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◇◇◇ 


 アーリアが逃げ出した。

 リベルトはしばし呆然とした。

 それからほどなくして苛立ちが頭の中に浮かんできた。


(せっかく助けてやったのに、お礼の一言も言えないのか?)


 リベルトは礼を欠いたアーリアの態度に内心悪態をついた。

 別に彼女のことを見直したから気に留めていたわけではない。

 そんなことを差し引いてもアーリアの態度は不審だ。というか、ビルヒニア一人の奇行に日々振り回されているのに、コゼントの王女までも自由気ままに振舞われたのでは大国の威厳が台無しだ。


 だったらビルヒニアの監視をもっと強化すればいいのだが、それをしようとするとテオドールとセレスティーノが止めにはいるからなし崩し的に彼は彼女のこじらせ行為を黙認している。

 しかし。

 ここで甘い顔をすれば新参者のアーリアまでつけあがる。

 フィルミオも年頃の少女は何かと多感なんだ、と気にも留めない。


 リベルトはアーリアが逃げて行った木立を睨みつけた。

「ねえ兄上。アーリア姫は?」

 少し遅れてやってきたのはテオドールだ。


「一人になりたいんだと」

 リベルトは嘯いた。

 間違ってはいない。リベルトから逃げ去ったのだから。


「大丈夫だった? 彼女……その」

 テオドールは言いにくそうだ。

 たしかに、あまり口にしたい話題ではない。彼らは一人の少女を取り囲み、いたぶろうとしていていた。周囲の参加者たちは気づいていながら、見てみぬふりをしていた。


「僕がもっと、ちゃんとできたらいいのに。ビルヒニアに対しても……、ちゃんと謝らせないといけないのはわかっているんだけど」

 テオドールが眉を下げる。

 彼は争いごとが苦手だ。温厚な第二王子ということで件の侯爵家の令息はテオドールを見下しているところがある。


「あいつ、ビルヒニアにも同じようなことをしたのか」

 リベルトの確認にテオドールは頷いた。

「それから彼女は余計に頑なになっちゃったんだ」

「その件については俺があとでちゃんと調べておく」

 テオドールはぎゅっと手を握りしめた。


「アーリア姫。大丈夫かな」

「……」

 リベルトは黙り込んだ。

 彼女も、怖いと思ったのだろうか。

 精一杯反論をしていたが、その腕は小刻みに震えていた。

 ここでリベルトが後を追いかけても、怖がらせるだけはないか。


「僕、探してくる」

「あ、おい。待て」

 木立へ分け入るテオドールにリベルトも続こうとする。

「殿下、何やっているんですか」

 背後から声をかけてきたのはフィルミオだ。彼はこういうときもリベルトとつかず離れずの距離を保つ。


「アウレリア王女が逃げた」

 リベルトは完結に答えた。

「逃げたというか、ちょっと色々とあって怖がって一人になりたいみたいだそうなんだ。だけど、人気がないところでまた怖い目に合っていないかと思うと……」

 テオドールの方が泣きそうな顔をしている。


「そういうことだ。俺たちで彼女を探して保護する」

 リベルトは顎をしゃくった。

 おまえも来い、という合図を正確に読み取ったフィルミオも一緒に付いてきてアーリアを探す。

 宮殿内とはいえ、元は林だった自然をそのままに生かした造りをしている。

 木々はお生い茂り、下草が刈り取られているとはいっても、薄暗い木立の中はここが宮殿の敷地内ということを忘れさせるように静かだ。

 探すと言ってもどこを探せばよいのやら。

 自然三人ともそれぞれ分かれてアーリアを捜索する。

 というか、いつまでも木立の中にいるものなのだろうか。


 この先には噴水のある小さな庭園があったな、とリベルトは頭の中に地図を思い浮かべる。

 それとも自室へと帰ったか。

 探し始めてから十分くらいは経過しただろうかというとき、視界の先に明るい色の布切れを捉えた。

 リベルトはまっすぐに布切れの方へ進んだ。


 木の陰にうつ伏せに横たわっていたのはアーリアだった。

「おいっ! 大丈夫か」

 リベルトは彼女の傍らに膝をつき、アーリアを仰向けにひっくり返す。

「おい、しっかりしろ」

 アーリアは意識を失っており、頬からは血の気が失せていた。リベルトはアーリアを起こそうと口を開きかけ、それから視線をずらして絶句した。


「っ……」

 ドレスの裾から見えているのは、魚のような尾だ。


 まさか。

 そんなことあるはずがない。

 リベルトは目の前の王女を見下ろした。

 上半身は人間で、足があるはずのところに魚の尾がある。

 リベルトはまず気を失っているアーリアの顔を見た。見慣れた顔が下にある。

 そしてもう一度ドレスから見えている物を凝視した。

 やっぱり魚のしっぽが見えている。幻ではないらしい。


「兄上!」

 リベルトの声に気が付いたのかテオドールとフィルミオが彼の元へ走ってきた。

 気を取り直して、リベルトは再びアーリアの顔に視線を落として先ほどよりも大きな声を出す。

「しっかりしろ! 意識はあるか?」

 ついでにアーリアの白い頬をぺちぺちと叩いた。


 その合間に彼は少しためらってからドレスの裾を持ち上げた。気になるのならさっさと真実を見極めればいいのだ。

 淑女のスカートの中を覗こうというのだからさすがに胸の奥がちくちくと痛んだ。一応心の中で、他意はない他意は……と繰り返す。

 中から現れたのは、まごうことなき魚のそれ。青銀色に輝く鱗を持つ、尾ひれ。


「兄上、姫は無事ですか……ってななななな何をしているんですか!」

 抱きかかえられたアーリアと彼女のドレスをめくって尾ひれを見分するリベルトという、とんでもない光景にテオドールの声が途中から裏返る。しかし彼の動揺は次第に別の物へと対象を変えていく。


