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◇◇◇ 


 兄との旅程はゆっくりとしたものだった。途中でアーリアが人魚になってしまったからだ。

 人魚返りの魔法はアーリアをいとも簡単に人魚へと変えてしまう。

 変わったら最後、鱗が乾くと衰弱する。陸で魚が弱ってしまうのと同じだ。

「ふう……。無事にトレビドーナの宮殿に到着できてよかったわ。あああああ~生き返る」

 アーリアは寝室の、寝台の横にでーんと置かれた大きな浴槽の中で心の底からの安堵のため息を漏らした。


 その口調が、年を取ったおっさんが一日の重労働を終えた後、駆けつけ一杯を飲み干したときくらいに腹の底からのものだったため、居合わせた侍女一同が苦笑いを顔に浮かべた。

 アーリアら一行は本日ようやくトレビドーナの宮殿へと到着した。


「本当、道中どうなることかとひやひやしましたが、姫様が干からびずに無事にこうして宮殿へとたどり着くことができてわたくしめも嬉しく思いますわ」

 目に涙を浮かべるのはアーリアの侍女頭のフェドナだ。

 銀色の髪を持つ彼女もまた、人魚の血を引いている。アーリアよりも五つ年上の彼女は、アーリアに付き従ってトレビドーナ入りをした侍女たちをまとめる立場にある。


「ほんとうですよ。馬車の中だと濡らした布を尾ひれに巻き付けるくらいしかできませんでしたし。それだって焼け石に水程度ですからね」

 と、フェドナの言葉を引き継いだのはマリアナという侍女だ。金色の髪をした少女は気さくでアーリア相手でも物事をはっきりと言う。アーリアにしてみたらよき相談相手兼話し相手だ。


「そうね。濡らしたって言っても乾いてくるものね」

 おまけにアーリアの人魚返りは第一級の秘密事項だ。馬車の中でそれこそ売られていく魚のようにおとなしくしていた。

 というか、大人しくなっていった。

「それでもこうして無事にたどり着けたのだからよいではないですか。見てくださいな、姫様。とても美しい部屋ですよ」

 フェドナが明るい声を出した。


 アーリアに与えられた部屋は、宮殿の西側にある続き間だ。控えの間と居間と客間、侍女たちの間に寝室や衣裳部屋などからなった区画だ。

 人質だからもっと狭い部屋に押し込められるのでは、と案じていたがトレビドーナはそこまで悪辣でもないらしい。

 きちんと一国の王女としての体裁が整うような、そして女性らしい区画を与えてくれた。


「わたし、人質だからもっとくらーいところに押し込められるのかと思っていたわ」

「まあ、姫様。人質という言葉は厳禁ですよ。あくまで名目は遊学であり、教養を深めるための滞在です」

「国同士の建前ってめんどうよね」

 アーリアは顔を半分水につけた。

 ぶくぶくと泡が立つ。


「姫様!」

 フェドナが金切り声を上げた。

 お行儀が悪いということのようだ。

 アーリアはばしゃんと音を立てて浴槽に潜った。


 イルファーカスと別れた後、警備責任者のリベルトとは挨拶をしたくらいであまり話す機会がなかった。

 なにしろこんな姿だし、彼に正体をばらすわけにもいかないからだ。歩くこともできないアーリアの移動は基本車いす。

 アーリアとしても誤魔化しながらゆっくり進むよりもさっさと目的地に到着して浴槽に浸かった方が体力も回復すると思い、トレビドーナに入ってからはリベルトが段取りをした日程に文句を言うことなく従った。

