7


◇◇◇ 


 アーリアが離宮での生活を始めて十日以上が経過した。

 人間の姿の時はビルヒニアの元を訪れることがすっかり日常になっていた。

 彼女と一緒に刺繍をしたり、占いにやってきた令嬢とお茶を囲んだり。

 もちろんちゃんと勉強も頑張っている。

 リベルトに感心してもらったことが嬉しくてアーリアは書物庫から歴史や古典文学の本を借りてきては読んでいる。


 テオドールが顔を真っ赤にしながら『僕でよければ色々と教えるよ』と言ってくれたことも嬉しかった。

 恥ずかしがり屋さんなテオドールが友好的な態度を示してくれるとほんわかする。


「ナッさんはすっかりアーリア姫のことがお気に入りだね」

 今日はセレスティーノもビルヒニアの部屋を訪れている。

 さきほどからアーリアの膝の上に乗ったナッさんは喉をごろごろと鳴らしてご機嫌だ。

「懐いてくれているのか、観察されているのか悩ましいところだけれど」

 たまに彼はアーリアに向かって鼻をひくひくさせる。金色の瞳を細められるとびくっとしてしまう。


「姫のことが好きなんだよ」

 ナッさんがアーリアのことを気にするのは彼が本能的にアーリアの正体に気づいているからなのでは、などと思うもそんなこと言えるはずもないため、アーリアは曖昧に笑ってごまかす。

「む……」

 一方セレスティーノの言葉を受けて眉根を寄せたのはビルヒニアだ。

 なにしろナッさんは彼女の使い魔なのだ。


「ナッさん。わたしの使い魔でありながら浮気は許さない」

「ナァァァン」

 ビルヒニアの言葉をわかっているのかいないのか、ナッさんは今日もマイペースに鳴く。

「ナッさん」

 ビルヒニアは少しだけ悔しそうな声を出す。


 するとナッさんはおもむろにアーリアの膝から床に降り立ちとことことビルヒニアの足元へと近寄った。

 体を彼女のドレスにまとわりつかせて「ナァァァァ」と鳴いた。


「可愛いわね。やっぱりご主人様のことが一番よね」

 ほんわかした光景にアーリアの胸がじんわりと熱くなる。ペット飼うのもいいなあとうらやましく思う。

 猫は駄目だから、何がいいだろう。


「この子はある日わたしの元にやってきた。わたしの使い魔になる定めだった」

「使い魔ってすごいのね」

 アーリアは感心した。

 アーリアの相槌にその場にいたセレスティーノとテオドールが困ったように顔を見合わせた。


「なんていうか……アーリア姫はとっても純真な子だね……」

「うん?」

 セレスティーノぼやきが耳に入ってアーリアは首を傾けた。


 テオドールも苦笑いを受かべている。

 今日は三人一緒にテオドールからトレビドーナの文学作品について講義を受けていた。

 講義のあとはなし崩し的にお茶会となって現在に至る。


「そうそう、王家の晩餐会に舞踏会に、催し物も目白押しなのね。さすが大国だわ」

 アーリアはひとつ用件を思い出した。


 半月ほど前に行われた王家主催の園遊会を皮切りに夏の間、王都グアヴァーレには多くの貴族らが地方から集まってくる。

 貴族が集まるところに催し物あり。

 アーリアの元にも多くの招待状が届いている。

 王家の晩餐会とは、遊学者とトレビドーナの王族、それから宰相などを交えた懇親会のようなもので、定期的に開かれているとのことだった。

 リベルトがアーリアの体調に合わせて日時を決めてくれると請け負ってくれた。


「毎度毎度面倒」

 ビルヒニアは心底嫌そうな声を出す。

「まあまあ、その髪の毛のままの出席を認めてくれているんだから、感謝しないと」

 セレスティーノは苦笑いを浮かべる。


「え?」

 アーリアはセレスティーノに視線をやったが、彼はそのあとを続けようとしない。

 ごまかすように笑うだけだ。


「それはそうと、舞踏会楽しみよね~。ビルヒニア、一緒に出ましょうね」

「嫌」

「ええぇぇ~」

 彼女の返事は簡潔だ。


「わたしは占いの仕事で忙しい。よっていく必要もなし。夜は夜で魔方陣を描かないといけないから忙しい」

「そっかぁ……」

 ビルヒニア曰く、フェラーラ公国の公女というのは仮の姿らしい。

「一人じゃさみしいなあ」

 ちなみにキラミアも舞踏会には出席できないという。


 王家主催の舞踏会はそれはもうきらびやかだという。実家にいたときはまだ社交に顔を出すこともなく、王城の奥でひっそりと暮らしていたけれど、やっぱり女の子である以上とっておきのドレスで着飾って王子様と踊ってみたい。