「兄上……それ……魚……」

 それだけ言ってテオドールは鼻から赤い液体を流し、その場に倒れた。


「うわっ! 殿下なに意識失った姫君に変態行為を……って、テオドール殿下、そんなスカートめくったくらいで鼻血吹いて倒れないで!」

 テオドールより後にリベルトの元へたどり着いたフィルミオが王子二人に対して突っ込みを入れた。

 どさりと倒れこんだテオドールはのぼせていた。

「まさか……嘘だろう」

 フィルミオがつぶやいた。


「ああ……人魚だ……」

 リベルトは呆然とつぶやいた。

 おとぎ話の中の生き物が目の前にいる。

 それも、見知った少女。気を失っているのは、コゼントの王女アーリアだ。


「そっちもまさかだが……。これしきのことで鼻血吹くとは……。結婚したらスカートをめくるなんて比じゃないようなことをするんだぞ」

 フィルミオの真剣な言い方にリベルトは目をすがめた。

「そんなことどうでもいいだろう! おまえまじめに考えているのか。人魚だぞ、人魚」

 リベルトは自身がめくったスカートを元に戻す。


「わかっている。差し迫った問題として、王女のこの様子。やばいんじゃないのか」

「……」


 二人は気を失ったアーリアを凝視した。

「おい! 起きろ!」

 リベルトはもう一度アーリアの頬を軽くたたいた。


「う……う……」

 何度目かでアーリアが身じろぎをする。

 薄く目を開け、小さく口を開く。

 なにかを訴えかけるようにぱくぱくと動いた。リベルトは彼女の口元に耳を近づけた。


 声にならない吐息が耳朶をくすぐる。

「おいっ! もっとはっきりしゃべれ」


「み……ず……」

 それだけ聞き取れた。


 そうか、水か。

 リベルトはアーリアを抱えて立ち上がった。


◇◇◇ 


 気が付いたら半身が水の中に浸かっていた。

 人魚になったとき水のまったくないところにいたから、今度こそ干からびて死ぬかも、と思った。

 それでもどうにか這って移動しようとしたけれど、途中で体力が尽きた。


 ああここまでね、お兄様。アーリアは遠い異国で天日干しになります。スープのだしくらいにはなるかしら、などといささか怖いことを考えながらやがて意識が遠ざかった。

 思えば短い人生だったなとか、コゼントの役に立つためにトレビドーナまで来たのに役に立つ前にこんなことになってごめんなさいとか色々と考えた。


 人魚返りはアーリアからいつも誇りを奪い取る。コゼントの王女として生まれたのに、強い魔法の影響のおかげでいつだって家族から守れるだけでちっともみんなの力になれない。

 民の前に姿を現すことも容易ではなくて、だったらその分知識だけはつけようと思った。いつか、トレビドーナへ行く。コゼントがトレビドーナに従属してから絶対に決めていたことだった。


 わたしだって国の役に立つことができる、たってみせる、と心を奮い立たせて生きてきた。

 それなのに。


「わたし……あれ……」

 目を覚まして状況確認をする。

「目が覚めたか。大丈夫か、もう死にかけていないか?」

「ひゃぁぁぁぁ!」

 男性の声が上から降ってきてアーリアは悲鳴を上げた。

 体をびくりと強張らせる。


「そんなに驚くことは無いだろう」

 声はよく知った人物のものだった。


(この声知ってる。よく知ってるわ……。ああ駄目。考えたくない。頭が考えることを拒絶しているうぅぅ……)

 アーリアの頭の中は忙しかった。

 人魚になって気を失って、水を得た魚は元気になった。


「大丈夫か?」

 声の主はなおも聞いてくる。

 アーリアは「ひゃぁぁぁ」と再び声を出した。そういえば背中に暖かい温度を感じる。

 アーリアはそおっと後ろを伺った。

 誰かの腕に支えられているようだ。とても近しい距離感にくらりとした。いっそこのまま気を失いたい。

 もしかしなくても、この腕の持ち主は……と思ってアーリアは上を見上げた。


 薄茶の瞳がアーリアを覗き込んでいた。

 普段は感情の見えない、冷たい眼差しなのに、どういうわけか今は口元がほっとしたように緩んでいる。


「目を覚ましたのか」

 目元を柔らかく細めたリベルト。

「ひゃぁぁぁぁ」

 アーリアは触れられた恥ずかしさから体を熱くした。


「……元気そうだな」

「あ、へ、変態!」

 ついて出た言葉は自分でも予想もしなかった単語だった。


「へ、変態……」

 案の定リベルトは口元を引くつかせた。


「だ、だって! あなた誰の許可を得て人の体を触っているのよ。へ、変態で十分だわ」

 アーリアは勢いそのままにまくし立てた。

 自分でも何を言っているのか分からない。

 目の前の王太子は、おそらくアーリアのことを助けてくれたのだ。

 干からびるにまかせるだけだったアーリアの窮地を見つけて、水場へと運んでくれた。それなのにあんまりな言い草だ。それくらいわかっている。


 わかっているのに、正体を知られて気が動転しているのと、自分が気を失っている間に勝手に触れられたという事実。この二つがアーリアの心を占めていて、「今すぐ離れて! どこかに行って!」と余計に彼女の心を頑なにさせていた。


「おまえ、それが助けてもらった人に対する態度か」

 リベルトの言い分はもっともだ。

 だからアーリアはとりあえず黙った。

 口を開いたらもっとひどい言葉を浴びせてしまいそうだったからだ。命の恩人に対して酷い態度だと思うが、いかんせん今はそこまで気にしている余裕がない。

 リベルトはアーリアの言葉に従って、アーリアから少し距離を取ってくれた。


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