 おかげでかなり衰弱したが、水に浸かった今、だいぶ回復してきている。


「それはそうと姫様。そろそろ人間に戻りそうですか?」

 マリアナから尋ねられてアーリアは水から顔を出した。

「いいえ」

 アーリアは頭を左右に振る。

「それがまだなーんにも兆候がないの。そろそろ来てもいい頃なんだけど」

 人魚返りをするときには兆候がある。

 本人だけの感覚だけれど、足が急に重くなるし、何か不快感がある。アーリアはそれらの感覚を総称してむずむずすると呼んでいる。


「人魚になってもう、十日以上ですものね。そろそろ人間になってもよろしい頃合いですわ」

「そうねえ。だいたいいつも五日人魚で中休みがあって、また人魚になって……なんてことを繰り返しているのに。今回はちょっと一回の人魚返りが長いわよね」

 アーリアはぷうっとむくれた。


 自分の体だけに自由にできないのが悔しい。それこそ、本物の人魚なら自分の意志で尾ひれを人間の足へ変えることなんて朝飯前だというのに。

 アーリアたち人魚返りの人々は、海の王の魔法の影響だから自分たちの意思で自由にはできない。


「しばらくは姫様は旅の疲れで臥せっていると言いますけれど。それでも限界がありますから」

 フェドナが思案気に右手を頬に添える。

「そうよねえ。いくら旅の疲れがでているから、って言い訳をしても、挨拶くらいはしないといけないものね」


 侍女五人はアーリアの人魚体質を知っている。逆に言えばこの五人以外には知られてはいけない。

 アーリアは浴槽の中で尾ひれを動かした。

 水が少し跳ねて床に零れ落ちる。

 本当は泳ぎ回りたいのだが、浴槽に浸かることができるだけ、まだましだと言い聞かせる。

 けれど、人魚化しているときに泳ぐということは人間で言うところの歩くということでもあって、ずっと座っていると運動不足になってしまう。


(ほんと、前途多難な遊学生活だわ……)

 アーリアは天井画を見上げた。


◇◇◇ 


 兄であるリベルトがコゼントの王女殿下を連れ帰った日の夜。

 テオドールは兄の居室を訪れた。

 宮殿へ帰ったリベルトは留守の間の書類やら武官からの報告やらが立て込み、夕食も一緒に取れないほど忙しかったからだ。

 夜半を回るころ、テオドールは兄弟の気安さも手伝って世間話をしにやってきた。

 応じたリベルトも軍装を解き、寛いだいでたちで弟を出迎えた。


「久しぶりだなテオ」

 口の端を持ち上げたリベルトにテオドールも笑顔で応じた。

「長旅お疲れ様、兄上。久しぶりの遠出はいかがでしたか?」


 ろうそくの光の下でテオドールの茶色の髪の毛が赤く揺れる。元より赤味の強い色をしている。それが火の光に揺られて赤く照らされる。少し下がり気味な眉もあり柔和な印象を周囲に与えている。対するリベルトは切れ長の瞳のおかげで初対面の人間には冷たい印象を与える。


「まあいい息抜きにはなったな」

「そうですか……」

「そんなことよりも、聞きたいことは別のことだろう。さっさと聞いたらいい。アウレリア王女はどんな人間か、と」

 単刀直入な兄の物言いにテオドールの顔は真っ赤に染まった。あいにくと酒は飲んでいない。

 それなのに顔に熱が集まるのをテオドールは自覚した。

「べ、べつにそんな率直なことは……」

「なんだ。興味ないのか」


 リベルトは少し突き放した口調になる。

 突き放した口調だが、声に面白がっている色が垣間見える。

 六歳離れた兄弟だが二人きりになると、兄は弟に気さくな態度を取る。


「いえ! いや、……その。どんな、子ですか? あ、これはその。ビルヒニアとセレスティーノが興味を持っていまして」

「ああ、あいつらにとっても同じ遊学仲間か」


 トレビドーナには現在ニンフィア公国とフェラーラ公国から遣わされた公子と公女が滞在をしている。どちらの国もコゼントと同じくトレビドーナの従属国だ。

 二人をダシにした自覚は十分にある。

 そんな弟の姿に短く息を吐いてリベルトは口を開いた。


「姿絵の通り見事な青銀髪をした王女だったよ。兄のイルファーカス王子も青銀髪だが、あれはどちらかというと銀髪寄りだな。俺も十年前に会ったことがある。王女のは、なんていうか本当に青色だ」

「絵姿は誇張ではなかったのですか?」

「ああ」


 事前にコゼントから送られたアーリアの絵姿を見たテオドールは、髪の毛に使われた青い顔料をみてびっくりした。

 トレビドーナの常識では考えられない色だからだ。しかし、沿岸国ではたまにみられる色だという。

 人魚の血を引く人間は彼らの特徴である青銀髪の色を受け継いで生まれてくる者もいるという。人魚伝説は沿岸諸国にいくつもあって、その中でも有名なのがコゼントに伝わる人魚姫の話だ。


「ずいぶんと病弱な姫君だとか。噂をききました」

「ああたしかにな。ずっと車いすを使っていた。しかし、解せないのは彼女が実践をしている健康法だ」

 リベルトは眉根を寄せる。


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