 ここでいう王子様というのは文字通り本物の王子様ではなく、なんというかかっこいい男性の総称だ。

 アーリアの漏らしたさみしいの言葉にビルヒニアがぴくりと反応した。


「一応僕は出席するよ。テオドール殿下も」

 セレスティーノが口を挟んだ。

「あ、あの! 僕が……ついているから……」

 テオドールは最初こそ大きな声を出したが次第にその声は弱弱しくなっていき、最後はうつむいてしまった。


「うん……」

 女友達と一緒に出席したいという複雑な乙女心をわかってほしい。

 アーリアはしょんぼりした声を出した。

「……だって……」

 ビルヒニアが何か言いかけたとき、女官が彼女の側へとやってきて何かを耳打ちした。

 途端にビルヒニアの表情が険しくなる。


「魔王の手先がやってきた」

「魔王の手先?」

「心配しなくていい。今追い払ってもらっている」

 そんな人物この宮殿にいたかしら、とアーリアはテオドールに目線で訊ねた。

 彼はアーリアの視線を受け止めた後、明後日の方向に顔を向けた。


「ナァァァン」

 ナッさんがビルヒニアの腕から抜け出したのと入り口の扉が開いたのは同時だった。


「おい、ビルヒニア。なんの料簡でもって俺を出入り禁止にする?」

 完全に据わった声を発するのは、戸口に現れたリベルトだった。

 平時よりも声が三割り増しくらいに凶悪だ。

 ビルヒニアは動じることもなく、リベルトに視線をやった。


「魔王の手先は出入り禁止。わたしの魔力が奪われる」

「おまえ、魔方陣書いて叱られたことまだ根に持ってんのか」

「あれはわたしの魔力補充の大切な儀式だった。あなたはそれを邪魔した」

「おまえいい加減その自分設定やめろ」

 リベルトはずかずかと部屋に入り込んできた。なんだか、既視感がある。


「自分設定じゃない。わたしは魔女の末裔。公女というのは仮の姿」

 きっぱり言い切ったビルヒニアにリベルトがさらい言い返す。

「いい加減思春期こじらせんのはやめろ」

「ちょ、ちょっと。駄目よリベルト殿下。ビルヒニアは真剣なのよ。魔女の力っていうのは一長一短に備わるものじゃないんだから、邪魔しないであげて」

 剣呑な空気になってきたためアーリアは慌てて間に入った。

「お、おまえ……」

 そんなアーリアをリベルトは衝撃的なものを見たように口を半開きにした。


「とにかく! ビルヒニア、おまえその黒髪一度ひっぺはがすぞ!」

「何をする」

 ビルヒニアはじりりと後ずさった。


「ちょ、ちょっと! 殿下何を言っているのよ。乙女の部屋に無断侵入した挙句に、そんな物騒なこと言ったらだめよ! リベルト殿下、どうしてビルヒニアに意地悪ばかり言うの?」

 今すぐにでもビルヒニアに掴みかかりそうになるリベルトのことをアーリアは慌てて制する。

「乙女の部屋って、ここにはセレスティーノもテオもいるだそうが」

「魔法の手先は駄目」

「まだ言うか」

「もうっ! 殿下、意地悪禁止よ。そんな人、わたしだって嫌いだわ」


「アーリア……おまえ……」

 嫌い、という単語にリベルトは反応を示して、それから複雑そうにアーリアとビルヒニアを見比べた。

 リベルトは何かを諦めたようだった。


「……もういい。だが、節度は保てよ」

 リベルトは疲れたようにぐったりと椅子に座った。

 女官の運んできた冷たい水を一気に煽る。

「そういえば兄上はどうしてこちらへ?」

「え、ああ。別に大した用事じゃない。おまえたちの様子をみるのも俺の仕事の内だからだ」

 ということはアーリアたち三人の様子を伺いに来ただけのことらしい。


「だったら用件は済んだはず。さっさと帰れ」

 氷のような声を出したビルヒニアに、リベルトは顔を引くつかせたが、彼は何も言わずにそのまま立ち上がった。

「邪魔したな」

 リベルトはそれだけ言って部屋から出て行こうとする。


「わ、わたしも! そろそろ帰るわね。すっかり長居をしちゃったもの。またね、ビルヒニア」

 自分でもよくわからないまま、アーリアはリベルトを追いかけるように部屋を後にした。



◇◇◇ 


「リベルト殿下、待って!」

 リベルトは背後から聞こえた少女の声に立ち止まった。

 振り向けば、アーリアが小走りでこちらへ向かってきている。彼女の侍女がそれを追いかけている。

 ビルヒニアから嫌われていることは分かっていたが、アーリアの「嫌いだわ」発言に地味に傷ついていたリベルトは素直に驚いた。彼女は完全にビルヒニアの味方だと思っていたからだ。


