドールはため息をついた。


 今日の彼女はどこか上の空だった。

 何か考え事でもしているのか、本の文字を追うというよりは、どこか遠くの空を眺めているように、文字の先を見ていた。


(もしかして……兄上のことを考えていたのかな……?)


 嫌な想像をしてしまいテオドールの胸が痛んだ。

 晩餐会で父がアーリアに対して自分たち二人から夫を選ぶよう告げたとき、彼女は一番最初にリベルトに顔を向けた。

 テオドールはすぐに気が付いた。


 ずっとアーリアのことを見ていたから。


 彼女のことが好きだ。

 最初はただ顔に見惚れていた。こんなにもきれいな子いままで見たことがなかった。

 つややかな青銀色の髪に、吸い込まれそうな海色の瞳。

 話をするととても明るくて表情のくるくると変わる物怖じしない女の子だった。


 きっとコゼントのお城の奥で大切に育てられたのだろう。純粋な女の子は、テオドールの頼りない立ち居振る舞いを見ても眉を顰めることもなかった。

 だから惹かれていった。

 テオドールはため息をついて立ち上がった。


 初めての外遊ということもあり、テオドールは打ち合わせをする機会が格段に増えた。使いが待っているというのなら早く行かないといけない。

 テオドールはもう一度ため息をついた。

 ゆるりと立ち上がるが、心は重たいままだ。

 もっと頑張って、自分をアピールすれば彼女はテオドールのことも心にとめてくれるだろうか。それとも、もうアーリアの心は決まってしまっているのだろうか。


(けど……)

 弱気になる心を叱咤する。


 簡単にあきらめたくはなかった。

 生まれて初めて女性を好きになった。この気持ちを彼女にちゃんと伝えたい。

 そう思えることが意外で、それくらい彼女のことが好きなのだと思った。


◇◇◇ 


 コゼントへの視察旅行の準備と通常の仕事や軍の訓練に大忙しのリベルトだったが、なんとか時間を作ってコールドリスの森に住まう魔女フレヴィーの元を訪れた。

 お供はいつもと同じようにフィルミオただ一人。

「おいっ! フレヴィーはいるか?」

 勢いよく入口の木製扉をあけると罵声が飛んできた。


「こら王太子! おまえさん人の家を壊す気かい?」

 王太子を相手にしているとは思えない口調だ。

「こんなちょっとの力加減で壊れる扉なら、それは寿命ってことだ。住み替えを提案する」


「わたしはここが気に入っているんだ!」

 フレヴィーが叫んだ。

 腰の曲がった老女は口だけは達者だ。

 これはあと数十年はこのままの状態で生きていそうだとリベルトは考える。


「おまえさん、今失礼なことを頭に思い浮かべていなかったかい?」

「うわっ。このばあさんやっぱマジで怖いな」

 フィルミオが後ろで呟いた。


「ばあさんじゃない、フレヴィーとお呼び」

 おまけに地獄耳だ。


 リベルトは本題に入ることにした。

「フレヴィー、海の王がかけた魔法って言うのは人間が解くことができるものなのか? たとえばおまえのような魔法使いが」

「なんだい突然」

 フレヴィーは軽快するような声音になる。


 コゼントを訪れる前に少しでも多くの情報を知っておきたい。

 現状、父王がリベルトに何の前情報も与えないということは、アーリアに関することはおまえたちでなんとかしてみろ、ということなのだろう。


「沿岸国では人魚返りっていうものがあるだろう」

「ああ、知っているよ。海の王の魔法の影響だろう。彼の嘆きが魔法の力を持ち、人魚の血を持つ人間を人魚へする」

 さすがは魔女というだけあってフレヴィーはすらすらと知識を披露する。

「解く方法はないのか?」

「私の持っている本に解く方法を記したものはないね」

 フレヴィーはあっさりと言い放つ。

 確かにリベルトが読んだ書物にもそれらしい記述はあったが、肝心の解き方については何も書かれていなかった。


「おまえなら解けるのか?」

 リベルトの質問にフレヴィーはすぐに鼻で笑った。

「素人はこれだから困るね。いいかい。海の王の魔力は強大だ。人間の魔法使いは、自然の中に漂う力を自分の魔力を呼び水にして魔法を使う。魔法を使うには入念な準備が必要なんだ。大きな力を扱うには余計にね」

 突如始まった魔法講義。

 フレヴィーはしわがれた声で饒舌に語る。


「例えば……」

 そう言ってフレヴィーは竈の横に積まれた木の枝を持ってきた。


 彼女は目をつむる。集中していることが伝わってくる。フレヴィーは小声で何か単語のようなものをぶつぶつとつぶやいている。

リベルトの背後に佇むフィルミオも微動だにしない。成り行きを見守っている。

 やがて何もないところに、木の棒の先に炎がともった。

 生まれて初めて見る魔法に、二人は口をぽかんと開いた。


「正直……ばあさんはただの祖母さんかと思っていた」

 正直な心境を吐露したのは後ろに控えるフィルミオだった。


 実はリベルトも同じ思いだった。

 知識はあるが、本当に魔法使えるのか、こいつとか思っていた。思っていてごめんと、心の中で付け足した。


「失礼な男だね。言わなくてもわかっているよ、そこの王子も同じ心境だってことくらい」

 フレヴィーは半眼だ。

「とまあ、こんなもんくらいなら少しの集中でどうにかなる。しかし、海の王は魔法の塊のような存在だ。海の民を統べる存在。偉大な王さ。そんなやつに真正面から対抗しようなんぞ無理な話だよ」

 フレヴィーは火のついた木の枝を竈の中へくべた。


「だが、コゼントの王子は人魚の姫とくっついんたんだろう」

 だから今、アーリアに繋がっている。王家の系譜は途絶えていない。彼女は人魚の血を引く者の特徴を宿している。

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