5


◇◇◇ 


 連れてこられたのは、以前テオドールから教えてもらった離宮だ。

 広大な敷地をもつトレビドーナの宮殿の中に建てられた離宮はたしかリベルトが現在住まいにしているはずだった。


 アーリアは不思議に思ったけれど、彼はアーリアの車いすを押したまま離宮へと足を踏み入れる。(階段の昇降があり、いつの間にか彼がアーリアの車いすを押す係になっていた)

 リベルトの横を歩くテオドールも何も言わない。

 アーリアと目が合うと、テオドールは薄茶に緑を混ぜた不思議な色の瞳を左右に揺らした。

 連れてこられた離宮の部屋を通り抜け、中庭にたどり着いたときアーリアは感嘆の声を上げた。


「うわぁ! 大きな人工池!」

 人工池の向かい側には今しがた通ってきた建物と同じ形をしたものが建ってる。長方形の二棟に挟まれて中央に人工池が造られている。

 アーリアは目の前の池に目が釘付けだった。


 長方形をした人工池の水は透明で、太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。

 冷たい水の感触を思い浮かべてアーリアは喉を鳴らす。

 本能が告げている。

 あの水に、水の中に飛び込みたいと。


「ここは昔、とある王が造ったんだ。妹が気に入って嫁ぐまでずっと住んでいて、彼女が嫁に行った後は俺が住んでいたんだが、今日からアーリア、おまえが住めばいい」

「え?」

「人魚のおまえには水が必要なんだろう」


「ええそうよ! ずっと、ずっとあきらめていたの。もう水の中を自由に泳ぐことはできないんだろうって。トレビドーナの河に飛び込みたいなあって思うことはあったけど」

「それはやめておけ。河よりも狭いけれどここで我慢してくれ」


 二つの棟の間に作られた人工池はアーリアの故郷コゼントの王城の専用池と同じくらいの広さをしていた。長方形の池の先には円形の噴水がある。噴水の中央には羽を生やした女性の像が置かれている。昔から伝わる羽を持った種族だ。

 噴水と池は一部つながっており、噴水から流れ出た水がいけに落ちる設計になっている。


「一度水を抜いてきれいに掃除をさせたから清潔だ」

「ねえ、わたし泳ぎたい」


 リベルトの説明などお構いなしにアーリアは自分の願いを主張した。

 目の前に大きな人工池がある。いったいいつぶりに泳げるのだろう。

 リベルトはアーリアを人工池のほとりへとつれていった。

 アーリアはもう我慢できないとばかりに車いすから勢いよく池へ飛び込む。


「水~!」

「あ、こら。馬鹿! そんな勢いよく飛び込むな」

 リベルトの声が聞こえたような気がしたが時すでに遅し。

 アーリアは大きな水しぶきの音と共に池の中へ飛び込んだ。頭から、それはもう気持ちいいくらいに。


「いったあ……」

 飛び込むと一度沈むのは自然の摂理で、アーリアは飛び込んで次の瞬間、池の底に頭を打ち付けた。

 水の中でアーリアは悶絶する。

 ごろごろ動き回っていると、隣で水しぶきが上がり、潜ってきたリベルトに腕を取られて、彼と一緒に頭を水面から出す。


「おまえ、馬鹿だろ」

「ううう……失礼ね」

 両手で打ち付けた個所を押さえながらアーリアは反論した。しかし頭がズキズキ痛むから、声は自然とうめき声交じりになる。


「大丈夫か?」

「平気よ」

 至近距離でアーリアの顔を覗き込んできたリベルトが気恥ずかしくてアーリアは彼から離れた。


「それよりも! 泳げるのよっ。ひさしぶりだわ、この感触」

 アーリアは夢中で泳ぎ回る。


 くるくると水中で回って、嬉しさを体全体で表現する。勢い余って水面から飛び跳ねた。

 ドレスが水を吸って重かったけれど、そんなことも気にならないくらいアーリアははしゃいでいた。

 だから、あんまり意識していなかった。

 アーリアはいまだに池の中に立ったままのリベルトの側まで泳いで近づいた。

 くるくるとリベルトの周りを泳ぐ。


「あなたいい人ね」

 気分がよくてアーリアは笑った。

 リベルトに向かって、とっておきの笑みを浮かべた。

 兄イルファーカスに向けるような、太陽のような明るい笑顔。

 嬉しくて嬉しくて、たぶんアーリアは後先のことなんて考えていなくて、笑顔のままで一度だけぎゅっとリベルトの後ろから腕をまわした。


「ありがとう! 王太子殿下」

 ぎゅっと回した腕をすぐに離してアーリアはまた泳ぎ出す。

 潜ったり水面から顔を出したり、何度も人工池の端から端まで行ったり来たりした。


 だからアーリアはリベルトが動揺したように目を見開いていたこととか、そのあと彼が頬を少しだけ赤くしていたこととか、彼が池から上がるときに少しよろけたとか、そういうことに気づくことはなかった。