「どうしたんだ?」

 リベルトはその場に立ち止まってアーリアが追い付くのを待った。

 ほどなくしてアーリアがリベルトの目の前へとやってきた。

 息が少しだけ上がっている彼女は肩を上下に揺らしている。


「大丈夫か? そんなに慌てることもないだろう」

「だって……」

 息を整えたアーリアがリベルトを見上げる。濃い海色の瞳がまっすぐにリベルトに注がれる。


「最近、調子はどうだ?」

「うん。相変わらずよ。お水と仲良くなったりならなかったり」

 彼女なりの婉曲表現だ。言い方が面白くてリベルトはつい吹き出してしまう。

「離宮はどうだ? 不自由はないか」

 二人は並んで歩きだす。

 彼女の侍女とリベルトに付き従う近衛兵は二人から少しだけ距離をあけて付いてくる。


「ええ。とても快適。泳げるって素晴らしいわね。おかげで運動不足も解消」

「そうか。よかったな」

 喜ぶアーリアの姿にリベルトは相好を崩した。

「それにしても乙女趣味なお部屋よね。あなたがあんな趣味をしていたとは意外だったわ」

 アーリアがきらりと瞳を輝かせる。

「あっちの棟はもとは嫁いだ妹が使っていたんだ。内装は当時のまま手を加えていないから妹に言ってくれ」

「あら、でもわたし好きよ。可愛くて」

 アーリアはリベルトを見上げる。


 彼女が自分のことを追いかけてきてくれたことが嬉しかった。

 少しの間だけアーリアのことを独り占めしているような感覚。普段公務や訓練で忙しくしているリベルトは気にするとはいってもなかなか彼女の離宮へ様子を伺いに行くことはできない。

 それでも、時間をやりくりして一目アーリアの様子を窺いに行くと、楽しそうにテオドールと会話をしている姿に一人落ち込んだりもした。


 彼女が誰と仲良くしようと、むしろテオドールと良好な関係を築いていることは喜ばしいことなのに、心の片隅で面白くないと思う自分がいて、そんな自分の心に気が付いて戸惑った。

 たぶん今だって同じだ。

 もちろん目の前の少女はそんな自分の醜い部分に気づく気配もない。


「ねえ、殿下。ビルヒニアにもっと優しくしてあげてちょうだい。あなた、本当は優しいのに……さみしい」

「俺は別に優しくない。トレビドーナの王太子は優しいだけじゃ務まらない」

「そりゃあ、確かにあなたは偉そうなところもあるけれど……」

 うっかり漏れた本音がリベルトの胸の奥を突き刺した。

 偉そうは絶対に褒め言葉ではない。


「悪かったな……」

「他意はないのよ。そうよね、大国の王子様だものね。偉そうなのは元からよね」

 その言い方も大概だと思う。

「彼女がもう少し、大人しくしていたら俺だって口うるさくは言わない。だいたい、あの公女が自分設定を作りまくっているのがいけない」

「自分設定って?」

 アーリアは不思議そうに首をかしげた。


「おまえ、あいつの話を聞いておかしいとか思わないのか?」

「彼女は魔女の末裔なのでしょう?」

 アーリアは本心からそう思っているようだった。

 まさか。あれはビルヒニアアが自分で作りだした設定だ。本当は黒い髪ですらない。

 占いは当たるようだが、そもそも占いというのは抽象的な言葉遊びのようなものだ。


「彼女の占いはよく当たるのよ。わたしも占ってもらったもの」

「何を占ってもらったんだ?」

「えっとね。今年の運勢。なかなかいいらしいわ。あとね、そうだわ。わたし、運命の出会いをするんですって!」

「運命の……出会いだと?」

 不穏な言葉にリベルトは目を見開いた。

 まさかそれはテオドールのことだろうか。


「ええそうよ。この宮殿に来てたくさんの人と出会ったもの。きっとビルヒニアやキラミアとのことを言うのよ。二人はわたしの大切な友人よ」

「なんだ、そっちか」

 リベルトはほっと息を吐いた。

 目の前の少女の頭の中が純真で心底安心した。


「そっちって?」

「なんでもない」


「だからね、あなたもビルヒニアに意地悪しちゃだめよ。彼女男性のことが苦手なのですって。舞踏会も出なくないって」

 アーリアは寂しそうに眉をさげた。

 舞踏会とは今度行われる王家主催のもののことだろう。

 リベルトはアーリアのいう台詞に引っかかった。彼女が極端に出不精になったのはおそらくトレビドーナの貴族の男性たちが面白半分にビルヒニアにちょっかいをかけたからだろう。今まであまり強く諫めてこなかった自分にも責任がある。

 従属国の人間とはいえ、独立国の公家の娘だ。それなりの敬意を持って接するべきだ。

「善処する」

「ありがとう」

 アーリアがふわりと笑った。


 いつの間にか彼女の住まう離宮へとたどり着いていた。

 二人は離宮の入口で立ち止まる。離宮の周辺にはリベルトの近衛兵が見張りに立っている。興味本位で彼女の元を訪れる者がいないよう、リベルトが厳命を下しているからだ。


「着いたぞ」

「わかっているわ」

 それなのにアーリアはその場から動こうとしない。

「あ、あの。お茶飲んでいかない?」

 彼女はそんな提案をしてきた。

 少しはにかんだような笑顔がまぶしくてリベルトはつい彼女へ手を伸ばしかける。寸前のところで理性が押しとどめる。


「いや。これからまだ仕事が残っている」

「……そっか。ごめんね、引き留めて」

「いや。構わない。今度また時間を作って様子を見に来る」

「うん」


 アーリアは花が咲いたようなまぶしい笑顔をこちらへと向けた。抗いきれなくて、リベルトはついに彼女の方へ腕を伸ばした。

 アーリアのこめかみのあたりにほんの一瞬だけ触れて、それから踵を返した。

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