◇◇◇ 


 アーリアの特異体質を知ることになったリベルトは同じくこのことを知るフィルミオとテオドールにかん口令を敷いた。

 二人ともこくこくと頷いた。


 とある日の早朝。

 リベルトはアーリアの住まう離宮へ訪れた。用があるのはアーリアの侍女頭のフェドナという娘にだ。

 あらかじめ手紙で知らせてあったとはいえ、フェドナは平素と変わらぬすました顔でリベルトを出迎えた。


「お待ちしておりました。王太子殿下」

 フェドナは現れたリベルトに深々と丁寧にお辞儀をした。

「こっちこそ早朝から悪いな。アーリアはまだ眠っているのか?」

 会見を行っているのは離宮の入口、手前側にある棟の控えの間だ。つい先日までリベルトの住まいでもあった。


「はい。このたびは王太子殿下にはよくしていただき、本当に感謝をしております。姫様はとてもお喜びになられております」

 フェドナの声に熱がこもる。リベルトはアーリアが喜んでいると聞かされて顔が緩んでしまいそうになるのを堪えるのに必死になった。

 誤解が解けてしまえばアーリアは天真爛漫な少女だ。笑うと太陽のように周りを明るくする、不思議な少女だ。


「健康的に過ごせているならそれでいい。おまえに時間を取らせるつもりはないし、こっちも予定が立て込んでいるから本題に入らせてもらう。彼女の、アーリアにかかっている海の王の魔法とやらは、解けることはないのか?」

 リベルトは率直な疑問をぶつけた。

 彼女から海の王にまつわる昔話をきかされて、純粋に思ったことだ。

 王の魔法の影響で人魚返りをおこす人たちは一生その魔法を付き合っていくのか、と。


「それは……」

 フェドナは予想もしていなかったのか、口元をまごつかせた。

「もうずっと続いているんだろう。そういう、前例などないのか?」

「姫様からはどこまでお聞きになりましたか?」

「コゼントに伝わる昔話は聞いた」

「姫様にかかっている魔法は強いものです。海の王の魔法の影響は個人差があります。人によっては月に一度か二度人魚返りを起こす程度から、姫様のように姿が安定しないほどに行ったり来たりする者までおります」


 それからフェドナは自分自身についてのことをリベルトに語って聞かせた。

 彼女の家は代々裕福な商家だが、本来は王家の姫の侍女になれるような身分ではなかった。そのフェドナがアーリア付きの侍女に抜擢されたのは彼女の先祖にも人魚がいたからだ。人魚の血を引く一族の特徴として、代々フェドナの家では淡い青銀髪や銀髪を持つ者が多く生まれた。


「人魚返りの子供を持つ親たちはひどく神経を使い、その事実を周囲から隠そうとします。もちろん、同じ子を持つ者同士情報共有を行うこともありますが、仲間以外には秘匿とされます」

「ようするにおまえにもわからないということか」

「はい。魔法が解けることがあるのは知っておりますが……」

 フェドナの言葉にリベルトは目を見開いた。


「解けるのか? どうやって」

「そこまでは存じません。姫様もコゼントの国王陛下から何度かそのように励まされておいででした」

「国王は解き方をご存じなのか」

 フェドナは目を伏せた。

「わたくしには存じ上げかねます」


 リベルトは前かがみになり、両肘を膝の上に置いた。

 アーリアは人魚返り体質のことをさも当然のように受け止めているが、あの境地に達するまで、おそらく相当の葛藤があっただろう。明るく振舞っているからこそ余計にリベルトは手を尽くしてやりたいと思った。彼女の努力だって垣間見た。


「なにか条件があるのか……」

「魔法の解き方は存じませんが、姫様の人魚返りはどうか口外しないようお願い申し上げます。秘密を知るものは少ないにこしたことはございません」

 フェドナは必死の形相で懇願をした。

「もちろんそのつもりだ。テオドールとフィルミオにもかん口令を敷いている」

「ありがとうございます」

 フェドナは胸が膝につくくらい深く頭を下げた。


「知られたら大騒ぎになるだろう」

「はい。コゼントでも皆隠します」

「さっきも言っていたな」

 フェドナは顎を引いた。


「人魚返りの人間は珍しいので人買いに狙われますから」

 人魚はおとぎ話の生き物だ。特に沿岸国以外の、内陸国では。そういうところに人魚返りの子供たちを売ろうとする輩がいるとのことだ。

「物好きもいるんだな」

 リベルトは胸が悪くなる思いだった。

 人の売買は近隣諸国を含め禁止されている。


「けれど、人買いに攫われたならまだ救いはあります。彼らは商品にたいしてはそれなりに丁重に扱いますから」

 愛玩用として連れ去るのだから体を傷つけることもなく、食事もきちんと与えるという。肌つやが悪いと商品としての値が下がるからだろう。

「お前のその言い方だと、他にもなにか脅威があるのか」

「ええ。ある意味彼らから隠すのが一番気を使います。単なる人買いでしたらまだ望みはあります。けれど、彼らは違います」


「彼ら、とは?」

「海神狂と呼ばれる人々です」

「海神狂?」

 リベルトは復唱した。

 初めて聞く単語だった。


「海の王を狂信的に信じ奉る人々のことを指します。彼らは、海の王が嘆き悲しんでいるのをどうにかしようと、生贄を差し出します」

 海神狂の主張するところによると、愛娘を人の王の子供に取られた海の王の悲しみが今の人魚返りの魔法を生んでいる。それは広く知られたことだ。

 そして、その嘆きを慰めるために人魚返りの者たちを海に沈めるという。彼らの身をもって海の王を慰めるために。


「沈めるって?」

「文字通りです。重石をつけて海に沈めます」

「生贄ってことか?」

「はい」

 フェドナはこくりと頷いた。


 古い因習だ。そんなものとっくにすたれたと思っていたし、トレビドーナを含む、周辺国で信じられている神はもちろん生贄を要求したりはしない。そういうものは古来からの土着信仰で主に行われていた。それでももう何百年も前にすたれたと思っていた。


「そんなことまだやっているのか」

 知らずにリベルトは声を低くした。

「もちろん、わたくしたちコゼントはすでに貴国と同じ神に改宗済みです。しかし……海の王への敬意を忘れたわけではありません。人々の中に隠れるように、海神狂は存在します」

「要するに異端者ってことか」

 フェドナは大きく頷いた。


「もちろんです。人魚返りが生まれた家では彼らから子供を守ります。だから、必要以上に自分の子について言いふらしません。それでも近所の人たちも察することもあります。月に何度か人前から姿を隠さなければなりませんし、水を多く必要としますから」

 それでも善意で口をつぐんでくれるものが大半だが、どこに異端者がいるかはわからない。

「まさかアーリアも狙われているのか」

 リベルトはその可能性に思い至った。


 フェドナは黙ったままだ。

 しかし、否定しないということは……。


 リベルトはコゼント王の要求を思い出した。トレビドーナ入りするアーリアの護衛にトレビドーナの王族が付き従うことを要求したのはコゼント王だ。

 父王はリップサービスの意味も込めてリベルトを指名した。リベルトは軍に籍を置いているし、自身が指揮する部隊も持っている。


 いろいろなことを知ることができたが、肝心の魔法の解き方についてだけはなんの進展もないまま早朝の会談は終了した。


◇◇◇ 


 リベルトは執務の合間の時間を見繕って書物室へと足を運んだ。

 目当ては人魚伝説について。

 魔法書などさすがに宮殿で保管はしていないだろう、と最初から期待はしていなかった。

 あまり公にできない調べ物のため人を使って大がかりに捜索できずリベルトは空いた時間を使って地道に本棚を調べていく。

 今日も同じように書架の間の通路を歩いていると、赤茶色の髪をした青年と出くわした。


「おまえも調べものか」

 よく知った相手、弟のテオドールだ。

 テオドールは読んでいた書物をぱたんと閉じた。

「兄上。珍しいですね」

「俺だってたまには本くらい読む」

「調べものですか?」

 そう聞くということは彼もおそらくはリベルトと同じ目的で書物室の奥深くへとやってきたのだろう。


「まあな。アーリアの魔法について調べようと思って」

「……僕もです」

「そうか。何かわかったか。ここについては俺よりもおまえのほうが詳しいだろう」

 リベルトの言葉にテオドールは小さな微笑みを返した。

 控えめな彼は自分をあまり見せたがらない。


「いいえ。宮殿の書物室ですから、あまり魔法めいた本は置いていないのです。民話の類ならいくつかあったので読みましたが」

「民話?」

「ええ。アゼミルダやマリートと共通するような類のものなので誰かが情報収集の一環として置いたのかもしれませんね」


「そうか。彼女の魔法は、人魚返りの魔法は解けると思うか?」

「こればかりはなんともわかりません」

「だよな」

 リベルトは嘆息した。


 そもそも、そんな方法を知っていればまっさきに試しているだろう。アーリアにかけられた魔法は理不尽に彼女から自由を奪う。

 これまでも王女としての尊厳を損なわれてきたことは想像に難くない。

「賢者と呼ばれた魔法の知識を持った者たちが王に仕えていたのはそれこそ大昔のことですし。国の書物庫にそういったものがあることの方が不思議でしょう」


 古い時代の王が酔狂で集めたなど、そういった逸話があれば別だが今のトレビドーナは大陸で広く信仰をされている宗教を国教としている。

 リベルトは思案気に手を顎に添えた。

 魔法使いか。

 眉唾物だと思っていたが、調べてみる価値はあるかもしれない。



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